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どうすれば日本人の賃金は上がるのか

日本人の実質賃金は、1997年以降、上昇していません。かつてはデフレが原因と考えられていましたが、インフレになっても上がるどころかむしろ下がっています。その原因は何なのでしょうか。1997年に消費税の税率を引き上げたからという説を信じている人が多い中、1997年の別の出来事に注目する説が浮上しています。この記事では、日本人の賃金を抑制している本当の原因を突き止めたうえで、抜本的な解決策を提示します。

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日本経済の死角

この章では、手取りを増やす方法を分類したうえで、日本で手取りが増えない要因は何かを考えます。

手取りが少ない問題

「手取りを増やす」を公約に掲げた国民民主党の支持率が高まっている[1]ことからもわかるとおり、日本の勤労者にとって、目下それは最大の悲願です。問題は、どうやって手取りを増やすかです。労働時間延長以外の方法を望ましい順番に書くと、

  1. 労働生産性を高める
  2. 労働分配率を高める
  3. 税と保険料を減らす

の三つがあります。三番目の給料から引かれる税金や社会保障の費用を減らす方法には、三つあります。こちらも望ましい順番に書きましょう。

  1. 歳出を削減する
  2. 他の歳入を増やす
  3. 国債を発行する

下から順に見ていきます。

国債発行は、クラウディング・アウトにより民間に負担をかけます。アベノミクスがそうしたように、財政ファイナンスでクラウディング・アウトを回避できますが、その代わり、通貨価値が下落し、インフレ税という負担が生じます。どちらにせよ、三番目の選択肢は、望ましくありません。

給料から引かれる税金や社会保険料を減らしても、他の税や保険の負担が増えるなら意味がないことは自明です。では、政府に生産活動をさせる歳入増加策はどうでしょうか。政府が、民間からリソース(資金や労働力など)を奪って殿様商売をしても、通常は民間ほどうまくいきません。それゆえ、二番目の選択肢も望ましくないということです。

これらの選択肢と比べるなら、必要性が低い歳出を減らす一番目の選択肢の方が望ましいというのが、前回の「ザイム真理教対モリタク真理教」での結論でした。もとより歳出削減も国民負担の増加になりうるという点では、他の二つと同じです。基本的に政府は価値を生み出さないので、財政をいじっても、ゼロサム・ゲームを超えることが難しいのです。

最初に紹介した「手取りを増やす」三つの方法に戻りましょう。「労働分配率を高める」も「税と保険料を減らす」も、限られたパイを奪い合うゼロサム・ゲームに陥りますが、「労働生産性を高める」は、全体のパイを増やすので、その意味で、最も望ましい選択肢です。

それにもかかわらず、現在の日本の政界では、理想的な方法が関心を集めず、積極財政で全体のパイが増えるかの如き幻想を国民に抱かせる財政ポピュリズムの政党が支持率を高めているというのは、残念なことです。もちろん財政がどうでもよいと言うつもりはありません。日本の財政の現状にも改善の余地があります。しかし、「手取りを増やす」ためには、もっと優先度の高い政策課題に着目しなければなりません。

他方で、「労働分配率を高める」という二番目の方法を重視している政党もあります。日本共産党は、リーマンショック以降、大企業が内部留保をため込んでいることを問題視し、内部留保の労働者への還元を主張してきました[2]。実は、内部留保と労働分配率の低さは、最近になって再び注目を集めるようになりました。財政ポピュリズムの方は前回取り上げたので、今回はこちらの問題を取り上げることにしましょう。

内部留保増加の問題

2025年2月に著名エコノミストの河野龍太郎(こうのりゅうたろう, 1964年 – )が『日本経済の死角――収奪的システムを解き明かす』を出版しました。その著作の冒頭で、河野は「日本の場合、実質賃金が上がらないのは生産性の問題ではありません[3]」と断じ、以下のようなグラフを掲載しています。

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河野龍太郎『日本経済の死角――収奪的システムを解き明かす』の販売ページに掲載されたA+コンテンツ。同書24頁に同じようなグラフあり。

1998年を起点とすると、2023年までの25年間に時間当たり生産性は3割上昇したのに、時間当たり実質賃金が横ばいになっている事実を指摘して「何かが、おかしい」と言っています。問題はその「何か」が何であるかです。

世間で広く信じられている説は、1997年に税率が3%から5%に引き上げられた消費税というものです。藤井聡(ふじいさとし, 1968年 – )は、以下の図表1と2で、1997年の消費税増税から世帯所得と給与所得が下落している事実を指摘し、この時の「消費税の増税がなければ日本は豊かなままだった」と言っています。

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藤井が「消費税5%から日本国民の“貧困化”が始まった」と主張する根拠。Source: 田原総一朗, 藤井聡. “「消費税の増税がなければ日本は豊かなままだった」京大教授がそう嘆くワケ 給料が減って、経済成長も止まった.”『プレジデントオンライン』2021/05/20. 出典:田原総一朗, 藤井聡『こうすれば絶対よくなる!日本経済』アスコム (2021/4/10).

1997年以降、世帯の実質所得が個人の実質賃金よりも下落しているのは、世帯に占める単独世帯(特に65歳以上の一人暮らし)の割合が増えたからでしょう。いずれにせよ、日本人の賃金と所得が下落している事実に変わりはありません。

三橋貴明(みつはしたかあき, 1969年 – )も「97年の「バブル崩壊後の消費増税」により、日本は20年以上も続くデフレーションに突っ込み、衰退途上国化してしまいました[4]」と言っています。現在、財務省解体デモをやっているモリタク真理教の信者たちも消費税の廃止こそが日本経済復活の鍵と思い込んでいます。

しかし、藤井や三橋の説には説得力がありません。消費税の税率は、2014年に5%から8%へと3%も引き上げられましたが、なぜ1997年に2%引き上げた時のような影響をもたらさなかったのでしょうか。実際、図表2を見ても分かる通り、実質賃金は、2012年から2014年にかけて大きく下がったものの、消費税率を大幅に引き上げた2014年以降、横ばいになっています。

また、以下のグラフを見てもわかるとおり、ヨーロッパの先進国の中には、日本以上に重い付加価値税を課している国もあります。しかし、そうした国が、日本のように長期的な経済的停滞に陥っているということはありません。

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2024年1月現在における消費税(付加価値税)の標準税率。Source: 国税庁. “税の国際比較." Accessed 2025/03/06.

長期的経済停滞のような日本にしか見られない現象の原因は、消費税のような他の国にもある制度ではなくて、日本特有の制度に求めなければなりません。

河野が1997年で注目したのは、消費税増税ではなく、メインバンク制の崩壊です。メインバンク制とは、企業が株式の持ち合いなどにより一行の銀行と密接な関係を保つ制度で、和製英語であることからもわかるとおり、日本独自の金融慣行です。日銀と大蔵省による護送船団方式の規制により、第二次世界大戦後からバブル崩壊まで、金融機関は一行たりとも破綻しませんでした。そのため、戦後の日本企業は、経営の安定をメインバンク一行に依存できたのです。

護送船団方式とは、船団を護衛する海軍が最も遅い船に合わせて航海したことから名付けられた日本の行政の方式です。かつての日本の金融当局は、最も弱い金融機関ですら破綻しないように、強い金融機関にとっては不要な厳しい規制を全体にかけていましたが、日本政府が護送船団方式で保護しようとしたのは、もっと広範囲に及ぶ社会全体でした。

最も無能な正規雇用労働者ですら解雇されず、それどころか年齢とともに昇給できる終身雇用・年功序列も、最も経営者が無能な企業ですら、倒産することなく銀行によってバックアップされるメインバンク制も、広義の護送船団方式と言ってよいでしょう。正規雇用労働者の雇用を企業が保障し、その企業の存続をメインバンクが保障し、そのメインバンクの存続を日銀と大蔵省が保障するという三段階の護送船団方式による存続保障システムが昭和の時代には健在だったのです。

しかし、1996年の金融ビッグバン以降、護送船団方式の規制が緩和され、金融機関相互の業態の垣根を超えた競争が激化します。そんな中、1997年に北海道拓殖銀行と山一証券が破綻し、1998年に日本長期信用銀行と日本債券信用銀行が破綻しました。バブル期に多くの不良債権を抱え込んだ当時の銀行は、破綻を避けようと、貸し渋りや貸し剥がしに血道を上げ、その結果、多くの企業が倒産しました。かくして、1990年代後半の金融危機をきっかけに、企業にとって、メインバンクは頼れる存在ではなくなり、メインバンク制が崩壊したのです。

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メインバンク制が日本的経営を金融面で支えていたので、メインバンク制が崩壊すると日本的経営の特徴である長期雇用制も崩壊すると思われていました。しかし、実際にはそうなりませんでした。三段階の保障システムのうち、崩壊したのは上二段だけだったのです。

メインバンク制が不在となる中で、不況が訪れても会社を存続させ、雇用リストラを避けるためには、自己資本を厚くし、潤沢な流動性を保有する必要があります。大企業は、儲かってもリスクを取らず、国内投資を抑えるとともに、コストカットに邁進し、ゼロベアの下で人件費の抑制も続け、万が一に備えて、利益剰余金を積み上げて対応したのです。[5]

かくして長期雇用制という一番下の護送船団方式は維持されているということです。以下のグラフは、河野の指摘を裏付けています。

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赤色:金融業と保険業を除く全業種での利益剰余金(利益準備金+積立金+繰越利益剰余金)、青色:人件費(役員と従業員の給与+賞与+福利厚生費)、緑色:役員の給与と賞与を除いた人件費の推移(1975年~2023年)[6]。縦軸の単位は兆円。横軸は年度。

1996年の金融ビッグバン、1997年から1998年にかけての金融危機以降、企業が内部留保(赤色)の積み増しを優先して、人件費(青色)および従業員の賃金(緑色)を抑制しました。その結果、今日に至るまで長期雇用制は維持されたものの、労働分配率は低下したことが、以下のグラフで確認できます。

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日本の労働分配率(赤の点線)とその二次近似曲線(赤の実線)の推移(1960年~2023年)[6]。縦軸の単位は%。横軸は年度。

労働分配率とは、人件費と営業利益の合計に占める人件費の割合です。1998年の金融危機、2008年のリーマン・ショック、2020年のコロナ・ショックのような不況期には、営業利益が急減するので、労働分配率も一時的に急上昇します。そうした一時的変動にとらわれることなく、長期的なトレンドを捉えるために、グラフに二次近似曲線を赤の実線で挿入しました。この二次近似曲線に着目すると、1960年代から1998年までは上昇傾向にあったのが、それ以降は下降傾向にあることがはっきりします。

1998年まで上昇傾向であった理由の一つとして、1960年代に入社した団塊の世代の賃金が、年功序列に従って上昇したことを挙げられます。1993年以降、労働分配率が高止まりし、営業利益を圧迫したため、企業は新卒採用を極端に制限しました。これが就職氷河期であったことは既に「氷河期世代はなぜ貧しいのか」で述べたとおりです。

2002年以降、労働分配率が低下し始めたのは、団塊の世代が役職定年の年齢(55歳)になって、賃金がピークアウトしたからだけではありません。それによって増えた営業利益を企業が内部留保として積み増したからです。おかげで、2008年のリーマン・ショックや2020年のコロナ・ショックでも、日本企業は大量倒産と正規雇用の大規模リストラを回避できました。しかし、その代償が人件費/賃金と経済の長期低迷であったということです。

労働時間短縮の問題

労働分配率の低下とともに、河野が指摘するもう一つの日本経済の死角は、労働時間の短縮です。こちらは、2022年に出版した『成長の臨界』でも触れられています。1947年に制定された労働基準法は、法定労働時間を1日8時間かつ週48時間と定めました。その法的規制に従って、かつては、週休1日が普通だったのですが、1980年代に日本の貿易黒字が国際的な問題となる中、日本企業に長時間労働を是正させようとする圧力が国内外で高まりました。かくして、1987年に法定労働時間の原則が週40時間に改正され、大企業では1994年から、中小企業では1997年からが実施となりました。

河野は、バブル崩壊の原因を当時の労働時間の短縮に求めています。たしかに、バブル崩壊に先立って、1987年(昭和62年)以降、所定内労働時間も残業(所定外労働)を含めた総実労働時間も、大幅に減っていることが以下のグラフから観て取れます。

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労働者1人平均年間総実労働時間の推移(1955年~2009年)。図の出所:厚生労働省. “総実労働時間の推移." 高知労働局.

青色の総実労働時間と赤色の所定内労働時間の差が、黄色の棒グラフで示した所定外労働時間です。1987年(昭和62年)以降も、不況の影響を受けた時以外は、あまり削減されませんでしたが、近年これも短縮させられつつあります。2015年に、電通の「東大卒エリート美女[7]」が、慢性的な長時間労働によってうつ病を発症し、入社からおよそ1年5カ月後に自殺しました。この事件がメディアで大きく取り上げられたのをきっかけに、安倍晋三総理(当時)は、「働き方改革」を打ち出し、2018年に働き方改革関連法を可決させました。この法律は、残業時間の上限を、大企業は2019年から、中小企業は2020年から、原則月45時間・年360時間と定めています。

河野は、コロナ・ショック後の円安インフレが長引いたのは、働き方改革で経済の供給の天井が低くなっていることが大きく影響しているからという見解を示し、「働き方改革で、残業が増やせなくなったことは、供給サイドの柔軟性を損ない、潜在成長率が低下していることを意味します。なぜ、この深刻な事態を政策当局者は見過ごしているのでしょうか[8]」と苦情を呈しています。

潜在成長率とは潜在GDPの変化率のことです。潜在GDPは「現存する経済構造のもとで資本や労働が最大限に利用された場合に達成できると考えられる経済活動水準[9]」と日銀によって定義されています。それは、(1)資本ストックの利用量、(2)労働の投入量、(3)それらの利用効率である全要素生産性という供給サイドの3要素から算定されます。以下のグラフは、1983年から2024年にかけての潜在成長率、全要素生産性、資本ストック、労働の投入量(労働時間×就業者数)の半年ごとの前年比をパーセント表示したものです。

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潜在成長率とその要因(全要素生産性、資本ストック、労働時間、就業者数)の推移(1983~2024年)[10]

このグラフからわかるとおり、紫色の就業者数は減っていませんが、緑色の労働時間は、1985年の後半以降、マイナスとなっています。それは、たんに週休二日が普及したからだけではなく、そのころから非正規雇用労働の割合が増え始めたからと考えられています。河野は、『成長の臨界』で、1980年代末についてこう述べていました。

当時、労働時間が大きく短縮されたが、それに合わせて生産性が引き上げられることもなく、一方で賃金を切り下げることも行われなかった。このため、企業の資本収益率が大きく低下し、その結果、資本投入の低迷も加わって、潜在成長率が大きく低下したのである。[11]

実際、赤線の潜在成長率は、1989年にピークに達した後、急落し、今日に至るまでゼロ近くで低迷しています。バブル崩壊以前の日本の潜在成長率は、米国よりも高かったのですが、1993年以降、今日に至るまで下回っています。ヨーロッパの主要国よりも低いぐらいです。

潜在GDP(可能な供給)と実際のGDP(総需要)との乖離をGDPギャップと言います。バブル崩壊後、政府はGDPギャップを埋めるべく、緊急景気対策と称して財政出動を繰り返してきました。しかし、潜在GDPが伸び悩んでいるのですから、GDPギャップを埋めたところで、実現される経済成長には限度があります。また、政府の過剰な民間経済への介入は、全要素生産性を低下させる原因にもなっています。

ここで、前節で取り上げたメインバンク制崩壊の影響を見ましょう。青色の資本ストックは、1995年以降一時的に持ち直したものの、1997〜1998年の金融危機以降、内部留保の積み増しを優先した結果、積極的な投資が控えられ、低い水準に留まっています。加えて、既に述べたように、2016年以降は、電通女性過労死事件の影響で、残業が削減され、労働時間の短縮が顕著になっています。供給サイドの3要素が全て振るわないから、潜在成長率が低くなっているのです。

コロナ・ショック以降、日本政府は大胆な高圧経済(異次元の金融緩和と積極財政)に踏み切り、その結果、円安インフレとなりました。潜在GDPが伸び悩む中、高圧経済で需要を刺激しても悪いインフレにしかなりません。実際、2022年以降、需給ギャップがほぼ解消され、日本経済はスタグフレーション化しつつあります。デフレからは脱却できましたが、実質賃金は3年連続で前年比マイナスとなっています。それゆえ、現在の日本では、潜在GDPをいかに伸ばすかの方が重要な課題となっているのです。

河野龍太郎の死角

河野が指摘する日本経済の死角は、利益剰余金の積み増しおよび労働時間の短縮です。どちらも、日本人の賃金上昇を妨げていますが、河野が『日本経済の死角』で打ち出している解決策は的外れです。この章では、本当の解決策から目を背ける河野の死角を指摘しましょう。

株主軽視でよいのか

金融危機以降メインバンクに依存できなくなった日本企業は、正社員の長期雇用を保障するために内部留保を積み増し、その結果、人件費が抑制されているというのが『日本経済の死角』での河野の認識です。それなら、日本人の賃金を上げるには、長期雇用をやめればよいという結論になるはずです。しかし、河野は「欠点は多々ありますが、基本的に長期雇用制は望ましいというのが筆者の立場です[12]」と言って、その解決策を拒否します。

河野が、代わりに批判の矛先を向けるのは、コーポレートガバナンス改革です。

メインバンク制の崩壊過程で、銀行と企業の株式の持ち合いが解消される際、健全な株式の受け皿を整えるべく、日本政府は、株主の利益に沿った企業経営が行われることを目指してコーポレートガバナンス改革を推進しました。時は、1990年代末。グローバル金融市場では、米国流の新自由主義的な株主資本主義時代の真っ盛りでした。[13]

河野は「冴えない日本のマクロ経済パフォーマンスには、株主至上主義のコーポレートガバナンス改革も少なからず影響していたように思われます[14]」と言うのですが、なぜメインバンク制の崩壊と株主至上主義へと舵を切ったコーポレートガバナンス改革が日本のマクロ経済パフォーマンスに悪影響を与えるのでしょうか。

元来、日本では、短期的な利益を追求する株式保有者からの企業経営者へのプレッシャーを遮断するための仕組みが、様々なところに組み込まれていました。上場企業に関して言うと、株主は多くの場合、企業が長期の付加価値を生み出すことについては、さほど関心を持たず、往々にして、自らの短期的な利益ばかりを追求します。

株主から多額の配当の支払いが要求され、長期投資のためのキャッシュフローが枯渇すれば、企業の成長が困難になりかねません。目先の利益を追求するのではなく、長期雇用制の下で、従業員の集団的かつ累積的な学びを可能にし、人的資本を高めて、新たな財・サービスを世に問うべく、株式市場に跋扈する投機家たちに左右されない安定的な企業経営を可能とするのが、メインバンク制だと考えられていたほどでした。[15]

メインバンク制の崩壊と株主至上主義のコーポレートガバナンス改革のせいで、それが不可能になったと言うのです。

企業経営者は、株式市場が要求する高い配当や、四半期毎の高い利益を確保しなければなりません。結局、企業経営者は、国内ではコストカットに邁進し、人的投資や有形資産投資、無形資産投資はなおざりにされています。それが、この四半世紀に日本で起こったことではないでしょうか。[16]

これはおかしな主張です。もしも、河野が想定するように、株主が「自らの短期的な利益ばかりを追求」して、多額の配当支払を要求し、企業経営者が、その要求に応じているとするなら、企業は巨額の内部留保を積み上げられないはずです。内部留保は、正社員の長期雇用を維持するだけでなく、企業の長期的な生存をも可能にしますが、河野のカリカチュア的な想定では、株主は目先の利益しか追求しないことになっているので、株主の利益に合致しないことになります。河野は自分の矛盾に気が付かないのでしょうか。

実際の株主は、配当だけでなく、キャピタル・ゲインも求めるので、積極的な投資による企業価値の向上を歓迎します。もしも米国の企業が、巨額の内部留保を積み上げるなら、株主は、その金を成長のための投資に使うことを求めるでしょう。もしも投資先がないなら、株主は、内部留保を配当として還元することを求め、その金を積極的な投資で成長している別の企業に投資するでしょうから、結局のところ、株主至上主義は、積極的な投資を促進することになります。

日本企業が、従業員の長期雇用のために内部留保を積み上げているということは、株主至上主義ではなくて、従業員至上主義であるということです。法律用語としては、株主を意味する「社員」が、日本では従業員を意味する言葉として使われているところに、会社は誰のために経営されるのかを決めるコーポレート・ガバナンスの日本における特殊性を観て取れます。

河野は、『日本経済の死角』に「収奪的システムを解き明かす」という副題を付けていますが、日本型コーポレート・ガバナンスにおいては、株主が労働者を収奪しているというよりも、むしろ労働者が株主を収奪していることに河野は気付いていないようです。

近年、日本企業は、国内市場に見切りをつけ、海外に投資するようになりました。海外の投資から得られる収益で、国内の従業員の生活を保障しようとするのなら、従業員は、株主という意味での「社員」になりつつあると言えます。日本企業は、極めて特異な「社員」至上主義に陥っているということです。

「社員」至上主義で「社員」が幸福ならそれでよいのですが、実際のところ「社員」は、雇用の安定と引き換えに低賃金で苦しんでいます。何より、企業が国内投資に積極的でないので、国内経済が伸び悩み、国民全体が不幸になっています。誰のためにもならない「収奪的システム」を終わらせるには、国民生活の安定は政府に任せ、日本企業を長期雇用の義務から解放して、もっと成長志向的な投資をさせるべきです。そのためには、むしろ株主至上主義が必要なのです。

長時間労働でよいか

河野が問題視したもう一つの「日本経済の死角」は、労働時間の短縮です。河野は「働き方改革で、残業が増やせなくなったこと」「供給サイドの柔軟性を損ない、潜在成長率が低下していること」を「深刻な事態」と評しています。しかし、2018年に可決された働き方改革関連法の中には、高度プロフェッショナル制度のような労働時間に柔軟性を持たせた仕組みも含まれていました。

高度プロフェッショナル制度は、報酬が労働時間よりも成果で決められるべき高度な専門的頭脳労働者に限定して、労働基準法に定める労働時間規制の対象から除外する仕組みです。米国のホワイトカラー・エグゼンプションを参考に導入した制度ですが、米国ほど普及していません。それは、日本企業には、ホワイトカラー・エグゼンプションが想定しているような裁量権と自由を持ったスペシャリストがほとんどいないからです。

日本的経営がジェネラリスト擦り合わせ型経営であるのに対して、海外の経営がスペシャリスト組み合わせ型経営であることは、これまで述べてきました。米国の企業では、肉体労働者、事務作業員といった上司の命令に従うだけのノンエグゼンプトの上にエグゼンプトと呼ばれる上級職員がいます。「エグゼンプト」とは、残業代の支払いが免除されているという意味です。戦前の日本企業にもこうした三層からなる職業身分制度がありましたが、戦後日本的経営が普及する過程で、固定的な職業身分が廃止されました。

欧米では、ワーク・ライフ・バランスが日本よりも尊重されていると思われていますが、それはあくまでもノンエグゼンプトに当てはまることで、エグゼンプトに関しては必ずしもそうではありません。米国のエグゼンプトは、日本の中間管理職よりも大きな裁量権と自由を持っているがゆえに、その働き方は経営者に準じた扱いになっているからです。実際、エグゼンプトの中には長時間労働を厭わない人が多いのですが、それで過労死になることは稀です。一般に、与えられた裁量権と自由が大きいほど、仕事のストレスを感じないとされます。裁量権も自由もないのに、長時間労働を強いられ、過労死する日本の労働者とは違うのです。

玉木雄一郎(たまき ゆういちろう, 1969年 – )は、YouTube生配信の「朝方まで生テレビ」で、働き方改革よりも「働きがい改革」が重要という見解を示し、20代労働者の徹夜を容認するかのような発言をしています[17]。たしかに、自由業のような好きでやっている職業なら、それでもよいかもしれません。しかし、上司から命令されて働いている一般の労働者に長時間労働を正当化させるような「働きがい」を求めると、所謂「やりがい搾取」になる可能性があります。

日本の労働者に裁量権と自由が与えられていない以上、労働時間の短縮は、過労死を防止するためにやむをえなかったことです。問題は、労働時間を短縮させつつ、どうやって経済を成長させるかです。河野は、80年代から90年代にかけて日本で普及した完全週休2日制が経済にネガティブな影響を与えたことを不可避であったと見ています。

本来、10~20%も労働時間が減る場合、時間当たり実質賃金が大きく上昇するため、ユニットレーバーコストの大幅な上昇や資本収益率の大幅な低下を避けるには、10~20%程度、生産性を引き上げなければなりません。しかし、それはまず不可能でしょう。生産性を引き上げることができないのであれば、ユニットレーバーコストの上昇や資本収益率の大幅な悪化を招くため、それを避けるには、大きく上昇した時間当たり実質賃金を10~20%程度引き下げなければなりませんが、サラリーマンの月給を10~20%下げるということになるので、それもまず不可能です。[18]

はたして、本当に生産性を10~20%程度引き上げることは不可能だったのでしょうか。

今の生産性でよいか

河野は、2025年に出版した『日本経済の死角』で、1998年から2023年までの25年間に時間当たり生産性が3割上昇したことから、日本の生産性を問題視していません。しかし、2022年に出版した『成長の臨界』では、「時間あたり労働生産性上昇率は1980年代に年率2.8%と高かったが、90年代には1.8%まで低下し、2000年代は0.8%まで低下、2010年代はさらに低下して0.3%となった[19]」という事実を指摘して、「生産性上昇率の低下が実質賃金低迷の主因[20]」と断言していました。河野は、2024年に出版された脇田成の『日本経済の故障箇所』を読んで考えを変えたようです。

では、日本の労働生産性に本当に問題がないのでしょうか。以下のグラフは、1950年から2019年にかけて、G7各国の時間当たり労働生産性がどう推移したかを示しています。

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1950年から2019年にかけてのG7各国の時間当たり労働生産性(購買力平価による2017年価格での国際ドル表示)[21]

これを見て分かることは、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた1970〜80年代においてすら、日本は、G7において最下位であったということです。それでも、1996年頃までは、他のG7諸国と比べて、増加率に遜色はありませんでした。しかし、近年、日本の時間あたり労働生産性の改善は停滞しています。

以下のグラフは、1991年から2023年にかけて、G5各国の一人当たり労働生産性がどう推移したかを示しています。

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1991年から2023年にかけてのG5各国の一人当たり労働生産性(購買力平価による2021年価格での国際ドル表示)[22]

購買力平価によるドル換算だと、日本の労働生産性は、あまり改善していないことがわかります。それゆえ、日本の労働生産性は、米国の半分程度しかない水準の低さだけでなく、増加率の低さという点でも大きな課題を抱えていることになります。労働生産性を10~20%程度引き上げても、まだ不十分なぐらいです。欧米よりも労働生産性が格段に低いのにもかかわらず、労働時間を欧米並みに短くしようとした結果、これまで長時間労働で覆い隠されてきた日本の欠陥が表面化したというのが、実態ではないでしょうか。

河野は、「日本の丁寧な財・サービスの供給は他の国と比べて遜色がないどころか、最も優れているとさえいえるものが少なくない」ことを根拠に「消費者余剰が思っていた以上に大きく、マネタイズ(収益化)できていないから、日本では提供されている財・サービスの付加価値が低く、その結果、生産性も低いのではないか」と言っています [23]

しかし、日本の商品は消費者余剰が大きいというのは、生産者の勝手な思い込みに過ぎないのではないでしょうか。そもそも、日本の商品の消費者余剰が大きいというのなら、なぜ日本企業はグローバルな競争に敗れ、日本の国際収支が、財だけでなく、サービスにおいても赤字になったのでしょうか。日本の経営者にはマーケティングの能力を欠く人が多く、消費者が求めてもいないところに無駄に力を入れ、高品質な商品を作ったつもりでも、消費者からは低い評価しか得られていないのが実態だからでしょう。

ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた時代、日本企業は、労働生産性が低かったのにもかかわらず、団塊の世代という若くて豊富な労働力に恵まれ、彼らを安い賃金で長時間働かせることで、安い商品を海外に輸出できました。しかし、団塊の世代も歳をとります。年功序列に従って賃金を上げ、労働時間を短縮するなど彼らの待遇を改善した結果、日本企業は国際競争力を失い、失われた30年の時代になったのです。日本経済失速の原因は、労働時間の短縮ではなくて、長時間労働でしか補えないほど低い生産性に求められなければなりません。

では、労働生産性を高めるのには、どうすればよいのでしょうか。終身雇用・年功序列の日本的経営をやめればよいというのが、
日本人はなぜ学力が高いのに生産性は低いのか」で出した結論です。根本的な解決策は、内部留保をやめさせる方法と同じということです。

実現に向けての見通し

最後の章では「どうすれば日本人の賃金は上がるのか」という本題に戻り、必要な政策とそれを実現する政界再編について考えましょう。

長期雇用制度の廃止

「社員」の長期雇用を保障するために内部留保を積み上げる日本企業の守りの姿勢が、賃金上昇と経済成長の妨げになっているのにもかかわらず、なぜ河野は「社員」の長期雇用の廃止に反対するのでしょうか。2024年9月に自民党総裁選に出馬した小泉進次郎が、解雇規制の緩和を打ち出したことを批判して、河野は次のように言っています。

かつての欧州で必要とされた労働規制の緩和を日本で行うと、企業経営者や資本の出し手に対する労働者の対抗力はさらに低下して、実質賃金がますます上がらなくなる、といった事態になりかねません。現在の日本にとって、解雇法制の緩和というのは、誤った処方箋であると思われます。[24]

河野は、解雇を容易にすることが同時に採用をも容易にする、つまり転職を容易にする点を見逃しています。現在の日本のような慢性的に人手不足の労働市場では、市場機能の活性化は売り手に有利に働きます。すなわち、より条件の良い職場に転職する自由を持った従業員は、企業経営者や資本の出し手に対してより強い対抗力を持つようになるのです。その結果、実質賃金はむしろ上がるはずです。

実際、現在、20代の労働者は、活発に転職を繰り返すことで、企業に賃上げさせることに成功しています。これに対して、転職が難しい中高年の賃金は、低く抑えられたままです。処遇を改善してやらなくても、どうせどこにも逃げられまいと経営者たちは高を括っているのです。

もしも解雇を海外並みに容易にすれば、海外で起きているような中高年を含めた人材争奪戦が日本でも激しくなることが予想されます。企業は、もはや長期雇用を保障するために内部留保を積み上げる必要がないので、内部留保を取り崩してでも、賃金を上げるでしょう。それだけでなく、以下の理由から、日本の労働生産性も向上し、経済全体が成長し始めます。

  • 従来の長期雇用にありがちな雇用者と被雇用者のミスマッチが相互の自由選択により解消されるので、人的資源配分の最適化が進む
  • 同じ人材を社内で使い回す必要がなくなるので、ゼネラリスト擦り合わせ型からスペシャリスト組合せ型へと経営が効率化する
  • より有利な転職のためのリスキリングに対するモチベーションが高まるので、スペシャリストとしての人的資源の能力が向上する
  • 高い賃金を支払えない生産性が低い企業が人材争奪戦に敗れて淘汰されるので、人材は生き残った生産性の高い企業に集まる
  • 人材獲得コストが高くなるので、企業は人工知能の活用や機械化など生産性を向上させる設備投資に力を入れるようになる

最初に申し上げたとおり、たんに労働分配率を高めるだけなら、限られたパイを奪い合うゼロサム・ゲームにしかなりません。しかし、同時に労働生産性を高める効果があるのなら、それは、全体のパイを増やすので、最も建設的な方法です。

社会保障制度の変革

河野は、長期雇用制が行き詰まっている現状を認めつつも、制度補完性を理由に、抜本的改革を危険視しています。

雇用制度が一気に変わるとなると、一生涯の問題にもかかわるため、先行きを不安に思う人が増えます。予備的動機で貯蓄を増やし、個人消費が抑えられてマクロ経済に悪影響が及ぶというリスクもあります。これは、年金制度の改革なども同じで、漸進的な改革は大事ですが、少なくとも社会制度に関して、政治家は安易に抜本的改革などと言うべきではないと思います。

そもそも、様々な社会制度は相互に連関し、互いに補完し合っています。二つの制度の間にシナジー効果があり、個別に用いるより高い効果が得られる場合、「制度補完性がある」といいます。現在のメンバーシップ型を中心とする日本の長期雇用制も、医療制度や公的年金制度などのセーフティネットをはじめとする税・社会保障制度や、就職前の教育制度など他の社会制度との間に強い制度補完性があり、互いを前提としながら、長い時間をかけて作られてきました。

時代の変化に合わせて、それらを少しずつアップグレードしていくのは極めて重要なことではありますが、雇用制度だけを抜き出して、欧米のジョブ型に一気に変更しようとすれば、他の制度との齟齬が発生して、上手く作動しなくなる恐れがあります。[25]

ここでも、河野が言っていることは矛盾しています。たしかに雇用制度は、教育や社会保障など他の制度と制度補完性を有しますが、むしろそうであるからこそ、全てを同時に変える「抜本的改革」の方が、少しずつ変えていく「漸進的な改革」よりも望ましいという結論になるはずです。

護送船団方式の廃止は、漸進的な改革の失敗事例です。もとより護送船団方式による金融機関の保護を止めようとした金融ビッグバン自体は間違っていません。敗者を作らない護送船団方式は、日本的な和の精神に合致しているので、好感を抱く人もいるかもしれません。しかし、敗者を作らない社会は、社会全体を敗者にします。それがグローバル化した現代の厳しい現実です。日本全体が敗者になると、国内の弱者を守れなくなります。それゆえ、弱い生活者を守るためには、弱い生産者を守ってはいけないということになります。これが、しばしば誤解される新自由主義の基本的な考えです。

日本の金融ビッグバンが犯した過ちは、三段階の保障システムのうち、上二段の護送船団方式だけを廃止し、一番下の護送船団方式、すなわち長期雇用制の廃止にまで踏み込まなかったところにあります。メインバンクに依存せずに長期雇用を保障するため内部留保を厚くするという各企業が見出した局所最適解が全体最適解から程遠いことはすでに確認したとおりです。要するに橋本龍太郎の改革は、中途半端で、抜本的改革から程遠いから失敗したということです。

長期雇用制を廃止するということは、企業に代わって政府が労働者の生活を直接保障するということです。それゆえ、雇用制度の改革は、制度補完性がある社会保障の改革を同時に伴わなければなりません。失業者という敗者が出ても、企業が生産性を改善すれば、税収が増えるので、政府が敗者を救済できます。敗者を作る社会の方がむしろ敗者を救済できるのです。

河野は「雇用制度だけを抜き出して、欧米のジョブ型に一気に変更しようとすれば、他の制度との齟齬が発生して、上手く作動しなくなる恐れがあります」と言っていますが、むしろ雇用が欧米型でないからこそ齟齬が発生している制度が既にあります。それは大学や大学院といった高等教育の制度です。

武藤山治が日本的経営の原型を作った時、従業員の大半は尋常小学校で最低限の義務教育しか受けていませんでした。白紙の状態の人材を採用し、社内教育によりジェネラリストとして育て、管理職にまで登用する武藤の経営方法は、戦後の日本的経営に受け継がれました。日本的経営が大学での専門的な教育を前提としていないので、日本の大学生は勉強しないし、大学院生は(一部の例外を除いて)就職で不利な扱いを受けます。欧米の制度を真似して作った大学や大学院は、むしろ雇用を欧米式にすることで、本来の役割を発揮します。

教育はともかくとして、社会保障の方は、雇用の改革と同時に抜本的に変えなければいけません。それには、政治家の強力なリーダーシップが必要です。果たして、今の日本でこのような抜本的改革をする政党や人材はいるのでしょうか。この問題を最後に考えたいと思います。

今後の政界シナリオ

現在、国民に直接社会保障を提供することを前提に、日本的経営の根幹である長期雇用を廃止しようとする国政政党が一つあります。それは日本維新の会です。公約集の『維新八策2024』には、次のように書かれています。

セーフティネットを確実に整備するとともに、労働契約の更改や終了に関するルールを明確化することで、働く人の権利を保護し、人材流動性を高めます。雇用の流動化により職業格差を解消するとともに、転職や起業が当たり前の「フレキシキュリティ(柔軟性+安全性)」が高い労働環境を創ります。[26]

ここで謂う所の「労働契約の更改や終了に関するルール」は、解雇の金銭解決(解雇無効時の金銭救済)制度を念頭に置いたものです。厚生労働省は、2022年に「解雇無効時の金銭救済制度に係る法技術的論点に関する検討会」を開催したものの、反対意見が根強く、この制度の実現に道筋が立っていません。

反対者の代表は、労働組合です。連合は、「不当解雇を正当化しかねない制度は断じて認められない[27]」という声明を発表しています。解雇の金銭解決を容認すれば、自分たちの存在意義がなくなるのですから、当然です。

連合が支援している立憲民主党と国民民主党も反対しています。国民民主党の『政策INDEX 2019』には、

政府が実現を目指し、厚生労働省の検討会で議論が進められている「解雇の金銭解決制度」の導入については、現状ではかえって経営者による解雇権の濫用を助長しかねないことから、反対します。[28]

とあります。立憲民主党の「政策集2024」にも同じような文言が見られます
[29]。両党とも、連合からの要求をそのまま受け入れて書いたのでしょう。日本共産党やれいわ新選組のような左翼政党は、当然のことながら反対しています。

自民党では、議員によって意見が分かれています。2024年の自民党総裁選挙で、小泉進次郎が「賃上げ、人手不足、正規非正規格差を同時に解決するため、労働市場改革の本丸、解雇規制を見直します[30]」と発言し、高市早苗(たかいちさなえ, 1961年 – )がそれに反対しました。小泉と日本維新の会は、竹中平蔵を共通のブレーンとしているので、政策がよく似ています。

2025年2月28日に、小泉は、「合意後も引き続き自由民主党、公明党、日本維新の会の3党の枠組みで、合意事項の実現に責任と誠意を持って取り組む」と書かれた3党合意文書の内容に言及し、「これは連立だと思います」「連立という形で政権与党に入って責任を共有していただくのが一つの筋ではないか」と述べています[31]

日本維新の会は政権入りを断りましたが、参議院選挙が終了し、石破内閣が総辞職した後なら、小泉進次郎首班指名を条件に連立入りする可能性があります。日本維新の会の前原誠司(まえはら せいじ, 1962年 – )共同代表は、「小泉さんが党内の抵抗勢力と戦うのであれば、一緒に戦う[32]」と言っていますが、戦わなければならない抵抗勢力は、農水族だけではないはずです。 自公維連立による小泉内閣誕生は、現時点で考えられる政界再編の最良のシナリオです。その場合、雇用市場の流動化や企業を媒介としない個人への直接的な社会保障といった新自由主義的な改革が一挙に進み、日本人の実質賃金の上昇と失われた30年からの脱却が期待できます。

次の首相に誰が一番ふさわしいかを尋ねた産経新聞社とFNNの合同世論調査[33]の結果によると、高市早苗(18.9%)、小泉進次郎(15.2%)、石破茂(7.7%)、玉木雄一郎(5.9%)の順になったとのことです。上位の三名は、2024年に自民党総裁の座を争った有力候補なので、ランクインしたのでしょう。このうち、高市早苗と玉木雄一郎は、積極財政派として知られています。

さらに、野党などが求めている消費税減税への賛否を尋ねたところ、「賛成」が68.0%となり、「反対」の28.0%を大きく上回ったとのことです[34]。財務省解体運動に見られるように、多くの人は、日本経済低迷の原因を消費税に求めるモリタク・藤井・三橋の説を信じているようです。

しかし、物価高対策のために消費税減税のような積極財政の策を講じることは、逆効果です。それは、1970年代の失敗を繰り返すことになります。1970年代のスタグフレーションは、石油危機によってもたらされたコスト・プッシュ型のインフレと多くの人は思っていますが、実際は、過剰な財政出動と金融緩和によってもたらされた財政インフレです。当時も、緊縮財政に転じるのが遅かったために、狂乱物価と呼ばれる長期に及ぶインフレが帰結しました。

現在、私たちが経験しているインフレも、積極財政が原因なのですから、対策として積極財政を講じることは、火に油を注ぐことになります。今後日本の有権者が、日本経済低迷の真の原因を理解して、正しい選択をするのか、それとも間違った説を信じて、失われた30年をさらに延長させるのかに注目して、日本経済の行方を見守っていきたいと思います。

参照情報

関連動画
関連著作
注釈一覧
  1. 選挙ドットコム. “国民民主党が比例投票先で自民党を越えた?2025年4月最新意識調査解説.” 2025/4/17.
  2. しんぶん赤旗. “検証特集 内部留保問題と日本共産党/「取り崩せない」→ “還元は可能”へ 政府・財界に迫り変化生む.” 2010年11月2日.
  3. 河野龍太郎『日本経済の死角――収奪的システムを解き明かす』筑摩書房 (2025/2/7). はじめに. p. 9.
  4. 三橋貴明. “消費税軽減税率の拡大を!.”『新世紀のビッグブラザーへ』2018-08-09.
  5. 河野龍太郎『日本経済の死角――収奪的システムを解き明かす』筑摩書房 (2025/2/7). 第1章 生産性が上がっても実質賃金が上がらない理由. p.48.
  6. 6.06.1Data from 政府統計の総合窓口. “法人企業統計調査 時系列データ(金融業、保険業以外の業種)“. Accessed on 2025/05/07.
  7. 産経ニュース. “東大卒エリート美女が自殺までに綴った「苦悶の叫び」50通 電通の壮絶「鬼十則」が背景か.”「衝撃事件の核心」2016/10/22.
  8. 河野龍太郎『日本経済の死角――収奪的システムを解き明かす』筑摩書房 (2025/2/7). はじめに. p. 9.
  9. 日本銀行調査統計局. “GDPギャップと潜在成長率――物価変動圧力を評価する指標としての有用性と論点――(要旨).” 2003年1月30日.
  10. Data from 日本銀行調査統計局経済調査課景気動向グループ. “需給ギャップと潜在成長率." 2025年4月3日.
  11. 河野龍太郎『成長の臨界』慶應義塾大学出版会 (2022/7/15). 第5章 超低金利政策・再考. p. 264.
  12. 河野龍太郎『日本経済の死角――収奪的システムを解き明かす』筑摩書房 (2025/2/7). 第6章 コーポレートガバナンス改革の陥穽と長期雇用制の行方. p. 201.
  13. 河野龍太郎『日本経済の死角――収奪的システムを解き明かす』筑摩書房 (2025/2/7). 第6章 コーポレートガバナンス改革の陥穽と長期雇用制の行方. p. 205.
  14. 河野龍太郎『日本経済の死角――収奪的システムを解き明かす』筑摩書房 (2025/2/7). 第6章 コーポレートガバナンス改革の陥穽と長期雇用制の行方. p. 211.
  15. 河野龍太郎『日本経済の死角――収奪的システムを解き明かす』筑摩書房 (2025/2/7). 第6章 コーポレートガバナンス改革の陥穽と長期雇用制の行方. p. 206-207.
  16. 河野龍太郎『日本経済の死角――収奪的システムを解き明かす』筑摩書房 (2025/2/7). 第6章 コーポレートガバナンス改革の陥穽と長期雇用制の行方. p. 210-211.
  17. ひろゆき, hiroyuki. “【将来が不安な方々へ】政治家に国民の声を生配信で伝えてみました.”『朝方まで生テレビ』YouTube. Streamed live on Apr 29, 2025.
  18. 河野龍太郎『日本経済の死角――収奪的システムを解き明かす』筑摩書房 (2025/2/7). 第5章 労働法制変更のマクロ経済への衝撃. p. 183-184.
  19. 河野龍太郎『成長の臨界』慶應義塾大学出版会 (2022/7/15). 第3章 日本の長期停滞の真因. p. 172.
  20. 河野龍太郎『成長の臨界』慶應義塾大学出版会 (2022/7/15). 第3章 日本の長期停滞の真因. p. 171.
  21. Data from OurWorldinData.org. “Productivity: output per hour worked, 2019." Last updated November 28, 2022.
  22. Data from World Bank. “GDP per person employed (constant 2021 PPP $."
  23. 河野龍太郎『成長の臨界』慶應義塾大学出版会 (2022/7/15). 第4章 イノベーションと生産性のジレンマ. p. 218.
  24. 河野龍太郎『日本経済の死角――収奪的システムを解き明かす』筑摩書房 (2025/2/7). 第5章 労働法制変更のマクロ経済への衝撃. p. 194.
  25. 河野龍太郎『日本経済の死角――収奪的システムを解き明かす』筑摩書房 (2025/2/7). 第6章 コーポレートガバナンス改革の陥穽と長期雇用制の行方. p. 201 – 202.
  26. 日本維新の会『維新八策2024』③ 減税・成長戦略・規制改革.
  27. 清水秀行.
    「解雇無効時の金銭救済制度に係る法技術的論点に関する検討会」報告書に対する談話.” 日本労働組合総連合会. 2022年04月12日.
  28. 厚生労働《働き方》 – 国民民主党 政策INDEX 2019.” Accessed 2019/07/22.
  29. 立憲民主党. “政策集2024.” 厚生労働. Accessed 2024/10/20.
  30. 9月6日での出馬会見での発言。Cf. 楊井人文. “小泉進次郎氏 解雇規制見直しの発言はどう変化したか?.” Yahoo!ニュース. 2024/9/16.
  31. 自民・小泉氏、維新の政権入り打診を要求 3党合意文書に「連立だと思う」.” カナロコ by 神奈川新聞. 2025年2月28日.
  32. フジテレビ政治部. “維新・前原氏「小泉さんが党内の抵抗勢力と戦うなら一緒に戦う」進次郎大臣と共闘宣言 鳩山氏の小泉元首相へのエール彷彿.”『FNNプライムオンライン』2025年5月30日.
  33. 産経新聞社. “「次の首相」トップは高市氏 次点小泉氏、石破首相は3位 玉木氏は野田氏と競る." 2025年5月19日.
  34. 産経新聞社. “消費税減税「賛成」68% 世代で傾向くっきり 若年層は9割が賛成、70歳超は6割.” 2025/4/21.