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槌田敦の熱学外論

2014年2月11日

槌田敦著の『熱学外論』という奇妙なタイトルは「熱学概論」の間違いではなくて、彼の父、槌田竜太郎が書いた『化学外論』を真似たもので、聖書の正典に対する外典のような位置付けであることを意識した書名である。異端の書であるがゆえに、間違いも少なくないが、傾聴するべき問題提起も多いので、この書で提示された「生命・環境を含む開放系の熱理論」を批判的に吟味してみたい。

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1. 汚れとしてのエントロピー

槌田は、1982年の『資源物理学入門』ではエントロピーを「物やエネルギーの拡散の程度を示す指標[1]」と定義していたが、これではわかりにくいので、4年後の本『エントロピーとエコロジー』では、「汚れ」と表現する。

エントロピーは、もともと価値を表現するために物理学に導入された概念である。つまり、熱機関の効率を上げたいという欲望から生まれたものなのである。これを隠して、エントロピーを没価値の概念にしてしまおうというのは欺瞞的である。生きていくうえで、エントロピーが無視しえない大切な指標である以上、生きているものの共通の価値の表現として、エントロピー=汚れと表現することにしたい。[2]

たしかにこう説明すれば、エントロピーが何であるか、さらには、なぜエントロピーの理解が環境問題の解決に不可欠であるかが理解されやすくなる。1992年の本『熱学外論』では、次のように述べている。

この拡散の程度をもう少し日常的なことばで表現すると,熱に対しても物に対しても,「汚れの量」または単に「汚れ」といえばよい.ただし,エントロピーは汚れの量であって,汚れの質ではない.熱は汚れたエネルギーであり,混合物は汚れた物質であると表現しても,エントロピーのもつ法則を何ひとつ失うことはないから,これは拡大解釈ではない.しかも,人々に新しい誤解を与えることにもならない.そのうえ,「汚れ」という表現は,「エントロピー」という奇妙な名前から人々が受ける負担を解消することもできる.

エントロピーを「汚れ」とするとき,一つの批判はこのことばのもつ価値意識である.物理学は没価値であるべきだという人が多い.しかし,人間の使うことばにそもそも没価値ということはありえない.「没価値」ということ自体一つの価値意識であることに気づくべきである.

それにエントロピーはもともと熱機関の効率を上げたいという欲望から生まれたものであり、価値を前面に押し出して研究された概念である.これを隠そうとするのは欺隔である.後に述べるように,「生きる」ということにとって,エントロピーが重要な指標である以上,生きることの価値の表現として,エントロピーつまり汚れを表現しておくほうがよい.

もう一つの批判は,汚染物質を希釈すると,エントロピーは増えるのに,汚れは減るではないかというものである.これは汚れの総量と汚れの濃度を混同していることによる混乱である[3]

槌田が「エントロピーは汚れの量であって,汚れの質ではない」と言うのは、「汚染物質を希釈すると,エントロピーは増えるのに,汚れは減るではないか」という批判をかわすためである。しかし、実は希釈で汚れの濃度が小さくなるというのは部分システムについてしか成り立たない。

このことを数式を用いて示そう。n モルの毒物の水溶液 V m3 のエントロピー S0は、

S_{0}=nRlnV

であり、x 倍に希釈すると、そのエントロピー S は、S0 よりも大きくなる。

S=nRlnxV=nRlnV+nRlnx>S_{0}

ここで、全体のエントロピー S を x で割って、薄める前の体積で計測したエントロピーの濃度を計算すると

\frac{S}{x}=nR\left (\frac{lnV}{x}+\frac{lnx}{x} \right )

となる。当然のことながら、X=1 の時、この値は、S0 と等しくなる。また、一般的に物質の 1 モルあたりのエントロピー(標準モルエントロピー)は、気体定数 R よりも大きいので、数式4 が成り立つ。

\frac{S_{0}}{n}>R\Leftrightarrow \frac{nRlnV}{n}>R \Leftrightarrow lnV>1

この式が成り立つなら、数式3 を x で微分することで、x>1 で増加率が負であることがわかる。

\frac{d}{dx}\left (\frac{S}{x} \right )=nR\left (\frac{1-lnV-lnx}{x^{2}} \right )<0

よって、x>1 で S < S0 であり、希釈率の x が大きくなればなるほど、元の体積で計測したエントロピーの濃度は小さくなることが示された。他方で、希釈に用いた水の毒物エントロピーの濃度は、0 から S/x に増大している。要するに、汚れの濃度(汚れの質)は、元の水溶液との比較では減ったが、希釈に用いた水との比較では増えたということである。

一般的に、非孤立システムのエントロピーを減らすことは可能だが、そのためには、それ以上のエントロピーを環境において増やさなければならない。エントロピーの縮減にフリーランチはない。毒の水溶液を水で薄める場合も同じで、それによって水溶液の汚れを薄めることはできるが、それ以上の汚れを希釈水にもたらすために、全体としては汚れがひどくなる。

希釈するとエントロピーの総量が増えるということは、希釈後のエントロピー濃度は、希釈前のエントロピー濃度の加重平均よりも高いということである。汚れの量のみならず、汚れの質も平均的には悪化するのだから「エントロピーは汚れの量であって,汚れの質ではない」などと断る必要はない。たんに「エントロピーは汚れである」としても、エントロピーの法則には反しない。

エントロピーを汚れという価値語で表現することの問題点として、高エントロピーは悪で、低エントロピーは善とは必ずしも言えないことを挙げることができる。まず、散らばっている物が、価値判断の主体にとって好ましい物かどうかで分けて考えよう。

好ましい物なら、エントロピーの増加はその存在の不確定性を、したがってまた入手不可能性を増大させるので、否定的に評価される。だが、入手の不確定性という意味での主観的エントロピーが、存在の不確定性という意味での客観的エントロピーと同じとは限らない。水星に濃集している鉱物資源の方が地球に散らばっている鉱物資源よりも客観的エントロピーが小さいが、地球がに住んでいる私たちからすれば、後者の方が前者よりも主観的エントロピーが小さい。

好ましくない物の代表は有害物質である。有毒物質の濃度を希釈によって基準以下に引き下げるなら、エントロピーが大きくなるものの、健康被害を防ぐことができるという点では望ましい。マイナス×マイナスがプラスになるように、望ましくない物が望ましくない状態にあることは望ましいということになる。他方で、有毒物質の生物濃縮は、エントロピーの縮減であるが、生命にダメージを与えるという点では望ましくない。もちろん有毒物質を化学的処理により無毒化する場合とか、安全な場所にかっく利する場合は、濃集している、つまりエントロピーが小さい方が望ましい。

2. エントロピーの法則の適用範囲

クラウジウスの熱力学第二法則によれば、宇宙のエントロピーは増えることはあっても減ることはない。そのため、宇宙は、そのエントロピーが最大となる熱死を迎えることで終焉するとかつて考えられていたが、観測結果によると宇宙は加速膨張しており、このため、宇宙全体のエントロピーは増えている反面、エントロピーの濃度は減っていると今日では考えられている。

しかし、もしも宇宙が孤立システムで、エントロピーの縮減にフリーランチがないとするならば、どこかでエントロピーが増えているはずである。現在の科学者は、宇宙の加速度的膨張の原因をダークエネルギーに求めているが、ダークエネルギーの正体がわからない以上、フリーランチの謎を解く説明としては仮説以上のことは言えない。

考察対象を環境問題に絞っている槌田は、以下のように述べて、エントロピーの法則の適用範囲を日常レベルのスケールに限定しているが、この方針は、この本が出版された1992年での判断としては、無難な判断だ。

まず,第一の世界は原子核の世界である.これは,陽子や中性子などの素粒子から構成される世界で,その原理・法則はまだはっきりとは理解されていない.

第二の世界は,原子や分子の世界で,これは第一の世界の集まりであって量子力学が成立し,すべての現象は詳細均衡の法則により可逆的で,エントロピーの増大の原理はそもそも存在しない.

第三の世界はわれわれの大きさの世界である.これは第二の世界の集まりであって,物質,エネルギー,エントロピーという三つの原理が成立する世界である.この世界は星までを含み,すべての現象・変化は非可逆的である.

かつて,生命の世界は,無生物の世界の法則とは別の法則が必要であるかのように考えられていたが,第5章で述べるように,第三の世界の原理・法則の範囲で理解できるので,別の世界とする必要はない.

第四の世界は宇宙の世界である.この世界は第三の世界の集まりであるが,その総体を示す法則として,物質,エネルギー,エントロピーの原理がそのまま使えるかどうかはわからない.さらに,別の原理・法則かおるのかも知れない.しかし,これがわからなくても,現実のわれわれの第三の世界にはまったく関係のないことである.

結論として,少なくとも,エントロピーの原理が成立することが確かなのは,われわれの第三の世界だけである.これに関連して「エントロピーは,すべての科学にとって第一の法則である」とA.アインシュタインがいったという俗説がある.本当にいったかどうかは確認できないが,それは間違いである.[4]

一箇所誤解があるので、それを指摘しよう。エントロピーの法則は「エントロピーの増大の原理」ではなくて、「エントロピーの非減少の原理」である。エントロピーの増加がゼロで、熱力学的に可逆な変化があるからといって、エントロピーの法則が成り立たないということにはならない。だから、ミクロの世界をエントロピー概念の適用対象から外す必要はない。

もちろん、量子論の対象となるミクロの世界と宇宙論の対象となるマクロの世界には、依然としてわからないことがたくさんあるので、無関係な議論に巻き込まれないように、環境学者がエントロピーの法則の適用範囲を日常レベルに限定することは妥当なことである。しかし、普遍的法則を断念し、領域ごとに分断された法則に甘んじることは、物理学者の態度としてはいかがなものか。

ガリレオやニュートンが、天上界を地上界とは異なる別世界としたアリストテレスの自然学を否定して以来、物理学者はすべてに適用可能な普遍的な法則を求め続けてきた。原子レベルの世界で成り立つ量子力学と大きな重力が働く宇宙レベルの世界で成り立つ相対性理論を両立させようとする超弦理論/M理論は、いまだ発展途上であるが、こうした努力は必要であろう。

3. 熱力学原理主義でよいのか

槌田は、エントロピーの適用範囲を日常のスケールに限定するだけでなく、エントロピーの概念を熱力学あるいはせいぜい統計力学の範囲に限定し、それをシャノン(Claude Elwood Shannon; 1916 – 2001)がやったように情報学的に一般化する[5]ことに反対する。ちょうどキリスト教原理主義者が聖書を文字通りに受け取ろうとするように、クラウジウスの聖典『力学的熱理論』を文字通りに受け取ろうとする槌田の態度を熱力学原理主義と名付けることができる。

統計力学エントロピーというのは,モデルという知識を前提とした主観的エントロピーであったが,これを「物と熱」の範囲をこえて「事」へ拡大解釈するのが情報エントロピーである.どちらも無秩序ということばを用いるが,統計力学エントロピーでは単なる無秩序ではなく,微視的無秩序として原子分子の世界のことを扱う.それに対して情報エントロピーでは,われわれの世界での一般無秩序を扱う.そして,物理学のエントロピーは増大則のあるエントロピーである.これに対して情報のエントロピーには増大則はない.これらの点が決定的に異なる.[6]

情報システムがいかに環境に熱エントロピーを増やしているかは、ブンブンと唸りながら熱放散を行っているコンピュータの CPU ファンを見ればわかるだろう。非孤立システムである情報システムのエントロピーは減ることがあるが、それ以上のエントロピーが環境において増えているのだから、エントロピー非減少則(増大則ではない)は成り立つ。

槌田は、シャノンが定義した情報エントロピーにボルツマン定数の k がないことを問題にする[7]が、それは本質的なことなのだろうか。この問いに答える前に、クラウジウスが定義したエントロピーとボルツマンが定義したエントロピーが同じであることを示そう。

今、ある気体システムが、等温 T [k]、等圧 P [Pa] の状態で、熱量 Q [J] を受け取り、体積を V1 から V2 へと増やしたとする(カルノーサイクルにおける等温膨張)。

Q=P\int_{V_2}^{V_1}\, dV

理想気体の状態方程式が成り立つとする。

PV=nRT=kNT

但し、

n = 物質量 [mol]
N = 分子の個数
R = 気体定数 = 8.31 [J/mol K]
k = ボルツマン定数 = Rn/N = R/アボガドロ数 (6.02×1023) =1.38×10-23 [J/K].

とする。すると、上の二つの式から、

\frac{Q}{T}=\frac{P}{T}\int_{V_1}^{V_2}\, dV=\frac{kNT}{T}\int_{V_1}^{V_2}\frac{1}{V}\, dV=kN\ln \frac{V_2}{V_1}=k\ln\left ( \frac{V_2}{V_1} \right )^N=k\ln W

というようにクラウジウスが定義するエントロピー[8](一番左)とボルツマンが定義するエントロピー[9](一番右)が同じであることが示される。W は、体積膨張によって増加した N 個の分子や原子の微視的状態の数、存在の不確定性を表す確率の逆数を表しており、システム論的には複雑性(場合の数)と呼ぶことができる。

次に、ある気体システムが、等積 V [m3]、等圧 P [Pa] の状態で、熱量 Q [J] を受け取り、温度を T1 から T2 へと増やしたとする。この場合のエントロピーの増加は、

\frac{Q}{T}=\frac{\Delta U}{T}=\frac{nC_{V}\Delta T}{T}=nC_{V}\int_{T_{1}}^{T_{2}}\frac{dT}{T}=nC_{V}ln\frac{T_{2}}{T_{1}}

となる。この対数の真数が場合の数の増加を表していると直観的に理解することは難しいかもしれない。温度が上昇すると、分子や原子の平均速度が増大し、一定区画に一定時間存在し続ける確率が減り、それによって、存在の不確定性が増える。体積が増える場合でも、温度が上昇する場合でも、存在の不確定性が増えることで、エントロピーが増大するのである。ハンターにとって、獲物が狭い場所に固まっている場合よりも、広い場所に散らばっている方が、あるいは獲物がゆっくり歩いている場合よりも高速で走っている場合の方がハンティングが難しくなるということも、エントロピーで説明がつく。ここからもわかるように、物の分散のエントロピーも熱のエントロピーも、本質的には同じである。

クラウジウスが定義するエントロピーとボルツマンが定義するエントロピーの関係を簡単にまとめると

クラウジウスのエントロピー=ボルツマン定数×複雑性の対数

となる。これに対して、シャノンが定義したエントロピーは、たんに複雑性(確率の逆数)の対数だけで、そこにボルツマン定数が乗じられていない。だがこの違いは、たんに複雑性が小さいか大きいか、日常的なスケールで計測できるかどうかの違いでしかないのだから、本質的ではない。

クラウジウスやボルツマンが定義した J/K という単位を持つエントロピーとシャノンが定義した無次元数の情報エントロピーとの関係は、g という単位を持つ質量と無次元数の分子(あるいは原子など)の数との関係に似ている。分子や原子などの数はあまりにも多いので、そのまま扱うのは不便である。だから私たちは、それをアボガドロ数(6.02×1023)で割ってモル単位にし、g という単位を与えるためにモル質量を乗じる。同様に分子や原子の微視的状態の数はあまりにも大きいので、その対数をアボガドロ数で割ってモル単位にし、J/K という単位を与えるために気体定数を乗じる。どちらも日常的なスケールで計測しやすい単位へと変換しているだけで、概念的には同じである。

歴史的には、クラウジウスが定義したエントロピーが本来の概念であるのに対して、シャノンが定義したエントロピーは派生的な概念である。しかし理論的には、シャノンが定義したエントロピーの方が本来的な概念であり、クラウジウスが定義したエントロピーはたんに熱力学的に計測しやすいというだけで、適用範囲が狭いという意味で派生的な概念である。槌田は、熱学教育を熱学研究の歴史を繰り返すことで行うことを批判している[10]が、歴史的経緯を無視して、理論を再構成するなら、分子や原子の実在すら疑われていた時代に導入された最初の定義に固執することもやめるべきである。

もちろん、言葉をどう定義するかはその人の自由であり、エントロピーをクラウジウスによる最初の定義に限定する熱力学原理主義を貫くことは可能である。しかし、クラウジウスの定義は、ジュール膨張の不可逆性を説明することができないという点で不完全と言わざるを得ない。ジュール膨張とは、以下の模式図に示されているように、(1)最初、二つの断熱容器の片方には気体分子が入っていて、もう片方は真空になっていて、(2)二つの部屋を遮断する障壁を取り外すと、気体分子は全容器一杯に均等に広がり、平衡状態に達するという過程である。この過程は不可逆で、(2)から(1)へと自然に移行するということはない。しかし、この不可逆的過程ではクラウジウスのが定義したエントロピーは増えておらず、エントロピーの増大は統計力学的、分子論的に説明する他はない。

ジュール膨張の画像の表示
ジュール膨張の模式図。

槌田は、ジュール膨張は、分子の数が多いから不可逆的に見えるだけで、厳密に言えば、不可逆的ではないと主張する。

たとえば,連なった二つの容器の中に1個だけ分子が存在する場合,ある時間たてば右から左へ,そしてまた左から右へ移る.これは可逆現象である[11]

たしかに、上掲模式図において、(2)の状態から(1)の状態へと移行することが考えられないのは、分子の数が多いからであって、分子が一個しかないなら、右に行ったり左に行ったりするだろう。しかし、それは可逆的に見えるけれども、可逆的ではない。壁が存在する時の (1) では、その分子が左の容器に存在する確率は1である。ところが、(2) のように壁を撤去すると、その確率が1/2になり、1に戻ることがない。だから、不可逆的なのである。分子の数が N ならば、(1)の状態へ戻る確率は、(1/2)N で、N の数が大きくなるにつれて、ゼロに近づくが、ゼロにはならない。しかし、ゼロにならないからと言って、不可逆ではないとは言えない。確率が 1 に戻らない以上、N の数いかんにかかわらず不可逆である。そしてその不可逆性は、エントロピーが 不可逆的に Nlog2 増えたことで示される。

こうした議論は、「可逆性の確率」と「確率の可逆性」とを混同していると思うかもしれないが、そもそもエントロピーの法則とは、不確定性の不可逆的な増大についての法則なのである。槌田は、エントロピーの本質が拡散にあるとみているのに対して、私は、不確定性にあるとみているという違いがある。それは、エントロピーを確率の逆数の対数と定義することを受け入れるかどうかという違いである。

これまで科学は、先人の発見を特殊事例として包摂する普遍的理論を構築することで発展してきたことを考えるならば、原理主義的硬直は科学の進歩の妨げになるのではないだろうか。特に槌田のように、エントロピーを汚れと理解するなら、この概念をシャノンの定義にまで一般化するべきである。例えば、

数式10. S = Q#e9r8ty2IJ%0&hf9e+8erX?jKvq9e4hg2\g@9U2Z…

という文字列は、

数式11. S = AAABBBCCCDDDAAABBBCCCDDDAAABBBCCCDDD…

という文字列よりも汚らしく感じる。それはシャノン的な意味で 数式10 のエントロピーが 数式11 のエントロピーよりも大きいからである。 実際、数式11 の文字列では、任意の n 字目の文字を予測することができるが、数式10 ではそれが不可能である。数式10 はそれだけ不確定性が高く、エントロピーが大きいのである。

理論的にはシャノンのエントロピーの方が本来的であるとしても、分子や原子に関してこのエントロピーを使うことは実用的ではないので、複雑性の対数を微視的エントロピー(microscopic entropy)、あるいはたんにエントロピー、それにボルツマン定数をかけた方を巨視的エントロピー(macroscopic entropy)と呼んで区別することで、両者を使うことを提案したい。本当は、微視的エントロピーをアボガドロ数で割っただけの値を巨視的エントロピーとしてもよいのだが、いったん定着した定義を覆すことは容易ではないから、クラウジウスが定義したままで使うしかない。

シャノンのエントロピーはしばしば情報エントロピーと呼ばれるが、エントロピーはもともと情報の概念(正確に言えば情報価値を否定する概念)であるから、やや冗語的な呼称である。クラウジウスが熱力学的な概念と思って定義したものが、実は情報に関する概念であったことを発見したボルツマンの功績を無視することになる。他方で、微視的エントロピーと巨視的エントロピーと言うのは、両者の関係を明示する上で便利だが、一般に通用しないのが難点である。一番誤解を招かないようにするには、「シャノンのエントロピー」のように、発見者の名を冠した呼称を使うのが一番良い。

槌田は、クラウジウスやボルツマンのエントロピーとシャノンのエントロピーの違いとして、前者の対象となる物理量は連続量であるが、統計力学のエントロピーは不確定性関係によって発散しないのに対して、情報量は、連続量については発散するという点を挙げている[12]。しかし、情報が物質によって担われている以上、物質が量子レベルで離散的であるなら、情報もそのレベルでは離散的であると解釈するべきである。つまり、情報学の連続関数は物理学の連続関数と同様に、離散関数の近似と解釈すれば、極限が発散する問題は生じない。

4. 資源とは何か

槌田は、光合成の資源は、水であって、太陽光は原料にすぎないと主張する。すなわち「ぶどう糖が作られる本質は、大気上空での低温熱放射であって、太陽光ではない[13]」というのである。

結局のところ、直射太陽光は、エネルギー原料としての意味を持っているにすぎないのである。それは、炭酸ガスが炭素原料としての意味を持っているのと同等である。可視光の入射量が減ると光合成が減るが、それは炭酸ガス濃度が薄くなれば、光合成が減るのと同様である。これまで、原料にすぎないものを、光合成の本質と考えられてきたのは、太陽崇拝による思考の停止から、学者が抜け出せなかったからに他ならない。[14]

たしかに、太陽放射がもたらす高温熱源だけで光合成ができるわけではない。蒸散による低温熱源が必要である。熱機関には高温熱源と低温熱源の二種類が必要であって、どちらか一方で熱機関を稼働することは、片手で拍手するのと同じぐらい不可能である。しかし、だからこそ、水だけを重視し、太陽光の役割を軽視してはいけない。私たちが資源と呼ぶべきは、高温熱源と低温熱源が作り出す温度格差であって、どちらか一方に内在する物ではない。

5. 資源の品質とエントロピー

熱力学原理主義の槌田は、資源価値をエントロピーで十分説明することに成功していない。

たとえば,ビールびんを例にして,ガラスの再資源化という問題から原料資源の品質を考える.使用済みのビールびんがケースの中にちゃんと収まっている場合A,ビールびんが散らばっている場合B,ビールびんが割れてはいるがまとまって箱に入っている場合C,割れたガラス片が散りぢりに分散している場合Dを考える.いずれも,ガラスという物性は失われていないので,散らばろうと集まっていようとガラスのエントロピーは同じである.

しかし,明らかに,この四つの状態は,資源としては差かある. A, B, C,Dの順により人間にとって困った状態である.それには,ビールびんの回収という工程を考えればよい.この工程を動かすときに発生するエントロピー量が違うのである.たとえば,石油の消費量が違う.Aなら洗うだけでよい. Bならば整頓し,洗えばよい.Cならばガラスを溶かして型にいれなければならない.Dならばもはやどうしようもなく,そのまま捨てることになる.

つまり,資源の品質とは,そのもののエントロピー状態のことではなく,そのものから製品を生産する工程で発生するエントロピー量のことなのである.これは当然技術の良し悪しを含んでいる.ここに資源物理学と工学,経済学の隙間か埋まることになる.[15]

たしかに、再製品化するために消費しなければならない資源は、A<B<C<D の順に大きくなる。それは、この順に、ビンあるいはガラスの存在の不確定性が増えるからである。たとえガラスの組成という点でエントロピーが同じでも、A<B<C<D の順にシャノンのエントロピーが増えるからこそ、そのエントロピーを縮減するためにより多くのエントロピーを環境において増大させなければならないと解釈するべきである。

6. リサイクルはするべきではないか

槌田が本格的にリサイクル批判をしたのは、1992年の著作『環境保護運動はどこが間違っているのか?』においてであるが、1978年の処女作『石油と原子力に未来はあるか』において、早くもリサイクル批判を行っていた。

この点では,廃品回収,リサイクル工程もまったく同じである。たしかに,このリサイクル工程は魅力がある。それは,廃物たれ流しを避けるためであるし,原料資源を新たに獲得してくることが不要になるからである。

しかしながら,このリサイクル論は,このリサイクルを回転させる物理価値の消費を忘れている。それは石油と水なのであって,リサイクル産業は石油消費産業ということになる。

つまり,リサイクルはそのことだけでは省資源になっていないのである。それは,製品を,原料から製造し,これを使い捨てにする特に使用する石油と水の量に比べて,リサイクルの際の石油と水の使用量が小さいという保証は何もないからである。ケースバイケースということにほかならない。

したがって,問題は,どのような製品をつくり,どのように廃物にするかというところから考えなければ,省資源型リサイクルというわけにはいかない。廃物のエントロピーを大きくし,その物理価値が小さくなるような使用のしかたでは,原鉱の物理価値に対抗できず,リサイクルの方が石油と水の使用量は大きく,意味がなくなってしまう。

たとえば,鉄の回収を考える。廃品回収した鉄は,雑多な元素を含んでいる。そのため回収鉄の品位は非常に悪い。この鉄を使って機械をつくったとしても,すぐ壊れて短期間で廃品に逆戻りしてしまう。

そこで,この品位を高め,良質の鉄にしてから機械をつくればよいわけだが,そのためには巨大な量の低エントロピー資源がいる。これては省資源にならないのである。

つまり,いったんエントロピーを高めてしまったら,これを減らすことは,熱力学第2法則によって不可能なのである。結局発生したエントロピーは捨てるしか残された方法はない。[16]

但し、エントロピーという観点からのリサイクル批判としては、ニコラス・ジョージェスク・レーゲン(Nicholas Georgescu-Roegen; 1906 – 1994)による、1971年の『エントロピー法則と経済過程』の方が古い。ジョージェスク・レーゲンは「物質は確実に劣化している」という法則を熱力学第四法則と名付けている[17]。槌田は、この呼称は大げさとしながらも、その主張には同意し、「熱死」ならぬ「物死」を文明の帰結として警告している。

この点では,ジョージェスク=レーゲンのいうほうが正しい.というのは,散逸した地下資源のエントロピーに比べて,その回収作業で発生するエントロピーのほうが桁違いに大きいからである.たとえば,現在の地表は低濃度の水銀で汚れており,それはどんどん増大している.この水銀エントロピーを元の原鉱のレベルにまで戻すには,それこそ莫大な石油の消費を必要とし,大量の廃熱と廃物を放出することになる.

したがって,仮に,エネルギー資源が無限にあろうと,地球の大きさが有限であるかぎり,汚染を元の状態に戻すことはできず,そのような散逸した地下資源の回収は不可能だからである.[18]

既に確認した通り、物のエントロピーも熱のエントロピーも、分子や原子の存在の不確定性を反映しているという点で同じである。そして、物のエントロピーは熱のエントロピーを増やすことによって減らすことができる。もしもエネルギー資源が無限にあって、熱のエントロピーを無限に増やし、それを宇宙空間に捨てることができるなら(槌田はこれができないと考えているのだろう)、地球上の有限な物のエントロピーは完全に減らすことができる。もっとも、私たちは無限のエネルギー資源を利用することができないから、物のエントロピーを無限に減らすことはできない。熱の入り口も出口も有限である。それでも、有限のエネルギー資源を利用することで、物のエントロピーをある程度減らすことができる。

槌田は、物のエントロピーが不可逆的に増大することを根拠にして、リサイクルに反対している。

そこで,対策として水銀のリサイクルが提案される.しかし,そこには回収率という問題かある. 100%回収はとても無理である.そこで仮に, 50%回収とすると,これは結局2回使って捨てることを意味する.ところが,この水銀リサイクルが社会的に評価されることになったら,水銀は使いやすくなるから,使用量は確実に増える.事実,通産省は,電力の節約という名目でタングステン電球を水銀を使う蛍光灯に変えるよう行政指導している.このようにして,もしも,その使用量が倍になるとすれば,廃棄物の量は倍の半分であって捨てる量は変わらないことになる.これでは汚染は変わらないことになってしまう.

アルミ業者は最近強気で,アルミ缶のリサイクルを宣伝している.確かに,アルミは融点が低く,単に溶かすだけで地金に戻るから他の容器に比べて回収が楽である.しかし,アルミを鉱石から生産するには大量の電力を消費していることが忘れられている.アルミの消費量がこのリサイクルで増加することになったら,アルミ生産のために原子力発電所の増設ということになり,放射能問題を拡大することになるのである.

アルミのような大量に電力を使う資源のリサイル[ママ]でなく,昔のようなガラス容器こそこれからのリサイクルであろう.ところが,ガラスびんはどんどん縮小され,変なリサイクルばかりがひろがっている.[19]

現在、蛍光灯の代わりに発光ダイオード(LED)が使われるようになったが、アルミ缶は今でもまだ大量に使われている。槌田が言うように、アルミ缶のリサイクルよりもガラス瓶のリユースの方が望ましいが、ガラス瓶も何度も使っていれば、劣化する、つまりエントロピーが増大する。石油化学製品のような場合、人間がリサイクルしなくても、燃やせば植物がリサイクルしてくれるから、サーマルリサイクルでよいが、金属は人間がリサイクルしなければ誰もリサイクルしてくれないのだから、熱エントロピーを増やすことで金属の分散エントロピーを減らすしかない。

7. 砂漠化の原因は何か

槌田は、私たちがエントロピーを減らす上で重要なのは、リサイクルではなくて循環だが、人類は砂漠化を進めることによって循環を破壊していると主張する。槌田によると、水がないから砂漠になるのではなくて、砂漠になるから水がなくなるとのことである。

陸地から流れ出す川は,大量の養分を溶かし,これを海へ流している.この養分によって,河口付近は魚の種類も数も多く,どこでも漁場になる.しかし,その代わり陸地は養分を失い,生態系は貧弱になっていくことがわかる.このようにして陸地のすべては,養分の循環を失い,物死としての砂漠となる傾向にあるのである.

このような機構で生ずる砂漠は,雨が降らず,水がないから砂漠になるのではない.むしろ,雨が降り過ぎるから砂漠になる.そして,砂漠になると,すでに述べたような大気の性質から,雨が降らなくなる.このような機構による砂漠はこれまでの説明とは原因と結果が逆であって,雨の降る世界中の陸地はすべて砂漠になる可能性をもっているのである.[20]

雨が降りすぎると砂漠になるというのはパラドキシカルに聞こえるが、肥料をやらずに農業をしていると土地がやせて実らなくなるというのは農民には常識である。もちろん、砂漠化の原因は複数あり、養分不足は砂漠化の唯一の原因ではないが、人為的原因の一つとして注目しなければならない。

リンは重力により陸地から海へと流出する。ではどのような気候により海から陸へと戻されるのか。長期的には海底が隆起することで実現されるが、短期的には、槌田が以下に指摘するように、鳥、昆虫、鮭、熊などの動物が重要な働きをしている。

これまで森林への養分の補給は風で運ばれ,雨で落とされる埃で説明されていた.確かにその機構は存在する.ここで実験をしてみるとよい.二つの容器を用意して,養分のない蒸留水を入れる.一方はそのままにして,もう一方にはガラスの蓋をする.しばらくすると蓋をしなかったほうに藻が生え始める.しかし,蓋をしたほうは変化がない.つまり,養分と種は埃として運ばれてきたのである.

しかし,この機構ははげ山が森林になる機構ではない.すでに海と陸の間の埃の移動でも説明したが,埃の発生ははげ山のほうが多いであろう.埃説は貧栄養の山や裸地から養分を奪い,湿った緑地や水系へ養分を運ぶ機構であっても,湿った平地からはげ山へ養分を運び上げる機構ではないのである.

このようにして養分を運び上げる機構として,空中を遠距離飛ぶ鳥などの生物の存在が重要であることがわかる.そこで,鳥が運ぶ養分の量であるが,鳥は体温が42°Cと高く,また激しい運動をするため,大食いであって,養分の運ぶ量も多い.わずか16 gのシジュウカラは, 1年間に1.5kgの幼虫を食べる.志賀高原の鳥は繁殖期に平方キ口当り10tの虫を食べている.鳥は虫以外も食べるから,鳥によるkm2当り数tの糞を発生する機構は決して小さいものではない.また,昆虫も重要である.たとえば,トンボは沼地でヤゴとして育ち,トンボになると山で暮らし,その一部は再び沼地に帰ってたまごを生む.これも残りは山の養分となっている.

このように,海から陸への養分大循環という考えを進めていくと,鳥や昆虫以外の動物も重要な働きをしていることがわかる.たとえば,豊かな森林が北半球の高緯度地帯に存在する.ここでの森林の豊かさについては,これまで,高緯度での夏の日射量が赤道よりも多いということで説明されてきた.それは,日光の入射角は小さくとも長時間照らされるからである.しかし,この日射量の多さだけで光合成できるわけでなく,当然作動物質としての養分が必要である.

これは北洋で育ったサケが産卵のために大量に川を昇ってくることで半定量的に説明できる.以前は,親魚の死体は,子魚の餌になるとして簡単に片付けられていたが,その餌になる量はわずかであって,死体がそのまま水系に残れば養分は再び海へ戻ってしまう.しかし,カラスやクマがこの死体を餌とし,水系から陸上に引き上げ,森林の養分にすると考えられるのである.

柴谷篤弘(動物学)によれば,シベリヤのアムール川の場合, 1911年に日本は年間1500万尾のサケ・マスを捕らえたという.そこで,この川を遡上するサケ・マスを最低2000万尾とすると,平均体重を3 kgとして全体で6万tということになる.これが産卵後死亡してクマやカラスの餌になって,全長1万kmのアムール川の両側に養分を提供しているとすると,その幅を片側で1kmとして, km2当り3tの養分が毎年追加されることになる.これは決して無視できる量ではない.

このようにして,深海→近海→平地→山という下から上への養分の運び上げと,山→川→近海→深海という上から下への養分の流れ落ちによって作られる養分大循環という熱化学機関が地球に存在していたのであった.[21]

これらの動物がこれまでリンの循環を形成する上で重要な働きをしてきたことは確かである。しかし、現代では人間がリン鉱山からリンを採掘し、肥料として利用している量があまりにも大きいので、動物任せでは持続可能なリンの循環を維持できなくなってきている。現在のようなスピードでリンを利用していると、2030年頃に生産のピークを迎え[22]、その後深刻なリン不足に直面することになると予想されている。今日これだけ人間が増えたのだから、人間がリンの強制循環を行うしかない。人類が世界全体で年間に排出する糞尿には300万トンになる[23]ので、これを堆肥化して利用することが重要である。この他、動物の骨には、リン酸カルシウムが高濃度で含まれているので、これを肥料として利用するべきである。

8. 四大文明と砂漠化の関係

槌田は、四大文明の所在地が砂漠であるのは、文明のあり方に責任があると言っている。

四大文明のどこから取り上げてもよいが,たとえば,最近の戦争(1992年)で,世界中にテレビ放送されたイラク平原を取り上げる.ここにチグリスとユーフラティスという2本の大きな川が流れているが,テレビの画面でみたように現在ほとんど砂漠である.

しかし,文明以前は一面森と沼であった.その証拠は,スウェーデンのフォン・ポストの開発した花粉分析法から得られる.多くの花粉は安定なので,湿原や湖底などの堆積物から採集することができて,森林の変遷を知ることができる.これによると8000年前から5000年前まで,この地域には,レバノン杉の立派な森が存在していたことがわかる.

この自然豊かなイラク平原を人間が開拓し,有名なメソポタミア文明を作ったのであった.今からおよそ5000年前,シュメール人は,二の両河の河口付近に定住し,麦を栽培して,強大な帝国として栄えた.麦は都市への運搬と貯蔵の可能な食品である.これは乾燥した農地でよく育つ.そこで,森を切り開き,沼を埋め立て,土と水を分離することでこの文明の基礎が作られた.今から4500年前には,いわゆる楔形文字が完成し,青銅器によるシュメール文化が最盛期を迎えた.

ところで,食品としての麦には,人間にとって必要な必須アミノ酸を含む良質蛋白質が不足している.そのため,広範な周辺においてブタやヤギなどの家畜を飼うことになる.これは,森や草原での放牧で育てられたから,森は加速的に失われていった.文明周辺地の破壊である.

このようにして,森を失うと鳥は繁殖できない.その結果,第7章で述べたように土地は養分の補給が絶たれ,流出する一方となり,どんどん痩せていく.養分循環の作動物質である養分が少なくなれば,熱化学機関としての生態系は当然貧弱になっていく.

そして,生態系が貧弱なうえに,広域の乾燥農業では水の蒸発がないため,雨が降らなくなる.そのため,畑は川の水で灌漑することになるが,乾燥農業での濯漑は川の水に溶けている塩を農地に蓄積させ,これによる塩害も重なって作物は育たなくなり,文明の地は不毛の地となり,今から2500年ほど前にメソポタミア文明は没落することになる.すでに述べたように,メソポタミアの場合も、雨がなくなったから砂漠になったというよりは,養分がなくなり砂漠になって,雨が降らなくなったのである.[24]

鈴木秀夫の指摘以来[25]、気候の寒冷化と乾燥化が、人々を大河に集中させ、四大文明を成立させたという説が有力になっている。だから、文明ができたから砂漠化が進んだというよりも、砂漠化が進んだから文明が誕生したというべきであろう。もちろん、槌田が主張するように、文明が灌漑農業や森林伐採によって砂漠化をさらに推し進めたということなら言えるだろうが、そのポジティブ・フィードバックがどの程度であったかをさらに研究する必要がある。

9. 追記:武田邦彦のエコ批判

武田邦彦(1943年6月3日 – ) は、もともと分離科学の専門家で、リサイクルにおける混合物の分離の困難さを熟知しており、その知見に基づき、2000年に『「リサイクル」してはいけない 』、『「リサイクル」汚染列島』、『リサイクル幻想』といったリサイクル批判の著作を公刊し、これらの一般向け著作でその名が世に知られるようになった。その後、ダイオキシン問題や地球温暖化問題などでも通説とは異なる見解を示し、2007年3月25日に、読売テレビの高視聴率番組『たかじんのそこまで言って委員会』に出演して、これらの見解を披露したことがきっかけで、お茶の間の有名人となり、番組で取り上げられた著書『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』は、シリーズ累計で50万部を突破するベストセラーとなった。

私も、ベストセラーだからということで『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』を読んでみたが、あまり大きなインパクトを受けなかった。リサイクル批判にしても、地球温暖化懐疑論にしても、槌田敦(1933年5月17日 – )の方がパイオニアであり、先に槌田の本を読んでいた私には、武田の主張にそれほど独創性を感じなかったからだ。槌田は、武田より十歳年上で、1978年の処女作『石油と原子力に未来はあるか』において、早くもリサイクル批判や地球温暖化に対する懐疑論を提起していた。

この本の中で、既に引用したとおり、槌田は、エントロピー理論に基づき、次のようにリサイクル万能論を批判している。もっとも『石油と原子力に未来はあるか』は、そのタイトルからわかるように、原発批判がテーマなので、リサイクル批判にはあまり紙面を割いていない。槌田が本格的にリサイクル批判をしたのは、1992年の著作『環境保護運動はどこが間違っているのか?』においてである。この本は「リサイクルも環境を汚染する」、「自然食だけでは偏食の害でからだを壊す」、「炭酸ガスによる地球温暖化説には政治がらみのインチキがある」、「太陽光発電は石油の無駄遣い」など、当時のエコ運動家が聞いたら仰天するような主張のオンパレードで、社会にセンセーションを巻き起こして大いに売れた。

おそらく、武田は、この本からエコ常識に対する批判精神とベストセラー本の書き方を学んだのだろう。実際、リサイクル批判が典型的にそうであるように、武田の本には、槌田の主張と類似の見解がいくつか書かれている。例えば、『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』第4章の「チリ紙交換屋は街からなぜいなくなったのか」は、『環境保護運動はどこが間違っているのか?』第1章の「民間の回収業者がいなくなる!」「リサイクル運動がリサイクルの仕組みを壊す!?」と同じである。地球温暖化批判に関しても『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』第3章の「南極の周りの気温が高くなるとわずかだが海水面は下がる」は、『環境保護運動はどこが間違っているのか?』第7章の「温暖化で海面が上昇するという嘘」と同じである。

武田はあまり槌田には言及しないが、以下のように言及している例もある。

リサイクルに関して言えば、「エントロピー増大の法則」があるので、もともと、学問的に成立しない。これはかなり前から槌田先生などの学者が警告を出していることで、100年も前から確定していることだ。

「これまでの学問でできないから、ダメだなどと言っているから学者は困る」という反論があるが、現代の社会で「学問的に否定されていてうまく行っているもの」などはほとんどない。それが科学的なことならなおさらである。[26]

もっとも、両者には違いもある。槌田がダイオキシンを有害物質とみなしていたのに対して、武田はその有害性を否定した。武田も、2000年頃までは通説であるダイオキシン有害説を信じていたが、2001年に人体への毒物研究の第一人者である和田攻東京大学医学部教授(当時)が発表した「ダイオキシンはヒトの猛毒で最強の発ガン物質か」という論文を読んで、「ダイオキシンは、それほど強い発ガン性を持たず、急性毒性という点では非常に弱いものではないか」と考えて調査を開始したとのことである。今日の学界では、ダイオキシンの人体に対する急性毒性は否定されているが、人体に対する慢性毒性に関しては結論が出ておらず、これに関しては、槌田と武田のどちらが正しいかは判定が付かない。

この他にも、槌田がごみの有料化に賛成であるのに対して、武田は反対であるなど細かい違いがあるが、最大の違いは、原発に対する姿勢の違いである。槌田は筋金入りの反原発派で、彼の著作の大半は原発批判に割り当てられている。これに対して、武田は旭化成工業でウラン濃縮を研究し、内閣府原子力委員会専門委員、同安全委員会専門委員を務めていたこともあって、原発に対しては好意的であった。2008年の『間違いだらけのエコ生活 「地球にやさしい」は本当か?』では、「日本に残された道は、原子力しかない」(174頁)とまで言っている。しかし、2011年に福島第一原子力発電所事故が起きると、態度を変え、『原発大崩壊!』、『エネルギーと原発のウソをすべて話そう』、『原発事故 残留汚染の危険性』、『2015年放射能クライシス』といった原発の現状に批判的な本を書くようになった。但し、安全性が確保されるなら、原発は推進するべきだという基本的な姿勢は変えていない。

最近では、武田は『早死にしたくなければ、タバコはやめないほうがいいい』、『平気でウソをつく地震予知』、『国債は買ってはいけない!』など、環境問題以外の本も書くようになった。槌田のように同じような本ばかり書き続けるよりも、テーマを広げたほうが読者としては飽きないから、それ自体は良いことなののだが、それに伴って議論が粗雑になりつつある。槌田の議論にも間違いが少なくないが、武田ほどではない。オリジナリティという点でも、議論のクォリティという点でも、武田が槌田以上の学者とは思えない。もっとも、ベストセラーを売る能力という点では、武田の方が上だ。『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』は出版社が対話形式に編集して、売れるようになったが、槌田が直接書いた本は、真面目に書きすぎていて、あまり売れていない。売れる本を書く能力は、学問的な能力とはかならずしも同じではないが、それはそれで一つの才能である。

10. 参照情報

槌田敦の著作
注釈一覧
  1. 槌田敦『資源物理学入門』日本放送出版協会, 1982. p.4.
  2. 槌田敦『エントロピーとエコロジー―「生命」と「生き方」を問う科学』ダイヤモンド社, 1986. p.27.
  3. 槌田敦『熱学外論―生命・環境を含む開放系の熱理論』東京: 朝倉書店, 1992. p.35-36.
  4. 槌田敦『熱学外論―生命・環境を含む開放系の熱理論』東京: 朝倉書店, 1992. p.41-42.
  5. Shannon, C. E., W. Weaver, R. E. Blahut, and B. Hajek. Mathematical Theory of Communication. Vol. 117. University of Illinois press Urbana, 1949.
  6. 槌田敦『熱学外論―生命・環境を含む開放系の熱理論』東京: 朝倉書店, 1992. p.42.
  7. 槌田敦『熱学外論―生命・環境を含む開放系の熱理論』東京: 朝倉書店, 1992. p.43.
  8. Clausius, Rudolf. Über verschiedene für die Anwendung bequeme Formen der Hauptgleichungen der mechanischen Wärmetheorie. Vierteljahrsschrift der Naturforschenden Gesellschaft in Zürich 10. p.1-59.
  9. Boltzmann, Ludwig. Über die Beziehung zwischen dem zweiten Hauptsatz der mechanischen Wärmetheorie und der Wahrscheinlichkeitsrechnung, respective den Sätzen über das Wärmegleichgewicht. Wissenschaftlichen Abhandlungen 2, 164. p.373-435.
  10. 槌田敦『熱学外論―生命・環境を含む開放系の熱理論』東京: 朝倉書店, 1992. p.18.
  11. 槌田敦『熱学外論―生命・環境を含む開放系の熱理論』東京: 朝倉書店, 1992. p.40.
  12. 槌田敦『熱学外論―生命・環境を含む開放系の熱理論』東京: 朝倉書店, 1992. p.47-48.
  13. 槌田敦『資源物理学入門』日本放送出版協会, 1982. p.167.
  14. 槌田敦『資源物理学入門』日本放送出版協会, 1982. p.168.
  15. 槌田敦『熱学外論―生命・環境を含む開放系の熱理論』東京: 朝倉書店, 1992. p.76-77.
  16. 槌田敦『石油と原子力に未来はあるか』増補版. 亜紀書房, 1988. p.192-194.
  17. ジョージェスク・レーゲン, ニコラス.『経済学の神話』東洋経済新報社. 1981.4. p.3-55.
  18. 槌田敦『熱学外論―生命・環境を含む開放系の熱理論』東京: 朝倉書店, 1992. p.77-78.
  19. 槌田敦『熱学外論―生命・環境を含む開放系の熱理論』東京: 朝倉書店, 1992. p.164.
  20. 槌田敦『熱学外論―生命・環境を含む開放系の熱理論』東京: 朝倉書店, 1992. p.134.
  21. 槌田敦『熱学外論―生命・環境を含む開放系の熱理論』東京: 朝倉書店, 1992. p.138-139.
  22. Cordell, Dana, Jan-Olof Drangert, and Stuart White. “The Story of Phosphorus: Global Food Security and Food for Thought.” Global Environmental Change 19, no. 2 (May 2009): 292–305.
  23. The Global Phosphorus Research Initiative. Phosphorus recovery
  24. 槌田敦『熱学外論―生命・環境を含む開放系の熱理論』東京: 朝倉書店, 1992. p.142-143.
  25. 鈴木秀夫, and 山本武夫『 気候と文明 』気候と歴史. 東京: 朝倉書店, 1978.
    p.1-69.
  26. 武田邦彦「ジックリ考えるプラスチック・リサイクル(1)」平成20年3月29日.