永井俊哉

このサイトの管理人です。

8月 062018
 

日本では、農林水産業(広義の農業)は斜陽産業の象徴のように思われ、先進産業と見なされた工業から後進産業と見なされた農業への所得再配分が行われてきた。しかし、先進国に農作物輸出国が、途上国に農作物輸入国が多いことからもわかるとおり、農業は先端的な技術を持つ先進国のほうが有利なハイテク産業である。自然環境に恵まれ、技術立国を自負する日本は、本来農業を先進産業に育成することができたはずなのに、そうならなかったのはなぜなのか。日本の官僚は、規模が小さいから競争力がないと考え、大規模化と集約化を進めているが、日本の農業の根本問題は、規模の小ささよりも、むしろ規模の大きさにある。

1 : 日本の農業はどうあるべきか

1.1 : 日本の農業はどれほど保護されているのか

日本が農業を手厚く保護していることはよく知られている。日本政府による農家一軒あたりの農業予算が低いことを根拠に「日本の農業補助金は先進国中最低![1]」と言う人もいるが、日本の農家一軒の規模は小さいのだから、公平な比較ではない。事実、農地1haあたりの農業予算では、日本が欧米と比べて突出して多い[2]。また、政府から農家への直接支払額だけで比較して、日本の農家は保護されていないと主張する[3]ことも一面的である。

国家が国内農業をどれだけ保護しているかを示す代表的な指標に、OECD(経済協力開発機構)が、関税、価格統制(政策的な価格の吊り上げ)、財政支援から割り出した PSE(Producer Support Estimate 生産者支援評価額)と総農業収入との比である「PSEパーセンテージ」がある。以下の地図とグラフは、データが入手可能な24の国と地域のPSEパーセンテージを示している。このパーセンテージが高いほど、農家以外から農家への所得移転が多く行われていることになる。

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PSEパーセンテージの世界地図表示。青色が濃い国ほど農業が保護されている。灰色はデータなし。[4]

ノルウェー(60.4%)、アイスランド(59.6%)、スイス(58.2%)、韓国(49.2%)、日本(48.0%)のPSEパーセンテージが、トルコ(27.9%)以下の国や地域よりも高いことがわかる。

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PSEパーセンテージのランキング表示。赤色は日本、水色は26カ国からなるEUのPSEパーセンテージ。[5]

従来、日本政府は、国土が狭いことや人件費が高いことを理由に、国内農業保護を正当化してきた。たしかに、日本は米国やオーストラリアのように広大な土地を持たないし、途上国のように低賃金で労働者を雇うこともできない(農業技能実習生という名目で外国人労働者を低賃金で搾取することを禁止するならばの話だが)。しかし、ヨーロッパ諸国は、国土が狭いし、人件費も高いという点で日本と似ている。それならば、日本は、米国(8.7%)なみは無理でも、せめてEU(21.0%)なみにPSEパーセンテージを引き下げることができるのではないか。

もちろん、すでに見たとおり、ヨーロッパでも、ノルウェー、アイスランド、スイスは、PSEパーセンテージが高いが、これらの国々の国土は、農業には向いていない。スイスは、アルプス山脈を含めた山岳地域に位置し、ノルウェーとアイスランドは高緯度地域なので、単位面積あたりの日射量が小さく、しかも、同じ高緯度地帯にあるスウェーデンやフィンランドとは異なり、平地がほとんどない。日本は、これらの国々よりもずっと環境に恵まれており、PSEパーセンテージがこれらの国と同じような水準であってよいことにはならない。

1.2 : オランダの農業は日本にとって参考になるか

ヨーロッパ諸国の中でも、近年とりわけ日本が見習うべきモデルとして注目を浴びているのが、コンピューターによる生産管理など、先端技術を用いた農業[6]で有名なオランダである。オランダは、国土面積が九州ほどしかなく、気候にも恵まれず、しかも人件費が高いのにもかかわらず、その農業は、トマトの施設園芸を例に取ると、土地生産性(単収)が日本の約5倍、労働時間あたり生産性では約9倍など[7]、高い生産性を持ち、米国についで世界第二の農産物輸出国になっている。オランダの農業は中継貿易も行っているが、輸出額から輸入額を引いた純輸出額でもブラジルについで世界第二位であるから、高い付加価値を生み出していることは間違いない。そこで、世界最大の農産物純輸入国である日本の農業もオランダの農業を見習うべきだという声が出てきた[8]

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オランダにおけるトマトのハウス栽培[9]

これに対して、オランダ農業は日本農業の参考にならないと言う人もいる。

世界地図を見れば明らかですが、オランダからイギリス、フランス、ドイツのような大消費地はすぐ近くです。今では英仏海峡トンネルも開通していますので、離島でもない限り、陸路で輸出ができます。[…]政治が貿易に悪影響を及ぼす可能性はほぼありません。EU参加国間では国境も簡単に越えられます。それに加えて、関税もありませんし、共通の通貨であるユーロを用いているため、為替相場による経営リスクや、両替に伴う時間やコストの問題もありません。[10]

農産物の輸出額が多いということは、オランダ農業の競争力を示す一つの指標でしかなく、日本が見習うべき点はそこに限定されない。オランダの農産物輸出の80%超がEU向けなので、もしもオランダを独立国としてではなくて、EUの一地方と見なすなら、「オランダ地方」の輸出額は激減する。しかし、そうした定義の変更を行ったからといって、オランダ農業の土地生産性が世界トップクラスで、日本の農業にとって見習うべきところがあるという事実が変わることはない。

オランダの耕地面積は、日本で言うと、三大都市圏を除く本州の耕地面積とほぼ同じである。そう考えると、オランダの農村の立地条件は、本州の地方における農村の立地条件と似ている。オランダの近くには、ドイツ、フランス、イギリスなど、高所得の消費者を多く抱える国があるが、本州の農村の近くにも、東京、名古屋、大阪といった高所得の消費者を多く抱える大都市圏があり、関税、検疫、両替といった障壁もなく、そこへと陸路で農産物を輸送することができる。なぜ日本の農村は、オランダのように立地条件に恵まれているのにもかかわらず、オランダほど高収益ではないのか、これこそが問われなければならない。

オランダ農業の強さを「極端に限られた種類の農作物を大規模な施設で大量生産している[11]」ところに求める人もいる。オランダは、農家一戸あたりの耕地面積が日本の北海道の農家とほぼ同じで、たしかに日本と比べると大規模ではあるが、他の農業大国と比べるとむしろ小規模である。米国やオーストラリアとは比べ物にならないぐらい小さいし、以下の図を見ても分かるとおり、英独仏よりもさらに小さい。

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ヨーロッパ諸国における農家一戸あたりの耕地面積。緑色は2010年、オレンジ色は2013年の値。オランダ(Netherlands)の農家は、ドイツ、ベルギー、ルクセンブルク、フランス、イギリスといった周辺諸国よりも小規模である。[12]

実は、1980年代までは、オランダでも日本と同様、家族経営の小規模農家が多かった。しかしグローバル化が進む中、オランダ政府は、日本政府のように経営能力のない農家の延命のために補助金を出すことはせず、先端的な技術革新に投資した。その結果、1980年に14.5万戸あった農業経営体も、2007年には7.7万戸へと半減した[13]。現在生き残っているオランダの農業経営者は、経営や栽培技術に関して専門的知識を持ったハイテク農業のプロたちである。トマトの単収を例に取ると、30~40年間に、4倍近くに向上した。だから、大規模化したから農家の競争力が高まったというよりも、競争力のある農家が淘汰の結果大規模化したといったほうが実態に近い[14]

もとより、オランダの農家が品種を絞っていることは事実であるが、それはオランダ農業の強みというよりかはむしろ弱点である。現に、オランダが生産するトマトはコモディティ化して、安値で買い叩かれている。他方で高付加価値のトマトを求める需要があるのに、オランダのトマト農家はそれを逃している[15]。では、ハイテク農業なら、ニッチマーケット向けの少量生産ができないのかといえば、答えは否である。現在の情報技術では高度なカスタマイズが可能で、ハウス単位で違う品種を育成することもできる。だから「日本は、国内の繊細でバラエティーに溢れる食文化が求める需要にどれだけニッチに応えられるかで勝負する[16]」からといって、「オランダの農業を真似しても日本の農業が強くならない」とは言えないのである。オランダから学ぶべきことを学んだ上で、オランダよりもさらに時代を先取りした農業をすればよいのである。

1.3 : 情報社会時代の農業はどうあるべきか

大まかに図式化すると、人類文明は、資源集約的狩猟社会から労働集約的農業社会、資本集約的工業社会を経て知識集約的情報社会へと移行する。各時代を画期する農業革命(食糧生産革命)、工業革命(産業革命)、情報革命は、その名称から、まるで農業、工業、情報産業といったその時代を象徴する産業にだけイノベーションを起こすかのような印象を与えてしまうが、実際にはすべての産業の生産様式を変える。

農業に関して言えば、人間と家畜に依存した前近代的な農業は、人工的に作られた肥料と農薬と大型機械によって大量生産を行う近代農業となり、ポスト近代である現代では、遺伝子組み換えやコンピューター制御の栽培など情報技術を駆使した農業が行われるようになっている。農業を工業革命以降の生産革命から取り残された遅れた産業とみなし、収益性が低くくて当然と思ってはいけない。

オランダの《選択と集中》路線は、情報革命の産物のように見えるが、実は工業社会時代の痕跡を残している。そのことを説明する前に、情報社会と工業社会がどう異なるかを説明しよう。情報社会の花形である情報産業は、前近代社会では、写本、演奏、見世物など、人力に依存する原始的な産業にすぎなかった。近代になると、活版印刷術の発明を皮切りに、ラジオ放送、テレビ放送が誕生し、コンテンツ商品が機械によって大量かつ安価に生産されるようになった。ポスト近代である現代では、出版社や放送局といった集権型メディアが没落し、インターネットという分散型メディアが台頭する。

一般的に言って、豊かになるにつれて、人の欲望は多様になる。貧困状態にあった前近代社会の人々は、規格品を安価に大量生産する工業革命によって救われたが、基本的な欲望が満たされるようになると、より高次で多様な欲望を満たそうとするようになる。その結果、情報社会では、従来の少品種多量生産に加え、多品種少量生産が求められる。インターネットを通じてインディーたちがロング・テールの需要を満たすのは、マス・メディアがショート・ヘッド向けにコンテンツを作るだけでは不十分であるからだ。味という点では評価が高くない[17]。トマトを安価に大量生産しているオランダの農業は、ロング・テールの需要を逃しているという点で、情報社会にふさわしい生産様式とは言えないということである。

多品種少量生産は、大企業が一社で実現するべき生産様態ではない。大企業がマス市場向けに標準的な商品を大量生産し、多数の中小企業がニッチ市場向けに個性的な商品を生産するというのが理想的な役割分担である。日本の農家は規模が小さいので、高級品を少量生産して国内外の富裕層に売り、一般向けの安価な食料は、保存が難しい生鮮食品を除いて、大規模生産を行っている海外から輸入するという戦略が望ましい。

これに対して、食料を部分的にではあっても海外に依存することは、食料安全保障という点で好ましくないと思う人もいるだろう。基本的なカロリーを供給する食品の輸入が途絶えると、国内で餓死者が出るのではないかという危惧を抱く人がいるのも無理はない。日本の生産額ベース総合食料自給率は68%と比較的高いのに対して、カロリーベース総合食料自給率は38%と低い[18]。農林水産省が後者の低さを問題にして、対策を練っているのは、「世界的な人口増加等による食料需要の増大、気候変動による生産減少など、国内外の様々な要因によって食料供給に影響を及ぼす可能性があり、食料の安定供給に対する国民の不安も高まって[19]」いるからだ。

農林水産省が食糧危機を煽るのは、環境省が地球温暖化の危機を煽ったり、国土交通省が南海トラフ巨大地震の危機を煽ったり、財務省が財政破綻の危機を煽ったり、厚生労働省が少子高齢化の危機を煽ったりするのと同じで、国民を不安に陥れることで自分たちの省益確保を正当化しようとする官僚たちの常套手段である。食糧不足は、短期的かつ局所的に起きることはあっても、長期的かつグローバルに起きることはありそうにない。このことを確かめよう。

まずは「世界的な人口増加等による食料需要の増大」から考えよう。日本の人口は減少しつつあるものの、世界の人口は増加を続けているのは事実である。しかし、以下のグラフを見ても分かるとおり、世界の人口増加率は、1962年に2.1%に達した後、低下傾向にあり、今後世界の人口は頭打ちになると予想されている。

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1750-2015年の世界の人口と人口増加率。2015年以降は国連(2015年改訂版)による中位の予想[20]

では、「気候変動による生産減少」はどうだろうか。ここでいう「気候変動」は、地球温暖化のことなのだろうが、二酸化炭素濃度の上昇、寒冷地の気温上昇[21]、降雨量の増加[22]は、農業生産にとって全般的には有利に働く。局地的に被害が出るとしても、地球全体では、農業にとって損害よりも利益のほうが大きいと予想される。実際、温暖化にもかかわらず、 世界の穀物の生産量は世界人口以上に増加しており、このため、以下のグラフに示されるように、穀物の実質価格(インフレの影響を取り除いた価格)は長期的には低下傾向にある。

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1910年から2014年にかけてのトウモロコシ(赤実線)、小麦(緑破線)、大豆(青実線)の実質価格(1940年における価格を100とした相対指数)[23]

一方で「世界的な人口増加等による食料需要の増大」が起き、他方で「気候変動による生産減少」が起きるなら、食料価格は上昇するはずだが、過去一世紀には全く逆のことが起きている。そして、こうした需給改善の傾向は、今後さらに続くと予想される。将来、農地の面積が急速に増えることはないだろうが、オランダがそうしたように、技術革新によって土地生産性を大幅に高めることは可能である。オランダに限らず、今後世界の農業が、モノのインターネット(IoT)と農業の融合であるAgTech、CRISPR-Cas9[24]を嚆矢とするゲノム編集技術などの先端技術によって、畜産業を含めた農業の生産性を大幅に向上させることが期待されている。

工業革命も農業の生産性を高めたが、人口も同時に指数関数的に増加させたので、飢餓の問題は完全には解決しなかった。対照的に、情報革命は人口増加を抑制する。人口は等比級数的に増加するが、食料の生産高は等差級数的にしか増加せず、飢餓が生じるというマルサスの法則とは逆に、技術は指数関数的に進歩するのに、人口増加は緩やかになり、食料が余るようになると予想される。現在世界人口の11%に相当する8億1500万人が栄養不良の状態にある[25]が、長期的に見れば、こうした飢餓人口は減り、農業は量よりも質が重要であるようになるだろう。

だから日本は、カロリーベースの自給率に固執せずに、付加価値の高い農作物の生産に力を入れ、生産額ベースの自給率を向上させるべきなのだ。将来日本で飢餓が発生するとするなら、それは世界全体の農作物の不足によってよりも、輸入のための外貨の不足によって起きる可能性のほうが大きい。日本の工業が競争力を持っていた時代には、農業は工業に寄生できたが、日本の工業の競争力が低下した現在、農業は稼げる産業になることを目指さなければならない。

食料安全保障という観点から考慮しなければならないリスクには、戦争や経済制裁といった政治的要因で起きる輸入の途絶もある。だが、もしも太平洋戦争の時のように世界を敵に回す戦争をするなら、たとえカロリーベースの自給率が100%でも、国内で飢餓が発生するだろう。なぜなら、現代の農業は、生産、流通、販売の全てで輸入したエネルギー資源に依存しているからだ。食料だけでなく、エネルギー資源の輸入までが停止したなら、日本は今の人口を維持できなくなる。人口を鎖国をしていた江戸時代の頃の規模(三千万人)にまで減らせば、自給自足できるが、それよりも、日本が世界を敵に回す戦争をしない方が現実的な選択肢である。

日本政府が米を主食と位置付け、特別な保護を与えてきた背景には、カロリーベースの自給率を維持したいという思惑があるのだろう。しかし、米を始めとした穀物の生産は、土地が広い国の方が有利である。オランダも穀物は輸入に依存しており、代わりに、トマト、パプリカ、ナスなど、カロリーは大きくないが、付加価値額は大きい施設園芸用野菜に力を入れている。日本も、国土は狭いが、高所得者が住む消費地の近くにあるという似た環境下にあるオランダの戦略を選んだ方が賢明である。

1.4 : 日本はオランダの農業から何を学ぶべきか

日本はオランダ農業の成功から学ぶべきであると言っても、例えば、トマトに関して言えば、日照時間や温度などが異なるので、表面的な模倣をしてもうまくいかないだろう。重要なことは、そうした表面的な違いに惑わされずに、オランダ農業の成功の本質をよく認識することだ。その観点からすれば、オランダから学ぶべきことは二つある。一つは、政府による補助金の使い方であり、もう一つは民間企業の役割である。

オランダは、EUの平均程度の補助金を支給しているが、日本のように競争力のない農家を保護するために補助金をばらまくということはせず、研究開発や実験的な新規事業などに予算を戦略的に使っている。研究開発のために使われる農業予算の割合は、日本では4.7%であるのに対して、オランダでは22%もある。その結果、品種改良や農業のハイテク化が進み、それによって競争力を高めた農家が出現した一方で、競争に敗れて撤退する農家も相次いだ。こうした選抜がオランダの農業の競争力を高めたことはすでに述べたとおりである。

もとより日本でも、手厚い保護にもかかわらず、農家の廃業が相次ぎ、その結果、農家一戸あたりの規模は大きくなる傾向にある。しかし、それで日本の農業が競争力を高めたかといえば、必ずしもそうではない。だからこそ、耕作放棄地は増える一方なのである。たんに農家一戸あたりの規模を拡大するだけでは不十分で、農業のハイテク化、経営のプロフェッショナル化、流通の合理化が必要なのだが、農林族議員と農林水産省がJA(農業協同組合)を通じて行ってきた延命農政が、必要なイノベーションを妨げてきた。

オランダにも農協はあるが、民間企業の参入が活発であるため、日本ほど独占的で圧倒的な地位を占めていない。日本のJAグループは、農産物の共同販売や農業資材の共同購入しか行っていない欧米の農業組合とは異なり、金融事業を含めた広範な事業を行っている巨大コングロマリット(下の図参照)で、今でも農産物や農業資材の市場で過半数のシェアを持っている。日本の農業における問題の根源は、農家一戸あたりの規模の小ささよりも農家を束ねているJAグループの規模の大きさにある。

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JAグループのサイトに掲げられているJAグループの組織事業のダイアグラム[26]。狭義の農業のみならず、信用(銀行)事業、共済(保険)事業、厚生(医療・保険・福祉)事業、出版事業、観光事業など、さまざまな事業を手がけている。

そもそも、協同組合は、個人や零細企業が大企業に対抗するために組織するというのが本来の理念で、政府は、弱者保護の観点から協同組合が行う共同購入や共同販売等への独占禁止法の適用を除外している。ところが、JAグループは、関税と規制によって外国や他の業界から隔離されている日本の農業界において、対抗するべき大企業など存在しない最大手である。そういう最大手に独占禁止法の適用を除外するというのは、独占禁止法の趣旨に反している。日本で米の内外価格差が大きい原因の一つは、農協による共同販売であり、米価の吊り上げは、消費者の負担を大きくさせているという点だけでなく、良い米を安く作ろうとするインセンティブを農家から奪い、国内農業の競争力を低下させているという点でも有害である。

農協による共同購入に独占禁止法の適用を除外していることも問題だ。本来、協同組合による共同購入は、単独購入よりも安く買うことができるはずなのだが、日本ではこれが逆になっている。小泉進次郎は、「日本メーカーが作っている農機具が、なぜアメリカで半額で売られているのか[27]」と言って、農協が販売している農業資材の価格の高さを疑問視しているが、JAグループという巨人に独占禁止法の適用を除外すれば、価格の吊り上げが起きるのは当然である。農家は、農協から割高な資材を買いたくないと思う一方で、そうすると融資が受けられなくなるかもしれないという村八分に対する恐怖心から農協支配からなかなか抜け出すことができない。

農協が協同組合の本来のあり方から掛け離れた存在になった背景には、日本の農村に欧米型の民主主義を根付かせようとしたGHQの政策の失敗がある。日本政府は、戦時中に農業を統制するために農業会を組織した。戦後、GHQは、農地改革を行って、小作農に農地を与えたが、小作農に農業経営のノウハウはなく、このため、農業会が、戦後「協同組合」という民主主義的仮面を被って復活し、元小作農たちは地主に代わって農協に隷従することになった。農地改革により地主は没落したが、国家が上から統制する農業という戦時中に誕生した国家社会主義的配給経済の仕組みはそのまま残ったのである。

農協による独占と国家社会主義的統制経済は日本の農業のイノベーションを阻害し、農家の経営力を奪った。しかし、農協は、農家の経営力向上よりも自分たちの独占権益を守ることを優先し、農協という集票マシーンに依存する政治家たちも関税や補助金や規制で国家社会主義的統制経済を維持してきた。農家の中には、農協に依存せずに自立しようとする向きもあるが、そうした努力は農協による嫌がらせによって妨害される。オランダでは、農協は農家が自発的に組織している本来の協同組合で、農家は農協以外と自由に取引できる。この違いは大きい。

日本では、長らく民間企業、とりわけ株式会社の農業への参入はタブー視されてきた。株式会社は、儲からないとすぐ撤退するから信用できないというのが反対派の言い分であるのだが、儲からない農業を補助金で延命させてきた従来の農政のほうがずっと問題である。幸い、近年、一連の規制緩和により、株式会社の農業への参入が条件付きながら可能になった。農林水産省も、「スマート農業の実現[28]」に力を入れるようになったが、オランダ並み、あるいはそれ以上に農業をハイテク化するには、異業種の企業が参入する障壁をさらに取り除き、農業を自由化するべきだ。

イノベーションは、基本的に民間企業が主体となって行うべきものではあるが、農業に関しては、政府が手がけたほうがよい公共性の高いインフラがある。それは二酸化炭素を供給するパイプラインである。オランダは、発電によって排出される二酸化炭素と熱をハウス栽培に活用するトリジェネレーションを先駆的に実践している。トリジェネレーションとは、有機物資源を燃焼させることで生産できる電気、熱、二酸化炭素の三つを有効活用する技術である[29]

ハウス内では、作物は、呼吸で出す以上に二酸化炭素を光合成のために消費する。このため、換気しないと作物は二酸化炭素飢餓に陥る。冬場のように換気が難しい季節では、ハウス内の温度を上げつつ、二酸化炭素飢餓を防ぐために、ハウス内でプロパンガスを燃焼させる農家が日本にはあるが、もったいないことだ。

オランダが行っているトリジェネレーションは、二酸化炭素飢餓を防ぐ以上の効果を目指している。ハウス栽培で二酸化炭素濃度を大気中濃度の360PPMから700~1000PPM程度に上げると、葉野菜で25~30%、果物で20%程度、花卉で40%程度収穫が増えることが知られている[30]。まるで肥料を与えたかのようによく実ることから、「CO2施肥効果」と呼ばれている。

トリジェネレーションに関しても、日本とオランダの違いを強調して、疑問視する人がいるかもしれない。例えば、日本はオランダよりも気温が高いので、温室に対する需要は大きくないといった違いだ。しかし、発電所が生産する熱は、吸収ヒートポンプ[31]によって冷房や除湿に使うこともできる。東北電力研究開発センターが実施した研究によると、夏場の夜間に冷房と除湿を行うことで、トマトの収穫量を40%程度向上させることができたとのことである。トマトの流通量が減少し、販売単価が高まる時期(9~11月)に生産性を向上させることができるのなら、収益性の向上が期待できる。

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東北電力研究開発センターが実施した研究(平成23年度~平成28年度)。トマトは夜間に生育が進むが、良好な生育のためには、昼間と夜間の温度・湿度差が重要である。[32]

ハウス内よりもハウス外の温度と湿度が好ましい場合は、窓を開放した方がよいが、その場合でも、ハウス内の二酸化炭素濃度を大気中よりも高い状態に維持することは可能だ。二酸化炭素の分子量は44で、空気の平均分子量28.8よりも重く、ハウスの上部に位置する天窓を開けても、周囲を囲っている限り、ハウス内に二酸化炭素が滞留する。実際、その重さゆえに、大気圏における二酸化炭素濃度は、地表面で最も高くなっている。だから、暖房や冷房が不要な場合でも、二酸化炭素を供給するパイプラインは必要ということになる。

もう一つの違いとして、オランダは、北海の石油や天然ガスを安価に手に入れることができるため、エネルギーコストが低いことを指摘する人もいる。日本は天然ガスを液化して輸入しており、これは、パイプラインで直送する場合と比べて、コストが高くなる。しかし、他方で、日本国内には豊富な石炭資源と木材資源がある。これらを活用することでエネルギーコストを下げることができるのだが、この話は林業の章でまた取り上げることにしたい。日本とオランダとの間には、これら以外にも違いはあるだろうが、日本でトリジェネレーションが成功しない理由はない。日本も、二酸化炭素を厄介者扱いせずに、有効活用するべきだ。

日本でも、二酸化炭素を有効活用しようとする動きが、民間のみならず、政府の側にも見られる。経済産業省資源エネルギー庁は、パリ協定の目標を実現するべく、CCS(Carbon dioxide Capture and Storage 二酸化炭素回収・貯留)とCCU(Carbon dioxide Capture and Utilization 二酸化炭素回収・活用)への取り組みを強化している。CCSとは、発電所や化学工場などから排出された二酸化炭素を、他の気体から分離して集め、地中深くに貯留・圧入する方法で、CCUは、分離した二酸化炭素を有効活用する方法である。トリジェネレーションは、CCUに相当する。

エネルギー庁は、「CCSと比較した場合、現時点ではCO2の大規模処理が困難であるものの、有価物の製造につながる点でコスト性に優れ、今後の技術革新によりCO2の処理能力、有価物の製造効率が向上すれば将来の利用拡大が期待される」として、以下の図を掲げている。

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資源エネルギー庁が認識するCCSとCCUの経済性と二酸化炭素処理能力。[33]

CCSは、排出権取引と同様、二酸化炭素をゴミ扱いしている。だが、二酸化炭素は、金を払わないと引き取ってもらえないゴミではなくて、売ることができる資源である。農業用途としては、既に述べたトリジェネレーションに加え、青果物の保存(CA貯蔵)にも使える。工業用途もたくさんある。それなのに、資源エネルギー庁は、藻類バイオ(藻類から石油を作る技術)や人工光合成といったまだ実現されていない用途を挙げ、利用拡大を将来の課題としている。自分の所管の事業以外は興味が無いのだろう。縦割り行政の弊害である。

それでも、既存の農業用途と工業用途だけでは、二酸化炭素の処理能力は十分ではないかもしれない。しかし、広域的なパイプラインを敷設して、二酸化炭素の流通を簡便にすることによって、もっと大きな需要を発生させることができる。それは炭酸風呂という需要である。炭酸水の水浴には「脈拍及び拡張期血圧の減少、静脈血の心臓還流の改善と拍出量の増加、皮膚の充血、呼吸量の増加[34]」という健康効果が期待できる。また、炭酸によって体がきれいになるだけでなく、浴槽の掃除にもなる。健康と美容に効果的であるため、炭酸温泉は昔から人気があり、炭酸風呂を呼び物としているスーパー銭湯も増えている。家庭でも炭酸風呂を楽しもうと、浴槽内に重曹やクエン酸を入れる人もいる。もしも二酸化炭素が、水や天然ガスのように、パイプラインを通じて簡単かつ安価に供給できるようになれば、炭酸風呂はブームになるだろう。炭酸風呂で使用した炭酸排水は、浄化した後、淡水藻や海藻の養殖に使うことができる。藻類は、水中の炭酸濃度が高ければ、成長速度が飛躍的に高まることが知られている[35]。藻類は魚の養殖のための餌として使える。

二酸化炭素を供給するパイプラインは、上下水道管などの公共インフラと同様、政府が敷設に関与したほうがよい。現在電気とガスの自由化が進行しているが、各電気事業者から送配電部門が、各ガス会社からガスの導管事業が法的に分離され、公的に中立性を維持する仕組みが作られる予定である。上下水道も民営化が検討されているが、それはあくまでも管理業務であって、少なくとも所有権は自治体が持ち続ける。こうしたネットワーク外部性のあるインフラは、民間企業が私有すると自然独占が帰結し、かえって健全な競争を阻害することになるので、政府が中立性維持のために監視しなければならないのである。

日本政府は、農業機械やハウスなどの経費削減や担い手育成のために補助金を支給しているが、こうした民間でできることは、民間に任せた方がよい。政府は、民間ではうまくできないことに専念するべきだ。農業への支援に関して言えば、研究開発や二酸化炭素供給パイプラインの建設などの事業への支援がそうである。農業という重要産業であっても、基本的には市場経済に委ね、国家の関与を民間だけではうまくいかない分野に限定すること、これこそが、私たちがオランダの農業政策から学ぶべきことなのだ。

2 : 日本の林業はどうあるべきか

2.1 : 日本の林業はなぜ衰退したのか

日本は、森林面積の広さで世界第23位、国土の森林率で世界第3位なので、森林資源には恵まれている方である。それなのに、日本の林業は、農業以上に衰退したのか。1964年に木材の輸入が全面自由化され、安い外材が輸入されるようになったから、国産材が売れなくなったといった説明がよくなされるが、国産材の価格は輸入材の価格よりも必ずしも高くない。例えば、代表的な国産材であるスギ中丸太は、1990年以降、米国産の栂(ツガ)丸太や松丸太よりも大幅に低価格でしか売れない状況が続いている。かつては高級材だった国産ヒノキ中丸太でさえ、今では米国産の丸太よりも安値で売られている。だから、国産材が売れない原因は、価格だけではない。もとより、国産木材の生産コストが高いことは事実で、それを低価格で販売することにより生じる大赤字を税金で穴埋めしなければ経営が成り立たないというのが日本の林業の情けない現状である。

では、日本の林業はなぜ生産コストが高いのか。日本の山は傾斜が急で、伐採コストが高くなるとか、先進国ゆえに人件費も高くつくとかいった言い訳がよくなされる。しかし、こうした理由から日本の林業の競争力の低さを当然視している人には、ちょうど、国土の狭さや人件費の高さから日本の農業の競争力の低さを当然視する人にとってオランダという不都合な国があったように、オーストリアという不都合な国がある。オーストリアは、アルプス山脈の上に位置し、急峻な地形を有し、人件費も高い。雪崩が頻発するとか、森林限界上部区域が多いとか、日本以上の悪材料もある。それにもかかわらず、オーストリアでは、森林面積あたりの木材生産量は、日本の4.2倍もある[36]。そのため、オーストリアは、国内木材自給率が100%であるのみならず、日本を含めた海外に木材製品をたくさん輸出して、外貨を稼いでいる。この競争力の違いはどこから生まれるのか。

実は、平成29年度の『森林・林業白書』 でも、「我が国と比較的類似した地形や森林所有規模等の条件を有しながら、欧州の林業国として自国内から盛んに丸太の生産を行い、製材品の輸出等につなげている[37]」オーストリアの林業が取り上げられている。そこでは、以下のような、日本とオーストリアで同じ丸太価格におけるコストの内訳を比較したグラフが掲げられている。

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同一価格帯のオーストリアのヨーロッパトウヒと日本のスギの丸太価格におけるコスト比較。[38]

林野庁は、この違いを「オーストリアと日本における、林業経営の集積・集約化や効率的な林業のための条件整備の状況の違い[39]」で説明し、「オーストリアの林業から学ぶべき点」として、「森林所有者の経営意思のみに任せるのではなく、林業の現場に近い存在である公的な主体が関わって、森林の経営管理の集積・集約化を実現する新たな仕組みを構築する必要がある[40]」と結論付けている。林野庁は、オーストリアでは「2haを超える皆伐が禁止されている」ため、「森林では天然更新が主で」、「中小規模の森林所有者で自伐を行うものが一定程度存在している」ことには触れているが、日本のように50年で皆伐せずに、択伐と間伐を中心にもっと長い伐期で天然更新(自然に落ちた種子から発生する稚樹を育てていく造林法)を行うオーストリア林業の特徴は「オーストリアの林業から学ぶべき点」とは考えていないようだ。

では、本当に「森林の経営管理の集積・集約化」で、日本の林業はオーストリアの林業のような競争力を持ちえるようになるのだろうか。日本の森林所有者が所有している森林面積は、たしかにオーストリアのそれよりも小さいが、オーストリアの森林所有規模は、ヨーロッパの中では小さい方だ。オーストリアの林業に競争力があるのは、森林所有規模や経営規模が大きいからではない。

そもそも、日本の森林所有者の大部分は林業経営に従事していない。日本政府は、1964年の木材輸入自由化以来「森林の経営管理の集積・集約化」を追求し、森林組合を中心とする伐採業者が、小規模な森林所有者に代わって木材の伐出、運搬、流通を請け負うようになったからだ。2013年現在、森林組合系統組織全体の規模は、出資金約538億円、事業総取扱高約2695億円、素材生産量約453万m3、木材取扱量約745m3、造林面積約15200ha、保育面積27万ha[41]である。森林経営の主体としては、むしろ巨大すぎると言ってもよいぐらいだ。だから「森林の経営管理の集積・集約化」は既に十分達成されている。では、それによって「効率的な林業」が実現したかといえば、答えは否である。

もう一度、丸太価格におけるコスト比較(Fig.10)を見ていただきたい。日本は、オーストリアと比べて、伐出コスト、運材コスト、流通コストが大きい。これは、それらの業務を請け負っている森林組合などの事業が非効率的であることを雄弁に物語っている。その皺寄せは、山元と作業員に行く。山元に支払われる立木価格は、オーストリアの半分以下である。またこの図では示されていないが、林業機械の作業員に支払われる人件費も日本はオーストリアの半分程度[42]で、面積あたりの労災死亡者数は倍[43]である。だから、オーストリアとは異なり、林業家は日本では人気のある職業ではない。林野庁は、日本の森林所有者には主伐の意欲がないだの、若者が参入せずに林業の担い手が高齢化しているだのと嘆くが、伐採業者が非効率な経営を続けて、山元と作業員に利益を還元しなければ、そうなって当然である。

おそらく林野庁は、オーストリアから何かを学ぼうという意欲は最初からなかったのだろう。「森林の経営管理の集積・集約化」で日本の林業が衰退したというのに、日本の林業の再生にはさらなる「森林の経営管理の集積・集約化」が必要だと主張する林野庁に学習能力はないのだろうか。農業と同様、林業においても、日本における根本的な問題は、規模が小さすぎることではなくて、大きすぎることだ。政府と組合主導の国家社会主義的な配給経済が、民間需要との間にあるミスマッチに対処できずに低迷しているのだ。ある民間企業が、顧客が求めている木材の必要量を必要な時期に売る多品種少量生産のサービスをしたところ、儲からないはずの林業が儲かるようになったという報告がある[44]。政府と組合主導の林業は、他の業界では当たり前の努力すら怠って「林業は儲からない」、「もっと補助金をよこせ」と言っているのである。

現行の林業は、経費の7割程度を助成してもらわないと成り立たないという、いわば税金に寄生した産業になっている。これだけ補助金のウエイトが大きいと、林業をするために補助金をもらっているのか、補助金をもらうために林業もどきをしているのかわからなくなる。たんなる切捨て間伐で補助金がもらえる林業家はそれで困らないにしても、困るのは大きな税負担を強いられている国民の方だ。林野庁が「官僚の無謬性」原則により政策転換できないのなら、政治家が政策転換させなければならないのだが、「林業の成長産業化」に邁進する安倍政権は、官僚以上に日本の林業の問題点がわかっていない。

2.2 : 問題だらけの「林業の成長産業化」

林業の成長産業化は、公共電波開放や待機児童解消とならんで、安倍政権の重点分野の一つである[45]。林野庁は、林業の成長産業化を次のように説明している。

我が国の人工林の約半数が主伐期を迎えている中、森林の有する公益的機能を持続的に発揮しつつ、林業の成長産業化を実現させるためには、これまでに掲げてきた我が国の森林・林業をめぐる課題を踏まえた対応が必要である。

これまで、我が国の森林・林業に関する施策においては、森林所有者の自発的な施業を国や都道府県が支援するという仕組みをとってきた。しかし、森林所有者の多くが経営規模を拡大する意欲や所有意思等が低くなり、路網整備や施業の集約化など積極的な経営や適切な管理を期待できない状況がみられる。

このため、森林所有者が自ら所有する森林について経営管理すべき責務があることを明確化した上で、森林所有者や林業経営者に一番近い公的な存在である市町村が森林所有者の意向を確認し、森林所有者が自ら経営管理できない場合には、所有している森林の経営管理に必要な権利を森林所有者が市町村に委ねることができるようにし、さらに、市町村は、林業経営に適した森林を、意欲と能力のある林業経営者に任せ、森林の経営管理を集積・集約させていく必要がある。[46]

このビジョンのもと、2018年5月25日に「森林経営管理法」が国会で可決され、2019年4月1日に施行されることになった[47]。そして、政府はその財源を確保するべく、2019年度税制改正において、年間千円を市町村が個人住民税に上乗せする形で賦課徴収する森林環境税とそれを国が自治体に再配分する森林環境譲与税を創設することを閣議決定している[48]

森林経営管理法は、以下の図に示されているとおり、「林業の成長産業化と森林資源の適切な管理の両立を図るためには、市町村を介して林業経営の意欲の低い小規模零細な森林所有者の経営を意欲と能力のある林業経営者につなぐことで林業経営の集積・集約化を図るとともに、経済的に成り立たない森林については、市町村が自ら経営管理を行う仕組みを構築する必要がある[49]」という趣旨で制定された法律である。

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森林経営管理法の概要[49]

林野庁が、森林所有者の経営意欲が低いと判断した根拠は、以下のアンケート調査の結果に基づいている。

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森林所有者の林業経営に関する意向[50]。「今後5年間の主伐に関する意向」は、「林業経営規模の意向」で「経営規模を拡大したい」、「現状を維持したい」、「経営規模を縮小したい」と回答した者に対して行われたもの。

森林所有者のうち、71.5%は「現状を維持したい」と回答し、林業を続けるつもりの所有者のうち60%は「伐期に達した山林はあるが、主伐を実施する予定はない」と答えている。しかし、それをもって森林所有者の経営意欲が低いと判断するのはおかしい。主伐をしなくても、間伐を繰り返すつもりと答えた人は半数を超えており[51]、そうした人たちは、林野庁の想定とは別の意味で経営意欲を持っていると言うことができる。

そもそも「我が国の人工林の約半数が主伐期を迎えている」という林野庁の認識は正しいのか。以下の図「人工林の齢級別面積」に示されているように、10齢級(50年生)が51%を占めている。問題は、50年生以上で主伐期を迎えていると言えるのかというところにある。

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人工林の齢級別面積[52]。齢級は、林齢を5年の幅でくくった単位。苗木を植栽した年を1年生として、1~5年生を「1齢級」と数える。面積は「森林法」(昭和26年法律第249号) 第5条及び第7条の2に基づく森林計画の対象森林の面積である。

私たち人間は、青年期まではよく成長するが、中年期以降は成長が止まる。しかし、木も同じと考えてはいけない。Stephenson et al. (2014) が、世界各地にある403種類の樹木のデータを分析したところ、年老いた樹木の方が若い樹木よりも成長が速く、より多くの二酸化炭素を吸収していることが判明した[53]。日本の人工林に植えられている代表的な樹木はスギとヒノキで、スギは140年生まで、ヒノキは80~100年生まで成長が期待できる[54]

大径材は小・中径材よりも高値で取引される[55]ので、伸び盛りの50年生の木をすべて切ることは、経済的に合理的ではない。また、皆伐はハゲ山を作るので、土砂災害防止という点でも好ましくない。要するに、50年生で皆伐する日本の林業慣行は、経済という点でも、環境という点でも極めて非合理なのである。それにもかかわらず、50年生以降の森林で間伐を続ける林業家に対して「経営意欲が低い」というレッテルを貼る林野庁は非合理な偏見に満ちていると言わざるをえない[56]

森林所有者が、所有者としての権利を行使して林野庁の横暴を阻止できればよいのだが、森林経営管理法は、日本国憲法第二十九条に抵触するかもしれない財産権侵害の条項を含んでいる。

第十六条 市町村が経営管理権集積計画を定める場合において、集積計画対象森林のうちに、その森林所有者(数人の共有に属する森林にあっては、その森林所有者のうち知れている者。以下「確知森林所有者」という。)が当該経営管理権集積計画に同意しないもの(以下「確知所有者不同意森林」という。)があるときは、当該市町村の長は、農林水産省令で定めるところにより、当該確知森林所有者に対し、当該経営管理権集積計画に同意すべき旨を勧告することができる。

第十七条 市町村の長が前条の規定による勧告をした場合において、当該勧告をした日から起算して二月以内に当該勧告を受けた確知森林所有者が経営管理権集積計画に同意しないときは、当該市町村の長は、当該勧告をした日から起算して六月以内に、農林水産省令で定めるところにより、都道府県知事の裁定を申請することができる。[57]

所有者が経営管理権集積計画に反対しても、都道府県知事の裁定によっては、所有者の意に反する経営管理権集積計画が強行され、所有者にわずかな経営管理受益権の対価しか支払われないという可能性があるということだ。所有者不明とされた森林に対しては、行政主導の経営管理権集積計画がより容易に強行される。

経営管理権集積計画を立案した市町村は、計画の実行を「意欲と能力のある林業経営者」に委託できることになっている。林野庁が行った調査によると、伐採業者(素材生産業者)の70%は規模拡大を望み、事業を行う上での課題として最も多かった(37.9%)のは「事業地確保が困難」であった[58]。だから森林所有者から経営管理権を取り上げ、素材生産業者に伐採をさせれば、木材生産が増えるに違いないというのが林野庁の目論見である。

しかし、木を伐るだけ伐って、「後は野となれ山となれ」では、所有者が困る。そこで、森林経営管理法案は、第三十八条で、「林業経営者は、販売収益について伐採後の植栽及び保育に要すると見込まれる額を適切に留保し、これらに要する経費に充てることにより、計画的かつ確実な伐採後の植栽及び保育を実施しなければならない[57]」というように、「計画的かつ確実な伐採後の植栽及び保育の実施」を義務化している。

ところが、50年生皆伐では、「伐採後の植栽及び保育に要すると見込まれる額」が販売収益を大幅に上回る。スギ人工林の場合、50年生で主伐した場合の立木販売収入は、2010年現在の丸太価格に基づいて試算すると、117万円/haであるのに対して、植栽から50年生までの造林・保育にかかる経費は、平均で約231万円/haである[59]。だから、税金で赤字を補填しなければ、民間企業による伐採後の植栽と保育の義務化は無理である。政府が森林環境税と森林環境譲与税を創設したのは、民間の伐採業者を参入させても、現行林業のまま木材増産を強行すれば、赤字拡大必至と事前に予想しているからである。

森林環境税は人頭税のようなもので、逆進性が高い。左翼は、消費税は逆進性が高いと言って反対しているのに、それよりももっと逆進性が高い森林環境税にそれほど反対していないのはなぜだろうか。多分「環境」という言葉に弱いからなのだろう。国民一般も、年間千円で森林環境が守られるなら安いものだという意識があるから、大きな反対運動は起きていない。しかし、この税金が本当に森林環境の保護に使われるかどうか怪しい。

森林環境税は、「パリ協定の枠組みの下におけるわが国の温室効果ガス排出削減目標の達成や災害防止等を図るため、森林整備等に必要な地方財源を安定的に確保する観点から[60]」創設される税だから、皆伐に対して直接補助金が出されることはないだろう。しかし、間接的に皆伐が促されるということはありうる。現に、平成30年度林野庁予算概算要求では、「主伐時の全木集材、それと一貫して行う再造林の実施」が「資源高度利用型施業」として支援の対象になっている[61]。つまり、ハゲ山を作ることになる施行も「林業・木材産業成長産業化促進対策」の一環として補助金で推進するということである。森林環境税も、「森林整備等に必要」ということで、将来こうした使い方がされるかもしれない。しかし、50年生皆伐は、温室効果ガス排出削減という点でも、災害防止という点でも、林業振興という点でも逆効果であり、森林環境税を現行林業拡大のために使うなら、それは納税者に対する裏切りになる。

以上見てきたとおり、安倍政権と林野庁が推進する「林業の成長産業化」には問題が多い。それにもかかわらず、民主党政権下でも同様の政策が試みられていた(後述)こともあり、これに反対する動きが野党にあまり見られない。国会で森林経営管理法に反対した会派は、衆議院では日本共産党のみ[62]、参議院では日本共産党と希望の会の一部のみ[63]である。おそらく、林業に詳しい議員が各会派にあまりいないからなのだろう。

2.3 : 収益性と環境保全を両立させる方法

世界で林業が最も先進的であるのはドイツである。ドイツの森林面積は、日本の人工林の面積とほぼ同じであるが、木材生産量は日本の4倍以上もあり、かつその製品は強い輸出競争力を持つ。ドイツは日本よりも地形が急峻ではないなどの違いがあるとはいえ、この違いは自然環境だけで説明できるものではなく、先進的な林業の手法で説明されるべきである。オーストリアはドイツと同じドイツ語圏にあり、ドイツの先進的な林業が実践されている。日本でも大正時代に、ドイツで主流となっていたアルフレート・メーラー (Alfred Möller)提唱の「恒続林思想Dauerwaldgedanke)」に基づいて、択伐や天然更新施行が導入されたが、昭和になって戦争が激化し、経済制裁を受けるようになると、大正以前の皆伐が復活した。以下のグラフに示されているとおり、日中戦争が始まった1937年以降、伐採が増えた。石油が輸入できなくなったことにより、薪炭用の材積が増えていることがわかる。

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戦前・戦中・戦後の木材伐採量の推移[64]。大正10(1921)年までと昭和7(1932)年からでは出典が違うため、連続したデータとはなっていない。造林は人工造林の数値。

敗戦後も、日本は外材を輸入する外貨がなかったこともあり、復興のために大規模な伐採を行った。グラフから、この時期、用材の材積が増えていることがわかる。しかし、戦中から戦後にかけての過剰伐採により、全国でハゲ山が増え、土砂災害が顕著になった。このため、政府は、1964年に木材の輸入を自由化した。おかげで過剰伐採はなくなったが、50年生皆伐の慣行はまだなくなっていない。ドイツも第二次世界大戦中は皆伐を行ったが、戦後、皆伐を禁止し、今では択伐と間伐を中心とした天然更新で持続可能な施行をしている。

戦争中は「背に腹はかえられぬ」状況であったことは理解できる。問題は、なぜ日本は、今でも50年生皆伐を続けているのかである。それは、おそらく日本人は林業を農業の一種と考えているからだろう。農業では、苗を苗床で育てて、耕した土地に植え、肥料を与えたり、雑草を除いたりして世話をしながら育て、実りの時期に一斉に収穫する。日本人は林業でも同じことをしようとする。苗木を苗畑で育ててから、地拵え(整地)した山に植栽(植え付け)し、下刈り(雑草むしり)・蔓刈り・除伐・間伐をしながら育て、柱や板の材料となる太さにまで成長した40~50年後に皆伐する。

こうした農業型林業には、多大なコストがかかる。農業の場合、1年で収穫できるからまだよいが、40~50年で収穫する林業の場合、採算が取れない。それ以外にも問題はある。苗木は肥料をやるとよく育つが、栄養の吸収率が悪くなるので、後の成長に悪影響を与える。下刈り、つまり雑草むしりも、やりすぎると弊害が大きい。雑草は、根が表土を固めることによって、そして葉が雨水の衝撃を和らげることによって表土の流出を防いでいる。また、雑草は、枯れることで土壌を豊かにする働きがある。植栽木以外をすべて除伐することも森林の多様性を失わせ、害虫、害獣、病気などのリスクに対して脆弱になる。

これに対して、ドイツやオーストリアなどで行われている天然更新では、皆伐を避け、間伐を中心に施行し、百年前後の長伐期で主伐を行う。間伐によってできるギャップに日光が当たると、自然落下した種子から稚樹が生育する。ただし、天然更新がどこでも有効とは限らず、望ましくない樹種が生育する場所では、育種された種苗による人工更新が行われる。オランダと同様、ドイツやオーストリアでも、政府は遺伝子解析や品種改良のような研究開発分野には力を入れていて、高い生産性をもたらす種苗が研究されている[65]。それでも、いったん天然林に近い針広混交林になると、天然更新による森林資源の再生産が可能になる。

長伐期天然更新は、自然の力を最大限利用するので、短伐期一斉植林(人間が徹底的に面倒を見る農業的手法による林業)よりもコストがかからず、収益性の改善が期待できる。それのみならず、災害防止という点でもアドバンテージがある。一斉植林で誕生した単純同齢林では、根の深さが画一的であるが、長伐期天然更新の森林では、地中深くまで根を張った高齢樹、地表面で根を張る雑草、その中間で根を張る若齢樹のバランスが取れており、根の深さに多様性がある。また皆伐はしないので、森がハゲ山になることもない。だから、土砂災害を防止するという点でも、長伐期天然更新の方が短伐期一斉植林よりも好ましい。しかし、日本では、北海道十勝郡浦幌町の石井山林のような例外を除いて、長伐期天然更新はほとんど行われていない。

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ドイツの恒続林[66]。多様な木が生えている。

戦後の拡大造林期に造られた日本の針葉樹人工林を天然更新で針広混交林にすることは難しいので、最初は人工更新を行わなければならない。人工更新は天然更新よりもコストはかかるが、それは移行期だけで、恒常的にコストがかかる農業型林業とは異なる。もとよりコストがかからなくても、売上も減るなら収入も減ってしまう。従来、広葉樹は、針葉樹のように真っ直ぐ育たないので、パルプの原料にしかならない価値の低い雑木と軽視されてきた。このため、針広混交林では、経営が成り立たないだろうという予測もある[67]。しかし、近年、家具や工芸品の材料として注目されており、その個性的な形や文様に芸術的価値を見出す職人もいる。広葉樹材は、工夫次第で針葉樹材よりもはるかに高値で売れる[68]ので、針広混交林だからといって収入が減るとは限らない。

日本が今でも短伐期皆伐に固執するもう一つの理由は、国内需要の変化にある。奈良県の吉野、千葉県の山武、岐阜県の今須では、伝統的に伐期を通常の二倍(80~100年)に設定する長伐期施業で大径木を育てている。A材として使われる大径木には和室の建材としての大きな需要があったからだ。ところが、住宅の洋風化により、和室の需要が減り、集成材や合板用のB材の需要が増えるという「木材革命」が起きた。B材を量産するには、大径木になるまで待つ必要はないということになる。日本政府が、一方で皆伐を補助金で促進し、他方で建設会社が直交集成板(CLT)を購入する場合、平均価格を上限に全額補助することを決めた[69]背景には、「木材革命」があったと見ることができる。

とはいえ、日本で住宅の洋風化がいくら進もうが、大径木に対する需要が無くなることはない。大径木には無垢フローリング床材や化粧用単板という大きな需要が世界的にある。無垢フローリング(solid wood flooring 単層フローリング)は、高級志向の顧客に人気で、合板の上に化粧板を貼った複合フローリング(engineered wood flooring)よりも高値で売れる。ただし、スギやヒノキなど針葉樹で作った無垢フローリングは、柔らかくて、傷がつきやすいという欠点があり、固くて丈夫な広葉樹で作った無垢フローリングほど高くは売れない。しかし、この欠点もケボニー化[70]や表層圧密テクノロジー[71]によって克服できる。だから、スギヤヒノキも、長伐期施業で大径木を育てることは、日本の林業を輸出産業化する上で有望である。

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原木(松)を切断した無垢材[72]。一方の側面の凸と他方の側面の凹を噛み合わせて、無垢フローリング床材にする。

こうした問題意識から、従来の短伐期皆伐林業に対して、長伐期非皆伐林業を「自伐型林業」という名称で普及させようとする動きが日本に出てきた。この名称は、森林所有者が、森林組合などの伐採業者に経営を委託するのではなく、自ら低コストな経営をすることで、収益性を改善するという理想に因んで付けられたものだ。もっとも、自伐型林業推進協会によると、自分で山林を所有せずにすることも可能である[73]とのことなので、「自伐型林業」という名称は、本質を言い当てているとは言い難いのだが、以下、長伐期非皆伐林業という意味で「自伐型林業」という名称を使うことにしよう。

NPO法人土佐の森・救援隊の中嶋健造は、自伐型林業を広めようとしたところ、林業界のエスタブリッシュメントから大きな抵抗を受けたとのことである。

「素人が山に入って来るな、山はプロの森林組合がやるものだ、素人が入って来るようなところではないぜよ!」とフォーラムで罵倒されたり、「なんで君たちがいるのだ、自伐林業などと古臭いことを言っている連中の来るところではない」と林業者の会合で一喝されたり、「中嶋さん、これからの林業は高性能林業機械を導入して大規模に生産する大規模な林業の時代ぞね。個人による自伐とか林内作業車などと、小さなことを言っておったら誰にも相手にされんぞね、ハッハッハ」と林業行政職員に笑われたり、「自分の山で、自分で林業やると言いよりますか。いやいやそれは無理です。バカなことを考えたらいかんぞね、早う森林組合に委託しいや」と林業普及員に忠告されたり、極めつけはフィールドにしている森林を追い出されるということも起こったのである。[74]

この中で、特に林業行政職員の発言に注目したい。それは、広い面積の森林を大型機械を使って大規模に伐採し、集成材や合板といった規格品を量産し、安く広く販売することが競争力につながるという林野庁の官僚たちが信奉する工業社会時代の古い発想に基づいている。これに対するアンチテーゼとしての自伐型林業は、全近代的で「古臭い」ように見えるかもしれないが、多品種少量生産に適しているという点で、情報社会にふさわしい林業であるということができる。

大型機械を使って大規模に伐採する現行林業は、効率的に見えるが、実は収益性は高くない。大型機械は高額であり、大型機械による大規模伐採が前提とする皆伐に経済合理性がないからだ。これに対して、小型機械で間伐を繰り返す自伐型林業は低コストで、持続可能なので、長期的に見れば収益性は高い。補助金を食いつぶし、森林環境を破壊する現行林業は淘汰されるべきだ。そのための最も良い方法は、林業に支給している補助金を減らすことだ。補助金を減らせば減らすほど、収益性の悪い業者から順に撤退するからだ。ところが政府は、森林環境税や森林環境譲与税を新設し、それを財源に林業のための補助金を増やすという全く逆のことをしようとしている。

政府は、林業振興とともにバイオマス発電の普及をも画策している。こちらは必ずしも悪い政策ではない。実は、自伐型林業は、A材のみならず、バイオマス燃料用のC材の生産も可能である。土佐の森・救援隊が行政に認められるようになったのは、NEDO(経済産業省管轄の新エネルギー・産業技術総合開発機構)による「バイオマスエネルギー地域システム化実験事業」に参画してからである[75]。この事業では、当初自伐型林業者はあまり期待されていなかったが、最終的にはバイオマス用燃料の収集量の九割を自伐型林業者が占め、このため、実験事業の終了後、仁淀川町の委託により土佐の森・救援隊がこの事業を受け継ぎ、二年間経営した[76]。バイオマス発電は、日本でも発祥の地であるドイツでも苦戦している。この問題を最後に取り上げよう。

2.4 : バイオマス発電はどうあるべきか

日本政府は、2002年に京都議定書対策として「バイオマス・ニッポン総合戦略」を閣議決定し、再生可能な生物由来の有機性資源を活用しようとしたが、2011年3月に総務省が行った評価によれば、バイオマス関連施設には赤字のものが多い。総務省も言うように、「国費等の導入支援がなくてもバイオマス利活用施設が普及、拡大していくことが重要であり、そのためには、施設の採算性の向上が必要不可欠である[77]」。ところが、その後、再生可能エネルギーの固定価格買取制度により、バイオマス発電に「国費等の導入支援」が行われることになった。

固定価格買取制度(FIT=Feed-in Tariff)とは、再生可能エネルギーを普及させるために、火力発電による通常の価格よりも高い固定価格で再生可能エネルギーによる電力を買取る助成制度である。差額は電気料金に上乗せされるので、国民に負担を強いる事実上の補助金制度である。この制度を国レベルで最初に開始したのはドイツで、日本では、菅直人総理大臣(当時)が、2011年に退陣の条件として法案を可決させ、2012年7月1日から制度が運用されるようになった。太陽光発電は、2009年11月1日から既に余剰電力が買い取られていたが、これにより、バイオマスなど、太陽光発電以外の再生可能エネルギーも固定価格買取の対象になった。

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2011年5月27日、東日本大震災後のG8主要国首脳会議で記者会見を行う菅直人総理大臣(当時)[78]

菅がドイツを模範にしたのは、固定価格買取制度だけではない。早い時期から林業に関心を持っていた菅は、2007年にドイツの林業を視察し[79]、日本と同様に賃金の高いドイツが日本に木材を輸出している事実を知って驚き[80]、日本の林業をドイツなみにしようと意気込んだ。もっとも、菅は、ドイツの長伐期天然更新には注目せず、ドイツなみの路網密度、集約化、人材育成、バイオマス利用を公共事業という形で実現しようとした。菅は、副首相を務めていた2010年1月に、林野庁に「森林・林業再生プラン推進本部」を設置し、首相になると「林業の再生による地方の雇用の拡大」を「成長戦略」の目玉政策にした。菅内閣は一年余りで終わったが、固定価格買取制度と林業の成長産業化という菅内閣の置き土産は菅内閣退陣後も継承された。

固定価格買取制度が始まった当初、太陽光発電の調達価格は、住宅用(10kW未満)で、42円/kWh、事業用(10kW以上)で、40円/kWh(税抜き)と高く設定された[81]ため、太陽光バブルが発生した。その後、調達価格は引き下げられ、2018年度には事業用(10kW以上2000kW未満)で、18円/kWh(税抜き)になり[82]、太陽光バブルは沈静化した。他方で、間伐材等由来の木質バイオマスの調達価格は、当初、32円/kWh(税抜き)と低かったものの、2018年度には大規模発電所(2000kW以上)で、32円/kWh(税抜き)、小規模発電所(2000kW未満)で、40円/kWh(税抜き)と高く設定され、太陽光バブルに代わってバイオマス・バブルが発生している[83]

ドイツに学ぶという姿勢自体は良いのだが、菅は、ドイツから真に学ぶべきことを学ばなかった。従来型林業の延長にしかならない「森林・林業再生プラン」は言うまでもなく、固定価格買取制度も、ドイツでは失敗と認識され[84]、日本がこの制度を始めた2012年に修正法案が成立し、2014年から競争入札制度を導入した市場プレミアム制度(FIP=Feed-in-Premium)が始められた。今後、日本もドイツと同様、より市場経済に近い状態に変えていかなければならない。

一般的に言って、補助金で新商品を普及させる政策は、量産効果でしか価格が下がらない場合に有効である。例えば、太陽光発電設備のように、時間とともにイノベーションでコスト・パーフォーマンスが改善する商品の場合、この方法はむしろ有害だ。補助金のおかげで、消費者は技術が未熟な段階で買ってしまい、後でもっと効率の良い最新の商品を買おうとしても、減価償却期間(太陽光発電設備の場合、17年)が終わるまでは難しい。結果として、効率の良い最新の設備の普及を妨げてしまう。

固定価格買取制度は、バイオマス発電の方でも問題がある。間伐材等由来の木質バイオマスが固定価格買取制度で優遇されている背景には、政府が推進する林業の成長産業化があるのだが、国内ではあまり大量に入手できないため、業者の多くは、間伐材等の燃料を海外から輸入している。これでは国内林業の成長産業化には結びつかず、むしろ日本の消費者の負担で海外の林業を振興する結果となっている。このように、固定価格買取制度は有害だから、できるだけ早く廃止するべきだ。廃止したからといってバイオマス発電がなくなることはない。むしろ、補助金に依存しない方が、持続可能な健全な発電方法になる。

最も理想的なバイオマス発電は、同じく植物を起源とし、化学的組成が似ている石炭との混焼である[85]。石炭火力発電は、有害物質を出すというイメージがあるが、日本の石炭火力発電は、SOx、NOxの排出量が主要先進国と比較して一桁低く、極めて小さい値となっている。実は、石炭混焼バイオマス発電は、現在固定価格買取制度の対象であるが、カーボン・ニュートラルではないとして批判されており、将来対象から外れる可能性がある。それでも、石炭混焼バイオマス発電は、国内資源の有効活用という観点から行われるべきだ。日本は、燃料資源に乏しく、輸入に大きく依存しているが、バイオマスと石炭なら豊富にあり、これを有効活用することは、エネルギーの安全保障という観点からも重要だ。また、太陽光、風力、原子力といった他の発電方式は、電気を生産するだけだが、石炭混焼バイオマス発電は、電気に加え、熱、二酸化炭素、肥料を生産する。そしてこれらはすべて農業に活用することができる。

植物は、成長する上で様々な栄養素を必要とする。植物および植物を直接的あるいは間接的に摂取している動物には、そうした栄養素が集まる。だから、動植物の死体あるいは排泄物から必要な栄養素を回収し、それを肥料として活用することが望ましい[86]。石炭混焼バイオマス発電は、燃焼を通じて、炭素、酸素、水素といった有機栄養素を減らすことで無機栄養素の濃度を高める。有機栄養素は水と二酸化炭素として与えられるので、無機栄養素は燃焼灰から作られた肥料で与えればよい。もともと植物に含まれていた有機栄養素と無機栄養素を再利用するという点で、石炭混焼バイオマス発電を通じての二酸化炭素と肥料の活用は、植物のリサイクルであると言うことができる。

私は、日本政府が二酸化炭素の排出量を削減するという目的で推進しているCCU(二酸化炭素回収・活用)やバイオマス発電を資源の有効活用という別の観点から評価している。二酸化炭素やメタンなど、人為起源の温室効果ガスは、今日ではすっかり悪者扱いされている。しかし、ウィリアム・ラディマンによると、ミランコビッチ・サイクルで計算するなら、現在は氷期に突入してもおかしくない時期であり、8000年前に人類が農業を開始し、温室効果ガスを出し続けているおかげで氷期突入という最悪の事態が回避されている[87]と見ることもできる。

ラディマンの仮説には異論も多いが、過去の解釈はともかく、将来に目を転じると、以下図にも見られるとおり、当面、太陽活動は低迷する見込みで、ワレンティナ・ジャルコワらは、第26太陽周期(2030-2040年頃)にマウンダー極小期のような小氷期が到来する[88]と予測している。

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NASAによる太陽黒点数の予測[89]。緑色の線は、2008年までのデータをもとにした予測。赤色の線は2015年までのデータをもとにした予測。縦軸の太陽黒点数は、太陽活動の活発さを示す。

人類が、大量の温室効果ガスを出しているおかげで、近代小氷期のような寒冷化は回避できそうだ。他方で、2040年頃に、産業革命前(つまり近代小氷期)より1.5度気温が上昇するという予測を出し、温暖化ガスの排出削減を勧告している[90]IPCC(国連の気候変動に関する政府間パネル)は、太陽活動の影響を軽視しすぎている。今年(2018年)は、異常な暑さであったことから、地球温暖化はやはり深刻な問題だと思っている人もいるだろう。しかし、今年の猛暑は、ヒートアイランド現象の結果であって、地球全体の平均気温はそれほど上昇していない[91]。ちなみに、大寒波が襲った今年の一月は異常な寒さであった。

温暖化と寒冷化のどちらが悪いのかという議論は、インフレとデフレのどちらが悪いのかという議論に似ている。経済にとって、急激なインフレもデフレもどちらも好ましくなく、緩やかなインフレが最も好ましい。同様に人類にとっては、急激な温暖化も寒冷化もどちらも好ましくない。現在の地球が氷河期にあることを考えるなら、緩やかな温暖化が好ましい。温暖化に対する懸念を示しても、寒冷化には無関心なIPCCは、インフレの恐怖ばかりを煽って、デフレの危険性には目をつぶる反リフレ派のようなもので、バランスを欠いている。中央銀行が適度なインフレをターゲットとしているように、人類は適度な温暖化をターゲットとするべきだ。

私が提案している二酸化炭素の有効活用や石炭混焼バイオマス発電は、二酸化炭素の排出量を必ずしも削減しない。火力発電から二酸化炭素を回収しても、利用先がハウス栽培にせよ、炭酸風呂にせよ、吸収される二酸化炭素は一部で、残りは空気中に放出される。石炭混焼バイオマス発電は、投入される石炭の分、多くの二酸化炭素を排出する。それでも、通常の火力発電よりも二酸化炭素を出さないし、太陽光や風力よりも二酸化炭素を出すので、バランスの取れた方法であるということができる。何より重要なことは、農業と林業の廃棄物を有効活用することで、農業と林業の生産性を向上させるということである。

3 : 日本の水産業はどうあるべきか

3.1 : 日本の漁業はなぜ衰退したのか

日本の水産業は、農業や林業と同様、長期的に衰退傾向にある。以下のグラフは、1965年から2016年にかけての日本における漁業と養殖業の産出額の推移を示したもので、排他的経済水域の制度を新設した国連海洋法条約が採択された1982年をピークに現在では半減していることがわかる。直近では、養殖業の隆盛で持ち直しているものの、漁業は、漁業就業者と漁船の高齢化が進み、先行きは暗い。

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漁業・養殖業の産出額の推移[92]。縦軸の産出額は、漁業・養殖業の生産量に産地市場卸売価格を乗じて推計したものである。

もとより、以下のグラフを見ると分かるとおり、世界の水産業は、1982年以降も成長を続けている。多くの国で水産業は今もなお成長産業であるのにもかかわらず、日本は負け組になっているのが現状である。

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世界の漁業・養殖業生産量の推移[93]

日本の農業は国土の狭さを、日本の林業は地形の急峻さを競争力の低さの言い訳にしてきた。しかし、水産業の場合、さすがに自然環境のせいにはできない。かつて日本は、国内に大きな需要を持ち、かつ世界中の海で漁業することができたため、世界最大の漁業国になった。1982年に排他的経済水域の制度が新設された後でも、世界第6位の広さがあり、かつ世界有数の豊かな漁場である排他的経済水域を持っているのだから、自然環境という点では、他の多くの国よりも恵まれている。それなのに、なぜ日本の漁業は、若い後継者を見つけることができないほど絶望的な衰退産業になってしまったのか。

ここでもう一度上掲図(Fig.20)を見られたい。1990年以降、漁業が横ばいであるのに対して、養殖業が全体の伸びを牽引していることがわかる。排他的経済水域が設定されて以来、世界の漁業には《獲る漁業》から《育てる漁業》へのパラダイム・シフトが起きた。養殖に力を入れたことはもちろん、漁業の分野でも、乱獲による資源枯渇を防ぐため、科学的根拠に基づいて漁獲可能総量(TAC=Total Allowable Catch)が設定され、漁業者あるいは漁船毎に、個別漁獲割当(IQ=Individual Quota)あるいは譲渡可能個別漁獲割当(ITQ=Individual Transferable Quota)あるいは漁船別漁獲割当(IVQ=Individual Vessel Quota)が課せられ、漁業資源を持続可能にしようとする動きが起きた。ところが、日本の漁業はこの世界の動きに後れを取ってしまった。

一般的に言って、パラダイム・シフトが起きるとき、古いパラダイムにおける最大の勝者は、最大の敗者に転落する。日本の漁業者は、《獲る漁業》にあまりにも投資しすぎたため、そのレガシーからの脱却は容易ではなかった。日本の漁協(漁業協同組合)は、既存の組合員の既得権益を守るため、《育てる漁業》への移行に消極的であった。部外者が養殖業を始めようとしても、漁協は沿岸で漁業を営む漁業権を独占的・優先的に持っており、これが障壁となって、新規参入が困難なのである。だから、海外で養殖業を行い、国内に輸入するという方法を選ぶ日本企業もある。上掲図(Fig.19)を見ても分かるとおり、1982年以降も日本の養殖業は横ばいである。

もとより、日本の漁協が従来路線をそのまま継承しようとしても、漁業資源保護を求める国際世論の圧力を無視することはできない。そこで
日本も、1996年に批准した国連海洋法に基づき、総漁獲量のうち35%を占める代表的な七種類の魚種にTAC制度を導入したが、規制前の漁獲量よりも大きくTACを設定したため、TACは有名無実化した。日本での実効性のある漁獲制限は、漁獲量という成果の制限ではなくて、参入規制やプロセス規制で行われている。プロセス規制は、「わざと漁獲効率の悪い網を使用し、また船を稼働できる日数を制限するなどにより、資源を守る発想になっている[94]」ので、これにより、日本の漁業の生産効率が低下した。それでも漁獲量には実質的には制限がないので、乱獲に歯止めがかからなくなり、市場価格が低い小さな魚を捕獲するようになった。価値の低い魚を非効率な方法で捕獲するため、日本の漁業の収益性は極めて悪く、政府が補助金をばらまかなければ存続できないほどの衰退産業になったわけである。

3.2 : ノルウェーの漁業はなぜ成長しているのか

日本の農業にとってのオランダ、日本の林業にとってのオーストリアに相当する日本の漁業にとって参考になる国は、中国につぐ世界第二位の水産物輸出国、ノルウェーである。ノルウェーは、農業には向かないが、漁業には明るい未来がある。以下の表は、世界の主要な漁業国が水産業(漁業と養殖業 Fisheries and aquaculture)の生産高を2016年から2030年にかけてどれだけ増やすか(Growth, 2016 to 2030)を国連食糧農業機関が予測したものである。

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国連食糧農業機関(FAO)の『世界漁業・養殖業白書 2018年』に掲載されている漁業と養殖業の生産高の予測[95]。生産高は生体重相当で、単位は1000トン。

日本の水産業の成長率は、11.5%の減少である。これほど壊滅的に減少する見込みの国は他にはない。まさに日本一人負けといったところだ。発展途上国の水産業は、人件費が安いこともあって、大きな成長が予測されている。ところが、ノルウェーの水産業の成長率が16.3%と高く評価されていることは、人件費では説明がつかない。ノルウェーの一人当たりのGDPは日本の二倍以上あり、ノルウェーの漁師の平均年収も日本の漁師の約三倍である。しかも「船内にはフィットネスジムやミニシアター、システムキッチンに小さなパーティールームなどを備え、まるでクルーズ船のような豪華設備となっている[96]」というのだから、人件費だけでなく、漁船の建造費も高くつく。大企業が漁業をやっているというわけでもなく、日本と同様、家族経営体が主体となっているのにもかかわらず、ノルウェーの漁業は高い国際競争力を持ち、かつ今後も成長すると期待されている。

ノルウェーも、今の日本と同様、60年代から70年代にかけての乱獲でニシンが大幅に減少するといった失敗をしたことがあったが、1980年代から減船補助金の支払いにより漁船の減少を促進し、他方で、IVQを導入して厳格な資源管理を行ったことで、以下の図からも分かるとおり、1990年代から漁獲量と漁獲高が回復し、その回復が今日の高収益漁業につながった。

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ノルウェーにおける漁船数、漁業者数、漁獲量、漁獲高の推移[97]。ノルウェー水産庁の調べ。

欧米がかつてそうしたように、TAC(漁獲可能総量)を小さく制限すると、早獲り競争が起きて、若い小型魚が乱獲されてしまうという弊害がある。そこで、TAC規制は、IQ/ITQ/IVQ規制に切り替えられた。漁業者あるいは漁船ごとに漁獲可能量が割り当てられているなら、早獲り競争をする必要はない。できるだけ商品価値の高い魚を獲ろうとするので、成熟した大型魚を獲ろうとするようになり、小型魚を混獲しても、それらを海に返すようになる。TAC規制下では、できるだけ早く自分たちの水揚げ量を最大化しようとする競争が起きるのに対して、IQ/ITQ/IVQ規制下では、時間をかけてでも与えられた制限量内でその価格を最大化しようとする競争が起きる。資源保護という観点からしても、産業振興という観点からしても、どちらが望ましいかは明らかだ。

水産庁も、ようやく2018年秋の臨時国会にも、TAC対象魚種を拡大し、漁船ごとの個別割り当て方式を導入可能にする法改正案を提出する予定である。それにしても、なぜ日本は長い間、合理的な資源管理をしてこなかったのか。水揚げ量の検査が困難というのがよく聞かれる表向きの理由である。確かに漁師の自己申告では、虚偽報告がなされる可能性がある。しかし、獲った魚は、売られるか、売れ残って破棄されるかのどちらかなので、買い手と廃棄魚の処理業者という第三者からの情報を通じて水揚げ量は検証可能である。過大申告する漁業者には、漁獲可能量を引き下げるペナルティを与えれば、過大申告は減るだろう。水産庁や政治家たちが消極的だった本当の理由は、漁師や漁協が難色を示していたというところにあるのだろう。

漁業者あるいは漁船ごとに漁獲可能量が割り当てたとしよう。漁業者が廃業すると、割り当てられた漁獲可能量をどうするのかという問題が出てくる。オークションで売却するというのが経済合理的な方法だが、それだと資本力に優れた企業が落札する可能性がある。「長年その地に土着して目の前の浜で暮らしてきた我々に対して、突然、漁業権の免許が漁協(多数の家族経営漁家の集合体)から企業に変更された(あるいは企業にも付与した)ので、君らの一部は企業が雇ってくれるが、基本的にはみんな浜から出ていけ、という理不尽極まりない要請が許される[98]」ことこそが、既存の漁師と漁協が一番警戒していることである。

彼らは、効率的な漁業をする企業とは競争したくないし、企業が参入する場合は、漁協に入ってもらって、自分たちの利益になるように利用して、取り込みたい。そうやって、従来どおりの競争力のない漁業を続け、補助金利権を独占し続けたいというのが彼らの本音である。だが、これでは消費者や納税者は困るし、何より日本の水産業の衰退に歯止めがかからなくなる。それなのに、政治家たちは、漁師や漁協の票を獲得するために、改革を先延ばしし、場当たり的な補助金バラマキに終止した。

例外もある。2011年に、宮城県知事の村井嘉浩は、震災後の沿岸漁業を再生するために民間企業の力を借りようと、法人が漁協と同等の条件で漁業を営める宮城県水産特区の認定を申請した。すると、案の定、漁協はこれに猛反対した。結局、申請は認められたが、この事例からも分かるとおり、漁協は、自分たちの既得権益である漁業権が侵害されることに激しく抵抗する。それは、農協が株式会社の農業への新規参入に激しく抵抗してきたのと同じような話だ。漁協は、IQ/ITQ/IVQ規制の代わりに自主的なプロセス規制を乱獲対策として実践してきた。「自主的」と言えば、聞こえはよいが、要は、国家や企業といった《よそもの》が入ってくる余地が無いように内輪の管理で終わらせようということなのである。

元水産庁役人[99]で、TAC規制にもIQ/ITQ/IVQ規制にも反対し、漁業者による自主的な取り組みに任せるべきだというのが持論の佐藤力生は、「ノルウエーは日本漁業のモデルにならない」と言い、その理由を次のように述べている。

北欧漁業のように、可能な限り漁業者を排除し、少数の漁業者に資源を集中する「排除と富の集中」により生産性を揚げていく手法ではなく、我が国の漁業には「共生と富の均衡」を前提した、協業化・共同化により生産性を向上させていく、資源管理型漁業という手法があります。人間が幸せに生きていくために必要な多様な価値観の中で、お金や効率性のみを偏重する規制改革路線こそが、地方を切り捨て衰退させた最大の要因ではないでしょうか。[100]

一方で「協業化・共同化により生産性を向上させていく」と言いつつ、他方で「お金や効率性のみを偏重する規制改革路線」を批判するというのは矛盾しているように思える。日本の漁協が大切にしてきた協業化・共同化により生産性が向上したとは言えず、むしろ日本の漁師たちは貧しくなるばかりである。貧困化と高齢化が進む漁民たちの心に「共生と富の均衡」という美しい理念が響くだろうか。今後日本の人口が減っていくことを考えるなら、大勢の漁師が非効率な漁業を行って平等に貧しい生活を送るよりも、少数の有能な漁師が高収益の漁業を行う方が望ましいのではないのか。

日本という社会には、敗者を作らないことを良しとする伝統文化がある。敗者を作ると、その敗者が怨霊となって祟る。それでは困るので、和を以て貴しと為す「共生と富の均衡」が理念として掲げられる。日本の大企業が、従業員の解雇を極力避け、やむを得ない場合は、子会社に出向させたり、転職の紹介に世話を焼いたりするのも、怨霊対策の伝統の名残とみなすことができる。こうした日本型社会主義と揶揄される日本の慣行は怨霊対策としては有効だが、経済政策としては合理的ではない。労働市場で市場原理が機能しなければ、労働生産性が低下するし、漁業でも、護送船団方式で市場原理が機能しなければ、生産性は向上しない。

ノルウェーは、漁船を減らすために減船補助金を支給したが、日本の場合、漁業への補助金を段階的に減らすことで、過剰な数になっている漁業者に収益性が低い順に廃業してもらうという政策が考えられる。ノルウェーもかつては多くの補助金を支給していたが、漁業者に対する所得保障を2005年に廃止し、減船補助金も2008年に終了させた。2016年10月以降、世界貿易機関(WTO)において、国連が掲げる持続可能な開発目標(SDGs)を達成するため、漁業に対する補助金を禁止する提案がEUなどから提出されたが、日本は「政策上必要な補助金は認められるべきであり、禁止される補助金は、真に過剰漁獲能力・過剰漁獲につながるものに限定すべきとの立場[101]」を表明して、これに反対した。日本が漁業に支給している補助金額は世界の中で突出しており、今後補助金削減を求める国際世論は強まるだろう。同じ財政支援をするにしても、廃業者の転職支援に使った方が賢明である。外圧に屈するといった受け身の対応ということではなく、日本の水産業の未来を見据えて、戦略的に漁船の削減を図るべきではないか。

3.3 : 収益性と資源保全を両立させる方法

ノルウェーの漁業は、日本の漁業よりも優れているが、問題もある。一つは、新規参入に対してオープンではないことであり、もう一つは《育てる漁業》という点ではまだ十分ではないことである。従来、この二つは二律背反の関係にあるとされていた。自由に新規参入を認めると、資源が枯渇するし、資源を守り、回復させようとすると、新規参入を制限せざるをえないというわけだ。

漁業権開放を「亡国・売国」と非難する東京大学教授の鈴木宣弘は、

規制撤廃して個々が勝手に自己利益を追求すれば、結果的に社会全体の利益が最大化されるという論理のコモンズ(共有資源)への適用は論外である。私は環境経済学の担当教授で、毎年、学生に「コモンズの悲劇」(共有牧場や漁場を例に、個々が目先の自己利益の最大化を目指して行動すると資源が枯渇して共倒れする)を講義している。教科書の最も典型的な事例なのに、「コモンズの共同管理をやめるべき」というのは、経済理論の基本もわかっていないことを意味する。[98]

と主張し、「ノーベル経済学賞を受賞したオストロム教授のゲーム論によるコモンズ利用者の自主的な資源管理ルールの有効性の証明[98]」を引き合いにしつつ、漁協による漁業権管理を養護している。そうは言っても、これまでの漁協による漁業権管理で、一方で漁業資源が減少し、他方で経済収益も低下したという最悪の結果になったことを考えるなら、今の制度をそのまま存続させることはできない。

コモンズの悲劇(the tragedy of the commons)は、競合性(消費の増大に追加的なコストがかかること)はあっても排除性がない(対価を支払わず消費するフリー・ライドを排除することができない)財で起きる。排他的経済水域の設定は、一定の排他性を与えたものの、どの排他的経済水域がカバーしない公海があるし、排他的経済水域間を回遊する魚もいるので、完全な解決策にはなっていない。また、排他的経済水域は、国単位の排他性しか与えず、事業者単位には漁業権という別の排他性を与えなければならない。

日本でも、ノルウェーでも、漁業権は、これまで漁業を行ってきた人たちに優先的に与えられる。しかし、これまで漁業資源を減らしてきた人たちに、さらに漁業資源を減らす権利を与えるのは不条理である。むしろ、漁業資源を増やした人に、報酬として漁業権を与える方が合理的だ。ちょうど事業に投資した人に、投資の果実を配当という形で報いるように、漁業資源の増加に貢献した人に、その果実を漁業権という形で報いるべきなのだ。もちろん、配当を受け取るための権利書である株式を市場で売却することができるように、漁業権も市場価格で売却可能にすればよい。

漁業権は、通常、国内での判断だけで割り当てられる。だが、農業、林業、養殖業とは異なり、漁業では、資源に排除性を与えることが難しい。だから、新しい漁業権システムは、国連海洋法条約を改正する形でグローバルに導入することが望ましい。国連海洋法条約は締結国が多い[102]ので、合意を得るには困難も予想されるが、同じような仕組みである温室効果ガス削減のための排出権取引制度(排出量削減の目標を達成できなかった国や企業が、達成できた国や企業から排出権を買い取る制度)は、多くの国で受け入れられた。海と海洋資源は人類の共有財産であり、乱獲防止は国際的な関心事である。それならば、京都メカニズムのようなグローバルな市場メカニズムを漁業資源の管理のために導入することができるのではないか。

漁業資源増加に貢献する方法は二つある。漁業資源の量を増やす方法と質を高める方法である。質を高めるとは、漁業資源の商業価値を高めることである。例えば、海洋汚染とそれに伴う魚介類の汚染を減らすことや商品価値の高い種の品種改良やその稚魚を放流することなどだ。質はもとより量に関しても、各事業が漁業資源をどれだけ増やしたかを測定することは、温室効果ガスをどれだけ削減したかを測定することよりも難しいが、科学的根拠に基づいた推定は可能であり、国際機関が仲介して評価を行い、貢献度に応じて漁業権を与え、貢献者は漁業権をオークションで売却することで、事業に必要な資金を回収する。この方法なら、漁業権の獲得にも購入にも参入障壁はなく、また増やした分を捕獲するのだから、新規参入の問題と資源保全の問題の両方を解決できる。

3.4 : 漁業資源を増やすにはどうすればよいのか

最もわかりやすい《育てる漁業》は、養殖業であるが、養殖業で水産物資源を増やすことには二つの問題がある。一つは、養殖に必要な餌は海から採取するのが普通であり、それが乱獲に繋がる可能性があるということである。もう一つは、内水面で行うにせよ、海面で行うにせよ、規模に限度があるということである。世界最大の利用可能な生簀は海であり、海における水産物資源を増やすことが最もスケールの大きな《育てる漁業》である。

海における水産物資源、すなわち漁業資源の量を増やすには、海洋における食物連鎖を底辺で支える植物プランクトンを増やす必要がある。植物プランクトンが成長する上で必要な要素は、光、温度、栄養塩の三つで、栄養塩の中でも特に不足しているのが鉄である。世界の海表面には、主要な栄養塩が高濃度に存在するのに、植物プランクトンが少ないHNLC(High Nutrient Low Chlorophyll)海域がある。1980年代に、米国の海洋学者、ジョン・マーチン(John Martin;1935 – 1993)は、HNLC海域を生じさせる主たる原因が鉄イオン濃度の低さであることを鉄添加培養実験により実証した[103]

マーチンの仮説は、近年別の証拠によっても支持されている。以下の図のaは、植物プランクトンが発するクロロフィル蛍光の量子収率を示している。これは栄養塩ストレスの指標で、赤くなっている海域は、栄養塩が不足している。この分布と相関があるのは、bの硝酸塩濃度やcのリン酸濃度ではなく、dの可溶性鉄堆積の分布である。

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人工衛星が検出した海表面における(a)蛍光量子収率、(b)硝酸塩濃度、(c)リン酸濃度、(d)風成の可溶性鉄堆積の分布[104]

マーチンは、「タンカー積載量半分の鉄があれば、氷期にすることができる[105]」と言って、鉄散布事業を地球温暖化防止策として提案した。日本でも「鉄が地球温暖化を防ぐ」と言って、この事業を推奨している人もいる。しかし、世界の表層海洋の20%に対して、2100年まで年間15回鉄を散布しても、植物プランクトンの大半は海表面上で捕食され、海底に沈むのはわずかであるため、15ppmvしか大気中の二酸化炭素濃度を削減しない[106]。それでも、温暖化防止策としてではなくて、漁業資源を増やす事業としては意味がある。鉄を散布したあと、商業的価値のある種苗を放流すれば、深海に沈む植物プランクトンの死骸が減るので、炭素隔離にはならないけれども、養殖業にはなる。

鉄は、不足している唯一の栄養塩ではない。漁業資源を増やすには、他の栄養塩の供給も必要である。但し、増やしすぎると富栄養化の弊害が起きる。すなわち、窒素やリンが増えると、魚類の餌として重要な珪藻に代わって、有毒物質を出す非珪酸質の植物プランクトンが増え、それが魚介類に斃死をもたらす。表層で捕食されない植物プランクトンは、海底に溜まってヘドロとなり、溶存酸素がほとんどない環境下で嫌気性微生物によって分解されて、悪臭を発生させる。海洋施肥を行うに当たっては、そうならない範囲で栄養塩の濃度を調節しつつ行う必要がある。

漁業資源の質を高める方法として優先的に取り組まなければならないのは、海洋汚染の低減である。汚染物質の海への放出を止めても、いったん汚染した海洋は、なかなか自然には浄化されない。人工的に汚染物質を除去しようとしても、薄く広く分散しているので、容易ではないが、食物連鎖による生物蓄積で、とりわけクジラやイルカといったクジラ類の内臓に高濃度に含まれているので、高齢になったクジラ類を捕獲し、内蔵に濃縮された有害物質を微生物で無害な物質に分解し、水銀(水俣病の原因)やカドミウム(イタイイタイ病の原因)など有害な元素は隔離して保存するという方法なら、比較的容易にできる。

欧米の自称環境保護団体は、「クジラやイルカを殺すのはかわいそう」といった感情的な理由から捕鯨を全面的に否定しているが、捕鯨をしなくても、クジラ類はいずれ死に、体内に濃縮された有害物質は、再び海中に拡散する[107]。またクジラ類は骨にリンをリン酸カルシウムとして大量に含んでいるが、人間がこれを肥料として利用しなければ、骨は死後海底に沈んでしまい、リン資源の有効活用が難しくなる。有益な資源であれ、有害物質であれ、クジラ類は体内に濃縮して持っているのだから、捕鯨によって、前者を有効活用し、後者を無害化するべきである。

私は、漁業資源の質を高めるもう一つの方法として、品種改良を挙げた。農業と同様、水産業でも、クリスパー・キャス9などを用いたゲノム編集が注目を集めている。現在、既にゲノム編集を使って筋肉量を1.2倍に増やした肉厚鯛「マッスルマダイ」の量産などが計画されている[108]が、漁業資源を地球規模で底上げするには、一次生産者である植物プランクトンにこそ光合成効率を改善するなどのゲノム編集が必要である。マッスルマダイとは異なり、直接的な収益化が難しいので、植物プランクトンの品種改良は、漁業権の販売という形で資金回収することが望ましい。漁業資源に対する需要は世界的に増大しつつあるが、漁業資源増大への貢献者に漁業権を与えるシステムにより、資源を枯渇させることなく、増大する需要に応えることができる。日本の漁業も、漁協に既得権益として漁業権を与える従来の制度を見直し、新規参入と資源保全を両立させる制度へと移行するべきだ。

4 : 日本の農林水産業はどうあるべきか

以上、日本の農林水産業がどうあるべきかについて私の考えを述べた。農林水産省の考えは、日本の農林水産業に競争力がないのは、農民、林業家、漁師の規模が小さいからで、競争力を高めるには、大規模化と集約化が必要というものだ。日本では今でも大企業神話が健全で、官僚に限らず、大企業ほど競争力があると信じている人が多い。もしも規模が大きいほど競争力があるのなら、日本に存在するすべての企業を集約すれば、最強の企業を作ることができるはずだ。全員が一丸となって、協力し合えば、世界に冠たる日本株式会社が誕生するはずだ。

本当にそう考えて、あらゆる生産手段を国家に集中させようとした人たちがかつていた。社会主義者と呼ばれる人たちだ。今日、左翼は格差の是正を訴えているが、それは左翼の本来の主張ではなかった。かつて、マルクス・レーニン主義者たちは、生産手段の私有が経済発展の桎梏となっているとして資本主義を批判し、生産手段を国家に集中させる社会主義革命によって生産力は飛躍的に増大すると主張した。しかし、実際には、社会主義革命は、生産力を飛躍的に増大させるどころか、壊滅的に衰退させてしまった。社会主義が経済成長をもたらさないことが明らかになった今日、左翼は、経済成長から格差批判へと重点を変えるようになった。

日本の官僚たちは、しかしながら、依然として国家主導で大規模化と集約化を進めれば競争力が向上するという国家社会主義的政策に固執している。日本は、世界大恐慌以降、デフレ克服のため統制経済に移行し、戦後GHQが改革を行ったにもかかわらず、農業に関しては国家によって統制された配給経済を続けた。GHQは、民主化と称して小作人に農地を、水夫に漁業権を与えたが、それまで使用人であった小作人や水夫がいきなり自立できるはずもなく、協同組合に従属することになった。林業では、木材自由化以降、所有と経営が分離され、森林所有者は森林組合に経営を任せることになった。

日本では農民、林業家、漁師の規模が小ささと、彼らを束ねる協同組合の規模の大きさが表裏一体になっている。組合員が小さくて非力であるからこそ、組合と組合を統制する行政の役割が大きくなる。だから、規模の小ささゆえの問題に見えるものが、実は規模の大きさゆえの問題でもあるのだ。規模が大きくなるにつれ、規模の経済が働くのは事実であるが、同時に規模の不経済も働く。そして、日本の農林水産業では、後者の弊害のほうが大きいというのが私の見解だ。小さくても、自らの意思決定で自由に経営する多数の企業が、市場経済のもとで競争し合うというポスト工業社会における最も望ましい状態へと移行するなら、日本の農林水産業は、先進国にふさわしい競争力を持つはずだ。

5 : 参照情報

  1. 林雄介.『ニッポンの農業 ―ここが常識、非常識―』. ぎょうせい (2010/4/7). p.5.
  2. 農林水産省. “第1章 食料の安定供給の確保に向けて.”『平成22年度 食料・農業・農村白書』(平成23年5月31日公表).
  3. 菊池英博. 「日本の農業は“過小保護”」. 『週刊エコノミスト』2016年6月7日特大号.
  4. OECD. “Agricultural support.” Accessed on 28 June 2018. Agricultural support estimates (Edition 2017). 2016年のデータを使用して作成。
  5. OECD. “Producer support (PSE), % of gross farm receipts, 2016.” Accessed on 28 June 2018. Agricultural support estimates (Edition 2017).
  6. 日本では「スマートアグリ」と呼んでいるが、海外では“smart-agri”という表現はあまり使われていない。また“smart-agriculture”は、“Climate-Smart Agriculture”という形で使われるが、日本語のスマートアグリとは違う意味である。ここでは、わかりやすくハイテク農業と呼ぶことにしたい。
  7. 今井寛之.「日本とオランダのトマト施設園芸の状況.」『オランダの先進施設園芸に学ぶ』2012年. データの出典:農林水産省、オランダ農業経済研究所。
  8. 「先進国の状況を見ると、イノベーションを導入しての農業の工業化・産業化が進んでおり、農業を輸出産業と位置づけている。オランダ等は、農業条件がさほど良くなくとも、農業で貿易を伸ばしている世界最強の農業国の一つであり、我々は多くを学ぶべきである。」首相官邸.「産業競争力会議テーマ別会合.」2013年4月19日. 株式会社ローソン取締役社長(当時)の新浪剛史(にいなみたけし)の発言。
  9. Goldlocki. “Tomaten (Solanum lycopersicum) Jungpflanzenanzucht Niederlande.” 24 January 2002. Licensed under CC-BY-SA.
  10. locust0138. “オランダ農業が日本農業の参考にならない理由.” バッタもん日記. 2014-05-11.
  11. 「オランダは確かに最先端の農業技術を保有し、単位面積当たりの収量はとんでもなく高い。トマトなどは同じ面積で日本の数倍は穫れる。日本の1000平方メートルあたりのトマトの収穫量は品種にもよるがよく作っている人で20トン。対して、オランダは1000平方メートルあたり70トン以上穫る農家がざらにいる。その収量を支えているのは産地および農場施設の大規模化・クラスター化による熱やCO2などの有効利用。そして何より作付品目の少なさだ。つまり、極端に限られた種類の農作物を大規模な施設で大量生産している。栽培品目の選択と集中は研究開発、施設建設、栽培、輸送そして販売に至るまでのバリューチェーンのすべてにおいて、コスト低減効果を生む。」岩佐大輝. “オランダの農業を真似しても日本の農業が強くならない理由.” Yahoo!ニュース. 2014/3/20(木) 18:10. 岩佐は、「オランダは葉物野菜のような日持ちのしない作物を簡単にフランスやドイツなどの土地利用型の農業大国から陸続きで輸入できる」と言っているが、オランダで純輸入額が大きいのは小麦やとうもろこしなどで、葉物野菜は輸出のほうが多い。
  12. Eurostat. “Average utilised agricultural area per holding, 2010 and 2013.” Farm structure statistics. 19 September 2016. Original Data.
  13. Li Weimin. Dutch agriculture through the eyes of a Chinese economist. Report 09-035. ISBN/EAN: 9709-8615-350-3. p.45. Table 2.2
  14. 「日本の場合、国のいろんな支援制度があって、完全には競争していないようにみえます。それが、栽培技術や販売で頑張ろうというインセンティブを働きにくくしていて、経営者が生まれにくい構造がずっとありました。オランダには産業としての農業があります。基本的に補助金はありません。設備投資には補助金が出ないので、銀行からお金を借りるために事業をきちんと説明する必要があります。[…]私がオランダで学んでから15年以上たちました。当時は平均で1ヘクタールぐらいでしたが、いまは7~8ヘクタールになっています。残ったのは、技術的に優れていたり、マネジメント能力が高かったりするころです。競争を通して淘汰されたんです。それがオランダの現実です。」吉田忠則. “日本農業は20年前のオランダに追いつけたのか?.” 『日経ビジネスオンライン』2017年6月16日(金). 久枝和昇に対するインタビュー。
  15. 「注目集まるオランダ農業だが、一方で課題も顕在化してきている。一つ目が過剰生産である。各農家が自ら栽培品目を選択した結果、トマトをはじめとする得意品目への集中が進み過ぎて過剰生産が生じ、価格が低迷したのである。二つ目が他国産との競争激化である。トマトではスペインやポーランドなどの台頭が著しい。特に、露地栽培にIPM(総合的病害虫管理)の導入で、無農薬農産物のニーズに応えるスペインとの価格差は1~2割にまで縮まっている。」三輪泰史. “オランダ農業の強みと課題に学ぶ.” 日本総研ニュースレター. 2013年10月01日.
  16. 「そもそも日本の農業とオランダの農業では、勝負のルールが違うのだ。オランダは徹底的な大量生産によりコスト競争力を高めて対外競争力で勝負する。日本は、国内の繊細でバラエティーに溢れる食文化が求める需要にどれだけニッチに応えられるかで勝負する。日本刀は切り殺す。サーベルは突き殺す。同じ農業生産でもルールが違えば戦い方が異なるのは当たり前だ。」岩佐大輝. “オランダの農業を真似しても日本の農業が強くならない理由.” Yahoo!ニュース. 2014/3/20(木) 18:10.
  17. オランダのトマトは味という点では評価は高くない。“While some good tomatoes are produced for both export and for domestic consumption, “the taste is not always good,” explains Leo Marcelis, a professor of horticulture at Wageningen University and Research.” Olga Mecking. “The Netherlands Can Feed the World. Here’s Why It Shouldn’t What gets lost when we focus solely on increasing food efficiency?YES! Magazine. posted Jan 11, 2018
  18. 農林水産省. “食料自給率とは.” 数字は平成28年度のものである。
  19. 農林水産省. “食料安全保障とは.” 『知ってる?日本の食料事情
  20. Max Roser and Esteban Ortiz-Ospina (2018). “World Population Growth“. Published online at OurWorldInData.org. Original Resource: “World population until 2015 – Our World In Data series.” World population projection 2016 to 2100 is the UN Medium Variant from the 2015 revision published by the UN Population Division.” Licensed under CC-BY-SA.
  21. 温室効果ガスによる地球温暖化が進んでも、各地の気温が同程度に上昇することはなく、高緯度地帯のほうが低緯度地帯よりも上昇幅が大きくなると予想されている。暑い地域がより暑くなるよりも、寒い地域がより暖かくなるのだから、これは農業にとっては好ましいことである。
  22. 気温が上昇すれば、蒸発する水が増えるので、降雨量も多くなる。ただし降雨量が均等に増えることはなく、乾燥地帯はさらに乾燥し、他方で豪雨被害も増えることが懸念されている。しかし、これが温室効果ガスのせいなのかどうかは疑問である。
  23. USDA. “Inflation-adjusted price indices for corn, wheat, and soybeans show long-term declines.” Friday, August 12, 2016.
  24. CRISPR-Cas9(クリスパー・キャスナイン)は、標的遺伝子をピンポイントで編集する技術で、従来の遺伝子組み換え技術よりも簡易かつ短期間でできるために注目され、2012年以降開発が進んでいる。2018年にこの編集技術を使うと、広範囲に及ぶ遺伝子変異を高い頻度で惹き起こすことが指摘された。Kosicki, Michael, Kärt Tomberg, and Allan Bradley. “Repair of Double-Strand Breaks Induced by CRISPR–Cas9 Leads to Large Deletions and Complex Rearrangements.” Nature Biotechnology, July 16, 2018. これは医療の分野では深刻な欠陥だが、人間以外の生物の品種改良では致命的な欠陥ではない。2018年現在、CRISPR-Cas9以外の遺伝子編集技術の開発が進んでおり、今後のこの分野のイノベーションが期待される。
  25. “After steadily declining for over a decade, global hunger is on the rise again, affecting 815 million people in 2016, or 11 per cent of the global population, says a new edition of the annual United Nations report on world food security and nutrition released today.” United Nations World Food Programme. “World Hunger Again On The Rise, Driven By Conflict And Climate Change, New UN Report Says.” 15 September 2017, Rome.
  26. JAグループ. “JAグループの組織事業.” 資料:農林水産省. “統合農協統計表.” 2015年度。統計JA数は、JA全中調べ。
  27. 小泉進次郎 独占インタビュー「農林中金はいらない」.”『週刊エコノミスト』2016年2月2日号.
  28. 「農林水産省は、ロボット技術やICTを活用して超省力・高品質生産を実現する新たな農業(スマート農業)を実現するため、ロボット技術利用で先行する企業やIT企業等の協力を得て平成25年11月に「スマート農業の実現に向けた研究会」を立ち上げ、推進方策等について検討を行っております。」 農林水産省. “スマート農業の実現に向けた研究会.”
  29. 熱は暖房だけでなく、冷房にも使える。海外では、発電、暖房、冷房でトリジェネレーション(Trigeneration)、その三つに加えて、二酸化炭素も利用すると、クアッドジェネレーション(Quadgeneration)と呼ぶことがある。しかし、同じ熱利用を二回カウントすることは適切ではないので、ここでは日本での用法に従うことにする。
  30. 「日本でも、大阪ガスや農業・食品産業技術総合研究機構花き研究所などが、農業トリジェネレーションの導入に取り組んできた。大気中のCO2濃度は、通常360PPM(1PPMは100万分の1)だが、同研究所の実験結果を見ると、CO2濃度を700~1000PPM程度に上げると、葉野菜で25~30%、果物で20%程度、花きでは40%程度の収穫増が認められている。」 日本経済新聞. “進むCO2の農業利用 温暖化の「悪玉」を有用資源に.” 2013/2/20 7:00.
  31. 日本では、冷房や冷凍のために、ガス会社は吸収ヒートポンプを使い、電力会社は圧縮ヒートポンプを使っている。両者には、外部から与える仕事が熱か電気かという違いはあるが、蒸発器で低熱源から熱を奪い、凝縮器で高熱源に熱を与えているという点では同じである。
  32. 東北電力. “ヒートポンプを活用したトマトのハウス栽培に関する研究成果について~冷房・除湿機能を活用し、生産性・収益性の向上を実現~.” プレスリリース. 平成29年5月25日. p.2.
  33. 経済産業省. “CO2回収、利用に関する今後の技術開発の課題と方向性.” 次世代火力発電の早期実現に向けた協議会(第2回)配布資料. 平成27年6月. p.5.
  34. 二酸化炭素(処方箋医薬品以外の医薬品)」in 日本薬局方解説書編集委員会.『第十五改正 日本薬局方解説書』. 廣川書店; 〔机上〕版 (2006/07).
  35. 「琉大工学部の瀬名波出准教授の実験で、バイオガスに含まれる二酸化炭素を抽出し、海水と混ぜ合わせてつくった「CO2溶解海水」を、海藻の生育に活用したところ、成長速度が飛躍的に向上し、従来に比べ最大で4.6倍の成長速度が確認された。」琉球新報. “CO2溶解海水で海藻培養 成長速度4.6倍 沖縄ガス・糸満市・琉大共同研究.” 2016年3月20日 05:03.
  36. 森林面積は、オーストリアが387万ha、日本が2508万ha。木材生産量は、オーストリアが1755万m3/年、日本が2714万m3/年である。農林水産省林野庁.『平成29年度 森林・林業白書』. 平成30年6月1日公表. 資料Ⅰ-6. p.18.
  37. 農林水産省林野庁.『平成29年度 森林・林業白書』. 平成30年6月1日公表. p.18.
  38. 農林水産省林野庁.『平成29年度 森林・林業白書』. 平成30年6月1日公表. 資料Ⅰ-8. p.21.
  39. 農林水産省林野庁.『平成29年度 森林・林業白書』. 平成30年6月1日公表. p.21.
  40. 農林水産省林野庁.『平成29年度 森林・林業白書』. 平成30年6月1日公表. p.22.
  41. JForest 全国森林組合連合会 森林組合のご紹介.” 森林組合系統の事業規模.
  42. 「欧州の主要林業国、オーストリアでは伐採などに使う林業機械の作業員に支払われる人件費は1時間あたり29ユーロ(約3400円)。1日では3万円超にもなり、日本に比べて2倍近いという。」 日本経済新聞. “「今後40年間は有望」説も 持続可能な日本の“もうかる”林業.” 2011/7/4.
  43. 2011年現在、38万m3あたりの林業死亡者数は、オーストリアが0.4人であるのに対して、日本は0.8人である
  44. 宇賀神 宰司. “「もうからない林業」でしたたかに稼ぐ人たち.” 『日経ビジネスオンライン』2017年3月7日(火).
  45. 産経ニュース. “規制改革会議 公共電波開放・待機児童解消・林業の成長産業化に重点.” 2017.9.12 07:15.
  46. 農林水産省林野庁.『平成29年度 森林・林業白書』. 平成30年6月1日公表. p.25.
  47. 衆議院. “森林経営管理法案.” 第一九六回国会. 閣第三八号.
  48. 財務省. “税制改正の概要.” 平成29年12月22日閣議決定。ただし、森林環境税は、平成36年度から課税される予定である。総務省. “平成30年度地方税制改正(案)について.”
  49. 49.0 49.1 農林水産省. “森林経営管理法案の概要.” 第196回国会(平成30年 常会)提出法律案(閣第三八号). 成立日:平成30年5月25日.
  50. 農林水産省林野庁.『平成29年度 森林・林業白書』. 平成30年6月1日公表. p.17. 資料:農林水産省「森林資源の循環利用に関する意識・意向調査」(平成27(2015)年10月).
  51. 「アンケート結果では、7割の人が「主伐を実施する予定はない」と回答している。ところが、その後の項目では、この回答をした人に、「主伐を実施しない理由」について複数回答可で再質問している。その結果は、「主伐を行わず、間伐を繰り返す予定であるため」との回答が58%で最も高かったのだ。林野庁の資料では、この回答がまったく無視されていた。」 西岡千史. “「データ捏造」疑惑が浮上した森林環境税関連法 モリカケ追及の裏であっさり衆院通過.” AERA dot. 2018.4.23 09:26.
  52. 農林水産省林野庁.『平成29年度 森林・林業白書』. 平成30年6月1日公表. 資料Ⅰ-3. p.16. 資料:林野庁「森林資源の現況」(平成24(2012)年3月31日現在).
  53. Stephenson, N. L., A. J. Das, R. Condit, S. E. Russo, P. J. Baker, N. G. Beckman, D. A. Coomes, et al. “Rate of Tree Carbon Accumulation Increases Continuously with Tree Size.” Nature 507, no. 7490 (March 2014): 90–93.
  54. 「スギ 72 本、ヒノキ 80 本の樹幹解析を行った。解析結果をもとに、連年材積成長量と平均材積成長量を比較した結果、スギ、ヒノキともほとんどの個体は高齢でも平均材積成長量が増加することを確認した。スギの劣性木については、一部、平均材積成長量が連年材積成長量より小さい値を示した。ヒノキについては優勢木から劣性木まで、70 年生以降も平均材積成長量が増加する傾向を示した。以上より、スギに関しては劣性木を除けば林齢約 140 年生まで、ヒノキに関しては 80~100 年生まで、各個体の成長が期待できると考えられた。」 高齢林の林型および成立条件に関する研究会.「高齢林の林型および成立条件に関する研究会報告書」p.4. スギの劣性木は間伐すればよいので、主伐期はこれを除外して設定できる。
  55. 「スギ3m材および4m材の径級別価格は、平成18年度から同27年度までのすべての年度において、大径材が小・中径材よりも高値で取引されていた。[…]今後も大径材の取扱量は増加傾向で推移し、さらに高価格で取扱われていくものと考えられる。」亀山翔平, 井上公基, 吉岡拓如. “木材市場における取扱量の変化について~ 大径材の動向~.” 日本森林学会大会発表データベース 第 127 回日本森林学会大会, p. 221. 日本森林学会, 2016.
  56. こうした批判を受けて、林野庁は、資料にあった「8割の森林所有者は森林の経営意欲が低い」を「約8割の森林所有者は経営規模を拡大する意欲が低い」に修正した。西岡千史. “「データ捏造」疑惑が浮上した森林環境税関連法 モリカケ追及の裏であっさり衆院通過.” AERA dot. 2018.4.23 09:26.
  57. 57.0 57.1 衆議院. “森林経営管理法案.” 第196回国会(平成30年 常会)提出法律案(閣第三八号). 成立日:平成30年5月25日.
  58. 農林水産省林野庁.『平成29年度 森林・林業白書』. 平成30年6月1日公表. 資料Ⅰ-5. p.17. 資料:林野庁「森林資源の現況」(平成24(2012)年3月31日現在).
  59. 林野庁. 「主伐の立木販売収入は育林経費を下回る」in『平成24年度 森林・林業白書/第1部 第V章 第1節 林業の動向(1)林業生産の動向. 平成25年6月7日公表.
  60. 「パリ協定の枠組みの下におけるわが国の温室効果ガス排出削減目標の達成や災害防止等を図るため、森林整備等に必要な地方財源を安定的に確保する観点から、次期通常国会における森林関連法令の見直しを踏まえ、平成 31 年度税制改正において、森林環境税(仮称)及び森林環境譲与税(仮称)を創設する。」総務省.「平成 30 年度地方税制改正(案)について 」平成 29 年 12 月.
  61. 林野庁.「平成30年度林野庁予算概算要求の概要について」. 平成29年9月.
  62. 衆議院. “閣法 第196回国会 38 森林経営管理法案.” 議案審議経過情報. 賛成会派:自由民主党; 立憲民主党・市民クラブ; 希望の党・無所属クラブ; 公明党; 無所属の会; 日本維新の会; 自由党; 社会民主党・市民連合
  63. 参議院. “森林経営管理法案(内閣提出、衆議院送付)本会議投票結果.” 第196回国会 2018年 5月 25日 投票結果. 希望の会のうち、反対したのは自由党系の議員である。それ以外は、無所属を含めて反対した議員はいない。
  64. 農林水産省林野庁.『平成29年度 森林・林業白書』. 平成30年6月1日公表. p.11. 大正10(1921)年までは、薪炭材の材積は「1棚=100立方尺=2.7826㎥」、用材の材積は「1石=0.27826㎥」(明治44(1911)年のデータはそれぞれ、「1棚=108立方尺」「1尺〆=0.33392㎥」)で換算。資料:林野庁「林業統計要覧」、農商務省「農商務統計表」.
  65. ドイツでは、連邦政府の研究機関(Johann Heinrich von Thünen-Institut)に加え、州政府の研究機関が、研究、技術開発および育種事業を行っている。オーストリアでも連邦政府の森林・自然災害・景観研究研修所(Bundesforschungs- und Ausbildungszentrum für Wald, Naturgefahren und Landschaft)が同様の仕事をしている。
  66. Lienhard Schulz. “Dauerwaldrevier Bärenthorener Kiefernwirtschaft, Lehrpfad. Das Revier wurde 1884 von dem Kammerherrn und Forstmann Friedrich von Kalitsch begründet. Bärenthoren ist ein Ortsteil der Gemeinde Polenzko im Naturpark Fläming und gehört zur Verwaltungsgemeinschaft Elbe-Ehle-Nuthe im Landkreis Anhalt-Bitterfeld in Sachsen-Anhalt.” Licensed under CC-BY-SA.
  67. 「一番重要なのは、天然林施業が経営として成り立つかどうかである。用材林として経営するのなら、より目標林型はシビアなはずであり、それに対する育林コストも高くなるはずである。一方、公益的機能林として経営するのであれば、機能発揮に対する負担金が得られるのかどうか、またその維持に関してもコストは発生し続けるという点を考慮しておかねばならない。」 田内裕之.「天然更新や天然林施業はどこまで可能なのか」持続可能な森林経営研究会第1回セミナー. 2008年10月7日.
  68. 田中淳夫. “高値の木を捨てている…。日本の林業現場の実情.” Yahoo!ニュース. 2018/6/19(火) 9:53.
  69. 日本経済新聞. “木材使った新建材 購入補助 政府、国内林業後押し.” 2018/3/29 13:00. 全額補助では、生産者にコスト低減のインセンティブが働かない。ヨーロッパから輸入するCLTの価格は、日本の半額程度で、しかも日欧EPAにより木材への関税が撤廃されるので、補助金制度終了とともに、国産CLTは売れなくなるだろう。林業経営をヨーロッパ型に変換しなければ、ヨーロッパとの競争に勝つことはできない。
  70. 「KEBONYとはソフトウッドをハードウッドにする技術を言います。成長の早い森林から計画的に伐採されたソフトウッドの細胞組成に働きかけ性質を変化させます。木材は茶褐色化、比重が高まり、寸法が安定し、硬化すると同時に耐腐朽性が飛躍的に向上します。国産杉、檜でも試験後同等の性能変化が確認されています。」フジグループ・アンド・アソシエイツ株式会社. “KEBONY ブランド紹介.” BARCELONA TRADE.
  71. “表層圧密テクノロジー「Gywood®」は、スギやヒノキ、アカマツなど、軟らかいとされる針葉樹の無垢材の表層部を特に高密度化することで、素材としての硬さや強度を向上させ、更に一般的な無垢材と比べて形状安定性を高めることに成功した「無垢の新素材」です。針葉樹の美しい木目の意匠や、質感、風合いを保ちつつ、表面をほどよい硬さにしています。針葉樹の弱点であった傷つきやすさを克服しつつも、内部は針葉樹の軟らかさをそのままとし、キズに強くて、軽い素材となっています。” ナイス株式会社. “ナイスグループ 大径材の活用による内装の木質化を提案.” 『ナイスビジネスレポート』2018年(平成30年)4/15号.
  72. メルビル. “ドイツ産の松(パイン)材のフローリング。長さ4mソリッド幅広。” Licensed under CC-BY-SA.
  73. NPO法人持続可能な環境共生林業を実現する自伐型林業推進協会. “山林を所有しない移住者や地域住民はできないの?.” Q&A. 2016.3.17.
  74. 中嶋健造. “普及開始すると林業界からは強烈な逆風(批判等)を受け続けるが、これがその後の展開の基礎となり、チャンスへと発展.”『土佐の森から~未来へのたより』NHK 地域づくり情報局. 2016年06月09日 (木).
  75. 中嶋健造. “木質バイオマスによる林地残材収集システムが自伐林業者を表舞台に.”『土佐の森から~未来へのたより』NHK 地域づくり情報局. 2016年07月15日 (金).
  76. “実験事業の終了後、平成22年度から仁淀川町の委託によりNPO法人土佐の森・救援隊が発電&ペレット製造プラントの管理・運営を行うことになりました。「仁淀川町地域木質バイオマス資源活用事業所」(所長は片岡正法氏)を立ち上げ、常勤6名、非常勤8名、及び多くの土佐の森グループの会員がボラバイトで、2年間にわたりプラントを経営しました。経済的にも技術的にも大変難しく、且つ大きな財務的なリスクを伴う厳しい経営を強いられる木質系バイオマスプラントの管理・運営を、ほぼ完璧に計画どおり完遂させました。” NPO法人土佐の森・救援隊. “活動拠点の変遷.” 2017-05-10 01:03.
  77. 総務省. 「評価の結果及び勧告」in『バイオマスの利活用に関する政策評価』. 平成23年2月15日. p.271.
  78. Guillaume Paumier. “Naoto Kan at the 37th G8 Summit in Deauville.” Taken on May 27, 2011. Licensed under CC-BY.
  79. 「4月26日から林業視察にドイツに出かけ、今日帰国。ドイツ南部の黒い森と呼ばれる森林地帯を中心に、フォレスター(森林官)を養成する専門大学、森林伐採現場、製材所、工務店などを視察した。民有林についても経営指導しているフォレスターの役割など、日本の林業再生プランを作るうえで大変参考になった。」 菅直人. “ドイツ林業視察.” 2007年5月 2日 00:00.
  80. 「昨年の5月の連休にはドイツの黒い森の周辺に林業の視察に出かけた。その時、驚いたのはドイツの木材まで日本が輸入しているということ。1万キロはなれ、賃金水準も変わらないドイツの木材がなぜ日本の国産材との競争に勝つのか。全ては日本の林業の生産性の低さに原因がある。」 菅直人. “林業再生.” 2008年7月27日 12:57.
  81. 経済産業省エネルギー資源庁. “なっとく!再生可能エネルギー 固定価格買取制度.” 買取価格・期間等(平成24年度~28年度).
  82. 経済産業省エネルギー資源庁. “なっとく!再生可能エネルギー 固定価格買取制度.” 買取価格・期間等(2018年度以降).
  83. 産経ニュース. “バイオマス発電「第2のバブル」計画相次ぎ買い取り費用急増 国は制度変更検討.” 2018.2.11 21:43.
  84. “Die milliardenschwere Förderung „grünen“ Stroms in Deutschland hat praktisch null Klimaschutzwirkung, führt aber zu einem gefährlich steigenden Strompreis.” Justus Haucap. “Deutschlands teurer Energie-Irrweg.” Frankfurter Allgemeine Zeitung GmbH. 2017-06-26.
  85. 中国による輸入禁止でプラスチックのマテリアル・リサイクルが危機に直面している。「中国のリサイクル業者が日本に拠点を移す動きはほかにもある。ただ、国内の廃棄物をすべて処理することはできない。」 日本経済新聞. “廃プラ「捌ききれない」中国輸入規制で行き場なく.” 2018/7/22 15:02. プラスチックをはじめとする石油化学製品は、石炭やバイオマスと化学的組成が似ているので、一緒に混焼すればよい。
  86. 石炭火力発電が副産物として生み出す石炭灰は、カリウムとリンを含むため、従来より、セメントや建築資材として使われる以外に、肥料としても使われていた。リンは、動物、特に魚やクジラの骨と内臓に多く含まれる。窒素は、家畜や人間の糞尿に含まれる。窒素、リン、カリウムという肥料の主要要素以外の元素も、動植物の死体や排泄物には適量含まれている。
  87. “Cyclic variations in CO2 and CH4 driven by Earth-orbital changes during the last 350,000 years predict decreases throughout the Holocene, but the CO2 trend began an anomalous increase 8000 years ago, and the CH4 trend did so 5000 years ago.” Ruddiman, William F. “The Anthropogenic Greenhouse Era Began Thousands of Years Ago.” Climatic Change 61, no. 3 (December 1, 2003): 261–93.
  88. “The prediction revealed increasing phase separation in cycle 25 and 11 year phase between these waves in cycle 26, e.g. these two waves become separated into the opposite hemispheres. We predict that this will lead to a significant reduction (more than 60%) in solar activity in cycle 26 compared to current cycle 24. These cycle s 25-26 will have the properties of a “Maunder minimum”.” Zharkova, V. V., et al. “Irregular heartbeat of the Sun with Principal Component Analysis and prediction of solar activity”. Press-release on the research reported at National Astronomy Meeting 2015 (Landudno). Cf. “Diminishing solar activity may bring new Ice Age by 2030.” Astronomy Now 17 July 2015.
  89. Kitiashvili, Irina N. Collins. “Using Data Assimilation Methods of Prediction of Solar Activity.” Solar Heliospheric & Interplanetary Environment (SHINE) 2017 Workshop; 24-28 Jul. 2017; Saint-Sauveur, Quebec; Canada.
  90. 「国連の気候変動に関する政府間パネルは、現状の温暖化ガスの排出ペースが続くと2040年ごろの気温上昇が産業革命前より1.5度に達するとの予測をまとめた。猛暑や豪雨が増加するほか海面上昇も高まり動植物の絶滅などにつながると分析。温暖化の被害を抑えるには、今世紀半ばまでに温暖化ガスの排出を「実質ゼロ」にする経済活動などの変革が必要だとした。」 日本経済新聞. “2040年1.5度上昇、進む温暖化 IPCC予測、猛暑や豪雨多発.” 2018/7/24付朝刊.
  91. 山内正敏. “猛暑の原因に関する3つの誤解 【再掲】.” WEBRONZA. 2018年07月20日.
  92. 水産庁.『平成29年度 水産白書』. 第196回国会提出. p.67. 図Ⅱ-2-2. 資料:農林水産省「漁業産出額」。
  93. 水産庁.『平成29年度 水産白書』. 第196回国会提出. p.97. 図Ⅱ-3-1. FAO「Fishstat(Capture Production、Aquaculture Production)」(日本以外の国)及び農林水産省「漁業・養殖業生産統計」(日本)に基づき水産庁で作成
  94. 八木 信行.『食卓に迫る危機 グローバル社会における漁業資源の未来』. KS科学一般書. 講談社 (2011/12/23). p.62.
  95. FAO. The State of World Fisheries and Aquaculture 2018: Meeting the Sustainable Development Goals. Food & Agriculture Org. (2018/7/31). p.185. TABLE 22. PROJECTED FISH PRODUCTION, 2030 (live weight equivalent).
  96. 武田 健太郎. “ジム付き漁船、ノルウェーの贅沢な漁師たち.” 『日経ビジネスオンライン』2017年8月31日(木).
  97. 水産庁.「ノルウェーの漁業及び漁業管理について.」 “資源管理のあり方検討会.” 資料3-1. 平成26年4月18日.
  98. 98.0 98.1 98.2 鈴木宣弘. “亡国・売国の漁業権開放.” 『農業協同組合新聞』2017.08.29.
  99. 佐藤力生は、昭和51年4月に水産庁に入庁(国家公務員上級職:水産)し 、平成24年3月に水産庁を定年退職している。佐藤力生. “プロフィール.”『本音で語る資源管理』.
  100. 佐藤力生. “資源爆食漁業国ノルウエーは日本漁業のモデルにならない(後編).”『本音で語る資源管理』. 2018年7月25日 .
  101. 水産庁.「水産物貿易をめぐる国際情勢」in『平成29年度 水産白書』. 第196回国会提出. p.103.
  102. 米国は、深海海底開発の条項が途上国よりであることを不服として、現行の国連海洋法条約を締結していない(それ以外は実質的には遵守している)。影響力の大きい大国には、条約改正をきっかけに、国際的な枠組みに入ってもらいたいところだが、パリ条約からも脱退したトランプ政権なら、難しいだろう。非締結国に対しては、その国の漁業からの輸入に税金を課し、その金で非締結国に代わって漁業権を購入すれば、非締結国のフリー・ライドを防ぐことができる。
  103. “We report here that the addition of nmol amounts of dissolved iron resulted in the nearly complete utilization of excess NO3, whereas in the controls—without added Fe—only 25% of the available NO3 was used. We also observed that the amounts of chlorophyll in the phytoplankton increased in proportion to the Fe added. We conclude that Fe deficiency is limiting phytoplankton growth in these major-nutrient-rich waters.” Martin, John H., and Steve E. Fitzwater. “Iron Deficiency Limits Phytoplankton Growth in the North-East Pacific Subarctic.” Nature 331, no. 6154 (January 1988): 341–43.
  104. “Our results present satellite-based fluorescence as a valuable tool for evaluating nutrient stress predictions in ocean ecosystem models and give the first synoptic observational evidence that iron plays an important role in seasonal phytoplankton dynamics of the Indian Ocean.” Behrenfeld, M. J., T. K. Westberry, E. S. Boss, R. T. O’Malley, D. A. Siegel, J. D. Wiggert, B. A. Franz, et al. “Satellite-Detected Fluorescence Reveals Global Physiology of Ocean Phytoplankton.” Biogeosciences 6, no. 5 (May 8, 2009): 779–94. Fig.4. p.785. Licensed under CC-BY.
  105. “Give me a half tanker of iron, and I will give you an ice age.” in a lecture at the Woods Hole Oceanographic Institution in July 1988. Cf. John Weier. “John Martin.” July 10, 2001.
  106. “Using various carbon cycle models, we find that if 20% of the world’s surface ocean were fertilized 15 times per year until year 2100, it would reduce atmospheric CO2 by ≲15 ppmv at an expected level of ∼700 ppmv for business‐as‐usual scenarios.” Zeebe, R. E., and D. Archer. “Feasibility of Ocean Fertilization and Its Impact on Future Atmospheric CO2 Levels.” Geophysical Research Letters 32, no. 9 (May 1, 2005).
  107. 自然状態でも、微生物が有害物質を分解する場合もあるが、それが難しい場合もある。例えば、PCB(カネミ油症事件の原因となったダイオキシン)は、自然界では微生物による分解は難しい。しかし、紫外線による脱塩素処理を行えば、微生物による分解が可能になる。だから、微生物の力を借りるにしても、人為的に無毒化をすることが必要である。
  108. 日本経済新聞. “近大、次はタイ ゲノム編集で肉厚「マッスルマダイ」高級魚、量産にメド.” 2018/7/25.
4月 232018
 

永井は日本では比較的ありふれた名字で、その先祖は様々である。永井氏の中でも、永井直勝(なおかつ)を初代とする江戸時代の家系が、明治以降、永井荷風や三島由紀夫を輩出して有名であるが、私の家系は、そうした長田氏が改姓した永井氏ではなくて、大江広元の次男を初代とする長井氏の末裔であるようだ。

1 : ルーツ探しのきっかけ

1977年10月、まだ小学生であった私は、父と一緒に『ルーツ』というテレビドラマを見た。このドラマで、アフリカ系米国人作家、アレックス・ヘイリー[1]は、西アフリカのガンビアで生まれ、米国に奴隷として売られたクンタ・キンテを自分の祖先として探し当てた。放送後、日本では自分のルーツ探しが流行し、私の家でも、永井家の先祖が誰なのかを探ろうということになった。

後日、父方の祖父と会食する機会があり、その時、永井家の先祖はどういう人だったのかと尋ねた。すると、祖父はニコニコしながら、先祖は梅月(うめづき)氏という長州藩の藩士で、幕末に藩の金を横領して、大坂に逃げ込み、正体を偽るために永井氏を名乗ったと語った。私はその話を聞き、自分は犯罪者の子孫なのかと衝撃を受け、こんなことなら、先祖の話など聞かなければよかったと後悔したものだった。

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右側は、小学生の頃の私と祖父、永井義凞(よしひろ)。左側は私の母と妹。

もとより、私の伯父は、祖父の伝承に懐疑的だった。伯父の従兄弟(祖父の妹の子)は、山口県周防大島町(すおうおおしまちょう)の安下庄(あげのしょう)にある長州藩からもらったとされる土地の一部に今でも住んでいる。藩の金を横領するという大罪を犯した藩士の一族が土地をもらうということはありえないと言うのだ。

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安下庄の位置[2]。赤色は山口県内の市、肌色は町。

そこで事の真相を知ろうと、父と伯父たちは、2017年4月に安下庄に住む従兄弟の家を訪れ、話を伺い、長州藩の藩士であった永井家の先祖は、廃藩置県により禄の支給が停止され、代わりに、周防山口藩大島郡安下庄村に土地を得たが、これだけでは収入が不十分であったため、「梅月」という屋号で海運業を行ったということを知った。

安下庄には、以下の写真に見られるとおり、今も「永井家累代之墓」がある。この墓碑銘からもわかる通り、「永井」は、大坂への逃亡時に捏造された姓ではない。

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山口県周防大島町の安下庄にある永井家累代之墓。2017年4月26日に、父(永井建哉)が撮影。

また、長州藩には、梅月という名字の藩士は、陪臣を含めていない。やはり祖父の由来譚は正しくなかった。ならば、あの「藩の金を横領して云々」はどこから出てきたのか。祖父が孫をからかうためにジョークで創作したのかどうかはわからないが、疑うことを知らないナイーブな子供にとっては酷な話だ。

「梅月」という屋号の由来もよくわからないが、ひょっとすると、梅月堂宣阿(せんあ)という歌号を持つ香川宣阿に由来するのかもしれない。私の父方の祖母も、和謡の芸名として梅月を名乗っていた。香川宣阿は、吉川家家老の香川正矩(まさのり)の次男として生まれた周防岩国の藩士で、貞享4年(1687年)に出家したのを契機として歌人に転じ、歌道の二条派地下宗匠(じげそうしょう)として梅月堂を創始した。吉川家は毛利家と姻戚関係にあり、吉川氏の居城であった岩国城は、大島の近くにある。

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岩国城天守。2017年4月26日永井建哉撮影。

2 : 大江姓永井氏の系譜

長州藩に「ながい」という名字の藩士が多数いたことは『防長風土注進案』で確認することができる。ただし、当時は「永井」よりも「長井」と表記されることが多かった。『防長風土注進案』とは、天保12(1841)年に藩主毛利敬親(たかちか)が命じて作成させた長州藩の地誌で、そこでは、在郷藩士と陪臣(藩士の家来)として、以下のような長井(永井)氏がいたことが確認される[3]

防長風土注進案に掲載されている長井(永井)氏
氏名巻数住所身分
永井 平左衛門4巻前山代宰判 廣瀬村萩藩士(御筒通)
長井 織之助7巻熊毛宰判 呼坂村萩藩士
永井 利助7巻熊毛宰判 三丘之内八代村萩藩陪臣(宍戸孫四郎)
長井 小平太9巻三田尻宰判 上 植松村萩藩士
長井 忠左衛門12巻山口宰判 上 吉敷村萩藩陪臣(毛利蔵主)
長井 十太郎15巻舟木宰判 小野 檪原萩藩士
長井 新左衛門17巻美祢宰判 長田村萩藩陪臣(毛利蔵主)
永井 伊兵衛19巻前大津宰判 深河村萩藩陪臣(山内采女)

長州における長井氏のルーツは、長井時広(ときひろ)、初名、大江祝弘(おおえときひろ)にあることが知られている。なお、大江が姓(かばね)であるのに対して、長井は、本貫地(氏族の発祥の地)に由来する名字(苗字)であるので、厳密にいえば、時広は、大江姓永井氏ということになる。

大江姓は、菅原姓と同様に、古代の技術者氏族だった土師連(はじむらじ)を源流とする。桓武天皇の時代に土師諸上(もろがみ)らに大枝(おおえ)の姓が与えられ、音人(おとひと)の時、大江に改められた。大江姓の氏族は、菅原姓の氏族と同様、紀伝道の分野で活躍する文人を多く輩出した。大江雅致の娘、和泉式部のような著名な歌人もいる。政治家として大成した者は少ないが、例外として、鎌倉幕府政所初代別当となった大江広元を挙げることができる。

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大江広元像[4]。明治時代の作。

大江祝弘は、大江広元の次男で、出羽国(現在の山形県と秋田県)置賜(おきたま)郡長井荘を所領としたため、長井氏を称した。1221年の承久の乱で、兄の大江親広(ちかひろ)が朝廷側について失脚した後、兄に代わって大江氏の惣領となり、後に備後国(現在の広島県東部)守護職となった。

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現在の山形県における長井市の位置[5]。戦国時代には、置賜地方全体が長井荘と呼ばれていた。

大江広元の三男、大江宗元(むねもと)は、上野国那波郡を領有して、那波氏(なわし)を称し、四男、大江季光(すえみつ)は、相模国愛甲郡毛利庄を相続し、毛利氏を称するようになった。毛利(大江)季光は、宝治合戦で北条氏に反旗を翻して、敗れ、毛利一族は危機に瀕したが、同族の長井氏の尽力により、越後にいた季光の四男、経光(つねみつ)は、越後国佐橋荘と安芸国吉田荘の地頭職を安堵された。経光は、嫡男毛利基親(もとちか)に佐橋荘を譲り、四男時親(ときちか)に吉田荘を譲った。毛利氏と長井氏との相互に支えあう関係は、江戸時代まで続く。

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大江広元の子孫と長井氏の系図[6]

1241年7月8日に長井時広が没すると、嫡男長井泰秀(やすひで)が出羽長井荘を、次男長井泰重(やすしげ)が備後守護を継承した。泰秀の一流は関東評定衆に補任され、関東譜代の重臣となり、泰重の一流も、六波羅評定衆に補され、備前と備後の守護職に補された。鎌倉幕府滅亡時には、広秀(ひろひで)と挙冬(たかふゆ)は、幕府の要職を務めていたのにもかかわらず、腐敗していた北条氏を見捨て、後醍醐天皇方についた。その後、建武の新政にも失望し、足利尊氏(北朝)についたが、南朝についた伊達氏によって出羽長井荘を奪われ、衰退した。これに対して、泰重の子、重広(しげひろ)と頼重(よりしげ)の子孫は、北朝につきつつも、それぞれ備後国甲奴郡田総庄(こうぬぐんたぶさしょう)を本貫とする田総氏、備後国世羅郡上山郷(せらぐんかみやまごう)を本貫とする上山氏として、備後国内の領地を守った。

戦国時代に安芸国で毛利氏が台頭すると、田総氏や上山氏など、長井氏は、同族である毛利氏の家臣となる。毛利元春の五男、毛利広世(ひろよ)は、長井泰茂(長井時広の子)の曾孫である長井貞広(さだひろ)の養子となり、安芸国内部荘福原を本願としたことから、福原(ふくばら)広世を名乗り、福原氏の祖となった。有名な戦国武将、毛利元就の母も、福原広世の孫である福原広俊(ひろとし)の娘である。このため、福原氏は後に長州藩家臣団の中でも名門となる。

上山氏も田総氏も、備後を拠点としてきたが、関ケ原の合戦後、西軍の総大将となっていた毛利氏は防長に移封され、それとともに家臣であった長井氏たちは、鎌倉時代以来の故郷である備後を去って萩に移ることになった。この時の事情は、田総長井氏が建立した菩提寺、龍興寺に伝わる「永井氏由来」という書状集から窺い知ることができる。

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広島県庄原市総領町稲草の龍興寺に伝わる「永井氏由来」[7]。「長い」と「永い」は意味がほぼ同じで、ここに見られるとおり、「永井」は「長井」と同じように使われていた。

3 : 長井雅楽の航海遠略策

長州藩における長井(永井)氏の中で最も有名なのは、幕末に登場した長井雅楽(うた)である。母が福原氏という名門で、早くから知弁をもって知られ、小姓から奥番頭に進み、安政5(1858)年5月には、長州藩の重役である直目付となる。文久元年(1861年)に、開国と公武合体を提唱した「航海遠略策」を藩主に建白し、これが藩主に受け入れられて藩論となった。

当時の日本、特に長州では、日米修好通商条約をはじめとする不平等条約を列強と勅許なしに締結した幕府に対する不満が鬱積しており、条約を破棄し、天皇を尊び、外国人を追い払えという尊王攘夷の機運が盛り上がっていたが、雅楽は、破約攘夷は列強との戦争になるとしてこれに反対した。そもそも鎖国は島原の乱以降に幕府が始めた三百年の歴史しかない掟に過ぎず、天皇家の勢いが盛んであった平安時代以前においては、朝廷は外国と積極的に交流していた。開国を機に積極的に航海を行って、通商で国力を高め、皇威を世界に広げることこそ先祖に対する孝であると雅楽は主張した。

これは朝廷にとっても幕府にとっても受け入れやすい正論で、権大納言正親町三条実愛、孝明天皇、老中久世広周、安藤信正から賛同を得ることができた。翌年、雅楽は、公武間周旋の功により、陪臣ながら中老となった。ところが、文久2年1月(1862年2月)に、安藤信正が坂下門外の変で失脚したことで、後ろ盾を失い、さらに、久坂玄瑞や木戸孝允(桂小五郎)ら、長州の尊王攘夷派により、「航海遠略策」に朝廷を誹謗する文言があると讒言され、雅楽は失脚した。文久3年2月6日(1863年3月24日)に、藩主から切腹を命じられ、45歳で没した。

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長井雅楽と辞世の句「今さらに何をか言わむ代々を経し君の恵みにむくふ身なれば」[8]

長井の失敗は、辺境革命論で説明できる。革命は辺境から起きるのであって、中心からは起きない。明治維新も、長州藩や薩摩藩といった日本の辺境に位置する外様大名から、それも中下級武士という藩の辺境から始まって中心たる幕府を倒した。長井は、長州藩、朝廷、幕府の首脳部を説得することで改革を成し遂げようとした。平時なら、政治の中心を説得させることで改革は成功するのだが、幕末の激動期では、長井のような頭でっかちは足元をすくわれて転んでしまう。長井は学者肌の上級武士で、中下級武士や庶民と徒党を組んで政治運動を起こすようなタイプではない。この点で、辺境から革命を起こそうとした松下村塾の塾生たちの方が革命の担い手としてふさわしかったということができる。

もとより長井が主張したことは理論的には正しかった。長井を失脚させた攘夷論者が間違いであることは、長井切腹後に起きた下関戦争で判明した。長州藩の惨敗に終わったこの戦争の後、長州藩の攘夷論者は、武力で列強を排除することは不可能であると悟り、武力の対象を幕府へと切り替える。こうして戊辰戦争が始まるのだが、その前に、徳川を排除しない新政府を提唱する公議政体論者たちの模索があった。坂本龍馬とともに徳川慶喜を中心にした新政府を構想した永井尚志もその一人だ。

4 : もう一つの大江姓永井氏

江戸時代で最も有名な永井氏といえば、松平広忠と徳川家康に仕えた長田重元(おさだしげもと)の子孫である。特に重元の子直勝は、小牧・長久手の戦いで、池田恒興を討ち取る大功を挙げた。ところが、長田氏は、平治の乱で敗走した主君源義朝を弑した桓武平氏長田忠致の兄弟、親致の子孫で、源氏の仇であり、このため源氏の家康が直勝に祖先と縁がある大江姓永井氏への改姓を命じたと伝えられる[9]。どういう縁かは不明であるが、重元の祖父の母が那波氏の娘であったとか、重元自身が長井時千の末裔で、長田家の養子になったとかといった関係が考えられている[10]

江戸時代になると、永井直勝が七万石の譜代大名となり、子の尚政が老中になるなど、永井氏一族は繁栄した。特に幕末に活躍したのは、永井尚志(なおゆき)である。尚志は、早くから開国を主張し、同じく海軍奉行を務めた勝海舟とともに開明派幕臣として知られていた。旗本の養子でありながら、若年寄にまで出世し、土佐の後藤象二郎による将軍慶喜への大政奉還建白を周旋した。慶喜は、大政奉還を受け入れ、これにより薩長は討幕の大義名分を失った。平和裏に新政府を発足させようとする土佐藩の目論見は成功するかに見えた。

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永井尚志[11]。三島由紀夫は、尚志の曾々孫にあたる。

尚志は、慶応3年11月15日(1867年12月10日)に暗殺される前の坂本龍馬と頻繁に会っている。龍馬は、尚志とは「ヒタ同心にて候」、つまり土佐藩が目指した方向で完全に意見が一致していると書簡に記しており、慶喜を中心にした新政府を樹立することで合意していたようだ。ところが、尚志の屋敷の隣の寺には、京都見廻組の佐々木只三郎が住んでいて、竜馬が日中に尚志の屋敷を訪れたために、その居場所が佐々木の知るところとなった。このため、竜馬は佐々木たち京都見廻組によって殺されたと考えられている[12]

竜馬暗殺後の慶応3年12月9日(1868年1月3日)、薩摩藩の討幕派は、王政復古の大号令を朝廷に発せさせて、慶喜排除を図った。慶応3年12月25日(1868年1月19日)に庄内藩による江戸薩摩藩邸の焼討事件が起きると、旧幕府軍と薩摩軍の関係が悪化し、慶応4年1月3日(1868年1月27日)には鳥羽・伏見の戦いが始まる。そして、その後の戊辰戦争で佐幕派は新政府軍に完敗し、尚志と竜馬による慶喜中心の近代政府構想は夢に終わった。

幕末において、将来の日本の政治をどうするかに関しては三つの立場があった。一つは、幕藩体制をできるだけ維持しようとする守旧的な佐幕派、もう一つは新政権から徳川家を完全に排除しようとする討幕過激派、そして三つ目は、徳川家を排除することなく、挙国一致で新しい天皇中心の国家を樹立しようとする公議政体論派である。長井雅楽と永井尚志という二人の「ながい」が、長州藩藩士と幕臣という敵対する立場の違いを超えて目指したのは、オールジャパンで敗者なき近代化を実現するという第三の道だった。

長州藩と薩摩藩は第三の道を選ぼうとしなかった。両藩は関ケ原の戦いでの負け組であり、江戸時代においては外様大名としての不遇を託ってきた。明治維新は、勝ち組になる絶好の機会であり、その機会を逃す理由はない。しかし、薩長が勝ち組となって藩閥政治を行ったことで、新たに旧賊軍として負け組となった東北人の不満が高まり、その不満が、昭和における革新勢力の台頭、満州事変以降の無謀な国際秩序への挑戦につながる。同じ永井だからといって贔屓するつもりはないが、薩長両藩の私怨と私益を度外視して考えるなら、敗者なき近代化を実現するという第三の道を選んだ方が、その後の日本にとって良かったのではないだろうかと思う。

5 : ルーツ探しの限界

話を本題のルーツ探しに戻そう。幕末から明治にかけての長州藩の家臣の実態を知るには、マツノ書店が出版した『萩藩給禄帳』を参照するとよい。本書は、萩藩(長州藩)家臣の知行高を記した分限帳と無給帳のうち、安政2~6年(1855~1859年)版と最後の明治3年(1870年)版を対応させたものである[13]

分限帳においては上中級家臣への給付が禄高で記録され、無給帳においては下級家臣への給付が扶持米(ふちまい)や銀で記録されている。但し、禄高で記録されているからといって、地方(ぢかた)知行、すなわち、実際に土地を給付され、その地を支配しているとは限らない。中には知行地を藩へと返上し、代わりに蔵米(くらまい)の給付を受ける蔵米知行の者もあった。

廃藩置県に伴って禄の支給を停止され、代わりに、大島郡安下庄村に土地を得たということは、地方知行ではなかったということである。しかし、だからといって、無給帳に記載されているとは限らず、分限帳に掲載されている可能性もある。『萩藩給禄帳』には、以下の九世帯が長井氏を名乗っており、このうち、毛利氏の直属の家臣であった大組には土地が与えられたが、遠近附(馬廻通)と膳夫(料理人)は無給、つまり土地が与えられなかった。 

萩藩給禄帳に記載されている長井氏一族(数字は当時の年齢)
階級安政2~6年(1855~1859年)明治3年(1870年)
大組(繁沢組)長井隼人 37(嫡:与之助)長井小介 22
大組(手廻組)長井弥二郎 59(嫡:官三郎、主一郎)長井官三郎 51(嫡:主一郎)
大組(熊谷組)長井次郎兵衛 64(嫡:忠次郎)長井幾之進 23(嫡:巳之助)
大組(熊谷組)長井小平太 44(嫡:市蔵)長井素輔 25
大組(内藤組)長井益雄 56(嫡:松太郎)長井新三 47
大組(内藤組)長井竹次郎 10長井太八郎 11
遠近附長井幾之助 42(嫡:熊之進)長井幾之助 57(嫡:熊之進)
遠近附長井重太郎 45(嫡:藤助)長井重太郎 60(嫡:藤助)
膳夫(六条流)長井久平跡 62(嫡:亀太郎、又助)長井亀太郎 46(嫡:又助)

この表で、長井隼人とあるのが、長井雅楽である。長井雅楽の実名、すなわち諱(いみな)は時庸(ときつね)であったが、諱は忌み名で、口に出すことが憚れ、したがって、『萩藩給禄帳』には記されていない。このため、雅楽、隼人、右近、与之助、与左衛門など、多くの別名を持っていた。明治5(1872)年に太政官布告「従来通称名乗両様相用来候輩自今一名タルヘキ事」が出て、諱と通称を併称することが廃止され、これを機に改名した者も多い。それ以前の『萩藩給禄帳』とそれ以降の戸籍とを参照させることは難しい。山口県にまで行って、古い戸籍を調べたなら、どれが私の先祖なのかまでわかるかもしれない。しかし、私には、クンタ・キンテをルーツとして探り当てたヘイリー程の情熱はない。とりあえず、犯罪者の子孫ではないことが確認できただけで満足したい。

6 : 参照情報

  1. アレクサンダー・パーマー・ヘイリー(Alexander Palmer Haley;1921年8月11日 – 1992年2月10日)の英文原著『ルーツRoots: The Saga of an American Family)』は、1976年8月に出版されている。
  2. Lincun. “山口県区画図.” Licensed under CC-BY-SA.
  3. 佐伯隆氏のデータベース「萩藩在郷諸士/陪臣データベース」を使わせてもらった。
  4. 大庭学僊 .『大江広元像』毛利博物館所蔵. Licensed under CC-0.
  5. Lincun. “山形県地域区分図.” + Quu72. “Nagai Station.” Licensed under CC-BY-SA.
  6. ウィキペディア. “長井氏.” 平成29年12月18日 (月) 11:50. 長田氏の養子となる永井氏の祖先かもしれない時千を加筆した。
  7. ゆの屋又三郎. “永井氏由来 ―芸備地方に於ける「関が原」の意味―.” 『備後山城風土記』2012/11/1(木) 午前 11:12.
  8. 石田渓岳. “高名像伝.” 国立国会図書館オンライン. Licensed under CC-0.
  9. 鈴木真年.「永井直諒条」『華族諸家伝』. 杉剛英 (1880).
  10. 日本の苗字7000傑. 姓氏類別大観. “大江氏.” Accessed 21 Apr 2018.
  11. Nagai Naoyuki(永井尚志), head of the Nagasaki Naval Training Center. 19th century photograph.” Licensed under CC-0.
  12. 磯田 道史.『龍馬史』. 文春文庫. 文藝春秋 (2013/5/10).
  13. 樹下 明紀, 田村 哲夫 (編集).『萩藩給禄帳』. マツノ書店 (1984/08).
3月 232018
 

2005年にカーツワイルは『シンギュラリティは近い(日本語訳:ポスト・ヒューマン誕生)』を出版し、2045年の技術的特異点(シンギュラリティ)以降、人間が生物学的限界を超えた爆発的な進化を遂げると予言した。人工知能の能力が人間の能力に迫る中、カーツワイルのシンギュラリティ論を信じる人は増えつつあるが、彼の未来予測は本当に正しいのかどうか、批判的に検証してみたい。

英語の原書(左)と日本語訳(右)。日本語訳に使われている「ポスト・ヒューマン」は、ヴィンジ(後述)のもので、カーツワイルは、「人間2.0」さらには「人間3.0」といった表現を用いており、「ポスト・ヒューマン」も人間と考えている。

1 : なぜ情報技術は指数関数的に進化するのか

カーツワイル[1]が80年代から抱き続けている信念は「世界を変える知の力はそれ自体を加速している[2]」というものだ。モラベック[3]と同様、カーツワイルは、ムーアの法則を一般化し、情報技術一般が指数関数的に進化すると予測する。

1990年代に、私はすべての情報関連技術のはっきりした加速に関する経験的データを収集し、これらの観測の根底にある数学的モデルを精緻化しようとした。 私は収穫加速法則という理論を開発した。これは、テクノロジーと進化プロセスが一般に指数関数的に進歩する理由を説明している。[4]

収穫加速法則の根拠となっているのが、「進化の発展段階から帰結する、さらに有力な方法が次の段階を作るのに使われる[5]」というポジティブ・フィードバックである。ポジティブ・フィードバックは情報関連技術一般に働く。

文字の発明を例にとろう。文字が発明される以前、誰かが重要な発明をしても、それが後世に伝えられないことがしばしばあった。文字の発明により、人類は、記憶という頼りない方法に依存することなく、先人の知恵を継承し、それを土台として新しい発明をすることができるようになった。この意味で、文字の発明は、それ自体偉大な発明であるだけでなく、さらなる発明を加速させる発明であった。活版印刷術、放送、コンピューター、インターネット、人工知能の発明は、そうした類の発明である。

現在、そのポジティブ・フィードバックが最も注目されている発明は、人工知能である。まだ「人工知能の冬」と呼ばれた時期にあたる2005年に出版された本書が世界に大きな影響力を持つようになったのも、2006年にジェフリー・ヒントンたちによってディープ・ラーニングのアルゴリズムが発表され[6]、三回目となる「人工知能の夏」が訪れたからである。それ以降人工知能は大きな進化を遂げ、今や人工知能が人工知能を改善するという新しい段階に入った。

例えば、グーグル・ブレーンのチームは、自分の子供を作る人工知能を作った。AutoMLと名付けられたこのアプローチは、「機械学習の専門家によって設計された最先端のモデルと同等の精度を達成するモデルを設計することができた[7].”」。その後、グーグル・ディープマインドは、碁のルール以外何も与えられることなく、人間による先例、手引き、専門知識なしの文字通りゼロから独学する機械学習プログラム、アルファ碁ゼロを作った。何千もの人間の先例から学んで、人間のチャンピオンを倒したアルファ碁に対してアルファ碁ゼロは、100対0で勝った[8]。限られた分野においてではあるが、人工知能は、もはや人間という下等動物から学ばなくてもよい段階にまで進化しているということである。

カーツワイルは、ポジティブ・フィードバックが指数関数的成長を帰結することを数学的に示している[9]。計算速度(V=単位コスト、一秒あたりの計算能力)が世界の知(W)に比例するなら、

V = c_{1}W

となる。以下、c は定数を表すものとする。次に、世界の知の変化率が計算速度に比例すると仮定すると、

\frac{dW}{dt} = c_{2}V

となる。t は時間変数とする。情報処理能力の向上が知を改善し、知の改善が情報処理能力を向上させるというポジティブ・フィードバックが働いているということである。Eq.1 を Eq.2 に代入すると、

\frac{dW}{dt} = c_{1}c_{2}W

となる。この微分方程式(Eq.3)を変数分離の方法で解くことにしよう。

\int \frac{dW}{W} = \int c_{1}c_{2}dt
lnW = c_{1}c_{2}t+c_{3}
W = e^{c_{1}c_{2}t+c_{3}} =e^{c_{1}c_{2}t} e^{c_{3}} =c_{4}e^{c_{1}c_{2}t}

ここで、t=0 の時、W=W0 となるように特殊解を求めると、

W = W_{0}\: e^{c_{1}c_{2}t}

となる(e は自然対数の底)。これで、世界の知が時間とともに指数関数的に増大することが示された。

2 : 指数の指数関数的成長という仮説

カーツワイルによると、ムーアの法則の適用範囲を集積回路からパンチカード、継電器、真空管、ディスクリート・トランジスタといったそれ以前の信号変換パラダイムにまで広げると、指数関数の指数自体が指数関数的に増加する。実際、以下の図では、縦軸は1000ドルあたりの計算速度を対数目盛で表示しているのにもかかわらず、時間とともに計算速度が指数関数的に増加しているように見える。

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コンピューターの五つのパラダイムとそのコスト・パーフォーマンス[10]

この傾向が21世紀にも続くと仮定しよう。すると、以下の図にあるとおり、演算能力という点で、1000ドルの標準的なコンピューターが、2020年には一人の人間の脳を、21世紀の中頃には全人類の脳を凌駕することになる。

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The exponential growth of computing[11]

指数が指数関数となる指数関数的成長を説明するべく、カーツワイルは、Eq.2 に、演算に活用される資源Nもまた指数関数的に増加するという事実を含める。

N=c_{5}e^{c_{6}t}

これで世界の知の変化率が計算速度と活用される資源に比例することになった。

\frac{dW}{dt} = c_{2}NV

Eq.8 と Eq.1 を Eq.9 に代入すると、

\frac{dW}{dt} = c_{1}c_{2}c_{5}e^{c_{6}t}W

となる。この微分方程式(Eq.10)も変数分離の方法で解くことができる。

\int \frac{dW}{W} = \int c_{1}c_{2}c_{5}e^{c_{6}t}dt
lnW = \frac{c_{1}c_{2}c_{5}}{c_{6}}e^{c_{6}t}+c_{7}
W = e^{\frac{c_{1}c_{2}c_{5}}{c_{6}}e^{c_{6}t}+c_{7}} =e^{c_{8}e^{c_{6}t}} e^{c_{7}}=c_{9}\: e^{c_{8}e^{c_{6}t}}

この解[12]は、世界の知が時間とともに二重指数で増大することを示している。この増加率を前提に、カーツワイルは、「今世紀前半の終わりに非生物的知性は、生物的知性の何十億倍もパワフルになるだろう[13]”」と予想している。シンギュラリティは近い(2045年頃)とカーツワイルが宣言するのはそのためである。

カーツワイルによれば、シンギュラリティとは「そこにおいて技術的変化があまりにも急激で、その影響があまりにも甚大であるため、人類の生活が不可逆的に変化してしまうであろう未来の時点[14]」である。しかし、シンギュラリティの定義はこれでよいのか。次の節では、シンギュラリティの本来の定義にさかのぼって、カーツワイルの用法が正しいのかどうかを検証しよう。

3 : シンギュラリティの本来の意味は何か

カーツワイルはシンギュラリティ(Singularity 特異点)という用語をヴィンジ[15]が1993年に発表したエッセイ「来るべき技術的特異点[16]」から借用している。ヴィンジは、このエッセイにおいて、人類の知性を凌駕する存在が誕生し、人類を絶滅に追い込む技術的特異点の到来を予想した。ヴィンジはこの用語を使うにあたって、フォン・ノイマン[17]による1950年代のシンギュラリティの用法に言及している。

ある時、フォン・ノイマンの話は、絶えず加速し続ける技術の進歩と人類の生活様式の変化に集中した。その進歩と変化は、さながら人類史上におけるある本質的なシンギュラリティに近づいている観を呈し、そのシンギュラリティを超えると、今日おなじみの人類の仕事は継続不可能になるだろうというのだ。[18]

ここで、フォン・ノイマンは「シンギュラリティ」でもって、超人間的な知性の誕生を念頭に置いていたのではなかったが、ヴィンジと同様、シンギュラリティを、私たちの時代に終焉をもたらす望ましくない特異点とみなしていた。そして、こうした意味合いで使うことはもっともなことなのである。

そもそもシンギュラリティは、カーツワイルも認める通り、数学では、関数が無限大または微分不可能といった定義不可能な値をとる点という意味で使われている。

シンギュラリティ(特異性)は、たった一つしかないという意味で特異な出来事を意味する英単語である。 この言葉は、どのような有限の制限をも超越する値を表すために数学者によって採用された。例えば、定数を限りなくゼロに近い数で割った時に爆発的に増大する大きさなどで、単純な関数 y=1/x で、xの値がゼロに近づくにつれて、関数(y)の値はいくらでも大きな値へと爆発する。[19]

たしかに、x の値がゼロに近づくにつれ、y の値は爆発的に大きくなる。しかし、y の値は、いくら大きな値であっても、有限の値である限り、シンギュラリティではない。その値がシンギュラリティと呼べるのは、x=0 の時だけである。カーツワイルは、シンギュラリティが2045年に起きると想定している。その時までに、1000ドルのコンピューターの計算能力は、1026 cps (calculations per second) となり、一年間に創られる知性は、今日の全人類の知性よりも約十億倍パワフルになるであろう[20]からだ。これらの数字は途方もなく大きいが、有限な値である。2045年は、カーツワイルが言うように、人間の能力に深遠で破壊的な変革をもたらす年になるだろうが、それは数学的に定義されたシンギュラリティではない。

そもそも、指数関数である Eq.7 や Eq.13 は、t が有限である限り、無限の値をとることはない。そこでカーツワイルは、数学的な意味でのシンギュラリティが生じるように、世界の知の成長率を表す微分方程式に小細工を施そうとする[21]。例えば、カーツワイルは、以下のように、C>1 という条件で、Wの成長率の新しいモデルを考案する。

\frac{dW}{dt} = C^{W}

カーツワイルによれば、その解は

W=\frac{1}{lnC}ln\left ( \frac{1}{1-tlnC} \right )

で、t=1/lnC において、無限大になる。もう一つのモデルは、a>1 という条件で、

\frac{dW}{dt} = W^{a}

とするものだ。カーツワイルによれば、その解は

W=W_{0}\: \frac{1}{\left (T-t  \right )^{\frac{1}{a-1}}}

となり、t=T においてシンギュラリティを生み出す。しかし、これらの仮説と解はどれも疑わしく、私は間違いだと思う。

カーツワイルが、数学的なシンギュラリティを作り出そうと躍起になるのは、技術的なシンギュラリティを技術の飛躍的な進歩を象徴する画期的な出来事と考えているからなのだろう。しかし、そうした肯定的な評価は、科学者の一般的な認識とは異なる。

物理学の理論では、シンギュラリティがあることは理論の破綻を意味していると解釈され、その回避が試みられる。例えば、ニュートンの万有引力の法則

F= G \frac{Mm}{r^2}

において、質量が M, m である二つの物体の質点間の距離 r がゼロになると、万有引力の大きさ F は無限大になる。これは数学的な意味でのシンギュラリティで、あってはならないことだ。もちろん、物体は幾何学的に定義された点ではないので、そうなることは実際にはない。

物理学において「シンギュラリティ」は理論的には質量の無限の密度と無限の重力を伴う大きさゼロの点を指す。 しかし、量子の不確性のために、無限密度の点は現実にはなく、実際のところ量子力学は無限の値を許さない。[22]

ブラックホールやビッグバンにおいて物質の密度が無限大となり、重力のシンギュラリティを作り出すという説もあったが、物理学者は、弦理論によりこのシンギュラリティを回避しようとしている。

シンギュラリティは、経験科学にとって、整合性と無矛盾性を維持するためには、治さなければならない病気である。ところが、奇妙なことに、カーツワイルにとって、シンギュラリティは、治療するべき病気ではなくて、目指すべきゴールなのである。彼のシンギュラリティの用法は、明らかに科学者の伝統的な用法とは異なる。

彼のシンギュラリティ信仰(Singularitarianism)は、科学としては不可解だが、宗教としてなら理解できる。事実、彼は「私たちは新しい宗教を必要としている[23]」と言っている。科学が奇跡と思えるものを奇跡でないもので説明しようとするのに対して、宗教は奇跡を奇跡として好意的に肯定しようとする。同様に、カーツワイルは科学が回避しようとするシンギュラリティを好意的に認めようとしていると考えれば、納得がいく。たぶん彼は、シンギュラリティでもって、終末論的な超越、すなわち人類の神との一体化を考えているのだろう。その意味では、シンギュラリティ信仰が「科学的というよりも宗教的な見解[24]」であり、「科学の仮面を被った終末論的カルト[25]」という評価は正しい。

4 : カーツワイルの予想は当たっているのか

本書が出版されてから12年以上が経過した2018年3月現在、カーツワイルの予想の一部を検証することができる。カーツワイルは、2010年までにスーパーコンピューターの性能が人間の脳の性能を上回ると予想していた。

私たちは、人間の知能をエミュレートするために必要なハードウェアを、2000年代が終わる頃までにスーパーコンピューターで実現し、次の10年代でパーソナル・コンピューター・サイズのデバイスで実現するようになる。 私たちは、2020年代半ばまでに、人間の知能をエミュレートする上で実効力のあるソフトウェア・モデルを実現するだろう。[26]

IBMアルマデン研究所の認知コンピューティング担当ディレクタ、ダーメンドラ・モダは、コンピューターは、人間の脳に匹敵するには、38ペタフロップス(PFlop/s)、つまり1秒あたり3京8000兆回以上の演算を実行できなければならないと推定している[27]。 下の図は、世界の最高のスーパーコンピューター(茶色の三角形)が2010年までにこの目標を達成しなかったことを示している。

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世界トップ500のスーパーコンピューターの性能の変化[28]。縦軸は浮動小数点演算の回数で、対数目盛。横軸は西暦。茶色の三角形は世界第1位のスーパーコンピューターの、青色の四角形は世界第500位のスーパーコンピューターの、緑色の丸は合算の値を表す。

この図はまた、スーパーコンピューターの演算性能が、2013年以降、カーツワイルが期待したような指数関数以上の成長ではなくて、むしろ指数関数以下の成長しか遂げていないことをも示している。

では、カーツワイルによる以下の「2010年のシナリオ」はどうだろうか。

2010年代の初めに登場するコンピューターは、本質的に不可視になるだろう。すなわち、それらは衣服に織り込まれ、家具や環境に埋め込まれるようになるということだ。[…]ディスプレイは眼鏡やコンタクトレンズに組み込まれ、イメージは私たちの網膜に直接投射されるようになるだろう。[29]

彼の予測通り、ウェアラブル・コンピューターを普及させようとする動きはあった。例えば、彼が所属するグーグルは、2012年4月にグーグル・グラスというヘッドマウント・ディスプレイ方式の拡張現実ウェアラブル・コンピューターを公式に発表した[30]。しかし、2018年現在、米国の職場で採用されている業務用のグーグル・グラス・エンタープライズ・エディションを除けば、スマート・グラスはほとんど普及していない。スマート・コンタクト・レンズもまだ開発段階であり[31]、インテルの Vaunt[32]や QD Laser の RETISSA Display[33]などの網膜投影方式によるスマート・グラスもまだ販売されていない。コンピューターがこれまでのダウンサイジングのトレンドに沿ってウェアラブルになるほど小さくなるという予測自体は間違っていないが、ダウンサイジングの速度は、カーツワイルが予想したほど爆発的に加速はしなかったということである。

現時点でカーツワイルの予測を暫定評価するなら、コンピューティング性能が指数関数的成長以上の爆発的成長をするという予測は間違いであったということだ。だから、数学的な意味でのシンギュラリティは、神による奇跡でも起きない限りないだろう。それどころか、ムーアの法則のような単純な指数関数的成長にすら疑問を持つ人が出てきているのが現状である。

5 : ムーアの法則の限界はどう克服されるのか

ムーアの法則とは、1965年に「素子コストが最小となる複雑性は、おおざっぱに言って、1年で2倍になるという割合で増大してきた[34]」と言ったゴードン・ムーアに因んで名づけられた半導体の法則である。ムーア本人が所謂「ムーアの法則」を提唱したわけではなく、今日、この法則は、半導体のコスト当たりの性能が指数関数的に向上するといった一般的な意味で拡大解釈されて使われている。

ムーアは、半導体素子の微細化と集積化が少なくとも1975年までは続くと予言したが、それ以降も、デナードのスケーリング則によって、この傾向は続いた。電力密度を抑制しつつ、トランジスタのサイズを小さくすることができたからだ。ところが、2006年頃、つまりカーツワイルの本が出版された後、この傾向は天井を打った。微細化がナノスケールにまで及ぶと、量子トンネル効果により、ゲートとチャネルとの間の誘電体にリーク電流が流れるようになり、これが待機時消費電力と熱生成を増加させた。排熱が不十分なら、熱暴走を引き起こしかねない。かくして、CPUメーカは、CPUの性能を向上させる代替手段として、プロセッサーのマルチコア化に依存するようになった

2018年1月2日に、イギリスのテクノロジー雑誌『ザ・レジスター』は、後に Meltdown/Spectre と名付けられることになったインテル CPU のチップレベルでの脆弱性を暴露した[35]。これらのバグを修正するセキュリティ・パッチは、第7/8世代プロセッサー搭載 Windows 10 PC の応答性を 12-14%、第6世代では、21% 低下させることが判明した[36]。『ザ・レジスター』は、Meltdown を防ぐには、CPUの性能を30%犠牲にしなければならないと主張し、「ムーアの法則の訃報」なるものをその月に掲載した。曰く、「ムーアの法則は、50歳になってから急に老化が進み、高齢の域に達して、今月の初めに忘却の彼方に消えた[37]」。

Spectre は、インテルのみならず、AMD, ARM, IBM プロセッサーでも見出される脆弱性で、その対策により、あらゆる種類のコンピューターの性能が短期的に後退することは避けられない。しかし、長期的に見た場合、半導体の性能改善にとってもっと深刻な問題は、物理的な限界である。カーツワイルもムーアの法則が2020年にシグモイド曲線の終端に達することを認めた上で、三次元分子コンピューターが
パンチカード、継電器、真空管、ディスクリート・トランジスタ、集積回路に続く第六のパラダイムとして現れ、指数関数的成長を支えると主張する[38]

以下の図が示す通り、新しいパラダイムは新しいシグモイド曲線(S字カーブ)を開始する。

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指数関数的成長はS字カーブの連なりから成り立っている[39].

収穫加速法則に従って、パラダイム・シフト(別名、イノベーション)は、特定のパラダイムのS字カーブを継続的な指数関数曲線にする。古いパラダイムが自然の限界に近づくと、三次元回路などの新しいパラダイムが引き継ぎを行う。そうした引継ぎは、コンピューターの歴史においては既に少なくとも四回起きた。[40]

たしかに、集積回路のパフォーマンスを改善するためにシリコン・ウェーハやダイを積み重ねて垂直に相互接続しようとしている開発者はいるが、そうした三次元集積回路はパラダイム・シフトの名に値するだろうか。私には、それは、現在のICのパラダイムに取って代わるイノベーションというよりも、むしろ、ICの改善のためのたんなるパズル解きにしか見えない。

では、分子コンピューターの方はどうか。カーツワイルも認識する通り、「単分子トランジスタ、原子ベースのメモリ・セル、ナノワイヤ、数兆(潜在的には数兆の兆倍)の要素を自己組立、自己診断する方法といった三次元分子コンピューティングにとって必要なすべての要件の実証実験を私たちはすでに終えている[41]」。分子コンピューターは、もしもシリコンの代わりに生物由来の分子を素材とするなら、そのアイデア自体は40年以上前から存在しているとはいえ、新しいパラダイムと言うことができる。

今日、「三次元分子コンピューター」の最も有望な候補は、DNAコンピューターである。生物が遺伝情報の保存に使ってきたDNA(デオキシリボ核酸)は、高い記録密度と長期にわたる耐久性という点で、従来のコンピューターの記録媒体よりも優れている。DNAをデータ・ストーレジとして使う上での大きな課題は、「コストとスピード[42]」だ。マイクロソフト・リサーチは、2020年までにDNAに基づいたストーレジ・システムの運用を目標としている[43]。とはいえ、実用化するには、DNAへの保存コストを現行の1万分の1に引き下げ、書き込み速度を26万倍増大させなければならないので、その目標を達成することは困難だ。

DNAコンピューターは、パラレル・プロセッサとしてふるまうことが期待されている[44]が、並列コンピューティングで最も注目されている候補は量子コンピューターである。もっとも、カーツワイルは量子コンピューターには懐疑的だ。

量子コンピューティングの最終的な役割はまだ決まっていない。 しかし、たとえ数百の絡み合った量子ビットを抱えた量子コンピューターを実現することができて、他の方法ではエミュレートできない傑出した能力を持っていても、それは特殊用途のデバイスにすぎない。[45]

2011年5月11日、D-Wave Systems は、量子アニーリングと呼ばれるプロセスによって組み合わせ最適化問題を解決する世界初の商用量子コンピューターを発表した[46]。これは「特殊用途のデバイスにすぎない」が、現在、IBM[47]、グーグル[48]、マイクロソフト[49]など多くの企業が汎用的な量子コンピューターを開発中である。

量子コンピューターはデコヒーレンスのために古典的なコンピューターよりエラーの影響を受けやすいが、エラー許容性の高いディープ・ラーニングに適している。 機械学習の時代になると、GPUはCPUよりも重要な役割を果たし、GPUの大規模並列量子コンピューティングはコンピューターの性能を向上させることが期待されている。ただし、量子メモリーの寿命は短い(2018年現在、最大8時間[50])ので、長期的に保存するには、量子ビットを古典ビットに変換して、DNAストーレジに保存するという方法もありうる。この古典コンピューターと量子コンピューターとDNAコンピューターの組み合わせなら、ムーアの法則の古典的限界を超えて、計算速度の指数関数的増加をもたらしうる。

6 : 脳をコンピューターにアップロードできるか

コンピューターの性能が今後とも指数関数的に向上するなら、遠からず人間の脳の性能を超えるようになり、人間の存在意義が問われることになる。これはネオ・ラダイトたちが心配していることだ。しかし、もしも私たちが、コンピューターに「人間の脳をアップロードする[51]」こと、すなわち、「人間の脳の顕著なすべての詳細をスキャンし、それらの詳細を十分強力なコンピューター基盤に再生すること[52]ができるようになれば、不老不死という人類の夢がかなうだけでなく、コンピューターの進歩とともに私たちも指数関数的に進歩することになり、私たちはこれからも文明の主人公としての地位を保つことができるようになる。問題はそれが可能かどうかだ。

オープンワーム・プロジェクトに従事する科学者たちは、線虫(Caenorhabditis elegans)のニューロン間接続をすべてマッピングし、ソフトウェアにシミュレーションをして、それにレゴ[53]やアルデュイーノ[54]のロボットを駆動させた。以下の動画にみられるとおり、線虫のバーチャルな脳は、人間がプログラムした指令なしにロボットを線虫の体のように動かした。

オープンワーム・コミュニティのワームロボット[55]

同様に、将来、私たちは人間の脳をリバース・エンジニアリングして、人工知能でシミュレーションし、それにロボットを制御させるということは可能になるだろう。しかし、このようなプロジェクトは、たんに人間の脳のパターンをコピーしたにすぎず、アップロードしたとは言えない。カーツワイルも認めるとおり、複製と移転は全く別なのである。

コピーは私のパターンを共有しているが、コピーが私であるとは言い難い。私は依然としてここにいるだろうし、いることが可能だからだ。あなたは、私が寝ている間に私をスキャンしてコピーすることさえできるだろう。朝、あなたが私のところに来て、「良い知らせだ、レイ。私たちはあなたをより耐久性のある素材に再生することに成功した。だから、あなたの古い体と脳はもう必要なくなった」と言うなら、私はそうではないよと懇願することになるかもしれない。[56]

そこで、カーツワイルは、身体を段階的に機械に置き換えることで、自己同一性を維持しようとする。既に紹介したように、カーツワイルは三次元分子コンピューターが次世代のコンピューターになると考えている。コンピューターとロボットが分子レベル、つまりナノ・スケールまで小さくなれば、それらの小型機械は人間の体を構成している分子と代替可能になる。カーツワイルはこれをナノボットと呼ぶ。

数十億のナノボットが、私たちの体と脳の血流をするようになるだろう。ナノボットは、私たちの体において、病原体の破壊、DNAエラーの修正、解毒、その他、多くの健康増進作業を行うだろう。その結果、私たちは老化することなく無限に生きることができるだろう。私たちの脳においては、無数の遍在するナノボットが私たちの生物学的ニューロンと相互作用するだろう。これは、神経システム内から私たちの感情の神経学的対応物とともにすべての感覚を取り込んだ完全な没入型仮想現実を提供するだろう。より重要なことは、私たちの生物学的思考と私たちが作り出す非生物学的知能との密接なつながりは、人間の知性を根本的に拡張するだろうということだ。[57]

カーツワイルは、2025年ごろにナノボットの時代が訪れ、2029年ごろには強いAIが生まれると予測した[58]。たしかに、免疫細胞の機能を補完する医療用ナノボットなら、現在開発されている。例えば、2018年2月に、アリゾナ州立大学の科学者は、腫瘍を血液供給の遮断によって縮小するようにプログラムされたナノロボを作った[59]。カーツワイルは、さらに脳の機能を補うナノボットが登場することを予想している。

ナノボットによって脳の機能を拡張することは、今日外科手術で設置できるようになった神経インプラントよりも著しい改善をもたらすだろう。ナノボットは、手術なしに血流を介して導入し、必要に応じてすべて撤去するように指示できるので、プロセスを容易に巻き戻すことができる。[60]

そして、ナノボットが、段階的に脳を代替することで、人格の自己同一性を維持したまま、脳を機械へとアップロードすることができるというのだ。

私の脳の小さな部分を神経形状の等価物で置き換えることを考えてみてほしい。さて、私はまだここにいる。手術は成功した(ちなみに、ナノボットなら、最終的に手術なしでこれを行うだろう)。人工内耳、パーキンソン病患者用インプラントなどでそうしたことをした人がいることは周知のとおりだ。今私の脳の別の部分を置き換えよ。大丈夫、私はまだここにいる。… こうしたことをいくら繰り返していっても、最終的に私は私自身だ。「古いレイ」と「新しいレイ」との違いは決してなかった。私は以前と同じだ。私を含め、誰も私がいなくなって寂しいということはない。レイを段階的に置き換えても、それはレイでしかなく、意識とアイデンティティは保存され続けているように思える。[61]

しかし、私の身体と脳を段階的に機械に置き換えていっても、私が段階的に消滅するだけであって、私を機械に移転したことにはならないかもしれない。アルツハイマー病患者のように、脳が段階的に委縮する場合、たとえコンピューターがニューロンやシナプスの喪失補って、私が存続するように見せかけたとしても、私は段階的に消滅して、死ぬことになるだろう。

では、いったい私とは何であるのか。私のコピーがいかに私とよく似ていても、私のコピーが私そのものとは異なるのはなぜなのか。古来哲学者たちが取り組んできた意識の自己同一性の問題は、現在でも解決に合意が形成されてはいないが、物理学的な仮説なら立てることができる。量子脳理論によれば、意識とは脳の量子状態であり、量子複製不可能定理(quantum no-cloning theorem)により、その量子状態はコピーすることが不可能である。だから、私の意識を、私の自己同一性を破壊することなく正確にコピーすることは、物理的に不可能であるということだ。

量子脳理論にも様々な立場があるが、もっとも有名なのは、ロジャー・ペンローズの仮説[62]である。カーツワイルは、ペンローズの量子脳理論を批判して、次のように言っている。

ペンローズの立場は、量子状態のひとまとまりを完全に複製することは不可能なので、完全なダウンロードは不可能というように解釈されている。さて、ダウンロードはどれだけ完璧でなければならないのか。オリジナルが一分前のオリジナルとそっくりであるのと同程度に「コピー」をオリジナルそっくりに作れるところまでダウンロード技術が開発されるなら、それは、量子状態をコピーするという目的以外の考えられるどんな目的にも十分ではある。[63]

カーツワイルは、量子複製不可能定理が完全なダウンロードを不可能にしていると考えているようだが、量子複製不可能定理にもかかわらず、否、むしろそれゆえに人格を移転する方法がある。それは量子テレポーテーションである。すなわち、私の脳の量子状態と量子コンピューターとの間で、量子もつれの関係にあるEPRペアを利用して、瞬時に移転してしまう方法である。移転に際して私の脳の量子状態を計測したり観察したりする必要はない。量子複製不可能定理により、私の意識は私の元の身体から消滅するが、その代わり、私は、同じ意識の量子状態を維持したまま新しい人工身体に現れることができる。

私が提唱する方法に対して、前提となっている量子脳理論が間違っているのではないかという批判があるだろう。実際、ペンローズが1989年に『皇帝の新しい心』を出版した頃、「微小管」における量子効果が人間の意識において役割を果たすという彼の理論は、オカルト扱いにされ、支持する科学者はほとんどいなかった。

量子脳理論に対して投げかけられる主な批判は、次の二つである。

  1. 私たちの脳のようなノイジーで湿った温かい環境で長期間にわたり量子コヒーレンスを維持することは不可能である。
  2. 私たちの脳における神経システムは、量子現象が神経システムの機能において重要な役割を果たすには大きすぎる。

しかし、これらの批判に対して、次のような反論が、近年の経験的な発見に基づいてなされている。

  1. ポスナー分子、Ca9(PO4)6が、ノイジーで湿った温かい環境で長期間にわたり神経キュビットのコヒーレンスを保護し、それゆえ量子メモリーとして機能しうる分子として同定されている[64]
  2. 我々の脳内の非線形カオス動態は、バタフライ効果により、ミクロ・レベルの量子ゆらぎをマクロに増幅し、より大きなスケールのニューロン活動を調節することができる[65]

もとより、脳における情報処理のすべてが、1でも0でもないような状態でありうる量子コンピューティングということではなく、古典コンピューターのように、真(1)か偽(1)かどちらか一つというデジタルな判断もする。カーツワイルも言うとおり、「ニューロンの発火はデジタル事象とみなすことができるが、シナプスにおける神経伝達物質レベルはアナログ値とみなすことができる[66]」ので「人間の脳はデジタルにコントロールされたアナログな方法を使っている[67]」と言うことができる。私が提案した量子コンピューターのGPUと古典コンピューターのCPUという組み合わせも、私たちの心を構成するアナログな直観とデジタルな概念の組み合わせを反映している。

ところが、量子コンピューターを軽視するカーツワイルは、人間のアナログな認識をも軽視し、すべてデジタルに変換しようとする。

私たちは、デジタルコンピューティングはアナログコンピューティングと機能的に同等であることを心に留めておく必要がある。つまり、デジタル+アナログのハイブリッド・ネットワークの全機能を完全にデジタルなコンピューターで実行できるということだ。[68]

たしかにアナログなデータからそれとそっくりなデジタルなコピーを作ることはできるが、それによって捨てられるものがあることも心に留めておくべきだ。そして、私のデジタルなコピーは、どんなに私とそっくりでも、私自身ではないことを認めるなら、デジタルな古典コンピューターだけで人格を移転することは不可能であることにカーツワイルは気が付くべきだ。

7 : 宇宙が覚醒する日は来るのか

カーツワイルは、以下の図に示すように、ビッグバンから未来にかけての進化の歴史を六つに画期し、このうち「五番目の時代(Epoch 5)から、シンギュラリティが始まり、六番目の時代(Epoch 6)では、シンギュラリティは地球から残りの宇宙へと広がるだろう[69]」と言う。

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進化の六つの時代[70]。縦軸も横軸も対数目盛にすると、ビッグバン以降の進化の歴史は、S字カーブの連なりになる。

カーツワイルによると、「知能が、知能にとって利用可能な物質とエネルギーを飽和するにつれ、愚かな物質はスマート物質になり[71]」、その飽和の拡張が宇宙を覚醒させる。

宇宙には約1080個の粒子があり、理論上の最大容量は約1090cpsとセス・ロイドは見積もっている。 言い換えれば、宇宙規模のコンピューターは1090cpsで計算することができるということだ。これらの推定値を出すにあたって、ロイドは物質の観測された密度を1立方メートルあたり約1水素原子とし、この数字から宇宙全体のエネルギーを計算した。このエネルギー量をプランク定数で割って、彼は約1090cpsという値を得たのだった。[72]

カーツワイルが、ここで参照しているロイドの論文は、以下のような結論となっている。

非常にありそうにないことだが、ムーアの法則の指数関数的進歩が将来にわたって継続することが可能であるならば、1010ビットで毎秒1010回の操作を行う現在のコンピューターよりも40桁性能が上である1031ビットで毎秒1051回の操作を行う1キログラムの究極のラップトップ・コンピューターを作るのに250年しかかからないだろう。[73]

そうした1キログラムのコンピューターなら、250年後には作ることができるようになるかもしれないが、宇宙内のすべての物質とエネルギーを利用して、宇宙をコンピューターにすることは不可能である。なぜなら、物質が持つ複雑性はそのままでは情報ではないし、すべてのエネルギーが情報処理に使えるエネルギーとは限らないからだ。

カーツワイルは、愚かな物質をスマート物質に変える一例として、普通の岩を取り上げる。彼によれば、1キログラムの岩は、1025個の原子を持ち、少なくとも1027ビットのメモリーを持つ。

計算上、たんに電磁気的な相互作用を考慮するだけで、1キログラムの岩の中で、毎秒毎ビット1015回の変化が少なくとも起こる。これは事実上、毎秒1042回(百万×一兆の三乗回)の演算を行っていることになる。しかし、岩はエネルギー入力を必要とせず、かつほとんど熱を発生させない。[74]

ここからもわかるとおり、複雑性が情報と混同されている。カーツワイルは、「複雑性の概念自体が複雑[75]」であると認めた上で、「システムやプロセスを特徴づけるのに必要な、意味のある、ランダムではないが、予測不可能な情報の最小量[76]」という定義を一例として提示している。「ランダムではないが、予測不可能な」という矛盾した表現に混同の結果を見て取ることができる。情報ならランダムではないが、複雑性なら予測不可能な不確定性がなければならない。

この混同は多くの人にみられ、実際、複雑性の単位であるはずのビットが、情報の大きさを表す単位として一般に使われている。そこで、複雑性が情報でないことを簡単な例で説明しよう。

以下の二つの命題を比較してみてほしい。

  1. 明日の天気は、晴れか否かのどちらかであり、かつ、高温であるか否かのどちらかであり、かつ、強風であるか否かのどちらかである。
  2. 明日の天気は、晴れであり、かつ、高温であり、かつ、強風である。

一番目の命題は、明日の天気に関して、23=8ビットの可能性を示している。つまり複雑性は8ビットあるのだが、この命題は明日の天気に関していかなる情報をも提供していない。これに対して、二番目の命題は、その複雑性を縮減することで、明日の天気に関する一定の情報を提供している。複雑性の対数をエントロピーと言い、底を2とすると、一番目の命題のエントロピーが3であるのに対して、二番目のエントロピーは0である。シャノン以来認識されている[77]ように、情報とは負のエントロピーであり、この場合、-3の負のエントロピーが与えられることで、情報が提供されたことになる。

岩を情報保存のためのメモリーにする場合であれ、情報処理のためのプロセッサーにする場合であれ、いずれにせよ、岩のエントロピーを縮減するには、熱力学第二法則により、外部から低エントロピーのエネルギーを入れ、それを高エントロピーの熱として外部に排出しなければならない。宇宙に存在するエネルギーの多くは、そのために使えるほどエントロピーが小さいエネルギーではない。資源と環境という二つの制約要因のおかげで、宇宙全体がコンピューターとなり、覚醒するといったことは、熱力学的に不可能なのである。

宇宙の覚醒という観念は科学的というよりも宗教的なテーマだ。人間の精神が神の水準にまで高まって遍在化し、その結果宇宙が覚醒するという思想はヘーゲル[78]にも見られるが、その思想をさらに遡るなら、キリスト教の終末思想に辿り着く。

私たちが宇宙における物質とエネルギーを知性で満たすと、宇宙は「覚醒」し、意識を持ち、崇高なまでに知的になるだろう。それは、私がそれ以上は想像できないほど神に近づく時なのだ。[79]

カーツワイルがこういうのを聞くと、やはり彼のシンギュラリティ論はカルト的だと感じてしまう。予言者カーツワイルの信奉者たちは「シンギュラリタリアン」と呼ばれているが、これは奇妙な呼称である。シンギュラリティの本来の定義からすれば、「頭の中が破綻した人」というふうに聞こえる(実際に、世間ではそのように思われているのだが)。私は、情報技術の指数関数的進化の継続や、マインド・アップロードや、ポスト・ヒューマンの宇宙への拡散が将来実現される可能性を否定はしないが、カーツワイルとともに「イッヒ・ビン・アイン・ジンギュラリタリアン[80](私はシンギュラリタリアンだ)」と宣言するつもりはない。

8 : 参照情報

  1. レイ・カーツワイル(Ray Kurzweil;1948年2月12日 – )は米国の発明家、実業家、未来学者で、認知科学と人工知能の研究とその実用化で知られている。本名はレイモンド・カーツワイル(Raymond Kurzweil)であるが、著作では略称を使っている。
  2. “… the power of ideas to transform the world is itself accelerating” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 352.
  3. Hans Moravec. “When will computer hardware match the human brain?.” Journal of evolution and technology 1.1 (1998): 10. Hans Peter Moravec (born November 30, 1948, Kautzen, Austria) is a futurist focusing on transhumanism.
  4. “During the 1990s, I gathered empirical data on the apparent acceleration of all information-related technologies and sought to refine the mathematical models underlying these observations. I developed a theory I call the law of accelerating returns, which explains why technology and evolutionary processes in general progress in an exponential fashion.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 356.
  5. “Evolution applies positive feedback: the more capable methods resulting from one stage of evolutionary progress are used to create the next stage.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 1,029.
  6. “We show how to use “complementary priors” to eliminate the explaining-away effects that make inference difficult in densely connected belief nets that have many hidden layers. Using complementary priors, we derive a fast, greedy algorithm that can learn deep, directed belief networks one layer at a time, provided the top two layers form an undirected associative memory.” Hinton, Geoffrey E., Simon Osindero, and Yee-Whye Teh. “A fast learning algorithm for deep belief nets.” Neural computation 18.7 (2006): 1527-1554.
  7. “our approach can design models that achieve accuracies on par with state-of-art models designed by machine learning experts (including some on our own team!).” Quoc Le & Barret Zoph, Research Scientists, Google Brain team. “Using Machine Learning to Explore Neural Network Architecture.” Research Blog. Wednesday, May 17, 2017.
  8. “Here we introduce an algorithm based solely on reinforcement learning, without human data, guidance or domain knowledge beyond game rules. AlphaGo becomes its own teacher: a neural network is trained to predict AlphaGo’s own move selections and also the winner of AlphaGo’s games. This neural network improves the strength of the tree search, resulting in higher quality move selection and stronger self-play in the next iteration. Starting tabula rasa, our new program AlphaGo Zero achieved superhuman performance, winning 100–0 against the previously published, champion-defeating AlphaGo.” Silver, David, et al. “Mastering the game of go without human knowledge.” Nature 550.7676 (2017): 354-359.
  9. Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 9,627.
  10. Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 1,352.
  11. Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 1,373.
  12. カーツワイルがしているように、c9をW0とすることはできない。t=0 の時の初期値として、W0=c9ec8としよう。
  13. “If we factor in the exponentially growing economy, particularly with regard to the resources available for computation (already about one trillion dollars per year), we can see that nonbiological intelligence will be billions of times more powerful than biological intelligence before the middle of the century.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 9,666.
  14. “What, then, is the Singularity? It’s a future period during which the pace of technological change will be so rapid, its impact so deep, that human life will be irreversibly transformed.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 408.
  15. ヴァーナー・シュテファン・ヴィンジ(Vernor Steffen Vinge;1944年2月10日 – )は、米国の数学者、コンピューター科学者、ヒューゴー賞受賞のSF作家。
  16. Vernor Vinge. “The Coming Technological Singularity: How to Survive in the Post-Human Era”. In Vision 21: Interdisciplinary Science and Engineering in the Era of Cyberspace. Sponsored by NASA Lewis Research Center and the Ohio Aerospace Institute, March 30-31, 1993.
  17. ヨハネス・ルートヴィヒ・フォン・ノイマン(Johannes Ludwig von Neumann;1903年12月28日 – 1957年2月8日)はハンガリー出身の米国の数学者。生前から天才と呼ばれ、数学のみならず幅広い科学の分野に影響を与えた。
  18. “One conversation centered on the ever accelerating progress of technology and changes in the mode of human life, which gives the appearance of approaching some essential singularity in the history of the race beyond which human affairs, as we know them, could not continue.” Ulam, S., “John von Neumann, 1903-1957.” in Tribute to John von Neumann. Bulletin of the American Mathematical Society. vol 64, nr 3, part 2, May, 1958. p.5.
  19. “ “Singularity” is an English word meaning a unique event with, well, singular implications. The word was adopted by mathematicians to denote a value that transcends any finite limitation, such as the explosion of magnitude that results when dividing a constant by a number that gets closer and closer to zero. Consider, for example, the simple function y = 1/x. As the value of x approaches zero, the value of the function (y) explodes to larger and larger values.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 654.
  20. Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 2,428.
  21. Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 9,671.
  22. “In physics “singularity” theoretically refers to a point of zero size with infinite density of mass and therefore infinite gravity. But because of quantum uncertainty there is no actual point of infinite density, and indeed quantum mechanics disallows infinite values.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 9,574.
  23. “Yes, well, we need a new religion.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 7,279.
  24. “The singularity is a religious rather than a scientific vision.” John Horgan. “The Consciousness Conundrum.” Special Report: The Singularity.
  25. “an apocalyptic cult masquerading as science.” NEWSWEEK STAFF. “RAY KURZWEIL’S SCIENCE CULT.” 5/17/09 AT 8:00 PM.
  26. “We will have the requisite hardware to emulate human intelligence with supercomputers by the end of this decade and with personal-computer-size devices by the end of the following decade. We will have effective software models of human intelligence by the mid-2020s.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 710.
  27. Larry Greenemeier. “Computers have a lot to learn from the human brain, engineers say.” Scientific American Blog Network. March 10, 2009. フロップス(floating-point operations per second)は、一秒間に実行できる浮動小数点演算の回数で、コンピューターの演算性能を示す指標として使われている。
  28. TOP500 Supercomputer Sites. “PERFORMANCE DEVELOPMENT.” Accessed 2018/02/04.
  29. Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 6,009.
  30. Trefis Team. “Google Glasses Sound As Crazy As Smartphones And Tablets Once Did.” Forbes. APR 5, 2012 @ 11:17 AM.
  31. Jennifer Birch. “What Happened to the Plans for a Smart Contact Lens for Diabetics?.” Labiotech.eu. 25/01/2018.
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  33. 株式会社QDレーザ. 「網膜走査型レーザアイウェア RETISSA® Display を今夏発売」2018年1月4日. Cf. “QD Laser Eyewear.”
  34. “The complexity for minimum component costs has increased at a rate of roughly a factor of two per year.” Moore, Gordon E. “Cramming more components onto integrated circuits.” Proceedings of the IEEE 86.1 (1998). p.83.
  35. John Leyden, Chris Williams. “Kernel-memory-leaking Intel processor design flaw forces Linux, Windows redesign.” The Register. 2 Jan 2018 at 19:29.
  36. Adarsh Verma. “How Much Slower Will My PC Become After Meltdown And Spectre Patches?.” Fossbytes. January 12, 2018.
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  38. “When Moore’s Law reaches the end of its S-curve, now expected before 2020, the exponential growth will continue with three-dimensional molecular computing, which will constitute the sixth paradigm.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 1,355.
  39. “An ongoing exponential sequence made up of a cascade of S-curves.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 1075.
  40. “In accordance with the law of accelerating returns, paradigm shift (also called innovation) turns the S-curve of any specific paradigm into a continuing exponential. A new paradigm, such as three-dimensional circuits, takes over when the old paradigm approaches its natural limit, which has already happened at least four times in the history of computation.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 1,399.
  41. “We already have proofs of concept for all of the major requirements for three-dimensional molecular computing: single-molecule transistors, memory cells based on atoms, nanowires, and methods to self-assemble and self-diagnose the trillions (potentially trillions of trillions) of components.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 2,143.
  42. “The big challenges to deploying DNA data storage are cost and speed. For archival storage, magnetic tape is still the most cost-effective data storage medium, and although slower than flash memory it is still able to transfer hundreds of megabytes per second. That would be equivalent to reading and writing 1 billion DNA bases per second, something that could only be achieved with new chemistry in a massively parallel system.” Mark Peplow. “Rebooting the molecular computer.” Chemical & Engineering News. Volume 95. Issue 4. p.23-25. Issue Date: January 23, 2017.
  43. Antonio Regalado. “Microsoft Has a Plan to Add DNA Data Storage to Its Cloud.” MIT Technology Review. May 22, 2017.
  44. “While conventional computers attack problems via mind-numbingly large calculations in series, properly encoded ‘molecular computers’ might quickly solve the same problems by simultaneously carrying out billions of operations in parallel.” Rozen, Daniel E., Steve McGrew, and Andrew D. Ellington. “Molecular computing: Does DNA compute?Current Biology 6.3 (1996): 254-257.
  45. “The ultimate role of quantum computing remains unresolved. But even if a quantum computer with hundreds of entangled qubits proves feasible, it will remain a special-purpose device, although one with remarkable capabilities that cannot be emulated in any other way.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 2,139.
  46. Johnson, M. W., et al. “Quantum Annealing with Manufactured Spins.” Nature, vol. 473, no. 7346, May 2011, pp. 194–98.
  47. Christine Vu. “IBM Announces Advances to IBM Quantum Systems & Ecosystem.” IBM News room, United States. 10 Nov 2017.
  48. Julian Kelly. “Research Blog: A Preview of Bristlecone, Google’s New Quantum Processor.” Google Research Blog. Monday, March 05, 2018.
  49. Allison Linn. “With new Microsoft breakthroughs, general purpose quantum computing moves closer to reality.” Microsoft news, features, events, and press materials. 25 September, 2017.
  50. Astner, Thomas, Johannes Gugler, Andreas Angerer, Sebastian Wald, Stefan Putz, Norbert J. Mauser, Michael Trupke et al. “Solid-state electron spin lifetime limited by phononic vacuum modes.” Nature materials (2018): 1.
  51. “Uploading the Human Brain.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 3,642.
  52. “Uploading a human brain means scanning all of its salient details and then reinstantiating those details into a suitably powerful computational substrate. This process would capture a person’s entire personality, memory, skills, and history.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 3,647.
  53. Lucy Black. “A Worm’s Mind In A Lego Body.” I Programmer. Sunday, 16 November 2014.
  54. Mike James. “A Worm’s Mind In An Arduino Body.” I Programmer. Wednesday, 04 October 2017.
  55. OpenWorm. “Worm Robot Sneak peek.” YouTube. Published on Jul 21, 2017.
  56. “Although the copy shares my pattern, it would be hard to say that the copy is me because I would ― or could ― still be here. You could even scan and copy me while I was sleeping. If you come to me in the morning and say, “Good news, Ray, we’ve successfully reinstantiated you into a more durable substrate, so we won’t be needing your old body and brain anymore,” I may beg to differ.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 7,498.
  57. “Billions of nanobots will travel through the bloodstream in our bodies and brains. In our bodies, they will destroy pathogens, correct DNA errors, eliminate toxins, and perform many other tasks to enhance our physical well-being. As a result, we will be able to live indefinitely without aging. In our brains, the massively distributed nanobots will interact with our biological neurons. This will provide full-immersion virtual reality incorporating all of the senses, as well as neurological correlates of our emotions, from within the nervous system. More important, this intimate connection between our biological thinking and the nonbiological intelligence we are creating will profoundly expand human intelligence.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 5,741.
  58. “I do expect that full MNT will emerge prior to strong AI, but only by a few years (around 2025 for nanotechnology, around 2029 for strong AI).” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 4,970; “Once the nanobot era arrives in the 2020s we will be able to observe all of the relevant features of neural performance with very high resolution from inside the brain itself.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 3,619.
  59. Li, Suping, et al. “A DNA Nanorobot Functions as a Cancer Therapeutic in Response to a Molecular Trigger in Vivo.” Nature Biotechnology, Feb. 2018.
  60. “The use of nanobots as brain extenders will be a significant improvement over surgically installed neural implants, which are beginning to be used today. Nanobots will be introduced without surgery, through the bloodstream, and if necessary can all be directed to leave, so the process is easily reversible.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 6,114.
  61. “Consider replacing a tiny portion of my brain with its neuromorphic equivalent. Okay, I’m still here: the operation was successful (incidentally, nanobots will eventually do this without surgery). We know people like this already, such as those with cochlear implants, implants for Parkinson’s disease, and others. Now replace another portion of my brain: okay, I’m still here . . . and again. . . . At the end of the process, I’m still myself. There never was an “old Ray” and a “new Ray.” I’m the same as I was before. No one ever missed me, including me. The gradual replacement of Ray results in Ray, so consciousness and identity appear to have been preserved.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 7,511.
  62. Roger Penrose. The Emperor’s New Mind. Oxford University Press (November 9, 1989).
  63. “Penrose’s position has been interpreted to imply that it is impossible to perfectly replicate a set of quantum states, so therefore perfect downloading is impossible. Well, how perfect does a download have to be? If we develop downloading technology to the point where the “copies” are as close to the original as the original person is to him- or herself over the course of one minute, that would be good enough for any conceivable purpose yet would not require copying quantum states.” Kurzweil, Ray. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 8,886.
  64. Fisher, Matthew PA. “Quantum cognition: the possibility of processing with nuclear spins in the brain.” Annals of Physics 362 (2015): 593-602.
  65. Jedlicka, Peter. “Revisiting the Quantum Brain Hypothesis: Toward Quantum (Neuro)Biology?Frontiers in Molecular Neuroscience 10 (2017).
  66. “the firing of a neuron can be considered a digital event whereas neurotransmitter levels in the synapse can be considered analog values” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 2,678.
  67. “the human brain uses digital-controlled analog methods.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 8,443.
  68. “We should keep in mind, as well, that digital computing can be functionally equivalent to analog computing ― that is, we can perform all of the functions of a hybrid digital-analog network with an all-digital computer.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 2,726.
  69. Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 548.
  70. Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 552.
  71. Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 7069.
  72. “Seth Lloyd estimates there are about 1080 particles in the universe, with a theoretical maximum capacity of about 1090 cps. In other words a universe-scale computer would be able to compute at 1090 cps. To arrive at those estimates, Lloyd took the observed density of matter ― about one hydrogen atom per cubic meter ― and from this figure computed the total energy in the universe. Dividing this energy figure by the Planck constant, he got about 1090 cps.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 7080-7084.
  73. “If, as seems highly unlikely, it is possible to extrapolate the exponential progress of Moore’s law into the future, then it will only take two hundred and fifty years to make up the forty orders of magnitude in performance between current computers that perform 1010 operations per second on 1010 bits and our one kilogram ultimate laptop that performs 1051 operations per second on 1031 bits.” Lloyd, Seth. “Ultimate physical limits to computation.” Nature 406, no. 6799 (2000): 1047. p.17
  74. “In terms of computation, and just considering the electromagnetic interactions, there are at least 1015 changes in state per bit per second going on inside a 2.2-pound rock, which effectively represents about 1042 (a million trillion trillion trillion) calculations per second. Yet the rock requires no energy input and generates no appreciable heat.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 2,329.
  75. “Not surprisingly, the concept of complexity is complex.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 938.
  76. “One concept of complexity is the minimum amount of meaningful, non-random, but unpredictable information needed to characterize a system or process.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 965.
  77. Shannon, C. E. “The mathematical theory of communication.” The Bell System Technical Journal, Vol. 27, pp. 379–423, 623–656, July, October, 1948.
  78. ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770年8月27日 – 1831年11月14日)は、ドイツの観念論哲学者で、精神は、絶対精神において、主観精神と客観精神の対立を克服し、神の高みに到達すると考えた。
  79. “Once we saturate the matter and energy in the universe with intelligence, it will “wake up,” be conscious, and sublimely intelligent. That’s about as close to God as I can imagine.” Ray Kurzweil. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 7,298.
  80. “Ich bin ein Singularitarian.” Kurzweil, Ray. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Kindle edition. Penguin Books; 1st edition (September 22, 2005). Location. 7,159. これは、言うまでもなく、1963年6月にケネディ大統領が西ベルリンで行った演説での「イッヒ・ビン・アイン・ベルリーナ Ich bin ein Berliner」のパロディーである。
10月 072017
 

古代ローマ帝国は、いわゆる五賢帝時代に最盛期を迎えた後、徐々に衰え、大移動を開始したゲルマン民族に蹂躙され、滅んだ。なぜ古代ローマ帝国は持続不可能になったのか。諸説を検討しながら、私の仮説を提示したい[1]

1 : ローマ帝国はいつ滅びたのか

ローマ帝国はトラヤヌス帝(在位:98年-117年)の時に版図が最大となった後、徐々に衰退し、終わりがはっきりしない。だから、ローマ帝国がいつ滅びたのかという問いに答えることは難しい。しかし、特定の時点で区切らないと教科書的に不都合なので、歴史学界はいくつかのエポック・メイキングな出来事を候補として挙げている。

1.1 : 時期に関する定説

395年にローマ帝国が東西に分裂した後、すぐに消滅した西ローマ帝国とは異なり、東ローマ帝国は、オスマン帝国のメフメト2世が首都コンスタンティノポリスを陥落させた1453年まで続く。そこで、ローマ帝国が最終的に滅んだのは、1453年ということができる。しかし、首都がローマではなく、七世紀以降公用語がラテン語からギリシャ語になった帝国をローマ帝国と呼ぶことは本来適切ではなく、このため、後世の歴史家の中には、東ローマ帝国のことを、首都の旧名ビュザンティオンに因んで、ビザンツ帝国と呼ぶ者もいる。

ローマを首都とする本来の意味でのローマ帝国、西ローマ帝国は、幼帝ロムルス・アウグストゥルスが、ゲルマン人オドアケルの圧力で退位し、オドアケルが西ローマ帝国皇帝ではなくて、イタリア領主を名乗った476年に滅亡したというのが定説である。

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Fig.01. オドアケルに帝冠を渡すロムルス・アウグストゥルス[2]。19世紀の作品。

レオナルド・ブルーニ以来の説[3]では、476年から中世が始まったということになっているので、それ以前のローマ帝国が古代ローマ帝国であるのに対して、その後も存続した東ローマ帝国は中世ローマ帝国として別扱いすることもできる。だから、西ローマ帝国はなぜ滅亡したのかという問いは、なぜ古代が終わり、中世が始まったのかという問いと同じと言うこともできる。

1.2 : 時期に関する異説

もっとも、476年というのは、ローマ帝国の歴史にとって特別に画期的な年ではなかった。そもそも、ロムルス・アウグストゥルス帝は、正統な西ローマ皇帝であるネポス帝をクーデターで追放したゲルマン人オレステスが擁立した、傀儡皇帝(実の息子)で、東ローマ帝国皇帝をはじめ、周囲は正当な皇帝とは認めていなかった。だから、最後の正統な西ローマ帝国皇帝であるネポス帝が殺害された480年を西ローマ帝国が滅んだ年とみなす学者もいる。

他方で、それ以降も西ローマ帝国は存続したとする見解もある。800年に、フランク王国のカール大帝が、ローマ教皇より西ローマ帝国皇帝の称号を得たことで、西ローマ帝国が復活し、それは神聖ローマ帝国として引き継がれたという事実がその根拠である。1453年に東ローマ帝国が滅びた後も、オスマン帝国やロシア帝国がローマ皇帝の継承を主張した。もちろん、それは形式的な継承に過ぎないが、こうした事情もあって、ローマ帝国がいつ滅びたかに関しては、明快に答えることができない。

1.3 : 社会的経済的変化

政治的イベントで区切る代わりに、社会的経済的な構造変化に着目して時代を画する方法もある。中世の社会と経済を特徴付けているのは、封建制と農奴制である。ローマ帝国の最盛期においては、皇帝が強力なローマ軍によって帝国内のローマ市民の安全を保護していた。ところが、帝国領内に蛮族が移住してくる四世紀末以降、ローマ市民はもはや身の安全を皇帝とローマ軍に期待することができなくなる。ちょうど応仁の乱以降、戦国大名が群雄割拠して室町幕府が有名無実化したように、西ローマ帝国も、蛮族が帝国内で我が物顔に振る舞うようになったことで、有名無実化したのだ。

かつては自律的に独立していたローマ帝国内の自作農たちは、ますます激しくなる蛮族による収奪とますます重くなるローマ帝国の税金という二つの搾取に耐えかねるようになった。その結果、彼らは土地を地域の有力者に寄進し、自由を放棄して、農奴となって働くことで、身の安全と経済的保護を有力者(封建領主)に委ねるようになった。かくして、中世を特徴付ける封建制と農奴制が誕生した。

こうした社会的経済的な構造変化は、表層的な政治的イベントよりも歴史の変化を考える上で重要である。476年という年で区切るかどうかは別として、西ローマ帝国ないし古代ローマ帝国は、辺境の蛮族の攻撃を受け、段階的に衰退し、有名無実化し、五世紀ごろに事実上消滅し、中世的な社会に移行したと結論付けてよい。本稿では、以下、その段階的衰退の原因を探りたい。

2 : 滅亡原因に関する様々な説

古代ローマ帝国滅亡の原因としては、様々なものが挙げられている、中には、結果と原因を混同しているものもあるのだが、ここでは、代表的なものを挙げて、論評しよう。

2.1 : 蛮族侵入説

最もポピュラーな説は、古代ローマ帝国は、周辺の蛮族、特にゲルマン民族に滅ぼされたという説である。西進してきたフン族に襲撃された東ゴート族が南西の方角に逃げ、その東ゴート族に圧迫される形で、西ゴート族が376年にドナウ川を渡り、378年にアドリアノープル(ハドリアノポリス)の戦いでローマ軍を破ったのが、ゲルマン民族の大移動の始まりだった。その後、東ゴート、ヴァンダル、アングロ・サクソン、ランゴバルドな様々なゲルマン民族がローマ帝国領に侵入した(Fig.02)。それ以前にも蛮族がローマ帝国を襲来することはあったが、彼らは略奪を終えると本拠地に戻った。だが、四世紀末以降、蛮族は本拠地を捨て、女子供を含めて、民族全体で移動を開始し、ローマ帝国内に居座り続けた。この違いはなぜ起きたのだろうか。

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Fig.02. ローマ帝国崩壊時のヨーロッパにおける民族移動[4]。画像クリックで拡大。

これが西ローマ帝国滅亡の直接の原因であったことは、私も否定しない。問題は、なぜ、ゲルマン民族の大移動が惹き起こされ、なぜ西ローマ帝国は、東ローマ帝国とは異なり、それを撃退し続けることができなかったかである。それを説明するために、三世紀にゲルマニアで蹄鉄が発明され、ゲルマン民族の騎馬勢力が強力となり、歩兵中心のローマ軍を圧倒したという説があるが、当時のゲルマン民族には歩兵も多かったし、またこれと戦っていたローマ軍の中にも、大量のゲルマン人の傭兵がいたから、あまり説得力はない。

2.2 : 士気低下説

ローマ帝国衰亡史』の著者として有名なエドワード・ギボンは、ローマ市民の道徳の低下が、根本的な原因だと見ていた。ローマ市民は、国防をゲルマン傭兵に頼るようになり、それが軍紀の乱れをもたらして、命取りになったというわけである。

勝ち誇るローマ軍は、遠隔地で戦争をしているうちに、外国人や傭兵の悪徳に染まり、まず共和国の自由を抑圧し、その後は皇帝の威厳を踏みにじった。 皇帝は、自分の身の安全と国家の平和を心配するあまり、軍紀を乱すことになる卑屈な急場しのぎに甘んじ、その結果、ローマ軍は、敵に対してだけでなく、統治者にとっても手に負えない存在になった。軍政の活力は陰りを見せ、最終的には、コンスタンティヌス大帝の不公平な制度によって失われた。そして、ローマの世界は蛮族の大洪水によって圧倒された。[5]

これもあまり説得力のない説明である。ローマ帝国が、領土を拡張するにつれて、被征服民を軍団に参入させていくことは不可避的である。ゲルマン民族と一口に言っても、ローマ帝国の国境近くにいる文明化された近蛮族とその背後にいる遠蛮族がいて、文明化された近蛮族の中にはローマ人以上に文明的になった者もおり、彼らを使って遠蛮族を攻撃するという戦略は決して悪くはなかった。むしろ、フラウィウス・スティリコのような、蛮族出身でありながら、ローマ人以上にローマ的だった有能な司令官を不当に扱ったことが、ローマ帝国滅亡の原因だったという説もある。それが次の節であるである。

2.3 : 蛮族差別説

弓削達は、『ローマはなぜ滅んだか』において、ローマ滅亡の原因を、ローマ人がゲルマン人を蔑視し、中心と周辺の逆転を受け入れることができなかった所に求めている。

四世紀以後のローマ人たちが、ローマに入ってローマのために働いている上下のゲルマン人たちを殺戮したり、追い出したりすることなく(これらのゲルマン人なくしてローマはすでに立ちゆかなかったのだ)、彼らと共に、ありのままのゲルマン的生活文化によってギリシア・ローマ文明を変成させてゆく度量を大きく持てなかったことにたいして、深い遺憾の意をいだかざるをえないのである。このようにローマ人に対して苦言を呈することは、ボートピープルを笑顔で受容れよ、とか、外国人労働者を大切にせよ、とか、在日韓国・朝鮮人を差別的に扱うな、というのと同じくらい、今の日本人には非現実的な勧告に響くかもしれない。しかし、文明世界の永続は、ニーズの世界や第三世界との平和的共栄なくしては不可能であることは、現代世界もローマ世界も変わりはないと思うのである。[6]

ローマ人が蛮族を軽蔑していたのは事実である。しかし、それと日本における外国人差別を同等に扱うことはできない。日本は、民族や文化という点で等質性の高い国なので、外国人差別は民族差別ということになるが、ローマ帝国は多民族国家であり、ローマ人の蛮族差別は、民族差別と同一視できない。そもそも、ローマ帝国では、ゲルマン人は蛮族と必ずしも同じではない。蛮族、すなわちバルバロイ(βάρβαροι)とは、ギリシャ語で「聞きづらい言葉を話す人々」という意味だが、ローマ帝国では、ローマ人であるためには、ラテン語を話す必要はない。血統がゲルマン人で、ゲルマン的生活文化を持っていても、法律を守って文明的に振る舞う限り、ゲルマン人はローマ人とみなされる。この点で、ローマ帝国は同時代の民族国家よりもずっと包容力があり、多様性に対して寛大であったと評することができる。

ローマの法律を守るならローマ人という定義に従って言うなら、ローマ人が蛮族を軽蔑したり、排除したりすることは不当ではない。法律を遵守しない人々がローマ帝国内で増えれば、ローマ帝国の秩序は瓦解するのだから、ローマ人がそうした人々を軽蔑し、「周辺」へと排除しようとしたことを西ローマ帝国滅亡の原因と見做すことはできない。むしろ、排除できなかったからこそ西ローマ帝国は法的秩序を維持することができずに、崩壊したと言うべきだ。

もとより、弓削が指摘するように、古代末期のローマの支配者階級の間で、偏狭な排他主義の感情が高まったのは事実だ。一般的に言って、生活にゆとりが無くなると、心にもゆとりが無くなるものだ。現在の米国のラストベルトにいるトランプ大統領の支持者にその傾向がみられる。しかし、もともとローマ帝国が異民族と異文化に対して比較的寛大であったことを考慮に入れるなら、排他的感情を持つようになったから衰退したのではなくて、衰退したから排他的感情が生まれるようになったというように因果関係を定めるべきだ。実際、蛮族の攻撃を受けて、同時期の東ローマ帝国でも排他的な感情が高まったが、こちらは西ローマ帝国と同時に滅びることはなかった。

2.4 : キリスト教説

ギボンは、『ローマ帝国衰亡史』において、キリスト教の国教化をローマ帝国衰退の原因の一つとして挙げている。キリスト教が普及するに連れて、人々の関心がこの世からあの世に行き、この世での支配を維持しようとする人々の熱意を失わせることになったというのである。

来世の幸福が宗教の一大目的であるのだから、キリスト教の導入、あるいは少なくとも濫用がローマ帝国の衰退と崩壊にいくらか影響を及ぼしたことは驚くに足りない。 聖職者の説教の結果、人々は辛抱強い小心者となり、積極的であることをよしとする社会の美徳が廃れ、戦闘精神の最後の痕跡も修道院の中で埋没した。公私の富の大きな割合が、慈善や信仰といったもっともらしい口実のもとに奉献され、兵士の給料までが、禁欲と貞操の価値を訴えることしかできない、役立たずな多数の男女のために惜しげもなく使われた。[7]

キリスト教が常に帝国を衰退させるとは限らない。大航海時代のポルトガルとスペインは、カトリック教を世界に広めようとする情熱に駆られて、世界帝国を作った。とはいえ、キリスト教国教化により、ローマ帝国の富が宗教という非生産的な活動に浪費されたことがローマ帝国を衰退させる一因になったことは確かだ。ギボンは触れていないが、キリスト教国教化で起きたもう一つの不都合は、それまで有能な軍人が軍の支持によって皇帝に選ばれていたのが、おおよそ皇帝にはふさわしくない無能な前皇帝の親戚(場合によっては幼い子供)が、神意のもと皇帝に選ばれるようになったということだ。

これらはローマ帝国を衰退させた原因の一つではあるが、決定的な役割を果たしたとは言い難い。東ローマ帝国には、西ローマ帝国よりもキリスト教徒が多かったが、西ローマ帝国よりも長く存続することができたからだ。

2.5 : 貨幣改悪説

経済的側面から、ローマ帝国の滅亡を説明しようとする人もいる。例えば、三世紀以降、貨幣の銀含有率が大幅に低下し、これがインフレをもたらしたという事実がよく指摘される。歴史家のジョセフ・ペデンは次のように言う。

西ローマ帝国の経済は、おそらく東ローマ帝国よりも致命的に衰退していた。五世紀初頭のマルセイユのキリスト教司祭、サルウィアヌスは、なぜ西ローマ帝国が崩壊したのかを、フランスに身を置きつつ説明している。彼が言うには、ローマ帝国が崩壊しているのは、崩壊に値するから、すなわち、人々に対する正義という良い政府の大前提を否定していたからだ。

ここで彼が謂う所の正義とは課税制度のことだ。私はサルウィアヌスが誇張しているとは思わないのだが、彼が言うには、五世紀にローマ帝国が崩壊した理由の一つは、ローマ帝国の一般大衆が、蛮族の支配下に入った後、ローマの官僚制の支配下に二度と入りたくないとひたすら願ったところにある。

言い換えれば、ローマ帝国は敵で、蛮族は解放者だったのだ。そして、これは間違いなく、三世紀のインフレに起因している。国家の支配者は、自分たちの選挙区民[官僚と軍隊]のために貨幣問題を解決したが、大衆のためにそれを解決することはできなかった。ローマは、支配階級である官僚や軍隊の金庫を満たすために、抑圧的な課税制度を使い続けたのだ。[8]

大衆が使っていた貨幣は、銀含有率の低下によりインフレを起こしたが、支配階級は価値が下がらない金貨を使うという二重構造があり、これが大衆を苦しめたというのである。しかし、もし国家財政が豊かなら、発行している通貨に銀が一分子も含まれなくても、悪性のインフレを惹き起こさないはずである。銀が不足したから、商品経済が衰退したわけではなかった。

問題は、蛮族侵入の頻発化で、歳出は増える一方なのに、農作物が不作で、歳入が落ち込んでいたことである。古代ローマ時代も末期になると、ローマの軍隊は、 かつての三十万から六十万に倍増し、借地料は、10%から50%以上に跳ね上がっていた。このため、耕作を放棄する農民が続出し、農地が荒れ果て、収入の不足を補うために、さらに借地料が上げられるという悪循環が続いた。

古代ローマ時代末期のインフレは、経済成長をもたらすインフレではなくて、スタグフレーション、つまり物不足によるコスト・プッシュ・インフレの様相を呈していた。

なぜなら、三世紀後半になって、金利の低下現象が起こっているのだ。「パクス・ロマーナ」が完璧に機能していた時代の金利は年率十二パーセントが普通であったのが、この時代四パーセントにまで下がっているのである。これも、投資意欲の減少傾向の反映ではなかったか。[9]

スタグフレーションは、物不足が深刻になった、敗戦や石油危機のときの日本に起きたような、景気後退をもたらすインフレで、実質金利は低くなる。インフレにおいては、信用貨幣の名目金利は上昇する。しかし、商品貨幣で計測した金利は、実質金利(潜在成長率)を表していると考えられるので、スタグフレーションでは低下する。では、なぜスタグフレーションの原因となる物不足が起きたのか、この点が問われなければならない。

2.6 : 疫病流行説

古代ローマ帝国では、疫病の流行が原因で、二世紀から七世紀にかけて人口が減少したと言う人がいる[*]。144年から146年、171年から174年にエジプトの人口が2/3になり、165-180年には、マケドニアから始まって、ローマ帝国のほぼ全土に「アントニヌスの疫病」が、251-266年には、一日に5千人が死ぬ、より悪質な「キプリアヌスの疫病」が流行した。こうした疫病が人口を減少させ、それが税収の不足をもたらしたという説が唱えられることがある。

[*] 但し、ローマ帝国の人口については、詳しいことはよくわかっていない。紀元前後のアウグストゥスの時代で、五千四百万人程度[10]と推定され、アントニヌスの疫病前にピークに達した後減少に転じ、紀元350年で三千九百三十万人程度になった[11]と考えられている。西ローマ帝国崩壊以後のヨーロッパの人口はさらに減少に転じ、ローマ帝国時代の人口を完全に超えるようになったのは十五世紀半ば以降である[12]

しかし、古代ローマ帝国の衰退が決定的になる三世紀から五世紀には、大きな疫病の流行はなかった。もしも農作物が十分実っていたのなら、疫病で一時的に人口が減っても、すぐに回復することができたはずである。問題は、なぜ、人口を回復させるだけの食料が生産できなくなったかである。

3 : ローマ帝国盛衰の気候的背景

以上、様々な説を検討したが、どの説でも、その原因を根本的に問い詰めていくと、二つの重要な原因に突き当たる。本節では、その根本原因を説明する仮説を提示したい。

3.1 : 根本的原因は何か

ローマ帝国を衰退させた二つの原因のうち、一つは、ゲルマン民族の侵入の頻繁化とそれに伴う軍事支出の増大であり、もう一つは、作物の不作による税収入の減少である。歳入が減り続け、歳出が増え続ければ、当然のことながら、国家財政は破綻する。西ローマ帝国の場合、この二つの現象は、一つの原因で説明できる。気候の寒冷化である。気温が下がると農業は凶作となる。また、北方の蛮族は、南の暖かい気候を求め、本拠地を捨てて南下してくる。

振り返ってみると、ローマ帝国は、温暖化により膨張し、寒冷化により収縮したと言えそうである。紀元前800年から400年の寒冷期において花開いたギリシャ文明は、ローマ帝国に受け継がれ、その後の温暖化とともに、ローマ帝国の版図は拡大し、トラヤヌス帝の時に最大になった。しかし、トラヤヌス帝が死去したあたりから、気温は再び下がり始めた。

以下の図(Fig.03)は、古代ギリシャの黎明期から中世初期にいたるまでのヨーロッパの気候の変遷を説明したものである。

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Fig.03. 古代から中世にかけてのヨーロッパにおける生態系の変化[13]。キャロル・クラムリー編『歴史的生態学』掲載の図をブライアン・ファガンの『長い夏』より間接引用。Mediterraneanは、地中海性気候、Atlanticは、西岸海洋性気候で、温帯気候に属する。Continentalは、湿潤大陸性気候で、冷帯気候に属する。

四つあるうち、左上は、紀元前1200年から紀元前300年、つまり古代ギリシャ文明が出現した頃から共和政ローマが成立した頃のヨーロッパの気候である。地中海性気候の北限を示すライン(Mediterranean)が、現代よりも南にある寒冷な気候であったことがわかる。右上の図は、紀元前300年から紀元300年、つまりローマ帝国が全盛期を迎えていた頃のヨーロッパの気候である。地中海性気候のラインが、現代よりも北にある、かなり温暖な気候であったことがわかる。ローマ人たちは、地中海性気候の北上に合わせるかのように、ケルト人を駆逐して、北方へと膨張して行ったということだ。そして左下の図は、紀元500年から900年、ローマ帝国が滅んだ後、南下したゲルマン民族が各地で建国した中世初期のヨーロッパの気候である。地中海性気候のラインは再び南下している。あたかもこのラインの南下に合わせて、ゲルマン民族は南下したかのようである。

もしも、寒冷化が西ローマ帝国を滅ぼしたのだとするならば、なぜ東ローマ帝国は、同じ原因で滅びなかったのかと読者は訝しく思うかもしれない。東ローマ帝国は、西ローマ帝国とは異なって、高度な文明国であるペルシアと国境を接していた。このため、税源を農作物のみに頼る必要はなく、交易による富にも依存することができた。つまり、凶作による税収入の落ち込みが、西ローマ帝国ほどひどくはなかったと考えられる。ギリシャ語圏の人口密度は、20.9人/km2と推定され、ラテン語圏の人口密度、10.6人/km2のほぼ二倍で[14]、西ローマ帝国よりも東ローマ帝国の方が資源豊かで、蛮族を撃退する人手に比較的困らなかったことが窺える。

気温が低下すると、体力がなくて、免疫が機能しない人は風邪をひきやすくなるが、そうではない人は平気というように個人差が出る。ローマ帝国への侵入を試みる蛮族は、体内に侵入しようとするウィルスのようなもので、東ローマ帝国のように、体力(経済力)があって、免疫(軍隊)が機能する国は、寒冷化という悪条件下でも、これを跳ね返すことができるが、西ローマ帝国のようにそうではない国は、ウィルス(蛮族)の餌食となり、死に至るということである。

3.2 : 気候と文明の関係

気候が文明に影響を与えることは、様々な事例で確認できることだが、ここで少し復習をしよう。一般的に言って、寒冷化はイノベーションを惹き起こし、温暖化はそれを継承した文化や文明が拡大、普及する。以下の図(Fig.04)は、紀元前五千年以降の北半球における気温変化を表したもので、中央にある紀元前2600年頃を谷底とする亜氷期では、所謂四大文明が最盛期を迎えている。この亜氷期に定まった名称はないので、ここでは、花粉層序の名称から借用して、サブボレアル寒冷期と名付けることにしたい。

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Fig.04. グリーンランドの氷床コアから復元された完新世における気温の420年移動平均線[15]。縦軸は、酸素同位体比の標準化された変異、横軸は時間軸で、単位は西暦。紀元前は負の値で表示。

サブボレアル寒冷期で始まった都市革命は、紀元前1800年ごろから始まる温暖湿潤化の中で衰退し、都市から地方へと拡散していった。図では、この温暖期をサブボレアル温暖期と名付けたが、ヨーロッパなどでは、ミノア温暖期(Minoan Warm Period)と呼ばれることがある。ミノア文明(クレタ文明)が栄えた時期と一致するからだ。ミノア文明もまた、寒冷期に南下してきたアカイア(アケーア)人によって破壊され、崩壊した。

花粉層序の名称に従うならば、サブボレアルの次はサブアトランティックであるが、紀元前500年から現代までをこの名称で一括するのは、歴史時代を語る上で大雑把過ぎるので、古代・中世・近代というヨーロッパの伝統的な三区分法で分割しよう。面白いことに、古代と中世、中世と近代はいずれも寒冷期で画期されている。古代も中世も近代も、前半の寒冷期で革命が起き、後半の温暖期で成熟する。古代寒冷期と私が名付けた時期は、枢軸時代と呼ばれている時代で、宗教革命が起きた時期である。その後の古代温暖期に、ヨーロッパと中国では、ローマ帝国と漢という二大帝国が成立した。この二つの帝国は、同じような運命をたどる。

3.3 : ローマ帝国と漢

古代温暖期が終わった後、中世寒冷期が始まる。これに関しては、以下の西暦200年以降の気温の偏差を表すグラフ(Fig.05)を見ていただきたい。西暦100年から700年にかけての谷間を、私は中世寒冷期と名付けたが、日本の学界では古墳寒冷期と呼ばれる[16]。中央の山が中世温暖期(Medieval Warm Period)で、この名称は一般的に用いられている。右の谷間の近代小氷期(Little Ice Age)も、それ以上に定着している。

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Fig.05. 西暦200年から1980年までの北半球での気温の変化[17]。縦軸は、1961-1990年を基準(0)とした気温の偏差。

中世寒冷期(古墳寒冷期)は、古代寒冷期で生まれた去勢宗教が世界に普及していく時期である。多神教を信仰し、一神教であるキリスト教を弾圧していたローマ帝国は、キリスト教を公認し、最終的には国教にまでした。それは、解体し始めた帝国を一神教で統一しようとする試みであった。やがて中東ではイスラム教が、中国では仏教が普及し、プリミティブな自然宗教は、ほとんど姿を消すようになる。ヨーロッパ人にとって中世は暗黒時代だが、この寒冷期は、古代ギリシャの文化遺産がサーサーン朝ペルシアやイスラム帝国によって受け継がれ、中東でイノベーションを起こした時期でもある。

中世寒冷期が日本で「古墳寒冷期」と呼ばれるのは、この時期が日本国内で古墳が造成された時代と重なるからである。しかし、世界的な寒冷化で起きた現象に着目するなら、「民族大移動寒冷期」と呼ぶこともできるかもしれない。なぜなら、この時代、北方騎馬民族が南下するという現象がユーラシア大陸全土で見られたからである。

江上波夫氏の有名な騎馬民族征服王朝説も、この世界史的出来事を背景に、4世紀の日本における大和朝廷の成立を説明したものである。彼は、古墳時代後期の副葬品に、前期とは異なって、馬具類が見られることなどから、ユーラシア大陸の騎馬民族が、朝鮮半島を南下して、北九州に上陸し、さらに畿内に遠征して、大和政権を樹立したのではないかという仮説を立てた。私はこの仮説を支持しないが、いわゆる神武東征は、気候悪化を原因とする一種の民族大移動であったと解釈している。

他方で、中国では、地中海世界とパラレルな現象が起きた。精神革命が起きた古代寒冷期において、ギリシャのポリスが争いながらも高度な哲学や学問が栄えていた頃、中国では、春秋戦国時代で、諸子百家が様々な思想を唱えていた。アレクサンドロス大王、続いて、ローマがギリシャ文明を継承して、広大な帝国を築いていた温暖期には、秦の始皇帝、続いて漢が高度な中国文明を継承して広大な帝国を築いた(Fig.06)。

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Fig.06. 紀元前後のユーラシア大陸[18]。匈奴は、後漢による攻撃を受け、西進し、フン族となって、ヨーロッパに出現したという説があるが、真相は不明。中国北部では、匈奴に代わって、鮮卑が台頭し、五胡十六国時代には、華北へ移住した。

しかし、民族大移動寒冷期になると、ローマ帝国にゲルマン民族が移住を開始したように、中国の華北地方に北方遊牧民族が移住を開始した。そして、旧西ローマ帝国の領土が、ゲルマン民族の群雄割拠状態となっていた頃、華北は、五胡十六国時代と呼ばれる、北方遊牧民族による群雄割拠状態となっていた。700年以降の温暖期にフランク王国による統一王国ができた頃、中国には唐という統一王朝ができた。

最後に、もう一つ類似性を示そう。凶作と治安の悪化という絶望的な時代に、ヨーロッパでキリスト教が普及した頃、中国では仏教が普及しだした。キリスト教の原型である古代ユダヤ教と仏教の原型である原始仏教が精神革命寒冷期において誕生し、民族大移動寒冷期において、ヨーロッパと中国という新天地で信者を獲得したことは、偶然とはいえない。キリスト教と仏教は、ともに去勢宗教である。母なる自然が冷たくなった時、去勢が行われるのだ。

4 : 参照情報

  1. 本稿は、2006年12月13日に公開した「古代ローマ帝国はなぜ滅んだのか」を改訂したものである。私と同じ考えは、Büntgen, Ulf, et al. “2500 Years of European Climate Variability and Human Susceptibility.” Science 331.6017 (2011): 578-582.でも示されているが、私の方が公表時期は早い。
  2. Romulus Augustulus resigns the Roman crown to and Odoacer.” 19th century illustration. Licensed under CC-0.
  3. Leonardo Bruni. History of the Florentine People. p.xvii. First published in 1442. Cf. History of the Florentine People, Volume 1: Books I-IV (The I Tatti Renaissance Library) . Harvard University Press (2001/4/26).
  4. Novarte. “Late Roman Empire Migration Period Barbarian Invasion schematic map.” Licensed under CC-BY-SA and modified by me.
  5. “The victorious legions, who, in distant wars, acquired the vices of strangers and mercenaries, first oppressed the freedom of the republic, and afterwards violated the majesty of the purple. The emperors, anxious for their personal safety and the public peace, were reduced to the base expedient of corrupting the discipline which rendered them alike formidable to their sovereign and to the enemy; the vigour of the military government was relaxed, and finally dissolved, by the partial institutions of Constantine; and the Roman world was overwhelmed by a deluge of Barbarians.” Edward Gibbon. “The History of the Decline and Fall of the Roman Empire”. Volume III. Chapter XXXVIII. “Reign Of Clovis.” Part VI. “General Observations on the Fall of the Roman Empire in the West.”
  6. 弓削 達.『ローマはなぜ滅んだか (講談社現代新書) 』. 講談社 (1989/10/20). p.228.
  7. “As the happiness of a future life is the great object of religion, we may hear without surprise or scandal that the introduction, or at least the abuse of Christianity, had some influence on the decline and fall of the Roman empire. The clergy successfully preached the doctrines of patience and pusillanimity; the active virtues of society were discouraged; and the last remains of military spirit were buried in the cloister: a large portion of public and private wealth was consecrated to the specious demands of charity and devotion; and the soldiers’ pay was lavished on the useless multitudes of both sexes who could only plead the merits of abstinence and chastity.” Edward Gibbon. “The History of the Decline and Fall of the Roman Empire”. Volume III. Chapter XXXVIII. “Reign Of Clovis.” Part VI. “General Observations on the Fall of the Roman Empire in the West.”
  8. “The economy of the West was perhaps more fatally weakened than that of the East. The early 5th century Christian priest Salvian of Marseille wrote an account of why the Roman state was collapsing in the West — he was writing from France (Gaul). Salvian says that the Roman state is collapsing because it deserves collapse; because it had denied the first premise of good government, which is justice to the people. By justice he meant a just system of taxation. Salvian tells us, and I don’t think he’s exaggerating, that one of the reasons why the Roman state collapsed in the 5th century was that the Roman people, the mass of the population, had but one wish after being captured by the barbarians: to never again fall under the rule of the Roman bureaucracy. In other words, the Roman state was the enemy; the barbarians were the liberators. And this undoubtedly was due to the inflation of the 3rd century. While the state had solved the monetary problem for its own constituents, it had failed to solve it for the masses. Rome continued to use an oppressive system of taxation in order to fill the coffers of the ruling bureaucrats and soldiers.” Joseph R. Peden. “Inflation and the Fall of the Roman Empire ― 50-minute lecture given at the Seminar on Money and Government in Houston, Texas, on October 27, 1984.” Mises Institute.
  9. 塩野 七生.『ローマ人の物語 (12) 迷走する帝国』. 新潮社 (2003/12/13). p.254.
  10. Beloch, Karl Julius. Die Bevölkerung der griechisch-römischen Welt. 1886. p.507.
  11. Russell, Josiah Cox. “Late Ancient and Medieval Population.” Transactions of the American Philosophical Society 48.3 (1958): 1-152.
  12. Scheidel, Walter. “Demography”, in The Cambridge Economic History of the Greco-Roman World. Walter Scheidel, Ian Morris, Richard P. Saller (Editor). Cambridge University Press; Reprint (2012/11/22). p.43.
  13. Fagan, Brian. The Long Summer: How Climate Changed Civilization. Basic Books; Reprint (2004/12/29). p.192. Originally from Historical Ecology: Cultural Knowledge and Changing Landscapes (School of American Research Advanced Seminar Series). Carole L. Crumley (Editor). School of Amer Research Pr (1994/05).
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  15. Greenland Ice Sheet Project Two. “GISP2 Bidecadal Oxygen Isotope Data.” Measured at the Quaternary Isotope Laboratory, University of Washington, as of February 1st, 1997.
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9月 292017
 

日本は、覇権国と同盟関係を築き、その先進文明を取り入れると、国運が隆盛に向かい、覇権国との同盟関係を解消したり、覇権国と戦おうとしたりすると、国運が衰退に向かうという傾向がある。この傾向を過去の歴史で確認しつつ、今後日本が世界とどう向き合っていくべきかを考えたい。

1 : 日本の国運を左右する外交法則

まずは、覇権国の定義から始めたい。覇権国とは、たんに軍事と政治において強力な権力を持っているのみならず、経済と科学技術の水準も高い国、つまり先進的なシステムを持ち、そのゆえに周辺諸国に大きな支配的影響力を持つ国のことである。システムが先進的でない国は、たとえ冒険的戦争に偶然勝利を収めたとしても、その覇権は長持ちしない。覇権の確立には、科学技術の先進性が大きな役割を果たしていることについては、既に述べたとおりである。

世界初のグローバルな覇権国は、オランダであり、その後、大英帝国、米国が後に続いた。近代以前の世界には、地球規模の覇権国は存在しなかったが、地域的な覇権国なら存在した。後者を覇権国と呼ぶべきでないと考えている人もいるが、本稿では、地域的覇権国も覇権国の一種とみなすことにしよう。このように定義した上で、有史以降の日本の歴史を振り返ると、日本と覇権国との間には、次のような傾向が見られる。

  1. 日本は、覇権国と同盟関係を築き、その先進文明を導入することで、繁栄する
  2. 日本は、覇権国との同盟関係を解消したり、覇権国と戦おうとしたりすると、没落する
  3. 覇権国に対する対外戦争は、日本国内の内部分裂や内乱を帰結する

以下、日本の政治の大きな転換点を形成した、白村江の戦、元寇、朝鮮出兵、太平洋戦争という四つの対外戦争を中心に、この法則について検証してみよう。

2 : 白村江の戦

7世紀から8世紀にかけての東アジアにおける地域的な覇権国は唐であった。日本(当時の呼称は「倭」であるが、このページでは「日本」で統一する)は、630年以降、遣隋使に倣って遣唐使を送り、中国の先進的な文化を取り入れた。しかし、日本が当時の地域的覇権国の唐と戦ったことが一度ある。663年の白村江の戦である。

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Fig.01. 唐の版図の変遷。660年に百済が滅んでから672年に唐が朝鮮半島から撤退するまでの間、百済が唐の領土と記されている[1]

白村江の戦は、唐と新羅によって滅ぼされた百済を、中大兄皇子が、倭国に人質として滞在していた豊璋(ほうしょう)を百済王として擁立することで復興しようとする中で起きた戦争で、この戦争で惨敗した結果、日本の独立が危うくなり、その後の外交方針を巡って壬申の乱という内乱が起きた。

中大兄皇子が決断した朝鮮半島への軍事介入は、以下の理由で間違った戦争であった。

  1. 失われた任那日本府の復活ならともかく、他国である百済の復活は日本の利益にはならない。日本の国益という観点からすると、この時の百済王室再興の試みは、百済への任那四県割譲と同様の愚行であったと評価しなければならない。また、百済王室は、日本が復活させなくても、どのみち唐や新羅が、義慈王の太子であった扶余隆とその子孫を帯方郡王に任命することで再興することになったのだから、その意味でも無意味な出兵であった。
  2. 唐が朝鮮半島を傘下に置けば、次に日本を侵攻することが予想されたので、予防策として評価できるという見方もあるが、それが目的なら、唐が日本に侵攻するまで軍事力を温存した方が得策である。攻撃三倍の法則を持ち出すまでもなく、海を渡って敵を攻撃するよりも、海を渡ってくる敵を防御する方が軍事的に容易だからである。白村江の戦以後、唐が日本征服を計画したのは事実だが、それは日本が唐に反逆したからであって、唐の侵攻を防ぐという目的からすれば、出兵は逆効果であった。

中大兄皇子(即位後は、天智天皇)と藤原鎌足は、飛鳥に壮麗な都を建設し、蝦夷や朝鮮に無駄に遠征し、白村江の戦いに敗れてからは、国土防衛のため、水城などの築城や近江大津宮への遷都などを行い、民に過大な負担をかけ、このため、国中に怨嗟の声が満ちた。鎌足の子である藤原不比等によって改竄された『日本書紀』は、中大兄皇子を、極悪人である蘇我氏を滅ぼし、大化の改新と呼ばれるようになった改革を始めた英雄として肯定的に書いているが、所謂「大化の改新」は、その内実からすれば「退化の改旧」と呼ぶべきもので、蘇我氏が日本の外交を発展させたのに対して、中大兄皇子は日本の外交を危機に陥らせた。

こう言うと、外交に有利な難波長柄豊崎宮への遷都を根拠に、大化の改新は外交にも熱心だったと反論する人もいるかもしれない。しかし、難波長柄豊崎宮への遷都は、外交に熱心だった蘇我入鹿や孝徳天皇といった蘇我系の人々が構想し、実行したプロジェクトである。多くの人は、大化の改新が乙巳の変とともにすぐに始まったと思っているが、実際には、蘇我氏の排除は段階的に行われた。蘇我系の人材を多数登用した孝徳政権は、乙巳の変を蘇我氏内部の権力闘争に見せかけるために中大兄皇子が作ったダミー政権であり、ダミー政権が用済みになると、中大兄皇子と藤原鎌足は、これら蘇我系の人材を難波長柄豊崎宮ごと捨てて、飛鳥へと都を戻し、皇極天皇を斉明天皇として重祚させ、蘇我氏台頭以前の内向き志向の政治を復活させ、かつ人民を苦しめる悪政を行った。

森鴎外によると、「天智天皇」という漢風諡号は、殷末期の紂王が自殺した時に身に着けていた「天智玉」に因んで奈良時代に奉られたもので[2]、紂王なみに評判の悪い天皇であったことが窺われる。天智天皇は暗殺されたという説もあるが、その真偽はともかく、彼の死後、彼の後継者が支持されず、内乱、すなわち壬申の乱が起きたことは当然のことであった。壬申の乱の勝者の漢風諡号「天武天皇」は、紂王を自殺に追いやり、周を建てた武王に因んだものと考えられている。

蘇我氏は、物部氏などの反対を抑えて仏教を導入するなど、海外情勢に明るい開明的な豪族であった。それまで百済との関係を偏重していた日本の外交方針を転換させ、新羅、高句麗、隋とも交流した。ところが、それを快く思っていなかった中大兄皇子は、蘇我氏を滅ぼした後、再び百済偏重の古い外交を復活させ、百済復活のために覇権国の唐を敵に回して、大敗した。蘇我氏の多元的な外交方針が維持されていたなら、中大兄皇子の愚行は回避できていたのではないか。

白村江の戦での敗戦以降、日本は自らの後進性を自覚し、唐の先進的制度(律令体制)を積極的に国内に取り入れ、自国をミニ中国化し、その結果、四百年以上にわたる平和で安定した時代を享受することができた。それは、太平洋戦争での敗戦以降、日本が自らの後進性を自覚し、米国の先進的制度(民主主義と自由主義)を積極的に国内に取り入れ、自国をミニ米国化し、その結果、長期にわたる平和で安定した時代を享受することができているのと同じことである。

3 : 元寇(文永・弘安の役)

中国では、唐はやがて衰退し、代わって宋が台頭した。日本では唐を模範とした律令体制と貴族政治が衰退し、武士が台頭した。平忠盛とその子、平清盛は、日宋貿易に力を入れ、平氏政権の経済的基盤を作り上げた。平氏政権滅亡後も、鎌倉幕府は、宋に御分唐船(ごぶんとうせん)を派遣し、日宋貿易は続いた。こうした地域的覇権国との良好な関係にもかかわらず、否それゆえに、日本は次に登場する覇権国、モンゴル帝国(元)と戦うはめになる。所謂元寇である。この点で、元寇の状況は白村江の戦いの時と似ている。日本は、百済という伝統的な友好国との関係を重視したために、百済が敵対した覇権国、唐と戦うことになった。今度は、宋という伝統的な友好国との関係を重視したために、宋(南宋)が敵対した覇権国、元と戦うことになった。

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Fig.02. モンゴル帝国の版図の変遷[3]。1206年、テムジンがモンゴルを統一し、チンギス・カンを名乗る。1219年、ホラズム・シャー朝を攻撃。1223年、カルカ河畔の戦い。1227年、チンギス・カン死去。1237年、ルーシ侵攻。1259年、モンケ死去。1279年、南宋を滅ぼす。1294年、クビライ死去。大元ウルス(紫色)、中央アジアのチャガタイ・ウルス(濃緑色)、キプチャク草原のジョチ・ウルス(黄色)、西アジアのフレグ・ウルス(緑色)の四つの領域国家に分かれる。

第五代モンゴル皇帝、クビライが日本の存在を知ったのは1261年で、日本にクビライからの国書が潘阜(はんふ)によって初めて届けられたのは1268年である。この国書の末尾に「兵を用いることは好むところではない[4]」とあることから、これを日本に服従を求める脅迫文と受け取る人もいるが、末尾に威嚇文言を挿入することは当時のモンゴルの書式に従ったもので、異常とは言えない。むしろこの国書で特筆するべきことは、冒頭に「大蒙古国皇帝が日本国王に書を奉る[5]」とあることである。「奉る」というのは謙譲語で、当時モンゴル帝国が中国全域をまだ支配していなかったとはいえ、このような敬語表現を中国皇帝が日本の天皇に対して用いるのは、きわめて異例である。これを読んだ当時の関白近衛基平は、幕府の利害を代弁し、返牒反対の立場であったにもかかわらず、「和親の儀礼を称えた[6]」と日記の中で書いており、印象は好意的であったようだ。しかし、事前にこの国書を読んでいた六波羅探題は返牒反対を決めており、結局返牒されることはなかった。

朝廷が返牒に比較的前向きであったのに対して、鎌倉幕府は完全拒否の態度を最初から決めていた[7]。高麗では、モンゴルへの臣従に積極的だった文人グループ(文班)と徹底抗戦を主張する武人グループ(武班)との間で意見の対立があり、事情は日本でも同じだった。どの国でも武人グループは、自分たちの役割がモンゴル帝国に奪われるのを恐れたのだ。だから、鎌倉幕府の決断は当時としては常識的なものであった。

ここでは、しかしながら、純粋な仮定として、もしも日本が1268年の段階で戦わずしてモンゴル帝国に帰順していたならばどうなっていたかを考えよう。高麗のように属国としての悲惨な運命をたどることになると危惧する人もいるかもしれないが、それは正しくない。実はモンゴル帝国と高麗との関係は最初のうち良好だった。しかし、1225年に高麗に送られたモンゴル帝国の使節が殺害されたことで悪化し、高麗はモンゴル帝国によって軍事的に征服され、何度か反旗を翻した後、属国となった。日本も使者を殺害した挙句に、軍事的に制圧されたら、高麗と同じ境遇になっていただろうが、使者を厚遇し、戦わずして帰順していたなら、天山ウイグル王国と同様に、モンゴル帝国内で高い地位を与えられていたことであろう。

天山ウイグル王国とは、今の新疆ウイグル自治区に存在した王国で、西遼に服属していたが、1211年に、ウイグル国王のバルチュク・アルト・テギンがチンギスに帰順した。チンギスは彼の帰順を大いに喜び、彼に娘を嫁がせた。それ以後、ウイグル王家は、モンゴル帝国内でモンゴル王族に準じる待遇を受け、多くのウイグル人(色目人)がモンゴル宮廷で出世し、官僚として活躍した。日本も戦わずに最初から帰順していれば、モンゴル帝国内で支配者側のステータスを得ていたことであろう。モンゴル帝国内では、戦闘の末服従した≪外様≫が圧倒的に多く、≪譜代≫は数の上では小さな存在だった。支配を安定させるためにも、≪譜代≫の層を厚くする必要があり、この意味でも「兵を用いることは好むところではない」というのは、クビライの本心なのだろう。

モンゴル帝国は、その残虐さばかりが強調されがちだが、それはモンゴル帝国の一面に過ぎない。一般的に言って、大きな帝国を作り上げる独裁者は飴と鞭をうまく使い分けるものだ。鞭だけの恐怖政治はうまくいかない。軍事的に征服された属国も、その後モンゴル軍と一緒に行う征服戦争で軍功を立てれば、帝国内でのステータスは上昇することになっていた。高麗国王の忠烈王がクビライに日本遠征への協力を熱望したのはそのためである。モンゴル帝国は、民族的な出自を超えて、能力と功績を重視する合理的なシステムを採用していたのである。

それゆえ、戦わずにモンゴル帝国に帰順することは、多くの人が想像するほど悲惨なことではない。私は、以下の三つの理由で、潘阜に返牒し、モンゴル帝国に帰順した方が、その後の日本の近代化に肯定的な影響を与えることになったのではないかと考えている。

  1. モンゴル帝国の傘下に入れば、モンゴル帝国経由の巨大なネットワークを通して、世界各地の文化が日本に流入した可能性が高い。当時世界で最高水準の科学技術を持っていた文化圏はイスラム圏であり、その中枢部はイルハン朝のフレグによって支配された。イルハン朝と元朝の関係は良好で、このため、例えば、最先端の暦法、天体観測機器、天体観測データーがイルハン朝から元朝にもたらされた。モンゴル人は実用的な技術にしか関心を持たなかったが、日本人は知的好奇心が旺盛なので、もっと広範囲な分野でイスラムの高度文化を吸収したことだろう。アジアで最初に近代化に成功したことからもわかるように、日本人は優れた海外文化を取り入れ、それを改良する能力を持っているが、実際の歴史では、その能力を鎌倉時代に発揮する機会が失われた。
  2. モンゴル帝国に帰順すれば、日本は、ベトナムやジャワなど東南アジアへの遠征に出兵することを命じられただろう。これらの遠征は、実際の歴史通りに失敗に終わったとしても、その後の日本の海外進出を促すことになったと考えられる。日本には、明治時代になるまで、長距離の外洋航行を可能にする竜骨(キール)を持った船舶を造る技術がなかったが、クビライは、アラブ系イスラム教徒の蒲寿庚(ほじゅこう)を軍事総督に任命し、当時世界最高の技術で外洋船を建造させていた。伊万里湾で発掘されたモンゴルの軍船は、巨大な竜骨を持ち、防水性を高めるために漆喰が船体に塗られていた[8]。クビライは、日本に遠征に耐える軍船を造らせるために、技術者を日本に派遣したことだろうし、遠征を通じて日本人は航海技術や海外についての知識を得たことだろうから、日本にとって遠征への従軍は大航海時代を迎えるための準備となった。
  3. もしもモンゴル帝国との戦争を回避していたならば、鎌倉幕府はもっと長続きしていたであろう。鎌倉時代、相続による所領の細分化を防ぐために、惣領のみが所領を継承する単独相続が一般化し、その結果所領を持たない武士が増え、彼らがやがて悪党として幕府滅亡の原動力となった。日本がモンゴル帝国に帰順していたならば、国内にいた不満分子は、活路を海外に見出そうと出て行ったことだろう。遠征に失敗して死んだ場合でも、成功して武功に応じたステータスをモンゴル帝国から与えられた場合でも、どちらの場合でも、日本国内で不満分子として残留するということはなかっただろう。徳川家康は、関ヶ原の合戦以降急増した浪人たちに海外渡航を勧めた。鎌倉幕府が江戸幕府と同じことをしていたなら、江戸幕府と同様に、長続きした可能性が高い。

幕府の判断を支持する人は、クビライが、返牒の有無とは無関係に、最初から日本を武力で制圧するつもりだったと考えている人が多い。まだ使者の潘阜が戻ってきていない1268年5月の時点で、クビライは「朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ」と言い、高麗に千艘の戦艦を建造することを命じた[9]という『高麗史』の記述がその根拠だ。

だがこの話は『元史』にはない。そもそも、クビライが、日本が帰順する可能性を皆無と考えていたのなら、日本に使者を送ることすらしなかっただろう。『元史』によれば、1268年に潘阜を送った段階では、クビライは日本遠征の準備をしておらず、あくまでも日本の出方を待っていた。クビライが、屯田経略司を日本攻略拠点として設置したのは、1270年11月になってからのことだ。1268年5月にクビライが高麗に対して日本遠征のための軍艦を建造することを命じたという話も、当時まだ高麗を完全に制圧していない時期であったことを考えると不自然だ。『元史』には、日本を攻めることを口実にして高麗を攻撃することを馬亨が提案した[10]とあり、実際の目的は、高麗の完全制圧ではなかったのか。

モンゴル帝国では、使者を丁重に扱うかどうかで味方か敵かを判断する慣習があった。例えば、帝国の創始者のチンギスは、当初ホラズム・シャー朝のアラーウッディーンと通好していたが、アラーウッディーンの一族であるイナルジュクが、モンゴル帝国から派遣された通商使節団にスパイの容疑をかけて殺害したことで両者の関係は悪化した。それでもチンギスはすぐに軍事行動を起こさず、アラーウッディーンのもとに使者を派遣し、イナルジュクの引渡しを要求した。しかし、アラーウッディーンがその使者を殺害したことで、チンギスはホラズム・シャー朝の征伐を決断した。チンギスは使者を自分の分身と考え、その取扱いに対して敏感に反応した。その伝統は後継者たちにも受け継がれており、潘阜に返牒していれば、クビライの対日政策は大きく変わっていただろう。

鎌倉幕府が誕生した十二世紀は、ヨーロッパでは「十二世紀ルネサンス」と呼ばれる文化運動が起きた時代である。ヨーロッパは、イスラム商人との交易を通じて、当時世界最高であったイスラム文化を輸入し、暗黒時代から脱却し、それが後のルネサンス(イスラム経由での古代ギリシャ文明の復活)と大航海時代につながっていった。日本は、ヨーロッパよりもイスラム文化圏からずっと遠くに存在したが、モンゴル帝国の一部になっていたのなら、ヨーロッパで起きたのと同じようなことが起きていた可能性がある。

日本がモンゴル帝国に帰順したとしても、モンゴル帝国の世界制覇はどのみち長く続かなかっただろう。しかし、そうであっても、それは日本にとって大航海時代を迎える契機になりえた。日本は海に囲まれた海洋国家であったにもかかわらず、海外への進出が遅れたのは、当時の日本人は海外について十分な知識を持たず、海外交易の動機も乏しく、長距離の外洋航行を可能にする竜骨(Fig.03, 04)などの造船技術もなかったからだ。

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Fig.03. 竜骨(キール)[11]。左は、操作性に優れたフィンキールを持つヨットの写真。右の図は、直進性に優れたロングキールを持つヨットのイラスト。日本語の竜骨は、船底の中心部分を縦貫している船の背骨を指すが、英語のキール(keel)は、上の図に見られるような、船底から突き出た竜骨突起の部分を指す。本稿では両者を併せた概念として使うことにしたい。
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Fig.04. 竜骨(キール)があると船が安定することの説明[12]。船が風を受けて、風損が生じても、キールが水から得る抗力の逆向きのモーメントにより、転覆しにくくなる(左図)。また船体が傾くと、船体にはたらく浮力とキールにはたらく重力が逆向きのモーメントを与え、船体を水平に戻す(右図)。キールがあると座礁しやすくなるので、沿岸航行に向かないが、外洋航行に向く。キールを持たない和船は、沿岸航行に向くが、外洋航行には向かない。

元寇後、日本人は竜骨のない八幡船(ばはんせん)に乗って、朝鮮半島と中国の沿岸を荒らしまわった。所謂倭寇である。しかし、もしモンゴル帝国に組み込まれていたならば、日本人の渡航範囲は、イスラム文化圏にまで及ぶもっと幅広いものになっていたであろう。

実際、元を追放した明は、イスラム教徒の出身の鄭和にアフリカ東海岸にまで到達する大航海をさせた(Fig.04)。もとより、明は、中国で伝統的な朝貢のしきたりに従って、入貢してきた国に対して、貢物よりもはるかに多くの下賜物を与えたため、朝貢貿易は持続可能ではなかった。また朝貢貿易以外の民間貿易を禁止したため、ヨーロッパで起きたような大航海時代を迎えることはなかった。日本にはそうした朝貢貿易のしきたりはなく、また江戸時代になるまで海禁政策をとっていなかったので、明のようにはならなかっただろう。

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Fig.04. 鄭和艦隊の南海遠征路[13]。黒字は都市名。赤字は国名。

日本は、元との戦いを選んだために、ヨーロッパで起きたような近代化のチャンスを逃した。それだけでなく、元寇は日本に内乱をもたらすことになった。鎌倉幕府は、元寇で功績を上げた武士に十分な恩賞を与えることができず、徳政令を出して経済を混乱させ、北条氏の支配に不満を持つ武士たちの手で倒された。その後生じた南北朝時代という内乱の時期を室町幕府が終わらせたものの、室町幕府は権力基盤が弱く、応仁の乱以降は有名無実化する。結局、関東に江戸幕府という鎌倉幕府のような安定政権ができるまで270年かかった。日本にとって元寇の代償は大きかったのだ。

4 : 朝鮮出兵(文禄・慶長の役)

モンゴル帝国崩壊後、オスマン帝国がヨーロッパとアジアの交易を牛耳るようになり、ポルトガルとスペインが、その高い関税を回避するために新しい交易ルートを開拓し始めた。所謂大航海時代の幕開けである。ポルトガルとスペインとの軍事衝突を回避するため、1494年にトルデシリャス条約が、1529年にサラゴサ条約が締結され、ブラジルからモルッカ諸島までがポルトガルの勢力圏となり、その外部がスペインの領土となった。以下の図(Fig.05)は、そうした大航海時代の頃の世界情勢を表した地図である。

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Fig.05. 大航海時代におけるポルトガルの勢力圏(青色)とスペインの領土(赤色)[14]。画像をクリックして拡大可能。

この地図を見ると、日本はポルトガルとスペインの境界線上に位置することがわかる。実際、16世紀以降、ポルトガル人とスペイン人が日本を訪れるようになり、所謂南蛮文化が日本に流入した。織田信長が南蛮文化に注目し、ヨーロッパの絶対君主のような存在になることを目指していたことは既に述べた通りである。信長は、絶対君主らしく、天下統一後、中国(当時は明)を征服する遠大な計画をたて、それを1569年4月にイエズス会士のルイス・フロイスに打ち明けた。これを承けてなのかどうかはわからないが、アウグスチノ会のブライ・マルティン・デ・ラーダは、スペイン国王に明征服を進言する1569年7月付けの書簡をフィリピンのセブ島から送っている。

明はポルトガルやスペインとの交易に消極的で、国内での布教を許可しなかったので、両国の宣教師たちは明を軍事的に征服する他はないという考えに傾いていった。明征服に日本の軍事力を利用するアイデアは、天正少年使節の一行を伴ってマカオに滞在中であったイエズス会東インド巡察使、アレッサンドロ・ヴァリニャーノによる1582年12月付けのフィリピン総督宛て書簡やマニラ司教フライ・ドミンゴ・デ・サラサールによる1583年6月付けのスペイン国王宛ての報告書などにおいて見られる[15]。ただし、信長の勢力が九州にまで及んでいなかったので、宣教師たちは、当初、九州のキリシタン大名の軍事力を利用することを想定していた。

1582年6月に本能寺の変で信長が亡くなると、明征服の計画は豊臣秀吉に受け継がれた。秀吉は、イエズス会日本支部の準管区長に就任したガスパール・コエリョを1586年に大坂城に招き、明遠征計画を表明し、ポルトガルの大型船であるナウ船(Fig.06)二隻を船員付きで売却して欲しいと頼んだ。コエリョがこれに同意し、明遠征時にはインド副王と交渉して援軍を送らせてもよいと言ったため、秀吉はイエズス会による日本での布教に正式な許可を与えた。本能寺の変が起きる二年前、スペインはポルトガルを併合し、太陽の沈まぬ国となっていた。スペインは、その権力の絶頂期に、秀吉を利用して明を征服しようとしたのだ。

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Fig.06. 狩野内膳の『南蛮屏風』に描かれているナウ(キャラック)船[16]。大航海時代における代表的な遠洋航海用の船。和船とは異なりキールを持ち、甲板の安定性が高く、甲板を砲台として用いることもできたため、軍艦としても使えた。

だが日本・スペイン連合軍による明征服計画は幻に終わった。1578年6月に、コエリョは、九州征伐で博多に滞在していた秀吉に謁見し、重装備を施した小型船(フスタ船)を披露した。乗船した秀吉は、日本人が奴隷として櫓を漕いでいるのを見て、スペインは、日本をメキシコやペルーやフィリピンのように隷従させようとしているのではないかという疑念を抱くようになり、直後にバテレン追放令を出し、マニラのフィリピン総督とゴアのインド副王に降伏勧告状を出すなどして、スペインとポルトガルに公然と敵意を示した。かくして秀吉は、覇権国を敵に回し、単独で明を征服しようとし、遠征経路に当たる朝鮮半島に軍を送ったが、半島以遠に軍を進めることができず、アジア全域を支配しようという秀吉の野望が実現することはなかった。

秀吉軍は、明と李氏朝鮮との陸上戦闘ではほぼ負け知らずであった[17]のにもかかわらず、なぜ秀吉の明征服は失敗に終わったのか。それは、秀吉軍は戦闘では勝ってはいたものの、兵站で負けたからである。ルイス・フロイスの『日本史』によると、文禄・慶長の役で日本側は五万人の死者を出したが、「敵によって殺された者はわずかであり、大部分の者は、まったく、労苦、飢餓、寒気、および疾病によって死亡した[18]」。つまり、食料、衣類、医薬品などの補給に失敗し、北京まで攻め込むことができなかったのである。日本は、釜山から補給物資を陸路で輸送したが、これだと陸上の補給線が長くなりすぎて、必要な物資を前線にまで十分届けることができない。

では、もしも当初の予定通り、日本がスペインと提携し、ナウ船二隻を入手していたならば、どうなっていただろうか。ポルトガルのナウ船は、大砲を搭載した軍艦に転用可能で、これを用いるなら、李舜臣率いる朝鮮水軍を破って、半島西岸の制海権を掌握できただろう。陸と海の両方から攻めることで、朝鮮半島の征服が実際よりも早く行われただけでなく、半島西岸の港を使うことで陸上の補給線を短くすることができただろう。さらには、朝鮮半島を経ずに直接渤海から軍を上陸させ、北京を攻撃することもできた。当時世界最強クラスの陸軍を持っていた日本が、世界最強クラスの水軍を持っていたスペインとタッグを組んでいたなら、明を倒すことができたに違いない[19]

たとえ明を滅ぼすことができたとしても、その後中国の支配権をめぐってスペインと戦争となり、それに負けることで日本がスペインの属国になったのではないかと懸念する人もいるかもしれない。秀吉もそれを懸念して、スペインの協力を得ることを止めた[20]。しかし、その懸念は杞憂に終わった。文禄の役が始まる四年前にあたる1588年に、スペインの無敵艦隊がアルマダの海戦でイギリスに敗れ、「太陽の沈まぬ国」が斜陽化する。没落したスペインに中国と日本を征服する能力と意欲はなく、中国沿岸の開港と国内での布教の許可で満足しただろう。スペインには、日本のキリシタン大名を味方につけて秀吉を倒すという計画があったが、これも無理だった。秀吉がバテレン追放令を出した後、コエリョは、キリシタン大名を糾合して秀吉に敵対するよう大友宗麟や有馬晴信に呼びかけたが、拒否されている。彼らは決してスペインに対して忠誠を持っていたわけではなかったのだ。

文禄・慶長の役は西国大名に大きな負担を与えた一方、直接遠征に加わらなかった徳川家康をはじめとする東国大名の力を温存させることになった。このことは、日本史上最大の内乱となった関ケ原の合戦で、家康に有利に働いた。それゆえ、文禄・慶長の役は、豊臣氏没落の遠因となったと言うことができる。家康は、文禄・慶長の役の失敗を踏まえ、控えめな対外政策をとり、家康の後継者はやがて国を鎖すことになる。日本が鎖国している間、ヨーロッパ列強による海外進出は続き、日本が明治時代に近代国家を樹立しようとした時には、列強による世界分割が完成に近づき、日本にはそこに割って入る余地がわずかしか残されていなかった。この出遅れが次の悲劇につながる。

5 : 太平洋戦争

没落したスペインに代わって覇権国として台頭したのはオランダであった。江戸幕府は、スペイン、ポルトガルとの関係を断ったものの、オランダとの交易を続けたことで、所謂鎖国中においてもヨーロッパ最先端の文化をある程度取り入れることができ、平穏な治世を長期にわたって持続させることができた。だが、オランダもやがて覇権国として没落し、代わって覇権国として台頭したのが英国である。そして薩英戦争後、英国と組んだ薩摩藩が、長州藩とともに江戸幕府を倒して、新政府を樹立した。薩長が支配する藩閥政府は、英国と良好な関係を維持し、1902年には日英同盟を結んだ。

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Fig.07. 大英帝国[21]。ピンク色の領域は、かつて大英帝国の支配下にあった地域。地名に赤線が引いてある地域は、現在も英国領である地域。画像をクリックして拡大可能。

二十世紀になると、米国が新しい覇権国として台頭したが、米国の支配層は、WASP(White Anglo-Saxon Protestant ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)で、アングロサクソンの世界支配は続いた。そして、明治維新以降の今日に至る近現代日本の政治史は、世界の支配者と協調しようとする親アングロサクソンの保守とそれに反旗を翻そうとする反アングロサクソンの革新の抗争史で、日本は、親アングロサクソンの保守が政権を担う時には、外交が安定し、国運が隆盛に向かうのに対して、反アングロサクソンの革新が権力を掌握すると、外交が危機に陥り、国運が衰退に向かう傾向がみられる[*]

[*] ここで言う保守とは、イノベーションを拒否し、伝統を墨守する守旧派保守のことではなく、改革派保守のことである。改革派保守は形容矛盾と感じる人もいるだろうが、そういう人は目的と手段を混同している。業界トップの企業が、その地位を「保守」しようとすると、絶えず経営改革を続けなければいけないことからもわかる通り、保守は目的で、改革は手段であり、両者は両立する。覇権国としての英国と米国は、世界に先駆けて先端技術を開発したイノベーターであり、それに倣って、日本が先進国としての優位性を「保守」しようとすることは、盲目的な国粋主義者によくみられるような守旧派保守とは全く逆である。イノベーションは技術革新と訳されることもあるが、政治学で謂う所の「革新」とは、ゲバルトによって勝ち組と負け組の関係を変えようとする政治的スタンスを指す言葉で、ゲバルトを用いるがゆえに、文明を後退させる。だから、文明を前進させるイノベーションと後退させる政治的な革新は区別されなければならない。

親アングロサクソン/反アングロサクソンと保守/革新がリンクするのは、国際社会において、支配者であるアングロサクソンの側に立つのか否かという問題は、国内において、戊辰戦争の勝者である薩長の側に立つのか、敗者の側に立つのか、もっと一般的に言えば、権力者や資本家といった勝ち組の既得権益を保守するのか、プロレタリアや没落士族といった負け組を救済するために社会を革新するのかという問題につながっていくからである。

英国の援助で日本の支配者となった薩長藩閥に対し、負け組たちは自由民権運動を起こし、1889年の大日本帝国憲法制定、1890年の帝国議会開設といった成果を勝ち得た。しかし、薩長藩閥は、議会の意思を無視した超然主義と呼ばれる立場を採り、そうした藩閥政治は、藩閥政治の象徴、山縣有朋が、1921年に失脚するまで続いた。

山縣は、長州出身の軍人政治家で、民意を無視した超然主義を貫いた。このことから、山縣の権威主義的軍国主義が太平洋戦争を帰結する日本型ファシズムの原型になったといった否定的な評価が戦後の左翼系知識人たちから与えられた。だがこうした左翼による軍国主義批判は、私が指摘した保守の戦争と革新の戦争という区別を無視している。山縣は、覇権国である英米との協調を重視し、その結果、彼が失脚するまで、近代日本は、国際的に非難され、国益を大きく損ねる戦争はしなかった。山縣が超然主義だったのは、対外強硬策を主張する大衆に迎合することなく、英米との協調を優先するためだった。

日本の革新勢力は、保守的な軍国主義が民主主義を踏みにじり、平和を愛する国民を無謀な戦争に駆り立てたといった、自分たちに都合の良い歴史観を戦後広めた。しかし、日本が、満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと突き進んでいったのは、民意を無視したからではなくて、民意を重視したからだ。昭和金融恐慌以降の深刻なデフレの中で、国民は対外戦争を熱望するようになった。そして、藩閥による保守政治が終わった後に台頭した革新勢力は、覇権国との協調よりも世論に迎合するようになった。その違いを日露戦争と満州事変が起きた後の政府の対応で見てみよう。

日本は、英国の援助もあって、日露戦争で優位に立ったが、戦争を継続させる余裕はなかった。そこで、日本は米国に仲介を依頼し、1905年に講和条約(ポーツマス条約)に調印した。当時の日本人は講和条約の内容に不満で、日比谷焼打事件のような暴動事件が起きた。もしも大衆迎合して、講和条約を破棄し、戦争を継続していたなら、日露戦争は泥沼化し、かつ日本は英米から孤立しただろう。しかし、山縣を後ろ盾とする時の桂内閣は、戒厳令を布き、講和反対運動を弾圧して、英米との協調を優先した。

日比谷焼打事件は、超然主義に対する民衆の反発を高めることになり、大正デモクラシーと呼ばれる民主主義運動につながっていく。その結果、政府はもはや民意を無視することができなくなった。1931年に柳条湖事件が起き、翌年には、日満議定書調印により、日本の傀儡国家である満州国が誕生した。昭和恐慌でデフレに苦しんでいた日本国民は「満蒙は日本の生命線」というスローガンを信じ、関東軍の暴走を支持した。国際社会から見れば、明らかに侵略行為で、国際連盟総会は、リットン報告書に基づいた和解を日本に提案した。受け入れに難色を示す日本に対して、英国は、日本が満州に持つ権益に配慮し、満州を国際管理下に置き、そこに日本も顧問役として参加するという妥協策を提案した。もしもこの妥協案を受け入れていたなら、国内で日比谷焼打事件のような暴動事件が起きただろうが、英米との衝突は避けられた可能性が高い。しかし、時の斎藤内閣は国際協調よりも民意を重視し、提案を却下し、国際連盟から離脱した。それ以降、英米との対立は深まる一方で、それが太平洋戦争を惹き起こすことになった。

要するに、民主主義が機能しなかったから太平洋戦争が起きたのではなくて、むしろその逆であったということである。ドイツでも民主主義がナチズムを生んだことはよく知られている。もちろん、私は民主主義が悪だとは言わない。民主主義は時代の流れであり、実際の歴史が示す通り、超然主義の藩閥政治は長くは続かなかった。国民は判断を誤ることはあるが、山縣のように、国民は愚かだから権力を持たせないというようなことをしていると、国民はいつまでたっても賢くならない。民主主義において重要なことは、国民が過去の過ちを反省して賢くなることだ。

太平洋戦争が保守ではなくて革新によって惹き起こされたことは、革新にとって知られたくない事実であり、だからこそ、彼らは歴史を自分たちにとって都合の良いように書き換えようとする。革新にとって幸いなことに、教育界やマスメディア界には多くの左翼系知識人がおり、彼らの主張により、保守主義に濡れ衣を着せる歴史観が一般に定着した。

昨今、反薩長史観本がブームなのだそうなのだが、薩長史観の呪縛を解き放つと称する新説なるものが、古い反薩長史観の呪縛に囚われたままということがある。反薩長史観本の一冊『薩長史観の正体』の著者、武田鏡村は、以下のように、戦後に登場した定説に基づいて、自称新説を唱えている。

明治維新から太平洋戦争の敗戦まで日本人の意識と思想を形成していたのは、薩摩と長州を中心としてつくられた絶対的な天皇主義、軍国主義、愛国心であった。それが、身の丈を超えた侵略主義、帝国主義へとつながっていく。そして、そのバックボーンとなったのが「薩長史観」なのである。

それはやがて日本を壊滅的な敗北に導いた。その反省から日本は徹底した民主主義と平和主義に徹するようになったのである。

だが近年になって、教育勅語の見直し論に見られるように歴史修正主義が台頭し、またぞろ薩長が唱えていた国家観が息を吹き返しているようである。いずれ稿を改めて書きたいが、歴史修正主義的な傾向の強い安倍晋三首相は「長州」出身であり、その言動には「薩長史観」が深く反映されている。

そんな風潮に対して、そもそも薩長が行った明治維新とはいったい何であったのか、という根源的な疑問が提示されるようになってきた面があるのではないか。そこを解明しないかぎり、日本の近現代史を正確に認識することはできない、という考えが「反薩長」本ブームの背景にあるように思えてならないのだ。

今、明治維新の歴史の事実と向き合うことは、薩長史観の呪縛を解き放つことにつながり、自由で活気ある平和な民主国家を追求する一歩となるのである。[22]

「日本を壊滅的な敗北に導いた」「身の丈を超えた侵略主義、帝国主義」は、薩長の藩閥政治によってではなくて、むしろそれが終焉し、革新勢力が台頭したことによって起きたことを武田は認識するべきだ。また、安倍晋三の地元は山口県だが、だからと言って、安倍が長州閥の伝統を引き継いでいるとは言えない。安倍の祖父である岸信介は、北一輝や大川周明に傾倒した革新官僚で、その国家社会主義的傾向は安倍晋三にも残存している。山口県や鹿児島県の出身であっても、藩閥のコネではなくて、試験によって選抜されたエリートたちの中には、岸信介のように革新的な思想を持つ人が多く、彼らは明治維新の元勲によって率いられた薩長藩閥とは区別されるべきである。

同じ革新と言っても、戦前の右翼的革新と戦後の左翼的革新は全く別と考える人もいるだろう。左翼は、右翼どころか同じ左翼内部でも、小さな路線の違いで反目し合っているのだから、そう考えることは自然なことだ。しかし、そもそも右翼と左翼は世間が考えているほど異質ではない 。戦前の日本では共産主義が禁じられていたので、国家主義として偽装された共産主義が、国家改造運動(昭和維新)を始め、血盟団事件、五・一五事件、神兵隊事件、二・二六事件といった内ゲバ型革新を起こしたが、失敗した。二・二六事件当時日本にいたフランスなどの駐在武官が「これは左翼の偽装革命だ[23]」という報告書を本国に送ったそうだが、この認識は正しい。内ゲバ型革新が不成功に終わったので、革新勢力は、外ゲバ型革新に力を入れるようになり、二・二六事件の翌年から日中戦争が始まる。対外戦争に賛同した人たちの大部分は、国内で共産主義革命を起こそうと考えていたわけではなかったが、結果的には、そう考えていた人たちにうまく利用されてしまった。

そもそも、共産主義革命は、敗戦によって国家権力が弱体した時に起きやすい。史上初の共産主義政府、パリ・コミューンは、フランスが普仏戦争に敗れ、ナポレオン3世がプロイセン軍の捕虜となり、第二帝政が崩壊した時に誕生した(但し、短期間で崩壊した)。第一次世界大戦において、ロシア帝国がタンネンベルクの戦いでドイツ軍に大敗し、ニコライ2世の権威が失墜して、ロシア革命が起きた。第一次世界大戦末期には、疲弊したドイツでドイツ革命が起き、皇帝ヴィルヘルム2世が退位した。スパルタクス団は鎮圧されたものの、社会民主党を中心としたヴァイマル共和政が誕生した。日中戦争において、毛沢東は蒋介石の国民政府と日本軍とを戦わせ、日本の敗北で生じた軍事的空白を利用して、大陸で共産主義革命を起こした[24]。日本でも戦後共産主義革命が起きそうになったが、これは未然に防がれた。

私は「覇権国に対する対外戦争は、日本国内の内部分裂や内乱を帰結する」と書いたが、これまでの三つの対外戦争とは異なり、表面的には、太平洋戦争後、日本国内では内乱は起きなかった。これは、これまでとは異なり、覇権国が日本を占領し、支配したからだ。戦後、日本で最も共産主義革命が起きそうになったのは、1947年2月1日に計画されていたゼネラル・ストライキ、二・一ストの時だ。マッカーサーの禁止命令によって中止されたが、もしもGHQが介入していなかったなら、吉田首相が謂う所の「不逞の輩」によって、「吉田内閣打倒、民主人民政府樹立」という日本共産党の要求が実現していたかもしれない。その後も新左翼が暴力革命を試みることはあったが、結局のところ日本では共産主義革命は起きなかった。

それでも、外ゲバ型革新は、革新勢力にとって一定の成果を挙げた。戦前の代表的な右翼とされる北一輝が『日本改造法案大綱』で提案したことの多くが、農地改革、預金封鎖による財産税、華族制の廃止、男女平等、言論の自由などの形で戦後実現したのだから。二・一ストを契機に、米国は「逆コース」と呼ばれる占領政策の変更を行ったが、謂う所の「逆コース」とは、太平洋戦争当時の革新への回帰というよりも、明治維新当時の保守への回帰としての性格が強い。その後、日本では親米保守の政権が長く続き、それによって日本は平和と繁栄を享受することができた。2009年に誕生した民主党政権が反米リベラル色の強い政治方針を打ち出しただけで、日本の外交と安全保障は危機に陥った。戦後の日本で、反米リベラルが万年野党化し、親米保守が万年与党化するのはやむをえないことである。

6 : 歴史から学ぶべき教訓

以上、見てきたように、日本の国運は、覇権国と協調することで隆盛に向かい、敵対することで衰退に向かう。同じことが他の国にも当てはまるとは限らないが、日本にはこの傾向が見られる。その原因を、

  1. ボトムアップ型の社会
  2. 模倣力と改善力の高さ

という日本人の特徴に求めることができそうだ。

  1. 一般的に言って、日本の社会では、ボトムは優秀だが、トップには無能が多い。ボトムが優秀だから、トップは無能でも務まると考えることもできる。大陸では、優秀なリーダーがトップダウンで決断を下さなければ、社会は維持できない。ところが、日本では、ボトムアップで自律性を保つ村社会が存在するので、トップは村社会同士の利害を調節するだけでよい。そういう日本でしか通用しないトップが世界のリーダーになろうとすると、失敗することが多い。実際、米国の企業のCEOには、インド人や中国人は多数いるが、日本人は非常に少ない。これとは逆に、経営危機に瀕した日本企業が、外国人の有能な社長を迎えて、業績が復活したといった事例はたくさんあり、ここからもわかる通り、日本がボトムアップ型社会であるからと言って、トップが無能で問題ないということにはならない。日本の優秀なボトムと外国の優秀なトップの組み合わせは大きな成果を生みうるし、日本が覇権国と協力することが双方の利益になるのは、このためと言える。
  2. 戦国時代に来たキリスト教宣教師たちは、日本人の識字率、知的好奇心、理解力の高さを指摘している。この傾向は今でも続いており[25]、海外の先進文化を吸収し、独創的な改良を加える能力に関して、日本人には定評がある。既に述べた通り、「覇権国とは、たんに軍事と政治において強力な権力を持っているのみならず、経済と科学技術の水準も高い国、つまり先進的なシステムを持ち、そのゆえに周辺諸国に大きな支配的影響力を持つ国」である。モンゴル帝国をたんなる軍事大国に過ぎない野蛮国家と見下している人も多いが、非兌換紙幣(交鈔)の発行、駅伝(ジャムチ)の整備、農業に大きく依存しない商業経済の樹立、能力本位の人材登用など、当時としては先進的なシステムを構築していた。他の覇権国については説明不要であろう。覇権国家と友好的な関係を持てば、日本は、覇権国家の先進的なシステムを自家薬籠中のものとすることで繁栄することができる。反対に、覇権国家と敵対し、夜郎自大となって改善を怠ると、日本は衰退する。

典型的な日本人は、まるで幼児のように、固定観念に拘束されない好奇心を持ち、大人の世界を模倣してミニチュアを作り、遊び心で独創的な改良を加える。他方で、リーダーに求められる大人の資質には欠けている。優れた指導者に恵まれれば才能を開花させる神童のような面があると同時に、傲慢で独り善がりになると失敗するという面もあるのが日本人という民族なのである。

歴史を振り返ると、日本が衰退を脱して、復活する時は、自国の後進性を自覚して、先進国から謙虚に学ぶ時である。隋と国交を結んだ蘇我氏、唐の文化を取り入れた天武天皇以降の朝廷、宋との貿易を行った平清盛と鎌倉幕府、日明貿易を開始した足利義満、南蛮文化を取り入れた織田信長、鎖国しつつもオランダとの交易を続けた江戸幕府、ヨーロッパ列強から近代文明を学んだ明治政府、米国の庇護のもと復興を果たした戦後の日本がそうである。

日本経済は、1980年代に黄金期を迎えた。米国人すら「ジャパンアズナンバーワン」と言い、もはや日本には外国から学ぶべきものは何もないかのように思われた。しかし、実は日本の衰退は、1980年代の後半から始まっていた。その後、日本は没落を続けているのにもかかわらず、日本人は古いシステムの欠陥を抜本的に改革しようとしない。それどころか、ネット上では視野狭窄の自称愛国者が増え、テレビでは外国人に日本を褒めまくらせる「日本すごい番組」が放送され、視聴者は日本が最高の国であるという幻想に耽っている。

もちろん、絶望したり、必要以上に卑屈になったりする必要はない。志は高く持つべきだ。日本が覇権国になることも理論的には可能であり、それを目指すべきなのだが、現状ではそれには程遠い。過去の例を見てもわかる通り、日本は、覇権国でもないのに、覇権国であるかのように思いあがって不遜になった時に没落する。だから、私たちは、情報技術や経営のありかたにおいて日本が米国よりも後進的であることを自覚し、時代遅れになったシステムを改革する必要がある。ゼロから再出発するつもりで、海外の優れたところを謙虚に学ぼうとするとき、日本の回復が始まる。それが、私たちが歴史から学ぶべき教訓である。

7 : 参照情報

  1. 玖巧仔. “唐朝疆域变迁.” Licensed under CC-BY.
  2. 森鴎外.「帝謚考」『鴎外全集 第20巻』. pp.27-162.
  3. Astrokey44. “Map showing changes in borders of the Mongol Empire from founding by Genghis Khan in 1206, Genghis Khan’s death in 1227 to the rule of Kublai Khan (1260–1294).” Licensed under CC-BY-SA.
  4. “用兵夫孰所好”「蒙古皇帝国書 」. 『元史』東夷伝, 日本, 至元三年八月条.
  5. “大蒙古國皇帝奉書日本國王”「蒙古皇帝国書 」. 『元史』東夷伝, 日本, 至元三年八月条.
  6. “称和親之儀”. 近衛基平.『深心院関白記』文永五年二月八日条.
  7. 秦野裕介.「クビライ・カアンと後嵯峨院政の外交交渉」.『立命館文学』第624号.
  8. NHK.「発見!幻の巨大軍船〜モンゴル帝国vs日本 730年目の真実」. 2012年11月3日.
  9. “爾還爾國速奏軍額不爾將討之爾等不知出軍將討何國朕欲討宋與日本耳今朕視爾國猶一家爾國若有難朕安敢不救乎? 朕征不庭之國爾國出師助戰亦其分也爾歸語王造戰艦一千”『高麗史』102卷-列傳15-李藏用-005.
  10. “馬亨以為:「高麗者,本箕子所封之地,漢、晉皆為郡縣。今雖來朝,其心難測。莫若嚴兵假道,以取日本為名,乘勢可襲其國,定為郡縣。」”『元史·列傳第九十五』高麗伝至元六年十一月条. 1269年11月2日の記述だが、日本を攻めることを口実にして高麗を攻撃せよというのは馬亨が過去に行った発言で、この時点では、南宋を攻めることを優先して、高麗攻撃は後回しにするべきだと意見を変えている。クビライが南宋への攻撃を開始したのは1268年で、馬亨の過去の発言は、それ以前のものであろう。
  11. 左の写真は、Paul Schultz. “Mariah Quarter View.” Licensed under CC-BY. 右の図は、Masur. “Yacht keel.” Licensed under CC-0.
  12. Fibonacci. “Righting effect of a sailing keel.” & Fred the Oyster. “Theoriezeichnung Segeln Gewichtsstabilität.” Licensed under CC-BY-SA and modified by me.
  13. 白拍子花子. “Route of the 7th expedition of Zheng He’s fleet (1431-1433).” Licensed under CC-BY-SA and modified by me.
  14. Nagihuin. “Diachronic map of the Spanish Empire.” 31 March 2015. Licensed under CC-BY-SA.
  15. 高瀬弘一郎. “キリシタン宣教師の軍事計画(上).”『史学』Vol.42, no. 3 (1970年2月): 305–36.
  16. Kano Naizen. “Namban ship on Namban Screen.” Kobe City Museum. Licensed under CC-0.
  17. 但し、海上戦では、李舜臣率いる朝鮮水軍相手に苦戦した。和船は、板材を継ぎ合わせた脆弱な構造を持ち、竜骨を持たないために安定性を欠いた。このため、日本は船を専ら輸送用に用い、本格的な戦艦を作ることができなかった。
  18. Fróis, Luís. Historia de Japam.『完訳フロイス日本史〈5〉「暴君」秀吉の野望―豊臣秀吉篇(2)』. ルイス フロイス (著), 松田 毅一 (翻訳), 川崎 桃太 (翻訳). 中央公論新社 (2000/5/1). 第44章(第3部55章).
  19. いくらスペインの援助があっても、日本のような小国が明のような大国を滅ぼすことは不可能だと思う人もいるだろうが、その後明は、兵力と装備で圧倒的に劣っている後金に敗れ、滅んでいることを考えるなら、可能であったと判断できる。
  20. ヴァリニャーノは、バテレン追放令を出した秀吉の心中を次のように推察している。「彼[コエリョ]は、関白殿のいろいろな企てを、パードレ達が援助出来るということを、出来るだけ彼に示さなければならない、と考えた。そして最後に関白殿は、自分は日本を平定した後で中国に渡るつもりである、と述べた。同パードレは、いつかはそれが実行され、彼は望みを達するであろうと考えて、この点でも自分が関白殿に援助を与えることが出来るという意志表示をし、関白殿が中国に渡りたい時には、二艘のポルトガル船を調達させよう、またインド副王に交渉して援軍を送らせよう、と彼は語った。関白殿は非常に狡猾なので、パードレが自分に語ったことに満足したように見せかけ、彼に多大な恩恵を与える旨約束して好意を示しながら、内心は次のように思い始めた。即ち、このパードレはキリスト教徒の領主達を望み通りに動かせるだけの能力を持っているのであろうか、また中国に渡航するための船を二艘も自分に提供することが出来るほど裕福なのであろうか、彼が戦争に介入すると、当地で「大阪」と呼んでいる仏僧と同じ振舞をするようになるかも知れない ―― この仏僧は自分の宗派に多くの日本人を糾合した後に三力国の王となり、信長に対して残忍な戦いを仕掛けた。この戦いは信長が経験した内で最も長期にわたり、苦戦したものであった。」高瀬弘一郎.
    キリシタン宣教師の軍事計画(中).” 『史学』Vol.43, No.3 (1970年12月): 429-463. p.434-435.
  21. The Red Hat of Pat Ferrick. “Map of the world showing the extent of the British Empire in 1886.” Licensed under CC-BY-SA.
  22. 武田鏡村. “なぜいま、反「薩長史観」本がブームなのか ―― 150年目に「明治維新」の見直しが始まった.” 『東洋経済オンライン』. 2017年09月08日.
  23. 保阪 正康, 鈴木 邦男. 『昭和維新史との対話: 検証 五・一五事件から三島事件まで』. 現代書館 (2017/3/30). p.131.
  24. 毛沢東が裏では日本軍と通じていたことに関しては、以下の書を参照されたい。遠藤 誉. 『毛沢東 日本軍と共謀した男 (新潮新書)』. 新潮社 (2015/11/13).
  25. 国際成人力調査によると、日本は、「新しいことを学ぶのが好き」と答える割合が他の国よりも低い。しかし、自己評価と客観的評価はまた別である。2016年にアドビ社が先進5ヵ国を対象に実施した独創性に関する意識調査によると、「自分は独創的だ」と答えた割合は、日本人が突出して少ないのに対して、最も独創的な国はどこかを問う質問に対しては、最も多かったのが「日本」であった。日本では謙虚が美徳とされるので、自己評価のアンケートの結果を額面通り受け取ってはいけないということである。
8月 122017
 

このページでは、私の著作『浦島伝説の謎を解く』の書誌情報、販売場所、概要、冒頭抜粋、改訂履歴をまとめます。誤字脱字の指摘、内容に関する質問などありましたら、このページのコメント・フォームに投稿してください。

1 : 表紙画像

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横幅500ピクセルに圧縮した『浦島伝説の謎を解く』表紙画像

2 : 書誌情報

  • Title :: 浦島伝説の謎を解く
    • Furigana :: ウラシマデンセツノナゾヲトク
    • Romaji :: Urashima Densetsu no Nazo o Toku
  • Author :: 永井俊哉
    • Furigana :: ナガイトシヤ
    • Romaji :: Nagai, Toshiya
  • Author bio :: 著作家。インターネットを主な舞台に、新たな知の統合を目指す在野の研究者。専門はシステム論。1965年8月、京都生まれ。1988年3月、大阪大学文学部哲学科卒業。1990年3月、東京大学大学院倫理学専攻修士課程修了。1994年3月、一橋大学大学院社会学専攻博士後期課程単位修得満期退学。1997年9月、初めてウェブサイトを開設。1999年1月、日本マルチメディア大賞受賞。電子書籍以外に、紙の本として『縦横無尽の知的冒険』(2003年7月, プレスプラン)、『ファリック・マザー幻想』(2008年12月, リーダーズノート)を出版。
  • Language :: jpn
  • Page :: 294ページ
  • Release Date :: 2017-08-11
  • Identifier (Publisher)
    • ISBN :: 9781310767760 (Smashwords, Inc.)
    • ASIN: B074QVR8LK (Nagai, Toshiya)
    • GGKEY :: P1ECYJ7P5F2 (Nagai, Toshiya)
    • 楽天商品番号 :: 1230001792911 (Nagai, Toshiya)
  • BISAC :: Book Industry Standards and Communications
    • Nonfiction » Social & Cultural Studies » Social Science » Folklore & Mythology
    • Nonfiction » Literary criticism » Asian » Japanese
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    • Nonfiction » Health & Well Being » Psychology » Psychoanalysis
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    • 心理学 » 運動 » 精神分析
  • Tags :: キーワード
    • Japanese :: 民俗学、宗教学、精神分析学、歴史学、フロイト、ラカン、ミステリー、御伽噺、胎内回帰、蓬莱、去勢
    • English :: folklore, psychoanalysis, history, fairy tale, womb phantasy, phallic mother, castration, Penglai, Freud, Lacan

3 : 販売場所

販売価格は小売店によって異なります。リンク先で確認してください。

4 : 短い概要

浦島伝説には不可解な謎がある。なぜ竜宮は水の中にあるのか、なぜ竜が登場しないのに竜宮なのか、なぜ玉手箱を開けると年を取るのか。これらの謎を解明しながら、個人史的にも人類史的にも忘れ去られた太古の記憶を甦らせ、さらに、なぜこの記憶が抑圧され、忘れ去られるようになったのか、個体発生的かつ系統発生的にそのフラクタルなプロセスを明らかにする。

5 : 長い概要

本書は、三つの章から成る。本書は、浦島伝説について語る本であるが、本書の語り自体が浦島伝説と同じ筋書きになっているというフラクタルな自己相似性を持つ。

第1章で、本書は読者を竜宮の世界に招待する。子宮から生まれた子供が子宮に戻るような気持ちで、読者は現在から過去に思いを馳せてほしい。ここで語られるのは、個人史的にも人類史的にも忘れ去られた時期である。

第2章では、読者は、竜宮から元の場所へ戻る。個人史的には、それは去勢体験の時期であり、人類史的には、それは、キリスト教、イスラーム教、仏教といった父権宗教が成立し、地母神崇拝が忘れ去られ、抑圧される時期である。

第3章では、玉手箱を開け、あっという間におじいさんになってしまったような境地で、個人史と人類史の全体を回顧する。そこで、読者は、浦島伝説の謎を解くことを通じて、個人史と人類史が、精神分析学的に類似の過程を経ていたことを理解するであろう。

6 : 本書解題

本書は、2004年3月に『縦横無尽の知的冒険』の続編となる本の出版を出版社から打診され、協議の結果、「人類の歴史を人の一生になぞらえた性の歴史」というテーマで本を書くと約束したことをきっかけに執筆したものです。当時(2004年3月1日)、私は、メルマガで「浦島物語の起源は何か」という記事を書いたところ、評判が良かったので、これを敷衍して、単行本化しようという構想を抱いていました。

構想から二年弱で書き上げたのが、本書です。出版社は、しかしながら、本書の出版に難色を示し、結局、本書は採用されず、代わりに『ファリック・マザー幻想―学校では決して教えない永井俊哉の“性の哲学”』が、2008年に出版されました。私がまとまった本を書こうとしたのに対して、出版社はバラバラなコラム集を好むという嗜好の違いがあって、こうなったまでで、どちらも「ファリック・マザー幻想」という同じテーマで書いた本です。

私の「ファリック・マザー幻想」論は、フロイトとラカンの精神分析学に負う所が大きいのですが、彼らの議論は、ヨーロッパ文化の影響から、父の役割を過大評価していると感じました。ユダヤ教やキリスト教では父の果たす役割が大きいですが、自然民族では必ずしもそうではなく、日本では母の果たす役割が小さくありません。例えば、日本では、去勢は母の愛が父に向かうことによってよりも、後から生まれてきた弟妹に向かうことで起きます。そこで、こうした非父権的な文化を理解するためには、彼らの理論を修正し、独自理論を打ち立てる必要があると考えました。その結果生まれたのが、本書と『ファリック・マザー幻想』です。

よく知られているように、フロイトは、女児はペニスがないことに劣等感を抱き、男児はペニスを失うことに恐怖を感じるようになる一方、ペニスを持たない母を軽蔑するようになるという説を考案しました。女はペニスの代替を欲しがり、髪を長くしたり、子供を産もうとしたりするというのです。この説は、男尊女卑的であるとしてフェミニストから激しく非難されているのですが、女児にペニス羨望があるとか、男児が去勢に怯えるとかといった事実はあると思います。但し、私は、その理由をフロイトとは異なるところに見出しました。

すなわち、幼児は、ペニスを臍の緒の代替と見做しており、さらには臍の緒を母子一体の象徴と見做しているがゆえに、それを欲望しているということです。ペニス羨望と言っても、女児はペニスというたんなる肉の塊を欲望しているのではありません。一般に母は女児よりも男児を好むことが多く、女児は、男児には臍の緒のようなペニスがあるがゆえに母から愛されていると思い込み、臍の緒の代替としてのペニスを欲望しているのでしょう。幼児は、三歳ぐらいまでなら、胎内にいた幸せな時のことを覚えており、臍の緒を母子の絆の象徴として見做しているということです。

フロイトやラカンはペニスあるいはファルスに欲動の起点を求めましたが、私は起点をもっと前の胎内記憶の中に求め、無意識へと抑圧された最も根源的な欲動は、母子相姦ではなくて、胎内回帰に向けられていると考えます。私が、フロイトやラカンと異なる立場を採るのは、私が日本人であることと無関係ではないでしょう。フロイトはユダヤ文化圏で、ラカンはカトリック文化圏で育ち、父権宗教的な価値観を自明視しています。しかし、日本の文化は去勢以前の特徴を色濃く残しているので、私は、ファルス中心主義に囚われることなく、胎内回帰を重視した欲動論に到達したのだろうと思っています。

7 : 改訂履歴

5月 302017
 

日本には、中央卸売市場という地方公共団体等が農林水産大臣の認可を受けて開設する官製マーケットが存在するが、日本の政治家でその存在を疑問視する人はほとんどいない。代表的な中央卸売市場である築地市場の移転問題においても、豊洲新市場に移転するか、それとも改修することで築地において存続させるかがもっぱら争点になっていて、両方とも廃止せよという声は聞こえてこない。だが、情報革命による流通の合理化が進展する中、生鮮食料品の流通のために、このような官製マーケットが本当にこれからも必要なのかという根源的な問いこそが問われなければならない。

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1 : 築地市場移転問題の本質は何か

2016年7月に東京都知事に就任した小池百合子元衆議院議員は、同年11月7日に予定されていた豊洲市場の開場とそこへ移転する予定だった築地市場の解体工事を延期すると発表し、老朽化した築地市場の今後をどうするかをめぐる議論が再燃した。特に、豊洲市場の建造物下に計画にはなかった地下空間が存在することが発覚し、そこに溜まった地下水から基準を超える揮発性有毒物質が検出されたことで、築地市場移転問題に対する関心が全国的に高まり、豊洲市場に移転するか否かを巡って激しい論争が行われるようになった。

その結果、築地市場移転で問題となっているのは、もっぱら「食の安全」であるという認識が一般に広がってしまった。この点で、築地市場移転をめぐる論争状況は、脱原発をめぐる論争状況とよく似ている。マスメディアは、原発と言えば、もっぱら安全性だけが問題であるかのように扱うが、原発が抱えている本質的な問題は、むしろその経済的合理性のなさである。同様に、マスメディアは、豊洲市場と言えば、もっぱら食の安全だけが問題であるかのように扱うが、豊洲市場が抱えている本質的な問題は、むしろその経済的合理性のなさである。

もちろん、原発の問題と同様に、豊洲市場の問題でも、安全性がどうでもよいということではない。環境基準を超えていても、直接地下水を飲むのではない以上、地下水が汚染されていても問題はないと言う人もいる[1]が、ベンゼン、シアン化合物、水銀は揮発性の有害物質であり、現状を放置すれば、そうした揮発性有毒物質が地下空間内に充満することになる。そうすると、配管類の点検のために地下空間に人が出入りする度に、揮発性有毒物質が地上に漏れ出る可能性がある。

だから豊洲市場は、同じく土地が汚染されているといっても、それが恒常的にコンクリートやアスファルトで覆われたままになっている築地市場と同じとは言えない。そこで、東京都の専門家会議は、地下空間の底面をコンクリートや特殊なシートで覆ったり、換気装置を新たに整備したりするといったことを提案した。工事費は、35億~80億円と試算されている[2]。このように、金はかかるが、安全性の問題は技術的に解決可能であり、本質的な問題にはならない。

築地市場移転の本質的な問題は、豊洲市場移転後の事業が持続可能ではないところにある。現在の築地市場は黒字経営であるが、豊洲市場に移転すれば、赤字になることが必至である。東京都の試算によると、豊洲市場の総経費は170億円程度であるのに対して、業者から徴収する使用料などの収入は70億円ほどで、100億円程度の赤字になる見通しである[3]。但し、現金支出を伴わない減価償却費を除いた初年度の赤字は約27億円で、この程度なら、他の黒字経営の卸売市場に負担をかけることになるが、東京都の中央卸売市場会計全体で初年度はカバーできる。

ファイナンシャル・プランナーの中嶋よしふみは、赤字の大部分が減価償却費であることを「100億円の大赤字でも豊洲市場に問題が無い理由」として、次のように言っている。

豊洲市場の建物や設備はすでに完成している。今後水質汚染等の対策のために追加支出はあるのかもしれないが、豊洲市場は使おうと使うまいと過去に払ったお金は戻って来ない。これはサンクコスト(埋没原価・まいぼつげんか)という。[…]また、豊洲移転後には築地市場を4386億円で売却することを見込んでいるという。これだけを見れば今後の現金収支はプラス、豊洲市場にかかった5884億円を考慮してそこから売却額を差し引けば100億円の赤字には到底ならない。[4]

中嶋は、このように述べて、「小池都知事はサンクコストを理解できるのでしょうか……?」と疑問を呈している。しかし、「豊洲市場にかかった5884億円」がサンクコスト、すなわち「すでに支出され、どのような意思決定をしても回収できない費用[5]」と決めつけるのはおかしい。豊洲市場を物流拠点として民間企業に売却することは可能であり、実際、中国ネット通販最大手のアリババが買収に関心を持っているという報道もある[6]。中央卸売市場の場合、生鮮食料品しか扱えないが、民間企業なら自由度が高くなるので、黒字経営も可能になりそうだ。いくらで売れるかは不明だが、豊洲市場への移転を断念したとしても「豊洲市場にかかった5884億円」がすべてサンクコストになることはない。

2017年4月に発表された市場問題プロジェクトチームの試算[7]によると、平成30年度に豊洲市場が開場し、建物の耐用年数である60年間事業継続すると、市場の収支は減価償却費用を含め、60年間で約8400億円の赤字になる。築地処分売却益4386億円というのは上位推計で、中位推計では3500億円程度と推計され、それを特別利益としてカウントしても、市場会計の正味運転資本は、中位推計で平成43年度にはマイナスに転じ、税金を投入するなど、資金を市場会計外から調達することが必要になる。だから豊洲市場移転で「問題がない」とは言えない。

都民ファーストの会東京都議団幹事長の音喜多駿は、「仮に移転をやめて他で市場を整備・建設したとすれば、その建設コスト(=減価償却費)が二重に発生するので、市場会計が深刻なダメージを負うことは間違いありません」と、中嶋と同じようなことを言っているが、「市場・業者の経営の持続可能性」に関しては、中嶋ほど楽観的ではない。

そもそも行政が様々な労力をかけて運営し、使用業者には一平米あたり2,000円強という破格の賃貸料で土地を提供し、新規参入も完全に阻んでいる官製市場が存在することに、どこまでの妥当性があるのでしょうか。

そんな統制マーケットなんてやめて、民間にすべて任せてしまえ!という主張は当然にありえますし、自由主義者である私も根本的にはそうした考えに共感を覚えます。

とはいえ官製市場という存在があるからこそ、安くて安心な生鮮食品が都民に提供できるし(その分は見えないところで確実に税金に跳ね返っているのですが)、今ある市場をいきなり無くすのは現実的には不可能だよね、ということで巨額を投じての市場移転・整備という政治的決断がなされてきたわけです。[8]

音喜多は、「圧倒的な低賃料による競争力や、新規参入を阻む障壁に手厚く守られているにもかかわらず、築地市場で事業を営む水産仲卸事業者の5割(農林中金の調査ではなんと7割!)が債務超過に陥っており、事実上は破綻しているゾンビ状態」であることを指摘しつつも、だからこそ、民間ではなくて、政府や自治体が、利益を無視した官製市場を経営しなければならないという結論に落ち着いている。だが、本当に安くて安心な生鮮食品を都民に提供するために官製市場が必要なのか。それこそが問われなければならない。

2 : 水産物の流通に築地市場は必要か

築地市場は、大田市場と同様に、水産物や青果物や花卉を扱う東京都開設の中央卸売市場である。中央卸売市場とは、地方公共団体が、卸売市場法第2条に基づいて農林水産大臣の認可を受け、開設する卸売市場で、東京都だけでも11あるが、規模という点では築地市場と大田市場が双璧をなす。築地市場が日本一の水産物市場であるのに対して、大田市場は日本一の青果物・花卉市場である。そこで、青果物や花卉はとりあえず措くとして、水産物の流通に話を絞ろう。海外から輸入する水産物は、多くが商社経由で持ち込まれるが、国産水産物は、以下の経路(Fig.01)で生産者から築地市場経由で消費者に届く。

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Fig.01. 日本における水産物と野菜の流通経路[9]。果物や花卉も野菜とほぼ同じである。

すなわち、漁協等の生産者が港に水揚げした水産物は、まず産地卸売市場で産地仲卸業者(上の図で謂う所の産地出荷業者)に買われる。それらが近隣の飲食店や小売店に販売されることもあるが、その大部分は、消費地卸売市場、すなわち東京の場合、築地市場の卸売業者に売られる。生産者から直接水揚げされる水産物が築地市場で売られることもあるが、それは例外的だ。消費地卸売市場では卸売業者が、小売店や飲食店から仕入れの依頼を受けた消費地仲卸業者に販売する。そして、消費地仲卸業者が小売業者に、小売業者が消費者に販売する。図にある通り、食材卸問屋に売られることもあり、その場合、流通経路はさらに長くなる。

見ての通り、水産物は、野菜とは異なり、流通経路上卸売市場を二つ以上通過する。音喜多は「官製市場という存在があるからこそ、安くて安心な生鮮食品が都民に提供できる」と言っていたが、私はそうは思わない。むしろ政府と自治体が消費地市場を中央卸売市場として設立したおかげで、冗長な流通経路が温存され、水産物の価格を高くするか、それとも業者の利益を削るかというジレンマが生まれた。また、二つの卸売市場で、仲卸業者が品定めできるように商品を晒すことも、鮮度や衛生の面で問題がある。

従来型の多段階流通経路を嫌って、大手のスーパーや外食チェーンなどは、この経路を通過しない、所謂「市場外流通」に取り組むようになり、おかげで、卸売市場経由率は平成元年度の74.6%から平成25年度の54.1%に、中央卸売市場経由率も平成元年度の64.6%ら平成25年度の42.9%に減少している[10]。また、以下のグラフ(Fig.02)に示されているように、卸売市場数や卸売業者数も、中央卸売市場、地方卸売市場ともに減少している。

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Fig.02. 卸売市場の動向(卸売市場経由率、卸売市場数、卸売業者数の推移)[11]

水産物の消費自体が減っていることもあり、中央卸売市場と地方卸売市場の水産物の取り扱い金額は、以下のグラフ(Fig.03)に示されているように、下落傾向にある。

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Fig.03. 中央卸売市場と地方卸売市場における取扱金額の推移(農林水産省食品製造卸売課調べ)[12]

この傾向は、流通経路を大幅に短縮するネット通販が生鮮食品の分野に参入することで、今後も続くと予想される。従来、生鮮食品のような腐りやすい商品はネット通販に向かないと考えられていたが、アマゾンは、2017年4月から魚を含めた生鮮食品を宅配する「アマゾンフレッシュ」のサービスを日本で開始した。今後、先行者であるイトーヨーカドーネットスーパーなどとともに熾烈な競争を繰り広げることで、ネットスーパーのサービスが一般化することが予想される。

築地市場での取り扱いが減り続けているのにもかかわらず、「手狭になった」という理由から、築地市場の二倍の広さを持ち、維持費が五倍もする豊洲市場[13]に移転することに合理性がないことは明らかだ。民間の場合、業績が右肩上がりの企業が本社をより大きなオフィスに移転することはあっても、業績が右肩下がりの企業がそうすることはない。民間ではありえないことが行政で行われるのは、「いざとなれば税金を投入すればよい」という行政特有の甘えがあるからだ。

こう言うと、石原慎太郎都知事が豊洲への移転を承認した当時、築地市場の役割の低下は予見できなかったから、止むを得ないと言う人もいるかもしれない。しかし、石原が都知事に就任した1999年には、インターネットの普及により今後流通経路の中抜きが進むことは十分予見できたはずだ。私も1999年当時「流通の合理化には何が必要か」でそういう考えを示したし、同じようなことを言う人は当時たくさんいた。そして、実際その後ネットによる流通の短縮化が進んだ。

2017年3月20日に、豊洲市場の移転問題を検証する都議会百条委員会で行われた証人喚問で、石原は移転決定の責任を問われた。そこで主として問題となったのは豊洲市場の安全性であったが、市場の安全性の確保は専門家の仕事で、最終的な責任が都知事にあることは確かであるにしても、都知事にそうした役割を期待するのは御門違いである。それよりも都知事にとって重要な仕事は、将来に対する的確なビジョンに基づいて、都政の方向を決めることである。中央卸売市場の役割が今後ますます大きくなるという誤った未来予測に基づいて、豊洲市場への移転を決めた石原都知事の責任は重いし、それを承認した都議会議員たちも同様である。

過去に起きてしまったことに対して、いまさら何を言っても無駄であるから、今後どうするべきかについて考えてみたい。小池都知事は、2017年3月14日に「現時点で第三の道は考えていない[14]」と述べ、築地市場に留まるか、豊洲市場に移転するかのどちらかしか考えていないことを表明している。つまり、小池都知事は、東京に魚の消費地卸売市場が必要であるという前提で、どこにするかを考えているということである。都知事を「決められない知事」と批判している人たちも、この前提を疑おうとはしない。しかし、築地移転問題を解決するためには、この前提こそ疑わなければならないのである。

私は、消費地卸売市場を廃止し、水産物が売買される卸売市場を産地卸売市場一つにすることを提案したい。築地市場と大田市場の水産物部門を廃止し、築地市場の青果物部門など、水産物以外は、大田市場など他の中央卸売市場に移転する。大田市場は1980年代に建設され、まだ施設が新しい上に、空きがあるので、移転は可能であろう。築地市場や大田市場から水産物を仕入れていた小売業者は、インターネットを通じて産地卸売市場でのオークションに参加して、買い付けた商品を産地卸売市場から小売店に直送させる。こうするためには、地方にある産地卸売市場の分荷機能を強化しなければならなくなるが、東京の中心よりも地方の方が地価や人件費が安いのだから、分荷設備は地方に作る方が合理的である。

小売業者がネット・オークション方式で産地卸売市場から直接仕入れるようになっても、仲卸業者の仕事が完全になくなるわけではない。水産物市場で働く仲卸業者は魚の目利きで、品質を鑑定する能力がある。この能力に長けた仲卸業者は、各地にある産地卸売市場に雇用される品質鑑定者として仕事をすればよい。ネット・オークションの買い手にとっての短所は、商品に関して十分な情報が得られないことだが、現場にいる魚の目利きが、第三者の立場で正確な等級を商品に与えてくれるなら、オークションの参加者たちはそれを参考にしながら、妥当な値段を探ることができる。

水産物を海外から輸入する時も、言葉の壁があるので、第三者の介入が必要であるにせよ、輸入してから小売業者に売るよりも、輸入する前に現地の卸売市場で小売業者が購入を決める方が、売れ残りによる廃棄ロスが小さくなる。こうしたことは、以前は困難であったが、インターネットはこうした取引をも容易にする。とはいえ、都内の小売業者が国内外の卸売市場での取引ができるネット・オークションのインフラを自治体が作る必要はない。政府や自治体がITゼネコンに丸投げして作らせるシステムにろくなものがないことは過去の経験から明らかである。“B to B”の電子商取引を手掛ける企業は既に多数存在しており、自治体が官製市場を閉鎖する決断を示せば、民間がその欠如を埋める新たなサービスを始めるはずだ。

築地市場は老朽化が進んでいるので、小池都知事は早期に築地市場移転問題を解決することを迫られている。もしも私が小池都知事に意見を言える立場にあるなら、築地市場を建て替えて存続させるのでもなく、豊洲市場に移転するのでもなく、クラウド上に移転することを提案するだろう(もちろん、聞き入れられることはないだろうが)。もとよりクラウドに移転するべきなのは、築地市場だけではない。社会変革は、急激にやると混乱をもたらすから、段階的にやればよいとは思うが、他の官製市場も、中央卸売市場か地方卸売市場かを問わず、長期的には廃止する方向で考えなければならない。そこで、次節では、従来型の生鮮食料品の卸売市場全般が本当に必要なのかどうかについて論じたい。

3 : 従来型の生鮮食料品の卸売市場は将来も必要か

ここでその必要性を問う所の「従来型の生鮮食料品の卸売市場」とは、卸売市場法第二条で定義されている「生鮮食料品等の卸売のために開設される市場であつて、卸売場、自動車駐車場その他の生鮮食料品等の取引及び荷さばきに必要な施設を設けて継続して開場されるもの[15]」としての卸売市場である。市場とは、売り手と買い手が売買契約を結ぶ場であって、売り手と買い手が物理的に対面できる場所である必要はなく、したがって、市場は、物流施設とは異なって、クラウドに移転可能である。卸売市場法では、市場が物流施設と不可分であることが前提に定義がなされている。この法律が公布された昭和四十六年当時は、そういう認識で問題はなかったが、現時点で見るなら、非本質的な属性を定義に入れてしまったと評さざるを得ない。

かつて株式市場では、売り手と買い手が一堂に会し、紙の株券の売買を行っていたが、今ではこうした取引はあまり見られなくなった。1999年4月(石原都知事が就任した時期)に東京証券取引所の株券売買立会場が閉場され、取引がコンピュータを介して行われるようになり、さらに、2009年1月には上場会社の株券が電子化された。そして今では、上場企業の株の取引は、ネット上で行われるようになった。ところが、生鮮食料品の卸売市場では、以下の写真(Fig.04)にもある通り、1999年4月以前の東京証券取引所の株券売買立会場でやっていたように、売り手と買い手が商品を集積した場所に集まって、競りをしている。

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Fig.04. 築地市場での公開入札方式によるマグロの競り[16]

株の価値は、株券を観察してもわからないが、生鮮食料品は、それを観察することでその品質を推定することができる。このため、生鮮食料品の電子商取引はなかなか進まなかったのだが、品質に対する信用できる情報があるなら、物理的市場をオンライン・マーケットで代替することは可能なはずだ。当面、品質鑑定は長い経験を持つ目利きに任せるしかないが、将来は、ディープラーニングで直観的な認識能力を高めた人工知能が高速スキャンで商品の品質鑑定を行うようになるだろう。船で捕獲した魚など、需要がない獲物はその場で海に戻せば、破棄率を下げ、資源の浪費を抑えることができる。また、コールド・チェーンという観点からも、捕獲時点で品質判定を行い、小売店で捌くまで凍らせておいた方が良い。

物理的市場では、漁船が水産物を収穫してから売買されるまで時間がかかるが、オンライン・マーケットでは、収穫したばかりの商品の情報がマーケットに出るので、漁船が漁港についた時には、既に配送するべき小売店が決まっているといったことも可能になる。流通時間の短縮は、鮮度が命である生鮮食料品の場合、重要なことだ。

いったん生鮮食料品がオンライン・マーケットで取引されるようになると、そこから先は、証券市場で起きることと同じことが、タイムラグがあっても、生鮮食料品の市場でも起きるだろう。証券市場では、たんに取引がコンピュータを通じて行われるだけでなく、取引自体を人工知能がするようになった。人工知能以下の成績しか出せないファンド・マネージャーは職を失いつつある。証券市場で省人化が進んでいるように、生鮮食料品の市場でも省人化が進むだろう。

アマゾンは、アマゾン・ゴーと呼ばれる、レジ精算不要の無人店舗を構想している。人工知能が、消費者の購買履歴などのビッグデータを解析し、いつどこでどのような需要が発生するかを予測し、それに基づいて生産者に注文を出し、自動運転自動車が商品を運び、ロボットが無人店舗に商品を陳列する。消費者は、最寄りの無人店舗に行くと、自分が欲しいと思っていた商品がなぜかそこに陳列されていることに気が付く。そんな時代が来るかもしれない。

もとより、流通の合理化がいくら進んでも、有人小売店舗が完全になくなるとは思わない。たんに客に物を売るだけでなく、体験の場を提供している店は存在価値を持ち続けるだろう。しかし、そうした店はもはや流通を担う産業というよりも娯楽産業に分類されることになる。東京都の市場問題プロジェクトチームは、2017年5月24日に、築地市場にレストランやオフィスビルを新設して「食のテーマパーク」として改修する案を示した[17]が、築地市場を「食のテーマパーク」にするのなら、それはもはや卸売市場法で規定する中央卸売市場の役割を超えることになる。そもそも、政府や自治体が、テーマパークのような娯楽産業の育成にかかわるべきではない。自治体は、1990年代のバブル時期に自らが主導して建設したテーマパークの多くが経営難に直面した過去から教訓を得るべきだ。

4 : 小池都知事の「東京大改革」は期待できるか

2016年に行われた東京都知事選挙の主要候補は、自民党などが推薦する増田寛也、民進党などが推薦する鳥越俊太郎、かがやけTokyoなどが支援する小池百合子の三名であった。守旧派保守VS.リベラルVS.改革派保守という三つ巴の戦いになると、私としては、三番目を応援したくなるのだが、小池候補(当時)の公約「東京大改革宣言」を読むと、その気持ちが萎えてしまう。「行財政改革の推進」を前面に掲げながらも、その具体策がないのである。

2017年4月に朝日新聞が行った世論調査[18]によると、「あなたは、小池知事に何に一番力を入れて取り組んでほしいと思いますか」という問いに対して、最も多かった回答は、行政改革であったが、小池都知事が代表を務める[19]都民ファーストの会の「政策集」には、「メリハリをつけて予算を編成し、人員を配置」という、どうにでも解釈できそうなあいまいな公約しか掲げられていない。ここからもわかる通り、小池都知事は、小さな政府を目指すという姿勢を明確に打ち出していない。

本稿の主題である流通に関しては、「商店街維持発展のために、事業承継対策と空き店舗の活用などを推進する」という、まるで自民党商工族が主張するような公約が掲げられている。自民党所属の国会議員であった[20]のだから、自民党的な政策を掲げてもおかしくはないといえば、確かにそうなのだが、改革を期待する支持者にとっては古さを感じさせるところだ。そして、小池都知事が2017年7月10日から実施する「家庭におけるLED省エネムーブメント促進事業」も隠れた商店街保護政策である。


Vid.01. ピコ太郎と共演して、LED電球の普及啓発を行う小池都知事[21]

これは、都民の自宅で使用中の白熱電球2個以上と発光ダイオード(LED)電球1個とを大型量販店を除く都内約800の家電販売店で無償交換するという事業である。LED1個は、白熱電球2個よりもずっと高価なので、転売目的で白熱電球を買う人も出てくるかもしれない。また予算に限度があるので、この制度の恩恵に与れない人も出てきそうだ。

小池都知事は、2017年5月26日の記者会見で次のように事業の意義を語っている。

これによって、どれぐらいの効果があるんですかということなんでございますけれども、60ワットの白熱電球100万個、これがLEDに換わるということを年間で換算いたしますと、まず第1に23億4000万円の電気料金の削減となります。ですから、これに変えられた方に対しては、この後も、電気料金も削減されるというメリットもついてくるということになります。それから、CO2の削減ですけれども、約4.4万トンが削減できるという計算でございます。[22]

もしも二酸化炭素の排出量削減が目的なら、白熱電球購入に課税をして、外部不経済を内部化すればよい。電気料金削減は、購入者に私的にもたらされる利益だから、補助金を支給しなくても、白熱電球の価格が上昇するだけで、十分LED電球購入促進策になる。しかも、この事業のように一回限りの限定的なイベントではなくて、すべての消費者に恒常的に政策効果を与え続けることができる。それにもかかわらず、小池都知事が、大型量販店を除く都内約800の家電販売店でという条件付きでこの事業を行ったのは、こうすれば都内の小規模小売業者の保護になるという目論見があるからなのだろう。

自民党商工族は、かつては大規模小売店舗法で小規模小売業者を保護していた。ところが、米国が、この法律は非関税障壁である、あるいはWTO違反であると指摘したため、2000年に日本政府はこれを廃止し、代わりに、改正都市計画法、大規模小売店舗立地法、中心市街地活性化法という「まちづくり三法」で、住民の環境や街並みの風景を維持するという名目のもと、大規模小売店の出店を規制し、小規模小売業者を保護するようになった。欧米でも似たような規制があるので、これなら外圧の対象にならないというわけだ。それ以来、自民党は、露骨な保護主義的方法を自粛しつつも、別の目的を持った政策にこっそり小規模小売業者の保護政策を織り込むということをやるようになった。

例えば、2015年に政府が発行したプレミアム付き商品券の発行は「地域の消費喚起と経済循環を創出する」という口実のもとに行われたが、その隠れた目的は、補助金支給による中小店舗の保護であった。プレミアム商品券は、加盟店全店で使える共通券と大型店では使えない限定券から成っていて、大型店が不利な扱いになっている。また、加盟店以外の販路、例えばネット通販は、さらに不利な扱いを受けている。プレミアム商品券は、生産者にとって不公平であるだけではなく、消費者にとっても不公平で、税金が投入されている分割安なプレミアム商品券は人気が高く、すぐに完売となり、たまたま入手できた消費者とそうではない消費者との間に不公平な格差ができた。この点でもLED電球との交換事業とよく似ている。

自民党だけでなく、自民党を批判する立場の野党も、自民党の商店街保護政策を批判しない。右から左に至るあらゆる日本の政治家にとって、零細店が軒を連ねる商店街は、流通のための手段ではなくて、自己目的的に守らなければならない聖域なのである。もしも商店街がたんなる流通のための手段なら、時代遅れになった段階で淘汰されるに任せればよいのだが、政治家はそれを放置しようとはしない。政府や自治体が、築地市場のような官製卸売市場を維持しようとするのは、この市場を利用している小規模小売や外食店が、産地と直接取引をすることで価格面で優位に立つ大手のスーパーや外食チェーンとの競争に敗れないようにしたいという配慮によると考えられる。

もとより、大型店舗が小売業界で優位に立てた時代は過去のものになりつつある。この点で第一次流通革命と第二次流通革命は区別しなければならない。第一次流通革命とは、1950年代後半から始まった流通の合理化で、その担い手はダイエーなどの大手量販スーパーであった。だが、ダイエーが没落したことからもわかる通り、第一次流通革命は時代遅れになった。これを理由に当時提唱された問屋不要論は間違いだったと言う人がいるが、それはあくまでも、第一次流通革命には限界があったという話でしかない。

第一次流通革命が工業革命時代に起きた流通革命であったのに対して、第二次流通革命は情報革命時代に起きている流通革命である。前者が、ショートヘッド向けの規格品を量産して、価格で勝負するのに対して、後者は、ショートヘッド向けだけでなく、ロングテール向けの多様な商品を提供することで、顧客の多様な需要を満たそうとする。どちらも流通経路を短縮することで、低価格を実現しているが、後者はカバーする需要の範囲が広いことから、従来型の小売りにとってより大きな脅威になる。

もう一つの重要な違いは、郊外に建設された大型店舗は、商店街の零細小売店よりも消費者との物理的距離を長くしたが、第二次流通革命はその距離を逆に縮めたということだ。ネット通販の場合、消費者が商品を受け取る小売店舗に相当するのは、自宅に設置された宅配ボックスである。無人店舗も、需要予測を精確にするなら、小型店舗を消費者の近くに分散させて配置させることができる(日本のコンビニは、その先駆者である)。

情報革命により、物理市場で行われていた取引がオンライン上で行われるようになり、脱空間化したように、小売もまた脱空間化し、ユビキタス化(遍在化)する。そうなると、商業ゾーンと住居ゾーンを区分けする都市計画法のゾーニングを見直さなければならなくなってくる。日本の政治家は、日本全国で商店街がシャッター通りと化しているのにもかかわらず、依然として中心市街地活性化法に基づき、古き良き商店街の復活を画策している。しかし、もし中心市街地を本当に活性化させたいのなら、商業ゾーンの指定を止めて、それを住居ゾーンにすればよい。商店街は駅前など交通の便が良いところに立地しているので、住宅街として再開発すれば、入居希望者を集めるのに苦労しない。

これこそが流通ユビキタス化時代の本当の中心市街地活性化策であるが、小池都知事を含め、日本の現在の政治家は、そうした流通の合理化、現代化を誰も推し進めようとはしない。その最大の理由は、それが雇用の削減をもたらす不人気政策だからだ。都民ファーストの会という地域政党を立ち上げ、都議会選挙を戦おうとしている小池都知事にとって、多くの票を失いかねない政策は受け付けることができないということなのだろう。しかし、雇用を守るために効率を犠牲にすることは正しいことなのか。これについて次の節で考えよう。

5 : 雇用を守るためには効率を犠牲にするべきか

弱者の味方を気取るポピュリストの政治家ほど、規制や補助金や公的融資などで斜陽産業を延命させ、「自分のおかげで雇用が守られた」と言って胸を張るものだ。本人は善いことをしているつもりなのだろうが、政治の力で時代遅れのゾンビ企業を存続させることは、割高で質の低い商品を買わされる消費者にとっても、生産性の低い職場で低賃金で働かされる労働者にとっても好ましいことではない。

以下の図(Fig.05)は、2010年から2012年における米国の産業別労働生産性水準の平均を100とした時の同時期の日本の産業別労働生産性水準(1時間あたりの実質付加価値)を縦軸で、付加価値のシェアを横軸で示したものである。

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Fig.05. 日米の産業別生産性(1時間あたり付加価値)と付加価値シェア[23]。実質付加価値は、購買力平価(PPP)で計算されている。

縦軸の値を見ると、日本は全般的に米国と比べて労働生産性が低く、その中でも、卸売・小売業はかなり低い水準にある。他方で、横軸を見ると、卸売・小売業のウエイトはこの中で最大になっている。これは、卸売・小売業が雇用の大きな受け皿になっていることを示している。流通を合理化すると多くの人(大半は低スキルで低所得の人)が職を失い、路頭に迷うことになる。流通の合理化が政治家にとってアンタッチャブルなタブーである所以である。

しかし、雇用を守るためなら非効率な産業も温存させるべきだと考えている人は、現在のような≪働かなければ食べていけない社会≫と≪働かなくても食べていける社会≫のどちらがより望ましいのかをよく考えてみるべきだ。人工知能の指数関数的進歩は、今後多くの雇用を人々から奪うことだろう。しかし、人工知能が生産性を高めるなら、その果実を失業者に配分することができる。非効率な産業を温存し続ければ、弱者を救うための富を生産することができないのだから、私たちは、弱い個人を切り捨てないためにこそ、弱い産業は切り捨てるべきではないだろうか。

そこで、来るべき人工知能による雇用破壊に備えて、ベーシック・インカムを導入するべきだと主張する人がいる。例えば、堀江貴文は、生活保護や年金などの既存の社会保障制度、失業対策の公共事業を廃止し、代わりにマイナンバーを持っている全国民に毎月一律8万円を支給するベーシック・インカムを提案している。


Vid.02. 2016年4月10日に放送された『そこまで言って委員会NP』(読売テレビ)の「アベノミクスもあてにはならぬ 放て!あなたが考える“第3の矢”グランプリ!」に出演し、「ベーシックインカム導入せよ」と提案する堀江貴文[24]

詳しい内容は、上の動画(Vid.02)で確認してもらうことにして、要点だけを書くと、これからロボットや人工知能が人間に代わって機械的な労働をしてくれるのだから、人間が安心してリスクの高いクリエイティブな仕事に従事できるように、生活に必要な最低金額の支払いを保障しようというものだ。所得制限を設けたりすると、それを調べるための公務員や官僚が増えてしまう。公務員や官僚の無駄な仕事を減らすためにも、財源を消費税率の引き上げに求め、配分もマイナンバー、電子マネー、仮想通貨を使ってできるだけ自動化、画一化するというものだ。

人工知能の時代を見据えて、堀江と同じような主張をしている人は他にもいるが、こうした議論には矛盾がある。人工知能が人間に代わって機械的な労働をしてくれる時代になるなら、公務員や官僚がやっている高コストで非効率な仕事も、低コストで効率的な人工知能による仕事によって代替されるはずだから、ベーシック・インカムを正当化する根拠が崩れることになる。実際、堀江が提案するようにマイナンバーを使うなら、国民一人一人の資産と所得を正確に把握できるし、住んでいる場所の物価水準もわかるので、生命維持に必要な追加的な補助金の額を個別に計算して、電子マネーで支給することは、現在の技術レベルででできることだ。人工知能を使うなら、さらに細かい個人的事情をも勘案して、社会保険の支給額を決めることもできる。国民全員に画一的にベーシック・インカムを支給する無差別的方法が工業社会の時代のやり方であるのに対して、個別対応的な方法は情報社会の時代にふさわしい無駄のない方法だ。

もとより、社会保障の分野でも官僚たちの介入を排除すべきだという堀江の主張には私も賛成である。2017年現在、日本の政党では、民進党、維新の会、自由党といった官僚主導政治を批判する政党がベーシック・インカム、もしくはそれに近い制度(給付付き税額控除、負の所得税)を支持している。小池都知事が代表を務める都民ファーストの会は、国政政党ではないので、社会保障制度に関しては見解を表明していない。では、この地域政党の政治的スタンスはどうなのか。都民ファーストの会の綱領は、以下の文言から始まる。

宇宙から夜の地球を見た時、世界は大きな闇と、偏在する灯りの塊に見える。その灯りの塊の最も大きなものが、東京を中心とした輝きである。その輝きは、東京という大都市の力であり、経済の大きさであるが、同時に、そこにある一つひとつの灯りの下に、人々の生活があり、営みがあることを政治は想像できなければいけない。一つひとつの灯りが揺らいではいけない。もちろん、全体の輝きが褪せてもいけない。[25]

キラキラネームの政党にふさわしいキラキラ綱領といったところだが、これでは、政治的スタンスがよくわからない。もう少し読み進めると、政党の本質を規定したと思われる声明が出てくる。

私たちが自らの名に「都民ファースト」を冠するのは、都政の第一目的は、都民の利益を最大化すること以外にないと考えるからである。一部の人間、集団の利益のために都政があってはならない。私たちは、旧来の勢力に囚われている都政を解き放ち、躊躇なく東京を活性化し、行政力の強化を行う。区部のさらなる発展を図り、多摩・島嶼振興を積極的に推進することで、東京2020オリンピック・パラリンピック後も輝き続ける首都東京を創造していく。[26]

ここで謂う所の「旧来の勢力」とは、明らかに小池都知事が敵視する自民党都連のことである。確かに、従来の自民党には「一部の人間、集団の利益のために都政」をやっていたという側面はある。そういう特定業界の利権を守る都政に終止符を打つために必要なことは、たんに都議会選挙で自民党公認の都議を落選させるだけではなくて、規制や補助金などで守られた特権的な業界に自立を促すことだ。

もしも「都民ファースト」が、従来の自民党政治との決別を表すキャッチフレーズであるなら、それは「業界ファースト」に対する「消費者ファースト」でなければいけない。自民党が伝統的にやってきたように、政府が生産者をパターナリスティックに保護することは、生産者の自立と競争力を奪うことになるから、消費者の利益にならないだけでなく、生産者の利益にもならない。これに対して、消費者の選択を重視する政治を行えば、競争力のない生産者が淘汰されることにより、生産性が向上し、消費者でもあるところの生産者の富を増大させることになる。だから、政治は「業界ファースト」ではなくて、「消費者ファースト」でなければならない。

都民ファーストの会にはそういう問題意識はないようだ。都民ファーストの会の基本政策01「忖度だらけの古い都議会を新しく」には「自分ファーストの議員から、都民ファーストの議員へ[27]」とある。自分ファーストVS.都民ファーストなどという陳腐な対立構図で自民党都連に戦いを仕掛けても、自民党からは「ファーストじゃなくてラストじゃないか[28]」、「何をなすか明らかになっていない。イメージやパフォーマンスで戦う政党に負けるわけにはいかない[29]」といった反論が来るだけだ。小池劇場がたんに自分の政敵を倒すだけの茶番劇で終わるなら、都民は失望することになるだろう。

6 : 参照情報

  1. 橋下徹.「小池さん、築地が安全なら豊洲だって安全でしょ!」. プレジデントオンライン. 2017.3.8.
  2. 時事通信社. “有害物質は抑制可能=最大80億円、追加策で-豊洲移転に「お墨付き」・専門家会議.” 2017/05/18-22:00.
  3. 日本経済新聞. “豊洲、年100億円赤字 都が損益試算、移転の場合.” 2017/1/25付朝刊.
  4. 中嶋よしふみ. “100億円の大赤字でも豊洲市場に問題が無い理由.” Yahoo!ニュース. 2017/1/26(木) 8:25.
  5. デジタル大辞泉. “サンクコストとは.” コトバンク.
  6. NEWSポストセブン. “小池知事が極秘会談 豊洲を中国アリババに売却のウルトラC.” 2017.02.27 07:00.
  7. 都政改革本部. “第1次報告書素案.“ 第8回市場問題プロジェクトチーム配布資料. 東京都. 平成29年4月26日. p.40-44.
  8. 音喜多駿. “「豊洲に市場移転なら赤字100億円」はまやかし、移転なしでも赤字は激増。市場を取り巻く「目の前の現実」を考えてみる.” 東京都議会議員 おときた駿 公式サイト. 2017年1月26日 23:51.
  9. 水産庁. 『平成21年度水産白書第1部 平成21年度 水産の動向, 第2章 平成20年度以降の我が国水産の動向, 第2節 我が国水産業をめぐる動き,(3)水産物流通・加工をめぐる動き
  10. 農林水産省食品流通課卸売市場室. “平成27年度卸売市場データ集.” 卸売市場情報. 2016年6月. p.35.
  11. 農林水産省. “卸売市場をめぐる情勢について.” 平成26年7月. p.23
  12. 農林水産省. “卸売市場をめぐる情勢について.” 平成26年7月. p.24
  13. 築地市場の面積が約23ヘクタールであるのに対して、豊洲市場の面積は約40ヘクタールである。また、築地市場の年間維持管理費が約15億円であるのに対して、豊洲市場の年間維持管理費は約76億円である。
  14. 時事ドットコム. “小池都知事、「第三の道考えず」=築地市場移転問題で.” 2017/03/14-18:48.
  15. 卸売市場法.” 昭和四十六年四月三日法律第三十五号. 平成二五年六月一四日最終改正. 総務省行政管理局『法令データ』.
  16. Chris 73. “Tuna auction at the Tsukiji fishmarket, around 6:00 AM.” Wikimedia Commons. Licensed under CC-BY-SA and modified by me.
  17. 東京新聞. “都PT案、にじむ築地優位 結論は来月に持ち越し.” 2017年5月25日 朝刊.
  18. 朝日新聞デジタル. “東京都民世論調査―質問と回答〈4月1、2日実施〉.” 2017年4月4日04時04分.
  19. 産経ニュース. “小池百合子知事、都民ファーストの会代表に就任へ 都議選に向け弾み.” 2017.5.30 11:18.
  20. 小池都知事は、2017年6月2日に自民党に離党届を出したが、本稿執筆時点では、まだ自民党に籍がある。時事ドットコム. “小池氏離党届、都議選後処理も=二階自民幹事長.” 2017/06/02-20:13.
  21. 東京都. “LED省エネムーブメントPR動画(啓発版・60秒・日本語 Ver.).” YouTube.
  22. 東京都. “「家庭におけるLED省エネムーブメント促進事業」について.” 小池知事「知事の部屋」知事記者会見 2017年5月26日(金曜)14時00分~14時48分.
  23. 滝澤美帆. “日米産業別労働生産性水準比較.”『生産性研究』公益財団法人 日本生産性本部. 2016 年12月12日.
  24. 堀江貴文. “ベーシックインカム導入せよ.” YouTube.
  25. 都民ファーストの会 政策・綱領.” Accessed 30 May 2017.
  26. 都民ファーストの会 政策・綱領.” Accessed 30 May 2017.
  27. 都民ファーストの会 基本政策集.” Accessed 30 May 2017.
  28. 朝日新聞デジタル. “菅氏「ファーストじゃなくラスト」 小池新党を批判.” 2017年5月13日20時48分.
  29. 日本経済新聞. “「何をなす政党なのか」 官房長官が「都民ファースト」批判.” 2017/5/13 16:53.

7 : 本稿履歴

  • 2017年5月30日:初版公開(キャッシュ)。
  • 2017年6月03日:若干の改訂とアップデートを行った。
5月 182017
 

「カロリー制限はなぜ寿命を延ばすのか」の参考資料。カロリー制限をした場合とそうでない場合で、自律神経、ホルモン、生理活性物質による反応がどう変わるか、細胞内でのシグナル伝達がどのように行われるか、その結果、栄養素の代謝がどう変わるのかについてまとめた。

1 : 栄養素の代謝

私たちは、生命活動の維持に必要なエネルギーを食物中の栄養素から得ている。中でも、糖質、脂質、タンパク質は、三大栄養素である。三大栄養素は、消化吸収後、体の構成成分になることもあるが、エネルギー源にもなる。どちらにせよ、それは代謝のために必要な低エントロピー資源である。

代謝(metabolism)とは、新陳代謝の略で、異化(catabolism)と同化(anabolism)という二つのプロセスからなる。教科書的に定義するなら、以下の図(Fig.01)にあるように、異化とは、内呼吸がそうするように、複雑な物質を単純な物質に分解することによってエネルギーを得る過程であり、同化とは、タンパク質、核酸、脂質、糖質の合成がそうするように、エネルギーを使って単純な物質から複雑な物質を合成する過程である。

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Fig.01. 異化と同化の教科書的説明[1]。なお、ここで謂う所のエネルギーとは、熱力学的に厳密に言えば、自由エネルギー、すなわち、役に立つ仕事をしてくれる、エントロピーの低いエネルギーであるが、以下そういう意味でエネルギーという言葉を使うことにしたい。

ただし、ここで謂う所の「複雑」という言葉はシステム論的な意味ではなくて、常識的な意味で使っている。システム論的に定義するなら、異化とは、低エントロピーな資源を高エントロピーな廃棄物にすることで、低エントロピーなエネルギー(自由エネルギー)を生み出すことであり、同化とは、低エントロピーなエネルギのエントロピーを高めることで、高エントロピーな廃棄物を低エントロピーな資源に戻す作業である。そして、異化と同化から成る代謝とは、エネルギーを媒介にして、異化(エントロピーの増大)によって同化(エントロピーの縮減)を行うことである。生命システムとしてのヒトは、そのために、低エントロピーな栄養素を摂取し、高エントロピーな廃棄物を熱や排泄物の形で体外に捨てている。

カロリー制限は、エントロピーの増大によるエントロピーの縮減というシステム維持に必要な営みを制限する。それはたんに代謝を制限するという意味においてだけではない。私たちは、有性生殖によって新しい個体を増やすこと(エントロピーの増大)により、寄生者に乗っ取られるリスクの低減(エントロピーの縮減)を行っている。環境の不確定性の増大に対して、自らの不確定性を増大させて対抗するこの方法は、謂わば「毒を以て毒を制す」方法である。その意味での「エントロピーの増大によるエントロピーの縮減というシステム維持に必要な営み」を制限することになるのだ。

栄養が豊富な環境では寄生者も多い。こういう時、生命システムは、豊富な栄養を低エントロピー資源として、個体数を増やし、かつ個体の寿命を短くすることで寄生者に対抗しようとする拡大成長路線を採る。栄養が少ない環境では寄生者も少ない。こういう時、生命システムは、節約保守モードに入り、オートファジーによって細胞を長持ちさせ、さらには個体も長持ちさせ、成長と生殖を抑制するという縮小整理路線を採る。種にとっては、これは変化適応力が低下するという点で必ずしも好ましいことではないが、個体にとっては、寿命が延びるという点では好ましいことである。

試論編の「カロリー制限はなぜ寿命を延ばすのか」の結論をシステム論的にまとめると、以上のようになる。本節では、総論はこれぐらいにして、以下、摂取した各栄養素あるいは体内でそれらから既に同化された物質がどのように異化されるかについて、それぞれ見ていくことにしたい。

1.1 : 糖質の代謝

糖質とは、食物繊維以外の炭水化物の栄養素のことである。食物繊維は、小腸では消化されないが、腸内細菌によって分解され、短鎖脂肪酸となり、大腸から吸収される。食物繊維は、食品としては炭水化物に分類されるが、栄養学的には脂質に分類されるので、ここでは糖質のみを扱う。

糖質は、消化の過程で分解され、グルコース、フルクトース、ガラクトースといった単糖類の形で小腸から吸収され、門脈を経て肝臓に送られる。グルコースは、以下の図(Fig.02)に示されるとおり、解糖系とクエン酸回路を通じて異化され、エネルギーを生み出す。

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Fig.02. 好気呼吸における解糖系とクエン酸回路[2]。クエン酸回路は、TCA(tricarboxylic acid cycle)回路とも呼ばれるが、海外では、クエン酸回路(citric acid cycle)と呼ばれることの方が多い。

解糖系では、1分子のグルコースから2分子のピルビン酸が生成し、ATP(アデノシン三リン酸)2分子分のエネルギーが生産される。ピルビン酸は、酸素がない時は乳酸として一時的に保存されるが、酸素がある時は、それらはアセチルCoA(アセチル補酵素A/活性酢酸)に変換され、クエン酸回路で異化され、アセチルCoA1分子につきATP15分子分のエネルギーが生産される。不要なグルコースはグリコーゲンに同化される。

フルクトースは、肝臓ではフルクトース-1-リン酸、筋肉ではフルクトース-6-リン酸を経て解糖系に入り、ピルビン酸を生成する。ガラクトースは、ウリジン二リン酸(UDP)ガラクトースを経てグルコース-6-リン酸となり、解糖系に入る。UDP-ガラクトースはグリコーゲン合成にも利用される。結局のところ、糖質は最終的には解糖系とクエン酸回路で異化されるということである。

1.2 : 脂質の代謝

食物に含まれる脂質の90%以上は、中性脂肪(triglyceride トリグリセライド/triacylglycerol トリアシルグリセロール)で、それ以外は、コレステロールやリン脂質などが占める。中性脂肪は、脂肪酸とグリセロール(グリセリン)に分解される。脂肪酸は、β酸化を受けてアセチルCoAとなり、クエン酸回路に入って異化される。グリセロールは、脂質の合成に使われることもあるが、さらにジヒドロキシアセトンリン酸を経て解糖系を逆行する形でグルコースに変換される。これは、グルコースが不足する時に、肝臓と腎臓で起きる代謝で、糖新生(gluconeogenesis)と呼ばれる。

1.3 : タンパク質の代謝

タンパク質は、消化の過程でアミノ酸に分解され、小腸から吸収される。アミノ酸はエネルギー源として使われることもあるが、体タンパク質の合成材料としても使われる。後者の場合でも、古くなれば分解され、エネルギー源として使われる。それは石油が直接熱源としても使われることもあるが、いったん化学製品の材料として利用された後、サーマル・リサイクルにより熱源としても利用されるのとよく似ている。

アミノ酸がエネルギー源として使われる時は、アミノ基が離脱して、α‐ケト酸(ピルビン酸、アセチルCoA、α-ケトグルタル酸、スクシニルCoA、フマル酸、オキサロ酢酸、アセト酢酸)となり、クエン酸回路に入る。これらは、以下の図(Fig.03)に示すとおり、糖新生にも使われる。アセチルCoAとなった後は、ケトン体や脂肪酸の合成に利用されることもある。

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Fig.03. 糖新生の代謝経路[3]。茶色はタンパク質、青色は脂肪から作られる材料。

1.4 : カロリー制限時の代謝

以上、見てきたとおり、脂質やタンパク質もエネルギー源となりうるが、第一候補は糖質であり、体内で最初に消費されるエネルギー源は血液中のグルコースである。カロリー制限あるいは糖質制限により、血液中のグルコースが減ると、グリコーゲンが分解され、それでも足りない時は、脂肪とタンパク質が分解され、糖新生によりグルコースが生産される。

糖新生に使われてオキサロ酢酸が肝臓で不足すると、アセチルCoAはクエン酸回路に入ることができなくなる。その場合、肝臓のミトコンドリアで、アセチルCoAからケトン体(アセト酢酸、D-β-ヒドロキシ酪酸、アセトン)が作られるようになる(Fig.04)。ケトン体を作る時は、糖新生が抑制される。

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Fig.04. アセチルCoAからケトン体が生成する代謝経路[4]。オレンジ色でマークしたアセト酢酸、D-β-ヒドロキシ酪酸、アセトンがケトン体。

三つのケトン体のうち、アセトンは肺から排出されるが、他の二つは、肝臓以外の組織のミトコンドリアに運ばれ、アセチルCoAに戻されて、エネルギー産出に使われる。脂肪酸は脳関門を通過できないので、脳のエネルギー源にならないのに対して、ケトン体は脳関門を通過できるため、ケトン体は、脳にとってグルコース不足時の代替エネルギー源となる。

このように、私たちの体内では、カロリー制限をしてもエネルギー源不足にならないようにする仕組みがある。その調整は、私たちが意識しなくても自動的に自律神経とホルモンによって行われる。このメカニズムを次の節で確認しよう。

2 : 自律神経とホルモンによる反応

自律神経システムとは、間脳の視床下部を中枢とする交感神経システムと副交感神経システムとからなる末梢神経システムで、意志とは無関係にストレスに対して体内の各器官を調節する役割を担っている。摂取する栄養の多寡もそうしたストレス要因の一つで、その情報は、交感神経もしくは視床下部に付属する脳下垂体(Fig.05)を通じて、各器官に伝達される。

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Fig.05. ヒトの脳における脳下垂体(pituitary gland/hypophysis)の位置[5](赤色の部分)。間脳視床下部の下に垂れ下がるように付いていることから、この名が付いた。

食事によって摂取される炭水化物は、消化されてグルコースになり、小腸で吸収されて血液に入る。血液中に含まれるグルコースは血糖、血液中の血糖の濃度は、血糖値と呼ばれる。カロリー制限をすると、血糖値が下がり、低血糖の血液が視床下部の血糖調節中枢に入る。すると、この中枢から交感神経と脳下垂体を通じて、ストレス対応の指令が出る。逆に血糖値が上がると、副交感神経を通じて膵臓からインスリンが分泌される。

血糖値が上がった時に分泌されるホルモンは一種類しかないのに対して、血糖値が下がった時に分泌されるホルモンには、同じ膵臓から分泌されるグルカゴンに加えて、アドレナリン、糖質コルチコイド、成長ホルモンの四種類がある。これはヒトの歴史の大部分において、生存に危機を与える主なストレスは栄養不足であって、飽食の時代である現代におけるように、血糖値の上昇の方が重大な問題になる時代は稀であったことによる。

もっとも、成長ホルモンは、カロリー制限時には分泌されない。成長ホルモンは、摂取する栄養素は十分足りているが、睡眠や運動などによって一時的に血糖値が下がる時に、細胞の成長や分化を促すために分泌される。カロリー制限によって長期的に飢餓ストレスを与えると、ストレス・ホルモンである糖質コルチコイドが分泌され、糖質コルチコイドは成長ホルモンの分泌を抑制する。だからカロリー制限を続けると、体は大きくはならない。

血糖値とともに栄養状態を示す重要な指標となるのが、脂肪の蓄積である。消費できる以上のエネルギーを摂取すれば、それは脂肪として蓄積されるので、脂肪細胞が大きくなる。反対に、カロリー制限をすると、脂肪細胞が小さくなる。脂肪細胞が大きいか小さいかで異なる生理活性物質が分泌され、代謝のありかたを変える。生理活性物質は、厳密に言えばホルモンではないが、ホルモンのような働きをする。

狭義のホルモンは内分泌腺で作られ、血管やリンパ管に分泌され、標的器官の標的細胞の受容体(レセプター)と結合することで作用する。ホルモンはタンパク質系とステロイド系に大別され、タンパク質系ホルモンが細胞膜外の受容体タンパク質と結合するのに対して、ステロイド系ホルモンは脂溶性が高く、細胞膜を通り抜け、細胞内の受容体と結合する。

いずれにせよ、受容体がホルモンを含めた生理活性物質と結合すると、細胞内の様々な酵素が活性化され、酵素反応が順次増幅する連鎖反応(カスケード)が起き、生理活性物質の情報(シグナル)が細胞内部に伝達され、最終的に核内の転写因子に及び、遺伝子を活性化させて、新しいタンパク質を合成させる、あるいは、遺伝子を不活性化させて、タンパク質の合成を阻害する。

そうした細胞内でのシグナル伝達の詳細は次節に譲ることにして、本節では、カロリー制限をする、あるいはしない時に分泌される重要な生理活性物質について概説する。

2.1 : インスリンの分泌と作用

インスリン(INS=insulin)は、血糖値が高い時に膵臓のランゲルハンス島B細胞から分泌されるタンパク質系のホルモンで、細胞にグルコースを取り込ませることで、血糖値を低下させる。余ったグルコースはグリコーゲンに合成して肝臓や筋肉に蓄積させ、さらに余るなら、中性脂肪として、脂肪細胞へ取り込ませる。この他、タンパク質、核酸の合成も促進する。ただし、脂肪を過剰に蓄積すると、脂肪細胞は変性を受け、細胞死が生じ、それを免疫システムが攻撃することで、慢性炎症が発生する。カロリー制限が、慢性炎症を防ぐのは、脂肪の蓄積を阻止することによってであると説明できる。

2.2 : グルカゴンの分泌と作用

グルカゴン (glucagon) は、血糖値が低い時に膵臓のランゲルハンス島A細胞から分泌されるタンパク質系のホルモンで、インスリンとは逆に、肝臓や筋肉に蓄えられたグリコーゲンをグルコースへ分解し、血糖値を上昇させる。また肝臓で、アミノ酸、乳酸などをグルコースに変える糖新生をも促進する。

2.3 : アドレナリンの分泌と作用

アドレナリン(adrenaline)、別名エピネフリン(epinephrine)は、血糖値が低い時に副腎髄質より分泌されるタンパク質系のホルモンで、肝臓や筋肉に蓄積されたグリコーゲンを分解したり、糖新生を促したりすることを通じてグルコースを生産し、血糖値を上昇させる。また、脂肪が過剰に蓄積すると、脂肪細胞は、レプチンというホルモンを分泌して、飽食シグナルを伝達し、アドレナリンとノルアドレナリンを増加させ、交感神経の活動を亢進させ、脂肪分解を促進し、そのエネルギーを利用しやすくするというネガティブ・フィードバックが働く。

アドレナリンは、脳に作用するノルアドレナリンとともに、ストレス・ホルモンの主力であり、低血糖、過剰脂肪以外にも、様々なストレスで交感神経が興奮した時に分泌される。典型的なケースは戦う場合であり、身体システムを経済システムに譬えると、戦争によるリフレ効果に似た消費刺激効果を人体に与える。

2.4 : 糖質コルチコイドの分泌と作用

糖質コルチコイド(glucocorticoid グルココルチコイド)は、血糖値が低い時に副腎皮質から分泌されるステロイド系ホルモンで、タンパク質のアミノ酸への分解を促進すると同時に、糖新生を促進することで血糖値を上昇させる。糖質コルチコイドには、コルチゾール、コルチコステロン、コルチゾンの三種類があるが、ヒトの場合その作用の95%をコルチゾールが担っている。カロリー制限を行うと血清コルチゾール濃度が、通常食摂取者だけでなく、マラソンランナーと比べても、高くなることがわかっている[6]。コルチゾールは、ストレス・ホルモンであり、免疫機能の低下や不妊をもたらす。これはカロリー制限の実験結果と合致する。

2.5 : 成長ホルモンの分泌と作用

成長ホルモン(growth hormone)は、睡眠や運動などによって血糖値が低くなった時に脳下垂体前葉から分泌されるタンパク質系のホルモンで、肝臓でのグリコーゲン分解を促進し、インスリンの働きを抑制することで、血糖値を上昇させる。また、空腹時に胃から分泌されるグレリンは、視床下部に働きかけて食欲を増進させつつ、下垂体に成長ホルモンを分泌させる。成長ホルモンは、脂肪細胞の中の中性脂肪を脂肪酸とグリセロールに分解し、エネルギーとして消費しやすくする。また、肝臓に働きかけて、IGF-1(Insulin-like Growth Factor インスリン様増殖因子1)を分泌させ、細胞の成長と分化を促す。ただし、アミノ酸が不足しているときには、タンパク質の合成ができないので、肝臓細胞がインスリン様増殖因子結合タンパク質-1(IGFBP-1)遺伝子の転写を増加させ、IGF-1を抑制する[7]

2.6 : アディポサイトカインの分泌と作用

アディポサイトカイン(Adipo-cytokine)とは、脂肪細胞から分泌される生理活性物質である。「アディポ」は「脂肪」、「サイト」は「細胞」、「カイン」は「動き」という意味のギリシャ語に由来する。そして「サイトカイン」は、「細胞にシグナル伝達を行うタンパク質」という意味で使われる。サイトカインは、狭義のホルモンではないが、ホルモンのような役割を果たす。

カロリー制限を行って、脂肪の蓄積が小さい時に脂肪細胞から分泌される生理活性物質は、アディポネクチン(adiponectin)で、脂肪の分解、インスリン感受性の亢進、グルコースの細胞への取り込みを促す。脂肪細胞がやや大きくなると、レプチン(leptin)が分泌され、以下の促進によって肥満を抑制しようとする。これらは、生活習慣病を予防するがゆえに、善玉アディポサイトカインと呼ばれる。

カロリー制限をせずに、脂肪細胞を大きくさせてしまうと、善玉アディポサイトカインの分泌が低下し、代わりにTNF(Tumor Necrosis Factor 腫瘍壊死因子)-α、IL(InterLeukin インターロイキン)-6、MCP(Monocyte Chemotactic Protein 単球走化性タンパク質)-1、Angptl(Angiopoietin-like protein アンジオポエチン様タンパク質)-2、PAI(Plasminogen Activator Inhibitor プラスミノーゲン活性化抑制因子)-1、HB-EGF(Heparin-Binding EGF-like growth factor ヘパリン結合性上皮細胞成長因子)といった悪玉アディポサイトカインが肥大した脂肪細胞から分泌される。これらは、高脂血症、動脈硬化、高血圧、糖尿病、心筋梗塞、脳卒中といった生活習慣病の症状を悪化させる。

3 : 細胞内でのシグナル伝達による反応

脳を司令塔とする身体システムは、摂取栄養素の多寡に応じて異なった指令を各臓器と各細胞に出し、転写因子を通じて核内の遺伝子の発現を制御する。それは国家の命令が、各自治体や各企業に出され、最終的には個人を動かすようなものだ。本節では、ホルモンが細胞内の転写因子にどのようなシグナル伝達を行い、その結果どうなるかについて解説する。

3.1 : インスリンによるシグナル伝達

カロリー制限時においては、インスリンと成長ホルモンの分泌が抑制され、IGF-1が阻害される。IGFは、「インスリン様増殖因子」という名が示すとおり、インスリンと配列がよく似ており、インスリンのような働きをする成長因子である。IGF-2が生命発生時に機能する成長因子であるに対して、IGF-1はその後の成長因子となる。

飽食時には、インスリン(INS)とIGF-1が増え、その受容体を通じて、

INS/IGF-1→Grb2/SOS→Ras→Raf→MEK→MAPK→ERK→細胞の増殖と分化

というカスケードを開始し、増殖因子による刺激を核に伝え、細胞の増殖と分化を促す[8]。細胞の増殖と分化のためには、細胞の材料であるタンパク質と脂質、そしてエネルギーを生産するための解糖が必要である。そこで、

INS/IGF-1→IRS→PI3K→PIP3→PDK→Akt¬TSC¬Rheb→mTORC1→タンパク質と脂質の合成

というカスケードにより、mTORC1を活性化し[9]、一方でタンパク質と脂質の合成を、他方でアポトーシス(apoptosis プログラムされた細胞死)を促す。この二つの作用は、矛盾しているようにも見えるが、成長する時には、機能不全に陥った細胞を自殺に追い込むと同時に、新しく細胞を作らなければならないので、細胞単位の新陳代謝という意味で整合的である。ただし、エネルギーは足りているので、オートファジーは抑制される。

この経路の途中でAkt(PKB プロテインキナーゼB)が活性化されることにより、解糖が促される。

INS/IGF-1→IRS→PI3K→PIP3→PDK→Akt→PFKFB2→解糖

Aktは、Bad, Baxを阻害することで、アポトーシスを抑制する[10]。これはmTORC1の作用と矛盾するように見えるが、実は、mTORC1も常にアポトーシスを促進しているわけではない[11]

カロリー制限は、一方では、アポトーシス促進転写因子であるBaxをミトコンドリアから隔離して、細胞死が起きないようにし[12]、他方では、FOXO(Forkhead box O フォークヘッド転写因子O)を通じてBimなどを発現させ、悪性腫瘍のアポトーシスを誘導する[13]

つまり、カロリー制限をする場合でも、しない場合でも、アポトーシスを抑制するシグナル伝達と促進するシグナル伝達が併存するのであるが、その意味合いは少し異なる。カロリー制限はオートファジーを通じて細胞内新陳代謝を促進し、細胞の機能不全を防ぐ。だからアポトーシスを行う必要があまりなくなるのだが、オートファジーでは十分でない時はアポトーシスを行わざるを得ない。これに対して、カロリー制限をしない時は、成長が優先されるので、アポトーシスによる細胞死をできれば回避したいが、悪性腫瘍の発生と成長を抑制するには、アポトーシスが必要になる。だから、どちらの場合でも、アポトーシスを抑制するシグナル伝達と促進するシグナル伝達が併存するのである(Fig.06)。

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Fig.06. 細胞の増殖と分化およびアポトーシスを制御すると促進するシグナル伝達の経路[14]

3.2 : グルカゴンによるシグナル伝達

カロリー制限時に分泌されるホルモン、グルカゴンは、環状アデノシン一リン酸(cyclic AMP=cAMP)をメッセンジャーとして、クラスⅡヒストン脱アセチル化酵素(ClassⅡa HDAC)を脱リン化する。脱リン化されたクラスⅡヒストン脱アセチル化酵素は、核に移行し、FoxO(Forkhead Box O フォークヘッド転写因子O)を脱アセチル化し、活性化することによって、糖新生酵素(G6Pase/PEPCK)の転写を活性化する[15]

グルカゴン→cAMP→ClassⅡa HDAC→FoxO→G6Pase/PEPCK→糖新生

グルカゴンは、また、cAMPを介して、タンパク質活性化酵素であるプロテインキナーゼA(PKA=Protein Kinase A)を核内へ移行させる。すると、核内でCREB(cAMP-responsive element-binding protein)が活性化し、CRTC(cAMP-regulated transcriptional co-activators)やCBP(CREB-binding protein)/p300と結合して、CREB標的遺伝子である糖新生酵素(G6Pase/PEPCK)の転写を活性化する[16]

グルカゴン→cAMP→PKA→CREB→CBP→糖新生

PKAは、Badを阻害することで、アポトーシスを抑制する。カロリー制限時にPKAがSIK2(Salt-Inducible Kinase 2)を阻害するのに対して、飽食時にはAktがSIK2を活性化し、それがCRTC、CBP/p300とCREBとの結合を阻害するため、糖新生が抑制される。なお、カロリー制限によりケトン体が作られる時も、CRTCが核から除外されることで糖新生が抑制される。

3.3 : アドレナリンによるシグナル伝達

アドレナリンは、Gサブユニットと共役するβ-アドレナリン受容体(β-AR=Adrenergic Receptor)を介して、ATPをAC(アデニル酸シクラーゼ Adenylate Cyclase)触媒のもとcAMPとピロリン酸に変換するシグナルを伝達する。cAMPによってタンパク質キナーゼ(PKA)が活性化され、そこから先は、グルカゴンによるシグナル伝達の時と同様の経路で、糖新生を促進し、アポトーシスを抑制する。

アドレナリン→β-AR→G→AC→cAMP→PKA→CREB→CBP→糖新生

3.4 : 糖質コルチコイドによるシグナル伝達

糖質コルチコイドは、細胞内でGCR(GlucoCorticoid Receptor 糖質コルチコイドレセプター)と結合し、IκBα(NF-κB inhibitor α NF-κB阻害剤アルファ)タンパク質合成の誘導を介して、NF-κB(Nuclear Factor-κB 核内因子カッパービー)の核内移行を阻止する。NF-κBは、核内に移行すると、TNF-α(Tumor Necrosis Factor-α 腫瘍壊死因子アルファ)の転写を活性化するのだが、糖質コルチコイドはそれを阻止するのである[17]

糖質コルチコイド→GCRα→IκBα¬NF-κB→TNF-α→炎症、アポトーシス

TNF-αは肥満時に増殖する炎症性サイトカイン(免疫システムの細胞から分泌され、炎症をもたらすタンパク質)であり、感染防御やアポトーシスによる抗腫瘍作用がある一方、炎症や動脈硬化などをもたらす。カロリー制限は、糖質コルチコイドによるシグナル伝達を通じて抗炎症作用や生活習慣病防止をもたらしてくれる反面で、免疫機能の低下をもたらすのは、このためである。

3.5 : 成長ホルモンによるシグナル伝達

成長ホルモンは、GHR(Growth Hormone Receptor 成長ホルモン受容体)を介して、タンパク質リン酸化酵素、JAK2(Janus kinase 2)を活性化させ、STAT(Signal Transducers and Activator of Transcription シグナル伝達兼転写活性化因子)という転写因子に変換されるタンパク質をリン酸化するシグナルを伝達する[18]。リン酸化されたSTATは細胞核に侵入し、細胞の成長や分化を促す一方で、その免疫機能ゆえに炎症を惹き起こす。

成長ホルモン→GHR→JAK2→STAT→細胞の増殖と分化、免疫機能の強化

成長ホルモンは、IGF-1を分泌することで、

成長ホルモン→IGF-1→IRS→PI3K→PIP3→PDK→Akt¬TSC¬Rheb→mTORC1

というカスケードを開始する。すなわち、カロリー制限を行わなければ、成長ホルモンやIGF-1の分泌が増え、成長優先のためアポトーシスが抑制され、悪性腫瘍が発生しやすくなる[19]

カロリー制限時には、糖質コルチコイドが、脳下垂体前葉に対しては成長ホルモンの分泌を、肝臓に対してはIGF-1の発現を抑制することで、このカスケードを阻害し、mTORC1の働きを抑制する。発展拡大から整理縮小へと路線が変更されるのだ。アポトーシスが抑制されるという点では同じなのだが、オートファジーにより細胞の癌化が阻止される。

3.6 : アディポサイトカインによるシグナル伝達

カロリー制限時に分泌されるアディポサイトカインであるアディポネクチンは、骨格筋においてAdipoR1(Adiponectin receptor 1 アディポネクチン受容体1)に結合し、細胞外Ca2+流入を誘導することで、CAMKK(Calcium/calmodulin-dependent protein kinase kinase カルシウムカルモジュリン依存性タンパク質キナーゼキナーゼ)を活性化し、AMPK(AMP-activated protein kinase AMP活性化プロテインキナーゼ)の発現を増加させる[20]

アディポネクチン→AdipoR1→Ca2+→CAMKK→AMPK

AMPKは、代謝エネルギーの低下に伴って電子伝達系で変動するNAD+/NADH比とAMP/ATP比によっても発現が増加する。NADとは、脱水素酵素の補酵素、ニコチンアミドアデニンジヌクレオチド(Nicotinamide Adenine Dinucleotide)のことで、 酸化剤の NAD+と還元剤のNADHの二つがあり、電子伝達系で酸化還元酵素として機能する(Fig.07)。

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Fig.07. ニコチンアミドアデニンジヌクレオチドの酸化還元反応[21]

電子伝達系は図(Fig.02)にも描かれているが、ここでは話を分かりやすくするために、複雑な電子伝達系を簡略化して、以下の図(Fig.08)にまとめてみた。

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Fig.08. 栄養素の異化[22]

糖質であれ、脂質であれ、タンパク質であれ、アセチルCoAに変換された後、クエン酸回路に入り、NAD+をNADHに還元する。この時、図(Fig.07)で説明するなら、左から右に反応が進むので、プロトン(水素イオン)が減る。その結果、ミトコンドリア内膜の内外にH+の濃度勾配が存在する、つまり電位差が生じることになる。異化で低エントロピー資源のエントロピーを増大させることで生じた自由エネルギーで、プロトンの分散エントロピーを縮減したと解釈できるが、こうした説明よりも、異化で生じたエネルギーがミトコンドリア蓄電池に充電されたという説明の方が分かりやすいだろう。

この蓄電池は、NADHがNAD+に戻ることで、放電する。

NADH + H+ + ½O2 → NAD+ + 2H2O

この時、ATP合成酵素が、プロトン濃度勾配と膜電位からなるプロトン駆動力を用いて、ADPとリン酸からATPを合成し、プロトン濃度勾配と膜電位が解消される。

ADP + Pi → ATP + H2O

この反応式が右から左に移行する時に生まれる自由エネルギーは、生命維持のために汎用的に使われるがゆえに、ATP、すなわち、ADPとリンとの結合エネルギーは「エネルギーの通貨」と呼ばれる。経済学者はしばしば通貨の流通をを血液の循環に譬えるが、血管や血液は交通インフラの機能を果たしているだけなので、これは不適切である。

飽食時には、図(Fig.08)で青色の線で囲んだ栄養素が増え、NAD+に対するNADH、ADPに対するATPが相対的に増える
[23]。つまり赤色の線で囲んだNAD+とADPが相対的に減る。ATPが増えすぎて、NAD+が少なくなると、クエン酸回路の代謝が抑制される。ATPを「エネルギーの通貨」とみなす比喩に乗っかって譬えると、ATPが増えすぎるということは、通貨供給量が多すぎる、つまりインフレであるということなので、政府は緊縮財政、中央銀行は金融引き締めによってディスインフレーションに努めなければならない。私たちの体も、栄養素の消費を抑制しようとする。

反対に、カロリー制限を行うと、青色の線で囲んだ栄養素が減り、NAD+からNADH、ADPからATPへの変換が滞り、その結果、NAD+に対するNADH、ADPに対するATPが相対的に少なくなり、赤色の線で囲んだNAD+とADPが相対的に増える。ATPが供給不足になるということは、経済システムで言うと、デフレに相当する。個人が消費を手控え、企業が投資に消極的になって、内部留保を貯め込み、銀行が貸し渋りを行い、貨幣の流通速度が低下してデフレになると、貨幣の流通速度を高めるために、政府は財政出動を行い、中央銀行は金融緩和をする。身体システムにおいても、クエン酸回路の回転速度や電子伝達系で伝達速度が低下して、エネルギー供給が不足すると、体に溜め込んだ栄養素の内部留保を吐き出し、栄養素の消費を活性化するように指令を出すのである。

カロリー制限は寿命延長効果を持つが、これはどう解釈したらよいだろうか。デフレ経済下では、競争力のない企業が淘汰されるが、リフレ局面では、それで失業した労働者たちが生き残った優良企業によって再雇用されるため、労働生産性が向上し、一国の経済はより健全になる。もとより、日本のように、政府が終身雇用を守るため規制と補助金で衰退産業を保護し、労働生産性を低いまま放置している国は、いつまでたってもデフレから脱却できない。

幸いなことに、私たちの身体システムは、日本政府ほど愚かではなくて、飢餓状態というデフレ状況下では、機能不全に陥ったタンパク質をオートファジーによって消滅させると同時に、その代謝で生まれるエネルギーを飢餓解消のために役立てる。その結果、身体システムは健全な状態に保たれる。もとより、カロリー制限を続けることは、鎖国をしながらリフレをするようなものだから、経済は健全性を維持するけれども、規模は拡大せず、黒船来航に対して無防備である。すなわち、外部の侵略者に対する免疫機能は低下するということである。

細胞内シグナル伝達に話を進めよう。飢餓状態では、NAD+に対するNADH、ADPに対するATPが相対的に少なくなることは既に述べたが、ATPが不足すると、さらに、リン酸結合を二つ持ったADPから一つしかないAMPと三つあるATPが作られるという反応が起きる。

2ADP→ATP+AMP

だから飢餓状態では、AMPも増える。AMPはもともと少ししかないので、ADP/ATP比よりもAMP/ATP比の方が顕著に変動する。それゆえ、前者だけではなく、後者も飢餓のシグナルとして使われる。

NAD+/NADH比の増大で活性化するのがSirt1(哺乳類のサーチュイン遺伝子)であるのに対して、AMP/ATP比の増大で活性化するのは、AMPKである。ただし、AMPKが活性化すると、NAD+/NADH比も増大する[24]という効果があるので、AMPKから話を始めよう。

AMPKは、「エネルギー恒常性を維持する、栄養素とエネルギーの感知器[25]」で、ちょうど中央銀行が絶えずマネーサプライの伸び率をモニターし、これを調節しようとするように、AMPKも絶えずADP/ATP比やAMP/ATP比をモニターし、これを調節しようとする。

AMPKの活性化とNAD+/NADH比の増大は、サーチュイン(Sirt1)遺伝子を発現する。Sirt1は、酵母の長寿遺伝子 Sir2(Silent mating-type Information Regulation 2)[26]の哺乳類におけるホモログ(相同性のある遺伝子)で、NAD+依存性のヒストン脱アセチル化酵素であることがわかっている[27]。Sirt1は、FoxOやPGC-1αといった核内転写因子を発現する。

AMPK→NAD+→Sirt1→PGC-1α, FoxO

阻害する転写因子は以下のとおり。

AMPK→NAD+→Sirt1¬Bax, p53, PPAR-γ, NF-κB

PGC-1α(PPAR-γ coactivator-1α ピーピーエイアールガンマ活性化補助因子-1アルファ)は、ミトコンドリアを構成する分子で、その名のとおり、PPAR-γ(Peroxisome Proliferator-Activated Receptor γ ペルオキシソーム増殖剤活性化受容体ガンマ)を活性化する補助因子である[28]。Sirt1の発現は、PGC-1αを通じて、ミトコンドリアにおける糖代謝や脂質代謝を改善する。カロリー制限以外でも、寒冷地対応[29]やエネルギーを消費する運動[30]が、PGC-1αを発現することが知られている。

FoxOは、ストレスへの抵抗を高め、細胞周期を抑制し、糖新生を促す。また、アポトーシスを誘導し、血管新生を阻害することで悪性腫瘍の増殖や転移を抑制する。ただし、Sirt1は、Baxやp53といったアポトーシス促進転写因子を阻害するので、カロリー制限でアポトーシスが活発になるということはない。また発癌防止という点でも両義的な役割を果たす[31&#93#93;。カロリー制限の寿命延長効果という点で最も重要なFoxOの働きは、ATG遺伝子の発現によるオートファジーの促進である[32]。オートファジーが行う細胞のハウス・キーピングは、細胞を若返らせ、老化によって起きる疾患の原因を取り除く。

血糖値が低下すると、糖質コルチコイドがNF-κBの核内移行を阻止し、TNF-αの転写を阻止することは既に述べた。Sirt1も同じ働きで炎症が起きることを防ぐ。これに対して、カロリー制限をせずに脂肪を蓄積すると、TNF-αなどの悪玉アディポサイトカインが炎症を惹き起こす。だから、カロリー制限は、悪玉アディポサイトカインが原因となって起きる生活習慣病を防ぐことで、寿命を延長すると言うことができる。

4 : 参照情報

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5月 182017
 

カロリー制限(calorie restriction)とは、摂取する食物のカロリーを削減することである。カロリー制限は、栄養失調をきたさない限り、様々な生物で老化の防止、加齢性疾患の減少、寿命の延長をもたらすことが確認されている。ダイエット目的で行われることもあるが、この言葉は、主として抗老化医学の分野で用いられる。本稿では、カロリー制限はなぜ老化を遅らせ、寿命を延ばすのか、カロリー制限にはメリット以外にデメリットもないのかについて考えてみたい。

1 : 二十世紀以前におけるカロリー制限の実践

寿命延長方法としてのカロリー制限を公刊された著作で最初に提案したのは、ルネサンス期のイタリア貴族、ルイジ・コルナロ(Luigi Cornaro; 1484–1566年)である。コルナロは、若い時の不摂生がたたって病気になったが、医師の勧めで少食を実行したところ、一年足らずで快癒した。それ以来、彼は毎日食べ物を350グラムに限定したが、パン、パナド、卵、スープ、鶏肉、子羊、魚など多様な食材で栄養のバランスを取ったおかげで、健康を維持したまま、介護も不要な状態で長生きしたと伝えられている。

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Fig.01. ルイジ・コルナロの肖像画[1]

彼は自分の長生きを誇張し、年齢詐称を繰り返したため、102歳まで生きたということになっているが、実際は82歳ぐらいで亡くなったようだ[2]。それでも、当時の平均寿命を基準に考えるなら、十分長生きで、自分の食事療法をまとめた『無病法』(原題:Discorsi della vita sobria 節制生活講話[3])は幅広く読まれて、食養のバイブルとなった。

日本でも、84歳まで生きた貝原益軒(1630ー1714年)が『養生訓』で、「珍美の食に対すとも、八九分にてやむべし[4]」と、今日の「腹八分目に医者要らず」という諺に通じることを述べている。インドの伝統医学であるアーユルヴェーダにも似たような格言があり、小食が健康に良いことは、洋の東西で経験的に認識されていた。しかし、カロリー制限によって様々な種の生物が寿命を延長させることが科学的に実証されるようになったのは、二十世紀になってからのことである。

2 : 動物実験によるカロリー制限の効果の検証

栄養失調のないカロリー制限が老化を遅らせ、寿命を延ばすことは、酵母[5]、ハエ[6]、クモ[7]
[8]、齧歯類[9]など多くの種の生物において確認されている。もっとも、カロリー制限が免疫機能を低下させることもわかっており[10]、実験で寿命が延びたのは、ウイルスや菌が少ない人工的な環境であったからに過ぎないのではないかという懐疑論もある。そんな中、抗老化医学が最も注目する動物実験は、米国でウィスコンシン大学(the University of Wisconsin Madison=UW)と国立老化研究所(the National Institute on Aging=NIA)が行っているアカゲザル(Macaca mulatta, rhesus monkeys)に対する実験である。

アカゲザルは、アジアの広い地域に絶滅の恐れがないほど多く生息する旧世界ザルで、ヒトと遺伝子が93%同じであることから、人体実験の代替として使うことが適切な実験動物である。また飼育されているとはいえ、比較的自然環境に近い状態で飼われているだけに、免疫機能低下以上のメリットがあるかどうかも注目されるところである。

ウィスコンシン大学は、1989年から始めた実験の結果として、2009年に『サイエンス』で、カロリー制限がアカゲザルの寿命を延ばしたと報告した[11]。自由摂取の対照群と比べ、摂取カロリーを30%減らした実験群では、糖尿病、癌、心臓血管疾患、脳萎縮といった加齢関連疾患の発生率が減り、対照群の生存率が50%の時点で、生存率が80%であったというのである。以下の写真(Fig.02)の左側は自由摂取をしたアカゲザル、右側はカロリー制限をしたアカゲザルが平均寿命に相当する高齢に達した時の写真で、右側のアカゲザルの方が左側よりも毛がふさふさして若々しいことがわかる。

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Fig.02. 左側(AとB)は対照群、右側(CとD)は実験群における平均寿命時(27.6才)のアカゲザルの写真[12]

これに対して、1987年から同様の研究を行っていた国立老化研究所は、2012年に『ネイチャー』で、カロリー制限がアカゲザルの寿命を延ばさないという逆の結果を報告した[13]。国立老化研究所は、ウィスコンシン大学よりも幅広い年齢のアカゲザルを集めて様々な年齢でカロリー制限を開始したが、どの年齢から始めた場合でも、カロリー制限を行った実験群は、中性脂肪やコレステロールの値が有意に低いなど、対照群と比べて代謝機能の改善が見られたものの、T細胞の増殖能が低下するなど、免疫機能の低下がそれを相殺して、生存率を高めなかったと分析している。

ウィスコンシン大学と国立老化研究所とで結果が逆になったのは、餌の量と質に違いがあるからと考えられている。ウィスコンシン大学の実験では、国立老化研究所の実験と比べて、餌に六倍の糖質、二倍の脂質が含まれていたが、後者では代わりに他の多様な栄養素がバランスよく含まれていた。また、ウィスコンシン大学の対照群では、アカゲザルがいつでも好きなだけ餌を食べることができたのに対して、国立老化研究所の対照群では、食事が一日二回に限定されており、ウィスコンシン大学の対照群と比べると緩やかなカロリー制限を行っていたと評することができる。そこで、以下のような理由から「カロリー制限しても寿命は延びない」という懐疑論が出てきた。

カロリー制限により餌の量を自由摂取群の20~30%ぐらい減らしたとしても、それは、本来健康を維持するための適正量に近づいただけかも知れません。これまでのカロリー制限の実験では、過食による早死を防いだため、結果的に平均寿命や最長寿命が延びたように見えていただけなのかも知れません。[14]

確かに、カロリー制限にはメタボリック・シンドローム(通称、メタボ)を防止するという健康効果があるが、はたしてそれ以上の健康効果はないのか。この論争に決着をつけるべく、アラバマ大学の統計学者たちが2015年7月現在の両実験データを解析し、その結果を2017年に『ネイチャー・コミュニケーションズ』にて発表した。それによれば、以下のグラフ(Fig.03)に示されているとおり、左側のウィスコンシン大学(UW)でも、右側の国立老化研究所(NIA)でも、カロリー制限を行った実験群(赤線)の方が、そうではない対照群(青線)よりも加齢関連疾患を持たない割合が高い傾向にある。

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Fig.03. ウィスコンシン大学(UW)と国立老化研究所(NIA)の実験におけるカロリー制限を行った実験群(赤線)とそうではない対照群(青線)での加齢関連疾患を持たない割合(縦軸)と年齢(横軸)の関係[15]。矢印は、カロリー制限を開始した平均的な時点。

問題は、これが寿命延長につながっているかどうかである。研究チームはこの点を確認するために、各地で飼育している霊長類の寿命データベース(iPAD=the internet Primate Aging Database)を活用し、両施設での実験群と対照群で使っているアカゲザルの属性を平均と比較した。以下のグラフ(Fig.04)は、両施設のアカゲザルの体重を同じ年齢層のiPAD登録アカゲザルの平均と比較したもので、これを見ると、ウィスコンシン大学の対照群以外は、平均とほぼ同じ、もしくはそれ以下であることがわかる。このことは、老化研究所の対照群のアカゲザルも、穏やかなカロリー制限をした状態に近いことを示している。

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Fig.04. ウィスコンシン大学(UW)と国立老化研究所(NIA)の実験で使われたアカゲザルの体重のiPAD平均との偏差[16]。左側はメス(Females)、右側はオス(Males)。赤色はカロリー制限を行った実験群(CR)、青色はそうではない対照群(control)。“J/A CR” は、若年/中年から、“old CR” は老年からカロリー制限を開始したことを示す。上に表示された年齢カテゴリーは、体重測定時の年齢層。

このグラフで特に注目したいのは、国立老化研究所で老年からカロリー制限を開始した実験群とそれに対応する対照群のオス、つまり右側の左下がりの斜線が入った棒グラフである。実験群のみならず、対照群も摂取カロリーが比較的少なく、その結果、体重も iPAD 登録アカゲザルの平均よりも小さい。そしてこれらのオスたちは、平均的なオスよりも長生きをしている。これらのオス20匹の寿命の中央値は、アカゲザルのオスの90パーセントタイル値である35歳で、6匹は40歳を超えて生存し、カロリー制限をしたオスの1匹は論文執筆時現在43歳で、過去最長記録を更新した。ここから、研究チームは、オスが老年になってから始めるカロリー制限には寿命延長効果があると結論付けた。

これに対して、若年/中年からカロリー制限を始めたオスには、寿命延長効果が見られなかった。これは齧歯類に対するカロリー制限実験の結果とは対照的である。齧歯類では、カロリー制限を始める時期が早いほど寿命延長効果が大きい。以下の表(Fig.05)は、カロリー制限を行った齧歯類の寿命延長効果を、寿命78歳のヒトに当てはめて試算したものである。例えば、1行目は、人生の20パーセントタイル値である15.6歳からカロリー制限を62.4年間行った場合、延長寿命は、15%のカロリー制限で5.6年、30%のカロリー制限で11.2年という意味である。最後の行は、人生の80パーセントタイル値である62.4歳からカロリー制限を15.6年間行った場合、延長寿命は期待できないということである。

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Fig.05. 齧歯類がカロリー制限(15%/30%)によって延ばした寿命をモデル化して寿命78歳のヒトに当てはめた試算[17]

これを真に受けて、若い時からカロリー制限に取り組んだ人もいるようだが、私たちは霊長類だから、齧歯類の実験結果よりもアカゲザルの実験結果の方が参考になる。アカゲザルについても言えることだが、育ち盛りに行うカロリー制限は危険を伴う。メタボリック・シンドロームが発生するのは中高年になってからだから、カロリー制限もその時期から始めた方がよいということなのだろう。

他方でメスでは、カロリー制限による寿命延長効果は、開始時期とは無関係に認められなかった。同じことは齧歯類にも当てはまる[18]。メスが皮下脂肪を発達させるのに対して、オスは内臓脂肪を発達させる傾向があり、メタボリック・シンドロームの弊害はメスよりもオスで顕著である。オスでは、カロリー制限が、寿命延長効果に加え、メタボリック・シンドロームの回避というメリットをもたらすのに対して、メスにはそうしたボーナスがなく、カロリー制限による寿命延長効果が免疫機能の低下というカロリー制限のデメリットによって相殺され、生存率の向上を帰結させなかったと考えることができる。

3 : 人体に対するカロリー制限の影響の検証

カロリー制限がヒトの寿命を延ばすかどうかを検証するために、ヒトに対して、アカゲザルに対して行ったような実験を、被験者が死ぬまで長期にわたって十分コントロールされた状態で行うことは困難である。しかし、短期的にカロリー制限が人体にどのような影響を及ぼすかをランダム化比較試験で調べる前向き研究や長期間にわたって自発的にカロリー制限を行っている人をそうではない他の人と比べる後ろ向き研究なら可能である。

飢餓が人体に及ぼす影響を調べる前向き研究が、1944年から1945年の間に米国のミネソタ大学で行われたことがある。ただしこれは、カロリー制限が寿命を延長させるかどうかを調べようとした抗老化医学的実験としてではなくて、第二次世界大戦で飢餓に陥ったヨーロッパ人たちを救済するためのシミュレーションとして行った。被験者は兵役の代替として志願した22~33歳の白人男性で、当時のヨーロッパ人が飢えを凌ぐために食べていたジャガイモやパンやマカロニなどを一日あたり約1560キロカロリーに制限した半飢餓状態を24週間体験した。食事が炭水化物に偏っていたため、当然のことながら栄養失調の悪影響が被験者に出現した[19]。実験結果は『ヒトの飢餓の生物学』(The Biology of Human Starvation)として出版されたが、カロリー制限は必須栄養分を確保した上で、糖質など必須でない栄養分を減らすことが前提となるので、このミネソタ飢餓実験(The Minnesota Starvation Experiment)は、カロリー制限の人体実験としては扱われていない。

以下、カロリー制限と言えば、栄養失調のないカロリー制限(Calorie restriction without malnutrition)のこととしたい。この意味でのカロリー制限が人体に及ぼす影響を調べた前向き研究が、2007年から始まった。CALERIE(Comprehensive Assessment of Long term Effects of Reducing Intake of Energy エネルギー摂取削減の長期的効果の包括的評価)と名付けられたこのランダム化比較試験では、標準もしくは軽度の肥満(BMI=22-27.9kg/m2)で、20歳以上50歳以下の健康な男女228人のボランティアが募集された。ボランティアたちは、カロリー制限を行う実験群と自由摂取の対照群にランダムに分けられ、実験群の82%と対照群の95%が24か月のプロトコルを完了した。被験者に重度の肥満者を含めなかったのは、カロリー制限が、肥満を解消することによる健康効果以上の寿命延長効果があるかどうかを調べるためである。

CALERIEの研究成果として以下のような発表がなされている。

  • 2015年7月の発表[20]によると、実験群は 11.7±0.7% のカロリー制限を達成し、10.4±0.4% の体重減少を維持したのに対して、対照群の体重変化は無視できる程度であった。対照群と比べ、実験群において、トリヨードサイロニンとTNF-αが有意に減少した。トリヨードサイロニンは、細胞の代謝率を上昇させる甲状腺ホルモンの一種で、カロリー制限でこれが減少したのは、基礎代謝量が減ったからであると考えられる。TNF-αは、炎症を起こした細胞を壊死させ、感染を防ぐサイトカインで、TNF-αの減少が寿命を延長させることを示す確固たるエビデンスは存在しないが、こうした炎症指標値が加齢関連疾患の増加に伴って上昇することも事実である。
  • 2015年9月の発表[21]によると、対照群と比較して、実験群では、骨形成の指標である骨型アルカリフォスファターゼ(bone-specific alkaline phosphatase)および健康寿命を維持する上で重要な部位(腰椎、大腿骨、大腿骨頚部)における骨密度(bone mineral density 骨塩量)が有意に低下した。カロリー制限をすると、身体活動が低くなり、そのために、骨が脆くなったということも考えられるが、それ以外にも要因はありそうだ。重回帰分析によれば、身体活動の変化以外にも、体の組成、ホルモン、栄養素の変化が、実験群における骨代謝と骨密度の変動の約31%を説明する。だから、骨量減少が運動で予防できるかどうかはわからず、安全性に懸念が生じた[22]
  • 2016年7月の発表[23]によると、対照群と比較して、実験群では、炎症の指標である白血球総数、リンパ球数、C反応性蛋白、レプチン(食欲を抑制し、エネルギー消費を増加させる肥満ホルモンでもある炎症性サイトカイン)を二年後有意に減少させた[24]。白血球、その中でもリンパ球は、免疫機能を担う重要な細胞で、以下のグラフ(Fig.06)にあるとおりこれらが減ったにもかかわらず、実験群と対照群との間に過敏症の皮膚反応やワクチンに対する抗体応答に差がなく、カロリー制限が臨床的に重要な感染症を惹き起こすことはなかった。この結果から、研究者たちは、カロリー制限は、細胞性免疫を損なうことなく炎症を抑えると結論付けた。
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Fig.06. ヒトを対象とした2年間のカロリー制限による白血球(A)およびリンパ球(B)の数の変化[25]。赤色は、カロリー制限を行った実験群、黒色は自由摂取の対照群。

以上を要するに、ヒトを対象にしたカロリー制限は、体重を減らすのみならず、白血球数、C反応性蛋白、TNF-α、レプチンといった炎症の指標となる値を減少させるので、抗炎症作用があり、それゆえ抗老化・寿命延長効果が期待できるということである。しかし、炎症を減らすことは、寿命を延ばすために望ましいことなのか。

炎症には比較的早期に収まる急性炎症と長期にわたって続く慢性炎症とがある。急性炎症は、白血球が体内に侵入してきた細菌やウイルスといった異物を攻撃する免疫の結果起きる場合が典型事例で、炎症自体は好ましくないにしても、必要な自己防衛反応であるといえる。これに対して、慢性炎症は、アレルギー性疾患など自己防衛反応が暴走する結果、あるいは内的な生体異常の結果として起きると考えられ、さらには、加齢関連疾患と関係付けられている。それで、慢性炎症を防ぐことが寿命延長につながると研究者たちは予想しているのである。

CALERIEの研究者たちは、ヒトの場合、動物の場合とは異なり、カロリー制限が免疫機能を低下させることなく慢性炎症を防ぐと言うが、この実験だけでそう断定することはできない。死ぬまで行う動物実験とは異なり、CALERIEは、80歳近くまで生きるヒトに対してたった2年間しかカロリー制限を行っていない。しかも被験者は20歳以上50歳以下で、高齢者は含まれていない。更年期に当たる50歳以降、ヒトの免疫機能が低下することが知られており、それに伴って感染症による死亡が増える。カロリー制限で白血球などの免疫細胞を減らすことが高齢期にどのような影響を与えるかは、CALERIEの結果からはわからない。

もっと長期間カロリー制限を行ったときの影響を調べようとするなら、自発的にカロリー制限を長期間実践している人たちに対して後ろ向き研究をするしかない。幸い、そういう実践をしている集団がある。米国にある非営利組織、カロリー制限協会(The Calorie Restriction Society)はその代表で、1993年に Usenet 上にできた Sci.life-extension という名前のディスカッション・グループを前進として形成された国際的コミュニティである。2016年に、カロリー制限協会で3〜15年間カロリー制限を行っている37人の男女をその被験者たちと性と年齢を合致させた通常(西洋)食の摂取者および性と年齢と体脂肪率を合致させたマラソンランナーと比較した研究が発表された[26]

それによると、カロリー制限実践者の骨格筋で測定した血清コルチゾール濃度は、通常食摂取者やマラソンランナーと比べて、高かった(それぞれ、15.6±4.6ng/dl、12.3±3.9ng/dl、11.2±2.7ng/dl; p≦0.001)。研究者たちは、それを炎症の減少、機能不全のタンパク質およびオルガネラの除去による細胞の品質管理強化と肯定的に評価している。この結果は、カロリー制限により血糖値が下がり、血糖値を高めるためにコルチゾールが分泌され、筋肉の分解と糖新生が促進されたからと考えられる。タンパク質の分解による新陳代謝の促進が炎症を減らしたことは肯定的に評価できるが、他方で、コルチゾール濃度の上昇は免疫機能を低下させ、不妊をもたらし、骨の形成を阻害するなどの副作用がある。2015年9月の発表で示された骨代謝と骨密度の低下もこれと関係がありそうだ。

そうした副作用のおかげでカロリー制限を途中でやめる人もいるはずだが、後ろ向き研究では脱落者は最初から除外されている。前向き研究のCALERIEでも、実験群では対照群以上の脱落者を出した。高齢になると免疫機能が低下するし、骨も脆くなってロコモティブ・シンドローム(骨、関節、筋肉など運動器の衰えが原因で健康寿命が短くなる運動器症候群)のリスクも高まる。それにもかかわらず、高齢になるまでカロリー制限を続けたとして、なおも寿命が延びるのかどうかに関して、これまで紹介した研究は説得力のある結論を出していない。被験者が死ぬまで実験を続けることが難しいのだから、これは止むを得ないことだ。

カロリー制限の直接的な結果とみなすことはできないが、体重と死亡率の関係に関しては多くの調査があり、これがある程度参考になる。スウェーデンのヨーテボリ大学が、70歳の非喫煙者が15年間で死亡する割合を調べたところ、男性は、BMI=27-29kg/m2、女性は、BMI=25-27kg/m2で最も低く、70歳から75歳にかけて体重を10%減らすことは死亡率を有意に高めた[27]。BMIは、18.5以上25未満が標準とされている[28]ので、軽度の肥満の方が標準よりも長生きしたということである。中高年の日本人を対象にした研究でも、死亡リスクが最も低くなるBMIは、標準よりわずかに肥満気味の範囲(21-27kg/m2)であることが示された[29]

50–71歳の非喫煙者を12.5年間フォローアップした米国の国立衛生研究所の研究[30]によれば、18歳から50歳の間における体重増加が死亡率を上昇させるのに対して、50歳から69歳の間における0.2–0.6kg/年程度の体重増加は死亡率を低下させ、体重減少は死亡率を上昇させる。体重減少が死亡率を高めたことに関しては、体重が減ったから病気になったのではなくて、病気になったから体重が減ったという逆の因果関係も考えられるが、50歳から69歳の間健康であった人でも、0.2–0.6kg/年の体重増加が死亡率を下げており、逆の因果関係だけでこの結果を説明することはできない。

BMIの研究における体重減少の原因はカロリー制限とは限らないので、直接的な証拠にはならないが、動物実験の結果と合わせて考えるなら、ヒトにおいても、カロリー制限には抗老化・寿命延長効果というメリットがある反面、免疫機能の低下というデメリットもあると言えそうである。次節では、このトレードオフはどういう分子レベルのメカニズムによって起きているのかについて考えてみたい。

4 : トレードオフの分子生物学的機序

カロリー制限がなぜ老化を遅らせ、寿命を延長させるのかに関して、古くから様々な仮説が提案された。代表的な仮説は、カロリー制限によって代謝速度を落とすと、代謝で発生して、老化を促進する活性酸素種のレベルを抑制するがゆえに、老化が遅滞するという生命活動速度理論に基づく仮説である。しかし、生命活動速度や活性酸素によって老化の速度を説明する理論自体が疑問視されているので、この仮説は支持できない。

解糖系での嫌気的代謝が亢進し、ミトコンドリアでの好気的代謝が低下すると細胞の老化が抑制されることからもわかるとおり、酸化ストレスは細胞の老化をもたらす。他方で、カロリー制限を行うと、解糖系での嫌気的代謝が低下し、ミトコンドリアでの好気的代謝を低下するにもかかわらず、個体の老化を抑制する。酸化ストレスが老化をもたらすと主張する近藤祥司は、細胞老化と個体老化は違うとしつつも、この矛盾は「現時点では、説明が非常に難しい問題[31]」と言っている。しかし、これの説明はそれほど難しくはない。細胞が老化しても、それを個体が新陳代謝する限り、個体は若さを維持することができる。個体の老化は、酸化によるダメージによって直接起きるのではなくて、酸化によるダメージを修復する能力が衰退することで起きる。そして、カロリー制限はその能力を維持させると考えれば、説明がつく。

酸化ストレス老化説と並んで、もう一つ古くからある説として、ホルミシス(Hormesis 閾下増進効果)説がある。低線量の放射線など、本来有害なストレスも、微量ならかえって健康に良いという説である。確かに飢餓も度が過ぎれば死をもたらす有害なストレスであり、カロリー制限協会のメンバーは、ストレス・ホルモンであるコルチゾールの血清濃度が高いことは既に紹介した。とはいえ、ホルミシス説自体理論的裏付けがなく、この言葉を持ち出したところで何の説明にもなっていない。コルチゾールには、健康に有害な効果もあることは既に述べた。

現在支持を集めているのは、進化論的な、つまり自然淘汰による説明である。すなわち、カロリー制限による寿命延長メカニズムは、栄養が不十分な時期に親の寿命を延長させ、生殖を先延ばしにすることが子孫の確実な生存につながるがゆえに、幅広い種に備わるようになったというものである[32]。もっとも、この自然淘汰説だけでは、なぜカロリー制限が免疫機能や運動機能を低下させるのかがよくわからない。

カロリー制限の進化論的意義は、また後で考えることにして、ここでは、カロリー制限が寿命を延長する分子生物学的メカニズムについて考えたい。1999年に、レオナルド・ガレンテのグループは、酵母を用いた実験で、サーチュイン遺伝子(酵母の場合、SIR2)の活性化により、酵母の寿命が延びることを見出し[33]、2000年には、カロリー制限によって誘導される寿命の延長には、内呼吸の酸化剤であるNAD+が必要であることを示した[34]

サーチュイン遺伝子が寿命を延ばすのは、その発現が、FoxO(Forkhead Box O フォークヘッド転写因子)を通じて、オートファジーを活性化することによってである[35]。オートファジーとは、自分の細胞の中で不要になったタンパク質などを分解して必要な栄養素を取り込むことで、栄養素が足りない事態への適切な対応である。体内のごみが一掃されることで、免疫システムが体内の異物を攻撃する必要が減り、その結果、慢性炎症を防ぐことになると考えることができる。

カロリー制限がサーチュイン遺伝子(ヒトの場合、SIRT1)を活性化する一方で、この遺伝子は、増殖シグナルを伝達する酵素、mTOR(ヒトの場合、mTORC1)を阻害する[36]。mTORC1は、栄養が豊富にある場合、それを材料とエネルギー源として、細胞の数を増やす。カロリー制限の時とは逆に、オートファジーは抑制され、細胞にごみが溜まり、悪性腫瘍が発生しやすくなる。その代わり、それらを攻撃する免疫機能は強化される。

ヒトに対する実験で明らかになったカロリー制限による骨密度の低下はタンパク質不足が原因のようである。骨粗鬆症になりやすい閉経後女性を対象にした実験では、カロリー制限をしつつも、タンパク質が豊富な食事を食べた被験者は、タンパク質の量が通常であるカロリー制限実践者と比べて、インスリン様増殖因子1(IGF-1)が増加し、骨密度の低下が改善された[37]。IGF-1の増加は、PI3K/Aktシグナル伝達系を通して、mTORC1を活性化させ、SIRT1の発現を阻害する[38]

どうやら、骨への悪影響を避けて、SIRT1活性化による寿命延長効果を得るという好いとこ取りはできないようだ。オートファジーによるタンパク質の分解が筋肉を衰えさせることを併せて考慮に入れるなら、栄養が足りない環境下では、無駄に体を動かしてエネルギーを浪費しないように、筋肉や骨といった運動器官の機能を低下させるという適応がなされていると考えることができる。

シグナル伝達の結果をまとめると、カロリー制限は、オートファジーによる新陳代謝を促進して老化を防ぐ反面、免疫機能や運動機能を低下させる。カロリー制限をせずに十分な栄養を取ると、体が成長し、免疫機能も運動機能も向上する反面、老化の進展が速くなる。このように、カロリー制限には、「あちら立てれば、こちらが立たぬ」というトレードオフの関係がある。このトレードオフには、進化論的にどのような意義があるかについて、次節で考察することにしよう。

5 : トレードオフに見られる二つの生存戦略

CALERIEの研究者たちは、カロリー制限の長所を強調するが、カロリー制限に長所しかないなら、なぜサーチュイン遺伝子は無条件で活性化されないのか。実際のところそうでないのは、個体が長生きすることは必ずしも種の利益にはならないからだ。もしも個体の長生きが種にとっても無条件に良いことであるなら、個体が不老不死になるように生命が進化したはずだが、そうならずに、死が発明され、有性生殖が誕生し、個体が一定の寿命以上生きられないようにしたのは、その方が寄生者対策として有効であるからというのが今日の有力な仮説である。

カロリー制限による老化の遅延は、栄養が不十分な環境下で生殖を遅らせるという適応的な意味があると考えられている。拒食症の少女が無月経になって、思春期を遅らせる事実は古くから知られており、カロリー制限が妊娠を先送りするメカニズムは、着実に子孫を残す時期を選んで出産できるように適応したことで生まれたという説がある[39]。男に関しても、長期にわたるカロリー制限が、男性ホルモンであるテストステロンと結合する性ホルモン結合グロブリン(Sex Hormone–Binding Globulin=SHBG)の血中濃度を増やし、その結果、血中に遊離するテストステロンを減らし、生殖機能を低下させることがわかっている[40]

マウスを用いたカロリー制限の実験[41]によると、離乳時に開始した場合はもちろん、成獣後に開始した場合でも、生殖の時期が遅滞する。自由摂取したメスのマウスが、15.5ヶ月齢で生殖能力が衰えるほど老化が進んだのに対して、4か月間カロリー制限をした後、15.5ヶ月齢で自由摂取したメスのマウスは、23ヶ月齢まで子を産んだ。自由摂取したマウスが10〜23ヶ月齢という高齢で出産した子が22%しか生存しなかったのに対して、カロリー制限後に自由摂取をしたマウスが15.5〜23ヶ月齢で娩出した子の73%以上は合併症なしに生き残った。通常、高齢出産はリスキーであるものだが、カロリー制限で老化を遅延させた場合はそうではないということである。

カロリー制限による寿命延長効果の意義が、出産の時期を餌が豊富になるまで先送りすることだとするなら、若い時ほど効果がある齧歯類とは違って、高齢になっても効果がある霊長類のカロリー制限の寿命延長効果はどう説明すればよいのだろうか。これは、霊長類が、齧歯類とは異なり、出産後長期にわたって子育てをすることで説明できそうだ。つまり、餌が不足する環境になると、たんに子供が発育を遅らせるだけでなく、未熟な子供を保護し、育てる親までが、老化を遅らせて長生きするようなメカニズムになっていると考えられる。

では、メスよりもオスでカロリー制限による寿命延長効果が出ることはどう説明するべきか。哺乳類では、メスは胎児を育てるエネルギーを確保するために、皮下脂肪を蓄えなければならない。だから、メスがある程度の皮下脂肪を蓄えても寿命が縮まることはない。これに対して、オスの仕事は戦うことであり、仕事をせずに内臓脂肪を貯め込む穀潰しのようなオスがメタボで早死にすることは種の利益に合致するがゆえに、こうした性差が生まれたと考えられる。しかし、メタボ回避による寿命延長は、カロリー制限による寿命延長とは区別しなければならない。

カロリー制限による寿命延長が運動機能や免疫機能の低下をもたらすのはなぜなのかに関しても合理的な説明が可能だ。食料が少ない環境では、運動しても無駄にエネルギーを消費するだけなので、それよりもオートファジーによって当面のエネルギーを確保する方が確実に生存できる。オートファジーが体内のごみを減らし、その結果、慢性炎症を防ぐ効果があることは既に述べた。内的異物が減っても、ウイルスや細菌など外的異物の侵入に対して免疫機能は依然として必要であるが、食料が少ない環境では、寄生者も少なくなるので、免疫機能の必要性も減る。

食料が豊富な環境で生きる場合と食料が乏しい環境で生きる場合の違いは、都会で生きる場合と田舎で生きる場合の違いに似ている。金を稼ぐなら田舎よりも都会である。都会は人口密度が高いし、金持ちもたくさん住んでいる。それだけに、詐欺や強盗などを行って、その富を掠め取ろうとする寄生者も多く、防犯のニーズが高い。これに対して、田舎は人もまばらで概して貧しいので、都会にいるような寄生者は少なく、それゆえ防犯意識も低い。

生命にとっての個体レベルでの防犯装置は免疫システムであるが、種レベルでは有性生殖である。特に、多様な個体をたくさん作り、一個体あたりの寿命を短くすれば、寄生者による乗っ取りのリスクを低減することができる。だから、十分な栄養摂取は、IGF-1→PI3K→Akt→mTORC1というシグナル伝達系を通じて、免疫機能を強化しつつ、個体の成長と生殖を加速させ、寿命を短縮する。逆に、栄養が不十分になると、NAD+→SIRT1→FoxOというシグナル伝達系を通じて、免疫機能を弱めながらも、個体の成長と生殖を遅滞させ、寿命を延長させる。

このように、生命には、せわしい都会で太くて短い人生を送るか、それとものんびりした田舎で細くて長い人生を送るかという選択肢がある。この選択は、本来環境によって決まるものであり、個人が環境を無視して自由意思で決めるものではなかった。だから、寿命延長を目当てにカロリー制限をする前に、このメカニズムの意義を理解して、運動機能や免疫機能の低下に対する対策を別途取らなければならない。さもないと、防犯意識の低い田舎者が都会に来た時にありがちな憂き目に遭うことになるだろう。

6 : 参照情報

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  14. 石神昭人.「カロリー制限しても寿命は延びない」東京都健康長寿医療センター研究所. 老化制御研究チーム. ただし、石神は、2017年の『ネイチャー・コミュニケーションズ』の結論を受けて、「論争に一つの終止符が打たれた。約30年に及ぶカロリー制限の研究データは、人間にも置き換えることができそうだ」と述べたと報道されている。小川裕介.「カロリー制限、やっぱり長寿に効果 論争に終止符か」『朝日新聞』2017年1月18日07時52分.
  15. Mattison, Julie A., Ricki J. Colman, T. Mark Beasley, David B. Allison, Joseph W. Kemnitz, George S. Roth, Donald K. Ingram, Richard Weindruch, Rafael de Cabo, and Rozalyn M. Anderson. “Caloric restriction improves health and survival of rhesus monkeys.” Nature Communications 8 (January 17, 2017): 14063. doi:10.1038/ncomms14063. Figure 6 (a) “Morbidity curves for monkeys at NIA and UW shown.” Licensed under CC-BY-SA. 引用者によるレイアウトの変更あり。
  16. Mattison, Julie A., Ricki J. Colman, T. Mark Beasley, David B. Allison, Joseph W. Kemnitz, George S. Roth, Donald K. Ingram, Richard Weindruch, Rafael de Cabo, and Rozalyn M. Anderson. “Caloric restriction improves health and survival of rhesus monkeys.” Nature Communications 8 (January 17, 2017): 14063. doi:10.1038/ncomms14063. Figure 2 (b) “Bodyweight data for monkeys at NIA and UW”. Licensed under CC-BY-SA.
  17. Speakman, John R., and Catherine Hambly. “Starving for Life: What Animal Studies Can and Cannot Tell Us about the Use of Caloric Restriction to Prolong Human Lifespan.” The Journal of Nutrition 137, no. 4 (April 1, 2007): 1078–86. TABLE 2. Modeled benefits (years of life extension) of CR in humans at 2 different levels (15% and 30% CR below control) in relation to the age at which restriction is initiated.
  18. Grove, K. L., et al. “A microarray analysis of sexual dimorphism of adipose tissues in high-fat-diet-induced obese mice.” International Journal of Obesity 34.6 (2010): 989-1000.
  19. 飢餓を体験した被験者は、基礎代謝率が低下し、体温が低下し、呼吸と心拍数が低下した。一部の被験者は、血漿タンパク質のレベルが低下したために、四肢に浮腫を示した。この他、鬱病、ヒステリー症、羊膜炎症が有意に増加したということである。
  20. Ravussin, Eric, et al. “A 2-Year Randomized Controlled Trial of Human Caloric Restriction: Feasibility and Effects on Predictors of Health Span and Longevity.” The Journals of Gerontology Series A: Biological Sciences and Medical Sciences 70.9 (2015): 1097-1104.
  21. Villareal, Dennis T., Luigi Fontana, Sai Krupa Das, Leanne Redman, Steven R. Smith, Edward Saltzman, Connie Bales et al. “Effect of Two-Year Caloric Restriction on Bone Metabolism and Bone Mineral Density in Non-Obese Younger Adults: A Randomized Clinical Trial.” Journal of Bone and Mineral Research 31, no. 1 (2016): 40-51.
  22. Romashkan, Sergei V., Sai Krupa Das, Dennis T. Villareal, Eric Ravussin, Leanne M. Redman, James Rochon, Manjushri Bhapkar, William E. Kraus, andCALERIEStudy Group. “Safety of two-year caloric restriction in non-obese healthy individuals.” Oncotarget 7, no. 15 (2016): 19124.
  23. Meydani, Simin N., Sai K. Das, Carl F. Pieper, Michael R. Lewis, Sam Klein, Vishwa D. Dixit, Alok K. Gupta, et al. “Long-term moderate calorie restriction inhibits inflammation without impairing cell-mediated immunity: a randomized controlled trial in non-obese humans.” Aging (Albany NY) 8, no. 7 (July 13, 2016): 1416–26. doi:10.18632/aging.100994.
  24. ICAM-1(炎症性サイトカインとともに増える細胞間接着分子)は、対照群と比較して、実験群では一年後有意に減ったが、二年後には有意な差がなくなった。
  25. Meydani, Simin N., Sai K. Das, Carl F. Pieper, Michael R. Lewis, Sam Klein, Vishwa D. Dixit, Alok K. Gupta, et al. “Long-term moderate calorie restriction inhibits inflammation without impairing cell-mediated immunity: a randomized controlled trial in non-obese humans.” Aging (Albany NY) 8, no. 7 (July 13, 2016): 1416–26. doi:10.18632/aging.100994. Figure 2. Change in the number of white blood cells and lymphocytes following 2 years of calorie restriction in humans.
  26. Yang, Ling, et al. “Long-Term Calorie Restriction Enhances Cellular Quality-Control Processes in Human Skeletal Muscle.” Cell reports 14.3 (2016): 422-428.
  27. Dey, D. K., et al. “Body mass index, weight change and mortality in the elderly. A 15 y longitudinal population study of 70 y olds.” European Journal of Clinical Nutrition 55.6 (2001): 482.
  28. World Health Organization. “The International Classification of adult underweight, overweight and obesity according to BMI.” Global Database on Body Mass Index. 9 May 2009.
  29. Sasazuki, Shizuka, Manami Inoue, Ichiro Tsuji, Yumi Sugawara, Akiko Tamakoshi, Keitaro Matsuo, Kenji Wakai, et al. “Body Mass Index and Mortality From All Causes and Major Causes in Japanese: Results of a Pooled Analysis of 7 Large-Scale Cohort Studies.” Journal of Epidemiology 21, no. 6 (November 5, 2011): 417–30. doi:10.2188/jea.JE20100180.
  30. Adams, K. F., M. F. Leitzmann, R. Ballard-Barbash, D. Albanes, T. B. Harris, A. Hollenbeck, and V. Kipnis. “Body Mass and Weight Change in Adults in Relation to Mortality Risk.” American Journal of Epidemiology 179, no. 2 (January 15, 2014): 135–44. doi:10.1093/aje/kwt254.
  31. 近藤 祥司.『老化はなぜ進むのか―遺伝子レベルで解明された巧妙なメカニズム』. 講談社 (2009/12/22). p.145.
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  36. Ghosh, Hiyaa Singhee, Michael McBurney, and Paul D. Robbins. “SIRT1 Negatively Regulates the Mammalian Target of Rapamycin.” PLoS ONE 5, no. 2 (February 15, 2010). doi:10.1371/journal.pone.0009199. ただし、腸幹細胞におけるmTORC1シグナルは、カロリー制限により逆に上昇する。これに関しては、Igarashi, Masaki, and Leonard Guarente. “mTORC1 and SIRT1 Cooperate to Foster Expansion of Gut Adult Stem Cells during Calorie Restriction.” Cell 166, no. 2 (2016): 436-450. を参照されたい。栄養が欠乏するときは、腸の吸収効率を高めなければならないからだろう。
  37. Sukumar, Deeptha, et al. “Areal and volumetric bone mineral density and geometry at two levels of protein intake during caloric restriction: A randomized, controlled trial.” Journal of bone and mineral research 26.6 (2011): 1339-1348. ただし、間葉系幹細胞を用いた骨粗鬆症に関する研究で、SIRT1がPPAR-γを抑制することで、骨芽細胞の増加と脂肪細胞の減少を促す機序が報告されている。これに関しては、以下の論文を参照されたい。Bäckesjö, Carl‐Magnus, et al. “Activation of Sirt1 Decreases Adipocyte Formation During Osteoblast Differentiation of Mesenchymal Stem Cells.” Journal of Bone and Mineral Research 21.7 (2006): 993-1002; Amat, Ramon, Anna Planavila, Shen Liang Chen, Roser Iglesias, Marta Giralt, and Francesc Villarroya. “SIRT1 Controls the Transcription of the Peroxisome Proliferator-activated Receptor-γ Co-activator-1α (PGC-1α) Gene in Skeletal Muscle through the PGC-1α Autoregulatory Loop and Interaction with MyoD.” Journal of Biological Chemistry 284, no. 33 (2009): 21872-21880.
  38. ヒトにおけるカロリー制限は、PI3K/AKT経路を、したがって、IGF-1/インスリン経路を阻害し、若年者に似た骨格筋の転写プロファイルの変化を誘導することが示されている。Mercken, Evi M., et al. “Calorie restriction in humans inhibits the PI3K/AKT pathway and induces a younger transcription profile.” Aging cell 12.4 (2013): 645-651.
  39. Surbey, Michele K. “Anorexia nervosa, amenorrhea, and adaptation.” Ethology and Sociobiology 8 (1987): 47-61.
  40. Cangemi, Roberto, Alberto J. Friedmann, John O. Holloszy, and Luigi Fontana. “Long-term effects of calorie restriction on serum sex-hormone concentrations in men.” Aging cell 9, no. 2 (2010): 236-242.
  41. Selesniemi, Kaisa, Ho‐Joon Lee, and Jonathan L. Tilly. “Moderate caloric restriction initiated in rodents during adulthood sustains function of the female reproductive axis into advanced chronological age.” Aging cell 7, no. 5 (2008): 622-629.
3月 252017
 

ウイルス進化説とは、進化はウイルスの感染によって起こるという仮説のことである。「ウイルス進化説」あるいは「ウイルス進化論」は、中原英臣と佐川峻による命名であるが、この仮説は海外では二人が提唱する前からあり、それらを含めた包括的な説とするなら、今日ウイルス由来の遺伝子が哺乳類の進化をもたらしたことが実証されているので、部分的には正しいということがわかっている。

1 : ウイルス進化説の起源と背景

二十世紀において支配的であった進化論のパラダイムは、ネオ・ダーウィニズム(Neo-Darwinism)と呼ばれる学説で、ダーウィンの進化論とメンデルの遺伝学を総合しているため、総合進化説(modern synthesis 現代の総合)とも呼ばれる。19世紀後半にアウグスト・ヴァイスマンが獲得形質の遺伝を否定[1]して以来、遺伝子がどのように変化して進化をもたらすのかが焦点となったが、1901年にユーゴー・ド・フリースが突然変異を発見し[2]、遺伝子突然変異で生まれた多様性が自然淘汰によって選別され、進化が起きるというネオ・ダーウィニズムが支持を集めるようになった。

1927年にハーマン・マラーが、X線で人為的に突然変異を惹き起こせることを発見し[3]、1937年には、ブレークスリーとアベリーが、化学物質(コルヒチン)によっても突然変異(倍数化)が起きることを発見した[4]。こうした放射線や化学物質といった変異原で誘発される遺伝子のコピー・ミスなどの事故的な変異は古典的な遺伝子突然変異であり、これを狭義の突然変異と呼ぶことにしよう。

その後、遺伝子は、もっと自発的に見える方法で変更されることが分かった。1941年に、バーバラ・マクリントックがトウモロコシでトランスポゾンの転移が原因である遺伝子の変異を発見した[5]。1970年には、ハワード・マーティン・テミン[6]とデビッド・ボルティモア[7]によって逆転写酵素が見出された。これにより、遺伝情報は DNA から RNA への転写によって一方向に行われるというセントラル・ドグマが崩壊し、以下の図(Fig.01)に示されるように、レトロウイルスも逆転写により cDNA(相補的 DNA)を作り、それを宿主のDNAに組み込むことが分かった。

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Fig.01. レトロウイルスによる遺伝子の水平伝播[8]。1. レトロウイルスには、プロテアーゼ(水色)、逆転写酵素(赤色)、インテグラーゼ(紺色)の3つの酵素を持つRNA鎖がある。2. 宿主細胞の受容体に吸着し、3. RNA鎖と酵素が宿主細胞に入る。4. 細胞内で、レトロウイルスRNAから逆転写酵素によりcDNAを逆転写し、5. cDNA は二本鎖DNAを形成し、核に入り、6. インテグラーゼによって宿主細胞DNAに組み込まれる。7. RNAがDNAをコピーして、転写によりmRNAを生産し、8. mRNAがリボソームでタンパク質を合成し、プロテアーゼが切断する。9. これらの断片は集められ、新しいレトロウイルスとして細胞膜から発芽する。

それで、トランスポゾンによるコピー・アンド・ペイストであるレトロポゾンも、レトロウイルスが起源ではないかと考えられるようになった。レトロウイルスが起源と考えられるゲノムは、内在性レトロウイルス(Endogenous retrovirus)と呼ばれ、ヒト・ゲノムの 5~8% を占めるとみなされている[9]。カット・アンド・ペイストであるDNAトランスポゾンも、ゲノム内に残存したDNAウイルスが起源なのかもしれない。こうした類の遺伝子の変異は、狭義の突然変異ではないものの、「遺伝子突然変異とは、遺伝子を形成しているDNA配列の恒久的な変異である[10]」という定義に文字通り従うなら、広義の遺伝子突然変異であると言える。

レトロウイルスが逆転写によってDNAを改変することができるなら、これが進化をもたらすという考えが信憑性を持つことになる。実際、テミンとボルティモアが1970年7月出版の『ネイチャー』に逆転写酵素発見の論文を掲載したのに続いて、次の号に当たる1970年9月出版の『ネイチャー』に、生物の進化がウイルス感染による遺伝子の水平移動に大いに依存していると主張するノーマン・アンダーソンの仮説がレターとして掲載された[11]。ウイルス進化説が著名な学術誌に掲載されたのは、おそらくこれが世界で最初にちがいない。

ウイルス感染が進化を惹き起こすとアンダーソンが考えた根拠は以下の七つである。

  1. もしもウイルス感染が病気をもたらすだけで、宿主となる生物にとって何の有用な機能をも持たないなら、もっと感染を予防するように生物が進化しているはずだが、そうではない生物が淘汰されないということは、ウイルス感染が宿主にとって何らかの利点があることを示唆している。
  2. いくつかのウイルスは細胞特異性を示すものの、多くのウイルスは生物の種、あるいはしばしば門の障壁を容易に横断して感染する。
  3. ウイルスが宿主のDNA断片を組み込み、それを他の細胞に転移させるという事実は周知のとおりである。
  4. ウイルスの全てのゲノムが、生殖細胞に組み込まれ、次の世代に遺伝する可能性がある。
  5. 異なった種において似通った進化が起きる並行進化は、個別で起きる遺伝子の偶然的変異よりもウイルスの種を超えた感染によって容易に説明できる。
  6. 種を超えた遺伝コードの普遍性も、ウイルスの種を超えた感染によって容易に説明できる。。
  7. 適応的な進化は、小さな突然変異の積み重ねよりも、まとまったゲノムの変更によっての方が起きやすい。

最後の第7命題について補足しよう。狭義の事故的な遺伝子突然変異をキーボード入力の間違えに譬えるとするならば、ウイルス感染による遺伝子突然変異は他人が書いた文章のランダムなコピー・アンド・ペイストということになる。ランダムにするなら、無意味な文章になる可能性が高い。しかし、日本語のローマ字入力をランダムにすると、文字化けしたような無意味な文字列になるのが普通であるのに対して、コピー・アンド・ペイストの場合、コピーされる文字列が有意味であるだけに、文章全体として意味が通じる可能性は比較的高い。だからウイルス感染による遺伝子突然変異の方が、適合的な進化を惹き起こしやすいということである。

2 : 日本におけるウイルス進化説

日本では、ウイルス進化説は、中原英臣と佐川峻による著作で表明された進化論仮説として知られている。以下に彼らの代表的な著作を列挙しよう。

当初彼らは、「今西進化論」を意識して、「ウイルス進化論」と名乗っていた。しかし、日本では、進化論の仮説は、用不用説、自然選択説、隔離説、定向進化説、総合進化説、中立進化説というように、説を付けるのが一般的になっているので、2008年の著作では、その慣習に従って「ウイルス進化説」という言葉を使っている。英語圏ではそうした慣習はなく、“Horizontal gene transfer in evolution 進化における遺伝子の水平移動”といった表現で言及される。“Viral evolution ウイルス進化”を略した“Virolution”といった造語もあるが、定着していない。本稿は日本語の著作なので、アンダーソン以来の仮説をまとめて「ウイルス進化説」と呼ぶことにしたい。

中原と佐川によると、「ウイルス進化論は1971年の今西錦司との往復書簡の中ではじめて公にした[12]」とのことである。非公開の手紙に書いたからといって「公にした」と言えるかどうかは疑問だが、仮にこれが公開であると認めたとしても、アンダーソンが論文を公開した1970年よりも後であり、どのみち、彼らにプライオリティはない。彼らはそれがよくわかっているからこそ、オリジナリティを出すために、ウイルス進化説を今西進化論と結びつけようとした。

今西進化論とは、日本の生態学者である今西錦司(1902年1月6日 – 1992年6月15日)がダーウィンの進化論に対抗して打ち出した理論で、進化は、「生存競争」、「自然淘汰」、「適者生存」ではなくて、主体的な共存である「棲み分け」によって、そして、個体単位ではなくて、種単位で、変わるべきときがきたら一斉に変わることで遂げられると主張する。もっとも自然選択(natural selection 自然淘汰)によらずして、種全体が変わるべきときがきたら一斉に変わるのはどのようなメカニズムによるのかに関して、今西進化論は何も答えない。中原と佐川は、ウイルスによる大規模感染がそれを可能にすると考えたわけである。

中原と佐川は、今西進化論の観点から、ダーウィンの進化論に対して以下の四つの疑問を投げかける。

[Q1]まったく偶然にまかせられた突然変異によって、はたして実際にすぐれた個体、すなわち“適者”が出現するのか?

[Q2]劣った性質をもつ個体は淘汰され、すぐれた性質をもつ個体の生き残るチャンスが大きいとは本当なのか?

[Q3]小さな突然変異と自然淘汰による個体の変化の小さな積み重なりで、新しい種の誕生というような大きな変化が、実際に起こるものなのか?

[Q4]発掘された化石の示す事実は、ダーウィンの進化論の描くシナリオとつじつまがあっているのか?[13]

しかし、こうしたダーウィニズム批判は、ダーウィンに対する誤解に基づいている。通俗的なダーウィン批判に対する反論は、「生命はいかにして進化するのか」で既に書いたことだが、重複を厭わず、これらに反論しよう。

[Q1]ここで中原と佐川が批判している突然変異とは、狭義の遺伝子突然変異である。アンダーソンの第7命題にあるとおり、ウイルスが惹き起こす突然変異の方が適応的である確率は高いが、両者の違いは程度の差に過ぎない。どちらも有害な形質を発現しうるのだから、それは自然淘汰によって除外しなければならない。それとも、彼らは、ウイルスは「進化のための器官[14]」だから、宿主が時期を見計らって、ウイルスを利用して遺伝子を変えていると思っているのだろうか。

遺伝子の水平移動は、今西進化論の「生物は変わるべきときがきたら変わる」というコンセプトを実証するひとつの具体例だろう。もっとも生物が変わるべきときがくるまでは、ウイルスはむしろあまり活勤しないだろう。しかし、一度、変わるべきときがくれば、生物はウイルスを使って遺伝子を次々と伝えることで、みんなで一緒に変わるのではないだろうか。[15]

しかし、実際のウイルスは、宿主の利益などとは無関係に、恒常的に宿主への侵入し、ランダムに遺伝子を改変することを試みている。ウイルス感染の結果起こる遺伝子の変異もランダムである以上、それが適応的な進化を帰結するためには、自然選択が必要になってくる。

[Q2]自然選択説では、足の遅いシマウマはライオンの餌食になることで淘汰され、速いシマウマは生き残る。ところが、今西は、ライオンは最初から狙いをつけた獲物めがけて一気に襲いかかるから、遅いから淘汰されるとか、速いから生き残るということはないと言う。

ライオンに目をつけられたシマウマは、単に運が悪かっただけのことなのである。これを今西は、「適者生存」ではなく「運者生存」と皮肉って、自然淘汰と適者生存による無方向な進化を批判している。[16]

むしろ運者生存の方が無方向な進化になるのではないかという揚げ足取りは措くとしても、進化の単位を個体ではなくて種に求める今西進化論が、個体レベルの偶然でダーウィンの進化論を否定するとはどういうことなのか。個体レベルなら、確かに、たまたま環境適合的な個体が死んだり、そうではない個体が生き残ったりすることはありうるが、種内にいる多数の個体に関しては、環境適合的な個体がそうでない個体よりも生き延びる場合が多いということは統計学的事実である。このように適者生存とは、環境適合的な個体の方が生き延びる確率が高いということであって、それだけで十分自然選択が働いたと言えるのである。

今西は、種内の個体間競争だけでなく、種間競争に対しても否定的であるが、個体間であれ、種間であれ、競争や闘争の代わりに協調や共生が見られるからといって、それはダーウィンの自然選択説に対する反論にはならない。日本では、“struggle for existence”は「生存競争」と訳されているが、これは「生存努力」という意味であって、協調や共生の方が競争や闘争よりも生き延びる確率を高めてくれるなら、前者を求めることは「生存努力」であり、その結果は自然選択による「適者生存」であると言うことができる。

中原と佐川は、2008年の著作で、「私は生存闘争という言葉を、ある生物が他の生物に依存するということや、個体が生きていくことだけでなく子孫をのこすのに成功すること(これはいっそう重要なことである)をふくませ、広義にまた比喩的な意味にもちいるということを、あらかじめいっておかねばならない[17]」という『種の起原』におけるダーウィンの言葉を引用している。それなら、「進化は競争の結果か協調の賜物か[18]」という対立構図でダーウィン進化論と今西進化論を対比させるべきではない。

[Q3]これは「進化は連続的な出来事か不連続な出来事か[19]」という問題でもある。ダーウィンは、小さな変異が少しずつ蓄積するという連続的な変異で多様性が生まれると考えたから、ダーウィン批判としては正しい。しかし、ダーウィニズムを改良したネオ・ダーウィニズム、すなわち総合進化説に対する批判としては適切ではない。遺伝子突然変異は形質に非連続な変化をもたらしうるからだ。中原と佐川は、「以下、ダーウィンの進化論といえば、いちいち断らなくともこの改良されたネオ・ダーウィニズムを指すことにする[20]」と前置きしながら、ダーウィニズム批判をネオ・ダーウィニズムに摩り替えるというトリックを行っている。

エルドリッジとグールドの断続平衡(punctuated equilibrium)説を援用するまでもなく、進化は均一な速度で連続的に進行するのではなく、環境の変化により比較的短期間に非連続的な進化が起こり、それ以外の環境が安定した長い期間は種は安定する。もしも突然変異が個体にランダムに起き、しかもその大半が有害なら、短期間のうちに変化した環境に種が適応できる進化はいかにして可能なのかということになる。

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Fig.02. 系統漸進説が想定する進化のプロセス(左)と断続平衡説が想定する進化のプロセス(右)の模式図。

この総合進化説に対してよく投げかけられる質問は、中立進化説によって答えられる。突然変異は自然選択に対して中立もしくは「ほぼ中立[21]」であるため、淘汰されずに変異は種内で蓄積されていく。だから長期間の環境安定期に種内で多様性が生まれ、環境激変期に淘汰が起きて、変化に対応できる種内のグループが生き残り、それが新しい種を作り出す。こう考えるなら、種は変わるべきときがきたら一斉に変わるという今西の主張は、総合進化説と矛盾しないことになる。むしろ、自然淘汰を認めないなら、種が変わるべきときに一斉に変わることの説明に窮する。

中原と佐川は、ネアンデルタール人は絶滅せずに、ウイルスのおかげで、現生人類に変容した[22]と言うが、ネアンデルタール人が突如として現生人類に進化する方がよほどの奇跡でも起きない限り不可能である。実際には、ネアンデルタール人と現生人類は共通祖先から分岐し、両者の相違は自然選択にほぼ中立的だったから長い間共存できたが、最終的にはネアンデルタール人は絶滅した。現生人類は、ネアンデルタール人との間に遺伝子の交雑があったとする説[23]もあるが、だからといって、ネアンデルタール人がそのまま現生人類に進化したということにはならない。

[Q4]もしもダーウィンの連続的進化論が正しいなら、進化している途中の中間的な化石が見つかるはずだが、そのような証拠はない。しかし、ネオ・ダーウィニズムが連続的進化論ではない以上、連続的に変化する化石を証拠として挙げる必要はない。もちろん連続的ではないといっても、段階的に進化が起きる時は、中間的な化石があるはずだ。中原と佐川が、中間的な化石がないと言って好んで取り上げるのは、キリンの首が長くなる途中の化石である[24]

キリンの首が長くなったのは、用不用説が主張するように、高い位置にある木の葉を食べようと首を伸ばしているうちに伸びたのでもなければ、自然選択説が主張するように、たまたま少し首が長かったキリンが高い位置にある木の葉を食べることができたから、自然選択により生き残ったということを何回も繰り返したのではなく、首が長くなる遺伝子を持ったウイルスに感染したことで、一挙に首が長くなったと彼らは主張する。そのようなウイルスがあるかどうかを探す前に、本当に首が中間的な長さであったキリンの祖先がいなかったのか、首が長いことが自然選択に有利に働くことはなかったのかということを考えなければならない。

キリンの先祖は、カントゥメリクスという現在のオカピに近い動物であることが分かっている。オカピは、偶蹄目キリン科オカピ属であるが、以下の写真(Fig.03)を見てもわかるとおり、首の短い動物で、発見された当初、シマウマの一種と誤解された。

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Fig.03. オカピ(Okapia johnstoni)[25]

カントゥメリクス(オカピよりもやや首が長い)とキリンの中間に相当する首の長さの動物化石が見つかっている。哺乳類は、一部の例外を除いて頚椎(椎骨の最上部)が七つと決まっており、頚椎が縦長になることで、首が長くなるので、頚椎の化石の形状を見れば、その哺乳類の首の長さがわかる。以下の図(Fig.04)は、キリン科の頚椎の進化を系統樹で描いたもので、オカピ(Oj)とキリン(Gc)以外にも、様々な形状の頚椎を持った絶滅種がいたことがわかる。絶滅種の一つ、サモテリウム(Sm)のシルエットを見てほしい。首の長さが、オカピとキリンの中間ぐらいであることがわかる。2015年に発表された研究によると、キリンの首は、最初の段階で脊椎の頭部側が伸び、次に脊椎の尾側が伸びたというように段階的に長くなったとのことである[26]

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Fig.04. キリン科の系統図[27]。地質年齢(Ma=百万年前)と三番目の頚椎の形状が系統樹の末端で示されている。シルエットは、左から、オカピ、 サモテリウム、キリン。

キリン科の中で、最も首が短いオカピと最も首が長いキリンが生き延び、それ以外の中途半端な種が絶滅したのはなぜか。オカピが森林で暮らしているのに対して、キリンは草原で暮らしているところにヒントがある。草原では捕食動物に見つかりやすいので、捕食から免れるには、足が速くて体が大きい方が有利である。そこで、キリンは、速く走るために脚が長くなり、水を飲むために脚と同じ長さに首がなったと考えられる。これに対して、オカピは横縞模様のある保護色で森林の中で捕食者から隠れるように進化した。どっちつかずの種は、森林の中でも草原の上でも生き延びることができずに滅んだのだろう。

では、キリン以外の動物は、なぜ首が長くならなかったのか。 中原と佐川は、次のように説明している。

首が長くなったキリンは、三メートルはある頭の高さまで血液を循環させる必要から、血圧が非常に高い。そのため、水を飲むために頭を地上まで下げたら、大量の血液が脳に流れ込んで脳の血管が破れても不思議ではない。しかしキリンは平気で水を飲んでいる。なぜかというと、キリンは首の付け根にワンダーネットという網のような血管の集まりがあるからだ。首を下げたときに大量の血液をワンダーネットに貯留することによって、脳に血液が流れ込まないようになっている。ちなみにキリンに近い動物のオカピにもワンダーネットが存在する。

キリンの祖先はたまたまワンダーネットがあったので、ウイルスに感染して首が長くなっても生きていくことができた。しかしワンダーネットがない動物は、首が長くなったら生きていけなかったのである。ネコやイヌの首が長くならなかったのは、同じウイルス感染によって首が長くなったら、生きていけなかったからである。[28]

ワンダーネットがない動物は、たまたま首が長くなっても絶滅するというこの考え方は自然選択説に基づいている。自然選択による進化を否定しておきながら、自然選択で進化を説明するというのは矛盾である。

以上見てきたとおり、中原と佐川によるネオ・ダーウィニズム批判は的外れである。ウイルス進化説はむしろネオ・ダーウィニズムを補強する仮説であり、今西進化論にとって特に有利ということもない。だからウイルス進化説は、その後評価されなくなった今西進化論と運命を共にする必然性はなく、総合進化説に組み込まれる仮説として評価されるべきなのだ。

中原と佐川が、独自性を発揮しようとウイルス進化説に余計な謬見を多数くっつけたおかげで、ウイルス進化説そのものがいかがわしい理論であるかのような印象を世間に与えてしまった。もしも彼らの著作活動がなかったなら、ウイルス進化説は、たぶん「ウイルス説」とか「水平移動説」とかといった名称で、もっと素直に日本の学界で受け入れられていたことだろう。その意味で、彼らによる一連の啓蒙活動は、功罪相半ばするというよりも、むしろ罪の方が大きかったのではないかと評さざるをえない。

3 : 実証されるウイルス進化説

ウイルスが宿主に感染してゲノムを変えても、それが体細胞のゲノムであるならば、ウイルス感染による遺伝子突然変異は一代限りで終わる。遺伝子突然変異が子孫に遺伝するには、ウイルスが宿主の生殖細胞のゲノムに入り込み、固定化されなければならない。また、生殖細胞から体細胞へと複製され、内在性レトロウイルスとして代々受け継がれたとしても、それがプロウイルスとして留まり、mRNAに転写されず、したがってタンパク質へと翻訳されないなら、進化を惹き起こすことはない。さらに、形質として発現しても、それが生存に対して著しく不利ならば、自然淘汰により遺伝子プールから排除されることになる。

このように、ウイルス感染自体は日常的に頻繁に起こるものの、それが進化をもたらすには越えなければならないハードルがいくつもある。だが、これらのハードルを乗り越え、実際に私たちヒトの進化に貢献した内在性レトロウイルスがあった。それはエンベロープ遺伝子である。この内在性レトロウイルスは、ヒトの場合、シンシチン(syncytin)というタンパク質をエンコードし、胎盤内の合胞体性栄養膜(syncytiotrophoblast)となることが、2000年に『ネイチャー』で発表された[29]

哺乳類のうち、カモノハシなどの単孔類、コアラなどの有袋類以外の有胎盤類は、すべて胎盤を持つ。以下のイラスト(Fig.05)は、ヒトにおける胎盤の位置を示している。胎児がへその緒を通じて母胎とつながって円盤状の器官が胎盤である。

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Fig.05. 母体、胎児と胎盤の位置関係[30]

胎盤にある赤色の血管は動脈、青色の血管は静脈を表している。胎児が代謝を行うことができるように、母親は静脈から二酸化炭素と老廃物を取り除き、酸素の栄養分を動脈に供給している。その交換の場となる絨毛膜状のインターフェイスが、合胞体性栄養膜である。

合胞体(syncytium シンシチウム)とは、複数の核を含んだ細胞のことで、胎盤では、母体側の血管に接する胚由来の細胞が融合して合胞体を形成することが知られている。オスの遺伝子を分け持った胎児は母親にとって異物であり、胚と母体の間を細胞が移動することを制限する合胞体がなければ、母体の血流から免疫細胞が侵入して、胎児を攻撃してしまう。だから、有胎盤類が、有袋類とは異なり、胎盤を通して子を大きくなるまで育てるには、合胞体性栄養膜を形成する遺伝子が必要なのである。この遺伝子は、もともとレトロウイルスが宿主の細胞に侵入した際、レトロウイルスの外膜と宿主の細胞膜を融合させる働きを持っていたが、哺乳類に感染して以来、胎盤における胚栄養膜細胞の融合を活性化することに転用されている。

齧歯類は、霊長類と同じくシンシチンを作る遺伝子が合胞体性栄養膜を作る。シンシチン遺伝子をノックアウトしたマウスを使って実験してみたところ、マウスは胎盤を正常に作ることができずに流産した[31]。ここから、エンベロープ遺伝子が有胎盤類にとっていかに重要であるかがわかる。もしも私たちの祖先が、エンベロープを作るレトロウイルスに感染していなかったなら、今頃有胎盤類は存在していなかっただろう。

胎盤の形は、シンシチン遺伝子を持つヒトやマウスの場合円盤状だが、イヌやネコは帯状、ウマやブタはあちこちに散在というように、胎盤類の中でも種ごとに大きく異なる。このことは、哺乳類のレトロウイルス感染が一回ではなく複数回あって、胎盤の機能を継承(バトンタッチ)しつつも、新しいウイルス遺伝子の獲得によって、胎盤の大きさ、形、構成細胞を変化させてきたという「バトン・パス仮説[32]」が日本人研究者によって提唱されている。有胎盤類が誕生したのは、一億年ほど前のことで、生命の歴史の中では比較的最近のことだが、それ以降にもウイルスによる進化が起きていたということである。

このように、ウイルス感染によって進化が起きるというウイルス進化説は、少なくとも部分的には正しいということが実証された。ところが、2017年3月現在のウィキペディアでは、ウイルス進化説を「自然淘汰による進化を否定し、進化はウイルスの感染によって起こるという主張[33]」と定義した上で、次のように「評価」している。

本説を裏付けるに足る報告は存在せず、進化生物学の専門家からは認められた学説ではない。また、査読のある学術雑誌に投稿した論文でもないため、科学学説としても認知されていない。本説の主張は「自然選択説への誤った批判。現在までの観察、研究例の無視。非理論的な考察」によって成り立っているという批判がある。また学問的な審査を経ていないにもかかわらず、特に初学者向けの解説書などで、有力な学説であるかのように振る舞う姿勢はニセ科学に通じるとも批判される。[34]

中原と佐川の議論が「自然選択説への誤った批判。現在までの観察、研究例の無視。非理論的な考察」によって成り立っているというはそのとおりだと思うが、だからといって、ウイルス進化説をニセ科学扱いすることは正しくない。そもそも、ウイルス進化説にとって自然選択の否定は本質的な主張ではない。ちょうどダーウィンの著作に間違った内容が含まれているからといって、自然選択説の基本的主張まで否定することができないように、既存のウイルス進化説に間違った内容が含まれているからといって、ウイルス進化説の基本的主張まで否定することはできない。

中原と佐川というウイルス的な研究者のおかげで、日本の学界はウイルス進化説に対して拒絶反応を示すようになってしまった。しかし、海外の学界はウイルス進化説を取り入れ、学界のDNAともいうべき教科書までが、遺伝子の水平移動で進化が起きるというように書き換えられるようになっている。以下の図(Fig.06)は、米国の大学で使われている進化の教科書 Evolution: Making Sense of Life日本語訳から引用したもので、左側の図が伝統的な生物種の系統樹であるのに対して、右側は、ウイルスなどによって水平に遺伝子が伝播していることを色のついた線で表したものである。

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Fig.06. いくつかの遺伝子から推定されたバクテリア181種の系統樹(左の図)と遺伝子の水平移動を色のついた線で示した同系統図(右の図)[35]

伝統的な生物種の系統樹では、一度分岐した生物種の間で遺伝子の移動が起きないように描かれるが、それはもう古いということである。ウイルス感染以外にも、細胞質を持った生物による寄生や共生でも、遺伝子が種間で水平に移動することがあるものの、種間の遺伝子の移動でウイルスが無視できない役割を果たしたことは事実と言える。ウイルス進化説を拒絶し続けると、日本の研究者が進化論の進化に乗り遅れてしまうことになるので、ウィキペディアの「ウイルス進化説」の項目は、そろそろ書き換えた方がよいのではないか。

4 : 参照情報

  1. “901 young were produced by five generations of artificially mutilated parents, and yet there was not a single example of a rudimentary tail or of any other abnormality in this organ.” Weismann, August. “On the Supposed Transmission of Mutilations” in Essays Upon Heredity and Kindred Biological Problems. p.432.
  2. De Vries, Hugo. Die Mutationstheorie. Versuche und Beobachtungen über die Entstehung von Arten im Pflanzenreich. (1904): 789-793.
  3. Muller, H. J. “Artificial Transmutation of the Gene.” Science 66, no. 1699 (July 22, 1927): 84–87. doi:10.1126/science.66.1699.84.
  4. Blakeslee, Albert F., and Amos G. Avery. “Methods of inducing doubling of chromosomes in plants by treatment with colchicine.” Journal of Heredity 28.12 (1937): 393-411.
  5. McClintock, Barbara. “The stability of broken ends of chromosomes in Zea mays.” Genetics 26.2 (1941): 234-282.
  6. Temin, Howard M., and Satoshi Mizutani. “Viral RNA-dependent DNA Polymerase: RNA-dependent DNA Polymerase in Virions of Rous Sarcoma Virus.” Nature 226, no. 5252 (27 June 1970): 1211–3. doi:10.1038/2261211a0. PMID 4316301.
  7. “Two independent groups of investigators have found evidence of an enzyme in virions of RNA tumour viruses which synthesizes DNA from an RNA template. This discovery, if upheld, will have important implications not only for carcinogenesis by RNA viruses but also for the general understanding of genetic transcription: apparently the classical process of information transfer from DNA to RNA can be inverted.” Baltimore, David. “Viral RNA-dependent DNA Polymerase: RNA-dependent DNA Polymerase in Virions of RNA Tumour Viruses.” Nature. 226, no. 5252 (27 June 1970): 1209–11. doi:10.1038/2261209a0. PMID 4316300.
  8. “A retrovirus has a membrane that contains glycoproteins, which are able to bind to a receptor protein on a host cell. Within the cell there are two strands of RNA that have three enzymes, protease, reverse transcriptase, and integrase (1). The first step of replication is the binding of the glycoprotein to the receptor protein (2). Once these have been bound the cell membrane degrades and becomes part of the host cell, and the RNA strands and enzymes go into the cell (3). Within the cell, reverse transcriptase creates a complementary strand of DNA from the retrovirus RNA and the RNA is degraded, this strand of DNA is known as cDNA (4). The cDNA is then replicated, and the two strands form a weak bond and go into the nucleus (5). Once in the nucleus, the DNA is integrated into the host cells DNA with the help of integrase (6). This cell can either stay dormant, or RNA may be synthesized from the DNA and used to create the proteins for a new retrovirus (7). Ribosome units are used to transcribe the mRNA of the virus into the amino acid sequences which can be made into proteins in the Rough Endoplasmic Reticulum. This step will also make viral enzymes and capsid proteins (8). Viral RNA will be made in the nucleus. These pieces are then gathered together and are pinched off of the cell membrane as a new retrovirus (9).” Mrdavis21. “Life Cycle of a Retrovirus.” Licensed under CC-BY-SA.
  9. “Endogenous retroviruses (ERVs) represent the proviral phase of exogenous retroviruses that have integrated into the germ line of their host. They typically consist of an internal region with three genes (gag, pol, and env) plus two flanking, noncoding LTRs, which are identical at the time of integration. Human ERVs (HERVs) comprise ≈5–8% of the human genome, with 98,000 elements and fragments…” Belshaw, Robert, Vini Pereira, Aris Katzourakis, Gillian Talbot, Jan Pačes, Austin Burt, and Michael Tristem. “Long-term reinfection of the human genome by endogenous retroviruses.” Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America 101, no. 14 (2004): 4894-4899.
  10. “A gene mutation is a permanent alteration in the DNA sequence that makes up a gene.” “What is a gene mutation and how do mutations occur? – Genetics Home Reference.” U.S. National Library of Medicine.
  11. Anderson, Norman G. “Evolutionary Significance of Virus Infection.” Nature 227, no. 5265 (September 26, 1970): 1346–47. doi:10.1038/2271346a0.
  12. 中原英臣, 佐川峻.『新・進化論が変わる―ゲノム時代にダーウィン進化論は生き残るか』. 講談社 (2008/4/22). p.241.
  13. 中原英臣, 佐川峻.『ヒトはなぜ人になったか―ダーウィン理論を超えたウイルス進化論』. 経済界 (1987/07). p.102-103.『ウイルス進化論―ダーウィン進化論を超えて 』. 早川書房 (1996/7/31). p.131-132. 『生命進化の鍵はウイルスが握っていた―ここまで見えてきた進化の謎』. 河出書房新社 (1997/02). p.62. にも同じようなダーウィン批判がある。
  14. 中原英臣, 佐川峻.『ウイルス進化論―ダーウィン進化論を超えて 』. 早川書房 (1996/7/31). p.23.
  15. 中原英臣, 佐川峻.『ウイルス進化論―ダーウィン進化論を超えて 』. 早川書房 (1996/7/31). p.97.
  16. 中原英臣, 佐川峻.『生命進化の鍵はウイルスが握っていた―ここまで見えてきた進化の謎』. 河出書房新社 (1997/02). p.65.
  17. 中原英臣, 佐川峻.『新・進化論が変わる―ゲノム時代にダーウィン進化論は生き残るか』. 講談社 (2008/4/22). p.160.
  18. 中原英臣, 佐川峻.『新・進化論が変わる―ゲノム時代にダーウィン進化論は生き残るか』. 講談社 (2008/4/22). p.158.
  19. 中原英臣, 佐川峻.『新・進化論が変わる―ゲノム時代にダーウィン進化論は生き残るか』. 講談社 (2008/4/22). p.174.
  20. 中原英臣, 佐川峻.『ヒトはなぜ人になったか―ダーウィン理論を超えたウイルス進化論』. 経済界 (1987/07). p.99-100.
  21. Ohta, Tomoko. “The Nearly Neutral Theory of Molecular Evolution.” Annual Review of Ecology and Systematics 23.1 (1992): 263-286.
  22. 中原英臣, 佐川峻.『ウイルス進化論―ダーウィン進化論を超えて 』. 早川書房 (1996/7/31). p.157.
  23. Wall, Jeffrey D., Kirk E. Lohmueller, and Vincent Plagnol. “Detecting ancient admixture and estimating demographic parameters in multiple human populations.” Molecular biology and evolution 26, no. 8 (2009): 1823-1827.
  24. 中原英臣, 佐川峻.『生命進化の鍵はウイルスが握っていた―ここまで見えてきた進化の謎』. 河出書房新社 (1997/02). p.21.
  25. Raul654. “An Okapi taken at Disney’s Animal Kingdom on January 16, 2005.” Licensed under CC-BY-SA.
  26. “We find that cervical elongation is anisometric and unexpectedly precedes Giraffidae. Within the family, cranial vertebral elongation is the first lengthening stage observed followed by caudal vertebral elongation, which accounts for the extremely long neck of the giraffe.” Danowitz, Melinda, Aleksandr Vasilyev, Victoria Kortlandt, and Nikos Solounias. “Fossil evidence and stages of elongation of the Giraffa camelopardalis neck.” Open Science 2, no. 10 (October 1, 2015): 150393. doi:10.1098/rsos.150393.
  27. Danowitz, Melinda, Aleksandr Vasilyev, Victoria Kortlandt, and Nikos Solounias. “Fossil evidence and stages of elongation of the Giraffa camelopardalis neck.” Open Science 2, no. 10 (October 1, 2015): 150393. doi:10.1098/rsos.150393. Figure 5. Cladogram with geological age and dorsal view of C3 vertebrae of taxa evaluated.
  28. 中原英臣, 佐川峻.『新・進化論が変わる―ゲノム時代にダーウィン進化論は生き残るか』. 講談社 (2008/4/22). p.216-217.
  29. “Many mammalian viruses have acquired genes from their hosts during their evolution. The rationale for these acquisitions is usually quite clear: the captured genes are subverted to provide a selective advantage to the virus. Here we describe the opposite situation, where a viral gene has been sequestered to serve an important function in the physiology of a mammalian host. This gene, encoding a protein that we have called syncytin, is the envelope gene of a recently identified human endogenous defective retrovirus, HERV-W. We find that the major sites of syncytin expression are placental syncytiotrophoblasts, multinucleated cells that originate from fetal trophoblasts. We show that expression of recombinant syncytin in a wide variety of cell types induces the formation of giant syncytia, and that fusion of a human trophoblastic cell line expressing endogenous syncytin can be inhibited by an anti-syncytin antiserum. Our data indicate that syncytin may mediate placental cytotrophoblast fusion in vivo, and thus may be important in human placental morphogenesis.” Mi, Sha, et al. “Syncytin is a captive retroviral envelope protein involved in human placental morphogenesis.” Nature 403.6771 (2000): 785-789.
  30. BruceBlaus. “Placenta.” Licensed under CC-BY-SA. Blausen Medical. 日本語の書き込みは私による。
  31. “By generating knockout mice, we show here that homozygous syncytin-A null mouse embryos die in utero between 11.5 and 13.5 days of gestation. Refined cellular and subcellular analyses of the syncytin-A-deficient placentae disclose specific disruption of the architecture of the syncytiotrophoblast-containing labyrinth, with the trophoblast cells failing to fuse into an interhemal syncytial layer. Lack of syncytin-A-mediated trophoblast cell fusion is associated with cell overexpansion at the expense of fetal blood vessel spaces and with apoptosis, adding to the observed maternofetal interface structural defects to provoke decreased vascularization, inhibition of placental transport, and fetal growth retardation, ultimately resulting in death of the embryo. These results demonstrate that syncytin-A is essential for trophoblast cell differentiation and syncytiotrophoblast morphogenesis during placenta development, and they provide evidence that genes captured from ancestral retroviruses have been pivotal in the acquisition of new, important functions in mammalian evolution.” Dupressoir, Anne, et al. “Syncytin-A knockout mice demonstrate the critical role in placentation of a fusogenic, endogenous retrovirus-derived, envelope gene.” Proceedings of the National Academy of Sciences 106.29 (2009): 12127-12132.
  32. Imakawa, Kazuhiko, So Nakagawa, and Takayuki Miyazawa. “Baton pass hypothesis: successive incorporation of unconserved endogenous retroviral genes for placentation during mammalian evolution.” Genes to Cells 20, no. 10 (October 1, 2015): 771–88. doi:10.1111/gtc.12278.
  33. Wikipedia. “ウイルス進化説.” 平成28年10月24日 (月) 20:49. 古いバージョン(平成21年6月5日)では、たんに「進化は伝染病である」という主張を紹介するだけだった。「自然淘汰による進化を否定し」の部分は、たんにウイルス進化説をニセ科学扱いするために付け加えたのではないか。ウイルス進化説は、読んで字の如く、ウイルスが進化をもたらすという説であり、それ以外の非本質的な主張を定義に含めるべきではない。
  34. Wikipedia. “ウイルス進化説.” 平成28年10月24日 (月) 20:49.「自然選択説への誤った批判。現在までの観察、研究例の無視。非理論的な考察」は、中原英臣、佐川峻、富塚孝.「ウイルス進化論に対する反論にこたえる」に対する、同誌編集部による付記(Networks in Evolutionary Biology 第5号. 1987年. 52-53頁)より引用。「特に初学者向けの解説書などで、有力な学説であるかのように振る舞う姿勢はニセ科学に通じるとも批判される」には、[要出典]のタグがつけられているが、引用文からは削除した。
  35. カール・ジンマー, ダグラス・エムレン. trans. 更科 功, 石川 牧子, 国友 良樹.『カラー図解 進化の教科書 第1巻 進化の歴史』. 講談社 (2016/11/16). ブルーバックス. p.144.
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