4月 292011
 

直交座標システムは、デカルト座標システムとも呼ばれるが、その名は、フランスの数学者にして哲学者のルネ・デカルトに因んで付けられている。しかし、デカルトは、最初にデカルト座標システムを考案したのでもなければ、最初にデカルト座標システムに基づいた解析幾何学を創設したのでもなかった。しかしそれでもなお、デカルト座標システムという呼称は不適切とは言えない。なぜならば、デカルト座標は、デカルトの哲学を数学へと応用したものだからだ。

1 : デカルト座標システムを最初に考案したのは誰か

デカルト座標システム(Cartesian coordinate system)とは、原点で直交する座標軸との距離により点の位置を同定する数学的なシステムである。以下の図は、二次元(左)および三次元(右)のデカルト座標システムである。

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Fig.01. 二次元(左)および三次元(右)のデカルト座標システムによる点の同定の例。[1]

デカルトという名は、フランスの数学者にして哲学者のルネ・デカルトに因んで付けられている。この名称のおかげで、デカルトは、デカルト座標システムの最初の考案者と一般に思われており、ベッドで寝ていたデカルトが、天井を動き回るハエの位置を追跡するためにこのシステムを思いついたというもっともらしい伝説までが流布している。

しかし、デカルトは、彼のどの著作において「座標」という言葉を使わなかったし、座標のアイデアを明示的に説明したこともなかった。もとより、彼が、ピエール・ド・フェルマーとともに、デカルト幾何学とも呼ばれる近代的な解析幾何学の創始者であったことは確かである。幾何学は、古代ギリシャにおいて盛んに研究されたが、幾何学的な真理が代数学的に解析されることはほとんどなかった。既知の長さを“a, b, c, …”、未知の長さを“x, y, z, …”といったアルファベットに置き換え、曲線を方程式として表現するという今日でも受け継がれている手法は、デカルトによって始められた。

以下の図で、デカルトの1637年の著作、『幾何学』から引用した、解析幾何学の一例を紹介しよう。

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Fig.02. デカルトによる解析幾何学の一例。[2]

AG, KL, NL の長さは一定で、それぞれ a, b, c とし、AB, BC の長さは、棒がGを中心に回転することで変化するので、x, y とすることにする。すると、点Cが描く軌跡は、以下のような、x, y を変数とする二次方程式になる。

y^2=cy-\frac{c}{b}xy+ay-ac

もしもAKとAGを、原点Aにおいて直交するx軸とy軸とみなすならば、この式は、デカルト座標システムによって位置付けられた点Cの軌跡の関数ということになるが、デカルト自身は、x, y を可変的な長さとしか考えておらず、座標軸という発想はない。線を、縦座標(ordinata)と横座標(absciss)が直交する座標(coordinata)からの距離によって位置付けられる関数(functiones)として明確に捉えたのは、1692年のゴットフリート・ライプニッツの論文[3]が最初である。

デカルトは、座標システムについて著作で明示的に説明しなかっただけで、実際にはそれを前提にして方程式を立てたのではないかと想像する人もいるだろう。だが、仮にそうだとしても、デカルト座標システムの最初の考案者がデカルトだということにはならない。デカルト座標システムと同様の同定システムは、デカルト以前から存在したからだ。

例えば、エラトステネスが紀元前194年に製作した地図で用いられた経線と緯線のシステムは、直交座標システムである。地球は球体であるから、経線と緯線による同定システムは、そのままでは直交座標システムであっても、デカルト座標システムではないのだが、エラトステネスは、地球が球体であることを認識しており、円筒図法により、球面を平面へと投射して、以下の図のような経線と緯線とを備えたデカルト座標システムによって世界各地を位置付ける地図を作成したと考えられる。

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Fig.03. エラトステネスによって製作された世界地図(近代における複製品)。[4]

デカルトは、最初にデカルト座標システムを考案したのでもなければ、最初にデカルト座標システムに基づいた解析幾何学を創設したのでもなかった。では、デカルト座標システムという呼称は廃止するべきだろうか。その必要はない。なぜならば、デカルト座標システムは、デカルト哲学の数学への応用とみなすことができ、その意味では、デカルトの名を冠する意味があるからだ。このことを確認するために、ここでデカルト哲学の内容を改めて概観してみよう。

2 : デカルトはどのように学的認識を基礎付けたのか

デカルトは、『方法序説』において、真理に到達するための四つの準則を提案している。

第一の準則は、明証的に真理であると認めるものでなければ、どんなことでも真理として受け入れないこと、つまり、注意深く即断と偏見を避け、全く疑いの余地がないほど明晰かつ判明に私の精神に現われるもの以外は決して自分の判断に包含させないことである。

第二の準則は、吟味しようとする難問の各々を、より良い解決のために必要なだけ、できるだけたくさんの小部分に分割することである。

第三の準則は、最も単純で最も認識しやすいところから始めて、少しずつ段階的に最も複雑なものの認識に到り、また本来秩序のない事物の間に秩序を仮定しながら、私の思考を秩序だって導いていくことである。

最後の準則は、すべてにわたって何一つ見落とさなかったと確信するほど完全に列挙し、広範囲に再検討することである。[5]

一番目と二番目は順序が逆である。学的認識は不確定性から始まるのであり、私たちは、不確定性に直面した後、その不確定性を縮減するために全体を要素へと分解し、最も確実な要素から始めて、確実性の領域を広げていくのである。デカルトの哲学と引用した準則を対応付けるならば、方法論的懐疑のプロセスは第二準則に従っており、「我思うゆえに我あり」の発見は第一準則の結果で、神の存在証明と科学の基礎付けは第三準則に基づいており、科学的知識の検証は第四準則の実行ということになる。以下、この順番にデカルトの哲学的方法を要約しよう。

デカルトが最も確実と考えたのは、考える物(res cogitans)としての自我であった。自我の意識の存在は、自我の意識にとって、徹底的な懐疑にもかかわらず、否むしろそれゆえに、疑うことのできない所与であり、これをデカルトはあらゆる学問の出発点として選んだ。もとより、デカルトの意識の存在がデカルトの意識にとって自明であったというだけのことならば、それは真理の名に値しない真理であり、だから、デカルトは、そこから出発しながら、神の存在証明を行い、それによって認識の正しさを基礎付けようとした。デカルトによれば、自分の意識の存在しか確実に知ることができない有限な存在者ですら存在するのであるから、無限な存在者、すなわち全知全能の神は、その完全性ゆえに、存在しないことはありえない。

また、私は無限な存在者を真の観念によって知覚するのではなく、静止や闇を運動や光の否定によって知覚するのと同じように、たんに有限な存在者の否定によって知覚するなどと思ってもいけない。なぜなら、逆に無限な実体の内には有限な実体の内よりも多くの実在性があり、したがって無限な存在者の知覚は有限な存在者よりも、つまり、神の知覚は私自身の知覚よりもいわば先なるものとして私の内にあることは明瞭に理解できるからである。[6]

これは、所謂本体論的証明で、証明としては正しくないのだが、ここではそれ以上立ち入らないことにしよう。デカルトは、自分を欺く神を想定して、数学的真理まで疑ったのだが、完全な神が存在するのであれば、その神の誠実性さゆえに、世界に対する正しい認識を得ることができる。

すなわち、まず、私は、神がいつか私を欺くということはありえないと認める。なぜならば、すべての欺瞞や詐欺のうちには何らかの不完全さがあるからだ。欺きうるということは聡明さや力の証拠であるかのように見えても、欺こうとすることは、疑いもなく悪意か弱さの証であり、だからまた、それは神のうちに見出されえないのである。

次に、私は、私の内に判断能力があることを経験するが、これはたしかに、私の内にある他のすべてのものと同様に、私が神から受け取ったものである。そして神が私を欺くことを望まないのであるから、神は、もちろんこの能力を、正しく使用しても誤りうるようなものとして私に与えなかったはずである。[7]

このように、考える物としての自我から出発し、全知全能の神を媒介として、世界に対する正しい認識に到達するというのがデカルト哲学の方法である。

3 : デカルト座標システムはなぜその名に値するのか

以上、デカルトがどのように認識の正しさを基礎付けたかを確認したが、デカルト座標システムがどのように幾何学的真理を基礎付けているかに関しても、同様の方法を見て取ることができる。このことを確認することで、デカルト座標システムがなぜデカルト的なのかを説明しよう。

デカルト座標システムにおいて、デカルト哲学の出発点である自我に相当するのは、原点である。この対応付けは私の恣意的な思い付きではない。なぜならば、個体発生的にも系統発生的にも、原点の原点は自我だからだ。すなわち、視覚的に与えられた三次元空間における原点は、原初的には自我の位置にあり、物理的に自我の位置にない場合も、他我の立場に自我を想像的に置くことで三次元空間の位置付けが理解されているのである。

デカルトやエラトステネス以前から、人類は、上と下、前と後、右と左という概念的区別を行ってきた。このことは、太古より人類は、自我を原点とし、重力の方向を上下の軸とし、それとは垂直な視線の方向を前後の軸とし、二つの軸と垂直な方向を左右の軸とする素朴なデカルト座標システムによって、定量的でないにしても定性的に空間内の存在者を位置付けてきたことを示している。

自我を中心として開ける三次元の視界は、パースペクティブ的に歪められた三次元空間の二次元網膜への射影に基づいており、対象を必ずしも正しくは代表象していない。全知全能の神ならば、すべての対象を一瞬のうちに正しく直観的に把握できるのだろうが、有限な認識能力しか持たない人間には、そのようなことは不可能である。人間にできることは、主観的な原点から出発しながら、原点を変え、視界を変えることで、より客観的な認識に近付いていくことである。

このことを、二次元デカルト座標の簡単な例で確認しよう。以下の図には、黒の座標軸と赤の座標軸があり、どの座標軸を選ぶかで、青色で描かれた三角形ABCとその重心Gの座標は異なってくる。

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Fig.04. 座標軸の選択.

黒色で描かれた座標軸の原点を起点に各点のベクトルを a, b, c, g とすると、O, A, B は一直線上にあるので、以下の式が成り立つ。

\mathbf{b} =k\mathbf{a}

また、三角形ABCの重心 G に関しては、以下の式が成り立つ。

\mathbf{g} =\frac{\mathbf{a}+\mathbf{b}+\mathbf{c}}{3}

次に、赤色で描かれた座標軸の原点を起点に各点のベクトルを a, b, c, g とすると、上の式は成り立たないが、下の式は成り立つ。もしも眼が黒のOの位置にあるならば、AとBが同一と錯覚するだろうが、赤のOの位置から見ればそうした間違いは是正される。A, B, C, G の座標は、原点と座標軸の位置によって変わるが、A, B, C と G の間に成り立つ関係は、原点と座標軸の位置とは無関係に成り立つ。しかし、それを証明するためには、どこかに原点と座標軸を設定しなければならないので、座標軸に依存しない真理であっても、座標軸を必要としない真理ではない。

有限な存在者である自我が有限な原点だとするならば、無限な存在者である神は無限に延びる座標軸で、自我が神を媒介に認識する世界はその座標軸によって位置付けられる空間全体ということになる。座標軸が無限ならば、その座標軸を媒介にして、有限な原点と無限の空間が結び付けられる。しかし、それだけでは、全知全能の神の水準に到達したことにならない。神の完全性に近付こうとするならば、自我は原点という特異点から出発しつつも、その特異性を越え、普遍的真理を得なければいけない。

デカルトは、哲学においてのみならず、幾何学においても、普遍性を追求した。この二次方程式は、『幾何学』から引用したこの図における、AKとAGをx軸とy軸とした時の方程式であるが、x軸とy軸をどのように設定しても、点Cの軌跡が二次関数であるということには変わりがない。曲線を、デカルト以前において行われていたように、曲線を描く道具で分類するのではなく、その方程式の次数で分類するべきだというデカルトの主張は、今日でも受け継がれている。

もしもデカルトが、哲学で行ったのと同じ根本的な基礎付けを幾何学でも行っていたならば、デカルトは名実共にデカルト座標システムに基づくデカルト幾何学の創設者になっていただろう。しかし、デカルトはデカルト座標システムを自覚しておらず、その仕事は、デカルトの哲学と幾何学の両方の後継者であるライプニッツによってなされたというのが歴史的事実である。

4 : 参照情報

  1. K. Bolino and Jorge Stolfi.
  2. La Géométrie (page) 321 (author) René Descartes.
  3. De linea ex lineis numero infinitis ordinatim ductis inter se concurrentibus formata, easque omnes tangente, ac de novo in ea re Analysis infinitorum usu (author) Gottfried Wilhelm Leibniz (journal) Acta Eruditorum, vol.11 (date) 1692 (page) 168-171 (media) Mathematische Schriften, Bd. 5, Die mathematischen Abhandlungen (editor) Carl Immanuel Gerhardt (page) 266-269
  4. World map according to Eratosthenes.
  5. “Le premier étoit de ne recevoir jamais aucune chose pour vraie que je ne la connusse évidemment être telle; c’est-à-dire, d’éviter soigneusement la précipitation et la prévention, et de ne comprendre rien de plus en mes jugements que ce qui se présenteroit si clairement et si distinctement à mon esprit, que je n’eusse aucune occasion de le mettre en doute.” Discours de la méthode, Deuxième partie (author) René Descartes (page) 141-142
  6. “Nec putare debeo me non percipere infinitum per veram ideam, sed tantùm per negationem finiti, ut percipio quietem & tenebras per negationem motûs & lucis; nam contrà manifeste intelligo plus realitatis esse in substantiâ infinitâ quàm in finitâ, ac proinde priorem quodammodo in me esse perceptionem infiniti quàm finiti, hoc est Dei quàm meî ipsius.” Meditationes de prima philosophia, Meditatio III (author) René Descartes (page) 24
  7. “In primis enim agnosco fieri non posse ut ille me unquam fallat; in omni enim fallaciâ vel deceptione aliquid imperfectionis reperitur; & quamvis posse fallere, nonnullum esse videatur acuminis aut potentiae argumentum, proculdubio velle fallere, vel malitiam vel imbecillitatem testatur, nec proinde in Deum cadit.” Meditationes de prima philosophia, Meditatio IV (author) René Descartes (page) 2-3
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