4月 262009
 

試論編にある「朝鮮人はなぜ太平洋戦争を喜んだのか」への補足ページです。日本では、元寇は日本の視点から記述され、高麗の視点が欠如していることが多いので、旗田巍の『元寇―蒙古帝国の内部事情 』を参考にしながら、高麗史を中心に元寇前後の出来事をまとめてみました。元寇の勉強をしている人は、参考にしてください。

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『蒙古襲来絵詞』後巻、絵十六。弘安の役において、敵船に乗り込む竹崎季長と大矢野三兄弟(1293年頃)。

1. モンゴル軍による高麗侵入

918年 王建が高麗を建国。

1159年 平治の乱。日本では、武士が貴族に代わって実権を握るようになる。

1170年 高麗の重臣、鄭仲夫が反乱を起こし、鄭仲夫、慶大升、崔忠献らが実権を握る(庚寅の乱)。高麗でも武臣政権時代が始まる。

1185年 源頼朝が平家を滅ぼし、鎌倉幕府を開く。以後、148年間、鎌倉時代。

1196年 崔忠献が政権を掌握。以後、62年間、崔氏による武臣政権時代。

1206年 テムジンがモンゴルを統一し、チンギス・カンとして初代のモンゴル帝国の皇帝となる。

1223年 文献上に初めて記された倭寇。「倭寇金州(倭、金州に寇す)」[高麗史日本伝〈上〉, p.56]とある。

1225年 高麗に送られたモンゴル帝国の使節が何者かによって殺害され、モンゴル帝国は高麗と国交断絶。

1227年 鎮西奉行の少弐資頼(しょうにすけより)が「高麗国使の前に於いて悪徒九十人を捕らえて斬首し」た[百練抄:嘉禄三年七月二一日条]。「日本国は書を寄せ、賊船の辺を寇するの罪を謝し、仍(よ)りて修好し互市(ごし)せんことを請う。是の歳、及第(きゅうだい)の朴寅(ぼくいん)を遣わし、日本に聘(へい)せしむ。時に倭賊は州県を侵掠(しんりゃく)す。国家之(これ)を患(うれ)い、寅を遣わして牒(ちょう)を齊(もた)らし、歴世の和好を以て、宜(よろ)しく来侵すべからざるを諭す。日本は倭賊を推検し、之を誅(ちゅう)す。侵掠稍々(やや)に息(や)む」[高麗史日本伝〈上〉, p.57]。

1229年 チンギス・カンの死後、オゴデイが第二代モンゴル皇帝となる。

1231年 サルタク率いるモンゴル軍による第1次高麗侵入。8月、洪福源は、高麗人だったが、投降し、モンゴル帝国の高麗侵略に協力した[元史・列傳第九十五]。占領地には、モンゴル帝国の民政監察官(ダルカチ)が置かれた。

1232年 6月、ダルカチによる収奪が激しいので、崔氏は、ダルカチを殺し、国王を連れて都を開城から江華島に移し、モンゴル帝国への抵抗を開始。8月、サルタク率いるモンゴル軍による第2次高麗侵入。モンゴル軍は、国宝の八万大蔵経の版木を焼いた。当時僧だった金允侯が、サルタクを射殺。モンゴル軍引き上げる。

1234年 モンゴル帝国、金を滅ぼす。宋を攻め始める。

1235年 タングタイ(唐古)率いるモンゴル軍による第3次高麗侵入。モンゴル軍による高麗蹂躙が約5年間続く。

1236年 王椹、後の忠烈王、高麗王元宗の長男として生まれる。

1241年 高宗、モンゴル帝国と和解。王族の永寧公[糸享]を人質としてカラコルムの宮廷に送る。オゴデイが急死。

1246年 グユクが第三代モンゴル皇帝に就任。

1247年 高麗、モンゴル帝国への貢納をやめる。アムカン率いるモンゴル軍による第4次高麗侵入。

1251年 モンケが第四代モンゴル皇帝に就任。高麗国王に、出陸(江華島から出ること)を要求した。

1253年 高麗国王が出陸拒否。イェグ(也古)率いるモンゴル軍による第5次高麗侵入。高麗国王が出陸し、第二王子を入朝させる。

1254年 モンゴル軍、引き上げる。半年後、崔氏などの実力者が江華島に残っていることを口実に、ジャラルダイ(札剌児帯)率いるモンゴル軍による第5次高麗侵入。ジャラルダイは、6年間にわたって、4回高麗に侵入する[元史・本紀第三]。

1258年 高麗北部の和州以北が占領され、双城総管府が置かれ、降伏した高麗人、趙[日軍](ちょうき)が総管に任命される。武臣の金俊たちによるクーデターにより、崔氏政権が打倒され、モンゴル帝国へ降伏。

1259年 高宗の世太子がモンケへの謁見を求めて華南へ向かう途中、モンケが死去。代わりに、クビライに謁す。高宗の死去により、世太子が高麗に帰国し、元宗として国王に即位。

1260年 クビライが第五代モンゴル皇帝に就任。

2. クビライの日本征伐計画

1261年 洪福源が、永寧公[糸享]の讒言で処刑される。趙彝(ちょうい)は、進士に合格し、クビライの知遇を受け、クビライに、高麗に郷導(道案内)させて、日本に使者を送ることを勧める。「趙彝 帝所に出入りして、讒しりて曰く、高麗、日本と隣好す。元、使いを日本に遣わすに、本国をして郷導せしめよと。」[高麗史日本伝〈下〉, p.219]。

1263年 勿島で倭寇。高麗、日本に使者を送って、倭寇の取り締まりを要請。

1266年 クビライ、高麗の宋君斐に案内をさせて、ヒズル(黒的)をモンゴルの国信使として日本に送ろうとする。

1267年 宋君斐たちは、風濤険阻であることを理由に、渡海を断念し、巨済島の松辺浦で引き返す。クビライは激怒し、高麗国王元宗に日本招諭を再度命じる。元宗は、側近であった潘阜(はんふ)を派遣。

1268年 正月、潘阜が大宰府に来着。少弐資能を通じて牒状が鎌倉に送られたが、日本側は、返牒を拒否。外寇の警告が当たったことで、日蓮は、北条時宗等に書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。3月、北条時宗が執権に就任。7月、潘阜は高麗へ帰還。12月、ヒズル、潘阜らともに対馬に渡る。反モンゴルの武臣、林衍が金俊を暗殺し、実権を握る。

1969年 3月、ヒズル、潘阜ら、対馬で喧嘩となった二人の島民を捕らえ、連れて戻る。6月、林衍、元宗に代わって安慶公王を国王にしようとする。10月、崔担が反乱を起こし、蒙古に降伏。11月、クビライ、ヒズルを送って、元宗廃位を批判。林衍は、元宗を復位させた。

1270年 1月、クビライ、高麗から崔担が支配していた東寧路を奪い、西京(現在の平壌)に東寧府を設置。崔担が長官に任命される。2月、元宗、クビライに謁見し、出兵を要請した。林衍病死。5月、子の林惟茂、殺される。元宗は、江華島に残っている三別抄に解散を命じたが、三別抄はこれを拒否して、挙兵。6月、三別抄は全羅南道の珍島に移る。7月、クビライ、日本人捕虜と接見。11月、高麗に日本攻略拠点として、屯田経略司を設置した。

1271年 5月、三別抄の拠点、珍島が陥落。6月、世子諶(後の忠烈王)が人質としてモンゴルに送られ、クビライの皇女、クトゥルク・ケルミシュ(忽都魯掲里迷失)と婚約。モンゴル帝国、国号を大元に改める。9月、元は、日本人捕虜の返還を名目として、趙良弼らを派遣したが、日本側は黙殺した。日蓮、良観・念阿弥陀仏等により幕府に訴えられ、佐渡に流される。

1272年 1月、趙良弼、12人の日本人をつれて高麗に戻る。2月、世子諶(後の忠烈王)、「惟(た)だ彼(か)の日本のみ、未だ聖化を蒙(こうむ)らず。故に詔使(しょうし)を発し、継いて軍容を糴(かがや)かし、戦艦・兵糧は方(まさ)に須(もと)むる所在り。儻(も)し此の事を以て臣に委(ゆだ)ぬれば、勉めて心力を尽し、小(すこ)しく王師を助くるに庶幾(ちか)からん」[高麗史日本伝〈上〉, p.90]と言って、クビライに日本征伐を請う。日本では、二月騒動。北条時宗ら得宗派が、元からの国書への返答に関して対立していた反得宗派を一掃。事件処理に当たった外戚の安達泰盛の勢力が台頭する。

5月、趙良弼、再度日本に渡り、1年間、大宰府に滞在して、交渉する。7月、日本人が金州に来る。曹子一は、このことが元に露見することを恐れて、帰国させる。洪茶丘は、曹子一が倭と通じているとクビライに密告し、曹子一を殺す。鎌倉幕府、異国警護番役を設置し、鎮西奉行であった少弐氏や大友氏に対して指揮を命じた。

1273年 4月、元と高麗は、三別抄の最後の拠点、耽羅島を陥落させ、三別抄の乱を最終的に鎮圧。

1274年 1月、元は高麗に戦艦900艘を造船させる命令を出す。2月、日蓮、許され、幕府評定所へ呼び出さる。平頼綱の質問に対して、年内の蒙古来襲を予言。5月、諶がクトゥルク・ケルミシュと結婚。8月、諶、忠烈王として高麗王に即位。10月、元と高麗の連合軍、総勢3万2300人が合浦を出港し、対馬と壱岐を攻撃し、博多湾に上陸。文永の役が始まる。11月、連合軍は、暴風で損害を受け、高麗に戻る。「会々(たまたま)、夜、大いに風ふき雨ふる。戦艦、厳崖に触れて多く敗る」[高麗史日本伝〈上〉, p.106]。 未帰還者は、1万3500人以上であった。

3. 文永の役後

1275年 1月に、忠烈王、高麗の経済的困窮を元に訴える。2月、鎌倉幕府、異国警護番役の制を定める。4月、クビライは杜世忠を正使とする使者を日本に送る。9月、北条時宗、鎌倉の龍ノ口で使者5名を斬首に処す。10月、元から日本再征伐のため、戦艦修造を命じられる。耽羅国に耽羅総管府が設置される。

1276年 1月、元、南宋攻撃に専念するために、日本遠征の中止命令。12月、忠烈王に対する謀反が密告される。東寧府(現在の平壌)が、東寧路総管府に昇格され、洪茶丘が東征都元帥となる。これで、旧高麗領に、東寧路総管府、双城総管府、耽羅総管府の三つの総管府がおかれ、元の統治下に入ったことになる。

1277年 12月、金方慶に謀叛疑惑。洪茶丘、クビライに、元軍による高麗の直接統治を進言。

1278年 7月、密告が無実であることが証明され、洪茶丘は召還させられる。この時、忠烈王、「日本は一島夷(いちとうい)のみ、険を恃(たの)みて庭(てい)せず、敢えて王師に抗す。臣自(みずか)ら念(おも)うに、以て徳に報(むく)ゆるなし。願わくは、更に造船・積穀し、声罪(せいざい)・致討(ちとう)して、蔑(す)てて済(すく)わざらんことを」[高麗史日本伝〈上〉, p.113-114]と言って、クビライに日本遠征を求める。

1279年 3月、元、崖山の戦いで、南宋を滅ぼす。6月、元、宋の降将、范文虎の進言により、周福を正使とする使者を送ったが、翌月、使者は大宰府で全員斬首となる。7月、高麗の国王、クビライに「自から船一百五十艘を造りて、日本を征するを助けん」[元史本紀第十二]と要請する。

1280年 8月、忠烈王、使者を通じて「東征の事は、臣、入朝して稟旨(ひんし)を請わん」[高麗史日本伝〈上〉, p.121]と申し出る。12月、忠烈王、征東行省の中書左丞相ならびに[馬付]馬(娘婿)国王に任命される。

1281年 5月、忻都・洪茶丘率いる元軍と金方慶率いる高麗軍、総勢4万人の東路軍が、予定を早めて、合浦を出港し、対馬に上陸した。弘安の役始まる。6月、東路軍、単独で日本本土を攻撃する。7月、壱岐島に東路軍と10万人の江南軍が合流するが、暴風により壊滅的な打撃を受ける。生還者は、総勢14万人のうち、3万3千人に過ぎなかった。

4. 弘安の役後

1282年 1月、クビライ、征東行省を解散させる。10月、日蓮死去。

1283年 1月、クビライ、征東行省を再設立。忠烈王、再び、征東行省の中書左丞相に任命される。8月、クビライ、王君治を国信使として日本に送ろうとしたが、失敗。9月、広東に一揆が起きる。10月に福建で宋王朝復活のための大規模な反乱が起きる。

1284年 1月、福建の乱、鎮圧される。2月、中国南部の各地や占城(ベトナム南部)で一揆が多発する。元の占城遠征軍が暴風で損害を受け、反乱鎮圧に失敗する。4月、北条時宗、死去。嫡男の北条貞時が執権となる。5月、クビライ、征東行省を再び解散させる。7月、クビライが国信使として日本に送った王積が、対馬で部下の使者に殺される。

1285年 10月、クビライ、征東行省を再設立。11月、日本遠征計画の大綱がまとまる。日本では、霜月騒動。頼綱の讒言により安達泰盛一族が滅びる。北条氏、28カ国の守護職を独占。得宗の専制化が進む。

1286年 1月、クビライ、ベトナムでの戦況が思わしくないため、日本遠征計画中止。「連年日本の役、百姓は愁戚し、官府は擾攘す。今春停罷す。江浙の軍民、歡聲雷の如し」[元史・列傳第五十五]。11月、日本では、弘安の役に対する恩賞。

1287年 4月、ナヤンが、クビライの日本遠征を不満として反乱を起こす。モンゴルと満州が戦場となる。5月、クビライ、忠烈王を征東行省の長官に任命。7月、ナヤンの反乱を鎮圧。

1288年 2月、カイドゥが元への攻撃を開始。その後、カダアンが反乱を起こす。

1290年 カダアンが朝鮮東北部に移動。3月、クビライ、カダアンの反乱を鎮圧するために、東寧路総管府を元から高麗に返還する。その後、カダアンが高麗に侵入。12月、忠烈王、カダアンの攻撃を避けるために、都を江華島に移す。

1291年 4月、元の援軍が高麗に到着。5月、元と高麗の連合軍がカダアンを破る。6月、カダアン高麗から撤退。高麗、都を開城に戻す。

1292年 9月、忠烈王、クビライに日本征伐を進言「臣、既に不庭(ふてい)の俗(ぞく)に隣す。庶(ねが)わくは、当(まさ)に躬自(みずか)ら致討(ちとう)し、以て微労(びろう)を効すべし」[高麗史日本伝〈上〉, p.174]。10月、日本の商船、元に交易を求める。高麗は、金有成を日本に派遣(その後消息なし)。

1293年 3月、鎌倉幕府、異国警護番役の御家人が鎌倉へ直訴することを禁止し、現地で訴訟を採決できるように、鎮西探題を置いた。4月、鎌倉大地震。この地震の混乱のさなか、平頼綱が殺され、北条貞時が実権を握る。8月、元が高麗に、造船と兵糧米の蓄積を命じる。

1294年 2月、クビライ死去。孫のテムルが第2代元皇帝となる。

1297年 忠烈王妃でクビライの娘、クトゥルク・ケルミシュが死去。日本では、永仁の徳政令。

1298年 忠烈王、廃位となるが、元の力により、復位。

1306年 日本の商船、元に行き、貿易を行う。

1308年 忠烈王、死去。

1325年 元に建長寺船を派遣。

1333年 鎌倉幕府滅亡。

1336年 後醍醐天皇の吉野遷幸。南北朝時代始まる。

1350年 南北朝時代の混乱により、倭寇が本格化。「倭寇の侵すは此より始まる」[高麗史日本伝〈上〉, p.200]。

1351年 元で、白蓮教徒による紅巾の乱起きる。

1356年 高麗、元と断交し、双城総管府など北辺を奪還。元の年号を止めて独立。

1357年 紅巾の北伐軍が、高麗に侵入し、首都である開城を占拠したが、李成桂らが反撃。その後、北伐軍は、開城を捨て、元の上都を占領したが、やがて、元軍によって撃破される。

1366年 朱元璋、紅巾の乱を終息させる。

1368年 朱元璋、明を建国。

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