6月 302013
 

ローマ・カトリック教会は、地動説を提唱したかどでガリレオを有罪にした。キリスト教が地動説を異端視したのは、たんにそれが『聖書』の記述に反するからだけではない。ユダヤ教やキリスト教は、母権宗教の克服により成立した父権宗教であり、ローマ・カトリック教会は、母なる大地が自ら勝手に動き出し、それが父なる神を象徴する太陽を没落させるという地動説の含意が、自らの支配を危うくする母権宗教の復活と感じたからだ。ガリレオは、俗語でわかりやすく対話篇を書いたので、その自然に対する認識は大衆に広まった。ローマ・カトリック教会は、母なる自然の真理に目覚めた大衆が自ら勝手に動き出し、それがローマ・カトリック教会を没落させることに危機感を抱いていた。この二重の意味で、ガリレオはローマ・カトリック教会の支配の脅威とみなされ、有罪となった。

1 : キリスト教は本当に地動説を弾圧したのか

ガリレオ・ガリレイ (Galileo Galilei; 1564 – 1642) が、天動説を斥け、地動説を支持したかどで宗教裁判 (Inquisitio 異端審問) にかけられ、教皇庁検邪聖省 (Congregatio pro Doctrina Fidei) から異端誓絶を強要された後、「それでも地球は動いている (E pur si muove)」と呟いたという逸話は有名である。このエピソードは、しかしながら、よく考えてみると眉唾物である。もしも「それでも地球は動いている」という呟きが周囲に聞こえたなら、異端審問がやり直しになるはずだし、もしも周囲に聞こえないような小さな声で呟いていたのなら、このようなエピソードが後世に伝わるはずはない。

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Fig.01. 異端審問を受けるガリレオ・ガリレイを描いた19世紀の想像図。[1]

ガリレオが本当に「それでも地球は動いている」と呟いたかどうかは別としても、彼が、1633年に異端審問を受けたことは史実であり、もし異端誓絶を拒んだならば、33年前に異端誓絶を拒否してローマで火刑に処せられたジョルダーノ・ブルーノ (Giordano Bruno; 1548 – 1600) と同じ運命をたどったかもしれない。この裁判の結果、ガリレオは、監視付きの邸宅で軟禁となり、すべての役職が剥奪され、地動説を正当化したガリレオの著作『天文対話』は禁書となった。

しかし、ローマ・カトリック教会は、最初から地動説をこのように徹底的に弾圧していたのではなかった。ガリレオに先立って、地動説を提唱したニコラウス・コペルニクス (Nicolaus Copernicus; 1473 – 1543) の『天球回転論』は、コペルニクスが死去した1543年に出版され、ローマ・カトリック教会の管轄下でも禁書となることなく自由に読まれていた。地動説を提唱したことで有罪となったのはガリレオだけであり、このためキリスト教が地動説を弾圧したという史実を疑う者すらいる[2]。そこで、まずは、キリスト教が地動説を異端視していたという事実を確認し、その上でなぜ有罪となったのがガリレオだけだったのかを説明しよう。

1.1 : 地動説は最初から問題視されていた

地動説は、コペルニクスが近代になって初めて提唱した当初から、カトリック、プロテスタント双方によって異端視されていた。まずはカトリックの方では、1547年に、ジョバンニ・トロサーニ (Giovanimaria Tolosani) が『天球回転論』を批判する論文の草稿を書いた。そこに書かれているように、当時、トロサーニのドミニコ会の同僚で、教皇宮廷神学顧問であったバルトロメオ・スピナ (Bartolomeo Spina) が『天球回転論』を断罪しようとした。

教皇宮廷神学顧問がこの書物を断罪しようとしたが、病気とそれに続く死去によってその意図を達成できなかった。しかし私は、この小著において、聖なる教会の共通の利益のために真理を保持しようとして、それを仕上げようとした。[3]

ところが、1547年に死去したスピナに続いて、トロサーニもまた1549年に死去し、その結果、地動説を断罪したこの草稿が出版されることはなかった。後継の教皇宮廷神学顧問は、教皇とともに『天球回転論』を問題視せず、こうしてこの本は、無修正のまま読まれることとなったが、その背景にはこうした偶然があったのである。

プロテスタントの方の批判はこれよりも早かった。コペルニクスは、『天球回転論』の出版に先立って、太陽を中心とする新しい宇宙体系を説いた手稿『コメンタリオルス (Commentariolus($2)』を知人や同僚たちに読ませていた。宗教改革の旗手、マルティン・ルター (Martin Luther; 1483 – 1546) は、1539年に『[http://www.amazon.co.jp/dp/4622040921/?tag=n08-22 コメンタリオルス』の地動説の噂を聞き、次のように述べてこれを批判した。

このばか者は天文学全体をひっくり返そうとしている。ヨシュアが留まれと言ったのは、太陽に対してであって、地球に対してではない。[4]

しかし、聖職者が政治的権力を持たない新教国は一般に地動説には寛容であった。ドイツの天文学者で、プロテスタントのヨハネス・ケプラー (Johannes Kepler; 1571 – 1630) は、コペルニクスの天文学を発展させたが、その地動説ゆえに身に危険が及ぶことはかった。コペルニクスは、カトリック司祭であったが、生前、ローマ・カトリック教会から迫害を受けたことはなかった。では、地動説を唱えたという点では同じなのに、なぜガリレオは処罰され、コペルニクスやケプラーは処罰されなかったのか。これにはいくつか理由がある。

1.2 : 地動説の弾圧は時期と地域が限定されていた

まず時期の問題である。コペルニクスが天文学的な研究をしていた頃、ローマ・カトリック教会は、325年のニケーア公会議で採用したユリウス暦と現実の季節とのずれを問題視し、正確な暦法を新たに制定するために、天文学者たちの自由な研究を奨励しなければならなかった。もちろん、ローマ・カトリック教会は、決して地動説を容認していたわけではなく、コペルニクスの地動説も、実在性のない数学的仮説、計算を簡単にするための道具的便法として許可していただけである。

コペルニクス本人は、プラトン主義者で、数学的天文学の実在性を信じていたが、そうした思想が異端とみなされる可能性は十分自覚していた。そのことを裏付ける手紙の抜粋が、ケプラーの著作『Apologia Pro Tychone Contra Ursum (ウルススを反駁しティコを弁明する)』に掲載されている。以下は、1541年4月20日にコペルニクスが、ルター派の説教師、アンドレアス・オジアンダー (Andreas Osiander; 1498 – 1552) から受け取った返信の内容である。

私は、諸仮説は信仰の箇条ではなく、むしろ計算のための基礎であり、たとえそれらが誤りであるとしても、運動の現象を正確にもたらしてくれさえすれば、何も問題はないと常々考えております。なぜなら、プトレマイオスの諸仮説に従うとして、太陽の不等運動が生じるのは周転円のためなのか、それとも離心円のためなのかを誰が我々に確信させてくれるというのでしょうか。いずれの仕方においてもそれは可能なのですから。そこで、このことについて序文の中であなたがいくらか触れておいた方がおそらく好ましいと思われます。というのも、そうすれば、反対を惹起することになるのではないかとあなたが恐れているアリストテレス学派や神学者たちを宥めることになるでしょうから。[5]

コペルニクスがオジアンダーに宛てた手紙は残っていないが、この文面から、コペルニクスは、アリストテレス学派や神学者たちから異端として断罪されることを懸念し、オジアンダーに意見を求める手紙を書いていたことが推測される。だから、コペルニクスが生前『天球回転論』を出版しなかったのは、宗教的な迫害を恐れていたからと考えることができる。

彼の死後出版された『天球回転論』には、オジアンダーが神学者からの攻撃を避けるために書いた序文「この著作の仮説に関して」が付けられた。この序文は無署名だったため、当時の読者は、コペルニクスが書いたものと誤解していた。この序文は、地動説の計算を簡単にするための数学的仮説であることを断った上で、以下のような天文学の意義を否定するような文で締め括られている。

誰に対しても[地動説の]諸仮説に関することで何か確実なことを天文学から期待させてはいけない。天文学は決してそうしたものを提供することができないからだ。別の用途[数学的計算]のために作られたものを真なる[実在する]ものと取ってしまい、入った時よりもずっと愚かになってこの学問から出ていくことにならないように。[6]

この序文が功を奏したのか、アリストテレス学派や神学者たちから表立った非難を受けることなく、『天球回転論』は、1616年まで無修正のまま自由に読まれた。ところが、ケプラーは、1609年に出版した主著『新天文学』において、序文はオジアンダーが書いたものであり、コペルニクスが賛同した内容ではなかったことを暴露した。この話が広まるにつれて、ローマ・カトリック教会は、コペルニクス説に対する態度を硬化させるようになった。

1582年にグレゴリウス暦を制定すると、ローマ・カトリック教会には、天文学の科学的研究を保護する必要がなくなった。そして、このころから、ローマ・カトリック教会は、勃興するプロテスタントと戦うために、思想的な寛容を失うようになる。1600年にブルーノが異端審問の結果、処刑された。ブルーノは地動説を提唱したがゆえに処刑されたのではなかったが、ブルーノは、『無限、宇宙および諸世界について』などの著作で地球を宇宙の中心とする天動説を否定しており、それがきっかけで、1616年からローマ教皇庁は地動説の禁止を強化するようになったのではないかとトーマス・クーンは推測している[7]。ガリレオが一回目の異端審問を受け、コペルニクスの『天球回転論』が、いったん閲覧禁止となったのは、1616年のことである。この本は、問題視された九箇所が削除された後、1620年に閲覧が再度許可されたが、再版は許されなかった。フォスカリーニ (Paolo Antonio Foscarini; 1565 – 1616) が1615年に書いた地動説を正当化する著作[8]は、全面禁止となった。

地動説の弾圧は、時期的にだけではなくて、地域的にも限定されていた。当時のローマ教皇庁検邪聖省は、イタリア国外にまで力が及ぶことはなかった。禁書目録ですら、イタリア国外ではほとんど無視されていた。ブルーノは、1576年にカトリック教会から異端の嫌疑をかけられたが、1592年にヴェネチアで逮捕されるまで、イタリア国外で自由に異端の説を公刊していた。ドイツ在住のケプラーが提唱した地動説に基づく理論が迫害されなかったのもこのためである。仮にコペルニクスが1616年以降も生きていたとしても、せいぜいその著作がイタリア国内で発行禁止になるだけで、ポーランド在住だったコペルニクスがローマ教皇庁検邪聖省から召喚されることはなかっただろう。ガリレオがイタリアに生まれ、1616年以降のイタリアで研究をしていたのは、不幸なことであった。

1.3 : 俗語による教会批判は特に弾圧された

ガリレオがコペルニクスやケプラーとは異なって地動説で迫害を受けたもう一つ理由は、コペルニクスやケプラーが著書をラテン語で書いたのに対して、ガリレオは『天文対話』をはじめ、主要な著作をイタリア語で書いたというところにある。カトリック教会による言論弾圧の厳しさは、ラテン語の著作と俗語の著作とでは大きく異なっていた。エラスムス (Desiderius Erasmus Roterodamus; 1466 – 1536) は、ラテン語の著作でキリスト教会の腐敗を指弾したが、生前、教会から攻撃されることは一度もなかった。これに対して、俗語による教会批判や教会批判につながる『聖書』の俗語訳は、厳しい迫害の対象となった[9]

ルネサンス期には、『聖書』を俗語に翻訳することで、ローマ・カトリックの教義と『聖書』に書かれたイエスの教説が異なることを民衆に教える異端が続出した。『聖書』をプロバンス語に翻訳したリョンの商人、ピエールー・ワルド (Pierre Valdo; 1140 – 1218) 、英語に翻訳したイングランドの聖職者、ジョン・ウィクリフ (John Wycliffe; 1320 – 1384) 、ウィクリフの影響を受けて、チェコ語に翻訳したボヘミア出身のヤン・フス (Jan Hus; 1369 – 1415) 、およびその追従者たちを、カトリック教会は激しく弾圧した。ブルーノも、キリスト教の教義とスコラ学を批判した『原因・原理・一者について』をイタリア語で出版したため、ローマ教皇庁検邪聖省から睨まれることとなった。ガリレオも『星界の報告』以外の主要著作をイタリア語で書き、かつそれらはよく売れたから、ローマ・カトリック教会はそれが大衆に与える影響を無視することができなかった。

では、なぜ俗語による教会批判は、ラテン語による教会批判よりも厳しい取り締まりの対象となったのか。この時代、ラテン語は聖職者の言語であり、一般人の中でラテン語を読むことができる人はほとんどいなかった。ラテン語で教会批判をしても、読むのは教会内部の人間か大学の知識人に限定されていた。これに対して、俗語で書かれた本は、一般人によって幅広く読まれた。特にガリレオが本を出版した時代、活版印刷術が既に普及しており、『天文対話』などは、千部も印刷された。これは、当時としては大部数であった。ガリレオはわかりやすい言葉で対話篇を書いたので、大衆の間でも人気があったのだ。もしもローマ・カトリック教会の教義に間違いがあることが一般大衆に知れ渡ったら、それは教会の支配権力を脅かすことになる。

だから、同じ教会批判の書であっても、身内が読むラテン語で書くのと一般大衆が読める俗語で書くのとでは、教会に与えるダメージが異なるのである。それは、会社が抱える内密の問題を知った従業員が、その改善を上司に訴えるのとゴシップ誌にタレコミするのとでは、会社に与えるダメージが異なるのと同じことである。前者は、機密が漏れないようにしながらうまく対処すれば、会社にとってポジティブな結果になるが、後者は、世間における会社の評判を毀損するから、会社にとってネガティブな結果にしかならない。

俗語印刷物の普及に対するローマ・カトリック教会の心配は決して杞憂ではなかった。それまで聖職者の説教を鵜呑みにしていた民衆は、俗語に翻訳された『聖書』を読んで、ローマ・カトリック教会にとって都合の良いように解釈されたキリスト教の教義とイエスの実際の教説との違いを知って愕然とし、ローマ・カトリック教会に対する不信感を高め、それが宗教改革につながったからだ。ルターが、1517年に『95箇条の論題』を書いた時、ラテン語を用いているところからもわかるように、ローマ・カトリック教会と対立するつもりはなく、あくまでも教会内部で問題を解決しようとしていた。しかし、『95箇条の論題』はすぐにドイツ語に翻訳され、それがきっかけとなって、ローマ・カトリック教会に対する民衆レベルの不満が爆発することとなった。カトリックは、プロテスタンティズム運動の広がりに対して様々な対抗措置を取ったが、ヨーロッパにおける地位の低下は避けられなかった。

1618年から、神聖ローマ帝国でのプロテスタントの反乱をきっかけに三十年戦争が始まった。1623年に即位したローマ教皇、ウルバヌス8世 (Urbanus VIII, Maffeo Vincenzo Barberini; 1568 – 1644) は、ローマ教皇領を包囲する領土を持つハプスブルク家の権力を削ごうとして、ブルボン家のフランス王国に味方した。だが、この教皇の判断は、カトリック内部で不評を買った。フランス王国自体はカトリックの国だが、プロテスタント側の国を支援していたからだ。特にスペインの枢機卿たちは、教皇は異端に対して甘いと公然と批判を行った。そこでウルバヌス8世は、批判をかわすために、異端の断罪を行うことにした。そして、スケープゴートとして選ばれたのがガリレオであった。

ガリレオは、ウルバヌス8世とは、教皇になる前から親交があり、教皇となった後も六回拝謁を許されている。それで気が緩んだのか、ガリレオは、大きな間違いを犯した。ウルバヌス8世がコペルニクス説について語った言葉を、『天文対話』に登場する頭の悪いアリストテレス派の天動説論者、シンプリーチョの口を通して語らせたのである。それを知ったウルバヌス8世は、この書が自分を侮辱していると受け取って気分を害した。教皇庁検邪聖省は、1616年の異端審問において、地動説をいかなる形でも抱き、教え、擁護もしないとガリレオが誓約したとする証拠文章を捏造し、この本がそれに反しているとして、ガリレオに出頭を命じた。こうして二回目の異端審問が始まったのだった。

2 : 地動説はなぜ聖書の教義に反するのか

ガリレオ裁判には、さまざまな要因があったものの、地動説がキリスト教に反する思想であったことこそが最も本質的な理由であった。ルターやトロサーニの発言を引用するまでもなく、コペルニクスが地動説を唱えた時から、カトリックかプロテスタントかにかかわらず、それが『聖書』の記述と矛盾する異端的な思想であるという認識がキリスト教徒の間で共有されていた。では、地動説は、『聖書』のどのような記述と矛盾するのだろうか。そして、それはどのような宗教的問題を孕んでいるのだろうか。『聖書』には、日は出で、日は没し、その出た所に急ぎ行く[10]といった表現が出てくるが、こうした表現は、地動説を信じている現在の我々も便宜上使っている表現であり、かつ特別に宗教的な含蓄があるわけでもないので、問題はない。問題となるのは、以下の二つである。

2.1 : 地動説は神の支配による大地の安定を否定する

まず、『聖書』には、神の支配のおかげで大地が安定し、不動となったと述べている箇所が複数 (詩篇,93:1;96:10;104:5;歴代志上,16:30) ある。以下はその一例である。

主こそ王。威厳を衣とし、力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。[11]

ここに出てくる「世界 (תֵּ֝בֵ֗ל)」は「大地 (הָאָ֔רֶץ)」と同じではないが、以下の件からもわかるように、神が世界を支配しているがゆえに、大地が動こうとしても、動くことができない。

全大地よ、御前に震えよ。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。[12]

神の支配による大地の安定には重要な象徴的意味がある。ユダヤ教やキリスト教は、天を聖なる場所とする父権宗教であり、それ以前に存在した、地母神崇拝の母権宗教と対立する関係にある。だから、神が大地を安定させることは、父権宗教が母権宗教を克服したことの象徴となりうるのである。換言するならば、大地が動き出すことは、神の支配が衰えることを意味する。キリスト教の聖職者たちは、地球が動くということは、すでに征服しておとなしくなっていたはずの地母神が不穏な動きと受け取ったのである。

第一次ガリレオ裁判における訴訟指揮の最高責任者だったベルラルミーノ枢機卿 (Roberto Francesco Romolo Bellarmino; 1542 – 1621) は、フォスカリーニに宛てた手紙の中で、地動説の問題点を次のように指摘している。

私は、あなたとガリレオ氏が、コペルニクスがそうしたと私が信じるように、絶対的にではなくて、仮説的に語ることに慎重にも甘んじているようにお見受けします。地球が動き、太陽が静止していると想定すれば、離心円や周転円を用いるよりも現象をよく説明できるということならかまいません。それは何ら危なくないし、数学者にとってはそれで十分です。しかし、太陽が実際に天の中央に固定され、自転するだけで東から西に動かず、地球が三番目の天球に位置して、太陽の周りをたいへんな速度で公転するということを肯定しようとするなら、それはたんにすべての哲学者やスコラ神学者を苛立たせるだけでなく、私たちの聖なる信仰を傷付け、聖書を偽りとするがゆえに、きわめて危険です。[13]

コペルニクスの『天球回転論』の出版を許可した時もそうであるが、キリスト教の聖職者たちは、地球が実際に動いていると言ってはいけないが、地球が動くことが理論的に可能だと主張することには問題がないと考えていた。これはたんなる妥協ではない。もしも、大地がもともと動きようのないものとするのなら、大地が安定しているのは、神の支配のおかげではないことになる。大地が理論的には動きうるが、実際には動いていないということは、神の偉大さを認識するためにはむしろ必要だったのである。

2.2 : 地動説は神の意志による太陽の停止を否定する

聖書』には、さらに、神の意志で太陽が静止したり、逆行したりすることが語られている箇所がある。まず、列王記下 (20:8 – 11) には、神の恩寵の目に見えるしるしとして、日影を逆行させたという話が出てくる。

ヒゼキヤはイザヤに言った、「主がわたしをいやされる事と、三日目にわたしが主の家に上ることについて、どんなしるしがありましょうか」。

イザヤは言った、「主が約束されたことを行われることについては、主からこのしるしを得られるでしょう。すなわち日影が十度進むか、あるいは十度退くかです」。

ヒゼキヤは答えた、「日影が十度進むことはたやすい事です。むしろ日影を十度退かせてください」。

そこで預言者イザヤが主に呼ばわると、アハズの日時計の上に進んだ日影を、十度退かせられた。[14]

これは地球の自転を逆方向にしても起きる現象だから、この箇所を天動説の根拠とすることは難しい。動いているのは太陽の方であり、神がそれを止めたということがもっと明示的に書かれているのは、ヨシュア記の以下の箇所 (10:12 – 14) であり、ルターもこれを根拠にして地動説を批判したのだった。

主がアモリびとをイスラエルの人々にわたされた日に、ヨシュアはイスラエルの人々の前で主にむかって言った、「日よ、ギベオンの上にとどまれ、月よ、アヤロンの谷にやすらえ」。

民がその敵を撃ち破るまで、日はとどまり、月は動かなかった。これは『ヤシャルの書』に記されているではないか。日が天の中空にとどまって、急いで没しなかったこと、おおよそ一日であった。

これより先にも、あとにも、主がこのように人の言葉を聞きいれられた日は一日もなかった。主がイスラエルのために戦われたからである。[15]

もし、太陽がもともと動いていないのなら、太陽に「とどまれ」ということは無意味になる。イスラエルの英雄の讃美歌『ヤシャルの書』からの引用ではあるが、キリスト教徒は、神が日照時間を延長するという奇跡を起こしたことで、イスラエルの民はその敵を打ち破ることができたという言い伝えを『聖書』が伝える真実の歴史として受け取っていた。

ガリレオは、しかしながら、この箇所はむしろプトレマイオスの天動説と矛盾すると『A madama Cristina di Lorena granduchessa di Toscana (クリスティーナ大公妃への手紙)』の中で言っている。プトレマイオスによれば東から西への日周運動は天球全体の運動であり、太陽独自の運動は、西から東への年周運動であるから、その運動を止めてしまうと、かえって日没が早くなってしまうというわけである。ガリレオは、一日を延ばすためには本来不要であるはずの月の動きまでも神が止めていることに注目し、神が止めたのは太陽だけではなく、全天体の動きであり、その中には地球も含まれているとして、この箇所がガリレオの地動説とは矛盾しないという独自の解釈を提示している。

ガリレオは、さらに「日が天の中空にとどまる」という表現に注目した。「中空 (הַשָּׁמַ֔יִם בַּחֲצִ֣י)」を正午における太陽の子午線上の位置と解釈すると、なぜ日没ではなくて、まだ時間的余裕がある正午に日照時間の延長を神に依頼する必要があったのかという疑問が生じる。そこで、ガリレオは、「日が天の中空にとどまる」という表現は、太陽が正午の子午線上の位置を維持し続けるということではなくて、太陽が宇宙の中空に位置し続けるという太陽中心説的なコスモロジーを表していると解釈する。これは、しかしながら、牽強付会である。

ヨシュア記』の著者は、プトレマイオス説もコペルニクス説も知らずに書いたのだから、これらの説を援用してこの記述を説明することはどちらも時代錯誤である。もともと『ヤシャルの書』の著者がたんに戦いが長く感じられたということを誇張して書いたものを『ヨシュア記』の著者が神の奇跡として解釈したというのが実態なのだろうが、『聖書』の他の箇所と同様に、ここでもキリスト教独自の象徴を読み取ることが可能である。

ヨシュア記』によると、ヨシュアが率いるイスラエル軍に服従したギベオンをアモリ人たちは裏切りと非難し、ギベオンを攻撃しようとした。そこで、ギベオンは、ヨシュアに援助を請い、イスラエル軍は夜を徹して駆けつけ、アモリ人をギベオンで急襲した。混乱したアモリ人がベテホロンの坂を通って逃げる時、神は雹を降らせ、アモリ人を多く殺害した。イスラエル軍によって剣で殺害されたものよりも、雹に打たれて死んだものの方が多かった。

雹が降るということは曇りだから、太陽と月を雲の上で静止させることにはあまり意味がないように思える。以下の絵画はこの時の様子を描いたジョン・マーティンの作品『ギベオンの上に止まれと太陽に命ずるヨシュア』で、晴れなのか曇りなのかはっきりしない天気になっているが、一応『ヨシュア記』の記述通り、ギベオンの町の上には太陽が輝き、アモリ人との戦いが行われるアヤロンの谷の方向には、今にも雹が降ってきそうな雲が重く垂れこみ、月の光が弱々しく射している。

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Fig.02. ギベオンの上に止まれと太陽に命ずるヨシュアを描いた John Martin (19 July 1789 – 17 February 1854) の1827年の絵画。[16]

ガリレオは、日照時間を延長し、戦いをイスラエル軍にとって有利にするために神が太陽を静止させたと考えていたようだが、それは雹を降らせた話と整合的ではない。神は晴れの天気で雹を降らせたのかもしれないが、暗いよりも明るい方が戦いやすいということはどちらについても言えることで、イスラエル軍にのみ有利とは限らない。仮に日照がイスラエル軍にのみ有利であるとするなら、太陽はギベオンの上ではなくて、戦場となったアヤロンの谷の上で輝かなければならないのだが、そうはなっていない。ではなぜ「主がイスラエルのために戦われたから」という理由で、太陽がギベオンの上で、そして月がアヤロンの谷の上で静止しなければならなかったのか。

ここで、太陽と月が何を象徴するのかを考えよう。太陽が父を、大地が母を象徴するのに対して、月は両性具有の性質を持つ。インノケンティウス3世 (Innocentius III; 1161 – 1216) は、教皇と皇帝を太陽と月、魂の支配者と肉体の支配者の関係に喩えている[17]が、これは、世俗の権力者である皇帝を、教皇と一般民衆との中間に、あるいは肉体を魂と物質の中間に位置付けるためである。父権宗教は偶像崇拝を禁じているので、太陽を神そのものとみなすことはできないが、太陽を父権宗教の象徴とみなすことならできる。太陽がギベオンの上に留まったということは、ギベオンが味方であり、月がアヤロンの谷の上に留まったのは、そこでは敵と味方が混ざって戦っていたことを象徴しているのである。太陽も月も光を発するが、光は、父権宗教の権威と真実を象徴する。戦いが終わるまで、太陽と月が没しなかった、すなわち父権宗教の象徴である光がイスラエル人を見捨てなかったことを描写することで、男神ヤハウェの御加護があったことが表現されている。

こうした象徴主義的解釈が正しいなら、地動説を唱えることは、たんに『聖書』の記述に反する以上のこととなる。ガリレオは、バロニウス (Cesare Baronio; 1538 – 1607) の言葉を引用して、聖霊が意図していることは、いかに天が行くかではなく、いかに天に行くかを私たちに教えることです[18]と言っているが、後者は前者とは無関係ではないということである。

というのも、もしも、太陽の日周運動が、地球の自転によって起こるのだとするならば、昼と夜を交代させているのは、天ではなくて、大地ということになるからだ。つまり、地動説を肯定することは、光の現前と不在を支配する権力が父なる天から母なる大地へと委譲されることを容認することになるから、キリスト教のような父権宗教としては、このような権力の自己否定を認めるわけにはいかなかったのである。

2.3 : 宇宙の中心が地球か太陽かは争点ではなかった

英語では、地動説のことを「太陽中心説 (the heliocentric theory)」、天動説のことを「地球中心説 (the geocentric theory)」と呼んでいる。しかし、地動説と太陽中心説、あるいは天動説と地球中心説は、概念的に同じではない。例えば、ヘラクレイデス (Ἡρακλείδης ὁ Ποντικός; c. 390 BC – c. 310 BC) やピタゴラス派のヒケタス (Ἱκέτας or Ἱκέτης; ca. 400 BC – ca. 335 BC) やエクパントス (Ἔκφαντος; 4th century BC)といった紀元前4世紀の哲学者たちは、地球は宇宙の中心にあって自転していると考えていたので、彼の説は、地動説にして地球中心説ということになる。今日の私たちのように、地球も太陽も宇宙の中心にはなく、かつ静止していないと考えるなら、地動説と天動説の両方を肯定し、地球中心説と太陽中心説の両方を否定することになる。

もちろん、ガリレオの時代において、典型的には、地動説は太陽中心説であり、天動説は地球中心説であった。古代ギリシャにおける前者の代表的な提唱者は、サモアのアリスタルコス (Αρίσταρχος ο Σάμιος; 310 BC – 230 BC) であり、後者の代表的な提唱者は、アリストテレス (Ἀριστοτέλης; 384 BC – 322 BC) である。これに対して、コペルニクスの時代まで最も支配的な天文学のモデルは、プトレマイオス (Κλαύδιος Πτολεμαῖος; c. AD 90 – c. AD 168) のシステムだったのだが、彼は、太陽が年周運動でたどる円軌道を、地球からはずれた点を中心とする離心円としていたので、プトレマイオスの理論は、厳密に言えば、地球中心説ではない。しかし、ローマ・カトリック教会がそのような些事に目くじらを立てることはなかった。彼らにとっては、太陽と地球のどちらが動くかという問題の方が宇宙の中心がどちらかという問題よりも重要だったのである。

しばしば、地球中心説から太陽中心説へのパラダイム・シフトは、脱人間中心主義として特徴付けられる[19] が、ローマ・カトリック教会が地動説を迫害したのは、地球中心主義や人間中心主義を放棄したくなかったからではない。地球中心主義や人間中心主義は、むしろアリストテレス哲学に特有の考えである。アリストテレスによれば、四元素の中で最も重い元素である土は、宇宙の中心に向かう性向があり、その結果地球は宇宙の中心にある。これに対して、火のような軽い元素は、宇宙の中心から離れようとする性向がある。天体は、地上にある四元素よりも軽いエーテルという元素から成り立っており、人間の住む地上の世界と天上の世界は質的に異なるとアリストテレスは考えた。ローマ・カトリック教会はこうしたアリストテレス哲学の命題を受け入れたが、それは本来のキリスト教とは無関係であり、ガリレオによるアリストテレス哲学批判も、地動説と結びつかない限り迫害する必要はなかったのである。

1620年に、教皇庁検邪聖省は、コペルニクスの『天球回転論』に何箇所かの訂正を命じている。検邪聖省は、第5章の宇宙の中心について述べた箇所に対しては、地球が宇宙の真中にあると考えようが、真中から外れたところにあると考えようが、どうでもよい[20]と訂正させているのに対して、第8章に対しては、地球の運動の真理性について公然と取り扱い、その静止を証明する古の伝統的諸論拠を破壊しているから、章全体が抹殺の対象となりうる[21]と書いている。ローマの教皇庁が、太陽中心説と地動説のどちらを問題としていたかは明白である。

3 : キリスト教による弾圧の本質は何か

キリスト教がなぜ地動説を弾圧したのか、ガリレオはなぜ有罪となったのか、その本質的な理由を探るには、偶然的な理由を捨象して、キリスト教が一般にどのような思想弾圧を行ったかというもっと広い観点から考えなければならない。ここでは、異端審問と魔女裁判、地動説と進化論という二つのキリスト教による迫害事例を取り上げ、その共通点を考えてみたい。

3.1 : 異端審問と魔女裁判の共通点は何か

魔女裁判が異教徒かどうかを判決する裁判であるのに対して、異端審問はキリスト教内部での正統性をめぐる裁判であるという点で、両者の性格は異なる。それにもかかわらず、両者は、有罪者を火炙りにするという共通点を持っていた。中世のヨーロッパには、死刑には、他にもいろいろな種類があったにもかかわらず、なぜ、魔女と異端者に対しては、火刑だったのか。

その理由は、父権宗教と母権宗教の対立を考えれば、明らかである。火は、光と同様に太陽の属性であり、父権宗教の象徴である。したがって、魔女や異端者は、有罪者は、父権宗教にとっては、敵か裏切り者かの違いはあっても、排除するべき異質な存在であることに変わりはないので、父権宗教の象徴である火で焼き尽くすことは、象徴的なセレモニーなのだ。

あなたたちは注意して、あなたたちの主があなたたちと結ばれた契約を忘れず、あなたたちの主が禁じられたいかなる形の像も造らぬようにしなさい。

あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである。[22]

もちろん、無知の暗闇をキリスト教の真理の光で啓蒙するという意味も込められている。イギリスでは、18世紀の末まで、火刑が、女性の犯罪者一般を死刑にするときに使われたという事実は、火刑が、父権宗教が母権宗教の残滓に対して行うジェンダー・コンシャスな刑罰であったことを物語っている。

魔女が、サバト (悪魔との宴会) に参加するのは深夜である。光が父権宗教の象徴であるのに対して、闇は母権宗教の象徴であるからだ。太陽が姿を消すと、それまで太陽の光 (キリスト教の真理) のおかげで見えなかった、ギリシャ神話やローマ神話に登場する異教徒の神の名がつけられた惑星が現れ、サバトのダンスのような不規則な軌道を描きながら、闇夜を跋扈する。太陽が規則正しい軌道[注]を描く秩序の象徴であるのに対して、惑星は、その名の通り迷える星で、無秩序の象徴である。

[注]天動説論者は地球を回る太陽の運動が、地動説論者は太陽を回る地球の運動が等速円運動ないしはその組み合わせだと根拠もなく信じ込んでいた。ケプラーはそうでないことを発見したのだが、ケプラーも楕円軌道の法則と面積速度一定の法則を受け入れるのに相当な抵抗を感じていた。太陽の秩序と完全さに対する思い込みはそれだけ強かったということである。

サバトは夜明けを告げる鶏の鳴き声で終わるのだから、魔女を火炙りによって抹殺することは、日の出とともに、悪魔や魔女が消えていく現象の再現と見ることができる。もし天動説が正しいのなら、父なる天は自らの意志で太陽を昇らせ、悪魔と魔女を消し去ることができるとういことになる。だが、もし地動説が正しいのなら、母なる大地は、自らの意志でサバトを開催し、太陽を消し去ることができることになる。これは、父権的宗教の聖職者にとっては、母権的宗教の許しがたい越権行為である。

魔女や異端が母権宗教を崇拝していたとはかぎらないのだが、キリスト教が成立した当初は、異教徒のほとんどは地母神崇拝者だったから、異端者や異教徒は、母権宗教の崇拝者としてステレオタイプ化され、画一的な方法で処刑されたというわけである。実は、地動説も、もともとはネオプラトニズムのような太陽崇拝の父権宗教から生まれたのだが、ローマ・カトリック教会は、むしろなまじ自分たちに近いからこそ、ネオプラトニズム、あるいは遡ってプラトニズムやピタゴラス学派を警戒していた。ベラルミーノ枢機卿などは、プラトニズムを危険視するあまり、ローマ大学サピエンツァ校(Università degli Studi di Roma)にあったプラトニズムの教授職を廃止することすら提案していた。

ベラルーミは、プラトニズムにはアリストテレス主義以上に油断のならない思想が忍び込んでいると考えていた。もっともその理由は、プラトニズムがアリストテレス主義より誤っているからというのではなくて、より欺瞞的なキリスト教との親和性を持つからというものだった。それゆえ、プラトニズムは異教以上に危険ということで、ベラルーミは、そのポストの廃止を進言した。[23]

キリスト教もネオプラトニズムも太陽の光のほうが大地の暗さよりも崇高と認識していた点では同じだったが、ネオプラトニズムが宇宙の中心を太陽が鎮座する最も崇高な場所としたのに対して、キリスト教は、宇宙の中心、すなわち地球の中心は地獄が存在する最も悲惨な場所とみなしていたという点で異なる。

3.2 : 地動説と進化論に共通の宗教問題とは何か

19世紀になると、地動説以上にキリスト教徒にとって容認できない科学の学説が現れた。進化論である。特に、チャールズ・ダーウィン (Charles Robert Darwin; 1809 – 1882) が、1859年に出版した『種の起源』は、キリスト教の聖職者たちから厳しく非難された。それは、ダーウィンが指摘した進化という事実が、神はすべての生物を個別に創ったとする『聖書』の記述に反しているからだけではなくて、父権宗教の根本的な教義に反しているからである。

進化論は、ダーウィン以前から存在したのだから、ダーウィンの『種の起源』の歴史的意義は、進化という事実を指摘したことではなくて、進化を自然選択によって説明したことにある。これは、種の創造が、父なる神ではなくて、母なる自然によってなされたということである。しかも、自然選択は、偶然的盲目的であるから、神によって理性の光のもとで生命が創造されたことをも否定することになる。さらに、ダーウィンは、自然選択の一種として、性的選択の役割をも重視した。進化の決定権がオスではなくて、メスの方にあるということであるから、これも男から女が作られたとする『聖書』の教義に反する。

当時のキリスト教徒にとって最も受け入れがたかったことは、神の姿に似せて創造されたと教えられてきた人間の祖先が、人間以下と信じてきた動物から進化したという考えであった。父権宗教であるユダヤ教とキリスト教が登場するまでは、人々は動物あるいは半人半獣の神を崇拝していた。動物が人間以上の畏れ多い存在から人間以下の軽蔑すべき存在へと貶められたのは、反自然的な父権宗教が支配的になってからのことである。父権宗教にとって、自分の祖先を動物とみなすことは、かつて克服したトーテム信仰やアニミズムなどの母権宗教の復活を意味していたので、許容できなかったのである。

ダーウィニズムとキリスト教の対立は、「動物」対「人間」、「母なる自然」対「父なる神」、「盲目的偶然」対「理性の光」という母権宗教と父権宗教の根本的対立に基づいている。父権宗教が、それ以前支配的だった母権宗教の克服の上に成り立ったという歴史的経緯からして、キリスト教は、母なるものが自分の意志で勝手に動くことを許さない。キリスト教が地動説を弾圧したのは、母なる大地が、父なる神の支配を無視して勝手に動き出すことを禁止するためだったし、進化論を弾圧したのは、母なる自然が、父なる神の支配を無視して勝手に生命の創造を行うことを禁止するためだった。ローマ・カトリック教会は、今日もはや進化論も地動説も否定しなくなったが、一部のキリスト教徒はいまだに両者を拒否している。

3.3 : ガリレオと教会は相互に誤解していた

キリスト教が地動説を弾圧し、ガリレオを有罪にした背景には、父権宗教特有の象徴主義があることを前節で確認した。ローマ・カトリック教会は、太陽が自ら動くことによってではなく、地球が動くことによって日没が起きるとする地動説に、母なる大地が自ら勝手に動き出し、それが父なる神を象徴する太陽を没落させるという含意を読み取り、そこに、自らの支配を危うくする母権宗教の復活と感じた。ローマ・カトリック教会は、ガリレオが俗語で書いたわかりやすい対話篇を読んで、母なる自然の真理に目覚めた大衆が自ら勝手に動き出し、それがローマ・カトリック教会を没落させることに危機感を抱いた。この二重の意味で、ガリレオはローマ・カトリック教会の支配の脅威とみなされ、有罪となったというのが本稿の結論である。

もちろん、ガリレオ本人にはローマ・カトリック教会の支配を揺るがせようとする意図は全くなかった。ガリレオは敬虔なキリスト教徒であり、自分の地動説に異端性があるとは思っていなかった。だから彼は、ローマ・カトリック教会の管轄下から亡命しようと思えばできたのに、それをしなかった。ローマ・カトリック教会を批判したり侮辱したりする意図がなかったのだから、その意味では、ガリレオの地動説は、1616年2月24日に出された第1回目の異端審問の結論にあるように、たんに形式的に異端[24]であったにすぎない。二回目の異端審問では、もはや形式的とはみなされなくなったのだが、いずれにせよ、象徴というのは本来形式的なものであり、形式的であっても、それは反キリスト教的な象徴的含意を持ちえたのである。

ガリレオはそうした象徴的含意を理解せず、地動説が『聖書』の文字通りの解釈に反することだけをローマ・カトリック教会が問題としていると誤解していた。ガリレオは、『聖書』の一字一句に拘泥するキリスト教の聖職者たちを批判して、神は聖書の尊いお言葉の中だけでなく、それ以上に、自然の諸効果の中に、すぐれてそのお姿を現したまう[25]と『クリスティーナ大公妃への手紙』の中で言って、地動説への理解を求めている。しかし、ガリレオは、ここで、『ヨハネ福音書』の冒頭にあるはじめに言葉があり、言葉は神と共にあり、言葉は神であった[26]という命題を思い起こさなければならない。父権宗教は、自然ではなくて言葉 (ロゴス) に優位を置く。「はじめに自然があった」と考えるガリレオは、キリスト教の聖職者からすれば、《自然=女》を崇拝する異端だったのである。

ガリレオがローマ・カトリック教会を誤解していた半面、ローマ・カトリック教会も近代科学を誤解していた。近代科学は、父権宗教を否定してかつての地母神崇拝を復活させようとする後退的な動きではなかった。17世紀科学革命は、人の一生に対応させるなら、それまで父に服従していた男の子が自立する時期に相当する。それは去勢以前の母子相姦への幼児後退ではなくて、むしろ両親両方の影響下から脱し、対等な女を求め、自ら父になろうとする自立なのである。全知全能の神に盲従していた人類が、全知全能の存在になろうとすることは、教会にとっては権力の喪失であるが、人類全体にとってはそうではない。

4 : 参照

  1. Galileo before The Holy Office (media) ThinkQuest.
  2. 地動説と宗教 (media) ウィキペディア日本語版 2013年5月23日固定リンク
  3. De caelo supremo immobili et terra infima stabili, ceterisque coelis et elementis intermediis mobilibus (author) Giovanimaria Tolosani (media) God and Nature: Historical Essays on the Encounter between Christianity and Science (page) 89
  4. “Der Narr will die Ganze Kunst Astronomie umkehren! Aber wie die Heilige Schrift anzeigt, so hiess Josua die Sonne stillstehen und nicht das Erdreich” Martin Luthers sämtliche Schriften, Bd.22: Colloquia oder Tischreden (page) 2260 (editor) J.G. Walch
  5. The Birth of History and Philosophy of Science: Kepler’s ‘A Defence of Tycho against Ursus’ with Essays on its Provenance and Significance (page) 152 (editor) Nicholas Jardine
  6. “Neque quisquam, quod ad hypotheses attinet, quicquam certi ab Astronomia expectet, cum ipsa nihil tale præstare queat, ne si in alium usum conficta pro veris arripiat, stultior ab hac disciplina discedat, quam accesserit.” De revolutionibus orbium coelestium, Ad lectorem de hypothesibu huius operis (author) Nicolaus Copernicus
  7. The Copernican Revolution: Planetary Astronomy in the Development of Western Thought (page) 199 (author) Thomas S. Kuhn
  8. Lettera sopra l’Opinione de’ Pittagorici, e del Copernico della Mobilità della Terra, e Stabilità del Sole, e del Nuove Pittagorica Systema del Mondo (author) Paolo Antonio Foscarini
  9. 一六世紀文化革命 2 (page) 574-583 (author) 山本義隆
  10. “וְזָרַ֥ח הַשֶּׁ֖מֶשׁ וּבָ֣א הַשָּׁ֑מֶשׁ וְאֶ֨ל־ מְקֹומֹ֔ו שֹׁואֵ֛ף זֹורֵ֥חַֽ ה֖וּא שָֽׁם׃” The Old Testament, Ecclesiastes, 1:5
  11. “יְהוָ֣ה מָלָךְ֮ גֵּא֪וּת לָ֫בֵ֥שׁ לָבֵ֣שׁ יְ֭הוָה עֹ֣ז הִתְאַזָּ֑ר אַף־ תִּכֹּ֥ון תֵּ֝בֵ֗ל בַּל־ תִּמֹּֽוט׃” The Old Testament, Psalms, 93:1
  12. “חִ֤ילוּ מִלְּפָנָיו֙ כָּל־ הָאָ֔רֶץ אַף־ תִּכֹּ֥ון תֵּבֵ֖ל בַּל־ תִּמֹּֽוט׃” The Old Testament, Chronicles 1, 16:30
  13. “Dico che mi pare che V. P. et il Sig.r Galileo facciano prudentemente a contentarsi di parlare ex suppositione e non assolutamente, come io ho sempre creduto che habbia parlato il Copernico. Perché il dire che, supposto che la terra si muova et il sole stia fermo si salvano tutte l’apparenze meglio che con porre gli eccentrici et epicicli, è benissimo detto, e non ha pericolo nessuno; e questo basta al matematico: ma volere affermare che realmente il sole stia nel centro del mondo, e solo si rivolti in se stesso senza correre dall’oriente all’occidente, e che la terra stia nel 3° cielo e giri con somma velocità intorno al sole, è cosa molto pericolosa non solo d’irritare tutti i filosofi e theologi scolastici, ma anco di nuocere alla Santa Fede con rendere false le Scritture Sante” Lettera al rev.do P. Paolo A. Foscarini, 12 aprile 1615 (author) Roberto Bellarmino (translation) Robert Bellarmine: Letter on Galileo’s Theories, 1615
  14. ” וַיֹּ֤אמֶר חִזְקִיָּ֙הוּ֙ אֶֽל־ יְשַׁעְיָ֔הוּ מָ֣ה אֹ֔ות כִּֽי־ יִרְפָּ֥א יְהוָ֖ה לִ֑י וְעָלִ֛יתִי בַּיֹּ֥ום הַשְּׁלִישִׁ֖י בֵּ֥ית יְהוָֽה׃ ” The Old Testament, Kings 2, 20:8 – 11
  15. “אָ֣ז יְדַבֵּ֤ר יְהֹושֻׁעַ֙ לַֽיהוָ֔ה בְּיֹ֗ום תֵּ֤ת יְהוָה֙ אֶת־ הָ֣אֱמֹרִ֔י לִפְנֵ֖י בְּנֵ֣י יִשְׂרָאֵ֑ל וַיֹּ֣אמֶר לְעֵינֵ֣י יִשְׂרָאֵ֗ל מֶשׁ בְּגִבְעֹ֣ון דֹּ֔ום וְיָרֵ֖חַ בְּעֵ֥מֶקאַיָּלֹֽון׃” The Old Testament, Joshua, 10:12 – 14
  16. Joshua commanding the sun to stand still upon Gideon (media) Bridgeman Art Library.
  17. Letter to the prefect Acerbius and the nobles of Tuscany (date) 1198 (author) Innocentius III
  18. “ciò è l’intenzione delle Spirito Santo essere d’insegnarci come si vadia al cielo, e non come vadia il cielo” Lettera a Madama Cristina di Lorena granduchessa di Toscana (author) Galileo Galilei (translation) Letter to Madame Christina of Lorraine, Grand Duchess of Tuscany
  19. The Scientific Revolution (page) 20-21 (author) Steven Shapin
  20. “nihil refert terram in medio mundi, vel extra medium existere” Monitum ad Nicolai Copernici lectorem, ejusque emendatio, permissio, et correctio (media) Le opere di Galileo Galilei Vol. 19 (page) 400
  21. “Totum hoc caput potest expungi, quia ex professo tractat de veritate motus Terræ, dum solvit veterum rationes probantes ejus quietem.” Monitum ad Nicolai Copernici lectorem, ejusque emendatio, permissio, et correctio (media) Le opere di Galileo Galilei Vol. 19 (page) 400
  22. “הִשָּׁמְר֣וּ לָכֶ֗ם פֶּֽן־ תִּשְׁכְּחוּ֙ אֶת־ בְּרִ֤ית יְהוָה֙ אֱלֹ֣הֵיכֶ֔ם אֲשֶׁ֥ר כָּרַ֖ת עִמָּכֶ֑ם וַעֲשִׂיתֶ֨ם לָכֶ֥ם פֶּ֙סֶל֙ תְּמ֣וּנַת כֹּ֔ל אֲשֶׁ֥ר צִוְּךָ֖ יְהוָ֥ה אֱלֹהֶֽיךָ׃” The Old Testament, Deuteronomy, 4:23-24
  23. “Bellarmine judged that Platonism contained more insidious subtleties than Aristotelianism — not because it was more erroneous but on account of its deceptive affinity with Christianity. Platonism was therefore more dangerous than paganism, and Bellarmine recommended suppression of the chair.” Galileo and the Church (author) William Shea (media) God and Nature: Historical Essays on the Encounter between Christianity and Science (page) 115
  24. “formaliter haereticam” Galileo, Science and the Church (page) 89 (author) Jerome J. Langford
  25. “né meno eccelentemente ci si scuopre Iddio negli effetti di natura che ne’ sacri detti delle Scritture” Lettera a Madama Cristina di Lorena granduchessa di Toscana (author) Galileo Galilei (translation) Letter to Madame Christina of Lorraine, Grand Duchess of Tuscany
  26. “Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος, καὶ ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν, καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος.” The New Testament, John, 1:1
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