9月 292010
 

任那(みまな)日本府とは、『日本書紀』に記されている、朝鮮半島南部に存在したとされる倭の統治機関である。韓国学界は、古代の朝鮮半島に倭の領土があったことを否定しているが、文献的資料と考古学的事実は、卑弥呼の時代から倭の五王の時代にかけて、朝鮮半島南岸が倭の統治下にあったことを示しており、その後、562年に消滅するまで、倭が朝鮮半島南部に拠点を持っていたことは史実として受け取ることができる。

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Fig.01. 三国時代における任那の位置[1]

1 : 任那日本府に関する日韓の見解の相違

『日本書紀』に登場する任那日本府をどう解釈するかは、日韓の歴史解釈上の対立点の一つである。従来、韓国側は、任那日本府を、その存在自体を完全に否定したり、大宰府の別称と推定したりしていたが、近年では、金泰植のように、朝鮮半島の安羅にあったことを認めた上で、任那日本府を安羅に臣従する倭人官僚がいた外務官署とみなし、「安羅倭臣館」と呼ぶべきだと主張する学者も出てきている。
 

‘任那日本府’は6世紀当時の用語でもなく、間違った先入観を呼び起す用語であるため、より事実に近い安羅倭臣館という用語に交替するのが妥当である。そして安羅倭臣館は、540年代に加耶連盟が新羅と百済の服属の圧力を受けていた時期に、加耶連盟の第二人者であった安羅国が自身の王廷に倭系官僚を迎え入れ、倭国との対外関係を主導することで、安羅を中心にした連盟体制を図るために運営した外務官署のような性格の機構であった。しかし550年を前後して、この機構は相互間の同盟関係を強固にしていた百済と倭王権の不信任の中で解体された。[2]

たしかに、「日本」という国号の成立は7世紀であるから、6世紀に「任那日本府」が、このような漢字表記で記されていなかったことは確かである。『日本書紀』では、倭も日本も、ともに「やまと」と訓まれており、国号の変更に伴い、「倭」が「日本」に書き換えられている。だから、『釈日本紀』が注釈するように、任那日本府(みまなのやまとのみこともち)は、「任那之倭宰」と記すのが適切である。

しかしながら、日韓で問題になっていることは、任那日本府が当時どのように呼ばれていたかではなくて、どのような役割を果たしていたかである。はたして、それは、金泰植が言うように、安羅に臣従する倭人官僚がいた外務官署にすぎなかったのか。『日本書紀』には、以下のように「在安羅諸倭臣」という表現があるが、どのような意味で使われているかは、前後の文脈から判断しなければならない。

百済は、部杆率汶斯干奴(かほうかんそちもんしかんぬ)を派遣して、天皇に上表文を奉り、申し上げた「百済王で、天皇の臣である、私、明[聖明王]および安羅にいる倭の諸臣ら、任那諸国の旱岐(かんき)らが奏上いたします。新羅は無道で、天皇を恐れておりません。高句麗と共謀して、日本の海外にある北の宮家を破滅させようとしています。私どもは協議によって内臣(うちのおみ)らを天皇のもとに派遣して、援軍を請い、新羅を征討しようとしました。そうして、天皇の遣わされた内臣は、軍兵を率いて六月に到達し、私ども、天皇の臣はたいそう喜びました。…」[3]

この欽明天皇十五年(554年)上表文では、百済の聖明王は、自らを天皇の「臣」と表現しており、それゆえ、その後に登場する「在安羅諸倭臣」も、安羅国ではなくて、日本の天皇に臣従している臣と解釈するべきである。もしそうでないならば(金泰植のように考えるのなら)、任那諸国の国王である旱岐を先に挙げ、続いてそれよりも格下の在安羅諸倭臣を挙げるはずだが、そうなっていないということは、在安羅諸倭臣を任那諸国の国王よりも上に位置付けているということである。

また引用されている上表文に「海北彌移居」とあることに注意したい。「彌移居」は「みやけ」と読み、天皇の直轄地である屯倉を意味する。「海北」は日本から見て、海を隔てて北にあるという意味である。上表文は、新羅が高句麗と共謀して朝鮮半島南部にある日本の天皇の直轄地を滅ぼそうとしていると言うのである。海外に日本の天皇の直轄地があるのなら、当然天皇の代官が現地にいるはずだ。

これより前の欽明天皇五年(544年)の上表文では、百済は、安羅に存在した日本府に任那が従属していることを明言している。

そもそも任那は安羅を兄として、必ずその意向には従います。安羅人は日本府を天として、必ずその意向には従います。注:百済本記には、「安羅を父とし、日本府を本(もと)とする」とある。[4]

もちろん、『日本書紀』や『百済本記』に書かれていることがそのまま史実だとは限らないが、少なくとも、『日本書紀』を根拠に、任那日本府が、安羅に臣従する倭人官僚がいた外務官署にすぎないと主張することは、誤読であると結論付けることができる。任那日本府は、「みまなのやまとのみこともち」と訓まれていたのだが、「みこともち」は「御言持ち」という意味であり、その役割は、天皇の言葉を現地に伝達することだったと考えることができる。

大和政権が任那を任那日本府を通じて支配していたとするならば、その任那支配は、いつ、どのようにして始まったのかが、次に問題となる。『日本書紀』が、倭による朝鮮半島統治の根拠としているのは、神功皇后が行ったとされる三韓征伐である。『日本書紀』は、『三国志』魏書東夷伝倭人条を引用することで、神功皇后が卑弥呼であることを示唆している[5]。そこで、卑弥呼の時代に三韓征伐に相当する朝鮮半島への軍事的活動があったのかどうかを次に検討しよう。

2 : 卑弥呼の時代の朝鮮半島

卑弥呼の時代、すなわち3世紀の朝鮮半島南部には、後の百済、新羅、任那の位置に、馬韓、辰韓、弁韓があったと想定するのが学界の通説である。だから、学校の教科書の類には、以下のような図が掲載されている。

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Fig.02. 通説での馬韓、辰韓、弁韓、倭の位置と版図[6]

ところが、この時代について書かれた中国の史書は、馬韓、辰韓、弁韓、倭の位置をこうした通説とは異なるように記述している。例えば『三国志』魏書東夷伝では、韓について、次のように書かれている。

韓は帯方郡の南に在り、東西は海で尽き、南は倭と接し、地積は四千里ばかりである。韓には三つの種類があり、一つ目は馬韓、二つ目は辰韓、三つ目は弁韓という。[7]

韓、すなわち、馬韓、辰韓、弁韓は、東と西で海に面しているが、南では海に面せず、倭と接している。つまり、朝鮮半島の南岸は倭の領土であったということである。『三国志』魏書東夷伝によると、朝鮮半島の南岸にあったとされる倭の国の名は、狗邪韓国である。

帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を経て、南へ行ったり、東へ行ったりして、その北岸の狗邪韓国に到ること七千余里である。初めて一海を渡り、千余里で対馬国に至る。[8]

狗邪韓国の前に付いている「その(其)」は、倭を指していると解釈しなければならない。もし韓国ならば、「南岸」となるはずだ。だから、「その北岸」は、倭の北にある岸という意味である。『後漢書』では、「その西北、拘邪韓國で界する[9]」となっているが、中国語の「界」は、「境界」という意味だから、拘邪韓國は、倭の西北における境界となる国として位置付けられている。

これだけなら、狗邪韓国が倭の一部かどうかははっきりしないが、『三国志』魏書東夷伝によると、倭には邪馬台国をはじめとして30国あり、狗邪韓国を倭の一国として数えないと、29国になってしまう。日本列島には狗奴国があり、これを30番目の国とする解釈もあるが、狗奴国は女王国連合には属していないし、「使者や通訳が通ってくる所30国[10]」という条件を満たしていない。『三国志』魏書東夷伝には弁韓の中に狗邪国があることを根拠に、狗邪韓国は弁韓の中の一国だとする解釈もあるが、同じ東夷伝の中で、なぜ同じ国を別の名称で呼ぶ必要があったのだろうか。そもそも、倭が朝鮮半島南岸に領土を持たないのなら、「東西は海で尽き、南は倭と接し」の記述に反するのだから、この解釈は無理である。

倭の一部であるにもかかわらず、狗邪韓国に関して詳しい説明がないのは不審だと思う人もいるかもしれないが、倭を構成する30国のうち、たんに国名を挙げるという以上の記述がなされているのは、たったの8国だけであり、狗邪韓国だけが特別扱いされているわけではない。おそらく、中国の使者は、狗邪韓国に上陸せずに、帯方郡から対馬まで航行したため、記載するほどの詳しい情報がなかったのだろう。

ところで、多くの人は、馬韓、辰韓、弁韓が、そのまま、百済、新羅、任那になったと思い込んでいるが、この通説は検討を要する。まず、馬韓、辰韓、弁韓、倭の位置関係であるが、『後漢書』は、次のように定めている。

馬韓は半島の西に在り、54国を有し、その北は楽浪と、南は倭と接する。辰韓は東に在り、十二国を有し、その北は濊貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十二国を有し、その南はまた倭と接する。[11]

任那は、百済と新羅の南にあったが、弁韓は、辰韓の南に位置するものの、馬韓の南には存在せず、馬韓と弁韓の南にあるのは、倭である。だから、百済と馬韓の版図はほぼ重なるものの、辰韓と弁韓は、二つ合わせて新羅の位置にあり、これに対して倭は、任那の位置にあるということになる。よって、馬韓、辰韓、弁韓、倭(狗邪韓国)の位置関係は、以下の図のようになる。この時代、馬韓、辰韓、弁韓、狗邪韓という四つの韓があったが、狗邪韓は、倭の下位構成国になったために、邪馬台国連合を構成する他の三十の国々と同様に、狗邪韓国というように「国」が付けられたのだろう。狗邪(くや)は、後に、加羅(から)あるいは伽耶(かや)と呼ばれるようになる。

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Fig.03. 『後漢書』と『三国志』の記述に基づく馬韓、辰韓、弁韓、倭の位置と版図。

この推測は、人口規模からも裏付けられる。『三国志』魏書東夷伝によれば、馬韓が10万余戸であるのに対して、辰韓と弁韓は、合計でも4-5万戸の規模しかない。朝鮮半島は東部が山がちだから、辰韓と弁韓の国土の広さが、人口規模ほど小さくはなかったと思われるが、両者の人口規模は、馬韓の半分程度しかなかったと考えて大過ない。また、倭では、邪馬台国(甘木を中心とした筑紫平野北部)だけで7万余戸、投馬国(現在の三潴を中心とした筑紫平野南部)だけで5万余戸、奴国(福岡市)だけで2万余戸である。馬韓、辰韓、弁韓の人口規模は、上記の倭の三国の人口規模と同程度で、半島南部全体を覆うには、小さすぎる。

『梁書』や『北史』など、唐の時代に書かれた中国の史書では、新羅は、辰韓の「遠い子孫(苗裔)」とされているし、『三国史記』の新羅本紀も、辰韓の歴史を新羅の歴史として扱っている。他方で、新羅本紀は、早い時期に「弁韓(卞韓)は国を挙げて辰韓に服従した[12]」という記事を載せている。また、『晋書』も、弁韓に関して「すべて辰韓に属している[13]」と述べており、辰韓がそのまま新羅になったのではなくて、辰韓が弁韓を併合した後に、新羅となったことを裏付けている。『後漢書』は、辰韓と弁韓の言語は異なるとしていたが、『三国志』では、相似していると書かれている。弁韓は、辰韓に併合されたことで、言語の面でも同化したのだろう。

『三国史記』の新羅本紀によると、「弁韓(卞韓)は国を挙げて辰韓に服従した」後も、新羅(辰韓)が伽耶と攻防を繰り返した。新羅の第5代の王、婆娑尼師今も、新羅が「西は百済と隣接し、南は加耶に接している[14]」と言っている。伽耶とは、加羅に対する新羅側の呼称である。このことは、弁韓と伽耶(加羅)が別であることを示している。弁韓の中の一国、狗邪が狗邪韓国と同一で、後に伽耶(加羅)になったとする通説は成り立たない。

もちろん、名前が同じなのは、偶然ではなくて、狗邪は、もともと狗邪韓国の一部から弁韓の一部にまたがる地域の名称だったのだろう。朝鮮半島においては、特定地点の名称にすぎなかったカラを、倭人は、海の向こうの土地の総称として使った。その結果、倭人は、朝鮮半島南岸一帯をカラと呼び、後の時代には、日本人は、朝鮮自体も韓(カラ)と呼び、さらには、中国までも唐(カラ)と呼ぶようになった。要するに、日本人は、“カラ=外国”というところまで、意味を拡張してしまったのである。それは「ヤマト」が日本全体を指すまでに外延を広げていったのと似た現象である。

狗邪韓国が倭の支配下にあったとしたならば、それはいつの時代からなのか。1世紀に成立した『漢書』地理志に朝鮮と日本に関する短い記述があるが、そこには、倭が朝鮮半島に影響力を持っていたことを窺わせる記述はない。だから、卑弥呼の時代に、女王国連合が朝鮮半島にまで及んだのではないかと考えられる。そうすると、『日本書紀』が卑弥呼に比定する神功皇后が朝鮮半島を征討したという話が現実味を帯びてくる。

卑弥呼は、本来『日本書紀』におけるアマテラスに相当する人物だが、『日本書紀』の編集者が、中国に対抗して、皇祖神をあまりにも過去へと遠く遡らせた結果、『三国志』との間に不整合が生じ、『三国志』との整合性を保つために、3世紀に神功皇后という卑弥呼のもう一つの分身を作り出さなければならなくなった。そして、『日本書紀』の編集者は、この神功皇后による三韓征伐の話を挿入するために、仲哀天皇(タラシ「ナカツ」ヒコ)という架空の「中継的」天皇を立てて、畿内から九州へと遷都させ、邪馬台国の時代にまで話をタイム・トリップさせている。そして、神功皇后は、神託を得て、狗奴国に相当する熊襲を征討した後、朝鮮半島に出征する。

神功皇后が主として征伐したのは、新羅だが、この新羅征伐の話は、白村江の戦で新羅に敗れた日本が、せめて史書の中でだけでも一矢報いたいという願望のもとに捏造した、自慰史観の産物であるという見解がこれまで主流であった。たしかに、当時新羅という国号はなかったし、その原形となった辰韓も、当時倭と国境を接しない小国だったから、新羅を征伐し、その後、百済と高句麗が臣従したという三韓征伐の話は、次に取り上げる倭の五王の時代の話と混同されている。

卑弥呼と神功皇后を結び付ける手がかりは、『三国史記』にもある。新羅本紀の阿達羅尼師今二十年(173年)の記事に「倭の女王、卑弥呼の使者が来朝した[15]」とあり、続く沾解尼師今三年(249年)の記事に「倭人が一等官の于老を殺した[16]」という記事があるが、于老をめぐるエピソード[17]とそっくりの話が『日本書紀』神功皇后前紀にある[18]

なお、『三国史記』の新羅本紀には、卑弥呼の時代に倭や伽耶と激しい戦闘があったことが記されているが、百済本紀には、そうした記述はなく、397年に倭と国交を結んで以来、友好的な関係にあったことが書かれている。これは、新羅本紀が、その前身である辰韓や弁韓の時代の歴史も新羅の歴史として取り扱っているのに対して、百済本紀は百済の歴史と馬韓の歴史を区別し、前者しか扱っていないからである。

3 : 倭の五王の時代における朝鮮半島

倭の五王がそれぞれ、誰なのかという問題はここでは措くとして、仁徳天皇の即位から雄略天皇の崩御にいたる時代(313年-479年)を、ここでは倭の五王の時代と呼ぶことにしよう。この時代、倭が積極的に朝鮮半島で軍事活動を行っていたことが、中国および朝鮮側の資料から判明している。

例えば、好太王碑文は、好太王が倭の侵略を撃退したことを好太王の功績として誇示しているが、それは、倭が5世紀の初めには、帯方郡に侵入するぐらい、朝鮮半島で活躍していたということを図らずも後世に伝えることとなった。以下、倭関係の重要部分を訳出しよう。

百済と新羅は、もともと高句麗の属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年[391年]に海を渡って来て、百済を破り、[新]羅を[潰し]、倭の臣民にしてしまった。六年[396年]丙申に、好太王は、自ら大軍を率いて、百済を討滅した。

[中略]

永楽九年[399年]、百済は約束を破って倭と和通した。そこで好太王は百済を討つため平譲に南下したが、そのとき新羅が使者を派遣し、「多くの倭人が新羅の国境に集結し、城池を破り潰し、高句麗の奴客である新羅の民を倭の臣民としたので、王のもとに帰還し、命を請いたい」と好太王に申し上げた。

[中略]

永楽十年[400年]庚子、好太王は、歩騎五万を派遣して、新羅を救った。男居城から新羅城にいたるまで、中には倭軍がいたが、高句麗軍が到来すると、倭軍は退いた。

[中略]

永楽十四年[404年]甲辰、倭は無道にも、帯方郡に侵入した。

[中略]

好太王は武力平定を求め、軍を推し進め、倭軍を潰敗させた。切り殺した者は無数だった。[19]

韓国史学界の主流派は、ここに登場する倭を伽耶(加羅)の傭兵と解釈することで、倭が朝鮮半島の南部を支配したことを否定する。金泰植も、倭軍は、「朝鮮半島内で独自的な行為をするというよりは、伽耶軍隊の下級単位として編成され活用された」[20]と主張する。しかし、好太王碑文には、「倭」が9回も登場するのに、「任那・加羅」は、倭軍が退却した場所として1回出てくるだけである。また9回中6回は「倭」、2回は「倭寇」として言及され、「倭人」という表現は1回しか出てこない。倭人が加羅の傭兵ならば、「倭人」という表現しか出てこないのではないか。安羅は、「安羅人」という形で3回出てくるが、この考えで行くと、むしろ安羅人の方が倭の傭兵として活用されていたということになってしまう。

この時代の『三国史記』を見てみよう。397年に、百済の阿莘(あしん)王は、王子の腆支(てんし)を人質として倭に送り、402年に、新羅の奈忽王は、王子の未斯欣(みしきん)を人質として倭に送ったとある。反対に、倭が朝鮮に皇子を人質として送った事実はない。ここから、当時、加羅のみならず、百済や新羅も倭に対して従属的な立場にあったことがわかる。それを認めることは韓国人のプライドが許さないのだろうが、好太王碑文は、倭が百済と新羅を自分の臣民にしたと書いているのだから、素直にそう受け取るべきである。

さらに、この時代を記録した『宋書』を読めば、倭が朝鮮半島南部で軍事的支配権を持っていたことを再確認することができる。『宋書』の東夷に関する記事には、高句麗と百済と倭の項目しかない。倭の武(おそらく雄略天皇)は、「海を渡って95国を平定した[21]」と主張して「使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王」を自称し、順帝によって、そのうち「百済」だけを除く「使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」に叙された。加羅は任那の、秦韓(辰韓)は新羅の、慕韓(馬韓)は百済の旧称と考えられる(弁韓はないことに注意したい)。

倭が、朝鮮半島南部に影響力を持ったことは、文献上だけでなく、考古学的証拠によっても確認できる。例えば、朝鮮半島南部で、日本特有の前方後円墳が朝鮮半島で発見されていること、日本の糸魚川周辺でしか産出しないヒスイ製勾玉が大量に出土していること、日本でしか自生しないクスノキやコウヤマキの木製品が見つかっていることなどをがその例である。

4 : 任那日本府滅亡の原因

以上、倭は、卑弥呼の時代から朝鮮半島南岸を支配し、倭の五王の時代には、任那のみならず、百済や新羅まで臣従させ、高句麗とも戦ったことを確認した。倭の朝鮮半島におけるプレゼンスは、雄略天皇の時がピークで、その後低下し、任那は、百済と新羅によってその領土が蚕食され、562年に新羅によって滅ぼされる。その後も倭に対する形式的な調は続いたが、663年の白村江の戦に敗れ、半島利権の回復はおろか、自国の存続までが危うくなった。

古代日本の半島経営失敗の原因は何か。もちろん、雄略天皇以降の政治的混乱も原因の一つに挙げてもよいが、それ以上に致命的であったのは、日本の外交には遠交近攻策が欠如していたことだ。もしも、日本が高句麗と結んで、間にある百済と新羅を挟撃し、両者が滅びた後、今度は、唐と結んで、間にある高句麗を挟撃して、滅ぼせば、日本は、朝鮮半島の大半を支配できたであろう。遠交近攻策を取らずに、文化的な近さから、百済との善隣外交に終始したことが、日本の失敗の原因であった。対照的に、遠交近攻策で成功したのは、新羅である。新羅は、唐と結んで、間にあった高句麗と百済を挟撃して、滅ぼし、唐と国境を接するようになると、倭と和解して、背後の脅威をなくし、唐の半島支配に抵抗した。

秦が遠交近攻政策で中国を統一して以来、この戦略は外交の世界では常識のはずなのだが、日本は、古代から現在に至るまで、この発想がない。今でも、日本の政治家たちは、中国と善隣外交をすれば、自国の平和が維持できるというナイーブな考えから抜け出すことができない。中国を牽制するには、中国と背後で敵対するインドと手を結ぶ必要があるのだが、そう提案する政治家は少ない。日本が外交三流国と言われる所以である。

5 : 参照情報

  1. Map of Baekje” by Evawen is licensed under CC-BY-SA.
  2. 金泰植.「古代王権の成長と韓日関係 ―任那問題を含んで―」.『日韓歴史共同研究委員会 第2期報告書, 第1分科会篇』. p.270.
  3. “百濟遣下部杆率汶斯干奴上表曰。百濟王臣明及在安羅諸倭臣等任那諸國旱岐等奏。以斯羅無道。不畏天皇與狛同心欲殘滅海北彌移居。臣等共議遣有至臣等仰乞軍士。征伐斯羅。而天皇遣有至臣帥軍以六月至來。臣等深用歡喜。” 舎人親王.『日本書紀』巻十九欽明天皇十五年十二月.『新編日本古典文学全集 (3)』. p.430-431.
  4. “夫任那者以安羅爲兄。唯從其意。安羅人者。以日本府爲天。唯從其意。〈百濟本記云。以安羅爲父。以日本府爲本也。〉” 舎人親王.『日本書紀』巻十九欽明天皇五年三月.『新編日本古典文学全集 (3)』. p.390-391.
  5. 舎人親王.『日本書紀』巻九神功皇后摂政三九年, 四十年, 四三年.『新編日本古典文学全集 (2)』. p.450-451.
  6. 『詳説日本史図説』. 浜島書店. 1991年. p.14.
  7. “韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接、方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。” 陳寿.『三国志』魏書三十, 烏丸鮮卑東夷伝.
  8. “從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。始度一海、千餘里至對馬國。” 陳寿.『三国志』魏書三十, 烏丸鮮卑東夷伝.
  9. “其西北界拘邪韓國。” 范曄.『後漢書』列伝第七十五, 東夷.
  10. “使譯所通三十國。” 陳寿.『三国志』魏書三十, 烏丸鮮卑東夷伝.
  11. “馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。” 范曄.『後漢書』列伝第七十五, 東夷.
  12. “卞韓以國來降。” 金富軾.『三國史記』卷一, 新羅本紀, 第一. 十九年, 春正月.
  13. “皆屬於辰韓。” 房玄齢, 李延寿.『晉書』 卷九十七, 列傳第六十七, 四夷傳. 馬韓 辰韓 弁韓.
  14. “西鄰百濟南接加耶。” 金富軾.『三國史記』卷一, 新羅本紀, 第一. 八年, 秋七月.
  15. “倭女王卑彌乎遣使來聘。” 金富軾.『三國史記』卷二, 新羅本紀, 第二.
  16. “倭人殺舒弗邯于老。” 金富軾.『三國史記』卷二, 新羅本紀, 第二.
  17. 金富軾.『三國史記』卷四十五, 列傳第五, 乙巴素 金后稷 祿眞 密友 紐由 明臨答夫 昔于老 朴堤上 貴山 溫達.
  18. 舎人親王.『日本書紀』巻九, 神功皇后摂政前紀, 仲哀天皇九年十二月.『新編日本古典文学全集 (2)』. p.432-3.
  19. “百残新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百残[而潰新]羅以爲臣民以六年丙申王躬率水軍討科残國軍。[中略]九年己亥百残違誓與倭和通王巡下平穰而新羅遣使白王云倭人満其國境潰破城池以奴客爲民歸王請命。[中略]十年庚子敎遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭満其中官兵方至倭賊退。[中略]十四年甲辰而倭不軌侵入帯方界。[中略]王憧要截盪刺倭寇潰敗斬殺無數。” 『好太王碑文
  20. 金泰植.「古代王権の成長と韓日関係 ―任那問題を含んで―」.『日韓歴史共同研究委員会 第2期報告書, 第1分科会篇』. p.209.
  21. “渡平海北九十五國。” 沈約.『宋書』卷九十七, 列傳第五十七, 夷蠻.
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