景初四年銘の盤龍鏡
日本で発見される三角縁神獣鏡には、景初四年という魏の年号に無い年号が使われていることから、鏡の製作地をめぐって論争が起きている。『晋書志第二天文中』に収録されている逸話を「景初四年」の根拠とする人もいるが、後世の民間説話を景初四年銘の鏡が魏で制作された根拠とすることはできない。
任那日本府は存在したのか
任那(みまな)日本府とは、『日本書紀』に記されている、朝鮮半島南部に存在したとされる倭の統治機関である。韓国学界は、古代の朝鮮半島に倭の領土があったことを否定しているが、文献的資料と考古学的事実は、卑弥呼の時代から倭の五王の時代にかけて、朝鮮半島南岸が倭の統治下にあったことを示しており、その後、562年に消滅するまで、倭が朝鮮半島南部に拠点を持っていたことは史実として受け取ることができる。
ヤマトは本来どこにあったのか
大和(やまと)は、本来「山処」で、「山のような高い場所」という意味なので、日本神話における「高天原」の概念と同じである。アマテラスが高天原に君臨していたという神話は、卑弥呼が邪馬台国を都としていたという史実に基づいている。そして、≪甘木=天城≫は、≪山処=高天原≫の有力な候補である。
卑弥呼の墓はどこにあったのか
卑弥呼の墓がどこにあったかは、邪馬台国がどこにあったかを決める上で重要な問題であり、畿内説では、奈良県桜井市にある箸墓古墳が、九州説では、福岡県糸島市にある平原遺跡1号墓が有力候補である。現在歴史学界で最も有力視されているのは、箸墓古墳であるが、『三国志』魏書東夷伝倭人条の記述との整合性からすれば、平原遺跡の方が、卑弥呼の墓である可能性が高い。
アカマツの回廊が示唆する神武東征
アカマツは、人間が森林を破壊した後に生える。だから、アカマツの花粉を分析することで、人間が森林を破壊した歴史をたどることができる。安田喜憲は、『森の日本文化―縄文から未来へ』で、アカマツが分布を広げる地帯をアカマツの回廊と名付けた。アカマツの回廊は、日本神話が伝える神武東征を、ひいては邪馬台国東遷説を環境考古学的に裏付けている。
天皇のスケープゴート的起源
天皇の起源がスケープゴートだったということは意外であろう。例えば極東軍事裁判がそうであるように、多くの人が天皇のスケープゴートにされてきたから、逆ではないかと訝しむのは自然なことだ。しかし黎明期における天皇は、未開社会における酋長と同じで、スケープゴートの色彩が強い。皇祖天照大神を卑弥呼に比定し、そのスケープゴート的起源を明らかにしたい。