『市場原理は至上原理か』を出版しました
私の著作『市場原理は至上原理か』の解説動画、書誌情報、販売場所、概要、読者との質疑応答などを掲載します。本書に関してコメントがありましたら、このページの下にあるコメント・フォームに投稿してください。誤字脱字の指摘から内容に関する学問的質問に至るまで幅広く受け入れます。

1. 解説動画
2. 販売場所
販売価格は小売店によって異なることもあります。リンク先で確認してください。
- Amazon.co.jp :: 市場原理は至上原理か
- Amazon.com :: Shijogenri ha Shijogenri ka
- Rakuten Kobo :: 市場原理は至上原理か
- Google Play Books :: 市場原理は至上原理か
- Smashwords :: 市場原理は至上原理か
3. 表紙画像

4. 書誌情報
- Title :: 市場原理は至上原理か
- Furigana :: シジョウゲンリハシジョウゲンリカ
- Romaji :: Shijogenri ha Shijogenri ka
- Author :: 永井俊哉
- Furigana :: ナガイトシヤ
- Romaji :: Nagai, Toshiya
- Author bio :: 著作家。インターネットを主な舞台に、新たな知の統合を目指す在野の研究者。専門はシステム論。1965年8月、京都生まれ。1988年3月、大阪大学文学部哲学科卒業。1990年3月、東京大学大学院倫理学専攻修士課程修了。1994年3月、一橋大学大学院社会学専攻博士後期課程単位修得満期退学。1997年9月、初めてウェブサイトを開設。1999年1月、日本マルチメディア大賞受賞。電子書籍以外に、紙の本として『縦横無尽の知的冒険』(2003年7月, プレスプラン)、『ファリック・マザー幻想』(2008年12月, リーダーズノート)を出版。
- Language :: ja
- Page :: 291ページ
- Publisher :: Nagai, Toshiya
- ISBN :: 9781310457012 (Smashwords, Inc.)
- BISAC :: Book Industry Standards and Communications
- Nonfiction » Politics and Current Affairs » Economic policy
- Nonfiction » Social Science » Political science » Political economy
- 政治学 > 公共政策 > 経済政策
- ビジネス・経済 > 商業政策
- Tags :: キーワード
- Japanese :: 市場経済、民営化、構造改革、規制緩和、小さな政府、リバタリアン、政策科学
- English :: market, libertarianism, socialism, nationalism, collectivism, individualism, capitalism, decentralization, politics, economics
5. 短い概要
日本の国際競争力を低くしていると言われている、建設、金融、流通、農業、医療、教育といった保護産業の分野に市場原理を導入することは、社会にとって望ましいことなのか否かをめぐって、国家主義者、社会主義者、自由主義者の三人の論者が激論を戦わせる、バーチャル・ディベート・ショー。あなたは市場原理の導入に賛成か反対か。日本の将来を考えよう。
6. 長い概要
公共の利益は、公共心があるということになっている一人あるいは少数のエリートが中央集権的なシステムで意図的にそれを実現しようとすることで実現できるのか、それとも中央による統制を行わずに、諸個人を自由に利己的に振る舞わせた方が、「見えざる手」によってより良く実現できるのか。この問題はアダム・スミスの時代以来論じられてきた。
1929年に始まった世界大恐慌で、レッセ・フェールが世界的に疑われ、右の国家主義と左の社会主義が台頭したものの、冷戦終結後は市場経済が再評価され、自由主義が国家主義や社会主義よりも優れているとみなされるようになった。それでも、グローバル経済が危機に陥るたびに「市場原理主義は死んだ」と言われる。はたして市場原理は至上原理なのか。それとももっと優れた原理があるのか。
本書は、日本の国際競争力を低くしていると言われている、建設、金融、流通、農業、医療、教育といった保護産業の分野に市場原理を導入することは、社会にとって望ましいことなのか否かをめぐって、国家主義者、社会主義者、自由主義者の三人の論者が激論を戦わせる、バーチャル・ディベート・ショーである。自由主義者は著者の立場を代弁しているが、あなたはその主張に納得できるだろうか。
(*)本書は1999年にネット上で公開した『激論!市場原理は至上原理か?』の第二版です。本文の修正は最小限にとどめ、2016年時点での見解を注釈を加えるという形でアップデートが行っています。なお、本書は、DRMフリーです。
7. 関連著作
反市場原理・反小さな政府の立場の人は、今でもたくさんいる。いくつか例を挙げると、
内橋 克人+グループ2001:規制緩和という悪夢
根井雅弘:市場主義のたそがれ 新自由主義の光と影
服部/茂幸:新自由主義の帰結-なぜ世界経済は停滞するのか
トマ・ピケティ:21世紀の資本
などがある。市場原理の不在がどのような弊害をもたらすかを理解するには、特殊法人の問題を最初に提起した
猪瀬直樹:日本国の研究
猪瀬直樹:続・日本国の研究
を読むべきである。市場原理至上主義は、海外ではリバタリアニズムと呼ばれている。リバタリアニズムの入門書としては
がある。海外の古典としては、社会主義経済をファシズムと同様の反自由主義・反市場経済と位置づけて批判した
フリードリヒ・ハイエク:隷従への道―全体主義と自由(The Road to Serfdom)の翻訳)
が、必読文献である。
ディスカッション
コメント一覧
自由主義の理想は、労働力、商品、資本、情報といった経済活動の要素が、自由に移動できるグローバリゼーションです。もし私たちがどこに生まれても、学校や職場をグローバルな選択範囲で自由に選ぶことができるとするならば、そして「よそ者」であることのデメリットが何もないならば、世界の各地に地域差があることは何も問題ではないはずです。むしろ地球全体が金太郎飴みたいに画一化されているよりも、地域差があった方が選択の自由が増えるといっても良いぐらいです。
しかし実際には移民や移住の自由は制限されていて、多くの人は、たまたま生まれた地域に一生拘束されつづけます。そのため地域の不平等が人間の不平等と同一視され、地域間格差があたかも社会的不正義であるかのように誤解されるわけです。南北問題を解決するためには、まず労働力、商品、資本、情報のグローバルな自由化から始めなければなりません。そうすると一時的に先進国に人口が集中するでしょうが、先進国の地価が上昇し、コストが高くなるので、生産拠点の海外移転が始まります。すなわち、グローバリゼーションが進むと、世界で最もコストが安いところに投資がなされるので、地域間の不当な貧富の格差は是正されます。
もちろん人口移動による都市や先進国のスラム化は望ましくないし、そのためにも、教育への公的投資が必要なわけです。教育への公的投資によって、個人レベルでの貧富の格差がなくなるわけではありませんが、機会の平等は保証されます。社会正義にとって重要なことは結果の平等ではなくて公平さではないでしょうか。
I have read your text here in UK and am impressed. Your arguments of transformation in the postal service and education are suggestive and radical. They are radical because Japanese culture or labour ethics would not change over the night. Our culture has been cultivated for a long time. Even if business procedure or political system could be changed, our spirit could not change.
It seems that western way or so-calld global system is triamphant and effective. Japanese might intake its advantages as a form. But western way is effective because it is constructed on the foundation of liberalism and rationality, which were also developed for centuries. If we want to copy their way, we need to understand western spirit or liberalism. Our culture and disposition such as lack of subjectivity or dependent tendency, conventions and norms like respect for seniors, care too much about appearance and cleanness etc. should change. If we looked at only phenomena and did not pay attention to causes and reasons behind them, our proposition would lose its effevtiveness.
If you have time to reply, I prefer to read in Japanese.
私は、大きな政府から小さな政府への流れは時代の必然であり、文化の相違はほとんど関係ないと認識しています。Morihinoさんが住んでおられるイギリスも、サッチャーが改革を始めるまでは、日本以上の福祉国家でした。アメリカもニューディール政策を始めてから、混合経済を続けました。1929年の大恐慌をきっかけに、文化の相違とは無関係にすべての先進国が、大きな政府となり、1973年のオイルショックをきっかけに、文化の相違とは無関係にすべての先進国が、小さな政府を目指さなければならなくなったと私は考えています。
『市場経済は至上経済か』を読ませていただきました。率直に言って自分は、永井さんの意見には否定的な見解を持っております。永井さんの主張の基本的な部分は、市場の「見えざる手」にかなり依存していると思います。しかしながら、市場経済は数字の世界です。その運用を誤ると、アジア経済危機や、最近のニューヨーク大停電など、大規模な問題に発展します。つまり、市場経済を正しいと言うには、それが正しく運用されているという前提がなくてはいけないのです。ニューヨークの大停電の問題は、システムを安定的に維持するためのコストを市場の数字に盛り込んでいなかったことです。つまり、適切な数値が盛り込まれなければ、市場経済といえども正しいとはいえないのです。
運用を誤れば、大きな問題が起きることは既にアジア経済危機やニューヨーク大停電などを見れば明らかです。しかも、それらがグローバルな規模で起きてしまう事のリスクを考えると、とても「至上」といえるほどの正当性があるとは言えないと思います。
また、市場経済こそベストな選択だと考え、その他のものが提示する問題点に対して、現実的な返事が出来ていない点も問題だと思います。例えば穀物は備蓄すればよいと考え、同時に2年以上問題が起きたときには、農地を拡大するなどの処置をすればよいと書いておられますが、実際問題として、そのような短期間に農地を拡大するのは難しいと思います。
私が永井さんの主張で最も危険な部分だと思うのは、他の者が唱える問題点を軽く捉えている所です。これは、過去の共産主義が「共産主義は理論は正しいから上手く行くはずだ」と言って失敗したように理論ばかりを見て現実を直視していない点です。
自由主義経済が共産主義に対して勝利したのは、共産主義よりも現実を直視した結果だと思います。しかし、自由主義経済が勝利した後、誰も逆らうものがいなくなったことで、自分のやり方こそが至上だと考え、まわりの意見を聞かなくなって(現実を直視しなくなって)しまうと、過去の共産主義と何ら変わらなくなってしまうのではないかと思うのです。
1997年のアジア通貨危機の原因は、ドルペッグ制です。政府が為替レートを固定しようとするから、あのようなカタストロフィーが起きるのです。すなわち、アジア経済危機は、市場原理を導入したことによってではなくて、それを政府が拒否しようとしたことによって生じたのです。
2003年8月14日にニューヨークで起きた停電の原因は、現時点ではまだよくわかっていないようです。北米電力信頼性協議会(North American Electric Reliability Council)は、引き続き調査中と言っています(MSBlastワームによるという説あり)。
たぶん、この例でmeroさん言おうとしていることは、「市場原理の導入により、コスト削減の競争が激化すると、安全性が疎かにされるので、問題がある」ということだと思いますが、はたしてこの命題は正しいでしょうか。
もしも、消費者がコストよりも安全性を重視するならば、安全性を重視する業者が選ばれることでしょう。しかし、多くの人は、安全性のためならいくらコストがかかってもよいとは考えていません。どこでバランスを取ればよいかに関しては、消費者が決めるのが一番です。
プロバイダを選ぶ時、値段の安さの方を重視する人もいれば、接続の安定性の方を重視する人もいます。それと同じように、電力供給にも市場原理が機能すれば、手術を行う病院などは高くても安定した供給サービスを買うだろうし、イルミネーションを手がける娯楽産業は、安定性よりも価格の低さを重視するでしょう。
ところが、電力供給サービスには、通常、このような選択の自由がありません。それは、社会主義的で中央集権的な電力生産のあり方に原因があります。中央集権的な電力生産には、
といった問題点があります。
電力生産を分散化するにはどうすればよいのか、将来の発電はどうあるべきかに関しては、「石油に代わるエネルギーは何か」を参照してください。
市場原理至上主義は、エリートによる中央集権的な管理への懐疑に基づいています。その懐疑主義が懐疑主義そのものに向けることができるのかというのが最後の質問の趣旨でしょう。私は、可能だと思います。疑うことは否定することではありません。ですから、懐疑主義者が懐疑主義そのものを疑っても、自己否定にはならず、パラドックスを帰結しないからです。
ドルベッグ制による強制連動の仕組みが、アジア経済危機の主犯であると考えておられる点については、主因となる原因もさりながら、それを大規模にしたシステムに問題があると自分は考えます。ディリバティブ取引による為替取引が国家が対応できるキャパを越えてしまったために、以前までは対応できていた状況を破綻させてしまったと自分は考えています。
要するにデリバティブ取引というターボエンジンを入れたはいいが、それに相応する制御システムを搭載しなかったがために破綻に陥ったと考えています。システムに論理的な矛盾があると問題が問題を肥大化させる現象が起きる。しかしそれも、状況が限定できれば、被害は最小に抑えられる。自分の場合は、問題のあるデリバティブ取引を欠陥のあるシステムに流したことが今回のアジア経済危機の問題の核心だと思っています。
危機管理の基本として
ニューヨークの大停電を見ると、問題のある送電網から、他の送電網を切り離すことが出来れば、あれほどの問題にはならなかった。しかし、それが全て繋がってしまったために大規模な問題となった。それと同じように考えると、デリバティブ取引のような仮想的な資本の集中化(問題を連結してしまった)が問題を大規模にしてしまった。
大事なことは、ただアクセルを踏むことが正しいと考えるのではなく、ブレーキも必要だということだと思うのです。安全のために。それが現実的な対応だと思う。問題は多面的な要素の連なりから生まれる。特に大規模な問題は複数の要素の相乗効果から生まれていることが多い。たったひとつの理由で説明できるものではなく、複数の要因を一つ一つ潰していかないと、強固なシステムは作れない。
市場を拡大することも重要だが、安定させることも同じくらい大切だと思う。安定がなければ、発展が遅くなる。お金持ちがお金持ちな理由は、成金とは違う。資本を安定的に維持する技術を持っているから、彼らはお金持ちなのだ。自分は成金的発想ではない本当のお金持ちの論理で経済を語るべきだと思う。長期的に見るとそれが最善だと思う。
ただ、ハードウェア的に言うと、スペースシャトルの問題と同じようにエンジニアから、駄目だと言われているわけです。それは性能に余裕がないという事です。(性能が充分にあれば、対応できたわけです)それは、間違った市場経済を実践してしまったためです。安全を維持するためには、お金が必要ですが、ニューヨークの大停電の場合、送電網のコストを含んだ競争が行われなかった事が問題です。つまり、市場の見えざる手を使うためには、トータルな資本(コスト)を含んだ競争を行うべきなのです。電力危機は、そういうトータルな視点に欠けていたことが問題だと考えています。
性能に余裕のないハードは、遅かれ早かれ、何らかの問題を引き起こします。(その状態で負荷をかければ、壊れるのは当たり前です:ヒビの割れた器に重たいものを入れたら壊れますよね)最悪の場合は、問題が問題を拡大する事で破綻に陥る。そういう事を犯さないためには、充分に余裕のあるシステムを作らなくてはいけないのです。そのためには、トータルなコストを含んだ競争が必要です。偏った競争では、その偏りによる破綻が目に見えています。
例えば、政府が発電事業者にある程度の送電コストを負担させる規制を作ります。そうすると、発電事業者は、発電所を分散化し、送電距離を短くすることでコスト削減を計ります。送電距離が短くなれば、送電ロスを下げることも出来ますので、コスト的にも有利です。そういう正しい競争をさせるべき何です。(ただ、分散化しても、大規模な発電所の方が発電効率が高いわけです。つまり、規制がないと電力の分散化が難しいのです。また、安全な電力を手に入れるための送電網(インフラ)も手に入らないわけです)
規制によってリスクを分散化する事が重要です。市場経済には自由という側面と、それを安定化させるための規制の両面が必要だと思いますが、残念ながら、自由だけが強調され、規制は自由の敵のような扱いをされてしまっているように思えます。私が指摘したいのは、その自由と規制のバランス何です。それがなければ、見えざる手が正しく機能しないと言いたいわけです。
それは、違います。自分はもうちょっと複雑です。そのような短絡的な批判はしませんので心配しないでください。耳にタコが出来るほど、そういう話しは聞いているでしょうから、そう考えるのも無理はないでしょうが。
消費者が決める以前に、システムには約束を守る義務があると思います。その前提の上で、競争するべきなのですが、その発想が制度的にニューヨークの自由化にはなかったと思うのです。つまり、偏った制度や老朽化した送電システムに欠陥があったわけですが、それを一般消費者が認知していなかったし、それは一部のエンジニアの間で問題視されていた程度でした。コストがかかるために、それを一般消費者に認めさせるのは難しい。しかし、電力を安定的に供給する為には、それが必要です。重要なのは、消費者の基本的なニーズを実現するための共通のルールだと考えています。消費者が世の中の全ての判断をするとしたら、それは膨大な労力が生じてしまいます。その様な瑣末なことは、専門家がやるべきことであって、基本的なバックボーンは、専門家が整備して、その上で競争をするべきです。具体的には、電力を安定させるインフラ(土台)は、専門家に任せて、その上で発電効率や送電効率の高さで競争をすればいいと思うのです。安全性の犠牲にした競争は駄目です。最低限の安定性を維持することが必要です。
ニューヨークの場合、その類の発想で失敗したんですよね。それの何が問題というと、信頼性の確保を無視した競争だからです。例えば、車を作るときに安全基準がありますよね。そこの部分を市場に任せろと言っているわけです。でも、そういうことは、専門家が考えてやるべきことです。安全基準を作って、その上で競争するべきです。つまり、安全という基本的なニーズは、全体の利用目的に合致すると考え、そのコストを規制(1kwあたり数円とか)などで全体でシェアすることで、(薄利多売方式で)需要者あたりのコストを低くし、それから上の部分を競争する。二段階方式であるべきだと考えています。(現在の市場経済は、専門家の意見が通りにくい。なぜなら、全てを短期的なコストで判断してしまうから、でも、長期的なコストを考えると、専門家の主張も経済的合理性がある。そこが現在の市場経済では見過ごされている)
自由化の前には、ニューヨークに発電所があったのです。しかし、自由化に対応するために効率の高い新しい発電所を作る必要に迫られ、結果としてニューヨークの電源は、送電網が破綻することで、全体がストップしてしまいました。
計らずも、今回の自由化が送電網のコストを含んだものではなかったので、大規模で効率の高い発電所が最もコスト的に有利となってしまった。その結果、中央集権的な電力供給システムが出来てしまいました。(ただ自由化すれば、分散化するわけではありません。企業は収益で動いているのですから。理屈の上では正しくても、現場に行くとひっくり返ることがあります)
競争は大事ですが、競争の仕方に問題があったのです。
この文章の意味は難しいのでよく分かりませんが、自分が言いたかったのは、市場経済と言っても扱い方を間違えると大規模な問題を起こすので、「至上」といえるほど、大したものではないと言いたかったのです。そこで大切なのは、適切な運用であり、そのためには、己の意見を「至上」と考えるのではなく、まわりの意見をよく聞く(現実を直視する)努力が(謙虚さが)大切だと言いたかったのです。歴史を見ると、権力を握った指導者が逆らうものがいなくなった後で、現実を見失い没落していく姿を見るにつけ、「どんなときでも、現実を見失ってはいけない。特に逆らうものがいなくなったときは特に..」という主旨の意見です。
「競争にはルールが必要だ」という主張は、市場原理至上主義とは全く矛盾しません。ルールは、民主主義的に決定されるべきであり、そして民主主義とは市場原理そのものですから、市場原理はやはり至上原理なのです。なお、なぜ民主主義が市場原理であるのかに関しては、「至上原理としての市場原理」を参考にしてください。
発電の話は、「石油に代わるエネルギーは何か」のコーナーに舞台を移すことにして、デリバティヴについて、コメントしましょう。デリバティヴを危険視する人が多いようですが、デリバティヴは、リスク・ヘッジのためにあるのであって、危険を増やすのではなくて減らす一種の保険と認識するべきです。安定性の保証は、政府の独占物ではなく、営利企業による代行が可能な商品であって、政府の仕事は、不正の監視や保険の保険に限られるべきでしょう。
meroさんは、市場原理至上主義を市場原理万能主義と誤解しているようですが、「市場原理は至上(supreme)である」という命題は、「市場原理は他の原理より良い」ということを言っているだけであって、決して「市場原理は完全である」とまでは言っていません。市場原理に基づく選択が間違いを犯すことはよくあることだし、事故も当然起きるでしょう。しかし、それでも、市場原理は他の原理よりましだということを、私たちは経験を通じて知っています。
私たち人間は、神ではないのですから、不完全です。市場原理至上主義は、自らの不完全性に対する自己認識に基づいています。だから、市場原理至上主義は傲慢とは対極にある思想なのです。
100円のものを1万円で取り引きする仮想取引が結果として、政府が保証できる容量を越えてしまった事実を無視してます。そういう現実を直視してくださいといっているんです。目的がリスクヘッジの為にあっても、そのメカニズムを検証せずに目的だけ見て、正当化するのは、デリバティブという手段の問題点を無視していますね。数学者が理屈をこねて考えたシステムでしょうが、理屈と現実とは違いますよ。電気の話しでも言いましたけど。(理屈で正しくても、現場でひっくり返りますから、市場経済という荒馬を乗りこなすのならば、そういう現実を直視するべきだと言っているんです)数学の世界では、数値は無限にあります。しかし、現実の数値には限界があり、その限界を越えると、システムそのものが理論どおりに機能しなくなります。パソコンの中では機能しても、現実には機能しない場合がありますよ。
「市場原理に基づく選択が間違いを犯すことはよくある」それがでかいから問題視しているんだよね。市場経済に対して評価が甘いと思う。アジア経済危機のような巨大な問題が起こったことを忘れないでください。市場経済は、扱いには注意が必要な粗馬なんです。乗りこなすには、細心の注意が必要で、そんな甘い考えでは駄目だと思う。市場経済を本当に成長させたいと思うのならば、もうちょっと厳しい目で見たほうがいいと思います。
市場原理は手段に過ぎないんです。ですから、欠点も利点もあるわけです。他のやり方も同様です。ですから、もっと公平に物事を見なくてはいけません。だから、何事も市場原理で片付けるような無理な発想はやめた方がよいと言っている。他よりいいというような階級的なバイアスがかかっていると、物事を素直に見ることができないですよ。(多分、聞いてもらえないでしょうが)
欠点はあると自覚していると思っているようですが、その責任の追及はせず、「他よりいいから」という消極的な理由で正当化するのはどうかと思います。場合によっては、市場経済そのものを疑ってかかる柔軟性がないと、市場原理そのものを運用する事が出来ないでしょう。ニューヨークの大停電の様にね。何でも市場原理というちゃんぽんに入れれば、何事も解決すると思っているとしかみえません。でも、扱いの問題を考えれば、市場原理という道具は、工夫して使わないといけませんね。工夫するためには、市場原理の外に発想を巡らすことも必要ですよ。規制を悪だと考えるような考え方では、ニューヨークの大停電の様な事を繰り返しますよ。前にも書きましたが、アクセルも必要ですがブレーキも必要ですよ。
グローバル経済が個別の政府の力量を超えて成長しないように規制するという主張は、ベッドの大きさに合わせて足を切る本末転倒の議論です。経済が、個別国家の範囲を超えているのなら、国際的なルール作りをすればよいだけの話です。
市場原理至上主義はすべての規制を悪とみなしているわけではありません。スポーツの競技にルールと審判が必要なように、市場での競争にもルールと政府が必要です。市場原理至上主義が「大きな政府」を批判するのは、審判が審判としての強い権限を発揮することではなくて、審判がプレーヤーとして試合に参加し、自分に有利な審判を下すことなのです。すなわち「小さな政府」の理念は、量的に政府を小さくすることではなく、政府や政府系法人には生産活動をさせないということです。
安定性の保証は政府の仕事とお考えのようですが、国民年金や簡保の悲惨な現状を見ると、保険(リスクヘッジ)ビジネスには、政府は直接携わるべきではないと言いたくなります。
市場原理の導入がもたらす被害が、他の手段の選択がもたらすどの被害よりも小さいとするならば、市場原理はベストであり、そして「ベストな手段を選択するべきではない」という主張は、「ベスト」という概念の自己矛盾であり、ナンセンスです。meroさんは、ニューヨークの大停電を人類史上最大の惨事と位置付けているようですが、市場原理を放棄すれば、停電はなくなるとでもお考えでしょうか。北朝鮮では、毎日停電が起きていますよ。
「グローバル経済が個別の政府の力量を超えて成長しないように規制」そんな事を誰が言いました。問題は、ディリバティブで膨らんだ仮想マネーが市場を崩壊に導くという事です。つまり、実体のない数字によって、膨らんだ資産の存在そのものが危険であると言っているだけです。ものによっては、100倍に膨らむようなデリバティブ取引のようなものは、市場の均衡を乱すので規制するべきだと言っている。それを「成長」というには詭弁に過ぎると思います。つまり、あるはずのない数値が市場を破壊する。これほど不当なことはない。
永井さんのお聞きしたいのですが、「もし、30年後に石油やウランがなくなるとして、それを市場原理で対応するとしたら、どのようになさいますか?」日本社会がエネルギー転換に30年程度かかるとします。どのように市場原理で対応しますか?
日本の保険制度の問題点は、政府の失策(持続できない政策)であり、もっと言えば、失策を犯している政党を指示し続ける国民自体の判断力のなさが問題であって、政府というシステムの問題ではない。もっと言うと、基本的に国民の能力は高いのに、充分な情報が彼らに届いていない事が問題だ。それは、ある意味この国のジャーナリズムの問題であると言える。
市場原理の「見えざる手」の実体は、数値です。数値には判断力がありません。その判断力に相当する部分を政府が担うべきだと言っているのです。ジョージソロス氏などは、「市場原理は、私益の追及が公益になるという幻想を産み出してしまった」と述べています。全くその通りだと思います。ニューヨークの問題は、その市場経済の判断力のなさが露呈した事件なのです。つまり、これと同じ論理で他のことをやれば、同様の問題が起こりうることです。市場経済というのは、実質的には数値であり、数値には、送電線の技術的問題点などは入っていないわけです。これがいかに危険な結果をもたらすか、という事なのです。