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2011年8月2日

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ライプニッツは、自分の形而上学を予定調和説と名付けていたが、この形而上学の学説は神の存在論的証明を前提にしている。存在論的証明は神の遍在を説く汎神論を帰結し、そこからさらに、連続律に基づいて、神に当てはまることをすべての実体に当てはめることでモナドロジーが帰結し、充足理由律に基づいて、なぜこの世界が現実存在するかを問うことで最善説が帰結する。ライプニッツは、神は可能的な宇宙をすべて認識する認識力、その中で最善のものを選ぶ善意、そしてそれを現実存在するようにする実行力を持つと想定するが、そのような神は、存在論的証明によってその存在が証明される、たんなる宇宙の合計以上のものであり、両者を同一視することはできない。また、私たちが誤謬、悪、失敗を経験する以上、有限な存在者の認識、意思、行為に予定調和説を適用することはできない。

1997年9月4日

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私たちは、子供のころから道徳を守るように教えられている。しかし、あらゆるものの根拠を疑うのが哲学の精神である。だから、あらためて「なぜ道徳的でなければならないのか」を問わなければならない。このページでは、この問いをシステム論の立場から答え、道徳規範の地平論的(第一節)、目的論的(第二節)、淘汰論的(第三節)な基礎付けを目指す。

1997年9月3日

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現代の英米系倫理学/社会哲学を論じる上で、ロールズの存在は無視することができない。彼のおかげで、英米でも実践哲学の関心事がメタ倫理学から規範倫理学へと回帰したのだが、ロールズの正義論は、哲学的にはどのように評価できるだろうか。

1997年9月3日

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サールは、米国生まれの哲学者だが、オックスフォード大学で博士号を取得したこともあり、オックスフォード大学の日常言語学派の一人と目されている。同じオックスフォード大学のヘアーとは異なり、事実と価値の二元論を否定し、言語行為論を通じて倫理学を自然化した。だが、その試みは正当化されるのだろうか。哲学的に考えてみたい。

1997年9月3日

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ヘアーは、オックスフォード大学で支配的だった日常言語学派の立場から道徳的言説の分析を行ったメタ倫理学者として知られるが、規範倫理学にも取り組んだ。実際、彼は、英国の各種委員会に名を連ね、社会政策の立案にも関わった。ヘアーのメタ倫理学的立場は「普遍的指令主義」と呼ばれているが、そこには、規範倫理学の基礎付けとしてのメタ倫理学としてどのような問題があるかを考えよう。

1997年9月3日

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自然主義的誤謬とは、ジョージ・エドワード・ムーア(George Edward Moore:1873年 - 1958年)が、1903年の著書『倫理学原理』の中で導入した用語で、一般的には、自然的な事実から規範性のある価値を導く誤謬であると理解されているが、これはムーアの解釈として間違っているだけでなく、メタ倫理学的にも間違っている。本稿では、自然主義的誤謬に対する様々な解釈を検討しつつ、ムーアが実際にはどう考えていたのか、さらにはそれがなぜ誤謬であるのかを明らかにしつつ、ムーアのメタ倫理学ならびにそれに基づく倫理学を乗り越える方法を提案したい。

1997年9月2日

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全ての価値を目的に対する手段の価値とみなし、現存の価値をより上位の目的への価値へと還元(reduzieren 縮減)し続けることで、私たちは、究極目的を構成し、それに基づいて、現存の価値を破壊することができる。このページでは、現象学的還元・構成・破壊のモデルを参考にしつつ、認識行為を含めたあらゆる行為の基礎付けを試みる。

1997年9月2日

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マックス・シェーラーは、現象学の影響を受けた倫理学者であり、哲学的人間学の提唱者でもある。フッサールは、倫理学にはあまり興味を持たなかったので、現象学的な直観主義が、倫理学に何をもたらすのかを、マックス・シェーラーの提唱する実質的価値倫理学で検証し、彼の哲学的人間学の成否を検討したい。

1997年9月1日

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カントにとって『実践理性批判』は『純粋理性批判』とは異なって超越論的哲学ではなくて、超越的哲学である。だが、本当に道徳法則は、カントが考えたほど超越的であるのだろうか。このページでは、「カントの純粋理性批判」の続編として、理論理性と実践理性、認識行為と身体行為はどこまで同じで、どこが違うのかを考えながら、カントの実践哲学の成否を検討したい。