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不定冠詞はなぜ誕生したのか

2009年11月6日

冠詞は中世ヨーロッパの共通言語であったラテン語には存在しなかったし、英語をはじめとするヨーロッパの近代言語でも、最初から独自の品詞として存在したわけでもなかった。定冠詞は「あれ」を意味する指示形容詞から、不定冠詞は「一つの」を意味する数量形容詞から分離独立した後発の品詞である。このうち、定冠詞は古典ギリシャ語やアラビア語にも存在するが、不定冠詞は、近代の西ヨーロッパで発展した特異な冠詞である。不定冠詞の誕生は、西ヨーロッパで発展した個人主義と関係があると考えることができる。

Eric Perlin + OpenClipart-Vectors による Pixabay からの画像を加工

1. 不定冠詞

ヨーロッパ近代言語における冠詞の使い方には、似た面が多いので、本稿では、主として英語における冠詞の使い方を取り上げて、冠詞の機能を分析してみたい。まずは、不定冠詞である。

英語では、単数形の名詞に不定冠詞が付く必要条件の一つは、その名詞が可算的であることである。そして、可算的であるか不可算的であるかは、対象の外部に対する境界線が、話者によってはっきり意識されているかどうかによる。

例えば、りんごの木の実は、果皮によって内部と外部が固定的に区切られていて、話者はその境界を意識することができるので、英語では、“an apple”と不定冠詞を付けて呼ばれる。しかし、りんごがすりりんごやりんごの果肉になると、境界が不明確で、かつ非固定的になるので、“(grated) apple”や“apple (pulp)”というように無冠詞となり、不可算的になる。

システム学的に表現するならば、システムが境界線によって環境と差異化され、その境界線が、言語の利用者である情報システムによって明確に意識されている時、システムであるという記号として、その対象を意味する名詞に不定冠詞が付けられるということである。

もちろん、すりりんごもりんごの果肉も、外部との物理的境界を完全に失っているわけではない。しかし、言語において重要なことは、対象が客観的にどうなっているかではなくて、主観がそれをどう意識しているかであって、たとえ境界があったとしても、不明確かつ非固定的で、話者がそれを意識せずに、可算的に扱わなければ、不定冠詞を付けないのである。

対象が物理的境界を失わなくても、おびただしい数が集まって、境界があいまいな集合体になれば、不定冠詞が付かなくなる。例えば、髪の毛は、一本だけならば、“a hair”であるが、人の頭に生えている髪の毛は、数え切れないぐらい多数なので、俯瞰して集合体に言及する時には、複数形にすらせずに、“hair”と無冠詞単数形で表現する。

対象が具象性を失って抽象化される場合も境界が不明確になって、不定冠詞が付けられなくなる。例えば、「文法書」という境界がはっきりしたレアールな具体物には、“a grammar”というように不定冠詞が付くが、これが抽象化されて、「文法」というイデアールな思考対象になると、境界が不可視になると“grammar”というように冠詞が付かなくなる。

単数形の名詞に不定冠詞が付くためのもう一つの必要条件は、それが意味するシステムが、唯一性を持たず、同類のものが存在するか、もしくは存在しうるということである。例えば、恒星は、環境から境界によって差異化されている物理的なシステムであり、かつ、たくさん存在するので、その任意の一つは“a sun”と不定冠詞を付けて呼ばれる。しかし、太陽系の恒星という一つしか存在しないものを言うときには、“the sun”と定冠詞を付ける。

システムは、それがシステムであるためには、その複雑性を縮減して、自らを環境から差異化しなければならないが、同類のシステムが他にも存在するということは、不定冠詞付きの名詞の指示対象は、他のシステムでもありうるということであり、不定冠詞が増大させる《他の様でもありうる》複雑性を《他の様ではありえない》ように縮減するのが、定冠詞である。

2. 定冠詞

定冠詞は、不定冠詞が付く名詞のみならず、不定冠詞が付かない名詞にまで付きうる。しかし、このことは、境界が意識されない対象物の名詞に定冠詞が付くということではない。むしろ、新たに境界が意識されることで、定冠詞が付くと解釈されるべきだ。

抽象的な思考対象は、レアールな実在性がないがゆえに可視的な境界を持たず、したがって冠詞も付けられないが、他の抽象的な思考対象との対比で、イデアールな世界における境界線を持つようになると、冠詞が付けられるようになる。但し、それは不定冠詞ではなくて、定冠詞でなければならない。

レアールな具体物としての文法書は、この世にたくさん存在するから、ある一冊の文法書に対して、“a grammar”というように不定冠詞を付ける意義は十分にある。これに対して、「文法」という抽象的な思考対象は、イデアールな世界には一つしか存在しないので、「ある一つの」を意味する不定冠詞を付ける必要がなく、“grammar”というように無冠詞で表現される。ところが、

The grammar of German is more difficult than that of French.
ドイツ語文法はフランス語文法よりも難しい。

というような場合は、“grammar”に定冠詞が付く。ドイツ語文法もフランス語文法も、抽象名詞ではあるが、「文法といっても、フランス語の方ではなくてドイツ語文法の方」というように、抽象的な存在者が他者との比較で意識の地平に現われる時、両者の間の境界線が強く意識され、冠詞が付く。但し、それは不定冠詞ではない。《他の様でもありうる》複雑性を《他の様ではありえない》ように縮減するのだから、定冠詞でなければならない。これが、抽象名詞には不定冠詞は付かないが、定冠詞なら付く理由である。

物質名詞も不定冠詞は付かないが、他の種類との対比で、境界線が意識され、排他性を示さなければならなくなると、定冠詞が付く。例えば、普通は無冠詞の「すりりんご」も、以下のような場合には、定冠詞が付けられる。

I prefer the grated apple with maple syrup to that with lemon juice.
私は、レモン汁付きのすりりんごよりも、メープルシロップ付きのすりりんごの方が好きだ。

物質名詞といっても、物質の名称自体はレアールな物質ではなくて、イデアールな概念であり、同じ「りんご」という類に属していても、「レモン汁付きの」とか、「メープルシロップ付きの」といった種差によって種が差異化されると、イデアールな世界で境界線が引かれることになる。すりりんごは、“a spoonful of grated apple”というように、計量単位を用いて、いわば、レアールな世界に境界線を引いて、可算的に扱うことができるが、“grated apple”そのものに冠詞が付いていないことに注意されたい。レアールな世界に境界線を引くこととイデアールな世界に境界線を引くことは、同じ可算化といっても、扱いは異なる。

3. 冠詞の総称的用法

ある種に属する個体の一部ではなくて、全部を包括することを示す冠詞の用法は、総称的用法と呼ばれている。例えば、

A German is an industrious worker.
ドイツ人は勤勉である。

という文は、

Any German is an industrious worker.

と同じで、ドイツ人の集合におけるどの任意の個体を取り出しても、それに対して「勤勉な」という述語を帰属させることができることを意味している。ドイツ人の集合における全個体に言及した、より口語的な表現として、

Germans are industrious workers.

というような、無冠詞複数形を用いた表現がある。この場合、ゼロ冠詞が総称冠詞となっていると解釈できる。冠詞が付いていないので、境界線がはっきりしておらず、いくらか例外を許容する表現となっている。これに対して、

The Germans made war on the Poles in 1939.
ドイツ国民は、1939年にポーランド国民に戦争を仕掛けた。

というように、複数形の名詞に定冠詞を付けると、ドイツ人の集合がドイツ国民として一括され、さらに、ポーランド人の集合であるポーランド国民と対比され、その境界線が強く意識された表現となる。戦争は、一人の例外もなく、全国民を他の国民との交戦関係に置くので、その点でも、この場合は、無冠詞複数形よりも定冠詞付き複数形の方がふさわしいのである。

単数形の名詞に、定冠詞が総称冠詞として付くと、

The German is an industrious worker.

となるが、この場合、定冠詞は、レアールな世界に複数存在するドイツ人の集合にではなくて、イデアールな世界に一つだけ存在するドイツ人という概念に境界線を引く。単数形の名詞に、定冠詞を総称冠詞として付ける用法は、学問的記述などによく見られるが、それは、この表現が、種差によって差異化された種概念を表す表現であるからである。

4. 固有名詞と冠詞

一般に、名詞に冠詞を付けない場合は、冠詞を付けることが不可能であるか、冠詞を付けることが不必要であるかのどちらかである。境界をはっきり意識していない対象の名詞には、冠詞を付けることができない。だが、境界をはっきり意識している対象の名詞であっても、冠詞に相当する記号があるときは、冠詞を付ける必要がない。指示形容詞や代名詞の所有格などの決定詞は定冠詞の働きをするし、“one”や“some”などが不定冠詞の代わりになることがある。

固有名詞に冠詞を付けないのは、後者の理由による。固有名詞は、この世に一つしかない、境界のはっきりしたシステムに対する呼称であり、本来定冠詞が付くはずだが、わざわざ定冠詞を付けなくても、この世に一つしかないことが明白なので、付けない。固有名詞は大文字で書く習慣があるので、大文字で始まっていることが定冠詞の役割を果たしていると解釈することもできる。

但し、固有名詞である(ないし固有名詞を含んでいる)にもかかわらず、冠詞を付ける場合がある。例えば、アメリカ合衆国(the United States of America)のように、複数形の固有名詞には定冠詞が付く。複数形の場合、個々の構成部分の境界が意識される分、全体の境界があいまいになるので、定冠詞を付けることで集合体全体の境界を再設定しなければならないというわけだ。

もう一つの場合は、固有名詞が普通名詞を限定する時である。例えば、サハラ砂漠(the Sahara Desert)のような、固有名詞+普通名詞という形の名詞句の場合、砂漠(a desert)自体は世界に複数存在するが、サハラ砂漠は一つしかないので、定冠詞を付けることで、《他の様でありうる》不確定性が縮減される。メキシコ湾(the Gulf of Mexico)のように、ofで始まる形容詞句によって限定されるときも同じである。これに対して、富士山(Mt. Fuji)や琵琶湖(Lake Biwa)のように、普通名詞+固有名詞となっているときには、固有名詞の方が名詞句のコアとみなされ、冠詞は付けられない。

固有名詞が普通名詞を限定する名詞句で、定冠詞を付ける呼称とそうでない呼称と二種類持つものもある。例えば、ロンドン大学には、“the University of London”という定冠詞の付く公式名称と“London University”という無冠詞の通称の二種類がある。後者においては、前者とは異なり、固有名詞が普通名詞を限定する名詞句というよりも、名詞句全体が一つの固有名詞として意識され、したがって、無冠詞となる。両者には、東京都民がよそよそしく使う「京都大学」という呼称と、京都市民が親しみを込めて使う「京大」という呼称との間にある相違と似たような相違がある。

このように、固有名詞+普通名詞という形の名詞句には定冠詞を付けるのが原則ではあるが、それが慣れ親しんだものであれば、全体を固有名詞として扱って、冠詞を付けない傾向がある。靖国神社(the Yasukuni Shrine)も、マス・メディアにたびたび登場して、英米人にとってなじみが深くなると、冠詞が付けられなくなる。公園、広場、駅、港、橋、街路、学校、教会などの名称も、固有名詞+普通名詞という形の名詞句であっても、無冠詞になるが、それは、ローカル・コミュニティのメンバーにとって、自分たちの身近に存在するこれらの公共物に定冠詞を付けることは、いかにもよそよそしい感じがするからだろう。

5. 冠詞の生成過程

生成文法の主流である決定詞句仮説(DP hypothesis)によると、冠詞は名詞に付けられる付属物ではなくて、むしろ名詞の方が冠詞を含めた決定詞の付属物で、したがって、名詞句は決定詞句と呼ばれべきであるとのことである。しかし、個体発生的にも、系統発生的にも、冠詞は名詞よりも後発的な派生物であるから、構造論的にはともかく、発生論的には、こうした主張は受け入れがたい。

子供が英語を母語として習得するプロセスを観察した研究[1]によると、子供は、最初、名詞や動詞といった内容語を覚え、一単語だけ発するが、二歳ごろになると、それらを組み合わせて、文を作るようになる。しかし、その場合、冠詞は常に省略されており、冠詞を使い始めるようになるのは、二歳半(生後30ヶ月)以降である。

家庭内という狭い世界で育てられている子供が、冠詞を使わないというのは、理論的に考えても納得がいく。幼少期の子供が頻繁に使う言葉は、「ママ」や「パパ」であるが、英語では、幼少期の慣例を受け継いで、家庭内のコミュニケーションで使う“Mother/Mom”や“Father/Dad”は、無冠詞で用いられる。もちろん、世界には、母親はたくさんいるが、幼少期子供は、「他の母親ではなくて、自分を産んでくれた方の母親」といったことは考えないし、だからこそ、ゼロ冠詞の付いた「ママ」ではなくて、冠詞の付いていない「ママ」を口にするのである。

他の家庭の子供と遊ぶような年齢になると、子供たちも、彼らの親と自分の親を区別するために、“my mother”や“my father”というように、決定詞を付けるようになる。そして、不特定の母親や父親を指す言葉、“a mother”や“a father”の使い方を覚えるようになる。このように、当初無冠詞で名詞を口にしていた子供たちも、意識の地平が広がるにつれて、どの特定の対象を指し示しているのかを明示するために、定冠詞を使うようになり、さらに、不特定であることを明示するために、不定冠詞を使うようになる。

系統発生的にも、英語やその他ヨーロッパ言語の起源であるインド・ヨーロッパ祖語(Proto-Indo-European language)には、もともと冠詞はなかったと推定されている。インド・ヨーロッパ語族のうち、ラテン語、サンスクリット語、ペルシア語、スラブ語派、バルト語派には定冠詞も不定冠詞もない。古代ギリシャ語も、ホメーロス期には、定冠詞も不定冠詞も持たなかったが、古典期には定冠詞が使われるようになった。ヘブライ語やアラビア語など近隣の言語も定冠詞を採用した。不定冠詞の使用は、定冠詞よりも遅く、定冠詞と不定冠詞の両方を使う言語システムは、中世以降の西ヨーロッパにおいて誕生した。

英語に関して成立プロセスを詳しく述べると、1100年以前の古英語期では、定冠詞は指示語(指示代名詞や指示形容詞)と、不定冠詞は数詞と形態上の区別を持たなかった。定冠詞と指示語が、異なる形態により区別されるようになるのは、1100年以降の中英語期である。中英語期になって、名詞の屈折変化が単純化され、それに伴って、形容詞の屈折も単純化されたが、決定詞の単純化はそれよりやや遅れた。定冠詞が、現在の“the”の原型である“þe”に統一されたのは、1300年以降の後期中英語期においてである。この頃になると、単数の指示語も、現在の“this/that”の原型である“þis/þat”に統一されている。

不定決定詞の方は、11世紀後半ごろから屈折の単純化が始まり、13世紀には、母音の前では“an/on”、子音の前では“a/o”に統一された。さらに、13世紀の末から14世紀にかけて、“an”が強勢を失い、不定冠詞として使われるようになり、他方で、「一つ」を意味する数詞は、[w]の音価を持つ“one”となって、分離独立した。現代的な英語の冠詞の用法は、『カンタベリー物語』を書いた14世紀のジェフリー・チョーサーの時代に確立した。

英語と同じ西ゲルマン語群に属するドイツ語では、8-9世紀頃、名詞が格と性を示す機能を失うにつれて、指示代名詞と数詞がそれを補助的に示すべく、使われるようになり、後にそれらが定冠詞と不定冠詞となった。英語とは異なり、ドイツ語では、今でも名詞に格変化と性による区別があり、冠詞はそれを示すためにも使われる。例えば、

Er zieht Kaffee dem Tee vor.
彼はお茶よりもコーヒーの方が好きだ。

というドイツ語の文においては、「コーヒー」の方が無冠詞であることからもわかるように、“dem”という定冠詞は、たんに“Tee”が三格であることを示すためだけに使われている。

フランス語は、ドイツ語とは異なって、名詞の格変化はないが、性による区別はある。フランス語においては、名詞の性を明示することが、冠詞の重要な機能となっている。英語ならゼロ冠詞を付ける単数形の不可算名詞や複数形の可算名詞に、“de+定冠詞”が付けられるが、これは、そうしないと、名詞の性が明示されないからである。

6. 不定冠詞誕生と近代化の関係

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ヨーロッパ周辺の冠詞の分布[2]。それぞれの色の地域は、前置不定冠詞と前置定冠詞、前置定冠詞のみ、前置不定冠詞と後置定冠詞、後置定冠詞のみ、冠詞なしの地域。

英語の冠詞は別だが、ヨーロッパ大陸の諸言語における冠詞は、屈折変化をやめた名詞に代わって、名詞の格や性を迂言的に表示する必要性から誕生したという側面があることは、否定できない。しかし、もしもそれだけのために冠詞があるのなら、冠詞の種類は一つでよいはずである。近代西ヨーロッパ言語の大きな特徴である不定冠詞の誕生には、別の理由があるはずだ。なぜ、西ヨーロッパの言語には、ゼロ冠詞と定冠詞と不定冠詞の三種類があるのか、この問題に対する説明には、定説と呼べるものはない。

ここから先は全くの仮説だが、私は、この三者を、三位一体における、父、子、聖霊に対応付けることができるのではないかと考えている。ヨーロッパの言語では、父たる神“God”は、常に無冠詞である。もしも“a god”や“the god”といった表現を認めるならば、それは多神教を肯定し、一神教であるキリスト教を否定することになる。だから、こうした表現は、異教徒の神にしか使わない。キリスト教においては、神はすべてであり、境界を持たない以上、神は無冠詞でなければならない。これに対して、神の子であるイエスは、神が受肉して地上に現われた。イエスは、境界を持った特殊な具体的存在であり、“the Son of God”と定冠詞を付けて呼ぶことができる。イエスが処刑され、その特殊性が抹殺されたことで、聖霊が個々の信者に降臨した。聖霊(Holy Spirit)は、それ自体は抽象名詞なので、不定冠詞が付くことはないが、聖霊が降臨する個々の信者には、不定冠詞を付けることができる。中世ヨーロッパにおいて、三位一体の教説に基づく存在論が普及するにつれて、存在者をゼロ冠詞、定冠詞、不定冠詞付きの名詞へと分類する言語習慣が広まったのではないだろうか。

381年にキリスト教会で定められた三位一体の信仰告白、ニカイア・コンスタンティノポリス信条において、三つの位格は、父、子、聖霊の順に登場するが、三者をゼロ冠詞、定冠詞、不定冠詞に対応させると、歴史に登場した順番となる。但し、聖霊の解釈は、東方教会と西方教会では異なっている。西方教会は、ニカイア・コンスタンティノポリス信条の聖霊に関するギリシャ語の記述で、「父から発出する」(έκ τού Πατρός έκπορευόμενον)とあるところを「父と子から発出する」(ex Patre Filioque)とラテン語に訳し、「子とともに」を付け加えるか否かで、東方教会と対立した。これが後に東西教会分裂の原因となった。

東方教会の解釈では、神と信者が無媒介に結ばれるため、神と信者の関係がイスラム教のそれに近くなる。信者が特殊性を媒介とした個別性を持たない文化では、不定冠詞と個人主義が発達しない。これに対して、西方教会の解釈では、神という普遍が、イエスという特殊を媒介として、個物である信者と結び付く。このため、西ヨーロッパでは、東ヨーロッパやアラビア語圏とは異なり、不定冠詞と個人主義が発達した。そして、近代の担い手となったのも、西ヨーロッパだった。そして、システムを分析する科学も、ゼロ冠詞と定冠詞と不定冠詞を区別する言語の文化圏から生まれてきたのであった。

7. 参照情報

  1. Roger W. et al. (edit by Cofer & Musgrave) BROWN (Author). Verbal Behavior and Learning: Problems and Processes. McGraw-Hill Series in Psychology. McGraw-Hill; First Edition edition (1963). p. 158-197.
  2. “Articles in various European languages” by Daniel Nikolić. Licensed under CC-BY-SA.