11月 242012
 

メルマガ原文の再掲載シリーズ第2回目は、「鏡像段階におけるエディプス的関係」です。これも第2回目と同様に、これから行おうとする精神分析学的な議論の準備として書かれたものでした。試論編では、書籍編の「権威としての父親」に同じような文章があるので採用しませんでした。

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自分の鏡像にキスをする乳児。”baby kissing mirror image” by roseoftimothywoods is licensed under CC-BY

1999年9月27日発行のメルマガの内容

ラカンは、フロイト以降現れた最も天才的な精神分析家と言われている。そういう評判を聞いて、みなさんの中にも弘文堂から出ている『エクリ』の翻訳を読んだ人がいることであろう。しかし原文が難解な上、誤訳のオンパレードで、「ラカンはワカラン」と言って途中で放り投げた人がほとんどではないだろうか。ラカンは、最初のセミネールの冒頭で、禅問答の話をしたと伝えられているが、わざと著作を難解にし、弟子たちに暗号解読の楽しみを残したかのようである。今日のコラムでは、ラカンはさっぱり分からないという人のために、ラカンの学説の中でもっとも有名な鏡像段階論を、フランス語を知らなくても分かるように、私流の記号の英訳で工夫をこらしつつ、紹介したい。

鏡像段階とは、生後6ヶ月から18ヶ月ぐらいの幼児の発達段階で、この時期に幼児が相互主観的な関係の中で自我を形成することにラカンは注目する。鏡像段階以前では、子供は自分の身体をまとまった全体としてではなく、寸断された身体として体験する。生後6ヶ月ぐらいの子供は、最初のうちは、鏡に映った自己の身体を手でつかもうとするが、やがてそれが現実の他者ではないことに気が付き、自己のイマージュとの原初的同一化により、鏡を前にして大喜びする。この自己を再認する作業は、生後18ヶ月ぐらいになると完了する。

同じ現象はサルについても見られる。動物園での実験によると、サルは鏡に映った像を自己同一できる唯一の動物である。サルは初め鏡像を敵と誤認し、激しい攻撃をかける。しかししばらくするとそれが自分の像であることに気が付き、鏡の前でおどけて遊ぶようになる。人間はサルの一種であるが、サルには、鏡に映った像を通して、反照的(reflective 反射的・反省的)に自己を形成する能力があるわけである。

ラカンによれば、子供にとって自我は最初他者として現れる。幼い女の子は、自分のことを指し示すのに、「私は」とは言わずに、例えば「さちこちゃんは」などと他者が呼びかけるときの言い回しを用いる。ピアジェは、子供はもともと自己中心的で、成長の過程で次第に世界観を脱中心化していくと主張したが、そのような発達心理学は、ロビンソンクルーソーの物語から説明を始める経済学やコギト・エルゴ・スムを第一原理とする哲学と同様に、人間存在の根源的他者性を無視している。

自我は即自的には主格のIである。眼が直接自分を見ることができないように、I は自分で自分を認識できない。(比喩的な意味での)鏡を通して I は客観的な自我を目的格の me として措定する。鏡(mirror)と me の頭文字を取って、鏡像を m と名付けることにする。

幼児が鏡を通して、最初に出会う他者としてのmは、m-other、すなわち小文字の他者としての母親である。(こう言うと、どこかの家庭教師派遣会社の CM を連想するかもしれないが、私は、ラグランド=サリバン[Ellie Ragland-Sullivan;Jacques Lacan and the Philosophy of Psychoanalysis,University of Il1inois Press 1986,p.16.]からこの表記法を学んだ)。子供は母親の笑顔の中に自己の存在を認識し、母親は子供の笑顔の中に自己の存在を認識する。鏡像段階を終えても、子供は、母とのこのような未分化な融合関係のなかにある。

しかし子供はやがて母親に何かが欠如していることに気が付く。男の子が、母親に欠けていているがゆえにそれを補うべく想像的に自己同一する対象はファルスである。フロイトがハンス少年の観察で詳述しているように、男の子はファルスになみなみならぬ関心を寄せ、そして女の子がファルスを持たないのを目撃すると衝撃を受ける。その子は父親によって去勢されたのではないかという思いが頭をかすめるからだ。

もっとも、最初のうち男の子は、その女児はまだ小さいからファルスも未発達なのだと理屈付けて自分を安心させようとする。男の子はやがて成人した女性である母親にもファルスがないことを知り、愕然とするが、今度は自分が母親のファルスとなって欠如を補おうとするようになる。一方、女の子は自分にファルスがないことに劣等感を感じ、自分もファルスが欲しいという羨望を持つようになる。のち結婚して子供(特に男の子)を産むのは、この願望を満たすためである。男の子が、母親の期待に応えて立身出世しようとするのは、自らが母親のたくましいファルスとなって、母親の欲望を満たそうとする欲望に基づいている。

この欲望の欲望という相互主観的構造に注目して欲しい。ラカンは、欲望(デジール)を欲求(ベズワン)から区別する。異性をセックスマシーンとして嗜好することは、生理的な欲求であって、欲望ではない。愛とは愛されることを愛することなのだ。また名誉欲も、物への欲求ではなく、英雄崇拝という大衆の欲望への欲望である。欲望の主体は,表層のmeではなく,深層のIである。深層の欲望の主体は、I(d)と表記できる。d は、欲望(desire)の頭文字であるが、Id(イド)は、S(エス)、すなわち無意識の欲望である。

子供は母の欲望の対象と想像するもの、ファルスに自己同一しようとする。ところが、母親の欲望は父親に向けられていることに子供は気が付く。この象徴的ファルスである大文字の他者をF-OTHERと表記しよう。ちなみに、ファルスの綴りはphallus、父親の綴りはfatherであるが、音声的には、F-OTHERは、「ファルス的他者としての父親」と聞こえる。F-OTHERは、母子の融合的未分化を引き裂く存在者として現れる。父は、母の欲望の対象であるファルスを母から取り上げ、去勢の脅しによって子供が衝動を満足することを禁止する。

男の子は、母の想像的ファルスであることから、父のようにファルスを持つ存在になることへと理想を変える。女の子も、ファルスを持つことを望んで子供を産もうとする。こうして第二世代のエディプス関係が作られることになる。

なお、大文字の他者は父親、小文字の他者は母親という性の役割分担に抵抗を感じるフェミニストもいるかもしれない。お望みとあらば、F-OTHER を The Female OTHER と読んでもかまわない。実際、母が F-OTHER の役割を果たすこともある。幼児期に母親の体に触れて、振り払われたという原体験から、母がファリックマーザーとして去勢のシニフィアンとなり、セックスの最中にバギナに歯が生えて、自分のペニスが食いちぎられるのではないかというファンタジーのおかげで性的不能症に陥る患者もいる。また年下の男の子が女性の愛欲の対象となることもある。そのときには、m-other は、the male other の略だと考えればよい。

今日のコラムは長くなってしまった。しかも抽象的でつまらなかったかもしれない。次回は、より具体的な事件の精神分析を通して、フロイト-ラカンの理論に親しんでもらおうと思っている。乞うご期待。

読者からのメール

Orizurinさん:確かに言葉としてみると、いろいろな意味のバリエーションが多く、わかりにくいが、ゆっくり読めば、それなりにわかってくる。ただ、わかるとふーん、それだけかみたいな感じが出るのは、禁じ得なかった。やはり、孔子の様に例えて、神話的ストーリーなどがあると、面白いのではないだろうかと考えた。

永井:ラカンの『エクリ』自体は、「神話的ストーリー」に満ちています。例えば、冒頭に掲載された「盗まれた手紙」では、手紙はファルスのメタファーで、王妃から大臣へ、大臣からデュパンへと移転していくさまは、隠喩の置き換えを表すというように。『エクリ』自体が一つの神話のようになっていると言えます。ただ前回のメルマガは要約で、エッセンスだけ取り出すと、「ふーん、それだけか」ということになってしまうわけです。

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