1月 282006
 

仏教は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の系譜には属さないし、神の存在を想定していないから、宗教といえるかどうかも怪しい。それにもかかわらず、仏教は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教と同様に、去勢宗教としての性格を持っている。

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1 : なぜ仏教は女性を差別するのか

仏教は女性蔑視の宗教であると言われている。例えば、『増一阿含経』には、以下のような、女性を蔑視する記述が見られる。

お釈迦様は、長老に「女には、九つの悪い属性がある」とおっしゃった。その九つの悪い属性とは何か。女は、1、汚らわしくて臭く、2.悪口をたたき、3.浮気で、4.嫉妬深く、5.欲深く、6.遊び好きで、7.怒りっぽく、8.おしゃべりで、9.軽口であるということである。[1]

仏教の開祖、ガウタマ・シッダールタは、女性(彼の養母であるマハーパジャーパティー)が教団に加わることを歓迎せず、八敬法を遵守するという差別的な条件付きでようやく許可したと『パーリ律』は伝えている。

さらに、仏教には、女性は、どんなに仏道修行に努め励んでも、女身のままでは仏となることは不可能で、成仏するには男の姿に転じなければならないという五障説・変成男子説がある。五障説とは、女性は、梵天王・帝釈天・魔王・転輪聖王・仏陀の五つにはなれないという説である。妙法蓮華経提婆達多品第十二には、女は成仏することができないというシャーリ・プトラ長老に対して、竜女が、女の身を転じて、男の姿となって成仏するという竜女成仏譚があるが、これは変成男子説に基づく。

仏教が、カースト制度による伝統的な差別を否定し、万人の平等を説く宗教であることを考えるならば、仏教の女性差別を軽視することはできない。もとより、こうした女性差別の言説が見られる経典は、比較的後の時代に成立したものであるが、初期の文献でも、「女人は《清らかな行い》の汚れであり、人々はこれに耽溺する[2]」というような、女性蔑視と受け取れる発言がある。

このことは、仏教が、枢軸時代に生まれた宗教の一つとして、母なるものとの決別を促す宗教であったことを物語っている。ガウタマにとってなぜ女性の忌避が必要だったのか、彼の人生と教えの中から、その答えを探っていこう。

2 : 自発的去勢としての自傷行為

ガウタマの本来の教え(根本仏教)とは、結論を非常に簡単に言ってしまうならば、苦から逃れるためには、苦の原因である執着を捨てろというものである。欲望を満たそうとするから、不満になるのであって、欲望を自ら根源的に捨てれば、つまり、自発的に去勢すれば、不満(苦)から根源的に解放される。ガウタマは、苦行という自傷行為を通して、この自発的去勢の真理に到達した。

苦行といっても、ジャイナ教的な、肉体を極限状態に追い込む、一見ラディカルなようで、実は中途半端な方法によっては、ガウタマは最終解脱の境地に達することはできなかった。涅槃の境地に達するために必要なことは、肉体への自傷行為(例えば、ペニスを切り捨てるなど)ではなくて、欲望への自傷行為(性欲そのものを切り捨てるなど)である。

神聖な修行を自傷行為と形容して病気扱いするのはけしからんと仏教徒から叱られそうだが、出家と自傷行為には、その動機において、共通点がある。例えば、失恋した女性が髪の毛を切るという軽微な自傷行為を例にとって考えてみよう。女性は、元彼という「後ろ髪を引かれる思い」を切り捨てるために、髪の毛を切り捨てる。ふられるということは、プライドが傷つくショッキングな体験である。だから、「私は彼から切り捨てられたのではない。私が彼を切り捨てるのだ」と自分に言い聞かせるように、女性にとってペニスの代用物である髪を切り捨て、自分のプライドを守って、失恋という苦から逃れようとする。

手首や腕や足といった別のペニス代用部位を傷つける場合も同様である。鹿児島大学の心身医療科チームが調査したところ、家族からの放任や罵倒などを経験した人がリストカットなどの自傷行為するリスクは、そうでない人の8.7倍だった [3] 。自傷患者は、家族から捨てられるのではなくて、自分から家族を捨ててやるというメッセージをこめて、リストカットをするのである。

自傷症は、しばしばそう誤解されているような、自殺願望の病気ではない。自傷症は、通常「自殺するためではなくて、筆舌に尽くしがたいほど苦痛に満ちた感情を処理する一つの方法として、身体もしくは身体の一部を意図的に傷つけること[4]」と定義されている。

実際、自傷行為が自殺につながることはまれである。それは失われた主体性を取り返し、傷ついたプライドを癒す行為であって、結果として自殺の防止に役立っている。逆説的な表現を用いるならば、自傷症患者は、自らを傷つけないために自らを傷つけるのだ。この逆説は、欲望を満たすために欲望を満たさないという仏教の逆説に対応している。

失恋した女性は、普通、髪の毛をすべて切り落とすことはしない。それは男に対する未練をすべて捨ててはいないことの証拠である。これに対して、すべての執着を捨てて、出家する人は、髪の毛をすべて切る。ガウタマも、出家の後、剃髪した。そして、断食もおこなった。断食を行うことは、拒食症の症状と似ている。そして、拒食症も自傷症の一種である。

『縦横無尽の知的冒険』で、私は次のように書いた。

自尊心のある女性なら、ふられても、涙を流して卑屈になったりしない。自分を拒否して自分の価値を貶めた相手を拒否し返し、自尊心を保とうとする。「何だ、あんな男、たいしてハンサムでもないし」と相手の欠陥を見つけて、相手の価値を引き下げ、究極的には「私はもともと彼氏なんて欲しくないんだ」と無欲を装って開き直り、傷ついた自己を防衛しようとする。拒食症とは、拒否を拒否し返す象徴的報復であり、ルサンチマンである。[5]

拒食症患者は、しばしば誘惑に負けて過食症になるが、ガウタマは、拒食でも過食でもない、禁欲主義でも快楽主義でもない中道を歩んだという点で、迷える並みの拒食症患者とは異なる。

3 : ガウタマの出家動機

では、ガウタマは、何かプライドを傷つけられる挫折体験があって、出家したのだろうか。ガウタマの出家に関しては、四門出遊という伝説がある。ガウタマが東の門から出ると、老人に出会った。南の門から出ると、病人に出会った。西の門から出ると、死者の葬列に出会った。こうして彼は、老・病・死という苦に満ちた人生の現実を目の当たりにした。ところが、北の門から出ると、輝かしい出家修行者に出会い、自らも出家しようと決意したというのである。ガウタマの出家の真相を知ろうと思うならば、こうした類の、後の時代に作られた仏伝は無視して、最も古い経典、『スッタニパータ』に収められている「出家経」を手掛かりに、当時の時代状況を考慮に入れて推論しなければならない。

「出家経」には、「出家して身による悪行を離れ、言葉による悪行を捨て、生活をすっかり浄めた[6]」とあるだけで、出家した経緯が詳しく書かれていない。その代わり、出家した後、ガウタマが、故郷から遠く離れたマガダ国の首都、王舎城(ラージャグリハ)まで托鉢のために来たところ、マガダ国王が、彼に注目し、彼が隠遁する山窟にまで赴いて、軍事力の提供を申し出たが、断られたという奇妙な話が長々と書かれている。これは、今で言うと、出家を決意した中国のある田舎者が、日本の永田町まで托鉢のために来たところ、日本の総理大臣が、「立派なお坊さんだ」と感心して、彼が隠遁する富士山の山窟にまで赴いて、自衛隊の指揮権を委ねようと申し出たが、断られたというのと同様の荒唐無稽なストーリーである。

しかし、ここに、ガウタマの隠された願望を読み取ることができる。フロイトは、『夢判断』で、夢を願望充足の表現とみなし、次のように述べている。

ある夢の意味がどうしてもわからないような場合には、その夢の顕在内容の特定諸部分を、試しに逆にしてみるとよい。そうすると一挙に解決のつくことがある。[7]

「反対物への転化」を元に戻すならば、この話の原型は、ガウタマがマガダ国王に軍事力の提供を申し出たところ、断られ、出家したというようのものだったはずだ。そして、このストーリーなら、歴史的なリアリティがある。

磯部隆は、実際の史実を次のように、推測している[8]。ガウタマ・シッダールタの父は、釈迦族の政治的指導者であった。釈迦族はコーサラ国王の支配下にあったが、釈迦族は独立心が強く、南のマガダ国と同盟を結び、南と北からコーサラ国を挟撃しようと企んだ。ガウタマは、この外交工作のため、王舎城に赴いた。ところが、当時のマガダ国は、ベンガル湾に進出しようと、ガンジス川下流のアンガ国と戦争している最中で、背後の安全を確保するために、コーサラ国と政略結婚をするなどして、平和な関係を築くことに努めていた。だから、マガダ国王は、ガウタマの軍事援助の要請をにべもなく断った。

後に、コーサラ国は、釈迦族を滅ぼすことになるのだが、先見の明があるガウタマは、この時既に釈迦族の運命を悟り、意のままにならない政治的現実を前に、出家したと考えることができる。ガウタマは、「クシャトリヤの家に生まれた人が、財力が少ないのに欲望が大きくて、この世で王位を獲ようと欲するならば、これは破滅への門である[9]」と述べているが、これは彼自身のことを言っているのに違いない。

釈迦族は、カピラヴァストゥ(現在のインドとネパールの国境付近にある城郭都市)に住んでいた部族である。彼らが自分たちの土地を望んだということは、母なる大地を我が物としたいという欲望を持っていたということである。そして、コーサラ国王が、軍事力で脅して、釈迦族の独立を認めなかったことは、権力者(父)が、母子相姦を禁止し、去勢の威嚇をしたということである。ガウタマの出家はこれに対する防御反応であった。ちょうど、失恋した女性が、「自分は捨てられたのではなくて、自分から捨てたのだ」と自分に言い聞かせて髪を切り捨てるように、彼は、「自分は去勢されたのではなくて、自ら去勢したのだ」、「自分は、マガダ国王に軍事援助の要請を申し出て断られたのではなくて、マガダ国王が申し出た軍事援助を断ったのだ」と自分に言い聞かせて出家した。こうした願望を充足するために、史実に二つの逆転を施し、件の『スッタニパータ』の「出家経」が生まれた。私はそう解釈したい。

4 : 死の欲動と涅槃の境地

ガウタマが行った自発的去勢は、フロイトの分類を使うならば、死の欲動の産物である。フロイトは、『快感原則の彼岸』で、涅槃原則というバーバラ・ロウの仏教的表現を借用し、涅槃原則と快感原則を死の欲動と生(性)の欲動に対応させている。

私たちは、刺激に対する緊張状態を減らし、一定に維持し、終結させようとする努力を、心的生、神経的生一般の支配的傾向として認識した。これは快感原則が現れる時と似ているが、こちらは、バーバラ・ロウの表現にしたがって、涅槃原則と名付けよう。この認識こそは、私たちが死の欲動の存在を信じる最も強固な動機の一つである。[10]

しかし、性的快感は死の欲動に属するのではないだろうか。この点をはっきりさせるために、快感と享楽というラカンの区別にしたがって、快感原則を享楽原則と名付け、生の欲動は、現実原則に従う欲動とすることにしよう。

フランス語の享楽“jouissance”には、「性的快楽、オルガスムス」という意味もあって、無制限な快感を表す言葉として使える。それは、バタイユが謂う所のエロティシズムの快楽であり、エロティシズムにおいて、人はエクスタシーという擬似的な死を体験する。これに対して、涅槃原則に基づく自発的去勢は、エロティシズムの快楽を断念することなのだから、両者は全く異なる。エロティシズムが主体性を放棄して母なる大地に戻ろうとする胎内回帰の欲動であるのに対して、自発的去勢は、母子相姦を自主的に断念することで、主体性を回復しようとする欲動なのである。ガウタマは、「諸々の汚れと執着のよりどころとを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない[11]」と言っている。これは輪廻としての胎内回帰から解脱したことを宣言したものと解釈できる。

生物学的には、現実原則と涅槃原則と享楽原則は、次のように区別される。現実原則は、個体保存のための個体保存の行為を、涅槃原則は、個体保存のための個体破壊の行為を、享楽原則は、種保存のための個体破壊の行為をもたらす。現実原則が、純粋な生の欲動で、享楽原則が、純粋な死の欲動であるのに対して、涅槃原則は死の欲動のような外観を持った生の欲動である。すなわち、自傷行為は、自殺行為のように見えて、実は自殺を防止するための行為である。これに対して、享楽では、人は、はめをはずしすぎて死に至ることがしばしばある。

表1 『快感原則の彼岸』でのフロイトの二分法
死の欲動涅槃原則
生(性)の欲動現実原則(快感原則)
表2 私が提案する区別
種保存(死の欲動)快感原則(享楽原則)
個体保存(生の欲動)涅槃原則
現実原則

フロイト以来、二つの死の欲動が混同されてきた。仏教の密教的解釈も、二つの死の欲動の混同から起きる。中沢新一によると [12]、チベットには、ガウタマが母と近親相姦をしたとか、降魔成道の際、セックスをしまくって悟りを開いたといった、とんでもない仏伝があるそうだが、セックスのエクスタシーで体験される幽体離脱を解脱と曲解し、その絶頂に涅槃の境地があるとする、チベット密教的・タントラ的・ヨーガ的・立川流真言的・中沢新一的な仏教理解では、仏教のどこが歴史的に画期的なのかがわからなくなる。中沢新一が、チベットで修行して見出したものは、原始仏教でもなければ、ましてやポストモダンでもなく、仏教以前の原始的な母権宗教に過ぎない。

タントラやヨーガの起源はインダス文明にまで遡ることができるが、ガウタマの時代に、インドで支配的だった宗教は、バラモン教である。バラモン教もまた、涅槃原則よりも享楽原則に基づく自然宗教としての色彩が強かった。バラモンが司るヴェーダ祭式にその特徴を見ることができる。祭官(バラモン)は、犠牲獣を屠り、ソーマを供物として祭火に注いだ後、残りを飲む。ソーマの原料には、幻覚作用のあるキノコが使われていたと考えられている。一種のドラッグである。それを服用することで、トランス状態となり、そのエクスタシー体験で得られたインスピレーションから、多くのヴェーダの詩句が生み出された。祭火が据えられたアグニ祭壇は、大鷲の形をしていたが、それは、天地の間を自由に飛び、祭主を天界まで送る鷲をイメージしたものだった。

祭祀での神秘的霊感を哲学的に説明した『ウパニシャッド』では、梵我一如、すなわち、大宇宙(自然界、ブラフマン)と小宇宙(個人、アートマン)との合一の真理を悟って輪廻から解脱することが説かれている。ブラフマンは、元来は「神聖な知識」という意味で、女神ヴァーチとして神格化された。ブラフマンは、現在のインドの神話では、ヴィシュヌ、シヴァとともに三大主神を形成するブラフマーに相当するのだが、男性神としてのブラフマーは、非常に抽象的な神で、存在感がない。それもそのはずで、ブラフマンは本来女で、ブラフマーの妻にして娘ということになっているサラスヴァティーが本当のブラフマンだからである。

ブラフマンが女だとするならば、梵我一如という神秘的合一(unio mystica)は母子相姦で、解脱とはエクスタシー(脱我)のことであると解釈できる。こうした、エロティシズムを神秘的な体験とする自然宗教は、去勢コンプレックス以前の時期には、世界のいたるところに存在していた。気候が寒冷化した去勢不安の時代に自発的去勢を行った仏教やジャイナ教は、バラモン教のような自然宗教に対するアンチテーゼとして、歴史を画期する意義を持つ。

5 : 仏教のディレンマ

ガウタマは、自発的去勢により、涅槃の境地に達した。しかし、ガウタマの悟りには一つ問題があった。煩悩を捨てるといっても、食欲を完全に捨てるわけにはいかない。

およそ苦しみが起こるのは、すべて食料を縁として起こる。諸々の食料が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。[13]

ガウタマはこう言っているが、何も食べなければ、餓死してしまう。そうかといって、食糧を生産するために、土地を耕すと、土地(地母神)に対する執着が生まれる。そこで、当時の慣習に従って、ガウタマは、在家信者から托鉢してもらうことで、生き長らえた。

在家信者に布施や托鉢をしてもらう対価として、ガウタマは何をしたのだろうか。自分が悟った真理を教えたのだろうか。これは原理的にはありえない。もしも在家信者が、ガウタマと同様のブッダ(覚者)になろうとするならば、出家して修行をしなければならず、布施や托鉢をするだけの生産能力を失ってしまう。ガウタマの教えをすべての信者が実践しようとすると、全員が餓死して、仏教もそれとともに消滅してしまう。その意味で、ガウタマが悟った真理には、普遍性がなかったと評さなければならない。

そこで、ガウタマは、功徳を積んだ在家信者に、来世での果報を約束しなければならないはめになった。ガウタマは、在家信者に次のように言っている。

彼[聖者]に対して眉をひそめて見下すことをやめ、合掌して彼を礼拝せよ。飲食物をささげて、彼を供養せよ。このような施しは、成就して果報をもたらす。[14]

反対に、聖者をそしったり、悪意を抱いたりするものは、地獄に落ち、気の遠くなるような年月の間、筆舌に尽くしがたい苦しみを味わうことになるとも警告している[15]

ガウタマ自身は、来世や魂の不滅や輪廻を信じていなかったようで、その意味で、新しい宗教の開祖になるつもりはなかったと考えることができる。しかし、世俗の人たちは、仏教の出家僧に、来世での幸福の保証人の役割を期待した。こうして大乗仏教が成立するわけだが、実は、在家信者を救済するという点で、上座部仏教も大乗仏教も違いがない。上座部仏教が信仰されている東南アジアには、福田思想と呼ばれるものがあって、在家信者が自分の子供を出家させたり、托鉢の僧に食事を寄進したりして、功徳を積めば、来世における幸福な再生が保証されると信じられている。タイのように、寺院に金品を寄進する在家信者に、「祝福の証し」という領収書を発行しているところもある。蒔いた種を間違いなく、福田、すなわちプンニャ(功徳)となって実る田にしたいというわけだ。

仏教発祥の地であるインドで、仏教がすたれたのは、ガウタマとその教えに忠実だった後継者たちが、大衆の低レベルな宗教的欲望を満たすことに熱心でなかったからだと考えることができる。インドの仏教僧たちは、王侯・貴族・地主・豪商など社会の特権階級からの布施や土地の寄進に依存しており、一般民衆からは遊離していた。ジャイナ教は、在俗信者にも十二の小誓戒を厳守させ、彼らの宗教的救済をしたために、インドでも今日まで生き残っているが、インド仏教は、在俗信者の救済に熱意がなく、彼らに戒律の遵守を強制することもなかった。

イスラム側の史料『チャチュナーマ』によると、8世紀の前半にイスラム帝国がインドに侵入した時、仏教僧たちは進んでイスラム教に改宗し、仏教寺院をモスクにしてイスラム式の祈りを取り入れた[16]とのことである。インドの仏教僧は、崇拝するべき神を持たなかったから、異教の神を容易に受け入れることができたのであろう。インド仏教は、1203年に最終的に消滅した。

6 : 仏教におけるファルス崇拝

インド以外の地では、ガウタマが、自発的去勢により、父神との同一化を拒否したにもかかわらず、後世、上座部仏教でも大乗仏教でも、大衆によって神の如きファルス的存在へと祭り上げられたのは皮肉なことのように思える。だが、この点で、仏教が、父権宗教の典型であるキリスト教と大きく異なるということはない。

ファルスは、社会システムにおいて、ダブル・コンティンジェントな複雑性を縮減するコミュニケーション・メディアとして機能する。この機能を果たすためには、ファルスは、私的特殊性を捨てて、普遍的存在者とならなければならない。貨幣商品が、使用価値を捨象することで、貨幣という純粋なコミュニケーション・メディアになることができるように、宗教家は、自らの私的所有物を捨象することで、神という宗教的なコミュニケーションのメディアとなることができるのだ。

イエス・キリストは、十字架で死に、肉体という私的で特殊な所有物を捨てることで普遍的な神となった。同様に、ガウタマは、命こそ捨てなかったが、私的で特殊な所有物に対する執着を捨てることで、死後、神に等しい普遍的な存在者となった。《預言者→罪人→神》というイエスがたどった三段階と《王族→苦行者→覚者》というガウタマがたどった三段階は、ともに《ケ→ケガレ→ハレ》というスケープゴートの弁証法として理解することができる。

7 : 仏教が女性を嫌う理由

最後に、「なぜ仏教は女性を差別するのか」という最初の問題提起に答えることにしよう。これには、二つの理由が考えられる。

まず、ガウタマが行った自発的去勢は、母子相姦の自発的断念であるから、性欲は最も忌諱しなければならない煩悩の一つである。『転女身経』には、次のような、極めつけの描写がある。

女のからだのなかには、百匹の虫がいる。つねに苦しみと悩みとのもとになる。[…]この女の身体は不浄の器である。悪臭が充満している。また女の身体は枯れた井戸、空き城、廃村のようなもので、愛着すべきものではない。だから女の身体は厭い棄て去るべきである。[17]

このように、仏教が女性を不浄視するのは、「もしも女が臭くて汚いなら、性欲が起きなくてよいのに」という願望をみたすためである。仏教の教義には、こうした、願望を現実に摩り替えるトリックがたくさんある。

もう一つの理由は、ガウタマ本人の意思に反して、ガウタマが「仏様」という、来世での幸福を保証するファルス的存在へと祭り上げられ、仏教が父権宗教になってしまったことである。この章で確認したように、世界宗教は、キリスト教もイスラム教も、すべて男尊女卑の父権宗教であり、仏教だけが女性差別をしているわけではない。

8 : 参照情報

  1. “世尊、長老に告げて曰く、女人に九つの悪法あり。云何が九つと為すや。一に女人は臭穢にして不浄なり。二に女人は悪口す。三に女人は反復なし。四に女人は嫉妬す。五に女人は慳嫉なり。六に女人は多く遊行を喜ぶ。七に女人は瞋恚多し。八に女人は妄語多し。九に女人は言うところ軽挙なり。”『増一阿含経』第41巻. 馬王品.
  2. ブッダ神々との対話―サンユッタ・ニカーヤ1』. 中村 元 (翻訳). 岩波書店 (1986/8/18). p.43
  3. 『朝日新聞』. 2006年01月22日.
  4. Karen Conterio, Wendy Lader, Jennifer Kingson Bloom. Bodily Harm: The Breakthrough Healing Program for Self-Injurers. Hyperion (1999/10/13). p.16.
  5. 永井 俊哉.『縦横無尽の知的冒険』. プレスプラン (2003/7/15). p.224-225.
  6. ブッダのことば―スッタニパータ』. 中村 元 (翻訳). 岩波書店 (1958/1/1). No.407.
  7. Sigmund Freud. “Die Traumdeutung / Über den Traum.” Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband Herausgegeben von Anna Freud, Marie Bonaparte, E. Bibring, W. Hoffer, E. Kris und O. Osakower. 2001/11. Bd.2/3, p.60.
  8. 磯部 隆.『釈尊の歴史的実像』. 大学教育出版 (1997/4/20). 第一章第三節.
  9. ブッダのことば―スッタニパータ』. 中村 元 (翻訳). 岩波書店 (1958/1/1). No.114
  10. Sigmund Freud. “Jenseits des Lustprinzips.” Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband. Herausgegeben von Anna Freud, Marie Bonaparte, E. Bibring, W. Hoffer, E. Kris und O. Osakower. 2001/11. Bd.8. p.60. 『フロイト著作集 第6巻』. p.187.
  11. ブッダのことば―スッタニパータ』. 中村 元 (翻訳). 岩波書店 (1958/1/1). No.535
  12. 中沢 新一.『ブッダの方舟』. 河出書房新社 (1994/05). p.39-40.
  13. ブッダのことば―スッタニパータ』. 中村 元 (翻訳). 岩波書店 (1958/1/1). No.747.
  14. ブッダのことば―スッタニパータ』. 中村 元 (翻訳). 岩波書店 (1958/1/1). No.80.
  15. ブッダのことば―スッタニパータ』. 中村 元 (翻訳). 岩波書店 (1958/1/1). No.657-678.
  16. 保坂 俊司.『インド仏教はなぜ亡んだのか―イスラム史料からの考察』. 北樹出版; 改訂版 (2004/05). p.142-143.
  17. 田上 太秀.『仏教と性差別―インド原典が語る』. 東京書籍 (1992/10).
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  12 コメント

  1. 西洋的主観から逃れられてませんね

  2. 近代になって、キリスト教文化圏が世界のリーダーとなり、仏教文化圏が没落した事実をどう考えますか。あるいは、あなたは、仏教が、近代の行き詰まりを打開してくれる考えているのでしょうか。もし、そう考えているなら、その根拠を示してください。

  3. 永井先生が「自発的去勢」という語で用いている意味を、防衛機制に当てはめると、反動形成だけですか?

  4. 自発的去勢には、胎内回帰願望の断念、精神的な乳離れというポジティブな面もあります。しかし、自立に失敗すると、拒食症をはじめとする自傷症はネガティブな結果をもたらすことになります。ガウタマは、伝説によれば、最初のうち自傷症に近かったが、そこからさらに抜け出すことに成功しました。

  5. 最近話題になったミニマリストは自発的去勢をしたがる人たちだと、この記事を読んで連想しました。最低限のもので満足することは裏を返せば物欲を削って最低限にするということだと思います。不景気で所得格差も広がって欲しいものが手に入らないのも要因だと思います。永井さんはどういう風に考えますか?
    そういえば、クーラーを捨てたら暑くて死にそうになったというミニマリストのブログを読んで、少し病気だと思いました。

    ユダヤ人は自分の国を持たず土地に縛られない生き方を長くしてきましたが、それは母なる土地からの分離と対応すると思います。ユダヤ人は迫害された苦痛をひっくり返して、自分たちはそういう生き方を自発的に選んでいるんだと思っているのでしょうか?逆にイスラエルの建国は精神的な母胎回帰でしょうか。

    出家経は悟った後のブッダが話す内容だとは思えません。「女人は清らかな行いの……」について、悟った人間がなぜこういったレトリック?を使うのかが理解できないです。

  6. かつたろうさんが書きました:

    不景気で所得格差も広がって欲しいものが手に入らないのも要因だと思います。永井さんはどういう風に考えますか?

    貧乏が原因でミニマリストになっても、それが自発的去勢であるとは言えません。もてる男があえて彼女を作らないなら、禁欲的と言えるけれでも、まったくもてない男が彼女を作らないことを禁欲的とは言わないのと同じことです。

    かつたろうさんが書きました:

    ユダヤ人は自分の国を持たず土地に縛られない生き方を長くしてきましたが、それは母なる土地からの分離と対応すると思います。ユダヤ人は迫害された苦痛をひっくり返して、自分たちはそういう生き方を自発的に選んでいるんだと思っているのでしょうか?逆にイスラエルの建国は精神的な母胎回帰でしょうか。

    ユダヤ教は父権宗教です。約束の地は父なる神に与えられたもので、彼らにとって、イスラエルへの帰国は胎内回帰ではありません。詳しくは、『旧約聖書』をご覧ください。

    かつたろうさんが書きました:

    出家経は悟った後のブッダが話す内容だとは思えません。

    仏典はほとんどすべて後世の捏造です。歴史的人物としてのガウタマ・シッダールタが何を言っていたのか、今となっては、正確なことはわかりません。しかし、仏教がどのような宗教であるのかを理解する上では、仏典は手掛かりとなるテキストです。

  7. 私の個人的な考え方の癖なんですけども、貧乏にかぎらず多くの悩みは、周りが自分をそういう風に追い込んだんだという被害妄想的なものがあります。だから、彼氏に振”られた”女性が、自分を振ったことの被害者意識を持っているのではないかと類推しました。同様に、出家前のゴータマシッダルタについても「軍事提供を断”られた”」から逆に今までの地位を捨てたんだと(これはブッダの言葉ではないにしても)。つまりは、自分が被害者という意識があってそれをひっくり返すことが主体性を取り戻すことにつながると、永井さんの記事を解釈しました。

    元から地位、能力、魅力などを持っている人間がそれを捨てるのが自発的去勢だとしても、奪われたり与えられないという体験がきっかけになっています。だから、最初から持たざるものが自分から欲しいものを断念するときも心理としては同じだと思います。ただ持たざるものが酸っぱいブドウ論法をつかっているだけではないと思います。

    自尊心のある女性なら、ふられても、涙を流して卑屈になったりしない。自分を拒否して自分の価値を貶めた相手を拒否し返し、自尊心を保とうとする。「何だ、あんな男、たいしてハンサムでもないし」と相手の欠陥を見つけて、相手の価値を引き下げ、究極的には「私はもともと彼氏なんて欲しくないんだ」と無欲を装って開き直り、傷ついた自己を防衛しようとする。拒食症とは、拒否を拒否し返す象徴的報復であり、ルサンチマンである。

    ルサンチマンと自発的去勢の違いがよく分からなくなりました。並みの迷える拒食症患者と違うブッダにしても同じことをしているようにみえます。

  8. 私は「まったくもてない男が彼女を作らないことを禁欲的とは言わない」と書きましたが、まったくもてない男というのは実は少数派で、一番数が多いのは、ある程度もてる男です。ある程度もてる男が、たまたまある女性にふられ、その気になれば別の恋人を手に入れることができるにもかかわらず、それをきっかけに、恋人を持つこと完全に断念するようになるなら、それは自発的去勢と言えるでしょう。ガウタマ・シッダールタも、挫折体験があったとはいえ、その気になれば、俗世で一定のステータスを維持できたはずなのに、それらをすべて捨てて出家したのだから、自発的去勢と言うことができるのです。

  9. 極端な持てるもの持たざるものという1か0かの思考は、不自然か実態にそぐわないのかもしれません。確かに、ある程度持っている人間でも、べつの部分では満ち足りずルサンチマンをいだいたりします。
    上の引用で語られたルサンチマンというのが単純に束の間の出来事でありきっかけでしかなく、それ以上に踏み込んですでにある自分の可能性まで捨て去るから自発的去勢だというので納得しました。一方で、相手から拒否されてルサンチマンを抱いても、自分に捨てるものがなかったら自発的去勢にならないですね。

    話が横道に逸れて、一般的になりすぎる気がしますが、とはいえ自分の可能性を信じていない人間はうつにでもならない限りそうそういない気がします。勘違いでも自分には将来があると思う人間が、現実に直面して思い込みを矯正するのは、どう説明すればいいのだろうかと思います。

  10. 昔『「捨てる!」技術』という本がベストセラーになり、今でも、ヨーガの行法を元にした断捨離がブームになっていますが、これらはあくまでも不必要なものだけを捨てようということですから、必要なものを含めてすべて捨て去る仏教における本格的な出家とはまた違うと思います。もちろん必要かどうかというのは主観的な基準で、絶対的なものではなく、ルサンチマンが動機になっているかどうかも程度の問題でしょう。

  11. ちょっと少し。断捨離ブームは「必要なもの」から捨てさせて断捨離本とかは大量に買わせます、必要無いものを捨てる訳でも全てを捨てる訳でもありません。この場合捨てるのは「自分で考える」という行為そのものです、考えることを完全に放棄すれば迷いも苦しみも全部無くなるという考え方。
    このような利他主義は来世利益を求める世俗派の在家信徒とは別の在家信徒の思想的根幹になってませんかね?
    母体回帰願望の究極系と禁欲主義の「統一」宗教として、具体名は避けますが在家側から成立した宗教は多々あります。
    たいていは先鋭化していき個人の救済レベルでの自殺や人類救済と称する大量殺戮に走って消えていきますが、すぐにまた生えてきます。

  12. 当時は気がつかなかったけどmarsさんのコメントを読みこう思いました。それは、断捨離は思想と言うよりビジネスですね。必要なものを捨ててしまったらまた買わなければいけないですし、さらには自分で考えることを放棄した人は物を買わされ搾取されます……。つまり、利他主義とは言えないです。消費サイクルを早める仕組です。人に禁欲を強いてお布施させ自分の欲を満たすことは、宗教にも見られます。

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