ラカンの同一化論

ファルスがたんなるペニスではなく、無のシニフィアンであるというのは、どういう意味なのか。私たちが、自分自身を同一化しようとするファルスとは、どのような存在者なのか。1961-62年に行われたジャック・ラカンのセミネール『同一化』を手がかりに、トポロジカルに考えてみよう。
御柱祭りは何を祭っているのか

諏訪地方では、御柱祭りで、木落しという、死者がしばしば出る危険な行事が行われる。この古い祭りの本当の意味は何か。梅原猛の『日本冒険』を読みながら、柱や橋の語源をアイヌ語にまで求めつつ、縄文時代の死生観や宇宙観を考えてみよう。
西洋のドラゴンと東洋の龍の起源

龍(ドラゴン)神話は、洋の東西を問わず、どこにでもある。西洋では、竜は退治される存在でしかないが、なぜ東洋では龍が崇められるのか。竜信仰と蛇信仰は同じなのか。なぜ宇宙の開闢は、暗い水の中にいる龍退治から始まるのか。荒川紘の『龍の起源』を手掛かりに、考えてみたい。
ファルスとしての貨幣

貨幣は、システム論的には、欲望の欲望というダブル・コンティンジェントな複雑性を縮減するコミュニケーション・メディアであるが、精神分析学的にはファルスに相当する。貨幣の歴史を精神分析学的に振り返りながら、システム論と精神分析学の接点を見出そう。
小文字の他者と大文字の他者

鏡像段階の子供は、想像界において母のファルスと自己同一するが、父が象徴界においてライバルとなるやそれが不可能となり、去勢に怯えるようになる。子供はどうすれば現実界においてファルスと自己同一することができるようになるのか。ラカンの理論をもとに、欲動の対象である小文字の他者と媒介的第三者としての大文字の他者が果たす役割を考えてみたい。