コミュニケーション・メディアとしての大文字の他者
フォーラムから“コミュニケーション・メディアとしての大文字の他者”を転載します。

投稿者:イス. 投稿日時:2012年2月04日(土) 05:44.
権威としての宗教、芸能人とはいかなる存在かを読んだのですが、至高者、芸能人、スケープゴートなどが何を媒介するコミュニケーション・メディアなのかが具体的に理解できません。
交換としての結婚 永井俊哉 さんが書きました:
経済的交換におけるメディアは貨幣であり、形相は価値であった。認識的交換におけるメディアは言語であり、形相は真理であった。
これに当てはめて、「~交換におけるメディアは大文字の他者(または権力?)であり、形相は~である。」と表現すると、~に当てはまる言葉は何になるのでしょうか?
Re: コミュニケーション・メディアとしての大文字の他者
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2012年2月05日(日) 11:49.
それに関しては、「交換としての結婚」の次のページに相当する「交換としての復讐」を参照してください。それを読めば分かる通り、法的交換におけるメディアは刑罰としての苦痛であり、法的交換における形相、すなわち罪の重さは、刑罰としての苦痛によって計測され、その媒体を通じて加害者と被害者の間で交換されます。権力者は、その交換を可能にする主体で、交換媒体と不可分の関係にあるとはいえ、両者は概念的に区別されるべきでしょう。大文字の他者(Grand Autre)は、ラカンの用語で、本来、幼児にとっての母親に相当するのですが、後にその役割は父親に引き継がれます。権力者が父なるものとして表象されるのはそのためです。
Re: コミュニケーション・メディアとしての大文字の他者
投稿者:イス. 投稿日時:2012年2月07日(火) 23:03.
ご返答ありがとうございます。大文字の他者はメディアではなく、それを可能としている存在であることが理解できました。このトピックのテーマ「コミュニケーション・メディアとしての大文字の他者」という言い方も間違いでした。
「権威としての父親」 永井俊哉 さんが書きました:
空気はそれ自体音でないがゆえに、形相の音を伝えるメディアでありうる。言語はそれ自体真でも偽でもないから、形相である真偽を表現するメディアでありうる。貨幣はそれ自体商品価値を持たないために、形相である商品価値を測定するメディアでありうる。そして鏡についても、鏡自体は特定の映像を持たないがゆえに、あらゆる像を映し出すことができるメディアであると言える。
ラカンは鏡に映し出された像を小文字の他者としているのに対して、大文字の他者という媒介的第三項は鏡それ自体として位置付けている [Lacan: Ecrits, p.678] 。我々はまさに父親を行動の鑑(かがみ)として成長するのである。
私は、この文章を読んで、鏡すなわち大文字の他者が「あらゆる像」という形相を表現するコミュニケーション・メディアであると理解したのですが、「あらゆる像」が具体的に何なのか想像できなかったので、一例を示していだたこうと思い質問しました。
ちなみに、大文字の他者を鏡それ自体とするのはラカンの考えで、ここにおいては、鏡それ自体=コミュニケーション・メディアではない、ということでよろしいでしょうか。
芸能人が造語を使うことで、視聴者の間でその造語を使って真偽の交換をするとき、その造語がメディアであり、それを可能ならしめたのが芸能人(大文字の他者)であるといえると思いますが、これ以外のメディアについて芸能人においては想像できないのですが、ご教示いただけますか。
Re: コミュニケーション・メディアとしての大文字の他者
投稿者:イス. 投稿日時:2012年2月08日(水) 18:30.
申し訳ございません、「読んだのですが」と言いましたが、正確に読めていませんでした。
芸能人は、カタルシスという形相を表現するメディアでした。
また、「あらゆる像」とは自己像のことだと思いますが、それを表現するメディアとしての大文字の他者とはどういったものなのかが当初の疑問でした。
貨幣に例えれば、「貨幣」が「大文字の他者」で、「3千円の価値」が「自己像」という感じでしょうか。
大文字の他者の定義がよく分かりません。
Re: コミュニケーション・メディアとしての大文字の他者
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2012年2月09日(木) 12:35.
「コミュニケーション・メディア」はルーマンの用語で、「大文字の他者」はラカンの用語で、彼らが使っていた時の本来の意味と、私が借用することで担わせようとしている意味との間にギャップがあるために、イスさんが混乱することになったのだと思います。一般的に言って、思想家が考案した用語は、思想家の理論と不可分に結びついており、その用語を本来の意味で使おうとするならば、その思想家の理論をそのまま受け入れざるを得なくなります。だから、独自理論を構築しようとするのであれば、そうした借用はできるだけ避けるべきであり、今後、自分のシステム論を語る上で、「コミュニケーション・メディア」や「大文字の他者」といった用語を使わず、自分で独自に定義した用語を使っていきたいと思います。それならば、最初からそうしろと言われそうですが、『社会システム論の構図』は、私が学生だった時に書いた論文がもとになっており、当時は、著名人の有名用語を使ってしか自分の理論を語ることが許されないような状況だったことをご理解ください。
さて、ご質問の趣旨は、芸能人のシステム論的な位置付けのようですが、これに関しては以下のように理解してください。文化的な交換において、交換媒体は言語であり、形相は意味です。有意味な情報が持つ価値は、賞賛や名声といった文化的価値、ないし経済的価値や政治的価値などを対価として交換されます。個別的な言語は、翻訳というメタレベルの交換では交換される対象となり、その価値は、その言語の使用者、その言語を使用した作品の価値の大きさによって決まります。それは、個別的な貨幣は、為替というメタレベルの交換では交換される対象となり、その価値は、その貨幣の発行者の収入と資産の大きさによって決まるのと同じことです。文化システムにおける著名な芸能人は、経済システムにおける大企業に相当します。信用度の高い企業は、社債や株といった独自貨幣を発行することができるし、人気のある著名な芸能人も、独自言語をはやらせることができます。
こう考えるならば、なぜ学生は「著名人の有名用語を使ってしか自分の理論を語ることが許されない」のかもお分かりかと思います。芸能人も、学者も、企業も同じです。米国ならともかく、日本では、駆け出しのベンチャー企業が、株や社債を発行しても、相手にされません。中小企業は、大企業の下請けから始めないといけません。私も、日本のアカデミズムの慣例に従って、大思想家の下請けから始めたのですが、現在では、受け入れられるかどうかは別として、独立しようとしているので、下請けしていた頃とは切り離して考えてください。
Re: コミュニケーション・メディアとしての大文字の他者
投稿者:イス. 投稿日時:2012年2月10日(金) 08:02.
ご説明、ありがとうございます。芸能人と言語の関係については、理解が深まりました。著名な芸能人は、独自言語を交換媒体として可能とする「権力者」と言っていいでしょうか。
カタルシスの媒体は、同一化可能な像(例えば、TVドラマでの俳優や、自然ドキュメンタリー番組での動物など)であると言えるはずですが、この媒体における権力者にあたるものは何ですか?
永井俊哉 さんが書きました:
「コミュニケーション・メディア」はルーマンの用語で、「大文字の他者」はラカンの用語で、彼らが使っていた時の本来の意味と、私が借用することで担わせようとしている意味との間にギャップがある
権威としての父親でのシェーマNの説明などにおいて、永井先生が「大文字の他者」という用語に担わせていた意味を、教えていただけますか。
Re: コミュニケーション・メディアとしての大文字の他者
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2012年2月11日(土) 10:29.
イス. さんが書きました:
著名な芸能人は、独自言語を交換媒体として可能とする「権力者」と言っていいでしょうか。
権力者の権力は、権力者が所有する資本(経済資本のみならず、文化資本や政治資本など)に基づいています。芸能人が所有する文化資本が大きければ、その人は文化的な権力者ということができます。権力とは、他者を意のままに動かす力であり、著名な芸能人は、実際に多くの人を動かしています。
イス. さんが書きました:
カタルシスの媒体は、同一化可能な像(例えば、TVドラマでの俳優や、自然ドキュメンタリー番組での動物など)であると言えるはずですが、この媒体における権力者にあたるものは何ですか?
スケープゴートは、「スケープゴーティングの対象」とか「カタルシス効果を引き起こす原因」とでも呼ぶべき存在者であって、「カタルシスの媒体」という言い方はおかしい。
イス. さんが書きました:
権威としての父親でのシェーマNの説明などにおいて、永井先生が「大文字の他者」という用語に担わせていた意味を、教えていただけますか。
「交換の媒体」または「交換を可能にする権力者」または「その権力を象徴する権威」というような意味で使っていたのだろうと思います。
Re: コミュニケーション・メディアとしての大文字の他者
投稿者:イス. 投稿日時:2012年2月23日(木) 12:57.
永井俊哉 さんが書きました:
「交換の媒体」または「交換を可能にする権力者」または「その権力を象徴する権威」というような意味で使っていたのだろうと思います。
「交換を可能にする権力者」と「交換の媒体」という意味が、一つの語に収まっています。交換を可能にする権力者は、概して、交換媒体としての権力としても機能していると理解してよろしいでしょうか。ちなみに交換媒体としての権力という語は、
「権威としての国家」 永井俊哉 さんが書きました:
権力的なコミュニケーションでは、資本の差異がメディアとなって、主人の命令メッセージが奴隷に伝達され、奴隷の行為を規定する。
ここでいう「資本の差異」が、それであると思って使っています。また、ここでいう「命令メッセージ」とは、権力が人を服従させる作用であると解釈しております。
つまり、「交換を可能にする権力者」という意味での大文字の他者が可能にしている媒体の形相と、「交換の媒体」という意味での大文字の他者(媒体)の形相は、異なるものではないか、と疑問に思っています。
「交換を可能にする権力者」という意味で「大文字の他者」が使われるとき、著名な芸能人も大文字の他者ということになります。大文字の他者は、あらゆる像を媒介するメディアでした。主人と奴隷においては、社会としての「大文字の他者」(共通の第三者)が、「自分は主人か奴隷か」という自己像の媒体になっていたと思います。
「権威としての国家」 永井俊哉 さんが書きました:
a-a’ の関係では、奴隷は社会から奴隷と判断されることによってのみ奴隷であり、主人は社会から主人と認められることによってのみ主人であるというように、鏡像を通して社会的自己同一がなされる。
著名な芸能人は、独自言語を媒体として可能としつつ(権力者としての大文字の他者でありつつ)、その芸能人と同一化する人にとっては鏡という媒体として機能する(交換の媒体としての大文字の他者である)、という理解でよろしいでしょうか。
また、著名な芸能人はその高資本(大きい権力)をもつからこそ、二者間の承認において共通の第三者(鏡という媒体)として機能できるのですか?
Re: コミュニケーション・メディアとしての大文字の他者
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2012年2月25日(土) 09:51.
イス. さんが書きました:
「交換を可能にする権力者」と「交換の媒体」という意味が、一つの語に収まっています。交換を可能にする権力者は、概して、交換媒体としての権力としても機能していると理解してよろしいでしょうか。
「または」は、論理学的には選言の結合子ですから、この結合子によって結合されている「交換の媒体」または「交換を可能にする権力者」または「その権力を象徴する権威」は同一ではありません。英語で言えば、“or”であって、“namely”ではありません。日本国内における経済的交換を例にとると、「交換の媒体」である日本銀行券、「交換を可能にする権力者」である日銀および日本政府、「その権力を象徴する権威」である福沢諭吉の肖像画とか日の丸の国旗とかは、人々の意識においては渾然一体になっているかもしれませんが、概念的には区別するべきだということです。
Re: コミュニケーション・メディアとしての大文字の他者
投稿者:イス. 投稿日時:2012年3月01日(木) 20:50.
永井俊哉 さんが書きました:
「または」は、論理学的には選言の結合子ですから、この結合子によって結合されている「交換の媒体」または「交換を可能にする権力者」または「その権力を象徴する権威」は同一ではありません。
ご指摘ありがとうございます。以後、読み違えないよう気を付けます。また、私の質問の仕方が回りくどいために、ご迷惑おかけしたかもしれません。表のように表すと、以下の「?」の部分が分かりません。
~的交換 | 形相 | 媒体 | 権力者 | 権威の象徴 |
---|---|---|---|---|
? | あらゆる像 | 鏡 | 父、神 | ペニス、十字架 |
? | 命令メッセージ | 資本の差異 | ? | ? |
「資本の差異がメディアとなって」という文は、具体的にどのような物体を想像すればいいのか難しく感じました。また、この2つの交換でそれぞれ、a と a’ は、何の所有権を放棄し、何を得ているといえますか。よろしくお願いします。
Re: コミュニケーション・メディアとしての大文字の他者
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2012年3月03日(土) 17:08.
この掲示板には、表を作る BBCode があるので、それを使って修正しておきました。なお、表の作り方に関しては、「BBCode の使い方」をご覧ください。
さて、ご質問の件ですが、去勢期における交換の各要素は、次のようにまとめることができます。
交換の種類 | 形相 | 媒体 | 権力者 | 権威の象徴 |
---|---|---|---|---|
去勢期における愛の交換 | 欲動の対象 | 鏡 | 父 | 父の名 |
父の名(Noms-du-Père)というのはラカンの用語で、父の否(Non-du-Père)という意味もあります。母に甘えようとする子に対して、母が「お父さんがダメと言ってたでしょう」と父の名を引き合いにしてたしなめるような場面を想像してください。この場合、子は、想像の世界で母子の相思相愛という交換を成立させるしかありません。
ところで、「資本の差異がメディアとなって」という文は、どこにあるのでしょうか。検索してみたけれども、私の文には見当たりませんでした。
Re: コミュニケーション・メディアとしての大文字の他者
投稿者:イス. 投稿日時:2012年3月03日(土) 20:42.
表の修正、ありがとうございます。ご返答いただいた内容について、もう少し考えてみます。とりあえず、「資本の差異がメディアとなって」という文の場所をお知らせします。
「権威としての国家」 (author) 永井俊哉 さんが書きました:
ラカンがここで区別する“コード/メッセージ”は、より一般的には、コミュニケーションにおける“メディア/エイドス”の区別である。権力的なコミュニケーションでは、資本の差異がメディアとなって、主人の命令メッセージが奴隷に伝達され、奴隷の行為を規定する。権力・権力者・権力コミュニケーションの三つは、概念的には区別可能である。
Re: コミュニケーション・メディアとしての大文字の他者
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2012年3月04日(日) 14:39.
御指摘の箇所を読み直してみましたが、これはラカンの『エクリ』からの引用のすぐ後に続く文で、ラカンが行っている《コード/メッセージ》、《大文字の他者/小文字の他者》の区別を再解釈するという文脈で出てきた文です。もとより当時の私自身、メディアと権力とエイドスの違いということはあまり意識していなかったようです。
コードは、行為の不確定性を縮減するという点で権力を有するという考えもあるでしょう。しかし、コードが権力を持つのは、そのコードの違反者が処罰されるからであり、処罰する権力は、コードそれ自体とは区別されます。物質とエネルギーとエントロピーが区別可能であるように、媒体と力と形相は区別可能であると言うことができるでしょう。
Re: コミュニケーション・メディアとしての大文字の他者
投稿者:イス. 投稿日時:2012年3月04日(日) 18:26.
永井俊哉 さんが書きました:
母に甘えようとする子に対して、母が「お父さんがダメと言ってたでしょう」と父の名を引き合いにしてたしなめるような場面を想像してください。この場合、子は、想像の世界で母子の相思相愛という交換を成立させるしかありません。
「欲動の対象」を「交換」しているというイメージが湧かないのですが、別の状況における具体例を挙げていただけますか。「去勢期における愛の交換」ということは、「去勢後における愛の交換」ともいえ、社会人にとって一般的に見られる交換であると思いますので、一般的な私と他者の関係における例が見たいです。よろしくお願いします。
永井俊哉 さんが書きました:
物質とエネルギーとエントロピーが区別可能であるように、媒体と力と形相は区別可能であると言うことができるでしょう。
「~交換における媒体は権力である」 とか、「~交換における形相は権力である」という表現は、厳密には無いということになるのでしょうか。
Re: コミュニケーション・メディアとしての大文字の他者
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2012年3月05日(月) 10:29.
イス. さんが書きました:
「欲動の対象」を「交換」しているというイメージが湧かない
相思相愛の交換とは、「「他者が私を欲望している」ということを私が欲望している」という鏡像的に反復される欲望の相互承認です。欲動の対象の交換ということに関して言えば、母乳に対するお返しとして糞尿を母にプレゼントしていると想像している乳幼児をイメージしてもらえばわかりやすいと思います。経済的交換も、「私が欲望する商品の所有者は、私が所有する商品を欲望する」という欲望の二重性の相互承認に基づいています。
イス. さんが書きました:
「~交換における媒体は権力である」 とか、「~交換における形相は権力である」という表現は、厳密には無いということになるのでしょうか。
最初の返信で書いた通り、法的交換における媒体は刑罰としての苦痛であり、法的交換における形相、すなわち罪の重さは、刑罰としての苦痛によって計測され、その媒体を通じて加害者と被害者の間で交換されます。権力とはその交換を可能にする力で、権力者とは、その権力を持つ主体のことです。それ以外の交換に関しても同じことが言えます。
Re: コミュニケーション・メディアとしての大文字の他者
投稿者:イス. 投稿日時:2012年3月09日(金) 01:36.
永井俊哉 さんが書きました:
経済的交換も、「私が欲望する商品の所有者は、私が所有する商品を欲望する」という欲望の二重性の相互承認に基づいています。
その、私の目の前にまるで鏡があるかのような、他者との求め合う関係が成立していることは分かるのですが、「父」が可能としている媒体「鏡」が、具体的に何なのかが分かりません。銀行が貨幣を可能とするとき、貨幣があることで、そのような求め合う関係が成立しているので、貨幣も「鏡」と言えると思います。しかし、この場合、媒体は「鏡」とは言わずに「貨幣」となります。権力者が「父」である場合の媒体を、「鏡」といわなかったとき、それは具体的には何なのですか。
永井俊哉 さんが書きました:
欲動の対象の交換ということに関して言えば、母乳に対するお返しとして糞尿を母にプレゼントしていると想像している乳幼児をイメージしてもらえばわかりやすいと思います。
この交換は、欲動の対象を交換しているとは思いますが、その媒体は「贈り物」といわれるものではないですか。また、ここでは権力者によってルールが共有されているような普遍的な交換媒体は使われていないように感じてしまうのですが。
Re: コミュニケーション・メディアとしての大文字の他者
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2012年3月09日(金) 10:17.
イス. さんが書きました:
銀行が貨幣を可能とするとき、貨幣があることで、そのような求め合う関係が成立しているので、貨幣も「鏡」と言えると思います。しかし、この場合、媒体は「鏡」とは言わずに「貨幣」となります。
「鏡」という言葉は象徴的な意味で使われているので、媒体は鏡であると言っても間違いではありません。
イス. さんが書きました:
ここでは権力者によってルールが共有されているような普遍的な交換媒体は使われていないように感じてしまうのですが。
糞尿を贈り物とするのは、フロイトの言葉では肛門期での話ですから、去勢以前の段階です。
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