投機家は有害か
インカムゲインよりもキャピタルゲインを得ようとする投資行為のことを投機という。多くの人は、投機家は危険な存在だと考えているし、政治家は、経済危機が起きると、投機家をスケープゴートにして責任転嫁をし、市場を規制しようとする。はたして、市場が不安定なのは、投機家のせいなのか。

1. 市場は投機家のおかげで安定する
市場が不安定になればなるほど、投機家にとって儲けるチャンスなのだが、だからと言って、投機家がいるから市場が不安定になるとは言えない。市場原理が機能している限り、どの投機家も単独では市場を意のままに操ることはできない。
投機家にできることは、将来を予測することだけである。彼らは、ある資本が割安の時に将来の値上がりを予測して買い、予測が当たれば売る。割高の時には将来の値下がりを予測して空売りして、予想が当たれば買い戻す。割高な時に買い、割安な時に売り続ける投機家が現れても、その投機家の資金はたちまち底をつくので、市場から淘汰される。このことは、投機家が儲けている限り、割安になりすぎたり、割高になりすぎたりしない、つまり市場は安定するということである。
2. 美人コンテストの原理は市場を不安定にするか
この常識批判に対して、美人コンテストのパラドックスを指摘して異論を唱える人もいる。ここで言う美人コンテストとは、新聞紙上に掲載された女性の写真から読者に投票で美人を選ばせ、最も多くの得票を集めた美人に投票した読者に賞金を出すというコンテストである。読者は賞金を稼ぐために、「誰が美人か」ではなくて、「他の読者は誰を美人と考えるか」さらには「他の読者は、私を含めたその他の読者が誰を美人と考えるか」… を考える。この予想の無限後退により、予想ゲームは不確定になり、多くの読者は自分が美人だと思う女性には投票しなくなると言うわけである。
確かに、もし多くの投機家が、美人コンテストのパラドックスにより、自分が割高(割安)だと思う商品を買い(売り)続けるならば、市場は不安定になる。しかし私は次の二点を指摘してこの常識批判に対する批判を批判したい。
まず、予想の無限後退は、予想値を発散させない。
変動の予想
変動の予想の予想
変動の予想の予想の予想 …
というように、予想が多重的になればなるほど、その予想の不確定性が増大し、市場に与える影響は小さくなる。
第二に、予想の予想は、美人コンテスト流の予想によって生じる市場価格のファンダメンタルズからの乖離を増幅せず、むしろ是正する。資本市場参加者が自分では割高(割安)だと感じながらも、多くの他の市場参加者は割高(割安)だとは感じないだろうと予想して買い(売り)続ける結果、バブル(恐慌)が発生することはよくある。しかし、すべての市場参加者が、多くの参加者は自分では割高(割安)だと感じながらも、他の市場参加者は割高(割安)だとは感じないだろうと予想して買い(売り)続けることを予想するとき、逆に売り(買い)に転じる。その結果バリュエーションの不均衡は訂正される。
3. 投機家への責任転嫁の危険性
このように、投機家は、自己の利益を追求しているにもかかわらず、結果として市場に安定をもたらす。かつてヒトラーが国際ユダヤ金融を標的にして行ったように、現代の民族主義者は、ジョージ・ソロスをはじめとする投機家をグローバル市場経済の手先としてスケープゴートにし、国内の大衆の支持を得ようとするが、私たちは、経済危機の真の原因を取り違えないようにしなければならない。
ディスカッション
コメント一覧
永井様、初めまして。結論部には同意しますが、展開が少し甘いような気がします。
恐慌の発生が説明されないからです。
今、『経済物理学(エコノフィジックス)の発見』 (光文社新書 167) / 高安秀樹著を読んでいますが、投機家の存在意義と恐慌の発生について、ディーラーモデルに基づいて、ある程度納得できる説明があります。
NHKは、2005年1月30日に放送した「原油高騰 世界市場で何が起きているのか」という番組で、ヘッジファンドの投機マネーが原油価格高騰の一因だという見解を示していましたが、こうした今もはびこる投機マネー悪玉論を批判することが目的で、ここで本格的な経済学的分析をする意図はありません。
バブルの発生とその崩壊によって起きる恐慌は、投機家がいてもいなくてもおきます。バブルや恐慌の発生を阻止する、もしくは和らげるには、マネーサプライのコントロールが必要だと私は考えるのですが、それは別稿に譲るので、その際、またコメントをお願いします。
市場価格の運動は、それを上げる圧力と、下げる圧力の二つの力による運動方程式を想定し、その収束、安定、振動、迷走、発散として、包括的にとらえる事が出来るとおもいました。投機家の活動は、安定化の条件であり、高騰の要因でもあるうる。また、投機家のみが高騰の要因ではない事も意味している。突然、何らかの圧力が消えた時、市場価格の急落が発生する。そう理解してよいでしょうか?
投機家は、通常、短期的には順張りでも、長期的には逆張りですから、長期的に見れば、安定要因だと思います。いずれにしても、投機家には、長期にわたって、ファンダメンタルズからかけ離れた動きを維持する力はありません。
(1)の中の永井さまの一文
「投機家が儲けている限り」(割安になりすぎたり、割高になりすぎたりしない、つまり市場は安定するということである)
は、誤解を招きやすいので、訂正か註を入れるべきではないでしょうか。
以下、永井さまもご存じの事とは思いますが、確認のために書きます。
永井さまのこの論文は、NHKの原油高騰の番組(私も見ていました)への論評が主眼ということで、先物取引を例に取ります。
先物取引は、そもそも将来の価格の変動リスクをヘッジするために、安定した安値で先に買いつけておくという 「当該業者の物資調業務での切実な必要性」 から発生したものです。そこに投機家が参入して「投機で儲ける人と損する人」が出るわけですが、全員儲かるならば、市場は成り立ちません。
もっと言うならば、「儲けようとして投機的にお金を突っ込んだけれど結果的に損してくれた人」こそが、その損失分でもって、業者がずっと以前に先物として買いつけていた安値と、現在値上がりした時価との差額分のリスクを 「身代わりになって」 ヘッジしてくれているのだ、と見ることができます。
プロの先物トレーダーによれば、「1割の人が儲けて、残りの9割の人は損をする」世界だということですが、この9割の人が大損をして市場から退却したならば、市場は成り立ちません。
そこで、たとえ9割いるかもしれない負け組も、「負け組固定ではなく、彼らも勝つことはあるのだ。勝ったり負けたりを繰り返すから、市場参加し続けられるのだ」 と考える人がいます。
永井さまもそうでしょうか?
短期的にはそういうこともあるでしょうが、長期的には違うようです。
世の賭け事では元締めが長期的には必ず勝つという「大数の法則」があります。パチンコもそうですが、一時的にパチンコで勝っても、その資金上昇曲線は短期的であり、長期的には損が積み重なって行く右肩下がりの下降曲線を描くのは必至なので、一時的に勝つ喜びは間歇的に何度も味わうことはできても、長期的にみれば、結局は「やり続ければやり続けるほど損が増大して、その果てには破産が待っている」という方向性になります。
だからこそ、パチンコでも競馬でも、元締めが儲かるわけです。
先物においては、元締めがいないわけですが、元締めに該当するような一部の少数の勝ち組(ヘッジファンドなど)がいて、残りは負け組になります。
では、負け組は、なぜ、「大数の法則」のように、長期的には損失が増大するのに、このゲームから撤退しないのか? そのお金はどこから来るのか?
結局、「負け組」否、こう言うと「負け固定」の表現となり反発されそうなので言葉を替え、「長期的損失増大組」は、(永井さまが書いたような)投機ゲームで儲けたお金があるから市場から撤退しないのではなく、負けても負けても、「いつかは儲かる、今度は儲かる」 という欲望に動かされて、他で調達して来たお金(普通は、地道な労働などで手に入れた資金) を こうした投機ゲームに突っ込んでくるわけです。こうした「勝ち組に憧れて投機目的で市場に参入してくれる負け組さんたち」こそが、先物における価格変動リスクを一身に背負って、市場の安定に貢献してくれている張本人だと言えましょう。
従って、ちょっと悲壮な表現になりますが
永井さまの「投機家が儲けている限り」という部分は、「投機家たちが負けても負けても資金を他から調達して、懲りずに市場で投機行為を繰り返す限り」(市場は安定する)
と表現しなおすのが宜しいかと思いますが、如何でしょうか?
私が言いたいことは、全員が賢明な投資家・投機家ばかりならば、こうした市場は成り立たないということです。賢明でない方々の愚行とも蛮行とも思える投機行為のおかげで(売買が成立し)、賢明な投機家は「勝ち組」になることができるということです。
パチンコや競馬は生産活動ではありませんから、平均的に損をするのは当たり前です。客は、損失が娯楽に対する対価と考えているから、利益が上がらなくても賭けという消費活動を続けます。
これに対して、投資と投機は、生産活動であり、平均的に利益が上がらなければ意味がありません。先物市場でも、様々な金融テクノロジーを組み合わせれば、相場が上がろうが下がろうが、儲かるものなのです。保険が、客に安心を売ることで原理的に黒字となりうるビジネスであるように、ヘッジファンドも、客のためにリスクヘッジしてやることで原理的に黒字となりうるビジネスです。
もちろん、中には、先物市場でたんなるギャンブルとしか思えないような投機をやって身を滅ぼす人もいるでしょうが、それは、間違った経営で破産する保険会社が存在するのと同じことで、投機の生産活動としての性格を否定するものではありません。
商品先物取引をしている者です。アカデミックなことはさて置き、実務的なことを言えば、商品先物に関して言えば、先物が主導して上げる相場は、そう長続きすることはありません。直ぐに、裁定が働くからです。少し前の暴騰相場が現物市場も暴騰していたので、投機家だけで上げのでなないと見るのが普通で、私は寧ろ投機家に隠れた産油国の横暴だと思っています。事実、100ドル割った時点で生産調整の動きがありました。
賭博、投機、投資。経済に影響する役割で表現は使い分けられていますが、現実の経済という戦争の中では「経済学的な定義は机上の空論」と考える者です。
永井氏の「パチンコや競馬は生産活動ではありませんから・・・」、この部分は訂正が必要です。賭博的に見えても刑法第185条の話題すら上がりませんから、立派な娯楽産業です。パチンコ・パチスロはホールと駐車場という不動産と釘やロムによる確率調整という技術を必要とします。3年ほど前までは日本最大の娯楽産業、30兆円が費やされていてどうしてこれが経済活動といえないのでしょうか。競馬はJRA主催の国家公認娯楽。もちろん競輪や競艇なども「娯楽産業」です。馬・自転車・船及びその操縦技術競争を経済活動として否定できません。庶民にストレス発散の場を与えるという点ではプロスポーツと同列のサービス産業、経済活動です。
大阪商業大学長の谷岡一郎先生はギャンブル学の権威で多くの平易な書物を著しています。中でも『ビジネスに生かすギャンブルの法則』は投機と投資のちがいを説明してくれます。大空照明さんが指摘するように統計・確率にもとづいた「大数の法則」は生活経済でも基本です。投機の機会は「変化」、これは政治的・経済的・軍事的・文化的・芸術的・学問的・・・どのような変化でも「投機」の機会を与えてくれますし、科学技術と投機が相乗効果を示せば「投資」対象に成長していくと思われます。この部分は一時話題のシュンペーター理論に近いと思われます。
一方、ギャンブル的要素の強い「投機」の中でも日本で話題になったアントレプレナー(企業)については『企業バカ』『企業バカ2やってみたら地獄だった』(ともに渡辺仁 光文社ペーパーバックス)に表現される詐欺、裏切りという理性よりも感情論。「石の上にも3年(創業期3年間は飲まず食わず)」、あこぎな金融機関、フランチャイ店舗の“国替え”(売り上げを目だって伸ばすと別の店に配属される、ロイヤリティや経営選択に関する縛りの問題等)、そして最も恐ろしい官による業界に対する新規参入規制、ニッチ産業つぶしの既得権益大企業の策略・・・。アントレプレナーとは孤独な戦士です。
「投機家は有害か」このテーマには「否」と答えますが、賭博で勝てない、つまりルールと統計・確率を理解せず無謀な賭けを繰り返す者は投機家には明らかに不適格です。現在の先進資本主義諸国では、個人情報をはじめとする社会全体の情報を把握する「官」と金銭の動きを把握する「金融機関」は確率的に負けリスクが低い業界といえると思います。最も「投資」ができる方々です。
「国民総背番号制(個人情報のデジタル化)」「電子株式」「電子国債」「電子カルテ」・・・デジタル化で情報は流出し、「官」「金融」「医療」が劣化しています。アメリカの電子技術の普及で、すでに第3次経済世界大戦に突入したのかもしれません。GPS、次世代携帯、地上デジタル放送・・・まだまだ続く個人情報の丸裸化。
パチンコや競馬が生産活動ではないというのは、客についての話であって、業者についての話ではありません。娯楽産業は、当に娯楽を提供しているのですから、提供を受けている客からすれば、それは消費であって生産ではありません。これに対して、投資は、投資される側はもちろんのこと、投資している側も、消費ではなくて、生産に従事しています。
「予想の無限後退は、予想値を発散させない」
とありますが、その後の式の「rのn乗」を導くことができず、理解できません。
これはどのような考え方から導くことができますか?
また、本ページのコメント欄に、「先物市場でも、様々な金融テクノロジーを組み合わせれば、相場が上がろうが下がろうが、儲かるものなのです」とありますが、これは経験則に限らず、理論上も言えることなのでしょうか?