永井家のルーツ
永井は日本では比較的ありふれた名字で、その先祖は様々である。永井氏の中でも、永井直勝(なおかつ)を初代とする江戸時代の家系が、明治以降、永井荷風や三島由紀夫を輩出して有名であるが、私の家系は、そうした長田氏が改姓した永井氏ではなくて、大江広元の次男を初代とする長井氏の末裔であるようだ。
景初四年銘の盤龍鏡
日本で発見される三角縁神獣鏡には、景初四年という魏の年号に無い年号が使われていることから、鏡の製作地をめぐって論争が起きている。『晋書志第二天文中』に収録されている逸話を「景初四年」の根拠とする人もいるが、後世の民間説話を景初四年銘の鏡が魏で制作された根拠とすることはできない。
日露戦争は必要だったのか
太平洋戦争に敗北して以来、多くの日本人は、自分たちがどこで道を誤ったのかを自省するようになった。過去に遡るほど抜本的な軌道修正が可能なのだが、話を明治時代以降に限定するなら、日露戦争の回避が最もよかったのではないだろうか。実際、それまで良好であった日米関係が悪化し始めたのは、日露戦争後のことなのだから。
ヤマトは本来どこにあったのか
大和(やまと)は、本来「山処」で、「山のような高い場所」という意味なので、日本神話における「高天原」の概念と同じである。アマテラスが高天原に君臨していたという神話は、卑弥呼が邪馬台国を都としていたという史実に基づいている。そして、≪甘木=天城≫は、≪山処=高天原≫の有力な候補である。
近衛文麿は共産主義者だったのか
近衛文麿は、日中戦争を拡大させた首相として知られるが、他方で、日米開戦を回避するための活動も行った。果たして彼は、太平洋戦争の回避に努めた皇室の藩屏だったのか、それとも敗戦を通じて日本に革命をもたらそうとした共産主義者だったのか。近衛の言動を分析することで、この問題に決着をつけたい。
写楽の謎を解く
東洲斎写楽は、江戸時代に、突如彗星のごとく華々しく現れ、画期的な浮世絵を大量に発表しながら、10ヶ月で忽然と姿を消した謎の天才絵師である。写楽とはどういう人物だったのか。写楽はあのデフォルメされた役者絵で何を表現したかったのか。写楽にまつわるさまざまな謎を解き明かしたい。
聖徳太子とは誰のことか(振り仮名付き)
2003年に私が書いた「聖徳太子とは誰のことか」には、読みにくい漢字があるので、別途振り仮名付き版を作成しました。漢字が苦手な方は、こちらをお読みください。
柿本人麻呂はなぜ死んだのか
柿本人麻呂は、持統朝時代を中心に活躍した宮廷歌人であった。後に歌聖として崇められ、人麻呂を神として祀った神社が創建された。梅原猛の『水底の歌』によれば、神として祀られたことは、人麻呂が非業の死を遂げたということを暗示している。この梅原説は正しいだろうか。人麻呂の歌を分析して、私なりの結論を出したい。
聖徳太子とは誰のことか
『日本書紀』には、聖徳太子という理想の聖人が登場するが、近年、聖徳太子の実在が疑われ始めている。聖徳太子はフィクションなのか。もしフィクションならば、なぜそのようなフィクションが作られなければならなかったのかを考えてみよう。
秀吉の朝鮮出兵はなぜ失敗したのか
豊臣秀吉は、晩年、1592年(文禄の役)と1597年(慶長の役)の二回にわたって、明を支配するために朝鮮半島に兵を送ったが、戦果は芳しくなく、秀吉の死後、日本軍は朝鮮半島から撤退した。なぜ、秀吉はこのような出兵を行い、そして失敗したのだろうか。
江戸時代の人口調整方法
江戸時代中期以降の日本の人口には、あまり変動がなかった。武士など特殊階級を除く全国の人口は、幕府が調査を始めた1721年で2600万人、最も少ない時で2489万人(1792年)、最も多い時で2720万人(1828年)で、きわめて安定的に推移した。もし何も制約がなければ、人口は等比数列的に増えるはずである。では、江戸時代の日本では、どのようなメカニズムが人口爆発を抑制したのか。
江戸幕府とブルボン王朝
日本とフランスは、18世紀、徳川綱吉とルイ14世という浪費家の君主のおかげで財政が危機に瀕したが、徳川幕府が1868年まで続いたのに対して、ブルボン王朝は、1789年に滅びた。何が両者の明暗を分けたのだろうか。
天皇のスケープゴート的起源
天皇の起源がスケープゴートだったということは意外であろう。例えば極東軍事裁判がそうであるように、多くの人が天皇のスケープゴートにされてきたから、逆ではないかと訝しむのは自然なことだ。しかし黎明期における天皇は、未開社会における酋長と同じで、スケープゴートの色彩が強い。皇祖天照大神を卑弥呼に比定し、そのスケープゴート的起源を明らかにしたい。