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ハイチはなぜ貧しくなったのか

2007年3月18日

ハイチは、かつて西半球で最も豊かな植民地だったが、現在では西半球で最も貧しい国になっている。世界で最初に独立した黒人共和国という輝かしい歴史を持つハイチ共和国が、なぜこんなに貧しくなったのか。隣のドミニカ共和国では森林資源が豊富にあるのに、なぜハイチでは森林資源が枯渇しているのか。その原因を独立の精神に求められる。[1]

Photo by Heather Suggitt on Unsplash
ハイチ共和国の首都、ポルトープランス(Port-au-Prince)の貧民街。[2]

1. 森林破壊が進むハイチ

ハイチ共和国は、西インド諸島の一つであるイスパニョーラ島の西側に位置する国である(以下の地図の赤い部分)。

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ハイチ共和国の位置[3]

ハイチでは、現在、森林破壊が進んでいる。人口が急増し、森林資源が枯渇し、土壌流出により大地が不毛となり、人々は貧困に喘いでいるのだ。ハイチの砂漠化しているのは、自然的原因よりも人為的原因に負うところが大きい。その証拠に、同じイスパニョーラ島でも、東側のドミニカ共和国は砂漠化していないからである。『文明崩壊』の著者、ジャレド・ダイアモンドは、ハイチ共和国とドミニカ共和国の対照的な差を次のように描写している。

上空高く飛ぶ飛行機からは、国境は、島をナイフで恣意的に切ってできた、くっきりした折線のように見える。その国境は、より暗くて緑の東側(ドミニカ側)の風景と、より明るくて茶色の西側(ハイチ側)の風景をぶっきらぼうに分割している。地上では、多くの場所で国境線上に立つことができる。東の方を向くと松の森を見通せるが、振り返って西の方を向くと、ほとんど木のない野原しか見えない。[4]

以下の写真は、NASAが撮影したハイチ共和国とドミニカ共和国の国境付近を撮影した衛星画像である。森林破壊が進むハイチ共和国とそうではないドミニカ共和国とが対照的であることを確認できる。

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ハイチ共和国(左)とドミニカ共和国(右)の国境付近を撮影した衛星画像[5]

もともとハイチは、ドミニカよりも経済的に豊かだったが、今では両者の貧富の関係は逆転している。ドミニカの一人当たりのGDPが、6000ドルなのに対して、ハイチは1600ドルしかない。ハイチは、2007年現在、貧しさでは世界で第二位の国だと言われている。ハイチの悲劇はなぜ起きたのか。そのことを探るために、ハイチの歴史を振り返ろう。

2. ハイチの独立時の問題点

1492年にクリストファー・コロンブスが「発見」した最初の「新大陸」は、イスパニョーラ島だった。そこで金鉱山が発見されたために、スペイン人は、原住民を、原住民が激減した後には、アフリカから輸入した黒人を奴隷として使って、金鉱山の開発をした。しかし、メキシコや南米にもっと豊かな金や銀の鉱山があると知ったスペイン人たちは、イスパニョーラ島への関心を失ってしまった。

1588年のアルマダの海戦以降、スペインは没落し、代わって台頭したイギリス、オランダ、フランスが新大陸に触手を伸ばすようになった。フランスのルイ14世は、スペイン人がまだ手を付けていなかったイスパニョーラ島の西部にフランスの拠点を作り、1697年のライスワイク条約で、スペインに島の西側3分の1をフランス領として認めさせた。フランス人は、この植民地をサン・ドマング (Sant-Domingue) と呼び、アフリカから輸入した大量の黒人奴隷を酷使して、サトウキビやコーヒーを栽培するプランテーションを作った。

1780年代には、サン・ドマングは、ヨーロッパで消費される砂糖の40パーセント、コーヒーの60パーセントを生産する優良植民地になり、「アンチル列島の真珠」ともてはやされた。この四国と九州の中間程度の面積しかない植民地が作り出す砂糖とコーヒーの産出量が、イギリスとスペインの西インド植民地の合計産出量を上回っていたというのであるから、過酷な奴隷労働を前提としていたとはいえ、生産性はきわめて高かったと言える。

1789年にフランス革命が起きると、その影響はサン・ドマングにまで及び、黒人とムラート(黒人と白人の混血)は、平等な市民権を主張して、革命を起こした。トゥーサン・ルーヴェルチュールが率いるハイチ人反乱軍は、サン・ドマング全土を掌握したが、ナポレオンが本国から派遣した軍によって1802年に反乱は鎮圧され、ルーヴェルチュールは逮捕されて、獄死した。

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ハイチ革命を描いた1839年の絵画[6]

しかし、反乱軍は、ルーヴェルチュールの部下だったジャン・ジャック・デザリーヌを新たな指導者として再蜂起し、1803年にフランス軍をサン・ドマング領内から駆逐した。イギリスとの戦争で余裕のなかったナポレオンは、北米大陸の植民地、ルイジアナをアメリカ合衆国に売ったついでに、サン・ドマングをも見放した。デザリーヌは、1804年に独立宣言をし、国名を先住民であるタイノ人がつけた名であったハイチに変更した。さらに、ナポレオンに倣って皇帝として即位した。

権力を掌握した元奴隷たちは、白人を大量に殺した。以下の図は、革命軍によるフランス人将校の処刑を描いたものである。

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トゥーサン・ルーヴェルチュールの崇拝者を自認する英国軍人、マーカス・レインズフォードが1805年に出版した著書 An Historical Account of the Black Empire of Hayti に掲載されたイラスト「フランス人が行った残酷な行為に対して黒人軍が行った復讐」[7]

生き残った白人は、国外に逃げた。これにより、ハイチは、プランテーションの技術者を含む人的資源を失った。

デザリーヌは、皇帝になったものの、北部のアンリ・クリストフと南部のアレクサンドル・ペションらの勢力に圧迫され、1806年に暗殺された。南部の事実上の支配者ペションは、フランス人が作ったプランテーションを解体し、それを小さな自営農場に分割して、独立闘争の兵士たち与えた。これにより、ハイチは、輸出競争力のある商品作物の生産能力を失った。

ハイチ革命は、毛沢東による大躍進やポルポトによるクメール・ルージュの革命(最近の事例だと、白人大農場を強制収用してハイパーインフレを惹き起こしたジンバブエのムガベ大統領による黒人優遇策)に似ている。支配者階級や知識人を殺害ないし追放し、自給自足的な農業により共同体を自立させようとする試みが、飢餓しかもたらさないということは過去の実例を見れば明らかだ。リカードの古典的な分業論を援用するまでもなく、それぞれの経済主体が比較優位のある産業に特化した方が全体の生産性が向上するし、富者のみならず、貧者までもが利益を得られる。

ハイチの奴隷たちは、自分たちを酷使した主人たちを殺害ないし追放し、奴隷制の忌まわしい思い出であるプランテーションを破壊し、プリミティブな自家消費的農業を始めた。道路が消滅し、都市が農村から孤立した。生産効率が低いため、彼らは森林を伐採し、農地を拡大したが、森林伐採は土壌流出をもたらし、土地を不毛にし、生産性を下げた。農民は、生産性の低さを農地の拡大で補おうと、さらに森林伐採を続けた。この悪循環により、ハイチの土地はどんどん貧しくなっていった。

デザリーヌ死亡後、分裂したハイチを統一したのは、ペションの後継者であるジャン・ピエール・ボワイエであった。ハイチの独立は国際的な承認が得られていなかったので、国際的な承認を得るべく、ボワイエは、1825年に、フランスから接収した財産の補償をすることと引き換えに、独立の承認を得る条約をフランスと結んだ。賠償金の額は膨大で、すべて支払うのに100年かかった。この借金がハイチの経済を苦しめたことは確かだが、これだけがハイチ貧困化の原因ではなかった。実際、補償が終わった後、逆に先進国から支援を受けたのにもかかわらず、ハイチの経済は一向によくならなかった。もしも、賠償の対象となったフランス人の資産を破壊せずに、有効に活用していたならば、今頃、西半球一の最貧国にならずにすんだにちがいない。

3. 独立後のハイチ

第一次世界大戦が始まると、ドイツがハイチを占領・植民地化しようと試みるようになり、これを警戒したアメリカ合衆国は、海兵隊を上陸させ、ハイチを占領し、1934年までハイチを支配した。この間、米国によってインフラの整備が行われ、数人のムラートの大統領が共和制のもとで交代したが、黒人たちは、ムラートとの間に広がる貧富の格差に不満を持つようになり、1946年に、黒人のデュマルセ・エスティメがクーデターを起こして、大統領となった。エスティメは、ムラート富裕層をターゲットにした所得税を導入し、外国人の土地所有を禁止し、農協の結成を奨励するなど黒人貧困層のための政策を実施したが、1950年に憲法を改正して再選を図ろうとしたため、失脚した。

その後、ムラート層による巻き返しが行われたが、1957年の総選挙で、エスティメの後継者を称するフランソア・デュバリエが大統領に就任した。デュバリエは、権力を握ると独裁者となり、言論統制のもと秘密警察を使って反対派を逮捕・拷問・殺害する軍事独裁体制を親子二代にわたって実施した。

フランソア・デュバリエは、1962年のキューバ危機を利用し、ハイチを共産主義化させない見返りとして、アメリカ合衆国に多額の経済援助を与えたが、その金はデュバリエ一族とその部下にばらまかれた。国営企業は私物化され、汚職が蔓延し、ついには国家財政が破綻して、1986年にはクーデターが起き、フランソア・デュバリエが死んだ1971年以降、後継者として権力の座にあった息子ジャン・クロード・デュバリエは追放され、30年近くに及ぶ最悪の暗黒時代に終止符が打たれた。

1987年に新憲法が制定され、民主的選挙によって、黒人貧困層に人気があったアリスティドが選ばれ、1991年に大統領に就任したが、すぐに、軍事クーデターにより、亡命を余儀なくされた。これに対して、クリントン政権は、武力介入を辞さない強硬な態度で軍事政権に民主化を要求し、結局、アリスティドは1994年に大統領に復帰することとなった。これで、アリスティドは、アメリカ合衆国に借りができてしまったわけで、関税の撤廃や国営企業の民営化といったアリスティドの社会民主主義的な理想に反するアメリカ合衆国の要求までのまなければならないようになった。

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大統領執務室でビル・クリントン大統領(手前左)と会談するハイチ共和国のジャン・ベルトラン・アリスティド大統領(手前右)[8]

アリスティドは、世界銀行や国際通貨基金が提案した輸出志向的な自由市場経済の導入に同意したが、帰国後、彼の支持基盤である貧困層が新経済政策に反対していることに気が付いたアリスティドは、1995年にこれを撤回してしまった。長年ハイチで取材活動に従事しているフォト・ジャーナリストの佐藤文則は、アリスティドを弁護して次のように言っている。

これまでにも米国から安い米や豆や粉が輸入され、すでに農民を脅かしていた。関税撤廃で、さらに安い米国の食料品が出回れば、農民の生活は破綻してしまう。その結果、農民は農業をあきらめ都会に移住し、見捨てられた農地は中・大地主に吸収される。結局、地主クラスと貿易を独占する資本家が儲かる社会構造は何も変わらない。

ハイチの国営企業が扱う業種は、セメント、製粉、電気、電話、中央銀行、港湾、飛行場などである。国営企業は長年にわたり汚職の場となり、独裁者たちの懐を潤してきた。停電は毎日起こり、修理を頼んでも職員はやってこない。電話の接続は、運が良くても五年はかかる。コネがあれば翌日にでも接続されるという矛盾をはらんだ話だが。

ならば、民間の方が運営も合理的で税金の徴収も可能、とはいちがいには言えない。実際、クーデター前の九一年、アリスティド政権は国営企業の合理化と反汚職キャンペーンを実施して、初めて利益を生み出した。だから民営化反対派は、特権階級に国営企業を払い下げてみすみす独占されるより、改革によって利益を上げ、それを遅れている教育や公衆衛生に投下すべきと主張する。[9]

関税を撤廃し、米国から安い米や豆や粉が輸入されれば、消費者はそのメリットを享受できる。国内の農家がそれに対抗できないなら、そうした米や豆など、競争力のない作物の栽培を断念し、砂糖やコーヒーなど、競争力のある作物の栽培に特化すればよい。

引用文章の二段落目には、発展途上国の開発独裁国家によく見られる腐敗と縁故主義が指摘されている。国営企業の民営化や経済の自由化は、こうした弊害を解消するために導入されるのである。佐藤氏は、民営化も自由化も独占を帰結させるというが、国家権力が民間企業と癒着しない限り(つまり再国営化が行われない限り)、市場が独占されることはない。

佐藤氏は、国営企業も合理化すれば利益を生み出すというが、市場を独占している企業が利益を生み出すのは当たり前であり、また、その利益なるものが消費者の犠牲の上に成り立っていることを考えるならば、それを教育や公衆衛生に還元したとしても、公益にかなっているとは言いがたい。市場経済の導入により、消費者の利便性を高め、企業の収益性を改善し、それによって税収を増やして、インフラ整備を進めるというのがもっとも理想的である。

グローバル市場経済は環境破壊と労働者の搾取をもたらすという考えは、左翼系知識人の間に今なお根強くある。だが、ハイチの例を見てもわかるように、グローバル経済を拒絶すると、貧困と環境破壊が悪化する。ハイチの人々は、自給自足という完全な自立性を求めたが、その結果は、他国の援助なくしては生活が成り立たないという完全な非自立性であった。ハイチが最貧国から抜け出すために必要なことは、グローバルな市場経済を受け入れることである。

4. 参照情報

関連著作
注釈一覧
  1. 本稿は、2007年03月18日に『連山』で公開した「ハイチ共和国」に若干の修正と加筆を加えて、2021年7月13日に再公開したものである。
  2. Heather Suggitt. “Houses built on the mountains just outside of Port-au-Prince." Licensed under CC-0. Port-au-Prince, Haiti. Published on October 27, 2020.
  3. Rei-artur. “Haiti." Licensed under CC-BY-SA. 26 December 2006, 11:05 (UTC).
  4. “From an airplane flying high overhead, the border looks like a sharp line with bends, cut arbitarily across the island by a knife, and abruptly dividing a darker and greener landscape east of the line (the Dominican side) from a paler and browner landscape west of the line ( the Haitian side). On the ground, one can stand on the border at many places, face east, and look into pine forest, then turn around, face west, and see nothing except fields almost devoid of trees. " Jared Diamond. Collapse: How Societies Choose to Fail or Succeed. Penguin Books; Revised edition (January 4, 2011). p. 329.
  5. . “Satellite image showing deforestation in Haiti, Haiti-Centre. This image depicts the border between Haiti (left) and the Dominican Republic (right)." Licensed under CC-0.
  6. Auguste Raffet. “Haitian Revolution Illustration depicting combat between French and Haitian troops during the Haitian Revolution." Histoire de Napoléon by M. De Norvins, 1839.
  7. Marcus Rainsford. “Revenge taken by the Black Army for the Cruelties practised on them by the French." Licensed under CC-0. 1805.
  8. Bob McNeely. “President Bill Clinton meets with President Jean-Bertrand Aristide of Haiti in the Oval Office." Licensed under CC-0. Clinton Digital Library. 14 October 1994.
  9. 佐藤文則『ハイチ目覚めたカリブの黒人共和国』凱風社 (1999/2/1). p. 283-284.