なぜ日本の政治家は靖国神社を参拝するのか
世界では、神は偉大だから崇拝される。ところが、怨霊信仰のある日本では、神は偉大ではないからこそ崇拝される。日本の政治家が靖国神社を訪れることが惹き起こす国際問題は、この違いに対する無理解から生じている。[1]
安倍晋三総理大臣は、2013年12月26日午前に、東京都九段北の靖国神社に就任後初めて参拝した。現職総理大臣による靖国参拝は、2006年の終戦の日に小泉純一郎総理(当時)が参拝して以来、七年ぶりのことである。中国、韓国、北朝鮮がこれを非難したことは言うまでもないが、普段は日本の歴史問題に比較的無関心な米国、ロシア、EU、イスラエル、台湾までもが批判的な声明を出した。海外メディアの中には、安倍総理を軍国主義者、歴史修正主義者として非難するところもある。
安倍総理は、参拝当日に自民党のネット番組「カフェスタ年末特番!ゆく年くる年」に出演し、「戦犯を崇拝するために参拝しているという誤解に基づいた批判があるが、韓国や中国の人々の気持ちを傷つけようという考えは毛頭ない」と述べ、「さまざまな誤解があるのも事実で、特に近年、その誤解がだいぶ増幅されてきた。黙ってやり過ごすのではなく、この機会にしっかりと説明していくことによって誤解を解いていきたい」と述べた[2]。
政治家の靖国参拝は、国内では政教分離の原則に反するとして問題となることがあった。しかし、外国が問題にしていることはそういうことではなくて、そこに極東国際軍事裁判の結果処刑された戦犯が英霊として祀られていることである。毎年、日本武道館で営まれる全国戦没者追悼式の追悼対象には戦犯も含まれているが、歴代の首相が主催者として参列し、追悼の意を表しても、どこの国も抗議しない。問題の本質は、靖国神社が戦犯を神として祀っているところにあるのであって、そこを参拝することは、戦犯を英雄として崇拝するという価値にコミットしたと海外では判断されてしまう。だから、靖国神社に参拝することは、大東亜戦争を正当化したり、軍国主義に回帰したりするためではないという説明は、これまでにも行われた説明であるが、外国では受け入れられない。安倍総理が誤解を解くといっても、それは容易ではないのだ。
日本人の中には、極東国際軍事裁判の正当性を肯定する人もいれば、否定する人もいる。しかし、いずれの立場をとるにせよ、処刑された戦犯たちが、成功した政治家ではなかったということは確かであるし、彼らの行為が日本の繁栄に貢献したとも言い難い。ゆえに、靖国神社を参拝した政治家たちにとって、東条英機をはじめとする処刑された戦犯たちは、同情の対象になることはあっても、英雄として尊敬するような対象になることはない。それにもかかわらず、なぜ彼らは靖国神社で英霊として祀られなければならないのか。
日本には、古来より人を神に祀る風習がある。それには、起源の古い順に、怨霊慰撫型、祖霊崇拝型、勲功顕彰型の三つ類型がある。もっとも本来的な祭祀は、怨霊慰撫型である。柳田国男が指摘したように、日本では神として崇められるのは、遺念余執が死後においてもなお想像され、タタリと称する方式を以って怒りや喜びの強い情を表示しうる人に限られていた。祀るべき怨霊の数が増えてくると、彼らは祖霊と一緒にまとめて祀られるようになり、祖霊崇拝型となる。菅原道真の怨霊信仰のように、祭神の力が御利益として認識されるようになると、勲功顕彰型に変容する。これら二つは、怨霊慰撫型とは異なるが、それでも日本人の祭祀の根底には、怨霊崇拝の伝統がある。
靖国神社は、1862年に、安政の大獄以来の江戸幕府による弾圧によって無念の死を遂げた志士たちの霊を京都霊山において福羽美静らが鎮斎したことが起源とされている。つまり、靖国神社も、その起源においては、怨霊慰撫型であったということである。その後、維新の受難者を慰霊するために招魂場が創設されたが、明治時代になると、政府は日本の伝統を否定し、西欧文化を取り入れるようになり、祭祀も海外では一般的だった勲功顕彰型になる。そのため、西郷隆盛のような明治政府に対する反乱者が死後祀られることはなかった。
東京九段の地に創設された招魂場は、招魂社、さらには靖国神社と改称され、今日に至っている。政府が戦争の犠牲者の勲功を顕彰するために祭祀を行い、その英霊を神として祀ることは、日本が戦争に勝ち続けている間は問題はなかった。問題は、日本が太平洋戦争に敗れ、極東国際軍事裁判において戦犯として処刑された人々が、1978年10月17日に「昭和殉難者」として靖国神社に合祀されたことで起きた。実は、その前の1965年に靖国神社境内に「靖国神社に祀られざる嘉永六年以降の日本及び諸外国の戦歿者の御霊を祀る」鎮霊社が建立された。この祭祀はもはや勲功顕彰型ではなく、むしろ怨霊慰撫型である。敗戦をきっかけに、靖国神社の性格が変質したのである。
極東国際軍事裁判は、戦争犯罪はトップダウンの決断で行われるという欧米流の思想に基づいて行われた。その結果、一部の戦争犯罪人とされた政治家や軍人が、すべての罪を背負って、いわばスケープゴートとして殺され、それによって戦争責任の禊が済まされた。ところが、こうした欧米式の白黒の付け方に少なからぬ日本人は違和感を持っていた。丸山眞男が言うように、日本の政治は無責任の体系なので、責任ある指導者とそうでない従者の関係がはっきりしないのである。だから戦後出世した人の中には、かつての同僚が死刑になったのにもかかわらず、自分が死刑を免れたことに負い目を感じていた人が少なくない。
安倍総理の祖父である岸信介もそうした一人である。岸は、東條内閣の開戦時の閣僚で、A級戦犯被疑者として逮捕されたが、不起訴となり、その後総理にまで上り詰めた。岸の思いは孫の安倍晋三にまで引き継がれているのだろう。処刑された戦犯に実際に遺念余執があったかどうかは別として、生き残って出世した人たちとその末裔が、極悪人の烙印を押されて処刑されたかつての同僚に遺念余執があったと想像することは自然なことである。戦犯合祀後も政治家たちが靖国神社を参拝に訪れたのは、彼らが想像する処刑された戦犯たちの遺恨の念を宥めるためと考えられる。
このように、靖国神社では勲功顕彰型祭祀が行われているにもかかわらず、戦犯に関しては怨霊慰撫型祭祀が行われている。この混乱が靖国神社参拝をめぐる日本と海外の相互誤解の原因となっている。海外では神は偉大だから崇拝されるのだが、日本では神は偉大ではないからこそ崇拝される。日本人と外国人は、両者の間にこの違いがあることをお互いに認識していない。
安倍総理が靖国を参拝した同じ日に、中国では毛沢東(マオ・ツォートン; 1893年12月26日 – 1976年9月9日)の生誕120周年を記念して、最高指導部政治局常務委員七人が、天安門広場にある毛主席記念堂を訪れた。中国人が毛沢東を神として崇拝するのと、日本人が怨霊を神として崇拝するのとでは、その意味合いが異なる。日本人の伝統的な宗教意識では、毛沢東のように権力の絶頂期に天寿を全うした政治家は神にはなれない。むしろ林彪(リン・ピャオ; 1907年12月5日 – 1971年9月13日)のように失意のうちに死んだ政治的敗者こそが神として崇められなければならないのだが、そのような怨霊信仰は中国人の理解するところではない。中国人は、ちょうど自分たちが毛沢東を神として崇拝しているように、日本人は東条英機を神として崇拝していると誤解し、その誤解に基づいて日本人は侵略戦争を再開しようとしているという批判をしているのである。
キリスト教文化圏の欧米人もまた、日本の怨霊信仰を理解していない。日本人は、恐ろしい怨霊も、それを崇拝することで霊験あらたかなありがたいお守りになると考えることで善と悪とを相対化するが、欧米人にとって神崇拝と悪魔崇拝は全く別物で、後者が前者になるということはありえない。彼らにとって善と悪の区別は絶対的なのだ。悪魔崇拝は、中世なら火炙りになるような大罪であり、戦犯を神として崇めるという行為は悪魔崇拝と同じで許せない行為なのである。キリスト教文化圏の欧米人に日本の怨霊信仰を理解してもらうことは困難であるが、不可能ではない。『リング』や『呪怨』といった日本のホラー映画が『ザ・リング』や『ザ・グラッジ 』へとリメイクされ、海外でヒットしたので、こうした映画で怨霊の恐ろしさを理解してもらい、怨霊慰撫の重要性を説くしかない。
安倍総理は今後各国に誤解を解くための説明をしなければならないのだが、どういう釈明をすれば理解してもらえるだろうか。僭越ながら、安倍総理に成り代わって、A級戦犯の祭祀のもっともらしい言い訳を考えてみた。
私が、A級戦犯が祭られている靖国神社を参拝したのは、決して彼らを英雄として崇拝するためではありませし、ましてや先の大戦を美化したり再開したりするためではありません。怨霊となりそうなA級戦犯を慰めるために参拝したのです。中曽根総理が初めて外交的な圧力で参拝を中止して以来、在任中に靖国神社を参拝しなかった総理の内閣は短命政権で終わっています。これは怨霊のたたりがなす業です。何度も参拝をした中曽根総理は、長期政権の維持に成功しましたが、中国の圧力に屈して参拝をやめたために、退任後リクルート事件で晩節を汚すこととなりました。橋本総理は、1996年に一度参拝し、その年の衆議院総選挙で大勝しましたが、その後、中国の圧力に屈して参拝をやめてしまい、そのため、1998年の参議院選挙で大敗し、退陣を余儀なくされました。一人小泉総理だけは圧力に屈することなく靖国神社参拝を貫き、長期政権に有終の美を飾ることができました。私が靖国神社を参拝したのは、A級戦犯の呪いを免れ、小泉総理のような政治的成功の御利益を求めたからであって、他意はありません。どうぞご理解を賜りますようお願い申し上げます。
こういう説明をすれば、「なんだ、日本の首相はたんに迷信深いだけか」ということになって、外国の首脳たちは外交問題化することを止めるのではないだろうか。
もっとも、こうした説明は内々に行うべきであって、公然と行うことはできない。なぜなら、怨霊慰撫は、怨霊慰撫として行うと、怨霊慰撫にはならなくなるからだ。これは、怨霊の身になれば容易に理解できることだ。あなたが怨霊だとして、「お前は最低の人間だけれども、怨霊としてたたると困るから、英雄ということにして、宥めて祀ってやろう」というような崇拝のされ方をして、喜ぶだろうか。むしろ侮辱されたと感じ、こういう無礼者を呪い殺したくなるのではないか。だから、A級戦犯だけを怨霊神として分祀し、特別扱いすることはできない。他の英霊と同様に扱って、褒めちぎり、まるで勲功顕彰型であるかのような崇拝をしなければならない。その結果、外部の人間からは、A級戦犯を本当に英雄として崇拝しているかのように思われてしまう。ここが怨霊慰撫型崇拝の悩ましいところである。
安倍総理が言うように、今回の件が誤解を解くきっかけになるなら、安倍総理の参拝も無駄にはならない。「なぜこんなことで世界は大騒ぎをしているのか」と首をひねる日本人も、「なぜ日本人は戦犯を神として崇めているのか」と怪訝に思っている外国人も、両者の間にある文化的な違いを相互によく理解するべきだ。日本人は、自分の思いは以心伝心で伝わると思いがちだが、それは日本的コミュニティ内部での話であり、異文化である外国に対しては、言葉で明確に説明しなければ、理解されることはない。
永井俊哉 さんが書きました:
中国人は、ちょうど自分たちが毛沢東を神として崇拝しているように、
習近平氏の毛沢東「人間宣言」
国際派時事コラム「商社マンに技あり!」平成25年12月29日発行 さんが書きました:
12月26日に北京では、習近平氏ら中国の最高指導部が毛主席紀念堂を訪れ、毛沢東の功績をたたえている。
同日付の習近平氏の毛沢東 「人間宣言」 談話が興味深い。
≪革命領袖是人不是神,不能把歴史順境中的成功簡単帰功於個人,也不能把歴史逆境中的挫折簡単帰咎於個人。≫
<和訳> 革命の指導者たちは人であり神ではない。 歴史上、恵まれた環境のなかでうまくいったことの功績を単純に個人に帰することはできないし、また歴史上の逆境においてうまくいかなかったことの罪を個人に帰することもできない。
逆説的ですが、習近平が毛沢東人間宣言をしたということは、毛沢東を神として崇める中国人がたくさんいるという証拠となります。天皇人間宣言は、天皇を現人神として崇拝している日本人が依然としてたくさんいたからこそ出す必要があったのであって、同じことは毛沢東人間宣言についても言えます。実際、中国で行われる反日デモを観察すればわかる通り、毛沢東の肖像をプラカードとして掲げている人が多数います。
中国の現在の指導者にとって、毛沢東は建国の父なのだから、神のような存在であることは確かです。しかし、毛沢東を神として認定してしまうと、その神格を利用して第二の文化大革命を起こそうとする野心家の出現を助長することになります。薄熙来はその好例で、彼の権力簒奪の試みは失敗に終わりましたが、習近平は自分の権力を安定させるためにも、毛沢東の神格化を否定しなければなりません。中国の現在の指導者が、毛沢東もまた過ちを犯すという点で神ではなくて人間であると言わなければならない背景にはそうした事情があります。
もちろん、現在の中国の民衆が全員毛沢東を神として崇拝しているということはありません。貧困層の間で依然として人気が高いとはいえ、毛沢東が多くの中国人の命を奪ったことを恨んでいる人は、毛沢東を神ではなくて鬼と考えています。「両国の参拝の共通点は、どちらも中国人を殺した『鬼』を参拝したこと[4]」と皮肉る中国人もいます。しかし、日本でも靖国の英霊を神として崇めない人がたくさんいるのですから、この点では同じということになります。
ここで、このスレッドの本来のトピックに戻りたいと思うのですが、毛沢東人間宣言で注目すべきことは、中国人は、過ちを犯すなら神ではないと考えているところです。欧米人も、神は完全であり、過ちを犯すことがないと信じています。ところが、日本の怨霊崇拝の対象となる神は、権力闘争に敗れて不本意な死を迎えているのですから、不運ということがあるにしても、何らかの過ちを犯していることになります。しかし、日本では、過ちを犯したからといって、神ではなくなることはありません。これは、中国や欧米では受け入れられない神の認識です。そして歴史認識の違いというよりも神認識の違いが靖国神社参拝問題を生んでいます。
このことを、中国外務省の秦剛報道官が参拝当日に発表した以下の談話で検証してみましょう。
首相参拝「強い抗議と厳しい非難」中国報道官談話全文 (date) 2013年12月26日 (media) 朝日新聞デジタル さんが書きました:
日本の安倍首相は、中国の断固たる反対を顧みず、横暴にも第2次大戦のA級戦犯が祭られている靖国神社を参拝した。中国政府は中国ならびに他のアジアの戦争被害国の人民の感情を粗暴に踏みにじり、歴史と正義と人類の良知に公然と挑戦する日本の指導者の行為に強い憤りを表明するとともに、日本に強い抗議と厳しい非難を申し入れる。
日本の軍国主義が発動した侵略戦争は中国などアジアの被害国の人民に深刻な災難をもたらし、日本の人民にも被害を受けさせた。靖国神社は第2次大戦中、日本の軍国主義の対外的な侵略戦争発動における精神的な道具、象徴であり、アジア人民に大きな罪を犯した14人のA級戦犯がなお祭られている。日本の指導者が靖国神社を参拝することの本質は、日本の軍国主義による対外戦略と植民地統治の歴史を美化し、日本の軍国主義への国際社会の正義の審判を覆し、戦後の国際秩序に挑戦することをたくらむものだ。日本の指導者の時代への逆行は、アジアの隣国と国際社会に日本が今後向かう道に高度な警戒と強い憂慮をもたらす。[以下略]
つまり、中国の論理は、こういうことです。
- 首相が、A級戦犯を神として祀る靖国神社を参拝した。
- このことは、首相が、A級戦犯を無謬の神として認めたことになる。
- このことは、首相が、間違っているのは極東国際軍事裁判の判決の方だと主張したことになる。
- このことは、首相が「日本の軍国主義への国際社会の正義の審判を覆し」たことになる。
- このことは、首相が「戦後の国際秩序に挑戦する」ことになる。
最後の結論は国際社会としては受け入れられないことですが、この結論を導く途中の 2 で間違いがあります[5]。A級戦犯を神として崇拝するということは、A級戦犯の判断は正しかったという価値観へのコミットメントを帰結しません。安倍総理は、この点を中国やその他の海外の国々に対してよく説明するべきでしょう。
過ちを犯す神を、キリスト教を信じる欧米人に理解してもらうことができるのかと疑問に思う人もいるでしょうが、古代ギリシャの神々は、日本の神々と同様に、様々な失敗をする人間臭い神だったので、それを引き合いに出して、説明するとよいでしょう。完全無欠の父権宗教的唯一神を信仰する文化でも、かつては母権宗教的な多神教を信仰していたのだから、理解できないということはないはずです。
2013年1月1日に新藤義孝総務相が靖国神社を妻子同伴で私的に参拝した[6]。新藤大臣は、記者団に「戦争で命を落とした方々に尊崇の念を込めてお参りした。また、二度と戦争が繰り返されないよう平和の思いを新たにした」と述べた。単純な分類はできないが、新藤大臣の祖父は旧日本陸軍の栗林大将だから、この参拝は、勲功顕彰型や怨霊慰撫型というよりも、祖霊崇拝型に近いと言ってもよいかもしれない。安倍総理の靖国参拝直後というタイミングでなければ、海外メディアが取り上げないようなレベルの出来事だ。
しかし、今回はタイミングが悪すぎた。中国外務省の華春瑩報道官はさっそく「強烈な抗議」を表明した。新藤大臣は「諸外国から声が出ていることに関しては、きちんと説明をしていく必要がある」と述べている。新藤大臣に限らず、日本の政治家は、靖国神社を参拝することが平和の思いを新たにすることになると「説明」するのだが、こういう「説明」は、諸外国では理解されない。安倍総理が靖国神社を参拝した時も、韓国政府の報道官を務める劉震龍(ユ・ジンリョン)文化体育観光部長官は「誤った歴史観を持つことで平和増進に寄与できると考えているのかと問い返したい」と発言した。
靖国神社参拝が勲功顕彰型なら、それを平和の祈りと強弁することは無理である。しかし、怨霊慰撫型なら、そういう説明は不可能ではない。安倍総理が「御霊(みたま)安かれと手を合わせた」と語ったことからもわかる通り、安倍総理の今回の参拝は、英霊を褒め称えるというよりも御霊を慰めるという色彩が強い。御霊という漢字は、怨霊を慰め、鎮めた場合、「ごりょう」と呼ばれ、区別されるが、音読みにするのは仏教の影響であり、本来的な区別はない。怨霊としての戦犯の霊は英霊ではないが、英霊と同格に扱うことで怨霊の心の平和を実現し、それによってこの世の平和を実現するという発想は日本人にとって自然なことだ。しかし、そういう発想のない外国人には靖国神社参拝が平和への祈りになるという説明が偽善的に見えてしまう。
2013年12月31日の記者会見で、ハーフ副報道官は、「失望という言葉は靖国参拝についてのものか、それとも参拝で中国や韓国が反発するという結果に対してのものか」という問いに対して、「日本の指導者の行動で近隣諸国との関係が悪化しかねないことに対するもので、それ以上言うことはありません」と答え、「失望」という言葉は参拝そのものではなく、中国や韓国との関係悪化を懸念したものという見解を示した。
しかし、米国人がすべてそう考えているわけではない。米国ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院の研究者デニス・ハルピンは、安倍首相が靖国神社を参拝し、真珠湾攻撃を命じた東条英機に敬意を表することは、米同時多発テロの首謀者であるウサマ・ビンラディンに敬意を表するのと同じく米国人にとって容認できない行為だと言い、米国との関係をも直接損なうという見解を示している[7]。
米軍は、ウサマ・ビンラディンをパキスタンで殺害した後、アラビア海で水葬にした。ビンラディンの死体は儀式的に清められ、白い覆いで覆われ、ビン・ラディンの死体を海中に投入する前に、米国人将校が祈り、ネイティブ・スピーカがアラビア語に通訳したと伝えられている。祈りをささげた米国人将校が非難されたという話は聞かない。たとえ悪人であったとしても、死者の霊を鎮魂することは非難の対象とならないということだ。これは、米国以外の国でもそうであって、外部の人間が、身内による死んだ悪人への追悼(死者の生前をしのんで、悲しみにひたること)まで非難するということはない。
だから、日本国政府の主催で毎年8月15日に行われる全国戦没者追悼式を、戦犯までを追悼していると言って非難する国はない。靖国神社は戦犯を英霊として顕彰しているから問題なのであって、戦犯を追悼するだけなら問題はないということだ。ちなみに、ウイキペディアには、「政府は連合国によって戦争犯罪人として裁かれ、死刑判決を受けたいわゆるA級戦犯やB・C級戦犯が全国戦没者追悼式の戦没者の対象となるかどうかについて明確にしていない[8]とあるが、これは正しくない。厚生労働省は、この追悼式における戦没者之霊の中にA級、B級、C級戦犯も含まれるのかという問いに対して、「そういう方々を包括的に全部引っくるめて全国戦没者という全体的な概念でとらえている[9]」と回答している。
しばしば「戦犯を追悼して何が悪いのか」といった靖国神社参拝擁護論があるが、反論になっていない。靖国神社は戦犯を英霊として祀っているのである。そこを訪れるということは、たんに戦犯を追悼しているだけではなくて、神として崇め、敬意を表したということになる。ハルピンは、そこを問題にしているのである。逆に言えば、戦犯を神として崇めることは、怨霊崇拝であって、実際には敬意を表していることにはならないことを理解してもらえれば、米国人から非難されることはないだろう。
キリスト教文化圏では、唯一神が悪霊を退治してくれるから、人間が悪霊の祟りを免れるために、悪霊を慰撫する必要はない。ビンラディンの怨霊による祟りを心配しなくてもよいのだ。ところが、日本にはそのような唯一神がいないので、人間が怨霊の面倒を見なければならない。その結果、日本人は悪魔崇拝をしていると思われてしまう。この点の誤解を解かなければならない。
OKWave で私と近い主張をしている人を見つけた。OKWave だから、主張というよりも質問なのだが、このトピックの参考になるので、全文を引用しておこう。
靖国から考える日本の怨念文化を欧米は理解できるか? (date) 2013-12-30 (author) Wen-Tianxiang さんが書きました:
日本では昔から非業の死を遂げた人を祀り社を建ててきました。例えば、菅原道真を祀った太宰府天満宮、西郷隆盛を祀る南洲神社、坂本龍馬を祀る佐川龍馬神社、吉田松陰を祀る松蔭神社、平将門に由来する神田明神や将門塚などがあります。
日本人が非業の死を遂げた人を祀るのは、亡くなった人の怨念がこの現世に災いを起こさない様にという恐怖心からです。ですから、本来ならば日本人はA級戦犯で亡くなられた人を祀る神社を建てなくてはならないわけです。(東条神社など)
しかし、さすがに戦犯として処刑された人を神として祀る神社を建てるのは政治的に難しいわけで、それで結局、A級戦犯の人達を靖国に祀ると言う事で政治決着したのではないかと思います。
よく日本人は靖国問題で、人間は罪人でも誰しも死んだら仏様になるからなどと諸外国に説明しますが、欧米の人達は当然、日本の事や歴史には無知なわけですから靖国神社に絡めた日本人の価値観や靖国神社の歴史や説明だけをされてもよく理解してもらえない事だと思います。ですから、日本人は大昔から非業の死を遂げた人達を祀ってきた歴史とその祀る理由を欧米に説明して理解を得るべきだと思います。
事情通のみなさん、私が質問に書いた事を説明した場合、欧米は理解してくれると思いますか?ちなみに中韓人は別に理解する必要はありません。
この Wen-Tianxiang(文天祥)というペンネームの質問者は、文面から推測して、日本文化を学んでいる台湾人なのかもしれない。もっともこれは私の勝手な推測で、確証はないが、それはともかくとして、ここに書かれていることにはおおむね同意する。但し、いくつか問題点があるので、それを指摘しよう。
まず、最初の投稿で指摘したように、日本の神社をすべて怨霊慰撫型で説明することはできない。祖霊崇拝型や勲功顕彰型もあり、かつこれらの要素が融合しているケースもある。祖霊崇拝型の典型は氏神信仰である。純粋な勲功顕彰型神社の実例としては、豊臣氏が滅ぼされる前に建てられた京都の豊国神社や徳川家康を祀った日光東照宮を挙げることができる。
とはいえ、祖霊崇拝型と勲功顕彰型は日本固有の神崇拝ではない。祖霊崇拝の風習は中国にもみられるし、勲功顕彰型は歴史が浅いことから、安土桃山時代に流入したキリスト教文化の影響と考えられる。これに対して、怨霊慰撫型の神崇拝は日本固有と言うことができる。
靖国神社は、その起源において怨霊慰撫型であったが、官幣社化された後は、国家公認の純然たる勲功顕彰型神社となった。靖国神社に祀られている英霊の大部分は、国を護るために戦場で命を落とすことを本望と考えていた兵士であるから、怨霊となるはずがない。但し、戦後靖国神社は、鎮霊社建立やA級戦犯合祀により、怨霊慰撫型の要素を持つようになったというのが私の見方である。
「人間誰しも死んだら仏様になる」とか「人は誰でも死ねば神となる」とかいった理屈で靖国参拝を正当化しようとする人が多いが、これは祖霊崇拝型の発想であって、怨霊慰撫型とは異なる。怨霊の神(祟り神)は誰でもなれるということはない。遺念余執を持って死んだと想像できるような人物でないとなれない。
Wen-Tianxiang さんの文章に「さすがに戦犯として処刑された人を神として祀る神社を建てるのは政治的に難しいわけで、それで結局、A級戦犯の人達を靖国に祀ると言う事で政治決着したのではないかと思います」とあるが、A級戦犯合祀は、靖国神社が戦後民間の一宗教法人となって決めたことであり、政治決着という表現は適切ではない。
A級戦犯合祀を実施した靖国神社宮司は、松平永芳(まつだいらながよし; 1915年3月21日 – 2005年7月10日)である。松平は、戦中は海軍軍人(少佐正五位)で、戦後は陸上自衛官となり、退官後、福井市立郷土歴史博物館館長を経て、靖国神社宮司に就任した。軍人だったからこそ、戦犯として処刑された軍人の無念の思いが理解できたのだろう。
はじめまして。
靖国神社は御霊信仰(怨霊信仰)であると書かれていらっしゃいますが、当事者たちがその説を否定しています。
靖国神社職員有志の主張「靖国神社は御霊信仰(怨霊信仰)ではない」
ご一考のほどをお願いします。
靖国神社の祭祀が勲功顕彰型であることは最初の投稿で書いたとおりです。神社側は、怨霊崇拝であることを当然否定するでしょう。しかし、私がここで問題にしている「当事者」とは神社の職員ではなくて、神社を参拝している人たちです。そして、参拝する側の動機は怨霊崇拝ではないと言い切れるものではないと思います。もっともそういう人たちも、表立って、怨霊崇拝であると公言することはありません。それは、既に述べたとおり、「怨霊慰撫は、怨霊慰撫として行うと、怨霊慰撫にはならなくなるから」です。
ところで、リンク先に、このような文がありました。
靖国神社は御霊信仰(怨霊信仰)ではない (media) 職員有志 さんが書きました:
当神社は国家のために殉じた者のみを祀る神社ですから、国家に背いた輩はたとえ怨霊になる危険性があろうとも祀りません。そういうことは他の神社にお任せしたいと考えています。
しかし、靖国神社の境内には「靖国神社に祀られざる嘉永六年以降の日本及び諸外国の戦歿者の御霊を祀る」鎮霊社があり、祀られる対象には、西郷隆盛のような「国家に背いた輩」も含まれるので、この文は正しいとは思えません。「他の神社にお任せ」するというのなら、なぜ鎮霊社を境内に建てさせたのでしょうか。
今回、安倍総理が、鎮霊社をも参拝したことに注目してください。靖国神社参拝を純粋に勲功顕彰型の祭祀としてしまうと、安倍総理が「戦犯を崇拝するために参拝しているという誤解に基づいた批判があるが、韓国や中国の人々の気持ちを傷つけようという考えは毛頭ない」と言っても、外国人には理解できません。外国人にそうした釈明を理解してもらおうとするなら、日本の伝統的な神崇拝のあり方を説明するべきでしょう。
あと数十年たてば、日本の政治家も、戦後生まれの親に育てられた世代ばかりになるだろう。彼らが怨霊慰撫型の参拝をするとも思えない。ま、その頃には天皇家が無嗣断絶しているかもしれないな。
時代とともに宗教が影響力を失いつつあるという傾向があるにせよ、怨霊信仰が敗戦をきっかけに無くなったという事実はありません。最近の実例を挙げると、今月9日に放送された読売テレビの番組「ミヤネ屋」で、司会の宮根誠司がパネルを使って、号泣で有名になった野々村竜太郎県議の特集をしている最中、パネル下の隙間から青白い顔をした人物が出現し、バッシングを受けた野々村県議の生霊ではないかという噂が出ました。ちなみに生霊とは「生きている人の恨みや執念が怨霊となって人にたたるもの[10]」で、普通に考えれば、たんに番組スタッフが映り込んだに過ぎないのに、こういう噂が出て、広がるということは、怨霊信仰がまだ健在である証拠です。
- 島田裕巳『靖国神社』幻冬舎 (2014/9/19).
- 小堀桂一郎『靖国神社と日本人 (PHP新書)』PHP研究所 (1998/7/21).
- 高橋哲哉『靖国問題 (ちくま新書)』筑摩書房 (2005/4/10).
- ↑ここでの議論は、システム論フォーラムの「なぜ日本の政治家は靖国神社を参拝するのか」からの転載です。
- ↑自由民主党「カフェスタ年末特番!ゆく年くる年」2013年12月26日.
- ↑“靖国神社拝殿(2007年12月9日撮影)" by Lover of Romance. Licensed under CC-BY-SA.
- ↑レコードチャイナ. “中国は毛沢東、日本は靖国=「共通点はどちらも中国人を殺した『鬼』を参拝」.” 2013年12月26日(木) 16時37分.
- ↑但し、安倍総理本人は、極東国際軍事裁判を不当と感じているようだ。2007年8月23日に、安倍総理は、極東国際軍事裁判でインド代表判事を務めた故パール判事の長男プロシャント・パールに面会し、「お父様は今でも多くの日本人の尊敬を集めています」と述べ、東京裁判で被告全員の無罪を主張したパール判事の業績を称えた。もっとも安倍総理は個人的な見解を今のところ抑制しているし、少なくとも、極東国際軍事裁判の判決の否定は内閣の公式見解ではない。
- ↑“「どの国でも同じような行為・・・」新藤大臣が靖国参拝" ANN. 2013/12/31.
- ↑Isaac Stone Fish. “Will Shinzo Abe’s Yasukuni Visit Hurt Relations in Washington?" DECEMBER 28, 2013. Foreign Policy.
- ↑“全国戦没者追悼式" Wikipedia. 2013-11-24T16:46:41.
- ↑追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会. “追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会" 平成14年2月1日.
- ↑『大辞林』三省堂; 第3版 (2006/10/27).
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