ヒュームの懐疑論に対する懐疑論
18世紀のスコットランドの哲学者、デイビット・ヒュームは、因果関係の客観性や道徳命題の妥当性を疑った懐疑論者として有名である。しかし、原因と結果、「である」と「するべき」は異質で、その結合は主観的であるがゆえに不確定であるという懐疑論は本末転倒である。むしろ、不確定であるからこそ、その不確定性を縮減するために、主観は、原因と結果、事実と価値を分割しなければならないというのが真実である。
哲学は何から始まるのか
哲学は、古代のギリシャにおいて、アルケー、すなわち万物の根源は何かという問いから始まった。哲学としてのシステム論の結論は、世界がそこから立ち現れ、哲学がそこから始まるところのアルケーとは、不確定性であるというものだ。アルケーが、あれやこれやの要素であるとか、基体=意識主体であるとかいった従来の哲学者たちの主張は、本来のアルケーの忘却から生じる。不確定性は、時間的にも、理論的にも、すべてに先立つのである。
進行形はなぜ使われるようになったのか
英語における進行形は、継続や進行や反復を表す相と一般には認知されているが、もっと本質的なことは、他のようでもありうる不確定性を示すための相であるということである。英語における進行形の現代的用法は、18世紀の末、産業革命が進行する中、確立され、かつその使用頻度が急速に伸びた。これは、社会が急激に変化し、他のようでもありうる不確定性が増大するにつれて、それを表現する言語需要が増えたからである。
不定冠詞はなぜ誕生したのか
冠詞は中世ヨーロッパの共通言語であったラテン語には存在しなかったし、英語をはじめとするヨーロッパの近代言語でも、最初から独自の品詞として存在したわけでもなかった。定冠詞は「あれ」を意味する指示形容詞から、不定冠詞は「一つの」を意味する数量形容詞から分離独立した後発の品詞である。このうち、定冠詞は古典ギリシャ語やアラビア語にも存在するが、不定冠詞は、近代の西ヨーロッパで発展した特異な冠詞である。不定冠詞の誕生は、西ヨーロッパで発展した個人主義と関係があると考えることができる。
なぜ因果関係は必然的ではないのか
18世紀のイギリスの哲学者、デイビット・ヒュームは、因果関係の客観性を疑った懐疑論者として有名である。しかし、原因と結果の結びつきだけでなく、原因と結果の分割自体が主観的であり、その主観的動機を考えるならば、事象を原因と結果に分割した段階で、既に両者の関係は不確定になっていると言うことができる。
確率の認識と認識の確率
自分の認識の不確実性を認識しても、その不確実性の認識の不確実性は意識の地平に現れない。だから、地平内在的な確率と地平超越的な確率を区別する必要がある。そしてこの区別に基づいて、所謂「嘘つきのパラドクス」を解消することができる。
“It must be true”の否定文は何か
“It must be true.”の否定文は何か。これは、英文法の問題というよりも、様相論理学の問題である。答えは、“must”という法助動詞(modal auxiliary)を使う以上、二値論理学的にではなくて、多値論理学的に求められなければならない。
なぜ貨幣は利子を生むのか
植物が実を結ぶように、あるいは動物が子供を出産するように、お金は利子を生むものだと私たちは考えている。しかしお金とお金がセックスをして子供を産むわけではない。では、なぜお金は利子を生むのか。これに関しては、様々な説があるので、それらを一つづつ検討していきながら、結論を出すことにしよう。
宇宙は一つしか存在しないのか
近代西洋哲学では、一つしかない世界に複数の認識があることが神ならぬ人間の認識の有限性であるとされてきたが、多世界解釈に従うならば、世界が複数存在するにもかかわらず、世界は一つしかないと考えている、あるいはそう考えなければ生きていけないことこそ人間の有限性だということになる。
複雑系としての社会システム
一般的に言って、社会科学は自然科学より厳密性を欠くので、社会科学者は自然科学にコンプレックスを感じている。その結果、自然科学の新しいパラダイムが現れると、それに追従しようとする社会科学者が必ず現れる。複雑系ブームの場合もしかりである。しかし社会システムを複雑系として扱う前に、それがいかなる意味で複雑系なのかを理解しておく必要がある。
複雑系の時代
複雑系という言葉が、ジャーナリスティックな流行語となったのは、1992年にミッチェル・ワールドロップの『複雑系』が出版されてからであり、それはちょうど、ソ連が崩壊し、世界が新たな時代を迎えようとする時だった。なぜ複雑系が流行したのか、その時代背景を探りたい。
冒険はなぜ楽しいのか
《すべての生物は自己保存の欲望を持つ》という生物学の仮説にとって、冒険という快楽は説明しにくい現象である。実用的な目的のある冒険で、《身を危険に晒すにもかかわらず快楽を感じる》現象なら簡単に説明できる。では、実用的な目的の全くない冒険で、《身を危険に晒すがゆえに快楽を感じる》現象はどうだろうか。
価値とは何か
商品に価値を与えるのは有用性と希少性である。空気は有用だが、誰でも簡単に入手できるから価値がない。ごみは、世界に一つしかない珍しいものであっても、有用性がないから価値がない。では、有用性と希少性を統一的に表現するなら、どうなるのか。
超越論的認識とは何か
自分の認識に限界があると認識できる人は、実は自分の認識の限界を超越している。限界の内部にいる人には、限界が見えない。限界を超越して初めて、限界を認識することができる。認識の限界を認識することは、超越を論じることであり、超越論的である。
他者は存在するのか
自分に意識があるということは確実な事実である。では他者にも同様の意識があるということをどうやって証明したらよいのであろうか。この証明に行き詰まる時、ひょっとしたら、意識がある存在者は自分だけではないだろうかという独我論が頭をもたげて来る。
複雑系とは何か
複雑系とは、複雑な環境にさらされつつ、その複雑性を縮減することを通して、自己自身を複雑にするシステムである。これはパラドキシカルに見えるが、エントロピーの減少がエントロピーの増大をもたらすというエントロピーの法則の特殊なケースと考えることができる。
カオスと決定論
カオスは日本語の混沌に相当する。しかし、カオスはたんなる無秩序ではない。カオスとは何か。非線形で非決定論的であるにもかかわらず、なぜカオスは不可知論を帰結しないのかを考えよう。
不確定性の論理学
従来の論理学では、変数は真か偽かのどちらかである。このような論理学を値論理学と言う。真と偽以外の値をも認める論理学を様相論理学と言うが、様相論理学に対する従来のアプローチは不十分である。このページでは、確定性の二値論理学から不確定性の多値論理学(確率論的論理学)への移行に向けて、記号論理学の確率論への還元、即ち論理の数理への還元を試みる。
他者認識と認識の不確定性
これまで哲学者たちは、独我論を論破するべく、他者の存在を証明しようとしたが、うまくいっていない。それは他者の存在を証明しようとしたからだ。証明するということは、そうであって他の様ではない必然性を示すこと、つまり、認識の他者性の排除であり、認識の他者性を排除しようとしている限り、他者の認識は不可能だからだ。