3月 012003
 

キリスト教は、なぜかつて地動説を否定して、天動説を支持していたのだろうか。たんに聖書に書かれている記述と矛盾するからだけなのか。キリスト教が母権宗教を否定する父権宗教である点に注目して、考えよう。

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異端審問を受けるガリレオ。Galileo facing the Roman Inquisition, painting by Cristiano Banti.

1. キリスト教は地動説を否定していた

ガリレオ・ガリレイが、天動説を斥け、地動説を支持したかどで、宗教裁判にかけられ、異端誓絶を強要された後、「それでも地球は動いている」と呟いたという逸話は、宗教が科学を完全には屈服させることができないことを象徴するエピソードとして有名である。

このエピソードは、しかしながら、よく考えてみると眉唾物である。もしも「それでも地球は動いている」という呟きが周囲に聞こえたなら、異端審問がやり直しになるはずだし、もしも周囲に聞こえないような小さな声で呟いていたのなら、このようなエピソードが後世に伝わるはずはない。

ガリレオが本当に「それでも地球は動いている」と呟いたかどうかは別としても、彼が、1633年に宗教裁判にかけられたことは史実であり、もし異端誓絶を拒んだならば、33年前にローマで火あぶりになったジョルダノ・ブルーノと同じ運命をたどったであろうことも確かである。

だが、意外なことに、ガリレオに先立って、地動説を提唱したコペルニクスの『天球回転論』は、コペルニクスの死後、1543年に何の検閲も受けることなく出版され、自由に読まれていた。これは、16世紀に、ローマ・カトリック教会が、325年のニケーア公会議で採用したユリウス暦と現実の季節とのずれを問題視するようになり、正確な暦法を新たに制定するために、天文学者たちの自由な研究を奨励しなければならなかったからである。ローマ・カトリック教会は、決して地動説を容認していたわけではなく、コペルニクスの地動説も、実在性のない数学的仮説、計算を簡単にするための道具的便法として許可していたまでである。

地動説を宗教的な立場から最初に批判したのは、宗教改革の旗手、マルティン・ルターだった。ルターは、『天球回転論』が出版される4年前、地動説の噂を聞き、

このばか者は天文学全体をひっくり返そうとしている。ヨシュアが留まれと言ったのは、太陽に対してであって、地球に対してではない。

Der Narr will die Ganze Kunst Astronomie umkehren! Aber wie die Heilige Schrift anzeigt, so hiess Josua die Sonne stillstehen und nicht das Erdreich.

と地動説の提唱者を批判した。プロテスタンティズムは、『聖書』を文字通りに解釈する原理主義だから、『聖書』の記述と矛盾する新説に対しては厳しかったのだ。ローマ・カトリック教会も、1582年に、現在まで使われることになるグレゴリウス暦を制定すると、次第に天文学の保護者から抑圧者へと変貌を遂げることになる。

2. 地動説と矛盾する聖書の記述

では、地動説は、『聖書』のどのような記述と矛盾するのだろうか。そして、それはどのような宗教的問題を孕んでいるのだろうか。『聖書』には、「太陽が昇る」とか「太陽が沈む」という表現が出てくる(詩篇,19:6;伝道の書,1:5)が、こうした表現は、地動説を信じている現在の我々も便宜上使っている表現であり、かつ特別に宗教的な含蓄があるわけでもないので、問題はない。問題となるのは、以下の二つである。

2.1. 大地の安定

まず、『聖書』には、神の支配のおかげで大地が安定し、不動となったと述べている箇所(詩篇,93:1;96:10;104:5;歴代志上,16:30)がある。私は、[試論編:男社会はいかにして成立したのか]で、ユダヤ-キリスト教を、初めて女性原理を完全に克服した男性原理の宗教と位置付けたが、この説明は、『聖書』の天動説を説明する上でも有効である。『聖書』は、父なる天の動きにより、母なる大地がおとなしく動かなくなったことを示唆している。確かに、天動説的な宇宙観では、男の象徴である太陽が、女の象徴である大地の上を勝ち誇って凱旋しているようにも見える。

2.2. 神の意志による太陽の停止

『聖書』には、さらに、神の意志で太陽が静止したり、逆行したりすることが語られている箇所(ヨシュア記,10:12-13;列王記下,20:11)がある。特にヨシュア記の以下の箇所は、ルターが指摘して以来、天動説の根拠とされてきた。

אָ֣ז יְדַבֵּ֤ר יְהֹושֻׁעַ֙ לַֽיהוָ֔ה בְּיֹ֗ום תֵּ֤ת יְהוָה֙ אֶת־ הָ֣אֱמֹרִ֔י לִפְנֵ֖י בְּנֵ֣י יִשְׂרָאֵ֑ל וַיֹּ֣אמֶר לְעֵינֵ֣י יִשְׂרָאֵ֗ל מֶשׁ בְּגִבְעֹ֣ון דֹּ֔ום וְיָרֵ֖חַ בְּעֵ֥מֶק אַיָּלֹֽון׃

主がアモリ人をイスラエルの人々に渡された日、ヨシュアはイスラエルの人々の見ている前で主をたたえて言った「日よとどまれ、ギブオンの上に。月よとどまれ、アヤロンの谷に」。

וַיִּדֹּ֨ם הַשֶּׁ֜מֶשׁ וְיָרֵ֣חַ עָמָ֗ד עַד־ יִקֹּ֥ם גֹּוי֙ אֹֽיְבָ֔יו הֲלֹא־ הִ֥יא כְתוּבָ֖ה עַל־ סֵ֣פֶר הַיָּשָׁ֑ר וַיַּעֲמֹ֤ד הַשֶּׁ֙מֶשׁ֙ בַּחֲצִ֣י הַשָּׁמַ֔יִם וְלֹא־ אָ֥ץ לָבֹ֖וא כְּיֹ֥ום תָּמִֽים׃

日はとどまり、月は動きをやめた。民が敵を打ち破るまで。『ヤシャルの書』にこう記されているように、日はまる一日、中天にとどまり、急いで傾こうとしなかった。

וְלֹ֨א הָיָ֜ה כַּיֹּ֤ום הַהוּא֙ לְפָנָ֣יו וְאַחֲרָ֔יו לִשְׁמֹ֥עַ יְהוָ֖ה בְּקֹ֣ול אִ֑ישׁ כִּ֣י יְהוָ֔ה נִלְחָ֖ם לְיִשְׂרָאֵֽל׃ פ

主がこの日のように人の訴えを聞き届けられたことは、後にも先にもなかった。主はイスラエルのために戦われたのである。

[聖書, ヨシュア記,10:12-14]

もし、太陽がもともと動いていないのなら、太陽に「とどまれ」ということは無意味になる。ガリレオは、この時太陽が止めた動きは自転だったという新解釈を出しているが、太陽が自転を止めたからといって、地球や月が公転運動を停止する必然性はない。イスラエル人とアモリ人との戦いにおいて起きたこの奇跡をどう解釈するかに関しては、古来議論が絶えないが、ここでも、聖書の、文字通りの意味ではなくて、象徴的意味を読み取ることにしよう。

一般に、太陽が男性原理、大地が女性原理を象徴するのに対して、月は両性具有の性質を持つ。インノケンティウス3世は、教皇権と皇帝権を太陽と月の関係に喩えているが、これは、世俗の権力者である皇帝を、教皇と一般民衆との中間に位置付けるためである。引用した箇所では、月は太陽に準じる扱いを受けている。太陽も月も光を発するが、光は、男性原理に属する。戦いが終わるまで、太陽と月が没しなかった、すなわち男性原理である光がイスラエル人を見捨てなかったことを描写することで、男神ヤハウェの御加護があったことが表現されている。

3. なぜこれらの矛盾は許容できないのか

以上、地動説に反する聖書の記述の象徴的意味を解読した。これらの箇所に限らず、ユダヤ-キリスト教は、女性崇拝の宗教との戦いを通じて広がった歴史を持つので、『聖書』には、男性原理と女性原理との対立が、隠れた主題として頻出する。そして、この対立を理解していれば、なぜキリスト教が地動説を危険視したかが見えてくる。以下、2.1. と2.2. に関して、分析してみよう。

3.1. なぜ大地は安定しなければならないのか

まず、2.1. についてだが、神の支配のおかげで大地が不動となっているのだとするならば、大地が動き出すことは、神の支配が衰えることを意味する。キリスト教の聖職者たちは、地球が動くということは、すでに征服しておとなしくなっていたはずの女性原理の不穏な動きと受け取ったのである。

第一次ガリレオ裁判における訴訟指揮の最高責任者だったベルラルミーノ枢機卿は、「太陽の不動性と大地の可動性についての仮説が体裁をうまく取り繕うのを証明することと、大地の運動の真実性を立証することと同じでは決してない。私は第一の点の方は証明できると信じる。しかし、第二の点が証明できるかどうかは疑問に思う。だからこういう疑わしい場合は、人はこれまで教皇様方によって解釈されてきた『聖書』の意味を捨ててはならない」 [ガリレオ,豊田 利幸:世界の名著 26 ガリレオ, p.124]と言っているが、これはどういうことなのだろうか。

コペルニクスの『天球回転論』の出版を許可したときもそうであるが、キリスト教の聖職者たちは、地球が実際に動いていると言ってはいけないが、地球が動くことが理論的に可能だと主張することには問題がないと考えていた。これはたんなる妥協ではない。もしも、大地がもともと動きようがないとするのなら、大地が安定しているのは、神の支配のおかげではないことになる。大地の可動性は、神の偉大さを認識するためにはむしろ必要だったのである。

3.2. なぜ地球が太陽を動かしてはいけないのか

次に2.2. についてだが、もしも、太陽の日周運動が、地球の自転によって起こるのだとするならば、昼と夜を交代させているのは、天ではなくて、大地ということになる。つまり、地動説を肯定することは、光の現前と不在を支配する権力が父なる天から母なる大地へと委譲されることを容認することになるわけで、キリスト教のような男性宗教としては、このような権力の自己否定を認めるわけにはいかない。

4. 男性原理としての火

キリスト教の異端者の裁判は、魔女裁判とは種類を異にしていたにもかかわらず、両者は、有罪者を火あぶりにするという共通点を持っていた。中世のヨーロッパには、死刑には、絞首刑、斬首刑、四つ裂きの刑、車刑、杭打ちの刑、溺殺の刑、釜ゆでの刑など、いろいろな種類があったにもかかわらず、なぜ、魔女と異端者に対しては、火刑だったのか。

その理由は、ジェンダーの対立を考えれば、明らかである。火は、光と同様に太陽の属性であり、男性原理に属する。したがって、魔女や異端者を火刑で焼き尽くすことは、男性原理で女性原理を抹殺する象徴的なセレモニーなのだ。

הִשָּׁמְר֣וּ לָכֶ֗ם פֶּֽן־ תִּשְׁכְּחוּ֙ אֶת־ בְּרִ֤ית יְהוָה֙ אֱלֹ֣הֵיכֶ֔ם אֲשֶׁ֥ר כָּרַ֖ת עִמָּכֶ֑ם וַעֲשִׂיתֶ֨ם לָכֶ֥ם פֶּ֙סֶל֙ תְּמ֣וּנַת כֹּ֔ל אֲשֶׁ֥ר צִוְּךָ֖ יְהוָ֥ה אֱלֹהֶֽיךָ׃

あなたたちは注意して、あなたたちの神、主があなたたちと結ばれた契約を忘れず、あなたの神、主が禁じられたいかなる形の像も造らぬようにしなさい。

כִּ֚י יְהוָ֣ה אֱלֹהֶ֔יךָ אֵ֥שׁ אֹכְלָ֖ה ה֑וּא אֵ֖ל קַנָּֽא׃ פ

あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである。

[聖書, 申命記,04:23-24]

もちろん、無知の暗闇をキリスト教の真理の光で啓蒙するという意味も込められている。イギリスでは、18世紀の末まで、火刑が、女性の犯罪者一般を死刑にするときに使われたという事実は、火刑が、ジェンダー・コンシャスな刑罰であったことを物語っている。

ちなみに江戸時代初期の日本では、キリシタンが逆に火刑に処せられたが、これは、ナショナリスティックな動機に基づくもので、そこにはジェンダーの対立はない。キリシタン弾圧は、神国日本を外国の侵略から守るという大義名分で行われたので、太陽神の末裔である天皇を象徴する火が、処刑の際に使われたと考えることができる。

5. 魔女と地動説の接点

話をヨーロッパに戻そう。魔女が、サバト(悪魔との宴会)に参加するのは夜、特に深夜である。光が男性原理に属するのに対して、闇は女性原理に属するからだ。天は大地に対して男性の領域だが、天の中でも、昼と夜という形で、男性原理と女性原理の対立が反復されている。サバトは夜明けを告げる鶏の鳴き声で終わるのだから、魔女を火あぶりによって抹殺することは、日の出とともに、悪魔や魔女が消えていく現象の再現と見ることができる。

もし天動説が正しいのなら、父なる天は自らの意志で太陽を昇らせ、悪魔と魔女を消し去ることができることになる。だが、もし地動説が正しいのなら、母なる大地は、自らの意志で太陽を消し去ることができることになる。

太陽が姿を消すと、それまで太陽の光(キリスト教の真理)のおかげで見えなかった、ギリシャ神話やローマ神話に登場する異教徒の神の名がつけられた惑星が現れ、サバトのダンスのような不規則な軌道を描きながら、闇夜を跋扈する。太陽が規則正しい軌道を描く秩序の象徴であるのに対して、惑星は、その名の通り迷える星で、無秩序の象徴である。太陽が昇れば、闇夜は消えるが、それは母なる大地の意志で姿を消すのであって、父なる天の意志によるのではない。これは、父権的宗教の聖職者にとっては、母権的宗教の許しがたい越権行為である。だから、キリスト教の聖職者たちは、自らの意志で魔女と地動説の提唱者を火あぶりにしなければならない。

魔女裁判も異端審問もともにスケープゴート現象である。人間と自然の対立関係は、人間の内部で、男と女の対立関係として反復される。だから、女は人間と自然の境界上に位置する両義的存在として表象される。他方、異端者も、キリスト教徒と異教徒との境界上の両義的存在である。魔女や女性原理の崇拝者たちは、二つの意味で、境界上の両義的存在であり、キリスト教に基づく男社会の支配が危機に瀕したときに、システムのエントロピーを縮減するために、スケープゴートとして排除される運命にある。

異端の中には、女性崇拝者でないものもいたが、キリスト教が成立した当初は、異教徒のほとんどは地母神崇拝者だったから、異端者は、女性原理の崇拝者として、一括して迫害された。実は、地動説も、もともとは男性原理の崇拝から生まれたのだが、キリスト教は、自分たちの基準で、女性原理の崇拝と誤解してしまった。

6. 宇宙の中心は争点ではない

英語では、地動説のことを「太陽中心説(the heliocentric theory)」、天動説のことを「地球中心説(the geocentric theory)」と呼んでいる。しかし、地動説と太陽中心説、あるいは天動説と地球中心説は、概念的に同じではない。例えば、地球は宇宙の中心にあって自転していると考えるならば、その説は、地動説にして地球中心説ということになる。概念的に同じではない二つの説を混同したことが誤解の始まりである。

最初に地動説を唱えたのは、ピタゴラス派のピロラオス(紀元前5世紀頃)で、その理論は地動説でありながら、地球中心説でも太陽中心説でもなかった。後に現れたピタゴラス派のヒケタスやエクパントスなどは、地球を宇宙の中心とする地動説を唱えた。太陽中心説と地動説という組み合わせを選んだのは、サモアのアリスタルコス(紀元前310-230年頃)で、彼は、地球の自転と公転を主張するなど、その結論はきわめて近代的だった。

もちろん、古代ギリシャには、地球中心の天動説を唱える哲学者もいた。最終的に、中世ヨーロッパにおいて定説の地位を得ることができたのは、プトレマイオスがまとめあげた地球中心の天動説で、その理論は、アリストテレスの宇宙論のような単純な同心天球説とは異なり、周転円を導入して惑星の見かけ上の不規則な動きを説明するなど、天動説としては完成度が高かった。

一般に、古代ギリシャの哲学者は、実験や観察を軽視する傾向にあるが、天文学に関しても然りであって、彼らの天文学的理論は、科学的仮説というよりも、哲学的あるいは宗教的なコスモロジーとしての色彩が強かった。私は、[試論編:男社会はいかにして成立したのか]で、古代ギリシャの哲学をユダヤ-キリスト教とともに、女性原理を克服した男性原理として位置付けたが、ギリシャで最初に、かつ最も純粋に男性原理を打ち出した哲学者、プラトンは太陽が宇宙の中心だと考えていた。

プラトンは、純粋に非物質的な(つまり非女性的な)イデアを真実在とみなした最初の哲学者であり、彼のイデア論は、きわめて男性崇拝的である。有名な洞窟の比喩や太陽の比喩からわかるように、プラトンは、太陽を究極のイデアである善の象徴としていた。だから、彼が、太陽を宇宙の中心に位置付けても、不思議ではない。このように、同じ男性原理に基づいていても、太陽中心主義が帰結することもあれば、天動説が帰結することもある。

しばしば、科学史の本などは、天動説から地動説へのパラダイム・シフトを脱人間中心主義として特徴付け、ローマ・カトリック教会が地動説を迫害したのは、地球中心主義を放棄したくなかったからだと解説している。だが、このおなじみの解説には首を傾げざるをえない。インノケンティウス3世が喩えるように、太陽が教皇だとするならば、太陽中心主義は教皇中心主義という、ローマ・カトリック教会にとっては都合の良いコスモロジーになるので、迫害する必要はなくなる。

1620年に、教皇庁図書検閲聖省は、コペルニクスの『天球回転論』に何箇所かの訂正を命じている。検閲聖省は、第5章の宇宙の中心について述べた箇所に対しては、「地球が宇宙の真中にあると考えようが、真中から外れたところにあると考えようが、どうでもよい」と訂正させているのに対して、「地球の運動の真理性について公然と取り扱い、その静止を証明する古の伝統的諸論拠を破壊している」第8章に対しては、章全体が抹殺の対象となりうると書いている[コペルニクス・天球回転論, p.74-75]。ローマの教皇庁が、太陽中心説と地動説のどちらに目くじらを立てていたかは明白である。

7. 自然に対するロゴスの優位

『聖書』は、地球が宇宙の中心であるとは主張していない。これまで見てきたように、『聖書』との整合性で問題になったことは、大地が動いて、太陽が静止することなのだ。太陽中心説が迫害されるのは、それが地動説にかかわる限りにおいてなのであって、太陽中心説自体は、第一次的な迫害のターゲットではなかった。

それにしても、キリスト教の聖職者たちは、どうしてこうも『聖書』の一字一句にまで拘泥したのだろうか、と読者は不思議に思うかもしれない。ガリレオも、クリスティーナ大公妃宛の手紙の中で「神は『聖書』の尊いお言葉の中だけでなく、それ以上に、自然の諸効果の中に、すぐれてそのお姿を現したまう(né meno eccelentemente ci si scuopre Iddio negli effetti di natura che ne’ sacri detti delle Scritture)」[A madama Cristina di Lorena granduchessa di Toscana]と言って、地動説への理解を求めている。

しかし、私たちはここで、『ヨハネ福音書』の冒頭にある「はじめに言葉ありき」という命題を思い起こさなければならない。男性原理は、自然ではなくて言葉(ロゴス)に優位を置く。「はじめに自然ありき」と考えるガリレオは、キリスト教の聖職者からすれば、《自然=女》を崇拝する、許せない異端だったのだ。

読書案内

コペルニクスの地動説に関しては、この本が詳しい。原書以外に、教皇庁図書検閲聖省の検定意見などの翻訳もあり、解説も詳しい。

書名コペルニクス・天球回転論
媒体単行本
著者高橋 憲一
出版社と出版時期みすず書房, 1993/12

科学史研究で著名なトーマス・クーンの著作には、科学革命の構造よりも具体的な、こんな研究がある。

書名コペルニクス革命―科学思想史序説
媒体文庫
著者常石 敬一,トーマス クーン
出版社と出版時期講談社, 1989/06

私たちは、1851年のフーコーの振り子の実験から地球が自転していることを、1838年のベッセルによる年周視差の発見から地球が公転していることを知っている。しかし、コペルニクスやガリレオの時代には、これらの地動説の根拠は知られていなかった。コペルニクスは、天動説だと、火星天球と太陽天球が交差することになる不都合を回避するために地動説を提唱し、そして、ガリレオがその地動説を支持した根拠は潮の干満だった。どちらも地動説の根拠としては間違っている。パラダイム転換は、決して合理的に行われるわけではない。

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  13 コメント

  1. 今回印象的だったのは、ヨシュアの奇跡が起こる可能性をガリレイの地動説が封じていると坊主達が感じているということです。特に驚いたのは、この坊主達は、地球の可動性は神の偉大さを認識するためにむしろ必要だと認めていたという指摘です。うなりました。太陽が留まるという奇跡は、荒唐無稽、一回限りのありそうもないという意味でいかにも俗受けしそうな派手な奇跡です。おきて破りです。言っている本人も暗に認めている。在ったら、すごいね、あったからすごいねと言っていればいい。しかし、地球の不動化のほうは、はるかに地味な奇跡です。日常的で、反復体験可能です。見たまんまです。地震、噴火を除けば、日々神は揺るがぬ大地とともに我々を祝福していることになります。ニュートン的な法則的な神の萌芽を感じます。自然科学ってそっちの方の奇跡を追及してますよね。動くもの同士の不動の定式化です。この派手と地味の組み合わせは強力だと思いました。
    奇跡といえば派手な方のしか知りませんでした。ヴィトゲンシュタインが奇跡が存在しているのではなく、存在それ自体が奇跡なのだとどこかで言っていたと思います。かっこいいと思っていたのですが、これって、奇跡を反証不可能な領域に持ち込んで延命させようとしている別種の坊主、坊主臭くない分よけいに怪しげな宗教という気がしてきました。存在論てひょっとして宗教?地味な奇跡のほうがかえって派手なんだぜと言っているだけみたいに聞こえます。これだと、それでも地球はまわっていると呟くガリレイに対してさえも、動こうが動くまいが地球が存在していること自体が奇跡なのだ神の祝福なのだといえば、あっさり納得したのではないでしょうか。動かない地球を存在するに地球に置き換えるだけのことです。永井さんの指摘された3.1の論理の射程の深さと遠さに驚きます。そこで、質問です。なぜ、我々はこんなにも奇跡が好きなのですか?奇跡なしで済ませることはできないのですか?結局、宝くじが廃れないように、奇跡もすたれないのでしょうか?

  2. 人間が、有限な経験に基づいて、普遍妥当的な法則を仮説として立て、それに基づいて未来を予測するかぎり、予想が外れるという経験から免れることはできません。きわめて確実性の高い予想が外れたときは、それが奇跡だと言われます。奇跡が起きなくなるには、二つの場合があります。人間の未来予測能力が完全になった場合と予測する能力がまったくなくなった場合です。神と意識のない動物という両極端にとって、奇跡は存在しません。

  3. そもそも地動説は教会から迫害されていないという話を聞いたことがあります。地動説の提唱者で裁判になったのはガリレオ以外はおらず、ガリレオが異端とされたのは、ガリレオの出世を妬んだ学者が陥れるために教皇庁に働き掛けて、地動説はその理由にされただけだそうです。コペルニクスが地動説の公表をためらったのは、間違いだとカトリック教会の権威が損なわれるのを心配したからで、ルターが地動説を批判したのは、コペルニクスがカトリックだからで、ブルーノが火炙りになったのは、太陽が他の星と同じ種類の天体であり、宇宙は無限に広がっていて、太陽が中心ではないと唱えたからで、地動説の事は判決には書いてないそうです。教会が地動説を迫害しようとしたのなら、なぜガリレオ以外の地動説を唱えた人達は、迫害されなかったのでしょうか?

  4. 本文に書いたように、当時の教会は、仮説として地動説までは禁じていませんでした。ガリレオのように、天動説は間違いで、地動説こそが真理だと言わなければ良いだけです。「ルターが地動説を批判したのは、コペルニクスがカトリックだから」ではありません。当時の西ヨーロッパの人々は、ほぼ全員カトリックでしたから、カトリックの信者が言ったことをすべて否定していてはきりがありません。ルターが地動説を批判したのは、地動説が聖書の記述と一致しないからです。
    現在でも、創造科学の信奉者たちは、「そもそも宇宙に中心などないのだから、地球が静止しているとするコスモロジーを間違いと断罪することは非科学的だ」と言って、天動説を支持しています。そして、アメリカでは、キリスト教原理主義者たちが、創世記に基づく進化論や天動説などの創造科学の教義を公教育の場で教えさせようと、様々な政治的圧力を加えて成果を上げています。「その程度のことで「迫害」という言葉を使うのは、オーバーだ」というのであれば、「地動説はなぜ迫害されたのか」というタイトルを「キリスト教は、なぜ地動説を異教的だとみなし、天動説を支持しているのか」としてもかまいません(長すぎて、実際には無理ですが)。

  5. 最初の「キリスト教は地動説を否定していた」というタイトルを変更していただきたいと思います。
    「キリスト教会史」を学ばれていないクリスチャンや全く聖書を知らない人から見ると宗教改革前のローマ・カトリックと、現在の福音派のプロテスタント教会と混同してしまうような言い回しに見えます。 (´I `。(-ェ-。)ウンウン

  6. 過去形で書いていることからわかるように、これは過去のキリスト教についての話であって、現在のキリスト教についての話ではありません。また、本文でも書いたように、カトリックよりも原理主義的なプロテスタントの方が、地動説に批判的であったので、「宗教改革前のローマ・カトリック」の問題とすることはできません。

  7. 私は生まれてきてからずっと地動説支持でした。
    今現在もゴッドやキリストは信じていません。
    しかし、観測距離=質量x回転半径 質量=回転半径の絶対公理
    を発見し、地動説を完全否定するに至りました。
    Aさんが10cmの箱を10m先のBさんに送った時
    現代物理では10cmの箱は質量や長さが変化したりしません。
    しかし実際には、10cmはそれ以下の長さになってBさんに届きます。
    遠くにあるりんごは光学拡散によって 小さく見える=観測される
    のではなく、実際に小さいのだと考えれば、暗黒物質や
    (私の発見ではない部分ですが)地球などの天体が傾いている理由
    =棒が刺さってない為、角運動が考慮されてない。など新発見がありました。
    2次元時間と1次元空間説が正しければ、天動説は正しいです。
    1次元時間と3次元空間説が正しければ、地動説が正しいです。
    宗教的には無神論者ですし、進化論も信じてます。
    しかし、地動説は信じられません。
    箱が x y z t では無く time time space で構成されいたら
    すべてに説明がついてしまいます。
    科学誌ネイチャーやヴァチカンに詳しく送りました。
    岡 祐貴

  8. 過去のクリスチャンが天動説を否定していたことは確かですが、聖書は地動説を支持しているのではないでしょうか?
    以下の箇所が天動説を支持しているといわれていますが、
    「日よとどまれ、ギブオンの上に。月よとどまれ、アヤロンの谷に。
    日はとどまり、月は動きをやめた。民が敵を打ち破るまで。『ヤシャルの書』にこう記されているように、日はまる一日、中天にとどまり、急いで傾こうとしなかった。
    主がこの日のように人の訴えを聞き届けられたことは、後にも先にもなかった。主はイスラエルのために戦われたのである。 」
    これはあくまでヨシュアの生きた時代は科学が発達しておらず、天動説をみんな信じていたため「日をとどめてください」と言うしかなかったのであり、神様はヨシュアの意図を知っていたため、まるで日がとどまったかのように感じるくらい集中力を与え勝てるようにしたと考えるのが妥当ではないでしょうか。
    私たちも時間を一定に感じるわけではないと思います。
    集中して行ったときは本当に短い時間で多くのことをなすことができます。
    聖書は人の手を通して描かれており書いた人の生きた時代を考える必要があります。時代性を考慮したうえで考えるのならばこの箇所によって天動説を支持していると考えることはできません。
    聖書にはむしろ地動説を支持していると思われる箇所があります。
    ヨブ記26:7~10
    He stretcheth out the north over the empty place, and hangeth the earth upon nothing.
    彼は北の天を空間に張り、/地を何もない所に掛けられる。
    He bindeth up the waters in his thick clouds; and the cloud is not rent under them.
    彼は水を濃い雲の中に包まれるが、/その下の雲は裂けない。
    He holdeth back the face of his throne, and spreadeth his cloud upon it.
    彼は月のおもてをおおい隠して、/雲をその上にのべ、
    He hath compassed the waters with bounds, until the day and night come to an end.
    水のおもてに円を描いて、/光とやみとの境とされた。
    よって時代性を考慮したうえで考えるのならば、聖書は天動説を支持してはいません。

  9. 旧約聖書の宇宙観に関しては、「聖書を読みとく」をご覧ください。旧約聖書は、大地を水に浮かぶ円盤と考えていましたが、それが太陽の周りを回っているとは考えていませんでした。えりなさんが引用した箇所も、地動説には結び付きません。

  10. 『ガリレオは間違っていた。教会が正しかった』という本があるそうです。
    Galileo Was Wrong: The Church Was Right
    ・・・地球が宇宙空間を移動している速度を測ろうとしてきました。しかしどうしても測定できないのです。更にまた、観察上、どうしても地球が宇宙のど真ん中にあるように観測されるのです。そして、ドグマを守るために、現代科学は相対性理論に始まって、これを密かに葬りつつ(何故なら、例えばアインシュタインはエーテルという名前の光などの力の働く媒体を否定して宇宙空間を全くの虚無としつつ、しかしながらどうしても後に「エーテル」という名前こそ無いけれども、力の働く場を想定しなければならなくなり、宇宙空間を全くの虚無とすることが出来なかったから。)、ひも理論、超ひも理論、ワープ、多次元空間とまさにSFの世界に入ってしまっています。しかし、ロバート・サンジェニスは、もっと単純に、地球が宇宙のど真ん中にあって何が悪いのか? 最新のNASA のデーターでも、そう観察されるなら、その通りに考えてみよう、と提案しているわけです・・・

  11. 日と月が光を失い星が空から落ちる(マタイ二四・29)
    創世記三七章9節以下を見れば、ヤコブの十二人の子供たちのうち、十一番目の息子であるヨセフが夢を見たとあり、その内容について「ヨセフはまた一つの夢を見て、それを兄弟たちに語って言った、『わたしは夢を見ました。日と月と十一の星とがわたしを拝みました』。彼はこれを父と兄弟たちに語ったので、父は彼をとがめて言った、『あなたが見たその夢はどういうのか。ほんとうにわたしとあなたの母と、兄弟たちとが行って地に伏し、あなたを拝むのか』」と記録されている。ところがヨセフが成長して、エジプトの総理大臣になったとき、まさしくこの夢のとおり、その父母と兄弟たちが彼を拝んだのである。
    この聖書のみ言を見れば、日と月は父母を象徴したのであり、星は子女たちを象徴したのだということを知ることができる。キリスト論で述べるように、イエスと聖霊はアダムとエバの代わりに、人類を重生させてくださる真の父母として来られたのである。それゆえに、日と月はイエスと聖霊を象徴しているのであり、星は子女に該当するキリスト教徒たちを象徴しているのである。
    (原理講論155頁より抜粋)
    この事からもキリスト教が地動説を否定しているというのはどうなのでしょうか?
    原理講論、一度ご覧になってはいかがでしょうか?私は感動しました(^^

  12. 「しかし、その時に起こる患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう」[マタイによる福音書,24:29]は、異常事態についての描写で、通常時において天と地のどちらが動いているかをここから読み取ることはできません。この箇所を普通に読むならば、普段は一方向にスムーズに動いている天球が、星の落下で振動し始めたというように解釈できます。
    なお、似たような記述が、プルタルコスが西暦75年に書いた「リュサンドロス伝」にあります。以下、英訳で引用しましょう。
    “Some affirmed, that when Lysander’s ship sailed out of the harbour of Lampsakus to attack the enemy, they saw the Dioskuri, like two stars, shining over the rudders. Some also say that the fall of the great stone was an omen of this disaster: for the common belief is that a vast stone fell down from Heaven into the Goat’s Rivers, which stone is even now to be seen, and is worshipped by the people of the Chersonese. We are told that Anaxagoras foretold that in case of any slip or disturbance of the bodies which are fixed in the heavens, they would all fall down. The stars also, he said, are not in their original position, but being heavy bodies formed of stone, they shine by the resistance and friction of the atmosphere, while they are driven along by the violence of the circular motion by which they were originally prevented from falling, when cold and heavy bodies were separated from the general universe. There is a more credible theory on this subject, that shooting-stars are not a rush of arial fire which is put out as soon as it is kindled, nor yet a blaze caused by a quantity of air being suddenly allowed to rush upwards, but that they are heavenly bodies, which from some failure in their rotatory power, fall from their orbit and descend, not often into inhabited portions of the earth, but for the most part into the sea, whereby they escape notice. This theory of Anaxagoras is confirmed by Daimachus in his treatise on Piety, where he states that for seventy-five days before the stone fell a fiery body of great size like a burning cloud, was observed in the heavens. It did not remain at rest, but moved in various directions by short jerks, so that by its violent swaying about many fiery particles were broken off, and flashed like shooting-stars. When, however, it sank to the earth, the inhabitants, after their first feeling of terror and astonishment were passed, collected together, and found no traces of fire, but merely a stone lying on the ground, which although a large one, bore no comparison to that fiery mass. It is evident that this tale of Daimachus can only find credit with indulgent readers: but if it be true, it signally confutes those who argue that the stone was wrenched by the force of a whirlwind from some high cliff, carried up high into the air, and then let fall whenever the violence of the tempest abated. Unless, indeed, that which was seen for so many days was really fire, which, when quenched, produced such a violent rushing and motion in the air as tore the stone from its place. ” [Plutarch,Life of Lysander,XII,Plutarch’s Lives, Volume II]
    ここから推測すると、聖書は、流れ星に関するアナクサゴラスの説に基づいているのではないかと思われます。

  13. 質問なんですけども、自分中心に世界を見ているから、太陽が動いていると、勘違いしたんじゃないんですか

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