7月 142010
 

大和(やまと)は、本来「山処」で、「山のような高い場所」という意味なので、日本神話における「高天原」の概念と同じである。アマテラスが高天原に君臨していたという神話は、卑弥呼が邪馬台国を都としていたという史実に基づいている。そして、≪甘木=天城≫は、≪山処=高天原≫の有力な候補である。

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Fig.01. 龍王山城の北城本丸から見た奈良盆地。手前に見えるのは、櫛山古墳で、その南に纒向遺跡がある。ヤマトは、狭義には、奈良盆地の東南地域(纒向遺跡がある場所)を指す言葉である。広義の用法としては、現在の奈良県に相当する地域が、大和国(やまとのくに)と呼ばれ、最広義の用法としては、日本全体が「ヤマト」と呼ばれる。

1 : 大和とヤマトの関係

我が国の国号が「日本」になる前、日本人は自分の国を「ヤマト」と呼んでいた。今日、大和と書いて、「ヤマト」と読み、狭義には奈良県内の箸墓古墳があるあたりを指すのだが、日本全体を指す慣例は、大和撫子(やまとなでしこ)などの表現に残存している。自称「うちなんちゅう」の沖縄人は、内地(沖縄以外の日本国)の人間を「やまとんちゅう」と呼んでいる。また、大日本帝国を代表する最大の戦艦は「大和」と命名された。「大和」は、音読みでも訓読みでも、「ヤマト」とは読めない。それにもかかわらず、「大和」を「ヤマト」と読むようになったのは、なぜなのか。

かつて、「日本」という国号が確立する前、中国は、日本を「倭(わ)」と呼んだ。これは、日本語の一人称を固有名詞と誤解して付けられた、日本列島の他称であった。今日の日本語の一人称である「わたし」「われ」「われわれ」にその痕跡を残していることからもわかる通り、日本語の一人称は「わ」であった。日本語の「わ」には、もう一つ「輪」あるいは「環」という意味がある。弥生時代には、周囲に堀をめぐらせた環濠集落が多くあり、そうした環濠によって境界付けられた内部の共同体が「わ」であったのだ。

それなら、「わ」は一人称複数形なのかと言えば、そうではない。古代の日本語では、印欧語族のように、単数形と複数形の区別がはっきりしない。かつての「わ」の用法は、今日、集団に対する帰属意識が高い人が一人称代名詞の代わりに使う「うち」の用法に近かったと考えられる。境界(わ)によって区別された共同体の内部が「うち」である。複数形であることを強調した「うちら」という表現もなくはないが、通常この言葉は一人称単数か複数化をはっきりさせずに使う。かつての「わ」もそういうように使われていたのだろう。

これに対して、「ヤマト」は、日本列島の中にあった複数の国(わ)の一つの固有名詞であったと考えられる。しかし、その国が、飛鳥時代に全国を統一するに至って、「ヤマト」は、自国を「大きな倭」という意味で「大倭」と漢字表記し、これを「ヤマト」と訓じるようになった(それより前に「倭」を「ヤマト」と訓んだため、「大倭」を「オオヤマト」と訓むこともあるが、一般的ではない)。後に、「倭」には「腰を屈め、低姿勢で舞う女」という意味があって、語感がよくないということで、「倭」の代わりに「和」という漢字を使い、「大倭」を「大和」と表記するようになった。もともと小さな共同体的な国であった「わ」が、統一されて「大和」になったプロセスは、地方豪族の首長である「君(きみ)」の上に「大君(おおきみ)」が君臨するようになったプロセスと同じである。大和(ヤマト)の頂点に立つ大君(オオキミ)は、天武朝の時代に日本を支配する天皇となった。

「倭」や「大和」が「ヤマト」と訓まれるようになったのは、両者が指す対象がたまたま一致するからに過ぎない。それは私が「私」と書いて「ながいとしや」と読ませるようなもので、代名詞と固有名詞の混同に基づく。だから「大和」という漢字表記からは、「ヤマト」が本来どういう意味であったかを窺い知ることはできない。「ヤマト」の語源を知ろうとするならば、日本語本来の意味から考えなければならない。しかし、国内の文献ではせいぜい七世紀ごろにまでしか遡れないので、日本に関してより古い記録がある中国の文献から、「ヤマト」の語源を探らなければならない。

2 : 邪馬台とヤマトの関係

「ヤマト」の文字は、三世紀末に完成した歴史書、『三国志』の魏書東夷伝倭人条に「邪馬臺」とあるのが文献上の初出である。もっともこの見解には異論がある。例えば、古田武彦は、『三国志』魏書東夷伝倭人条に書かれていたのは「邪馬壹國」であり、「邪馬臺國」ではないと主張して、ヤマトとの関係を否定している[1]。「壹」と「臺」は、現在の漢字ではそれぞれ「一」と「台」に相当し、当時も現在と同様、異なる音韻を持っていた。『三国志』が編集された晋の時代(280年ごろ)の中国の音韻システムは、上古音から中古音への移行期に当たる(但し、確定している地名は、中古音の方が適合度が高い)。「邪馬臺」は上古音では[ŋiǎg-mǎg-dəg]、中古音では[yiǎ-mǎ-dəi]、「邪馬壹」なら、上古音では[ŋiǎg-mǎg-.iet]、中古音では[yiǎ-mǎ-.iět]となる[2]。どちらの音韻システムでも、明らかに両者は同じではない。

古田説の支持者、邪馬壹國派は、十二世紀以降の現存する写本にはすべて「邪馬壹」、「邪馬壱」、「邪馬一」とあり、「邪馬臺」あるいは「邪馬台」とは書かれていないことから、存在したのは邪馬台国ではなくて邪馬一国だと主張する。ところが、五世紀の『後漢書』には「邪馬臺國」とあり、七世紀の『隋書』には「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」、『北史』には「居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也」とある。書いてあることはほぼ同じで、書き下すと「邪摩[靡]堆を居[都]とする。則ち、魏志が謂う所の邪馬臺なり」となる。それなら、「邪馬壹」とは「邪馬臺」のことで、かつ、それは『隋書』や『北史』が編集された当時(飛鳥時代)の大和朝廷の前身であるということになるのではないか。

邪馬壹國派の塚田敬章は、『後漢書』倭伝に「案今名邪摩惟音之訛也」という注があることを指摘して、これに反論している。

隋書にしたがえば、「魏志には邪馬臺国と書いてあった」ことになります。言葉通り受け取る人もいますが、そう簡単にはいかない。後漢書(百衲本)の、「大倭王は邪馬臺国に居す。」という記述に、「今名を案ずるに、邪摩惟音の訛なり。」という唐の李賢注が続くからです。訛は言葉が誤って変化したことを表す文字です。より古い邪摩惟(ヤバユイ)音の伝承があり、それが変化して今名(唐代)のヤバタイ(邪馬臺、邪靡堆)になったのだとされ、そして、後漢書に百数十年先立つ魏志が邪馬壹国と表記している事実があるわけです。[3]

塚田は「賢注の入れられた頃の「臺」「堆」は同音です」と言い、『三国志』に書かれている「邪馬壹=邪摩惟」が本来の音で、それが今の「邪馬臺=邪靡堆」に訛ったというように解釈する。だから後世の歴史書が「邪馬臺」という訛りの音写を採用しているからと言って、『三国志』が編集されていた頃は「邪馬壹」であったことと矛盾しないというのである。

しかし、塚田の主張は正しくない。まず「臺」と「堆」は、当時同音ではなかった。元朝時代の近古音(中原音韻音系)ではともに[t’ai]であるが、『隋書』や『北史』が編集され、李賢が注を書いた七世紀は中古音の時代であり、「臺」は[dəi]と発音され、「堆」は[tuəi]と発音され、明確に区別されていた。また「邪摩惟」が「邪馬壹」の伝承というのも正しくない。「壹」の中古音は[.iět]で、「惟」の中古音は[yiui]で、両者の間に伝承の関係があるとは言えない。李賢が『三国志』の「邪馬壹」を意識しているのなら、「邪摩惟」とは書かずに、「邪馬壹」と書くはずだ。

では、李賢は、何を意識して「邪摩惟」と書いたのか。李賢は、684年に31歳で死去した人物で、『北史』が正史として公認された659年よりも後に注を記している。李賢は、『北史』倭国伝に「居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也」とあるのを読み、「邪摩堆 yiǎ-mua-tuəi」と「邪馬臺 yiǎ-mǎ-dəi」との音韻の違いに気づき、『後漢書』倭伝に、現在の「邪摩堆」という音は「邪馬臺」の訛だろうという注を書いたと考えられる。そして「邪摩堆」と書く際、「堆」と字体の似た「惟」に書き間違えたのだろう。

塚田は、「案今名邪摩惟音之訛也」を「今名を案ずるに、邪摩惟音の訛なり」と書き下すが、私は、この漢文を「案ずるに、今の名の邪摩惟は、音の訛なり」と書き下したい。つまり、「今名」と「邪摩惟」を同格とする。こうすれば、「今の邪馬臺は昔の邪摩惟が訛ったものだ」ではなくて「今の邪摩惟[堆]は昔の邪馬臺が訛ったものだ」の意味になる。「音の訛」は日本人には冗語に思えるかもしれないが、「訛」には「変わる」という意味しかなく、「なまり」の意味にするには「音の訛」としたり「訛音(かおん)」という熟語を使ったりしなければならない。

李賢が推測した訛は実際に起きたのだろうか。ここで日本の文献に目を転じよう。日本の最古の文献は、八世紀の前半に成立した記紀である。編集が完成したのは、八世紀前半だが、収集した史料は飛鳥時代(592年 – 710年)のものと考えられている。ヤマトは、『古事記』では「夜麻登」、『日本書紀』では、「揶莽等」、「野麼等」、「野麻登」、「夜摩苔」、「夜莽苔」と万葉仮名で表記されている。万葉仮名文献には、上代特殊仮名遣と呼ばれる、現在使われている音韻である甲類とは別に、乙類と呼ばれる古典期以降使われなくなった仮名があったことが知られている。ヤマトを表す万葉仮名の三番目はどれも乙類の「ト」を音写する漢字である。

乙類の「ト」がどのような音韻であったかは、今となってはわからないが、服部四郎は、奄美大島の方言の中にオ段の甲類と乙類の区別に対応する区別が存在していると主張し、オ段の乙類を円唇中舌半狭母音の[ɵ]と推定した[4]。[ɵ]は「オ」と「イ」の中間母音で、乙類の「ト」は、「トィ」と書くことができる。但し「ヤマト」の「ト」を表す漢字の中古音を調べると、「登 təŋ」と「等 təi」は清音だが、「苔 dəi」は濁音である。このことは、飛鳥時代に乙類の「ト」が「ドィ」から「トィ」へと訛ったことを示唆している。

そうした訛は実際に起きたのか。手掛かりは東北弁にある。「的」は標準語では「マト」だが、東北弁では「マド」で、「窓」は標準語では「マド」だが、東北弁では「マド」となる。このように東北弁では、母音に挟まれたカ行とタ行子音は、標準語のように“清音/濁音”ではなく、“濁音/入り渡り鼻音”が示差的特徴となる。柳田國男の方言周圏論[5]に従うなら、東北や奄美大島のような一番外の周圏には一番古い日本語の特徴が残存している可能性がある。「マド」が「マト」になったように、「ヤマドィ」が「ヤマトィ」へと訛ったことは十分考えられる。

現存する『三国志』がすべて「邪馬臺國」ではなくて「邪馬壹國」と記していることを説明する有力な仮説として避諱説がある。避諱(ひき)とは、目上の者の実名(諱 いみな)を用いることを忌避する漢字文化圏の慣習で、特に皇帝の諱は厳格に避けられた。「臺」は諱ではなかったが、魏帝の宮殿を意味したことから、諱に準じる扱いを受け、『三国志』は「臺」の字を避けたというのだ。実際、『三国志』呉書では、西戎族国出身者の「聖臺」が「聖壹」に書き換えられている[6]。魏書東夷伝でも「臺」の字は専ら「魏帝の宮殿」の意味で使われ、「邪馬臺國」や「臺與」の「臺」はすべて「壹」で置き換えられている。後続の歴史書は、避諱のルールがわかっていたので、本来の文字に戻したのだろう。

私の推測をまとめるなら、以下の経緯で「邪馬台」は「ヤマト」になった。

  1. 三世紀の卑弥呼の時代、彼女の都とその国は「ヤマドィ」と呼ばれていた。魏の使者(張政)は「邪馬臺 yiǎ-mǎ-dəi」で音写したが、『三国志』魏書は「臺」を「壹」で置き換えて「邪馬壹國」と記した。
  2. ヤマドィの呼称は飛鳥時代にも継承されたが、「ヤマドィ」が訛って「ヤマトィ」へと無声音(清音)化した。
  3. 七世紀になって、日本人の遣隋使や遣唐使が中国に行き、自国の都を「ヤマトィ」と称するようになった。この新情報を得て、『隋書』俀国伝はそれを「邪靡堆 yia-miĕ-tuəi」と音写したが、『北史』倭国伝は「靡」の間違いを訂正して「邪摩堆 yia-mua-tuəi」とし、それを「邪馬臺」と同一視した。
  4. 李賢は『北史』倭国伝を参考に、今の「邪摩堆 yia-mua-tuəi」は「邪馬臺 yiǎ-mǎ-dəi」が訛ったものだという注を『後漢書』倭伝に付け加えようとしたが、その際、「堆」を「惟」と書き間違えた。
  5. 平安時代になって、乙類が甲類化し、「ヤマトィ」は「ヤマト」になり、今日に至る。

要するに、『三国志』の「邪馬壹國」は「邪馬臺國」と同じであり、かつ邪馬台国の王統は大和王朝に引き継がれたというのが私の結論である。邪馬台国が狗奴国に滅ぼされたと主張する説もあるが、卑弥呼の時代以降、日本を統一した王権が「ヤマト」を自称したこと、『日本書紀』が、卑弥呼を神功皇后に比定し、自分たちの皇統の中に位置付けようとしていることを考えるならば、邪馬台国と大和政権は連続していると考えるべきである。このことは、しかしながら、必ずしも邪馬台国畿内説を帰結しない。日本神話が語り伝えるように、九州にあった邪馬台国が、「東征」して、畿内に移転したとする東征説と両立可能であるからだ。私は「卑弥呼の墓はどこにあったのか」で、福岡県糸島市にある平原遺跡1号墓を卑弥呼の墓の有力候補として挙げたので、邪馬台国九州説の立場から、ヤマトの本来の位置を探ってみたい。

3 : ヤマトの語源

「ヤマト」の語源に関しては、様々な説がある。筑後の山門(福岡県柳川市・みやま市)や肥後の山門(熊本県菊池市)や豊前の山戸(大分県中津市・宇佐市)といった九州に散在する「やまと」の地名から来たという説もあるが、「門」や「戸」の「ト」は甲類なので、邪馬台には直接つながらない。甲類の「ト」には、「外」もある。「門」や「戸」は家の外に向けて置かれるのだから、二つの甲類の「ト」は意味内容上の連関がある。これらは、「山の外に存在する、山への入り口」という意味で付けられた地名と考えられ、魏書東夷伝倭人条が謂う所の「女王の都する所」の名称としてふさわしくない。

「ト」が乙類であることを意識するならば、「ヤマ」を「山」、「ト」を場所の意味の「処(所)」とみなした方がよい。すなわち、「ヤマト」は、本来「山処」あるいは「山所」と表記されるべきなのである。なお、場所の意味の「処(所)」は、単独では、甲類の「と」であるが、「ところ」や「ほと」のような複合形においては、「と」は乙類になる。「ところ」の場合、「こ」も「ろ」もすべて乙類なので、同化現象と見られている[7]が、「ほと」の場合、「ほ」に甲乙の区別がないので、この説明は使えない。「陰」という意味の「ほと」が乙類なのは、「程」という意味の甲類の「ほと」と区別するためと考えられる。「山処/山所」の乙類も、甲類の「山門/山戸」との区別をはっきりさせるため示差的特徴とみなすことができる。

「ほと」は、「山処(やまと)」の本来の意味を知る上でも参考になる。陰(ほと)とは、女の陰部のことであるが、女の陰部は、赤くて火のようで、焼畑が新しい作物を育てるように、女陰から新たな生命(火のような赤子)が生まれることから、日本神話においては、火と関係付けられており、「ほと」は、本来、「火(ほ)のような場所」という意味だったと推測できる。同様に、「やまと」は、「山のような高い場所」という意味だったと考えられる。

「山のような高い場所」といっても、邪馬台国が、海抜高度の高い山の上にあったということではない。日本には、古くより、山を女神が支配する神聖な常世とみなす伝統があり、「山処」という名称も、こうした宗教的象徴に基づいて解釈しなければならない。すなわち、「山のような高い場所」とは、「女王の都する所」ゆえに、崇高かつ神聖な場所ということである。だから「山処」は、日本神話において天上界を意味する「高天原」の概念と同じである。女神であるアマテラスが高天原に君臨していたという神話は、卑弥呼が邪馬台国を都としていたという史実に基づいている。

邪馬台国の有力な候補の一つに、平塚川添遺跡を有する福岡県旧甘木市(2006年3月20日に朝倉町などと合併し、朝倉市となった)がある。平塚川添遺跡は、卑弥呼の時代に営まれていた大規模な低地性の多重環濠集落で、そこでは、卑弥呼が居住していたと考えられる祭殿や首長館の跡が見つかっている。「甘木(あまぎ)」は当て字で、本来「天城(あまぎ)」という意味で付けられた地名だったのだろう。木(き)と城(き)は同じ乙類である。卑弥呼が居住していた≪山処=高天原≫の居城と考えるならば、「天城」という地名は、邪馬台国の中枢の地名にふさわしいということができる。

ヤマトが本来平塚川添遺跡にあったとするなら、なぜその地に乙類の「ヤマト」が地名として残らなかったのかと疑問に思う向きもあるだろう。一つ理由として考えられるのは、当時「山処」は、後の「都」と同様に、固有名詞というよりも普通名詞として認識されていたということだ。かつて「みやこ」と呼ばれていた場所も、遷都後は「みやこ」とは呼ばれなくなり、別の地名で呼ばれるようになる。同様に、卑弥呼の時代に「山処」と呼ばれていた場所も、遷都後はそう呼ばれなくなり、別称であった「天城」が地名として使われるようになったのではないか。奈良時代になると「ヤマト」の本来の意味が忘れられるようになり、奈良盆地の東南地域を指す固有名詞として定着したと考えれば、なぜ今日乙類の「ヤマト」がそこにしかないかが説明できる。

かつて乙類の「ヤマト」が甘木にあったとして、それが甲類「ヤマト」とどのような位置関係にあったかを確認してみよう。以下の Fig.02 は、九州の衛星写真上に、乙類の「ヤマト」である平塚川添遺跡(1)と甲類の「ヤマト」である筑後の山門(2)、肥後の山門(3)、豊前の山戸(4)の位置を書き込んだものである。これを見ると、三か所の甲類の「ヤマト」、「山の外に存在する、山への入り口」は、「山のような高い場所」である乙類の「ヤマト」を取り囲むように存在していることがわかる。実際、乙類の「ヤマト」が邪馬台国連合の中枢であったのに対して、甲類の「ヤマト」は邪馬台国連合の辺境に位置し、かつその入口になっていたと考えられる(特に、3 は南の狗奴国との境界線上にあったことだろう)。

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Fig.02. 乙類の「ヤマト」と甲類の「ヤマト」の位置関係。1. 平塚川添遺跡(福岡県朝倉市平塚)、2. 筑後の山門(福岡県柳川市・みやま市)、3. 肥後の山門(熊本県菊池市)、4. 豊前の山戸(大分県中津市・宇佐市)。九州付近のTerraによる衛星写真(2009年10月27日)の一部から作成[8]

甘木市の近くを流れる筑後川の支流は、かつて「安(やす)川」とよばれ、その名残は、夜須(やす)町や安川村という地名として今日にも残っているが、この安川は、日本神話に登場する「天安河(あめのやすのかわ)[9]」に相当する。また、日本神話に登場する「天香山(あめのかぐやま)[10]」は、福岡県朝倉市にある高山(こうやま)に相当する。高山は、かつては「香山」と書かれ、「香具山」と呼ばれていた[11]。甘木市周辺には、この他、岩屋、岩戸、金山などの地名もあり、高天原での出来事は、甘木市周辺での出来事であったと推測することができる。

安本美典が説く通り、甘木を中心とした北九州地方の地名と畿内の大和を中心とした地名に多くの類似があり、発音がほとんど一致しているだけでなく相対的な位置関係もほとんど同じである。

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Fig.03. 九州における夜須町のまわりの地名[12]
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Fig.04. 畿内における大和郷のまわりの地名[13]

こうした地名の一致は、かつて甘木に存在した王朝が畿内に移住した際、故郷の地名をそのまま持ち込んだためと考えられる。もちろん、その逆も理論的にはありうるが、安本は、『古事記』の神話にでてくる地名のうち、九州の地名が一番たくさん出てくることを根拠に、九州が大和朝廷のホームグラウンドであったと主張している。考古学的にも、邪馬台国東遷説を支持する材料がある。邪馬台国東遷説を本格的に論証したと言うにはまだ材料不足だが、本試論は、言語分析的な側面からそれに傍証を与えることができたと思う。

4 : 参照情報

  1. 古田武彦.『「邪馬台国」はなかった』. 朝日新聞, 1992.
  2. 藤堂明保.『学研漢和大字典』. 学習研究社, 1978. 以下、漢字の上古音、中古音、近古音に関してはこの辞書を参照する。
  3. 塚田敬章.「邪馬壹国説を支持する史料と解説」. 東亜古代史研究所. accessed 2016/1/20.
  4. 服部四郎.『日本語の系統』. 岩波書店. 1999. p.88-95.
  5. 柳田國男.『蝸牛考』. 刀江書院. 1930年.
  6. 陳寿.『三國志』卷51. 吴書. 宗室传. 孫賁.
  7. 白川静.『字訓 新装普及版』. 平凡社, 1999. p.532.
  8. NASA. “Terra/MODIS 2009/301 01:55 UTC”. accessed 2016/1/23.
  9. 舎人親王.『日本書紀』巻一第五段一書.『新編日本古典文学全集 (2) 日本書紀 (1)』. p.73.
  10. 舎人親王.『日本書紀』巻一第七段本文.『新編日本古典文学全集 (2) 日本書紀 (1)』. p.77.
  11. 安本美典.『邪馬台国と高天(たかま)の原伝承―「邪馬台国=高天の原」史実は国内で神話化した 』. 東京: 勉誠出版, 2004. p.157-158.
  12. 安本美典.「神話のなかの地名」.『邪馬台国東遷説』 第三章. 邪馬台国の会. accessed 2016/1/22.
  13. 安本美典.「神話のなかの地名」.『邪馬台国東遷説』 第三章. 邪馬台国の会. accessed 2016/1/22.
追記

本稿は、2010年07月14日に公開した原稿を大幅に改訂して、2016年01月25日に公開したものです。

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