9月 012009
 

近衛文麿は、日中戦争を拡大させた首相として知られるが、他方で、日米開戦を回避するための活動も行った。果たして彼は、太平洋戦争の回避に努めた皇室の藩屏だったのか、それとも敗戦を通じて日本に革命をもたらそうとした共産主義者だったのか。近衛の言動を分析することで、この問題に決着をつけたい。

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大礼服に勲一等瑞宝章を着用した近衞[1]

1 : 近衛上奏文の真意は何か

近衛文麿は、敗戦が避けられなくなった太平洋戦争末期(1945年2月14日)に、内閣総辞職後3年4ヶ月ぶりに天皇に拝謁し、以下の文書を昭和天皇の面前で読み上げ、国体護持のための早期和平を主張した。この文書は近衛上奏文と呼ばれる。

敗戰ハ我カ國體ノ瑕瑾タルヘキモ、英米ノ輿論ハ今日マテノ所國體ノ變革トマテハ進ミ居ラス(勿論一部ニハ過激論アリ、又將來如何ニ變化スルヤハ測知シ難シ)隨テ敗戰タケナラハ國體上ハサマテ憂フル要ナシト存候、國體護持ノ建前ヨリ最モ憂フルヘキハ敗戰ヨリモ敗戰ニ伴フテ起ルコトアルヘキ共産革命ニ御座候。ツラツラ思フニ我カ國内外ノ情勢ハ今ヤ急速度ニ振興シツツアリト存候。即チ國外ニ於テハソ聯ノ異常ナル進出ニ御座候。我カ國民ハソ聯ノ意圖ハ的確ニ把握シ居ラス、カノ一九三五年人民戰線戰術即チ二段革命戰術ノ採用以來、殊ニ最近コミンテルン解散以來、赤化ノ危險ヲ輕視スル傾向顯著ナルカ、コレハ皮相且安易ナル見方ト存候。ソ聯ハ究極ニ於テ世界赤化政策ヲ捨テサルハ最近歐洲諸國ニ對スル露骨ナル策動ニヨリ明瞭トナリツツアル次第ニ御座候。

[…]

カクノ如キ形勢ヨリ推シテ考フルニ、ソ連ハヤカテ日本ノ内政ニ干渉シ來ル危險十分アリト存セラレ候(即チ共産黨公認、ドゴール政府、パドリオ政府ニ要求セシ如ク共産主義者ノ入閣、治安維持法及防共協定ノ廢止等々)飜テ國内ヲ見ルニ、共産革命達成ノアラユル條件日々具備セラレユク觀有之候。即生活ノ窮乏、勞働者ノ發言權ノ大、英米ニ對スル敵慨心昂揚ノ反面タル親ソ氣分、軍部内一味ノ革新運動、之ニ便乘スル新謂新官僚ノ運動、及之ヲ背後ヨリ操リツツアル左翼分子ノ暗躍等ニ御座候。右ノ内特ニ憂慮スヘキハ軍部内一味ノ革新運動ニ有之候。

少壯軍人ノ多數ハ我國體ト共産主義ハ兩立スルモノナリト信シ居ルモノノ如ク、軍部内革新論ノ基調モ亦ココニアリト存シ候。皇族方ノ中ニモ此ノ主張ニ耳ヲ傾ケラル方アリト仄聞イタシ候。職業軍人ノ大部分ハ中流以下ノ家庭出身者ニシテ、其ノ多クハ共産的主張ヲ受ケ入レ易キ境遇ニアリ、又彼等ハ軍隊教育ニ於テ國體觀念タケハ徹底的ニ叩キ込マレ居ルヲ以テ、共産分子ハ國體ト共産主義ノ兩立論ヲ以テ彼等ヲ引キスラントシツツアルモノニ御座候。

抑々滿洲事變、支那事變ヲ起シ、之ヲ擴大シテ遂ニ大東亞戰爭ニマテ導キ來レルハ是等軍部内ノ意識的計畫ナリシコト今ヤ明瞭ナリト存候。滿洲事變當時、彼等カ事變ノ目的ハ國内革新ニアリト公言セルハ、有名ナル事實ニ御座候。支那事變當時モ、「事變永引クカヨロシク事變解決セハ國内革新カ出來ナクナル」ト公言セシハ此ノ一味ノ中心的人物ニ御座候。

是等軍部内一味ノ者ノ革新論ノ狙ヒハ必スシモ共産革命ニ非ストスルモ、コレヲ取巻ク一部官僚及民間有志(之ヲ右翼トイフモ可、左翼トイフモ可ナリ、所謂右翼ハ國體ノ衣ヲ着ケタル共産主義者ナリ)ハ意識的ニ共産革命ニマテ引キスラントスル意圖ヲ包藏シ居リ、無知單純ナル軍人之ニ躍ラサレタリト見テ大過ナシト存候。此事ハ過去十年間軍部、官僚、右翼、左翼ノ多方面ニ亙リ交友ヲ有セシ不肖カ最近靜カニ反省シテ到達シタル結論ニシテ此結論ノ鏡ニカケテ過去十年間ノ動キヲ照ラシ見ル時、ソコニ思ヒ當ル節々頗ル多キヲ感スル次第ニ御座候。

不肖二度マテ組閣ノ大命ヲ拜シタルカ國内ノ相剋摩擦ヲ避ケンカ爲出來ルタケ是等革新論者ノ主張ヲ容レテ擧國一體ノ實ヲ擧ケント焦慮セルノ結果、彼等ノ主張ノ背後ニ潜メル意圖ヲ十分ニ看取スル能ハサリシハ、全ク不明ノ致ス所ニシテ何トモ申譯無之深ク責任ヲ感スル次第ニ御座候。

昨今戰局ノ危急ヲ告クルト共ニ一億玉碎ヲ叫フ聲次第ニ勢ヲ加ヘツツアリト存候。カカル主張ヲナス者ハ所謂右翼者流ナルモ背後ヨリ之ヲ煽動シツツアルハ、之ニヨリテ國内ヲ混亂ニ陷レ遂ニ革命ノ目的ヲ達セントスル共産分子ナリト睨ミ居リ候。

一方ニ於テ徹底的ニ米英撃滅ヲ唱フル反面、親ソ的空氣ハ次第ニ濃厚ニナリツツアル樣ニ御座候。軍部ノ一部ニハイカナル犠牲ヲ拂ヒテモソ聯ト手ヲ握ルヘシトサヘ論スルモノモアリ、又延安トノ提携ヲ考ヘ居ル者モアリトノ事ニ御座候。

以上ノ如ク國ノ内外ヲ通シ共産革命ニ進ムヘキアラユル好條件カ日一日ト成長致シツツアリ、今後戰局々不利トモナラハ此形勢ハ急速ニ進展致スヘクト存シ候。

戰局の前途ニ付キ何等カ一縷テモ打開ノ望ミアリト云フナラハ格別ナレト、敗戰必至ノ前提ノ下ニ論スレハ勝利ノ見込ナキ戰爭ヲ之以上繼續スルハ、全ク共産黨ノ手ニ乘ルモノト存候。隨テ國體護持ノ立場ヨリスレハ、一日モ速ニ戦争終結ノ方途ヲ講スヘキモノナリト確信仕リ候。

戰爭終結ニ對スル最大ノ障害ハ滿洲事變以來今日ノ事態ニマテ時局ヲ推進シ來タリシ軍部内ノカノ一味ノ存在ナリト存候。彼等ハ已ニ戦争遂行ノ自信ヲ失ヒ居ルモ、今迄ノ面目上飽クマテ抵抗可致者ト存セラレ候。

モシ此ノ一味ヲ一掃セスシテ早急ニ戰爭終結ノ手ヲ打ツ時ハ右翼、左翼ノ民間有志、此ノ一味ト響應シテ、國内ニ一大混亂ヲ惹起シ所期ノ目的ヲ達成シ難キ恐有之候。從テ戰爭ヲ終結セントスレハ先ツ其前提トシテ此一味ノ一掃カ肝要ニ御座候。

此ノ一味サヘ一掃セラルレハ、便乘ノ官僚並ニ右翼、左翼ノ民間分子モ影ヲ潜ムヘク候。蓋シ彼等ハ未タ大ナル勢力ヲ結成シ居ラス、軍部ヲ利用シテ野望ヲ達セントスル者ニ外ナラサルカ故ニソノ本ヲ絶テハ枝葉ハ自ラ枯ルルモノナリト存候。

尚コレハ少々希望的觀測カハ知レス候ヘ共モシ是等一味カ一掃セラルルトキハ、軍部ノ相貌ハ一變シ、米英及重慶ノ空氣或ハ緩和スルニ非サルカ。元來米英及重慶ノ目標ハ日本軍閥ノ打倒ニアリト申シ居ルモ、軍部ノ性格カ變リソノ政策カ改マラハ、彼等トシテモ、戰爭ノ繼續ニ付キ考慮スル樣ニナリハセスヤト思ハレ候。ソレハトモ角トシテ、此ノ一味ヲ一掃シ軍部ノ建直シヲ實行スルコトハ、共産革命ヨリ日本ヲ救フ前提先決條件ナレハ、非常ノ御勇斷ヲコソ願ハシク奉存候。[2]

国際政治学者の中川八洋は、この上奏を「近衛文麿が対英米戦争主義者でなかったかのような偽イメージ、あるいは近衛文麿がマルクス主義者でなかったかのような偽イメージをつくる、近衛自身による自己演技の最たるもの」、「すべての責任を軍部に転嫁するに絶妙で華麗な演技の典型」[3]と評している。

もとより、よく読めばわかるように、この上奏で、近衛は必ずしもすべての責任を軍部に転嫁しようとしているわけではない。「不肖二度マテ組閣ノ大命ヲ拜シタルカ國内ノ相剋摩擦ヲ避ケンカ爲出來ルタケ是等革新論者ノ主張ヲ容レテ擧國一體ノ實ヲ擧ケント焦慮セルノ結果、彼等ノ主張ノ背後ニ潜メル意圖ヲ十分ニ看取スル能ハサリシハ、全ク不明ノ致ス所ニシテ何トモ申譯無之深ク責任ヲ感スル次第ニ御座候」と言っているのだから、むしろ、自分の責任を認めていると解すべきである。

他方で、この上奏で、近衛が本当に早期の戦争終結を願っていたのかどうかに関しては、疑う余地はある。近衛が謂う所の「滿洲事變以來今日ノ事態ニマテ時局ヲ推進シ來タリシ軍部内ノカノ一味」は統制派のことであり、統制派を「一掃」することは、皇道派を再登板させることになる。皇道派は、2.26事件で昭和天皇の強い不信を買い、失脚していた。だから、早期戦争終結で共産主義革命を予防することが、皇道派の権力掌握につながるという印象を与えることで、昭和天皇に終戦を躊躇させようとしたのではないかという推測すら不可能ではない[*]

[*] 皇道派と統制派は、昭和初期の陸軍内部の派閥で、どちらの派閥も国家社会主義的な方向を目指したが、皇道派とは異なり、統制派は陸軍大学校出身者がほとんどを占めた。皇道派は、北一輝らの影響を受けて、天皇親政の下での昭和維新を目指し、対外的にはソビエト連邦との対決を志向したものの、統制派との権力闘争に敗れ、2.26事件以降無力となった。近衛は、英米に開戦したのが統制派であったことから、東条英機をはじめとする統制派に代わって、皇道派を起用しようとしたのであった。

事実、昭和天皇が軍部の人事のあり方について問うた時、近衛は、皇道派の中心人物、小畑敏四郎、その他、昭和天皇が嫌っている、非主流派の軍人の名前を挙げたために、昭和天皇は「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と言って、近衛の提案を却下した。天皇がポツダム宣言を受け入れたのは、それから半年後のことである。問題は、それが意図的なものであったかどうかである。

2 : 近衛はなぜ革新貴族になったのか

近衛が、若いころ、左翼思想の感化を受けたことは、間違いない。近衛は、マルクス経済学の研究をしていた河上肇に学ぶため、東京帝国大学から京都帝国大学にわざわざ転学し、さらに、在学中に、オスカー・ワイルドの『社会主義下における人間の魂』を翻訳し、それを『新思潮』に発表したなど、近衛がマルクス主義、共産主義、社会主義に共感していたことを示す逸話は、多数ある。

近衛家は五摂家筆頭であり、文麿はその当主であった。通常、こうした特権階級に属する人々は、共産主義の対極にある保守主義になりやすい。それにもかかわらず、近衛文麿はなぜ共産主義に惹かれ、革新貴族になったのか。理由として、二つ考えることができる。

第一に、父の影響である。文麿の父、近衛篤麿は、1885年に渡欧し、白人が東洋人に対して偏見を持っていることを実感した。日本国内で差別されている人が海外で差別を体験しても、なんとも思わないだろう。しかし、国内で誰からも尊敬されるような高い身分の貴族ほど、海外で見下された時の屈辱感は大きくなるものだ。篤麿は、渡欧後、アジアは日本を盟主として団結し、白人の横暴に対抗しなければならないというアジア主義の考えを抱くようになり、その理想を実現するために東亜同文会を設立し、その会長に就任した。

東亜同文会は、東亜同文書院を設立し、文麿は、その院長となった。文麿は、27歳の時(1918年)に、「英米本位の平和主義を排す」という論文を『日本及日本人』に掲載し、白人が黄色人種を差別し、移民を制限していること、後発工業国である日本が、資源や領土の配分という点で、英米より不利な立場にあることに不満を述べ、こうした格差を維持することになる「英米本位の平和主義」に異を唱えている[4]が、ここで彼が訴えた国際的な革新は、父の遺志を受け継いだものだった。

第二に、文麿の思春期における不幸な体験である。文麿の母、衍子は、文麿出産後すぐに病気で死去し、衍子の妹、貞子が代わりに篤麿と結婚し、文麿を育てた。文麿は、長い間、貞子を実母と思っており、真実を知って、ショックを受けたと伝えられている。さらに、父の篤麿も、政治活動のために作った多額の借金を残したまま、文麿が13歳の時に病死してしまった。

父の在世中は朝から晚まで色々な人が出入し、私なども子供ながらチヤホヤされてゐたものだ。が、父がゐなくなつてからは、まるで火が消えた樣になり、それだけならまだしも、今まで父に政治上の意味で世話を受けた人などが掌を返へすやうに金を返へせと云つて來る。ある金持の如きは、こちらが現金で返せぬので掛軸などをかたにすると、三度も三度もつきかへして來る樣な始末であつた。

こんな事から私の心の中には、知らず知らずの間に、社會に對する反抗心が培はれてゐた。[5]

文麿は、こうした体験から、人間不信に陥り、現世否定的となった。文麿が、革新貴族になった原点はここにある。但し、文麿は、コミンテルンの世界革命に共感を示したり、ソ連を祖国と仰いだりしたことはない。それは、中川の誤解である。「英米本位の平和主義を排す」を読めばわかるように、文麿は、あくまでも日本および日本人の利益という観点から、英米本位の世界秩序に異を唱えていたのである。

3 : 近衛はなぜ日中戦争を泥沼化させたのか

1933年に、近衛文麿は、貴族院議長に就任し、さらに、京都帝国大学時代の学友でもあった後藤隆之助に、昭和研究会という、近衛を囲む私的な勉強会を発足させた。近衛が将来の首相候補として注目されるにつれて、昭和研究会には、近衛内閣のもとで革新を行おうとする左翼や右翼たちが集まるようになった。

1937年6月4日に第1次近衛内閣が発足すると、近衛は左翼や右翼、特に近衛と人的交流があった皇道派将校の逮捕者や服役者を大赦しようとしたが、昭和天皇や西園寺公望の革新勢力に対する警戒心は強く、大赦は実現されなかった。「近衛上奏文」でも皇道派の復帰を提案していることを考えるならば、近衛は皇道派の本質を最後まで見抜くことはできなかったと考えることもできる。

7月7日に盧溝橋事件が起き、日中戦争が始まると、近衛内閣は、不拡大方針を表明したのにもかかわらず、実際にはそれを拡大し、1938年1月16日には、「爾後國民政府ヲ對手トセズ」との、所謂「近衛声明」を発表して、日中戦争の終結を絶望的にした。これは、近衛の主体的な判断というよりも、日中戦争を長引かせることにより、東アジアに共産主義革命を起こそうとする昭和研究会内の革新勢力の画策によるものであった。

昭和研究会内の革新勢力の中で重要な役割を果たしたのが、近衛内閣の書記官長に抜擢された社会主義者の風見章と彼が内閣嘱託として重用した尾崎秀実である。尾崎はソ連のスパイであり、主催した朝飯会で、近衛のブレーンたちにコミンテルン経由の情報を流し、その巧みな工作活動により、盧溝橋事件に端を発する日中戦争を不必要に長引かせた。

近衛は、聞き上手で、周囲の意見によく耳を傾けたので、貴族院議長には適任だったが、首相にはふさわしい人物ではなかった。近衛はまた人を見る目がなく、周囲の意見に従って、直接面識のない者まで要職に抜擢した。例えば、近衛は、1938年に、陸軍内部で評判がよかった板垣征四郎を陸軍大臣に選んだが、いざ面談してみると、あまりにも無能だったので、選んだことを直後に後悔している。近衛も板垣も、陸軍では評判がよかったが、それはこの二人が自己主張せず、軍人の言いなりになったからであった。日中戦争は、大日本帝国のトップが、昭和天皇、近衛首相、板垣陸相というリーダーシップの欠如した操り人形であったときに行われ、泥沼化したのだった。

近衛は、1941年10月16日に内閣総理大臣を最終的に辞職した後も、日米開戦を回避するために奔走した。しかし、ルーズベルト大統領は、1940年に、日本が日独伊三国同盟を結び、北部仏領インドシナに進駐した時点で、日本との戦争を決意しており、「赤子のように弄ばれる」のが関の山であった。

4 : 近衛はなぜ自殺しなければならなかったのか

共産主義シンパだった近衛が、反共産主義に転じ、「過去十年間軍部、官僚、右翼、左翼ノ多方面ニ亙リ交友ヲ有セシ不肖カ最近靜カニ反省シテ到達シタル結論」である近衛上奏文を書くようになったきっかけは、ゾルゲ事件に違いない。自分のブレーン、尾崎秀実が、コミンテルンのスパイだと知って、「彼等ノ主張ノ背後ニ潜メル意圖」に気づき、自分が、共産主義者に利用されたという思いを強くしたのであろう。近衛上奏文を被害妄想と評する人もいるが、当時東ヨーロッパ諸国が次々とソ連の傘下に入っていったことを考えると、あながち杞憂とは言えまい。

敗戦後、東久邇宮内閣の国務大臣となった近衛は、1945年10月4日に、マッカーサーに会って、以下のような、近衛上奏文と同趣旨の見解を披露した。

軍閥ト極端ナル国家主義者カ世界ノ平和ヲ破リ日本ヲ今日ノ破局ニ陥レタコトニ付テハ一点ノ疑モナイ、問題ハ皇室ヲ中心トスル封建的勢力ト財閥トカ演シタ役割及其ノ功罪テアル、此ノ点米国ニ於テハ相当観察ノ誤カアルノテハナイカト思フ。即チ米国テハ彼等ハ軍国主義者ト結托シテ今日ノ事態ヲ齎シタト見テ居ルノテハナイカト思フ、然ルニ事実ハ其ノ正反対テアツテ彼等ハ常ニ軍閥勢力ノ向上ヲ抑制スル「ブレーキ」ノ役割ヲ努メタノテアル。所謂日本ノ重臣層及財閥カ軍閥ノ勢力ニ乗セラレタコトハ事実テアルカ彼等カ如何ニ其ノ羈絆ヲ脱シ其ノ跳梁ヲ阻止シヤウトシタカ最モ雄弁ナル証拠ハ彼等ノ中ノ有名ナル人カ幾人モ暗殺ノ対象トナツタ事実ニ依リ明テアル。日本ハ嘗テ暗殺ノ国ト呼ハレタノテアルカ其ノ暗殺カ何人ニ依ツテ又何人ニ向ツテ行ハレタカヲ究明セネハナラヌ。

軍閥ヤ国家主義勢力ヲ助長シ其ノ理論的裏付ヲナシタモノハ実ニ「マルキシスト」テアル、満洲事変以来国内ノ急進的ナル革新カ之等勢力ニ依テ叫ハレタノハ実ニ其ノ背後ニ左翼分子カ喰入ツタコトニ依ルノテアル、彼等ハ資本主義ヲ排除シタ一ノ理想国家ヲ満洲ニ築カントシ又満洲ヲ拠点トシテ国内ノ急激ナル革新ヲ実現セントシタノテアル、満洲事変以来日米戦争ニ至ル全過程ノ観察ニ於テ此ノ点ヲ観過スルナラハ其ノ真相ヲ掴ムコトハ出来ナイノテアル。左翼分子ハ又一部ハ極右翼ニ接近シ又一部ハ官僚ニモ喰入ツタ、少壮軍人ヤ官僚ハ公然ト戦争状態ノ早期終了ニ反対シタ、戦争ヲ長引カシテ置イテ国内ノ急進的革新ヲ断行スルノタト言出シタ、従テ軍閥ヲ利用シテ日本ヲ戦争ニ駆立テタモノハ財閥ヤ封建的勢力テハナクシテ実ニ左翼分子ノ活動ニ依ルモノテアツタコトヲ知ラネハナラナイ。

[…]

今日ノ事態ニ於テ若シ軍閥及国家主義的勢力ト共ニ封建的勢力及財閥等既存ノ勢力ヲ一挙ニ除去セントスルナラハ日本ハ極メテ容易ニ赤化スルテアラウ、日本ノ赤化ヲ防止シ建設的ナ「デモクラシー」国家タラシムルニハ軍閥的勢力ノ排除ノ必要ナルコト勿論テハアルカ、一方ニハ封建的勢力及財閥ヲ存在セシメテ一歩一歩漸進的方法ニ依リ「デモクラシー」ノ建設ニ向ハナケレハナラナイ。

第一次欧州大戦後独逸ニハ社会民主党ナルモノアリ独逸ノ安定勢力トシテ共産主義革命ヲ阻止スル役割ヲ努メタノテアル、然ルニ日本ニハ財閥及封建的勢力ヲ除イテハ此ノ独逸ノ社会民主党ニ比スル安定勢力ハナイノテアル、最近議会方面ニハ無産党、自由党等擡頭シツツアルカ其ノ勢力ハ未タ微々タルモノニ過キス、自分ハ所謂封建的勢力ノ出身テアリ、斯カル議論ハ言ヒ悪イ訳テアルカ自分ハ決シテ斯カル勢力ヤ財閥ヲ弁護シヤウトスルモノテハナイ、唯今日直ニ且一挙ニ日本カラ此ノ安定勢力ヲ除去スレハ即チ日本カ直ニ赤化ニ走ルコトヲ大ニ指摘シ度イト思フノテアル。[6]

近衛との対談を通して、マッカーサーは近衛を大いに信用するようになり、近衛に憲法改正という重要な仕事を委託した。近衛・マッカーサー会談の内容は、陪席したジョージ・アチソンGHQ政治顧問団団長から、同じ国務省内の中国派である政治顧問団団員のジョン・エマーソンに伝わった。エマーソンは毛沢東を礼賛する共産主義者で、近衛の反共産主義的で封建的保守勢力を擁護する見解を聞いて驚き、同じ共産主義の同志であるハーバート・ノーマンGHQ対敵諜報局調査分析課長と共に、近衛を失脚させるための反撃に出た。

ハーバート・ノーマンは、日本生まれのカナダ人で、ハーバード大学で、当時共産主義者に傾倒していた都留重人と知り合った。ノーマンは、大学卒業後、共産党に入党した経歴を隠して、カナダの外務省に就職し、第二次世界大戦後、カナダの外交官として日本に赴いたが、その日本語の能力と日本に関する知識から、GHQに調査分析課長としてスカウトされた。ノーマンは、都留とともに謀って、1945年11月5日に近衛文麿についての、8日に木戸幸一についての「戦争責任に関する覚書」を書いてGHQに提出した。この覚書は近衛に関しては厳しく、木戸に対しては甘かった。これは、木戸が都留の妻の伯父であったためと考えられている。

だが、この覚書が提出される前から、ノーマンとエマーソンによる近衛攻撃の工作活動は始まっていた。これが功を奏して、10月24日以降、米国のメディアが近衛叩きを始め、11月1日には、GHQは、近衛に対する憲法改正の依嘱を否定する声明を発表した。11月9日には、近衛は、米軍軍艦内に連行され、1941年9月6日の御前会議で対米決戦を決断したとして、戦争責任を詰問され、12月6日に、GHQによって逮捕され、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれると聞いて、12月16日に自殺した。

近衛の自殺を聞いて、昭和天皇は「近衛は弱いね」と言ったと伝えられるが、近衛の自殺には、天皇系廃絶を防ごうとする、もっと戦略的な意味があった。振り返ってみると、天皇に戦争責任があることを知っていた近衛は、天皇系廃絶を防ぐために以下の二つの手段を試みていたのである。

  1. 近衛が最初に試みたのは、昭和天皇に退位してもらい、太平洋戦争とは無関係であった新しい天皇を即位させ、昭和天皇の戦争責任が明らかになっても、皇統断絶にならないようにするという方法であった。1945年10月21日、近衛はAP通信の記者と会い、新憲法が天皇退位の新しい規定を含むことを漏らしたが、23日に朝日新聞がそのAP特電を掲載すると、近衛は、国内で激しい批判を浴び、昭和天皇退位を断念せざるをえなくなった。
  2. 戦時中に内大臣として昭和天皇を補佐した木戸幸一は、昭和天皇と自分に戦争責任の累を及ぼすことを怖れ、1941年9月6日の御前会議で、昭和天皇が「四方の海みなはらからと思う世になど波風の立ち騒ぐらむ」という明治天皇の御製を引用して反戦の意思を示す中、近衛が対米開戦を決定したというストーリを作り上げた。そして、姪の夫である都留重人、都留重人の親友であるハーバート・ノーマンを通じて、近衛の戦争責任を強調することとなった[7]

もとより、ノーマンの筋書きには無理があった。昭和天皇は、「波風」を「敵波」に擦り替えて明治天皇の御製を詠った[8]ので、この歌は、敵を非難する歌であり、日本の軍部を批判した歌ではなかったし、近衛は対米決戦を先延ばしにするための妥協策をとったに過ぎなかった。しかしながら、近衛と木戸は、皇統を絶やすべきでないという点では意見が一致しており、近衛は、軍事裁判に出て真実を語るよりも、このまま自分が全ての戦争責任を負って、黙して死んだ方が、昭和天皇に累を及ぼさないと判断して、自殺したと推測できる。

こうして、近衛は、日中戦争と太平洋戦争が共産主義者の共産主義者による共産主義者のための戦争であったとする近衛史観とともに葬り去られた。GHQと戦後の日本の知識人たちを支配したのは、ノーマンの共産主義的な進歩史観であった。日中戦争と太平洋戦争を惹き起こしたのは、封建的な保守勢力と財閥で、日本の人民はその被害者であるあるとする進歩史観に基づいて、マッカーサーは、近衛の忠告に反して、農地改革、財閥解体、貴族院解散などの一連の「民主化」政策を行った。

だが、冷戦が本格化するに連れて、マッカーサーはこうした革新的な「民主化」の危険性を認知するようになった。そんな中、マッカーサーとともに、日本の赤化に歯止めをかけ、日本を親米自由主義国家にするために尽力した政治家が現れた。それは、あの近衛上奏文の作成にかかわった吉田茂であった。近衛史観は、吉田茂によって、ひそかに受け継がれたのだった。マッカーサーと吉田による反共的な政治は、当時「逆コース」と呼ばれたが、そうした呼称は進歩史観によるものであって、実際には、それはファシズム時代への回帰ではなくて、ファシズム時代との決別をもたらした。

5 : 近衛は最後まで共産主義者だったのか

中川は、近衛が、最後まで徹頭徹尾、共産主義者であったと主張しているが、以上の考察から、この可能性はほとんど無いと結論付けてよい。もしも近衛がソ連のスパイならば、なぜソ連のスパイだったノーマンは、近衛の失脚のために奔走したのか。なぜ、ノーマンは、逆に、近衛を首相にして、ソ連の傀儡政権を作る工作をしなかったのか。このことを考えると、近衛はソ連のスパイでなかったと判断して間違いない。

では、近衛は、ソ連のスパイではなかったにしても、依然として共産主義シンパで、中川が謂う所の「マルクス主義者でなかったかのような偽イメージをつくる、近衛自身による自己演技」ゆえに、GHQ左派から封建的保守勢力を擁護する反共産主義者と誤解され、排除されたのか。これもありそうにない話である。特高警察が目を光らしていた時代に、マルクス主義者でないかのような演技をしていたというのならわかるが、特高警察が廃され、日本共産党が合法化され、共産主義の思想犯が釈放される時代にそういうことをする必要があったのだろうか。

近衛は、共産主義がタブーだった時代に容共的な言動をし、共産主義が公認された戦後になって反共的立場を先鋭化させている。これは保身目的の演技とは解釈できない。やはり、近衛は、ゾルゲ事件をきっかけに、反共産主義者になったと見る他ない。彼が革新貴族になったのは、日本の国益伸長のためだったし、反共産主義者になったのも、国体護持のためであった。近衛が、国益よりも共産主義による世界革命を優先させたことは一度もなかった。

中川は、「青年期の思想が熟年になって変わることは稀であって、一般的には起こりえない」[9]と言うが、共産主義の理想に共鳴していた若者が、年をとるにつれて保守化するというパターンはよくある(その逆のパターンは稀だが)。所謂全共闘世代には、そういう実例がたくさんある。近衛は、一高時代には、「世の中で一番俗惡なものは政治家、一番高尚なものは哲學者だと思ひ込んでゐた」[10]理想主義者だったが、そういう青年時代の理想主義が長く続かないことは、大学卒業後、すぐに政界入りを目指したことからもわかる。

近衛という姓は、近衛兵という用法からもわかるように、君主のすぐ側で、君主を警衛する軍人という意味である。近衛文麿は、天皇を守るために死を選んだ、近衛の姓にふさわしい人物であった。生まれた時の境遇や時代風潮ゆえに、共産主義や全体主義に共鳴したものの、天皇の側近として天皇を守るという中臣鎌足以来の血統と伝統の力の方がそれよりも勝っていたのであった。

6 : 参照情報

  1. 内閣情報部.『写真週報』 創刊号. 昭和13年(1938年)2月16日.
  2. 文麿近衛. 「近衛上奏文(全文)–昭和20年2月14日」. 『論争』7 (August 1962). p.148~150.
  3. 中川八洋.『大東亜戦争と「開戦責任」―近衛文麿と山本五十六』 Tōkyō: 弓立社, 2000. p.75.
  4. 近衛文麿「英米本位の平和主義を排す」 in 伊藤武. 『近衛公清談録』. 千倉書房, 1937. p.231-241.
  5. 近衛文麿「身辺煩談」 in 伊藤武. 『近衛公清談録』. 千倉書房, 1937. p.2.
  6. 近衛国務相・マッカーサー元帥会談録」. 1945. 国立国会図書館.
  7. 鳥居民. 『近衛文麿「黙」して死す―すりかえられた戦争責任』. 東京: 草思社, 2007. p.181
  8. 工藤美代子. 『近衛家 七つの謎』. 東京: PHP研究所, 2007. 第三章
  9. 中川八洋.『大東亜戦争と「開戦責任」―近衛文麿と山本五十六』 Tōkyō: 弓立社, 2000. p.73.
  10. 近衛文麿「身辺煩談」 in 伊藤武. 『近衛公清談録』. 千倉書房, 1937. p.4.
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