6月 252006
 

聖徳太子とは誰のことか」には読みにくい漢字があるので、振り仮名付き版を分割して作成しました。このページは、「聖徳太子とは誰のことか(仮名付き2)」の続きです。

image

2. 聖徳太子の業績は誰の業績か(続き)

2.3. 遣隋使の派遣

(つづ)いて、遣隋使(けんずいし)派遣(はけん)考察(こうさつ)しよう。607(ねん)に、日本(にほん)小野妹子(おののいもこ)(ずい)派遣(はけん)し、翌年(よくねん)(ずい)裴世清(はいせいせい)日本(にほん)派遣(はけん)したことは、『(ずい)(しょ)』『日本書紀(にほんしょき)双方(そうほう)記載(きさい)されているので、史実(しじつ)である。問題(もんだい)は、この(ずい)との外交(がいこう)主導(しゅどう)(しゃ)が、聖徳太子(しょうとくたいし)(すなわ)厩戸皇子(うまやどのみこ)であったかどうかである。(じつ)は、『(ずい)(しょ)』も『日本書紀(にほんしょき)』も、聖徳太子(しょうとくたいし)ないし厩戸皇子(うまやどのみこ)には、まったく(なに)言及(げんきゅう)していない。『日本書紀(にほんしょき)』は、冠位十二階(かんいじゅうにかい)(とき)同様(どうよう)に、「大礼(たいらい)小野臣妹子(おののおみいもこ)大唐(もろこし)(つかわ)す」といった主語(しゅご)なしの(ぶん)で、記述(きじゅつ)している。

遣隋使(けんずいし)派遣(はけん)における厩戸皇子(うまやどのみこ)役割(やくわり)(ろん)じる(まえ)に、もう(ひと)つの(なぞ)(すなわ)ち、当時(とうじ)日本(にほん)天皇(てんのう)は、推古天皇(すいこてんのう)という女帝(にょてい)であったにもかかわらず、(ずい)(がわ)は、(だん)(おう)記録(きろく)している問題(もんだい)()()げよう。『(ずい)(しょ)東夷(とうい)(でん)』には、(だい)(いっ)(かい)遣隋使(けんずいし)派遣(はけん)(かん)して、(つぎ)のような記述(きじゅつ)がある。

(かい)(こう)()(じゅう)(600)(ねん)()(おう)(せい)阿毎(あめ)(あざな)多利思比孤(たりしひこ)阿輩鶏彌(おおきみ)(ごう)す、使(つかい)(つかわ)して(みや)(いた)る。(しょう)所司(しょし)()風俗(ふうぞく)()わしむ。使者(ししゃ)()う『倭王(わおう)(てん)()って(あに)()し、()()って(おとうと)()す。(てん)(いま)()けざる(とき)()でて(まつりごと)()き、跏趺(あぐら)して()し、日出(ひい)ずれば便(すなわ)理務(つとめ)()め、()う、(われ)(おとうと)(ゆだ)ねん』と。高祖(こうそ)(いわ)く『これ(おお)いに義理(ぎり)()し』と。(ここ)(おい)(くん)して(これ)(あらた)めしむ。(おう)(つま)(きみ)(ごう)す。後宮(こうきゅう)(おんな)(ろく)(なな)(ひゃく)(にん)()り。太子(たいし)()和歌彌多弗利(わかみたほり)()す。」

日本(にほん)天皇(てんのう)には(せい)がない。また、当時(とうじ)はまだ立太子(りったいし)制度(せいど)がなかった。しかし、(ずい)は、中国(ちゅうごく)(しき)のスタンダードに()てはめようとしている。『(ずい)(しょ)東夷(とうい)(でん)』は、日本(にほん)天皇(てんのう)固有(こゆう)(めい)を「アメ・タリシヒコ」と認知(にんち)したわけだが、当時(とうじ)日本人(にっぽんじん)にとって、天皇(てんのう)実名(じつめい)(くち)にすることはタブーだったから、日本(にほん)使者(ししゃ)(くち)にしたであろう「アメノタラシヒコ」は、絶対(ぜったい)天皇(てんのう)実名(じつめい)ではない。それは天皇(てんのう)意味(いみ)する普通(ふつう)名詞(めいし)、あるいはせいぜい、見本(みほん)などによく()かれる「山田(やまだ)太郎(たろう)」のような、天皇(てんのう)のデフォルトの名前(なまえ)である。だから、この天皇(てんのう)(だれ)であるかはわからないが、「山田(やまだ)太郎(たろう)」と同様(どうよう)に、(すく)なくとも(おとこ)であることはわかる。(つま)がいるのだから、(あき)らかに(おとこ)だ。

和歌彌多弗利(わかみたほり)」の(ほう)は、(ずい)普通(ふつう)名詞(めいし)であることを認識(にんしき)している。「わかみたほり」は、(のち)音韻(おんいん)変化(へんか)により、「わかんどほり」となる。この言葉(ことば)意味(いみ)は、古語(こご)辞典(じてん)()けばわかるように、「皇族(こうぞく)」である。(ずい)は、たんなる皇子(おうじ)皇太子(こうたいし)誤解(ごかい)したわけだ。なお、どうこじつけても、「和歌彌多弗利(わかみたほり)」は、厩戸皇子(うまやどのみこ)山背大兄(やましろのおおえの)(おう)(むす)びつかない。

この、(なぞ)(おとこ)天皇(てんのう)(だれ)であるかは、(あと)(かんが)えることにして、日本(にほん)使者(ししゃ)(ずい)皇帝(こうてい)(ぶん)(てい)との対話(たいわ)解釈(かいしゃく)(はい)ろう。日本(にほん)風俗(ふうぞく)()われた日本(にほん)使者(ししゃ)が「わが(くに)(おう)は、(てん)(あに)とし、()(おとうと)としている。(てん)は、まだ()けない(とき)()かけて政務(せいむ)(おこな)い、あぐらをかいて(すわ)り、()()ればやめて、(おとうと)政務(せいむ)をゆだねる」と(こた)えたので、皇帝(こうてい)は、「これはまったく理屈(りくつ)()わない」と()って、(おし)えてこれを(あらた)めさせたと()かれている。

日本(にほん)(がわ)がばかげた風俗(ふうぞく)紹介(しょうかい)したので、皇帝(こうてい)が「ばかなことを()うな」と(おこ)って、(おろ)かな風俗(ふうぞく)是正(ぜせい)するように教育(きょういく)したのだろうか。そうではない。(ずい)皇帝(こうてい)は、中華(ちゅうか)思想(しそう)()(ぬし)だから、辺境(へんきょう)野蛮(やばん)(じん)がばかげた習慣(しゅうかん)()っていると()けば、文化(ぶんか)(てき)優越(ゆうえつ)(かん)じて満足(まんぞく)することはあっても、(おこ)ることはないし、ましてやその是正(ぜせい)指導(しどう)するなどということはない。そもそも、もし、日本(にほん)使者(ししゃ)意味(いみ)不明(ふめい)のことを()ったとしたなら、(ずい)はそれを記録(きろく)にとどめないはずだ。614(ねん)遣隋使(けんずいし)のように、注目(ちゅうもく)(あたい)しないと判断(はんだん)されれば、『(ずい)(しょ)』には()かれない。

現代(げんだい)(じん)は、隠喩(いんゆ)鈍感(どんかん)になっているが、ここで、古代(こだい)のディスクールにおいては、メタファーが重要(じゅうよう)役割(やくわり)()たしていることを(おも)()さなければならない。中国(ちゅうごく)皇帝(こうてい)は、自分(じぶん)天子(てんし)(すなわ)ち「(てん)()」と認識(にんしき)し、日本(にほん)天皇(てんのう)は、自分(じぶん)太陽(たいよう)(しん)であるアマテラスの子孫(しそん)認識(にんしき)している。だから、日本(にほん)使者(ししゃ)()う「(てん)」とは中国(ちゅうごく)のことで、「()」とは日本(にほん)のことと解釈(かいしゃく)できる。

すると、日本(にほん)使者(ししゃ)のメッセージは、「わが(くに)(おう)は、中国(ちゅうごく)日本(にほん)関係(かんけい)(あに)(おとうと)関係(かんけい)(かんが)えている。()()(いきお)いの(あたら)しい文明(ぶんめい)(こく)日本(にほん)登場(とうじょう)するまでは、中国(ちゅうごく)(ひがし)アジアの盟主(めいしゅ)として、あぐらをかいで安閑(あんかん)としていられた。しかし、(いま)や、中国(ちゅうごく)は、国際(こくさい)政治(せいじ)主導(しゅどう)(けん)日本(にほん)にゆだねる(とき)()た」ということになる。これを()いた、(ずい)皇帝(こうてい)は、「ばかなことを()うな」と(おこ)り、かつ軽蔑(けいべつ)し、「(ずい)(やまと)関係(かんけい)は、兄弟(きょうだい)ではなくて君臣(くんしん)関係(かんけい)だ」と訂正(ていせい)(せま)ったのではないだろうか。

日本書紀(にほんしょき)』は、この1(かい)()遣隋使(けんずいし)()れていない。それはなぜだろうか。『日本書紀(にほんしょき)』は、『(きゅう)(とう)(しょ)東夷(とうい)(でん)』に()かれている631(ねん)遣唐使(けんとうし)にも()れていない。『(きゅう)(とう)(しょ)東夷(とうい)(でん)』によれば、この(とき)(とう)使者(ししゃ)王子(おうじ)(れい)(あらそ)ったとある。このような外交(がいこう)(てき)失敗(しっぱい)は、記載(きさい)しないというのが『日本書紀(にほんしょき)』の編集(へんしゅう)方針(ほうしん)のようだ。

1(かい)()は、失敗(しっぱい)()わったが、「タラシヒコ」と(しょう)する(なぞ)(おとこ)は、(ずい)との対等(たいとう)外交(がいこう)をあきらめなかった。こうして、607(ねん)に、2(かい)()遣隋使(けんずいし)派遣(はけん)される。(ずい)()代目(だいめ)皇帝(こうてい)煬帝(ようだい)は、「日出(ひい)づる(ところ)天子(てんし)(しょ)日没(ひぼっ)する(ところ)天子(てんし)(いた)す」という、前回(ぜんかい)にもまして対等(たいとう)関係(かんけい)要求(ようきゅう)する国書(こくしょ)()て、不快(ふかい)(かん)(しめ)すが、日本(にほん)使者(ししゃ)派遣(はけん)することにした。2(かい)()成功(せいこう)した。『日本書紀(にほんしょき)』も、(ずい)使者(ししゃ)裴世清(はいせいせい)日本(にほん)訪問(ほうもん)について(くわ)しく()べている。

日本書紀(にほんしょき)』によれば、(ずい)国書(こくしょ)は、「大門(だいもん)(まえ)(つくえ)(うえ)に」()かれただけである。だから、裴世清(はいせいせい)は、(おく)内裏(だいり)にいる天皇(てんのう)直接(ちょくせつ)()っていないと主張(しゅちょう)する(じん)もいるが、『(ずい)(しょ)東夷(とうい)(でん)』には、裴世清(はいせいせい)倭王(わおう)天皇(てんのう))と会話(かいわ)()わしたことがはっきり()かれているので、「大門(だいもん)」は「(おお)きな(もん)」ではなくて、「天皇(みかど)」と理解(りかい)しなければならない。さらに、この(とき)裴世清(はいせいせい)倭王(わおう)(おも)って言葉(ことば)()わした相手(あいて)は、『(ずい)(しょ)東夷(とうい)(でん)』によれば「タラシヒコ」であるから、女性(じょせい)である推古天皇(すいこてんのう)ではない。では、この倭王(わおう)(しょう)する(なぞ)(おとこ)(だれ)なのか。

候補(こうほ)二人(ふたり)しかいない。蘇我(そがの)馬子(うまこ)聖徳(せいとく)太子(たいし)かのどちらかである。『日本書紀(にほんしょき)』は、参列(さんれつ)(しゃ)(かん)しても(くわ)しく()べているが、「皇子(おうじ)諸王(しょおう)(しょ)(しん)」が参列(さんれつ)しているのに、「(しん)」より(うえ)の「大臣(だいじん)」(蘇我馬子(そがのうまこ))も「皇子(おうじ)」より(うえ)の「皇太子(こうたいし)」(聖徳太子(しょうとくたいし))もいないということになっている。しかし、(ずい)使()謁見(えっけん)()のような重要(じゅうよう)なセレモニーに、この二人(ふたり)がともに姿(すがた)()せないということは(かんが)えられない。

いったい、遣隋使(けんずいし)責任(せきにん)(しゃ)は、どちらなのか。(わたし)は、馬子(うまこ)だと(おも)う。2(ねん)()新羅(しらぎの)使(つかい)来日(らいにち)した(とき)も、『日本書紀(にほんしょき)』の記事(きじ)には、推古天皇(すいこてんのう)蘇我馬子(そがのうまこ)大臣(だいじん)登場(とうじょう)するが、聖徳太子(しょうとくたいし)登場(とうじょう)しない。やはり、外交(がいこう)主導(しゅどう)(けん)(にぎ)っていたのは、厩戸皇子(うまやどのみこ)ではなくて、馬子(うまこ)だったのだ。『日本書紀(にほんしょき)』に登場(とうじょう)する「大門(みかど)」が馬子(うまこ)であることは、馬子(うまこ)屋敷(やしき)が「御門(みかど)」とよばれていたことからも裏付(うらづ)けられる。

ところで、なぜ馬子(うまこ)は、(ずい)(たい)しては自分(じぶん)大王(おおきみ)だと詐称(さしょう)し、新羅(しらぎ)(たい)しては推古天皇(すいこてんのう)大王(おおきみ)であることを(かく)さなかったのか。それは、中国(ちゅうごく)では、女性(じょせい)天子(てんし)となることが論外(ろんがい)だったのに(たい)して、新羅(しらぎ)では、善徳(ぜんとく)(しん)(とく)といった女王(じょうおう)擁立(ようりつ)されたことからもわかるように、女王(じょうおう)(たい)する抵抗(ていこう)(かん)(すく)なかったからだ。(のち)に、(とう)(たい)(そう)は、新羅(しらぎ)善徳(ぜんとく)女王(じょうおう)にたいして、女性(じょせい)(おう)にすると、周辺(しゅうへん)諸国(しょこく)から軽蔑(けいべつ)されると警告(けいこく)している。日本(にほん)(ずい)対等(たいとう)文明(ぶんめい)(こく)として(みと)めてもらおうとした馬子(うまこ)は、(ずい)(たい)しては、女性(じょせい)天皇(てんのう)であることを(かく)そうとしたのだ。

(ちょう)大国(たいこく)(ずい)対等(たいとう)立場(たちば)国交(こっこう)(むす)ぼうとすることは、一見(いっけん)無謀(むぼう)(こころ)みのように()える。しかし、馬子(うまこ)は、598(ねん)(ずい)高句麗(こうくり)遠征(えんせい)失敗(しっぱい)し、そのため、北東(ほくとう)アジアにおける軍事(ぐんじ)(てき)パートナーを()つけなければならなくなったというタイミングを見計(みはか)らって、強気(つよき)外交(がいこう)()た。そして、それは成功(せいこう)した。

2.4. 文化的事業

聖徳太子(しょうとくたいし)(すぐ)れた政治(せいじ)()であるだけでなく、(すぐ)れた文化(ぶんか)(じん)でもあるということになっている。(とく)に、『勝鬘経(しようまんきょう)』、『法華経(ほっけきょう)』、『維摩経(ゆいまきょう)』の注釈(ちゅうしゃく)(しょ)である『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』は、聖徳太子(しょうとくたいし)高度(こうど)仏教(ぶっきょう)理解(りかい)(しめ)すものだと()われてきた。だが、『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』は、聖徳太子(しょうとくたいし)(あらわ)したとは()いがたい。『勝鬘経(しようまんきょう)()(しょ)』は、敦煌(とんこう)出土(しゅつど)の『勝鬘義疏本義(しょうまんぎしょほんぎ)』と7(わり)同文(どうぶん)で、日本(にほん)(せい)ではなくて中国(ちゅうごく)(せい)(かんが)えられている。『法華(ほっけ)()(しょ)』は、『東院(とういん)資財(しざい)(ちょう)』が示唆(しさ)しているように、8世紀(せいき)行信(ゆきのぶ)捏造(ねつぞう)したものである。『維摩経(ゆいまきょう)()(しょ)』に(かん)しては、『日本書紀(にほんしょき)』に言及(げんきゅう)がない(うえ)内容(ないよう)(てき)にも、聖徳太子(しょうとくたいし)よりも後代(こうだい)杜正倫(とせいりん)百行(ひゃっこう)(しょう)』からの引用(いんよう)があるなど、問題(もんだい)(おお)い。

聖徳太子(しょうとくたいし)は、馬子(うまこ)とともに、国史(こくし)編纂(へんさん)(おこな)ったと()われるが、その成果(せいか)である『天皇(てんのう)()』も『(こっ)()』も残存(ざんそん)していないので、その真偽(しんぎ)(たし)かめる(すべ)はない。ただ、『日本書紀(にほんしょき)』によると、乙巳の変(いっつしのへん)(とき)、『天皇(てんのう)()』も『(こっ)()』も蘇我蝦夷(そがのえみし)邸宅(ていたく)(ない)にあったとされているので、(かり)に、馬子(うまこ)厩戸皇子(うまやどのみこ)共同(きょうどう)編纂(へんさん)だとしても、(しゅ)として馬子(うまこ)編集(へんしゅう)していたのであろうと推測(すいそく)される。

2.5. 結論

以上(いじょう)考察(こうさつ)から(みちび)くことができる結論(けつろん)は、聖徳太子(しょうとくたいし)偉大(いだい)功績(こうせき)一部(いちぶ)はフィクションであり、一部(いちぶ)蘇我馬子(そがのうまこ)功績(こうせき)であるということである。では、『日本書紀(にほんしょき)』の編者(へんしゃ)は、なぜ、馬子(うまこ)業績(ぎょうせき)馬子(うまこ)業績(ぎょうせき)明記(めいき)しなかったのか。なぜ、厩戸皇子(うまやどのみこ)聖徳太子(しょうとくたいし)として聖人(せいじん)()しなければならなかったのか。この()いに(こた)えるためには、(だれ)(なに)のために『日本書紀(にほんしょき)』を()いたのかを(かんが)えなければならない。

このページをフォローする
私が書いた本

 返信する

以下のHTML タグと属性が利用できます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>

/* ]]> */