11月 242012
 

メルマガ原文の再掲載シリーズ第5回目は、「卑弥呼はなぜ魏の鏡を必要としたのか」です。試論編の「卑弥呼の鏡」に相当しますが、内容を大幅に変更したため、ほとんど別の原稿のようになっています。そこで、原文を参考資料用としてここに掲載することにします。

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三角縁獣文帯四神四獣鏡(椿井大塚山古墳出土)。”Bronze Mirror in Ancient Japan” by Wikiwikiyarou is licensed under CC-BY-SA

1999年11月13日発行のメルマガの内容

STEP1 今週の用語解説:三角縁神獣鏡(さんかくふちしんじゅうきょう)

畿内を中心に4世紀の古墳から大量に出土している鏡。背面が半肉彫りの神人および獣形の文様を持ち、縁の断面が三角形をしているのでこう呼ばれる。

98年1月には、初期ヤマト政権発祥の地、奈良県天理市の大和(おおやまと)古墳群にある古墳時代前期前半(四世紀初めごろ)の前方後円墳・黒塚古墳の竪穴式石室から、三角縁神獣鏡三十二面と中国製の画文帯(がもんたい)神獣鏡一面など大量の副葬品が、埋納当時のままの状態で出土し、話題となった。これで累計の出土枚数は500枚近くになる。

『魏志倭人伝』によると、魏の皇帝は、景初二年(景初三年の間違いとする説あり)に、卑弥呼が遣わした難升米に「銅鏡百牧」を下賜した。邪馬台国が畿内にあったと想定する人々は、三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だと主張しているが、邪馬台国が九州にあったとする人々は、三角縁神獣鏡は国産鏡で、魏の皇帝から賜った鏡は、北九州から多く出土する漢鏡のはずだと主張している。

STEP2 今週のコラム:卑弥呼はなぜ魏の鏡を必要としたのか。

卑弥呼は、238年(または239年)に朝献し、「親魏倭王」の称号とともに金印紫綬や銅鏡などをもらっている。卑弥呼はなぜこの頃魏に朝貢しなければならなかったのであろうか。当時朝鮮半島に日本を脅かす勢力があったわけでもないし、また魏は、それ以前に倭が朝貢した漢とは違って、中国大陸全体を統治する大王朝でもない。卑弥呼はもともと自らのシャーマン的な能力で邪馬台国連合体を治めていたのである。卑弥呼(日巫女)は太陽のような輝きでもって邪馬台国連合体を50年以上も治めたが、彼女が晩年に魏にお墨付きを求めるようになったことは、その輝きに陰りが見えてきたことを意味する。

花粉分析や縄文杉の年輪幅の調査から、西暦240年頃から古墳時代にいたるまで、日本の気候が寒冷化したことが知られている(*)。気候が寒冷化すれば、作物は実らなくなり、食糧不足から社会不安が広まる。これは自然現象である。しかし当時の人は、卑弥呼がかつての若さを失って、霊力がなくなったので、太陽の力が衰えたと考えた。

(*)坂口豊「日本の先史・歴史時代の気候」『自然』1984年4月号

『魏志倭人伝』には、鏡が卑弥呼(および倭人)の「好物」であると記されている。日本史の黎明期は、日本民族の《鏡像段階》と位置付けることができる。以前の号で説明したラカンの鏡像段階論を使って、なぜ卑弥呼が魏の皇帝から鏡を受け取らなければならなかったかを考えてみよう。

158年に皆既日食が発生して、倭が内乱状態となったとき、卑弥呼は、日巫女として混乱を収めた。卑弥呼にとって太陽が大文字の他者であるのだが、その太陽の力が衰えてくるならば、魏の皇帝という別の大文字の他者を必要とする。魏の皇帝から与えられた鏡に映った「親魏倭王」という小文字の他者において、卑弥呼は統治者としての自己同一を成し遂げようとしたのである。ところで、三角縁神獣鏡は、畿内論者が主張するように、卑弥呼の鏡なのだろうか。私は違うと思う。

1.『魏志倭人伝』では、銅鏡百枚を贈ったとあるが、実際には500枚近く見つかっている。発掘が進むにつれて三角縁神獣鏡の数はさらに増えるであろう。また卑弥呼が生きていた時代の魏の年号が入った鏡は9枚しかない。なぜ9枚にしか年号が入っていないのかも謎である。そこで畿内論者のなかには、年号の入ったものだけが本物だと考える人もいる。

2.ところが記年銘鏡にも怪しげなものがある。「景初四年」という実在しない年号の銘入りの鏡が、京都府福知山市の古墳から出土しているのである。また三角縁神獣鏡は、日本で大量に発掘されているのに、中国では1枚も(鋳型すら)見つかっていない。そこで畿内論者は、魏の皇帝が職人を遣わして、倭人の好みに合わせて倭で独自の鏡を作らせたとする特鋳品説を唱える。

3.魏の皇帝が職人を遣わすというのは、ありそうにない話だが、百歩譲って三角縁神獣鏡が特鋳品であると認めても、さらに致命的な欠点がある。中国の考古学者・王仲殊氏は、鏡の様式から「三角縁神獣鏡は、日本に渡った呉の鏡職人が日本で製作したもの」と判断している。そもそも作った年月を鏡に記す習慣も、魏ではなく呉のものである。三国時代の呉は魏の敵国である。魏の皇帝が呉様式の鏡を倭に下賜することは、現代の譬えで言えば、中国の北京政府が、李登輝台湾総統の肖像が刻まれた日中友好記念硬貨を日本に贈るようなもので、おおよそありえない国辱的行為である。奴隷と引き換えに鏡を贈ることは、石油を輸入して自動車を輸出する現在の実利的な貿易とは異なって、象徴的儀礼的な政治的行為である。だから魏の皇帝の名のもとに敵国様式の鏡を贈ったり、まして敵国の職人を派遣するなどということは考えられないのである。

4.畿内論者の中には、三角縁神獣鏡と類似の鏡が朝鮮半島から中国北部にかけても見られることから、三角縁神獣鏡が魏鏡だと主張する人もいる(*)が、それも呉の鏡と考えられる。卑弥呼の朝貢直前に、朝鮮半島北部の楽浪郡を占領していた公孫淵が呉と結び、漢の後継を目指したので、魏は公孫淵を滅ぼしている。公孫淵が呉と同盟を結ぶ際、呉の鏡がその証として贈られた可能性が高い。

(*)福永伸哉「三角縁神獣鏡の系譜と性格」『考古学研究』1991年

5.三角縁神獣鏡=魏王朝特鋳説は鏡の銘文からも否定される。詩や銘は韻文であり、韻を踏むのが原則であるが、三角縁神獣鏡には、魏ではすでに韻を踏まなくなった字を韻字として用いたり、韻文をつくるつもりすらない拙劣な銘文が見られる。

6.卑弥呼は三世紀中頃に死亡したにもかかわらず、鏡はすべて四世紀の古墳から発掘される。畿内論者は、虚偽の年代が鏡に入れられるはずがないというが、銘文の字体から、虚偽が明らかな鏡もある。安萬宮山古墳から出土した「青龍三年」(235年)鏡の「龍」の字の旁(つくり)は「大」となっている。この字体は四-五世紀の中国北朝時代に使用された異体字で、後漢・魏晋朝時代にはなかった字体である。つまりこの鏡は四-五世紀の作品であるということである。

私は、邪馬台国は北九州に存在し、畿内に東遷したと考えている。三角縁神獣鏡は、九州にあった邪馬台国が4世紀初頭に畿内を征服し、現地の豪族と主従関係を結んだとき、連れてきた呉の職人に量産させ、卑弥呼以来の由緒ある中国鏡と偽って彼らに下賜したものとするのが邪馬台国東遷説の説明である。

三角縁神獣鏡の銘文には、 「絶地亡出」 「至海東」とある。呉が滅び西晋王朝が中国を再び統一したのは280年である。呉が280年に滅亡して、呉の鏡職人は新たな活動の場を求めて、鏡の需要が大きい日本に来たと考えられる。呉の鏡職人の渡来と九州勢力の東征は時期的に非常に近い。三国時代が終わると、中国では鏡の生産が急速に衰えて行った理由もこれで説明できる。

STEP3 今週の読書案内

◎ 魏誌倭人伝

http://www.media-j.com/itokoku/gisi/index.html

該当箇所が全文掲載されている。書き下し方に異論なしとは言えないが、原文の写真もついているので、自分で書き下すこともできる。

◎ 邪馬台国の位置と日本国家の起源

http://member.nifty.ne.jp/Washizaki/

このメルマガで、邪馬台国が畿内ではなくて北九州に存在したことを論証しようと思っていたが、自分と同じ考えの電子テクストを発見したので、位置問題については、これに譲ることにした。とても説得的な議論で成り立っているが、いくつか問題点を指摘しよう。

引用:「四分法の方角は90度の幅を持ち、現実の「東南」は東と記すこともあるし、南と記すこともあります。一方、太陽の昇る方角を「東」として基準にすると夏至と冬至では約60度違うので、四分法での 「東」は実に150度(90+60度)の幅を持ちます。」

永井評:60度の幅があるからと言って、60度の誤差があるとは言えない。夏至では太陽は真東から約30度ずれて上る。だから季節の誤差は±30度である。また方向の誤差は、四方位では±45度、八方位では±22.5度である。魏志倭人伝では「東南」という表現が見られることから、八方位で考えるべきで、そうすると誤差は±53度程度にしかならない。四方位で考えれば、65度の誤差はありえるが、短い文のなかで、解釈の都合で、ある時は四方位、ある時は八方位というのは、恣意的な感じがする。

引用:「太陽が昇る方向を基準として 「東]を決める場合のもう一つの落とし穴は、午前中でも6時と11時ごろでは太陽の位置がかなり違うということです。古代人が正確な時刻を把握していたとも考えられず、方向を決める際に一日の中で今何時ごろかを正確に認識していなければ、とんでもない方向誤認を起こす可能性があります。」

永井評:夏至の場合、日の出から時間がたつにつれて、太陽の方向は真東に近づく。したがって、日の出後の時間による誤差は、誤差の幅を拡大するのではなく、逆に縮小するのではないか。

引用:「投馬国の位置・方向問題は、邪馬台国九州説の難問とされてきましたが、筆者の新説で見事に解明できます。」

永井評:魏志倭人伝では、「南、投馬國に至ること、水行二十日」とあり、投馬国が防府だとすると、投馬国は末慮国や伊都国の北東に位置し、65度回転させても南とは言いがたく、せいぜい東南である。また投馬国は、他の国と違って、地名の名残がないのも難点の一つ。

なおこの『邪馬台国の位置と日本国家の起源』の著者に質問のメールを送ったもののまだ返事は来ていません。

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