12月 172008
 

試論編にある「写楽の謎を解く」への補足ページです。斎藤十郎兵衛説の立場から編集した、写楽ならびに写楽研究に関する年表です。「写楽の謎を解く」を読む上での整理に使ってください。また、写楽の研究をしようと思っている人も、参考にしてください。

1. 写楽登場前

1761年(宝暦11年)斎藤十郎兵衛、生まれる(過去帳による)。

1783年(天明03年)蔦屋、一流版元がひしめく日本橋通油町に進出。

1787年(天明07年)6月、松平定信が筆頭老中となり、寛政の改革が始まる。

1789年(寛政元年)江戸三座の一つ、森田座が破産。

1790年(寛政02年)5月、寛政異学の禁。書籍出版取締令。寛政の改革による風紀の取締りが厳しくなる。

1791年(寛政03年)3月、山東京伝の洒落本と黄表紙が摘発され、京伝は手鎖50日となり、版元の蔦屋は身代半減のとなる。蔦屋重三郎は、喜多川歌麿に、比較的取締りが緩かった美人大首絵を描かせる。

1792年(寛政04年)斎藤十郎兵衛、南八丁堀阿波藩屋敷内(現在の中央区湊一丁目あたり)に住む(過去帳による)。

1793年(寛政05年)江戸三座の市村座と中村座が破産。7月、松平定信が老中を退き、寛政の改革が終わる。12月、喜多川歌麿、蔦屋と袂を分かつ。蔦屋重三郎は、代わりとなる看板絵師を探す。

2. 写楽登場後

1794年(寛政06年)1月、控櫓による江戸三座で芝居興行が再開される。和泉屋が、豊国による役者舞台之姿絵のシリーズを始める。5月、斎藤十郎兵衛が所属する宝生座が非番となる。蔦屋、写楽作の28枚の役者大首絵を出版。7月、蔦屋、写楽画27枚出版。8月、蔦屋、写楽画11枚を出版。11月、蔦屋、写楽画58枚を出版。閏11月、蔦屋、写楽画3枚を出版。

1795年(寛政07年)1月、蔦屋、写楽画12枚を出版。蔦屋による写楽画出版が終わる。4月、斎藤十郎兵衛が所属する宝生座が詰番となる。

1796年(寛政08年)蔦屋の財務状況が悪化し、蔵版の狂歌絵本などの版権を大阪の版元に譲渡。蔦屋の関係者による写楽への言及:栄松斎長喜が、『高島屋おひさ』で、写楽の絵をあしらった団扇を描く。また、十返舎一九が『初登山手習方帖』で、凧に写楽の役者絵を書き込む(下の図)。

写楽の全貌
十返舎一九『初登山手習方帖』(都立中央図書館特別文庫室所蔵)[山口 桂三郎:写楽の全貌, p.153]

1797年(寛政09年)5月6日、蔦屋重三郎が死去。

1799年(寛政11年)斎藤十郎兵衛、南八丁堀阿波藩屋敷内から八丁堀地蔵橋へ転居(過去帳による)。

1800年(寛政12年)5月、大田南畝が、笹屋邦教編の「古今大和画浮世絵始系」を写して、『浮世絵類考』に補綴。『浮世絵類考』の原型が完成。

1802年(享和02年)10月、山東京伝が「追考」を『浮世絵類考』に付け加える。近藤正斉が山東京伝から伝写した、現存する最古の『浮世絵類考』の写本、『神宮本浮世絵考証』が成立。写楽に関しては、以下のように述べられていただけだった。

写楽 
これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしがあまりに真を画かんとて、あらぬさまにかきしかバ、長く世に行われず、一両年にして止ム

[内田 千鶴子:写楽・考, p.37]

式亭三馬が出した『稗史億説年代記(くさぞうしこじつけねんだいき)』という上中下三巻の黄表紙の冒頭にある「倭画巧名盡(やまとえのなづくし)」で、写楽が独立した島として描かれる(下の図)。

写楽の全貌
図[山口 桂三郎:写楽の全貌, p.]

1811年(文化08年)斎藤十郎兵衛の隣人で、国学者・歌人の村田春海が死去。村田春海には子がいなかったので、姪の多勢子を養女とした。多勢子は、出家して、芳樹と号した。独身だったので、67歳のとき、垣隣に住む阿州藩の能楽者の男児(斎藤十郎兵衛の孫?)を養子としてもらった。この養子は、村田春路と称した。

1815年(文化12年)加藤曳尾庵(えいびあん)が『浮世絵考証』を写筆し、加筆する。『曳尾庵本』には、以下のように書かれている。

写楽 東洲斎写楽 これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしか、あまりに真を書かんとてあらぬさまにかきなせしかは、長く世に行われす、一両年にして止ム しかしながら筆力雅趣ありて賞すべし

[内田 千鶴子:写楽・考, p.40]

1818年(文政元年)6月、京伝の自筆の本が大田南畝に届けられる。7月、竹本氏が『諸家人名江戸方角分』の写本を南畝に届ける。『諸家人名江戸方角分』の八丁堀の項目には、浮世絵師を示す記号の入った「写楽斎 地蔵橋」という記載があった。

1820年(文政03年)埼玉県越谷市の浄土真宗本願寺派今日山法光寺の過去帳に「八丁堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十良(郎)兵衛」が58歳で亡くなり、千住にて火葬にしたとの記録がある。

1821年(文政04年)4月、『坂田文庫本浮世絵類考』成立。写楽の名前の右横に、朱書きで「イニ写楽斎トモ阿リ」と書かれている。式亭三馬が、この年までに『浮世絵類考』に「三馬按、写楽号東洲斎、江戸八丁掘ニ住ス。僅ニ半年余行ハルヽノミ。」と書き込みを行う。風山漁者が『神宮文庫風山本浮世絵類考』で、以下のような葛飾北斎と東洲斎写楽を混同した記事を書く。

二代目北斎
写楽 東洲斎と号す 俗名金次
是また歌舞伎役者の似顔を写せしが、あまりに真を画んとてあらぬさまにかきなせしゆえ、長く世に行ハれずして一両年にて止めたり、隅田川両岸一覧の作者にて、やげん堀不動前通りに住す

[内田 千鶴子:写楽・考, p.42]

1822年(文政05年)式亭三馬、死去。

1833年(天保04年)池田義信(渓斎英泉)著『無名翁随筆』に、東洲斎写楽の住所が記載される。

写楽【(空欄)年ノ人】   
    
俗称(空欄)、号東洲斎、住居八丁堀、
  
歌舞伎役者の似顔を写せしに、あまりに真を画んとて、あらぬさまに画なせしかば、長く世に行れず、
一両年にして止む、類考
   
三馬云、僅に半年余行はるゝのみ、
  
五代目白猿幸四郎【後京十郎と改】半四郎、菊之丞、富十郎、広治、助五郎、鬼治、仲蔵の顔を半身に
画きたるを出せし也

1844年(天保15年)斎藤月岑が編集した『増補浮世絵類考』に、写楽の素性に関する詳細な記述が載る。

写楽 天明寛政中ノ人

俗称 斎藤十郎兵衛 居 江戸八丁堀に住す

阿波侯の能役者なり 号 東洲斎

歌舞伎役者の似顔を写せしが、あまりに真を画んとて、あらぬさまに書なせしかば、長く世に行れず、
一両年にして止む 類考

三馬云、僅に半年余行はるゝのみ
五代目白猿、幸四郎(後京十郎と改)半四郎、菊之丞、富十郎、広治、助五郎、鬼治

但し、これ以前(文政末期以後天保か弘化の頃)に成立した『伍一本浮世絵類考』に、既に「写楽は阿波侯の士にて俗称を斎藤十郎兵衛といふよし栄松斎長喜老人の話那り 周一作洲」という記載があった。

1847年(弘化04年)多勢子死去。村田春路が跡を継ぐ。

1867年(慶応03年)7月26日、村田春路、死去。

3. クルト以降の研究史

1910年(明治43年)ドイツ人のユリウス・クルトが『写楽』をミュンヘンで出版し、海外での写楽の評価は高まった。

1956年(昭和31年)後藤捷一が『蜂須賀家無足以下分限帳』に「江戸住斎藤十郎兵衛」の記事を見つけた。

1977年(昭和52年)中野三敏が『諸家人名江戸方角分』の八丁堀の項目に、浮世絵師を示す記号の入った「写楽斎 地蔵橋」とあることを公表した。

1981年(昭和56年)内田千鶴子が『猿楽分限帖』と『重修猿楽伝記』に、斎藤十郎兵衛に関する記載があることを見つけた。

1997年(平成09年)徳島の「写楽の会」のメンバーが、埼玉県越谷市の浄土真宗本願寺派今日山法光寺の過去帳に斎藤十郎兵衛の記録があることを発見した。

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