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『エントロピーの理論』を出版しました

2019年6月10日

私の著作『エントロピーの理論』の解説動画、書誌情報、販売場所、概要、読者との質疑応答などを掲載します。本書に関してコメントがありましたら、このページの下にあるコメント・フォームに投稿してください。誤字脱字の指摘から内容に関する学問的質問に至るまで幅広く受け入れます。

1. 解説動画

エントロピーとは何なのか、エントロピーにはどのような法則があるのか、その法則は熱力学の対象を超えて適用できるのかといった問題を取り上げ、私の著作『エントロピーの理論』を読む人のための導入とします。

2. 表紙画像

画像
『エントロピーの理論』の表紙画像

3. 書誌情報

  • Title :: エントロピーの理論
    • Furigana :: エントロピーノリロン
    • Romaji :: Entropy no Riron
  • Author :: 永井俊哉
    • Furigana :: ナガイトシヤ
    • Romaji :: Toshiya Nagai
  • Author bio :: 著作家。インターネットを主な舞台に、新たな知の統合を目指す在野の研究者。専門はシステム論。1965年8月、京都生まれ。1988年3月、大阪大学文学部哲学科卒業。1990年3月、東京大学大学院倫理学専攻修士課程修了。1994年3月、一橋大学大学院社会学専攻博士後期課程単位修得満期退学。1997年9月、初めてウェブサイトを開設。電子書籍以外に、紙の本として『縦横無尽の知的冒険』(2003年7月, プレスプラン)、『ファリック・マザー幻想』(2008年12月, リーダーズノート)を出版。
  • Language :: ja
  • Page :: 626ページ
  • Release Date :: 2019-06-09
  • Identifier (Publisher)
    • ISBN :: 9780463501139 (Smashwords, Inc.)
    • ASIN:: B07SSP3P2G (Nagai, Toshiya)
    • GGKEY :: URRFGWYLJ4W (Nagai, Toshiya)
    • 楽天商品番号 :: 1230003269626 (Nagai, Toshiya)
  • BISAC :: Book Industry Standards and Communications
    • Science / System Theory
    • Social Science / Sociology / General
    • Philosophy / Social
    • 社会科学 > 社会学 > 一般
    • 哲学 > 社会哲学
  • Tags :: キーワード
    • Japanese :: 哲学、歴史学、エントロピー、システム論、文明論、戦争論、コミュニケーション、複雑性、オートポイエーシス、スケープゴート、社会哲学
    • English :: philosophy, history, entropy, system theory, civilization, communication, complexity, autopoiesis, scapegoat, war

4. 販売場所

販売価格は小売店によって異なることもあります。リンク先で確認してください。

5. 短い概要

エントロピーはたんなる物理学の概念ではない。エントロピーの理論は、生命システム、意識システム、社会システムといったあらゆるシステムを貫く理論とすることが可能である。本書は、オートポイエーシス、超越論的自己関係性、コミュニケーション・メディア、ファルス、スケープゴート、貨幣のシステム論的分析を行いつつ、さらにエントロピー史観から人類史を概観する。

6. 長い概要

エントロピーはたんなる物理学の概念ではない。熱力学第二法則を非熱力学的分野に拡張することで、エントロピーの理論は、生命システム、意識システム、社会システムといったあらゆるシステムを貫く理論とすることが可能である。本書は、拡張されたエントロピーの概念で物理学の領域を超えた事象を説明しようとする哲学的な試みである。

どのような開いたシステムも、自らの低エントロピーな構造を維持するためには、環境のエントロピーを増大させなければならない。生命システムは、自己準拠的に自己自身を創作し、数を増やすことで全滅するリスクを低下させている。この点で、他の非生命システムとは異なる。生命のうち、自己保存のための選択が、不確定な情報エントロピーの縮減に基づくシステムは意識を持つ。

意識を持つシステムは、相互に相手の不確定性に依存する社会的エントロピーに晒される。この社会的エントロピーを縮減してくれる媒介的第三者が、コミュニケーション・メディア(文化システムにおける記号、経済システムにおける貨幣、司法システムにおける刑罰、政治システムにおける票)である。

コミュニケーション・メディアの起源は、系統発生的にはスケープゴートであり、個体発生的にはファルスである。境界上の両義的存在者の抹殺はシステムのエントロピーを縮減することに貢献する。その貢献ゆえに、いったん排除されたスケープゴートは媒介的第三者として機能する。また去勢以降、母子を結びつけるファルスも、その非存在ゆえに媒介的第三者として機能する。

本書は、最後に、エントロピーの経済学を概説した後、人類史のマイルストーンを振り返る。人類は、太陽活動が低迷し、物質的エントロピーが増大し、情報エントロピーが減少する時に、つまり革命を起こす必要があり、かつ起こす能力がある時に革命を起こす。このエントロピー史観の法則に基づいて、人類誕生から現代資本主義の成立にいたる歴史のシステム論的説明を試みる。

7. 質疑応答

本書の内容に関する読者からの質問への私の返答をここに転載します。

第一章 第二節 意識とはどのようなシステムか
R.Haya(2007年9月29日 9:01 PM)

非常に勉強になるサイトの運営に、心より感謝しております。
基本的なことかもしれませんが、質問させていただきます。
質問:永井先生の考え方は、主観(意識)や客観(物)より「意味」が先立つというお立場なのでしょうか?
私は、「意識の存在目的は、意識を持つものが生きることである」と捉えています。永井先生も書かれているとおり、

第二章 第一節 なぜ自殺をしてはいけないのか

「生き延びる価値観」と「価値観が生き延びること」が相互産出されるポジティブ・フィードバックの円環は、価値的に基礎付けられることなく、ただ事実として存続している。これは、生命システムのオートポイエーシスである。

ということから、自分の生命を価値の基準とすることは、私も理解ができます。
そして、もし主観や客観より「意味」が先立つとすれば、意識の存在を、価値の基準である「生きること」のためにあるものと結論してもよいと考えます。
しかしながら、生きることと、意識の存在を語ることは別問題のような気もします。
逆に、「主観や客観より意味が先立つ」という立場でないと、ここに書かれている推論は成り立たないように思います。
そこで、永井先生のお考えを確認させていただきたく、質問させていただきました。
永井先生の考える立場を、お示し願います。

永井俊哉(2007年10月1日 2:08 PM)

私は、意識対象(客観)、意識内容(意味)、意識作用(主観)が分節する前に、不確定性があると考えます。はじめに不確定性ありきです。不確定性が現れてから、それを縮減しようとする意識作用と、縮減された意識内容と間主観的に妥当な意識対象が、反省的意識において現れます。

カテゴリラ(2010年10月20日 4:29 PM)

早速、最初のツッコミを入れさせて頂きます。

  1. 「下等動物には意識がない」というのには賛成できません。「意識」という言葉の定義の問題かも知れませんが、意識にもレベルの高低があり、下等動物にも低いなりの意識があると考えるほうが良いように思えます。実際に私たちの脳にも階層構造があります。下等動物でも、捕食効率を上げるなどに意識が役立っていると思います。低いレベルながら、これも意識と呼ぶほうが理解しやすいのではないでしょうか?
  2. 「迷うかどうか」/「迷い」によって「意識があるかどうか」が決まるとは思えません。「迷い」は判断/決定のための演算であると考えるべきではないでしょうか?例えば、自動車の運転において、判断/決定のための演算精度が粗過ぎると判断を誤り、事故を起こすかも知れませんし、精度を高めようとすると時間が掛かり過ぎて、危険が回避出来ないかも知れませんので、状況に応じた適度な演算精度/演算速度が必要でしょう。機械による衝突防止装置が求められるのも、演算の精度と速度を両立させる(迷いを排除する)のが望ましいからではありませんか?このような機械に意識があるとは言いませんが、事故を避けようとする運転者の意識を補助するものにはなると思います。

高等な動物ほど、判断/決定のために多くの要素を考慮するので、演算も複雑となるため、迷いが目立つかと思われますが、「意識があるかどうか」の本質ではないと思います。
左右対称で等しい餌の置かれた分岐点に立つネズミが、迷いによって飢え死にする、といった例え話がありましたが、このような場合、生存に必要なのは、サイコロのようなランダムな決定要素ではないでしょうか?最も下等な生物を調べることで、将来その決定要素が明らかになると予想しています。
私の想像ですが、その決定要素は(熱雑音のような)何らかのノイズだと思います。したがって、(余談ですが)、是非はともかくも、意識を持った「ロボットのような機械」を作ることも可能だとは思います。

永井俊哉(2010年10月20日 5:33 PM)

たしかに、人間の脳には、個体発生的にも系統発生的にも、階層性がありますが、より原始的な脳ほど無意識の行為を司ることからも、原始的な脳しかも持たない動物ほど、意識的な行為はしないと推測できます。あなたが「下等動物」でもってどのような動物を考えているのかわかりませんが、一般的に言って、無脊椎動物には、神経システムのある程度の集中性はあっても、脊椎動物が持っているような脳は無いと見做すのが普通ではないでしょうか。

カテゴリラ(2010年10月27日 7:45 PM)

「意識」をどう定義するかにもよりますが、「何かに注意を当てること」とするのが短くて分かり易く好ましいのではないでしょうか?「無意識」と対比するのも良いかと思います。少なくとも、反射や自立神経の作用では無いでしょう。例えば、蛇が鼠を捕食しようと狙っている場面を想像してみて下さい。相手はすばしこいので、戦略を練ってよほど慎重に行動しないと捕食は成功しません。無脊椎動物について問うなら、ゴキブリでさえ、人間のすきを突いて餌をあさったり、見つかって負われれば必死で逃げ回ります。もっと言えば、ある種の粘菌は「餌を求め、餌と餌の最短距離をつなぐ形に変形する」(粘菌コンピュータ参照)そうです。確かに高等動物と同等に扱うことは出来ないかも知れませんが、レベルの違いはあれ、本質においては共通性があるのではないでしょうか?「意識」の本質を探るうえでは、なるべく下等な、あるいは、単純な例についての考察が役立つのではないかと思います。

永井俊哉(2010年10月29日 1:43 PM)

「意識」をどう定義するかにもよりますが、「何かに注意を当てること」とするのが短くて分かり易く好ましいのではないでしょうか?

世間で同じ意味に使われている同義語を定義として用いても、定義としての機能を果たすことにはなりません。

例えば、蛇が鼠を捕食しようと狙っている場面を想像してみて下さい。相手はすばしこいので、戦略を練ってよほど慎重に行動しないと捕食は成功しません。無脊椎動物について問うなら、ゴキブリでさえ、人間のすきを突いて餌をあさったり、見つかって負われれば必死で逃げ回ります。

複数の条件付き反応がプログラムされた、センサー付きの機械に同じようなことをさせることができるでしょう。しかし、その機械に意識があるとは言えません。

確かに高等動物と同等に扱うことは出来ないかも知れませんが、レベルの違いはあれ、本質においては共通性があるのではないでしょうか?

反射のような人間の無意識的行動との共通性はもちろんあります。そして、私の意識論は、人間の無意識的行動からヒントを得ています。

カテゴリラ(2010年10月30日 6:23 PM)

「意識」という単語を「何かに注意を当てること」という述語で説明することで、定義とすることに何ら問題はないはずです。あなたがこの定義から何らかの意義を見出さないとしても、私は新たなヒントを得ることが出来ました。今後の研究に生かしたいと考えています。

複数の条件付き反応がプログラムされた、センサー付きの機械に同じようなことをさせることができるでしょう。

人間の場合のチューリングテストに準じた、下等動物の場合のテストをクリア出来るような機械(?)が出来れば、「低レベルの意識」の証明になるかも知れませんが、動物と機械では隔たりが大きく、それさえ容易では無いと思われます。

私の意識論は、人間の無意識的行動からヒントを得ています。

それをトップダウン的な手法と呼ぶことにすると、私はボトムアップ的な手法のほうが近道のように思えます。物質を調べる際に分子や原子に根ざして考えるように、出来るだけ単純なモデルで考えるほうが効率的ではないでしょうか?

永井俊哉(2010年10月31日 1:15 PM)

「何かに注意を当てること」という基準では、外部からの観察で意識があるかどうかを判定することができません。人が目をつぶって、瞑想にふけっていて、何かに注意を当てているように外部からは見えなくても、意識がある場合もあれば、逆に、ロボットが、センサーをターゲットの方向に振り向け、何かに注意を当て行動しているように見えるにもかかわらず、実際には、意識がないという場合もあります。
だから、あなたの場合、実際には、何かに注意を当てているかどうかではなくて、複雑な行動をするかどうかという外部観察が可能な基準で、意識があるかどうかを判定しているのだと思います。しかし、これはあてにならない基準で、ブラウン運動のように、複雑な運動をするにもかかわらず、行為者に意識どころか生命すらない場合もあるのです。

迷う存在かどうかで、意識の有無を決める場合、まず走性や本能だけで行動する生物は、いかに複雑そうな行動をするとしても、意識を持たないと判定できます。また、学習能力があっても、それが遺伝子にプログラムされたアルゴリズムに基づく結果にすぎないのであれば、迷う余地はないので、その生命には意識があるとは言えません。

これに対して、知能のある動物には、確実に意識があると言えます。知能があるかどうかは、例えば、未知の状況下で、少ない試行錯誤により、食物にありつけるかどうかといった実験で確かめることができます。未知に状況下では、過去の体験は、直接には役に立ちません。過去の体験に基づきつつも、推測により有効な手段を考え、目的を達成しなければいけません。推測には、不確定性が伴うので、知能がある存在者は迷う、すなわち、意識があると判定できます。

これに対して、可能な場合を虱潰しにすべて試す存在者は、迷う必要がないから、意識を持ちません。その代表的な例がコンピュータです。コンピュータが、いかに複雑な計算をするにしても、意識を持たない所以です。

カテゴリラ(2010年11月1日 9:21 PM)

まだ「迷い」こだわっておられるのですか?私は「迷い」は「意識」の本質ではないと思います。また、不確定性と迷いは別物だと思います。
外部からの観察で判定できるか否かも「意識」の有無の必要条件ではないと思います。そもそも「意識」と「何かに注意を当てること」とを同義だと言っておきながら、矛盾しませんか?単に複雑な行動をするからと言って、それだけで意識があるなどとは申しません。ブラウン運動は熱雑音によるもので、「意識」を構成する必要条件であると予期してはおりますが、もちろんそれ単体では「意識」や「生命」と言えないことは当然です。ノイマン型コンピュータでは一般に虱潰しに探索する手法を採りますが、ニューラルネットではそうではありません。

永井俊哉(2010年11月4日 11:12 AM)

そもそも「意識」と「何かに注意を当てること」とを同義だと言っておきながら、矛盾しませんか?

私は、「意識とは何かに注意を当てることである」というあなたの定義が間違っているとは思っていませんが、それは、「意識とはアブラカダブラである」という定義が間違っているとは思わないのと同じ意味においてです。すなわち、言葉をどう定義するかは、その人の自由であり、他者には、それは間違いだと批判する権利は無いのです。

このように、定義は、規約なのだから、真とか偽とか言えない命題ですが、定義を判断基準として用いる時には、それがどれだけ多くの間主観的に合意可能な真理の発見につながるかによって、価値があるかないかを判断することができます。この基準からすると、あなたの定義には、判断基準としては価値がないと言うことができます。

今ある人が「意識とはアブラカダブラである」という定義を提案し、「下等動物でも、捕食効率を上げるなどのためにアブラカダブラが役立っているので、低いレベルながら、下等動物にも意識があると考えた方が理解しやすい」とか「ノイマン型コンピュータはアブラカダブラを持たないから、意識は無いが、ニューラルネットはアブラカダブラを持つので、意識がある」というようなことを主張したとしましょう。

この人に対して、私が「では、ある存在者がアブラカダブラを持っているかどうかを、外部観察によって、どのように判断するのか」と問うたところ、その人は、「アブラカダブラを持っているかどうかは、外部観察から判断できるわけではない」と答えたとしましょう。この場合、「意識とはアブラカダブラである」という定義は、真理の発見に何も役立っていません。たんに「意識」という言葉を「アブラカダブラ」に置き換えただけです。

これまであいまいにしてきましたが、無用の混乱を避けるために、定義と判断基準を区別した方がよいかもしれません。「意識」の一般的な定義を知りたければ、国語辞典を引けばよいのであって、そこには、例えば、「自分や周囲の状況などを(はっきりと)とらえる心の働き」[明鏡 国語辞典]というような定義が載っています。私は、意識の定義としては、これでもよいと思いますが、この定義でも、ある存在者が意識を持っているかどうかを、外部観察によって判断することができません。しかし、「迷う存在か否か」は、判断基準として使えます。そこがあなたのたんなる定義とは異なるところです。

あ(2018年10月10日 12:18 AM)

主体がネゲントロピーを目指す時だけ意識が生じるのでしょうか。ランダムに動くロボットは生存を目的とした場合には意味のない物ですが、エントロピー増大を目的とする宇宙全体を主体と見ればその目的に一役買っており、しかも不確定性があるので、意識があるかもしれません。

永井俊哉(2018年10月10日 9:55 AM)

宇宙は、自らの存続の危機に晒されることはないし、それどころか、そもそも生命のように自己保存するようにプログラムされてもいないので、意識を持つ必要はありません。

あ(2018年10月10日 10:06 PM)

システムが迷うことができるどうか非連続に分類することはできないと思います。ただし、そのシステムにどれほど深い迷いが可能か(未来予測をするためにどれだけ複雑な理論を作れるか)を考えることはできると思います。我々人間は深い迷いを持つシステムです。それに対し昆虫等は浅い迷いを持つシステムです(一応昆虫も学習をします)。では、昆虫よりも我々の方が「大きな意識」を持つと言えるのでしょうか?つまり、我々が酒や眠気で朦朧とした状態は「大きな意識」が縮小し「小さな意識」となったもので、昆虫等が持つ意識の疑似体験になっていると言えるのでしょうか?私はそうは言い切れないと思います。複雑なシステムのonとoffの間が単純なシステムのonであるとは言えないからです。つまり、昆虫等の単純なシステムは「意識が無い」または「意識が薄い」というよりは、もう少し一般化して、我々とは別種の意識を持つと言う方が正しいのではないかと思います。昆虫だけでなく、大脳より下の階層である中脳や小脳にも同じことが言えます。そしてその意識がどんなものであるかは、大脳を所在とする我々には知り得ないものだと思います。

永井俊哉(2018年10月11日 11:15 AM)

迷うということは、自己保存を目的としており、かつその手段が事前に確定していないということです。自己保存という目的がなければ、何も迷うことはないし、手段が事前にプログラムされていても迷うことはありません。「飛んで火にいる夏の虫」といった愚行を繰り返す虫には学習能力はなく、当然知性もないのですから、意識もないでしょう。

第二章 第一節 なぜ自殺をしてはいけないのか
カテゴリラ(2010年10月20日 9:56 PM)

私は自殺の自由は保障されるべきだと思っています。
同様に安楽死の自由も保障されるべきであると思います。(本人の意思が証明される必要がありますが。)
生まれながらにして社会/集団の中に居る以上、その社会/集団の一員として自動的に契約していることになりますが、自殺のために他人を巻き添えにしたり、他人の財産を損なったりするのでなく、自己責任の範囲における行為としての自殺や安楽死の自由は保障されるべきだと思うのです。
この点を説明する上で、持論「生命階層論」に触れさせてください。生命と一口に言いますが、三つの階層(細胞、個人/多細胞個体、社会/集団)が認められると思います。それぞれの階層において、生命の特性として、仰せの「エントロピ-縮減」が営まれているはずです。善悪の概念についても、それぞれの階層において分離して考えるべきであると思います。即ち、社会レベルにおいて好ましいかどうかと、個人レベルにおいて好ましいかどうかは異なるはずです。
例えば、無国籍の無人島に一人で行ったとします。(そのとたんに有人島になってしまいますが。)その島の域内に限れば、また持続可能な範囲において、その人は独裁者であり、社会からは完全に自由であり、強いていうなら、個人レベルにおいて好ましいかどうかが善悪の基準になることでしょう。そうして、個人レベルの「エントロピ-縮減」となることでしょう。
社会の中にあって、契約による様々な束縛があるとしても、自己責任の範囲における行為であるかぎり、禁じるべきではないと思います。若干の後始末が必要な場合もありますが、自殺が悪なのではなく、自殺の要因を生み出している社会こそが悪であり、改善を求められるべきであると思います。そうしてこそ、社会レベルの「エントロピ-縮減」となることでしょう。

永井俊哉(2010年10月21日 6:24 PM)

日本の法律は、自殺を禁止していません。「自殺を望む者は、罰として死刑にする」というような刑法は、罰するどころか望みをかなえてやっているのだから、どう考えてもおかしいでしょう。だから、自殺をする法的自由自体はあるのです。もっとも、自殺は、法律で禁止されていなくても、道徳的には許容されていません。あなたは、自殺は道徳的に許容できると言いたいのですか。

カテゴリラ(2010年10月28日 2:10 PM)

大韓機爆破事件の容疑者(当時)は、逮捕された時、自殺させないための拘束措置が取られたはずです。それにはもっともな理由があったからです。このように自殺の自由が制限されることもあります。道徳が自殺を良くないこととしているとしても、何故そう言えるのか、納得できる理由を説明していませんし、当てはまらない場合もあります。そもそも根拠が無いからです。科学的な根拠に基づいた納得できる説明が必要とされていると思います。持論「生命階層論」がそれを可能にすると思っています。自殺が道徳的にも許容されるべき例を一つ挙げましょう。親子で深い海中にダイビングしていました。残りの酸素が海上へ帰還するだけしか無くなったので、帰還を始めようとしたところ、子の装備の残量メータの故障が発覚し、残量がゼロであることが判明しました。一つの装備を二人で交互に使うことでこの危機を乗り越えようかと対策を考えているうちに、それも絶望的な残量となり、一人帰還出来るかどうかの瀬戸際となりました。このままでは二人とも死ぬことになると考え、その親は自分の装備を子に譲り、別れを告げて離れ去ったというものです。これは道徳的にも許容される自殺ではありませんか?

永井俊哉(2010年10月29日 1:53 PM)

例外的な状況があるからといって、「自殺をしてはいけない」という規範の妥当性が失われるわけではありません。例外的な状況は、「他者を殺してはいけない」という最も普遍的な規範と言われる規範にすらあります。例えば、戦場での敵国の兵士の殺害、正当防衛、安楽死や死刑の執行などです。こうした例外があるからといって、「他者を殺してはいけない」という規範がその妥当性を失うわけではありません。それと同じことです。

カテゴリラ(2010年10月30日 8:07 PM)

私が言いたいのは、自殺というのは、(他者との利害を別として、)個人レベルの権利であるので、基本的には、他者から「いけない」とされたり「禁止」されたりすべきものでは無いということです。法律にしても道徳にしても、社会レベルでの規範である以上、個人レベルの権利を大義なしに侵害すべきでは無いと言いたいのです。もしそうするなら、人権侵害に相当すると言わねばなりません。
「自殺をしてはいけない」が基本なのではなく、自殺の自由が基本なのであって、例外とされるのは、「大義」≒「公共の福祉」≒「社会レベルのエントロピ-縮減」が優先される場合に限るべきであると思います。
「他者を殺してはいけない」というのは、自殺の場合と異なります。それ(いけない)が基本的に社会レベルでの規範だからです。この場合も例外とされるのは「社会レベルのエントロピ-縮減」が優先される場合に限るべきであると思いますが、戦争そのものも悪とされてますし、死刑制度にも批判がありますので、現実にそうなっているかには疑問が残ります。

永井俊哉(2010年10月31日 2:00 PM)

では、別の質問をしましょう。あなたは、麻薬の使用を合法化することに賛成ですか。他人に迷惑をかけない限り、自殺は本人の自由意志に委ねるべきだという議論が成り立つのなら、麻薬中毒で廃人状態になることも、他人に迷惑をかけなければ、個人の権利として認めるべきだということになりますが、これに賛成しますか。

カテゴリラ(2010年11月1日 10:12 PM)

麻薬の使用を合法化することには限定付きで賛成いたします。実際すでに米国のある地域では合法化されているようです。(最近のNHKドキュメンタリ番組で放映されました。)限定と言いましたが、特定の人たちに限るなど厳重に管理しているようです。麻薬の生産にも経済効果を期待しているようです。無制限に誰にでも認めることには反対です。理由は自殺とちがって「他人に迷惑をかけない」ことが防げないからです。もし完璧に防げるのなら賛成しますよ。
なお、安楽死は、本人の意思によるなら自殺のほう助とすべきですし、本人の意思によらないなら殺人という犯罪となり、「他者を殺してはいけない」の例外とは言えないと思います。
正当防衛には、殺す意思は無かったが結果的に致死となった、というものや、殺さねば殺されると思って意図をもって殺した、というものがありますが、たしかに「他者を殺してはいけない」の例外があると思います。警察がやむを得ず、銃を持った凶悪犯を射殺する場合も正当防衛の部類に含めるとしたら、唯一の確かな例外ではないでしょうか?

永井俊哉(2010年11月4日 6:34 PM)

オランダでは、安楽死は合法的ですし、最近では、自殺幇助も部分的に認めようとしています。

デジタルマガジン「オランダ、“安楽死法”に続いて“自殺幇助法”も可決の流れへ」2010年03月11日.

オランダが2002年に可決した“安楽死法”に続いて“自殺幇助法”も可決しようとしている。1973年以降オランダで活発になった“正当なる死”キャンペーンは、病気の末期症状の患者が楽になりたいと希望する“安楽死”を乗り越え、“自由意志による死”を認めさせようとしている。国民によるサインの数は10万を超え、“自殺幇助法”は議会に提出された。オランダではこの10年間において安楽死を選んだケースが最大で2,500件あり、その数は以前に比べて10%も上昇している。“自殺幇助法”は、70歳以上であればどんなに健康な人であっても、希望すれば“確実に死ぬ”ことができるという。可決された場合、生きることに飽きた人間がどれくらい応募するのだろう。“安楽死法”が成立するまでにかかった時間は数十年。“自殺幇助法”はこの勢いを利用してすぐに可決、ということもありうるかもしれない。

オランダは自由な国で、麻薬に関しても、ソフト・ドラッグ(マリファナなど比較的害の少ない薬物)の使用を合法化しています。とは言っても、オランダは、もちろん、自殺や麻薬が望ましいと思っているわけではありません。

オランダは、ソフト・ドラッグを違法にすると、ドラッグの闇市場が大きくなって、ソフト・ドラッグのユーザがハード・ドラッグ(コカインなどの害が大きい薬物)にまで容易に手を伸ばしてしまうことを防ぐために、いわば強固な防波堤を築くために、ソフト・ドラッグの使用を政府の厳重な管理下で認めているのであって、そこにはむしろ、薬物依存による廃人の数を増やすまいとする国家の強固な意思を見て取ることができます。

自殺幇助法に関しても、自殺が認められているのは、70歳以上であることに注目してください。安楽死の合法化と共に合わせ考えると、オランダは、治療の見込みの無い末期患者や70歳以上の高齢者といった、国家にとって労働力として役立たない人間に関しては、自殺を容認すると言えそうです。逆に言うならば、オランダは、国家に役立つ人間の自殺は認めないという意思を持っているわけです。

国家は、一つの生命体で、国家が、その細胞である個人の自殺や準自殺である薬物中毒を防ごうとするのは、細胞の自殺が、生命体の自殺につながるからです。逆に言うならば、細胞の自殺が生命体の自殺につながらないなら、それを容認するということです。こう考えれば、なぜ戦時中の日本が特攻隊の自殺行為を容認したかを理解することができます。一種の国家版アポトーシスというところです。

あなたは、個人の自由意志は尊重しなければならないという原則を自明のものとして前提していますが、哲学では、いかなる前提も、その理由を問わなければいけないので、なぜ個人の自由意志は尊重されなければいけないのかについて考えてみましょう。

私も、個人の自由意志は尊重しなければならないと考えていますが、それは、自己目的的にそうなのではなくて、それが社会の利益に貢献する、すなわち、個人の自由を最大限認めた方が、社会のイノベーションが促進され、社会が進歩すると考えるからです。逆に言うと、社会に貢献しないと判断するならば、自由は制限されるべきだということになります。

私は、個人が自由にかつエゴイスティックに行動した方が、国家の利益になるし、国家が自由にかつエゴイスティックに行動した方が、人間という種全体の利益になるし、種が自由にかつエゴイスティックに行動した方が、生命全体の利益になると考えています。
生命は、個人、国家、種、どのレベルでも、自己保存を目指しています。それは、生命ができたときからそうプログラムされているからで、それ以外に根拠はありません。そして、それが本文における結論なのです。

何か(2011年2月14日 7:05 PM)

生命は、個人、国家、種、どのレベルでも、自己保存を目指しています。それは、生命ができたときからそうプログラムされているからで、それ以外に根拠はありません。

本当にそうかな?「生命ができたときからそうプログラムされている」を裏付ける主張が見たい。自殺したいと考えている生命体を見てしても、「生命ができたときからそうプログラムされている」と飽くまで主張するんだろうか。自己の主張を遮るものを「例外」として、否定されってか?「自己保存を目指して」いるとする根拠なりってのが明らかにされんならそれを見せてほしいね。少なくとも、情報源を見たところで胡散臭いと私は考えるんだがな。胡散臭いとな。

しかしながら、自殺、すなわちこの世から脱退することの是非を~多数決のようなもので、公平とは言い難い。

どうやって、死にし人が意見する機会が与えられるか。どんな技術でもって、意見を問うことができるだろうか。ってか、死にし人から反論が聞けたら、そりゃびっくりするわ。ん?仮にも自殺した人から意見を聞く機会が与えられたとき、ひとつ、意見でも聞いてみるか。

もし自殺してしまえば、自分の命とともに、自殺は悪か否かという問題も、善悪の彼岸に消えてしまう。

あぁ、なるほど。自殺した人から自殺の善悪が問えないのか。自殺者に対するインタビューに成功した話を聞いたことがない。なんだかな。

自殺したいから自殺してもよいと判断することには論理的な飛躍がある。

自殺の善悪の基準を問うのに、自殺の価値判断を問うことがやっぱり議論の邪魔なんかな。排斥されてナンボかな。

規範は、社会の多数派によって、そして多数派に有利なように形成される。

ふんふん。面白そうな主張だな。「自殺は悪」ではないことが多数派にするように圧力をかければ、それこそ、「自殺が悪じゃない」とする規範が形成されやすくなるのか。面白そうだ。でも、予防線のために「『自殺は悪だ』という価値観は、自明である」としているのか。がっかり。

永井俊哉(2011年2月15日 5:12 PM)

「自己保存を目指して」いるとする根拠なりってのが明らかにされんならそれを見せてほしいね。

自己保存しないようにプログラムされた生命が過去に存在した可能性は論理的に排除できませんが、仮にそういう生命が存在したとしても、まさに自己保存を目指していないのだから、すぐに消滅したことでしょう。

予防線のために「『自殺は悪だ』という価値観は、自明である」としているのか。

違います。本稿は「自殺は悪だ」という価値観は自明ではないと主張しています。だから「自殺は良い」という価値観もありうるが、その価値観は、その価値観を持っている人が自殺することで消滅してしまうということです。

収支検討屋(2011年7月26日 2:39 AM)

自殺が「善」であるならば人類はみな自殺してしまい滅んでいるのではないでしょうか?
「絶対精神」というものが存在するのであれば、地球誕生から現在までを見ても、人類が進化することは望んでいても滅ぶことは望んでいないように思います。
つまり、「エントロピーの増大」は「悪」であり、「エントロピー縮減」が「善」であるとするならば、人類の進化を阻害することは「悪」であり、助長することは「善」である、でよいのではないでしょうか。
将来、人類の進化に良い方向に関係する人間が自殺するのは「悪」であり、悪い方向に関係する人間の死は自殺に限らず「善」である、とか・・。
自殺であろうと他殺であろうと、エントロピーの増大に加担する人間の死は「善」、エントロピ-縮減を助長している、あるいは将来そうなるかもしれない人間の死は「悪」ということでよいような気がします。
自殺の善悪、他殺の善悪という観点を変えてみてはどうでしょうか?

永井俊哉(2011年7月27日 1:42 PM)

システムは、自らのエントロピーを縮減するには、環境のエントロピーを増大させなければいけません。エントロピーを縮減するためのエントロピーの増大は、そのシステムにとっては良いということになります。”「エントロピーの増大」は「悪」であり、「エントロピー縮減」が「善」である”という単純な話ではありません。

第三章 第二節 他我は本当に存在するのか
かつたろう(2017年8月7日 7:58 PM)

独我論ってそもそも矛盾していないですか?最初から他我がないとしたらどうして独我論という形で周りの人間を説得しようとするのか。独我論を言う人間は周りの他人の自我を想定してます。まさか、漫画のキャラクターだと思って話しかけてはいないでしょう。

永井俊哉(2017年8月8日 12:30 PM)

独我論は、他者の実在を否定しているだけで、他者の存在は否定していません。他者は、少なくとも錯覚として存在するのです。また独我論の正しさは、独我論者が主観的に納得するかどうかにかかっており、それを他者に説得する必要はありません。

かつたろう(2017年8月9日 2:25 AM)

もし自分の主観的な考えが独我論的だったとしてそれを発展させたいなら、すでに世間にある書籍など他人が書いた独我論を参照すると思いますが、その時からすでに相手の存在を錯覚だと考えているんですか?誰かの意図なく何かの偶然で本が出来上がって、それが誰かが書いたように見える、という風に現実を受け止めているということですか?

独我論者は実は独我論を本当にそうだと思ってはいないのではないでしょうか。漫画のキャラクターが実在しないとしてもその作者は実在するはずだし、独我論という内容が実在しなくてもそれを書いた人間が実在すると思います。「漫画を書く」ということそのものが漫画になったとしてもさらにその外側には作者がいるはずです。彼らとて漫画のキャラと人間とは区別しているはずですし、なんか強い違和感が残ります。なんと言えばいいのか分かりません。独我論者が無口で何考えているのか分からなくてもその人が実在すると私には分かります。私にとっては独我論者は実在するが、独我論者にとっては私は実在しない??

永井俊哉(2017年8月9日 1:08 PM)

多分独我論を本気で信じている人はほとんどいないでしょう。でも、哲学的には「独我論は間違いだと思う」と「独我論が間違いであることを証明できる」との間には大きな違いがあります。前者は常識的な直感的判断であり、これと哲学的に厳密な論証とは異なるのです。

独我論と同様に、直感的に受け入れられないけれども、論破することが困難な仮説に独今論があります。「存在するのは今だけであって、過去や未来は存在しない。私たちが過去にあったと思っている出来事は現在持っている記憶に過ぎず、実際には存在しなかった。私たちが未来と思っているのは、やがて来ると信じているだけの今の予感に過ぎず、実際存在することはない」という主張です。

第三章 第三節 超越論的意識とはどのような意識か
kokichan(2010年1月7日 3:41 PM)

いつもお世話になっています。次の諸点についてご教示頂けないでしょうか。

  1. 「複雑性の縮減が、常に他のようにも縮減できるという可能性を持つこと(後略)」と「システムとは要素の選択性であり、その結合様式がシステムの構造となる」の両文は同じ文脈と見て宜しいでしょうか。選択(可能性)から外れた領域が物自体や間主観性と捉えるのは妥当でしょうか。両文における認識と構造は対応関係にあるようですが。
  2. 『人間原理』にある「生命を育む宇宙を初期の特異点が作る確率は10の1230乗分の1と試算されている」において特異点とはビッグバンを指すとして、この数字の根拠は何でしょうか。これは次にある量子力学の多世界解釈に基づく値でしょうか。
  3. 『物自体の量子力学的解釈』において「認識の限界を超えた多世界の総体こそ物自体である。」とありますが、認識の内容や程度は人により異なりますので人間の数だけ世界があるとする方が現実的と思われます。それとも物自体とはダークマターやダークエネルギーを指すのでしょうか。
永井俊哉(2010年1月9日 10:52 AM)

まず、私の議論とカントの議論を区別して考えましょう。カントが言う「物自体」は、形而上学的(メタ物理学的)な概念で、経験科学としての物理学が想定する多世界をさらに超越した世界です。100年後、科学者たちは、多世界という概念を否定しているかもしれませんが、それでも科学者たちは、世界について何らかの概念で語っていることでしょう。カントが想定する「物自体」は、経験科学の理論がどうなろうが、科学者たちがそれについて語り続ける、前述定的な対象のことを言っているのであって、「物自体とはダークマターである」というように、何らかの述定を行ったとたん、それは物自体ではなくなって、現象になってしまいます。私は、カントが行った物自体/現象界の区別を現象界の内部で繰り返していますが、メタ物理学的な議論と物理学的な議論は、区別して考える必要があると思います。なお、10の1230乗分の1という数字は、どこかの本に書いてあった数字を参照したのですが、出典は失念しました。判明したら、追記します。

第三章 第四節 なぜ時間は流れるように意識されるのか
カッパ(2010年8月8日 12:03 PM)

エントロピーの増大が、縮減された認識であるというようなことはあるのでしょうか?

永井俊哉(2010年8月11日 5:50 PM)

質問の意味がわかりません。認識によって情報のエントロピーを減らすためには、それ以上のエントロピーを認識システムの外部で増やさなければいけないという意味なら、正しいです。

H(2010年11月7日 5:09 AM)

エントロピーという一つの切り口で時間を語ろうという試みだと思うので、質問が不適格とは思いますが…「時間意識は、超越と埋没の間で生じる」において、急に、時間区分である、現在・過去・未来、および「今」が用いられていますが、それらは、どのように時間意識のなかで与えられているのですか?

永井俊哉(2010年11月7日 11:34 AM)

現在・過去・未来というのは、「今」という特異点で区切られた区分ですが、「今」は、「ここ」や「私」と同様、意識主体の存在の特異性に依拠した概念です。だから、時間意識の中で、「今」は、意識する主体の存在が意識されることで与えられるのです。それは、空間意識の中で、「ここ」が、意識する主体の存在が意識されることで与えられ、社会意識の中で、「私」が、意識する主体の存在が意識されることで与えられるのと同じことです。

H(2010年11月7日 3:32 PM)

ありがとうございます。「今」-「ここ」-「私」が存在それ自体に意識が積極的に働くことで現れてくる。そこで現れた「今」を反省することで、再認的に過去・現在・未来が構成されるということですね。

第五章 第三節 三位一体はいかにして一体となるのか
つかさ(2005年6月10日 6:01 AM)

ペンテコステは「収穫感謝祭」じゃなくて「聖霊降臨祭」だと思うのですが、如何でしょうか。

永井俊哉(2005年6月10日 6:02 AM)

ペンテコステとは、ギリシャ語で「五旬節」という意味で、もともとユダヤ人たちが祝う収穫感謝祭でした。イエスが処刑された後の五旬節で、集まった使徒たちに、突如、神の聖なる霊の力が与えられたために、それ以後、キリスト教徒にとっては、収穫感謝祭が聖霊降臨祭になりました。それにしても、収穫感謝祭が、イエス昇天の収穫(聖霊降臨)を感謝する祭りとなったことは、単なり偶然とは思えませんね。

つかさ(2005年6月10日 6:02 AM)

私はクリスチャンなので、「ペンテコステ」が「五旬節」だということは知っていました(新約聖書の『使徒言行録』に書いてあるので)が、五旬節が「ユダヤ人たちが祝う収穫感謝祭」だとは知りませんでした。麦の収穫でも祝ったのでしょうか・・・。「収穫感謝祭」と言えば、アメリカで祝われる11月第四日曜日のことかと思いました。クリスチャンの一方的なものの見方だったようですね。

Fat Fox(2005年6月10日 6:08 AM)

『三位一体とは何か』は理解出来ますが、目下流布しています小泉「三位一体改革」は、何故三位一体と名付けられたのか、当方は解りかねるのですが、先生の心理分析的高説を拝聴出来ますか?

永井俊哉(2005年6月10日 6:15 AM)

「三位一体」の改革とキリスト教の三位一体は全く関係がありません。たんに三つの政策をパッケージで行うという意味しかなく、しかも中身をよく見ると、政策の柱は三つというよりも、むしろ二つ(国から地方への補助金/地方交付税の削減+国から地方への税源移譲)です。そう言えば、医療制度改革の時も、三方一両損というキャッチフレーズが使われていたので、小泉さんは、調和を表す三という数字が好きなのでしょう。

Fat Fox(2005年6月10日 6:15 AM)

3は調和の数かもしれませんが、御当人の行動はとても調和を好むとは言い難いですね。カトリックの三位一体は、よく御承知のように歴史の重い積み重ねがあり、数多の人命でもって贖われた、信者と教会にとっては神聖な教義です。欧米の政治家なら恐ろしくて出来ない事を、平然と言葉のみを一政策に拝借する小泉首相は、単なる教養がない所為のか、神聖を軽んじたい心理的傾向があるのか等、今少し詳しくお尋ねしたかったのですが。

永井俊哉(2005年6月10日 6:16 AM)

政治家という存在は、対立を止揚する第三者の立場にあるので、三という数字が好きなのでしょう。小泉純一郎の「改革」はいつも中途半端な結果に終わりますが、これは、彼が緊縮財政を進める大蔵族で、財政拡大を求める他の族議員と妥協を図った結果と考えることができます。

hebvbedbgf(2015年8月27日 12:26 AM)

言語は、それ自体意味を持たないからこそ、意味を普遍的に代表象できる。

この事について単独でも意味を成せる漢字は当てはまるのでしょうか?

永井俊哉(2015年8月27日 12:35 PM)

表音文字であるアルファベットと表意文字である漢字は違うという御指摘かと思いますが、表意文字は、表音文字の言語における単語に相当すると考えれば、両者の違いはそれほど大きくないと言えます。そこで、欧語のアルファベット一文字は、中国語における漢字の一字に相当するというよりも、漢字を構成している一画に相当すると考えてください。漢字の一画ごとには意味がありませんが、その組み合わせには、意味があります。それは、アルファベット一文字ごとには意味がないものの、その組み合わせには意味があるのと似ています。もちろん、「一」のように、一画で意味を持つ漢字もあります。しかし、それが多画の漢字の一部である時には、そのような意味を持ちません。ちょうど単語の意味が文脈に応じて変わるように、「一」も、一つの漢字である時と漢字の部分になる時では意味合いが異なるのです。このように、どのような言語においても、それ自体無意味な要素的部分が、その組み合わせと全体との関係によって、間主観的に特定された意味を持つということが言えます。

第七章 第三節 いかにして人は知的となったのか
アヤン(2010年3月5日 11:03 AM)

EQよりも新皮質率のほうが知性の基準にはより適しているという御説を否定する気はありませんが、EQの価値を悪意的に卑しめているような言い方が気になりましたので一言。

これらの指数を使って様々な動物の脳を調べると、果実を食べる一夫多妻の動物の相対脳重は大きいという結論が導かれる。果物をしゃぶりながら、愛人を愛撫しているオヤジを見て「知的」と感じる人がどれぐらいいるだろうか。

知性についての話ですから、この場合の「動物」というのは、おそらく「サル」という意味合いが強いのではないでしょうか。(「果物をしゃぶりながら、愛人を愛撫しているオヤジ」という表現から考えても)多くのサルは果実食者か葉食者かのどちらかです。
葉食者というのは文字通りの純粋な葉食です。しかし純粋な果実食のサルなどまずいません。
つまりサルの果実食者とは、昆虫などを含めて多様な食物を摂る雑食者のことです。
そして「一夫多妻」というのは人間社会の婚姻形態からの類推で、単純にサルの社会を「一夫一妻」と「一夫多妻」にわけた場合の「一夫多妻」という意味ではないかと思われます。
つまり単雄単雌群を除くほぼすべて、単雄多雌群だけでなく多雄多雌群もひっくるめて「一夫多妻」に含まれていると思われます。
かりに単雄多雌群の意味であるとしても、狭義の「一夫多妻」はゴリラ(葉食者)だけであり、それ以外は単雄型母系社会を形成していますから、「一夫多妻」というのは短時間サイクルでの話であり、長時間サイクルで考えればリーダーオスはどんどん交代していくわけですから「多夫多妻」なのです。
つまり、「多様な食物を摂り、複雑な社会を形成する動物は相対脳重が大きい」というのが正確なのではないでしょうか?
そしてこれはグループ・サイズ仮説にも合っていると思います。

永井俊哉(2010年3月5日 11:49 AM)

単雄多雌の方は、グループ・サイズ仮説と関係付けることができるかもしれませんが、果実食のほうは、違うでしょう。地上でしか生活をしない動物の脳が情報を二次元的にしか処理しないのに対して、果実を食べるために樹上生活をするサルの脳は、情報を三次元的に処理するということが、EQを高めることになっているのだと思います。

アヤン(2010年3月5日 12:52 PM)

果実を食べるために樹上生活をするサルの脳は、情報を三次元的に処理するということが、EQを高めることになっているのだと思います。

それももっともですね。
ただいずれにせよ

EQをはじめとする相対脳重の指数にも問題がある。

の根拠として

果実を食べる一夫多妻の動物の相対脳重は大きい

ことを挙げるのは不適当ではないでしょうか?

永井俊哉(2010年3月6日 9:12 PM)

確かに、それらの属性を情報処理能力に結び付けることはできると思いますが、情報処理能力を知性と等値とすることには抵抗を感じます。スーパーコンピュータは人間を上回る情報処理能力を持っていますが、人間よりも知性があるとは思いません。ですから、Encephalization Quotient = 知性の指数とは考えないということです。

アヤン(2010年3月7日 3:33 AM)

コンピュータに知性がないのは、それが生物ではないからではないでしょうか?
生物が自己や自分達の社会を保持するという目的における最適な行動を選択するために、高度な情報処理能力を持つならば、それは知性と呼ばれるに値するように思えるのですが。
そもそも、生物が情報処理能力を持つ理由は、それしかないのでは?
あと、新皮質率からは「多様な食物を摂り、複雑な社会を形成する動物は知性が高い」を否定するような結果(べつに新皮質率は高くはない)が出ているのでしょうか。

永井俊哉(2010年3月7日 11:42 AM)

コンピュータに知性がないのは、それが生物ではないからではないでしょうか?

知性のあるコンピュータは、想像可能ですし、かつて「第五世代コンピュータ」の開発目標とされました。

生物が自己や自分達の社会を保持するという目的における最適な行動を選択するために、高度な情報処理能力を持つならば、それは知性と呼ばれるに値するように思えるのですが。

問題は、どういう点で「高度」か、量的な大きさか質的な高さかということであって、左脳を中心としてで行っているような情報処理ではなくて、前頭連合野を中心にして行っているような情報処理の方が、知性と呼ぶにふさわしいということです。

新皮質率からは「多様な食物を摂り、複雑な社会を形成する動物は知性が高い」を否定するような結果(べつに新皮質率は高くはない)が出ているのでしょうか。

EQと相関性があるのは、果実食であって、たんなる雑食ではありません。また、複雑な社会を形成しているにもかかわらず、EQが低い反例としては、蟻やミツバチを挙げることができます。

アヤン(2010年3月7日 2:56 PM)

単に「複雑な社会」というのは言葉足らずでしたね。
「多様な形態が選択可能であるという意味で複雑な社会」と言うべきでした。
あと最初のコメントに書きました理由で、
「葉食」よりも「果実食」
「一夫一妻」よりも「一夫多妻」
という意味と私には思われるので、そうではないことを示していただけないと
「雑食性とは無関係に果実食だ」
とか
「多雄多雌群を含まず、あくまで単雄多雌群だ」(これは言われていませんが)
とか言われても納得はし難いです。

左脳を中心としてで行っているような情報処理ではなくて、前頭連合野を中心にして行っているような情報処理の方が、知性と呼ぶにふさわしいということです。

この御回答には大いに納得できました。
ただし、そうであるならば
「相対脳重は左脳を中心としてで行っているような情報処理のほうに大きく相関していると思われるため、それよりも・・・」
という説明であるべきで
「果物をしゃぶりながら、愛人を愛撫しているオヤジを見て「知的」と感じる人がどれぐらいいるだろうか。」
では、やはり、価値を悪意的に卑しめているという印象は拭えません。

永井俊哉(2010年3月7日 11:04 PM)

選択可能性の増大は、意識の成立をもたらしたと私は考えています[意識とは何か]。しかし、知的でない選択の方法もある以上、意識と知性を同一視することはできません。EQと果実食/一夫多妻制との相関は、ある本の記述をもとにして書いたのですが、この記事自体、かなり昔に書いたものであるために、出典は失念してしまいました。また、相関の理由も書かれていなかったような気がします。ともあれ、出典が分かれば、原著の正確な表現を確かめてみたいと思います。

アヤン(2010年3月7日 11:48 PM)

EQと果実食/一夫多妻制との相関は、ある本の記述をもとにして書いたのですが、この記事自体、かなり昔に書いたものであるために、出典は失念してしまいました。

実は私も、いくつかの本で読んだような記憶があります。
それらはサル学の本だったような覚えがあります。
ブルーバックスの「サル学なんでも小事典」がその1つだったような気もしますが、間違っていたら御免なさい。
知性の基準としてEQを使用した場合と新皮質率を使用した場合で異なる結果となる例が何も示されていないので、EQよりも新皮質率という御説が今1つピンと来ないのです。
その例を御教授いただければ有難いです。

第八章 第四節 なぜ父権宗教は生まれたのか
かつたろう(2018年11月29日 9:41 PM)

宗教行事のひとつであるお葬式について気になることがあります。それは儒教とキリスト教ではよみがえるのに遺体が必要だと言うことです。招魂再生と最後の審判を指します。これは女性原理を克服しきれていないように思います。死体がなくても魂さえあれば甦ると言う風にしなかったのはなぜなのでしょうか。

永井俊哉(2018年11月30日 10:20 AM)

孔子は来世を信じていませんでしたので、招魂再生は儒教の本来の教義ではないと思います。ただし、儒教の起源は、シャーマニズムにあると考えられており、招魂再生の儀式は、前儒教的な未開宗教への先祖返りの結果と見ることもできます。

最後の審判では、キリストが蘇った死者を裁いて、永遠の生命を与えられる者と地獄に墜ちる者とを分けます。この教義は、信者に対してのみならず、非信者に対しても向けられています。キリスト教を信じていない者は、自分の肉体に愛着を持っています。そうした人たちをキリスト教に改宗させるには、その人たちの欲望に妥協する必要があります。

なお、仏教の開祖、ブッダも、来世は信じていませんでしたが、一般の民衆に説教をするときは、来世を方便として語りました。このように、信者ではない人たちを信者にするには、その人たちが信じている土着の宗教と妥協をしなければならないのです。

かつたろう(2018年11月30日 5:12 PM)

よくわかりました。ありがとうございます。(日本仏教は妥協のしすぎで逆に他の宗教に飲み込まれているような気がします。)

第九章 第二 節なぜ戦争は起きるのか
織田(2008年1月17日 9:27 AM)

私も昔戦争のビデオを見ました。そのビデオには原子爆弾で死んでしまった人々が写っていて吐き気がしました。

永井俊哉(2008年1月17日 10:19 AM)

学校の先生たちは、戦争の悲惨な映像を見せれば、子供たちが反戦的になって、彼らが大人になってからも戦争を支持しないようになるだろうと期待しているのでしょう。そうした反戦教育を戦後長い間やっているにもかかわらず、なぜいまだに戦争を望む人々が日本にもいるのか、なぜ小林よしのりの影響を受けて、戦争を美化する人々がたくさんいるのかを考えてみてください。

神野柚梨(2008年7月11日 1:15 AM)

私の中で戦争というものは理解できないものです。
同じ場所に住む人が、同じ地球に住む人々が争って結局最後に残るのはなんなんだろうと思います。
たとえ勝っても、たしかに国に資源が入ったりして生活が豊になるかもしれません。しかし自分たちのために他の国あるいは他の地域の人々を殺したことをいつまでもいつまでも悔やみ続けるのではないでしょうか?

永井俊哉(2008年7月12日 3:43 PM)

戦争が経済的に必要になると、「他の国あるいは他の地域の人々を殺したことをいつまでもいつまでも悔やみ続ける」ことがないように、戦争を正当化するイデオロギーが現れ、それが人々を洗脳します。だから、たとえ動機が経済的であったとしても、表向きは、復讐の正義や自由のための戦争といった崇高な目的が掲げられます。

天下泰平(2008年9月2日 12:54 AM)

戦争とは、人々の意識の中にある。
私益追求や自我独占欲、いわば私的権益こそが戦争の原因です。
簡単に言うと自分さえ良ければ良いと言う意識のことです。
自己中が蔓延する世の中である限り、戦争は無くならない。
しかし、これだけでは、世界的或いは国家間にも及ぶ民族紛争には至らない。
その最大の原因は、国家に金を貸す金融資本家たちの存在だ。
彼らは、国家や企業に金を貸して戦争を起こして巨大資本を獲得する。
世界最大級の自己中集団が、国家政策をもコントロールするからだ。
金を借りる立場(国家)が、貸す立場(資本家)より弱いのは世の中の常だから。。。
彼らが仕掛ける国際金融市場経済(グローバル経済)とは、まさに搾取支配の構造なのである。そして、彼らは、マスコミをも支配しているから、みんなは事実を知らない。
どうする?
そうした、国際金融資本家たちの暗躍を暴き実態事実を解明することです!

永井俊哉(2008年9月2日 12:02 PM)

中ソ国境紛争や中越戦争など、金融資本家が存在しないはずの社会主義国家間の戦争をどう説明しますか。金融資本を持たない貧しい下層民が、しばしば、熱烈に戦争を支持するという事実をどう説明しますか。金融資本家にとって、戦争は、通常ネガティブな要因です。巨大資本を獲得することが目的なら、もっとリスクの低い方法が他にあるでしょう。

民(2009年5月4日 10:06 AM)

……悲惨なコメントが大量だな。
戦争が手段にすぎないのであれば、
その手段が必要とされる状況が続く限り、
戦争は無くならないのだろうか。

永井俊哉(2009年5月5日 10:56 AM)

戦争の目的を正しく認識していれば、その目的を実現するための代替手段を探すことによって、戦争を回避することができます。戦争を廃絶するために必要なことは、戦争の目的をなくすことではなくて、有効で無害な代替手段を開発することです。

南京の亡霊(2009年5月31日 4:31 PM)

戦争を回避するには、全ての国の軍隊に核武装させる事。大国のみが核兵器を保有する事で持たぬ者を制御しようとしている現実から目を逸らしてはならない。大切なのは戦闘力が均衡する事によってのみ、戦争を回避する事ができる要素が発生するという事だ。核不拡散の運動は核兵器が開発され保有する国家が存在する以上、無意味且つ危険な運動でしかない。

永井俊哉(2009年5月31日 4:37 PM)

核武装するのが国家の軍隊だけならいいけれども、核拡散が進んで、国家でないテロリスト集団までが核武装したら、問題があるでしょう。核の所有が核戦争の抑止力として働くのは、所有者が、正体のはっきりしている、責任が問える主体である場合に限られます。

南京の亡霊(2009年5月31日 4:59 PM)

仰るとおり、核の所有のレベルは独立国家のレベルが限界でしょう。もしも全ての国家が核武装し終わった時が来たのなら、核兵器の所在を軸にして、新たな価値観が生じて、国家自体の存在理由も変化するかもしれません。使えない兵器でも兵器は時代を変える力になるでしょう。

ぷn(2010年1月19日 8:30 AM)

確かにそうだとも感じるんですが
ナチスドイツのように国が徹底して経済を計画的に成長させ、さながらバブルのように領土を広げていった国家は果たして平和的だったでしょうか?
また、デフレやインフレで戦争が起こると言われていますが
昭和の日本や今の中国のような計画経済や
社会主義の過程や国家社会主義的な国作りが
はたして平和を作るのでしょうか?
全世界の国が生産量や雇用を半ば強制的に安定させたとしてこれから戦争が起こらないともいえない気がします。
僕もユニホーム論は信じてはいないのですが
例えばフォークランド戦争のような戦争はどう説明されますか?

永井俊哉(2010年1月19日 9:06 AM)

フォークランド紛争は、3ヶ月程度で終わった小規模な戦闘で、戦争といえるほどのものではありません。私がリフレーションのための戦争として念頭においているのは、長期にわたる総力戦としての戦争です。

ぷn(2010年1月22日 12:04 PM)

3ヶ月程度でも戦争ととらえてよいのではないでしょうか?
例えば普仏戦争の期間は一年にも満ちませんし、それ以前の戦争は数週間や数ヶ月にわたっての戦闘が殆どだったはずです。それに技術的にも長期間の戦闘は不可能でした。長期的な戦争だとしても散発的な戦闘が何回にもわたって繰り返されると言う形式でした。
先の大戦では運搬技術が成長したことが戦闘を長期化する最も大きな要因です。前線にいくらでも武器や物資を送り込めるようになった結果、戦争は泥沼化したのだと認識しております。
物資を多く送り込んだ方が勝てるならば銃後も生産要員として戦争に参加しなければなりません。ご存知の通りこれが総力戦です。
また、総力戦はもともとあった兵力や物資を投入するのではなく、「作りながら戦争をする」と言うのも特徴的です。
という事は、なぜ戦争がおこるのか?ではなく
なぜ総力戦をしなくてはいけなくなるのか?という事で理解していいのでしょうか?
ミサイルなどで超長距離のピンポイント攻撃が可能になり前線が本当にどこなのかわからなくなっています。
そして、これからの時代の戦争は潜在的に長期化すると思うのですが散発的に表に出てくる「戦闘行為」はより短くなって良くと思うのです。
戦後の総力戦はどのようなものがあるでしょう?
朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争にしても総力戦とは言いがたい。
上で言ったように「作りながら戦争をする」と言う論法で言わせてもらえば戦後65年間アメリカもロシアも戦争を止めていないんです。それは銃後の生産要員という型の兵隊がずっと作戦を続けているわけですから。
その作戦の利益をとらなくてはいけない場合戦争は人工的に起こされます。永井さんが仰るようにインフレやデフレが要因になることは賛同しますが
それはアメリカやロシアのような大きな軍産複合体を持った国家にだけ当てはまるようなきがするのです。
作らなければ巻き込まれる可能性はあっても、総力戦を起こす側には立てないとも言えますね。

匿名(2010年1月22日 12:29 PM)

中国やインドもこの路線に加わり(おそらくブラジルもですが)、今世紀中盤にはどうなることやらと言った感じです。
武器は持たなければ不安でしょうがないものですが作り続ければ戦争が起こるのですからこれは大変なチキンゲームです。

永井俊哉(2010年1月23日 10:33 AM)

3ヶ月程度でも戦争ととらえてよいのではないでしょうか?

インフレが原因となるのは、前近代社会での話しなので、除外するとして、デフレが原因となる現代の戦争の場合、リフレ効果をもたらすのに十分な規模の財政支出を伴う戦争が求められます。そうではない小規模な戦闘は、リフレ効果を求めた戦争ではないということができます。純粋に政治的動機から起きる争いには、そうなる傾向があります。

戦後65年間アメリカもロシアも戦争を止めていないんです。それは銃後の生産要員という型の兵隊がずっと作戦を続けているわけですから。 その作戦の利益をとらなくてはいけない場合戦争は人工的に起こされます。

米ソの冷戦が、リフレのための戦争であったことは、70年代にインフレが顕在化して以来、雪解けの時期を迎えたことからも説明できます。

匿名(2010年1月25日 6:44 PM)

世界中で起こっている戦争は総力戦だけでは決してないと思うのですが
アフリカで毎年のごとく起こっている戦争やフォークランド戦争
またユーゴなどで起こった戦争は戦争とは呼べないものなのでしょうか?
なぜ戦争がおきるのか?という題にあうように
例外を作らない方法論を導き出せないと普遍性があるとは言えないのではないでしょうか?
人が死んでしまう以上、それは紛争だから戦争扱いはしないよ。ではこの題には語弊があると思います。
とくにアフリカに起こる典型的な戦争は先進国が過剰に物資を輸入をすることで貧しさがつのり戦争を起こしていると思います。
彼らは先進国の高額な武器を買うお金もありませんから商売にもならない。
この場合、持論はとおせますか?

匿名(2010年1月25日 6:52 PM)

まず戦争という言葉でコールドリーディングさせているような気も・・
筆者のいう戦争の定義とは何か?
大人のための記事として書いているようなので
紛争と戦争の違いや、総力戦と単なる戦争の違いも
ハッキリした形で説明した方が良いかと思うのですが

永井俊哉(2010年1月26日 11:17 AM)

紛争と戦争、局所戦と総力戦の違いは、たんに量的なものです。そして、近代国家においては、デフレの規模が大きいほど、規模の大きな戦争が起きやすくなるということを私は主張しているのです。逆に言えば、政治的要因で紛争が起きても、インフレ局面においては、大規模な戦争には発展しないということです。

オイルショックにより物価が急上昇した1973-79年の時期には、世界的に戦争があまり起きていません。フォークランド紛争が起きた1982年においても、まだインフレが完全に沈静化していなかったので、大規模な戦争には発展しなかったと説明することができます。ユーゴスラビア紛争は、長期間持続しましたが、それは、1990年に世界的に発生したバブル崩壊が惹き起こすデフレーションを阻止するためだったからでしょう。1999年の3月24日から6月11日までのNATOによるセルビア空爆は、1998年8月に起きた、ロシア財政危機とロング・ターム・キャピタル・マネジメント破綻に端を発する金融不安がデフレに結び付くことを警戒して行ったと解釈できます。

アフリカの場合、まだ近代社会になっていないところがあるので、そういうところでは、前近代的な、インフレ型の戦争が起きるでしょう。なお、「彼らは先進国の高額な武器を買うお金もありませんから商売にもならない」というのは事実誤認で、アフリカは、レアメタルなど、商品価値のある資源が豊富で、死の商人にとっては、格好のマーケットになっています。

あなたは、一つでも例外があれば、法則に普遍性がないと考えているようですが、社会科学では、統計的な傾向が問題になるのであって、例えば、「不況になると犯罪が増える」という法則は、好況時に犯罪が起きるという例外によって無効になるわけではなく、好況の時よりも不況の時の方が、犯罪発生率が高くなるということでもって成り立つとみなされます。戦争の法則についても同じことが言えます。

匿名(2010年2月1日 2:05 AM)

リーマンショックなど経済破綻が起こり景気はいまだ好転を見せませんが。
最近、中国やインド、ブラジルなどは先進国とは逆に好調さを見せています。
順位が入れ替わる現象がおこっている現代社会で
むしろ昔より第三次世界大戦は近くなったのでは?と感じます。
今のアメリカの大統領が変わると大戦争は起こるのでしょうか?

永井俊哉(2010年2月1日 9:56 AM)

核兵器を持っている大国どうしは、直接戦争ができません。だから、リフレのための戦争も、比較的無害なテロとの戦いが中心となります。オバマ大統領が、今年3万人の米兵をアフガニスタンへ増派するのは、このためでしょう。

久須嘉(2010年4月4日 8:41 PM)

「戦争は無くならないのか」
常々私も考えています。ヒトは知能が高度に発達したおかげで文明を築き、地球の歴史の中で最も短い期間で繁栄を手に入れた生物と言えるでしょう。加えて最も地球そのものを破壊できる能力をもった唯一の生物にもなりました。特にこの100年というのは劇的という言葉がふさわしいほどです。
永井俊哉さんの主張はとても納得できるものです。なぜなら、戦争の原因としてもっとも挙げられる政治の危機を掘り下げていくと、その大部分を経済的なものが大きく占めるからです。だから、経済的問題の性質・量が違えば、その戦争の性格も大きく異なります。
しかし、戦争は一定の分類はできても自然科学のような法則を見出だすことはできないと思います。人間の動作でも反射的なものと、そうではない:つまり思考して選択したものがあります。前者は構造上の法則はありますが、後者はそうではありません。戦争の主体はもちろんたくさんの人間です。彼らは決められた刺激に反射的に行動しているわけではありません。毎回条件や環境は違いますので傾向は認められても、法則や定理というのは認められません。

永井俊哉(2010年4月5日 11:50 AM)

社会科学の法則は、統計学的なもので、個々人の合法則的行為の単純な合計によって、その法則性が担保されているわけではありません。これは、自然科学についても同様で、二体問題は決定論的に解くことができますが、三体問題以上になると解析的に解くことはできません。つまり、自然科学でも、エージェントが三体以上になると、統計学の世界で、社会科学と同様になってしまうわけです。

科学者A(2010年8月6日 5:36 PM)

人類の文明は発展し過ぎた。
人類のために研究され続けた科学は、いつの間にか
ヒトを効率よく殺すために研究されてしまった。
悲しいばかりだ。

永井俊哉(2010年8月7日 11:23 AM)

戦争の科学には、戦争に勝つための科学と戦争の原因を探る科学の二種類があります。後者は前者よりも歴史が浅いし、熱心に研究されているとは言いがたいのですが、戦争を防止するためには不可欠です。

猫の尻尾(2011年1月28日 12:57 PM)

戦争が必要だとか、戦争すべきだとか、そういう意思を表明した人が、優先的に兵士として戦場に行く。
というルールを立法化すれば、よいのでは?
自分が戦争で戦いたくなくて、戦争賛美をやめるなら、それでよし。
信念に基づいて、戦場で散るなら、長期的には戦争を好む遺伝的要素が、人類から減少することになる。
ダメかな?

永井俊哉(2011年1月29日 9:36 AM)

それは志願兵制度として多くの国で実現しています。また、ジュネーブ条約により、文民(非軍人)への攻撃は禁止されているので、戦争というのは、少なくとも建前上は、やりたい人同士でやるということになっています。

匿名(2017年8月20日 9:47 PM)

戦争が無くならないのは貧困より戦争が良いから
自由と平等と平和はトリレンマであるから必ずどれかを犠牲にしなくてはいけない

永井俊哉(2017年8月28日 11:12 AM)

平等が機会均等を意味し、平和が武力を伴わない競争を排除しない概念なら、自由と平等と平和は両立する概念です。