地動説はなぜ迫害されたのか

2003年3月1日

キリスト教は、なぜかつて地動説を否定して、天動説を支持していたのだろうか。たんに聖書に書かれている記述と矛盾するからだけなのか。キリスト教が母権宗教を否定する父権宗教である点に注目して、考えよう。

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1. キリスト教は地動説を否定していた

ガリレオ・ガリレイが、天動説を斥け、地動説を支持したかどで、宗教裁判にかけられ、異端誓絶を強要された後、「それでも地球は動いている」と呟いたという逸話は、宗教が科学を完全には屈服させることができないことを象徴するエピソードとして有名である。

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異端審問を受けるガリレオ。[1]

このエピソードは、しかしながら、よく考えてみると眉唾物である。もしも「それでも地球は動いている」という呟きが周囲に聞こえたなら、異端審問がやり直しになるはずだし、もしも周囲に聞こえないような小さな声で呟いていたのなら、このようなエピソードが後世に伝わるはずはない。

ガリレオが本当に「それでも地球は動いている」と呟いたかどうかは別としても、彼が、1633年に宗教裁判にかけられたことは史実であり、もし異端誓絶を拒んだならば、33年前にローマで火あぶりになったジョルダノ・ブルーノと同じ運命をたどったであろうことも確かである。

だが、意外なことに、ガリレオに先立って、地動説を提唱したコペルニクスの『天球回転論』は、コペルニクスの死後、1543年に何の検閲も受けることなく出版され、自由に読まれていた。これは、16世紀に、ローマ・カトリック教会が、325年のニケーア公会議で採用したユリウス暦と現実の季節とのずれを問題視するようになり、正確な暦法を新たに制定するために、天文学者たちの自由な研究を奨励しなければならなかったからである。ローマ・カトリック教会は、決して地動説を容認していたわけではなく、コペルニクスの地動説も、実在性のない数学的仮説、計算を簡単にするための道具的便法として許可していたまでである。

地動説を宗教的な立場から最初に批判したのは、宗教改革の旗手、マルティン・ルターだった。ルターは、『天球回転論』が出版される4年前、地動説の噂を聞き、「このばか者は天文学全体をひっくり返そうとしている。ヨシュアが留まれと言ったのは、太陽に対してであって、地球に対してではない[2]」と地動説の提唱者を批判した。プロテスタンティズムは、『聖書』を文字通りに解釈する原理主義だから、『聖書』の記述と矛盾する新説に対しては厳しかったのだ。ローマ・カトリック教会も、1582年に、現在まで使われることになるグレゴリウス暦を制定すると、次第に天文学の保護者から抑圧者へと変貌を遂げることになる。

2. 地動説と矛盾する聖書の記述

では、地動説は、『聖書』のどのような記述と矛盾するのだろうか。そして、それはどのような宗教的問題を孕んでいるのだろうか。『聖書』には、「太陽が昇る」とか「太陽が沈む」という表現が出てくる[3]が、こうした表現は、地動説を信じている現在の我々も便宜上使っている表現であり、かつ特別に宗教的な含蓄があるわけでもないので、問題はない。問題となるのは、以下の二つである。

2.1. 大地の安定

まず、『聖書』には、神の支配のおかげで大地が安定し、不動となったと述べている箇所[4]がある。私は、ユダヤ-キリスト教を、初めて女性原理を完全に克服した男性原理の宗教と位置付けたが、この説明は、『聖書』の天動説を説明する上でも有効である。『聖書』は、父なる天の動きにより、母なる大地がおとなしく動かなくなったことを示唆している。確かに、天動説的な宇宙観では、男の象徴である太陽が、女の象徴である大地の上を勝ち誇って凱旋しているようにも見える。

2.2. 神の意志による太陽の停止

『聖書』には、さらに、神の意志で太陽が静止したり、逆行したりすることが語られている箇所[5]がある。特にヨシュア記の以下の箇所は、ルターが指摘して以来、天動説の根拠とされてきた。

主がアモリ人をイスラエルの人々に渡された日、ヨシュアはイスラエルの人々の見ている前で主をたたえて言った「日よとどまれ、ギブオンの上に。月よとどまれ、アヤロンの谷に」。

日はとどまり、月は動きをやめた。民が敵を打ち破るまで。『ヤシャルの書』にこう記されているように、日はまる一日、中天にとどまり、急いで傾こうとしなかった。

主がこの日のように人の訴えを聞き届けられたことは、後にも先にもなかった。主はイスラエルのために戦われたのである。[6]

もし、太陽がもともと動いていないのなら、太陽に「とどまれ」ということは無意味になる。ガリレオは、この時太陽が止めた動きは自転だったという新解釈を出しているが、太陽が自転を止めたからといって、地球や月が公転運動を停止する必然性はない。イスラエル人とアモリ人との戦いにおいて起きたこの奇跡をどう解釈するかに関しては、古来議論が絶えないが、ここでも、聖書の、文字通りの意味ではなくて、象徴的意味を読み取ることにしよう。

一般に、太陽が男性原理、大地が女性原理を象徴するのに対して、月は両性具有の性質を持つ。インノケンティウス3世は、教皇権と皇帝権を太陽と月の関係に喩えているが、これは、世俗の権力者である皇帝を、教皇と一般民衆との中間に位置付けるためである。引用した箇所では、月は太陽に準じる扱いを受けている。太陽も月も光を発するが、光は、男性原理に属する。戦いが終わるまで、太陽と月が没しなかった、すなわち男性原理である光がイスラエル人を見捨てなかったことを描写することで、男神ヤハウェの御加護があったことが表現されている。

3. なぜこれらの矛盾は許容できないのか

以上、地動説に反する聖書の記述の象徴的意味を解読した。これらの箇所に限らず、ユダヤ-キリスト教は、女性崇拝の宗教との戦いを通じて広がった歴史を持つので、『聖書』には、男性原理と女性原理との対立が、隠れた主題として頻出する。そして、この対立を理解していれば、なぜキリスト教が地動説を危険視したかが見えてくる。以下、2.1.「大地の安定」と2.2.「神の意志による太陽の停止」に関して、分析してみよう。

3.1. なぜ大地は安定しなければならないのか

まず、「大地の安定」について。神の支配のおかげで大地が不動となっているのだとするならば、大地が動き出すことは、神の支配が衰えることを意味する。キリスト教の聖職者たちは、地球が動くということは、すでに征服しておとなしくなっていたはずの女性原理の不穏な動きと受け取ったのである。

第一次ガリレオ裁判における訴訟指揮の最高責任者だったベルラルミーノ枢機卿は、「太陽の不動性と大地の可動性についての仮説が体裁をうまく取り繕うのを証明することと、大地の運動の真実性を立証することと同じでは決してない。私は第一の点の方は証明できると信じる。しかし、第二の点が証明できるかどうかは疑問に思う。だからこういう疑わしい場合は、人はこれまで教皇様方によって解釈されてきた『聖書』の意味を捨ててはならない[7]」と言っているが、これはどういうことなのだろうか。

コペルニクスの『天球回転論』の出版を許可したときもそうであるが、キリスト教の聖職者たちは、地球が実際に動いていると言ってはいけないが、地球が動くことが理論的に可能だと主張することには問題がないと考えていた。これはたんなる妥協ではない。もしも、大地がもともと動きようがないとするのなら、大地が安定しているのは、神の支配のおかげではないことになる。大地の可動性は、神の偉大さを認識するためにはむしろ必要だったのである。

3.2. なぜ地球が太陽を動かしてはいけないのか

次に「神の意志による太陽の停止」について考えよう。もしも、太陽の日周運動が、地球の自転によって起こるのだとするならば、昼と夜を交代させているのは、天ではなくて、大地ということになる。つまり、地動説を肯定することは、光の現前と不在を支配する権力が父なる天から母なる大地へと委譲されることを容認することになるわけで、キリスト教のような男性宗教としては、このような権力の自己否定を認めるわけにはいかない。

4. 男性原理としての火

キリスト教の異端者の裁判は、魔女裁判とは種類を異にしていたにもかかわらず、両者は、有罪者を火あぶりにするという共通点を持っていた。中世のヨーロッパには、死刑には、絞首刑、斬首刑、四つ裂きの刑、車刑、杭打ちの刑、溺殺の刑、釜ゆでの刑など、いろいろな種類があったにもかかわらず、なぜ、魔女と異端者に対しては、火刑だったのか。

その理由は、ジェンダーの対立を考えれば、明らかである。火は、光と同様に太陽の属性であり、男性原理に属する。したがって、魔女や異端者を火刑で焼き尽くすことは、男性原理で女性原理を抹殺する象徴的なセレモニーなのだ。

あなたたちは注意して、あなたたちの神、主があなたたちと結ばれた契約を忘れず、あなたの神、主が禁じられたいかなる形の像も造らぬようにしなさい。

あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである。[8]

もちろん、無知の暗闇をキリスト教の真理の光で啓蒙するという意味も込められている。イギリスでは、18世紀の末まで、火刑が、女性の犯罪者一般を死刑にするときに使われたという事実は、火刑が、ジェンダー・コンシャスな刑罰であったことを物語っている。

ちなみに江戸時代初期の日本では、キリシタンが逆に火刑に処せられたが、これは、ナショナリスティックな動機に基づくもので、そこにはジェンダーの対立はない。キリシタン弾圧は、神国日本を外国の侵略から守るという大義名分で行われたので、太陽神の末裔である天皇を象徴する火が、処刑の際に使われたと考えることができる。

5. 魔女と地動説の接点

話をヨーロッパに戻そう。魔女が、サバト(悪魔との宴会)に参加するのは夜、特に深夜である。光が男性原理に属するのに対して、闇は女性原理に属するからだ。天は大地に対して男性の領域だが、天の中でも、昼と夜という形で、男性原理と女性原理の対立が反復されている。サバトは夜明けを告げる鶏の鳴き声で終わるのだから、魔女を火あぶりによって抹殺することは、日の出とともに、悪魔や魔女が消えていく現象の再現と見ることができる。

もし天動説が正しいのなら、父なる天は自らの意志で太陽を昇らせ、悪魔と魔女を消し去ることができることになる。だが、もし地動説が正しいのなら、母なる大地は、自らの意志で太陽を消し去ることができることになる。

太陽が姿を消すと、それまで太陽の光(キリスト教の真理)のおかげで見えなかった、ギリシャ神話やローマ神話に登場する異教徒の神の名がつけられた惑星が現れ、サバトのダンスのような不規則な軌道を描きながら、闇夜を跋扈する。太陽が規則正しい軌道を描く秩序の象徴であるのに対して、惑星は、その名の通り迷える星で、無秩序の象徴である。太陽が昇れば、闇夜は消えるが、それは母なる大地の意志で姿を消すのであって、父なる天の意志によるのではない。これは、父権的宗教の聖職者にとっては、母権的宗教の許しがたい越権行為である。だから、キリスト教の聖職者たちは、自らの意志で魔女と地動説の提唱者を火あぶりにしなければならない。

魔女裁判も異端審問もともにスケープゴート現象である。人間と自然の対立関係は、人間の内部で、男と女の対立関係として反復される。だから、女は人間と自然の境界上に位置する両義的存在として表象される。他方、異端者も、キリスト教徒と異教徒との境界上の両義的存在である。魔女や女性原理の崇拝者たちは、二つの意味で、境界上の両義的存在であり、キリスト教に基づく男社会の支配が危機に瀕したときに、システムのエントロピーを縮減するために、スケープゴートとして排除される運命にある。

異端の中には、女性崇拝者でないものもいたが、キリスト教が成立した当初は、異教徒のほとんどは地母神崇拝者だったから、異端者は、女性原理の崇拝者として、一括して迫害された。実は、地動説も、もともとは男性原理の崇拝から生まれたのだが、キリスト教は、自分たちの基準で、女性原理の崇拝と誤解してしまった。

6. 宇宙の中心は争点ではない

英語では、地動説のことを「太陽中心説(the heliocentric theory)」、天動説のことを「地球中心説(the geocentric theory)」と呼んでいる。しかし、地動説と太陽中心説、あるいは天動説と地球中心説は、概念的に同じではない。例えば、地球は宇宙の中心にあって自転していると考えるならば、その説は、地動説にして地球中心説ということになる。概念的に同じではない二つの説を混同したことが誤解の始まりである。

最初に地動説を唱えたのは、ピタゴラス派のピロラオス(紀元前5世紀頃)で、その理論は地動説でありながら、地球中心説でも太陽中心説でもなかった。後に現れたピタゴラス派のヒケタスやエクパントスなどは、地球を宇宙の中心とする地動説を唱えた。太陽中心説と地動説という組み合わせを選んだのは、サモアのアリスタルコス(紀元前310-230年頃)で、彼は、地球の自転と公転を主張するなど、その結論はきわめて近代的だった。

もちろん、古代ギリシャには、地球中心の天動説を唱える哲学者もいた。最終的に、中世ヨーロッパにおいて定説の地位を得ることができたのは、プトレマイオスがまとめあげた地球中心の天動説で、その理論は、アリストテレスの宇宙論のような単純な同心天球説とは異なり、周転円を導入して惑星の見かけ上の不規則な動きを説明するなど、天動説としては完成度が高かった。

一般に、古代ギリシャの哲学者は、実験や観察を軽視する傾向にあるが、天文学に関しても然りであって、彼らの天文学的理論は、科学的仮説というよりも、哲学的あるいは宗教的なコスモロジーとしての色彩が強かった。私は、古代ギリシャの哲学をユダヤ-キリスト教とともに、女性原理を克服した男性原理として位置付けたが、ギリシャで最初に、かつ最も純粋に男性原理を打ち出した哲学者、プラトンは太陽が宇宙の中心だと考えていた。

プラトンは、純粋に非物質的な(つまり非女性的な)イデアを真実在とみなした最初の哲学者であり、彼のイデア論は、きわめて男性崇拝的である。有名な洞窟の比喩や太陽の比喩からわかるように、プラトンは、太陽を究極のイデアである善の象徴としていた。だから、彼が、太陽を宇宙の中心に位置付けても、不思議ではない。このように、同じ男性原理に基づいていても、太陽中心主義が帰結することもあれば、天動説が帰結することもある。

しばしば、科学史の本などは、天動説から地動説へのパラダイム・シフトを脱人間中心主義として特徴付け、ローマ・カトリック教会が地動説を迫害したのは、地球中心主義を放棄したくなかったからだと解説している。だが、このおなじみの解説には首を傾げざるをえない。インノケンティウス3世が喩えるように、太陽が教皇だとするならば、太陽中心主義は教皇中心主義という、ローマ・カトリック教会にとっては都合の良いコスモロジーになるので、迫害する必要はなくなる。

1620年に、教皇庁図書検閲聖省は、コペルニクスの『天球回転論』に何箇所かの訂正を命じている。検閲聖省は、第5章の宇宙の中心について述べた箇所に対しては、「地球が宇宙の真中にあると考えようが、真中から外れたところにあると考えようが、どうでもよい」と訂正させているのに対して、「地球の運動の真理性について公然と取り扱い、その静止を証明する古の伝統的諸論拠を破壊している」第8章に対しては、章全体が抹殺の対象となりうると書いている[9]。ローマの教皇庁が、太陽中心説と地動説のどちらに目くじらを立てていたかは明白である。

7. 自然に対するロゴスの優位

『聖書』は、地球が宇宙の中心であるとは主張していない。これまで見てきたように、『聖書』との整合性で問題になったことは、大地が動いて、太陽が静止することなのだ。太陽中心説が迫害されるのは、それが地動説にかかわる限りにおいてなのであって、太陽中心説自体は、第一次的な迫害のターゲットではなかった。

それにしても、キリスト教の聖職者たちは、どうしてこうも『聖書』の一字一句にまで拘泥したのだろうか、と読者は不思議に思うかもしれない。ガリレオも、クリスティーナ大公妃宛の手紙の中で「神は『聖書』の尊いお言葉の中だけでなく、それ以上に、自然の諸効果の中に、すぐれてそのお姿を現したまう[10]」と言って、地動説への理解を求めている。

しかし、私たちはここで、『ヨハネ福音書』の冒頭にある「はじめに言葉ありき」という命題を思い起こさなければならない。男性原理は、自然ではなくて言葉(ロゴス)に優位を置く。「はじめに自然ありき」と考えるガリレオは、キリスト教の聖職者からすれば、《自然=女》を崇拝する、許せない異端だったのだ。

8. 追記:コメントで提起された問題についての補足

関連トピックとして、フォーラムから“地動説は本当に迫害されたのか”を転載します。

地動説は本当に迫害されたのか
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2012年8月27日(月) 17:23.

「地動説はなぜ迫害されたのか」に対するコメント(2005年5月10日)に、こういうのがあった。

電脳プリオン さんが書きました:

そもそも地動説は教会から迫害されていないという話を聞いたことがあります。地動説の提唱者で裁判になったのはガリレオ以外はおらず、ガリレオが異端とされたのは、ガリレオの出世を妬んだ学者が陥れるために教皇庁に働き掛けて、地動説はその理由にされただけだそうです。コペルニクスが地動説の公表をためらったのは、間違いだとカトリック教会の権威が損なわれるのを心配したからで、ルターが地動説を批判したのは、コペルニクスがカトリックだからで、ブルーノが火炙りになったのは、太陽が他の星と同じ種類の天体であり、宇宙は無限に広がっていて、太陽が中心ではないと唱えたからで、地動説の事は判決には書いてないそうです。教会が地動説を迫害しようとしたのなら、なぜガリレオ以外の地動説を唱えた人達は、迫害されなかったのでしょうか?

この懐疑論の情報元は明らかにされていないが、日本語版ウィキペディアの「地動説」にも、同じ情報源によるものと思われる懐疑論が掲載されている。その論拠は以下の通り(通し番号は私が付けたものである)。

  1. コペルニクスが自説の発表をためらったのは、万一、誤りであった場合、自分やカトリック教会の名誉や権威が失墜するのを恐れたためである。
  2. コペルニクスの地動説は、写本の形で1514年ごろから流布しており、もしそれを迫害・禁止するのなら、刊行以前に発禁・焚書になるはずである。
  3. コペルニクスは、死期が近づく前に、自説の解説本をプロテスタントであった弟子のレティクスの名で刊行しているが、両者ともに迫害を受けていない。
  4. 『天体の回転について』には、ローマ教皇への献辞がある。当時、献辞を書くには相手の許可が必要だったはずであり、このことからも当時カトリック教会が地動説を迫害しなかったのは明らかである。
  5. グレゴリオ暦への改暦に際して、ローマ教皇グレゴリオ13世が直々に設置した改暦委員会は、改暦に必要な1年の長さの算出に、コペルニクスの『天体の回転について』の数値も使用した(もちろん、他の学者の数値も使用した)。
  6. プロテスタントであったマルティン・ルターが批判したのは、カトリック教会そのものである。ルターが地動説を批判した理由は、たんに地動説を唱えたコペルニクスがカトリック教会の司祭だったからである。またルターは総じて人文主義などの古典や自然学の研究には批判的であった。
  7. 『天体の回転について』(1543年公刊)の印刷担当者はプロテスタントである。プロテスタントは前述のルターの例で分かるとおり、地動説には当初から批判的であった。これが影響して無断で前文が書き足されたと考えられる。
  8. 地動説にすぐに賛同する天文学者があまり出なかったのは、コペルニクスの値の精度が悪く、天動説で計算したときと比べ、惑星の位置があまり正確に算出できなかったためである。その証拠に、ヨハネス・ケプラーがもっと精度のよい『ルドルフ星表』を出すと、瞬く間に全ヨーロッパの天文学者がこれを使いはじめた。
  9. ジョルダーノ・ブルーノが火炙りになったのは、太陽が中心だと言ったからではなく、同時にカトリック教会を激しく批判したためである。また、ブルーノは天文学を教えた形跡はあるが、天文学者ではない(天体計算などを行っていない)。ブルーノの説の中の天文学に関する部分で、教会を最も怒らせた部分は、太陽はその他の恒星と同じ種類の星で、特別な星ではない、また宇宙には特定の中心はなく、その意味で地球も特別な星でないと述べた部分である。もちろんブルーノのこの説は正しいし、当時同じように考えていた天文学者もいたと考えられているが、そう主張する者は当時はまだいなかった。
  10. ガリレオ裁判は、地動説を裁いたものではなく、当時、出世しはじめていたガリレオの出世の道を閉ざすために、政敵がしくんだ罠であり、地動説はそのための理由に使われただけである。その証拠に、地動説を唱えて異端とされた人物は、ガリレオ以後、誰もいない。またガリレオ以前にもいない。(ブルーノの有罪容疑にははっきり地動説とは書いてない)この時代、ローマ教皇庁が地動説を禁じたのは事実であるが、これはガリレオを有罪にするために、先に理由をつける必要があったためである。
  11. ガリレオは敬虔なカトリック教徒であったにもかかわらず、科学の問題については教会の権威やアリストテレス哲学に盲目的に従う事を拒絶し、哲学や宗教から科学を分離する事を提唱した。この事がガリレオ裁判に於いて、ガリレオを異端の徒として裁かせる結果につながったと言われる。実際、時の教皇ウルバヌス8世は当初はガリレオを支持していたが、その後は掌を返したようにガリレオを非難する声明を何度も発した。
  12. 『天体の回転について』は、1616年、ガリレオ裁判の始まる直前に、禁書リストに挙げられたが、十ヶ所の修正を行うまでという条件付きである。1620年には削除すべきとされた箇所が設けられた。

以下、反論しよう。[ ]内の1~12の数字は、上記の通し番号の数字に対応している。

  1. コペルニクスが、自説の完成後、死の直前まで30年に渡って発表をためらった理由が「誤りであった場合、自分やカトリック教会の名誉や権威が失墜するのを恐れたため」[1]というのは、そうなる可能性はコペルニクスの死によってなくなることはないのだから、不可解である。彼が死の直前に『天体の回転について』を公刊したのは、生前に聖書とは異なる意見を発表することで自分に何らかの不利益が生じることを懸念していたと解釈するのが自然である。
  2. キリスト教に基づく最初の地動説批判は、ルターによってなされた。ルターは、カトリック教会の司祭が言ったことをすべて批判していたのではなかったのだから、「コペルニクスがカトリック教会の司祭だったから」[6]批判したというのは無理がある。“このばか者は天文学全体をひっくり返そうとしている。ヨシュアが留まれと言ったのは、太陽に対してであって、地球に対してではない”というコペルニクス批判の内容からもわかるように、ルターは明らかに地動説そのものを批判していた。
  3. 但し、ルターには政治的権力はなかったので、新教の支配圏で地動説が迫害されることはなかった。ブルーノは、1576年にカトリック教会から異端の嫌疑をかけられたが、1592年にヴェネチアで逮捕されるまで、イタリア国外で自由に異端の説を公刊していた。ここからもわかるように、当時のローマの異端審問所は、イタリア国外にまで力が及ぶことはなかった。ドイツ在住のケプラーが提唱した地動説に基づく理論が迫害されることなく受け入れられたのは、そのためである。よって、8 は根拠にはならない。
  4. ローマ・カトリック教会は、1582年にグレゴリウス暦を制定するまでは、天文学者の自由な研究を黙認していた。だから、2~5 は、迫害説に対する反証にはなっていない。ローマ・カトリック教会が地動説を禁止したのは1616年で、迫害はそれ以降のイタリア内に限られる(レティクスはオーストリア在住)。このように、地動説の迫害は、地理的にも時代的にも範囲が限定されていたことに留意しなければならない。
  5. 1600年にブルーノが処刑されたのは、彼が唱えた地動説が原因ではなかったという点で、9は正しい。しかし、ブルーノの異端の説が地動説を含んでいたことから、ローマ・カトリック教会は地動説を問題視するようになり、それが1616年における地動説禁止につながったのではないかという推論をトーマス・クーンが行っている[11]
  6. 1616年に、ローマ教皇庁は地動説を禁ずる布告を出し、コペルニクスの『天球回転論』は閲覧禁止となった[12]。1620年に教皇庁図書検閲聖省は訂正意見を述べ、「地球の運動の真理性について公然と取り扱い、その静止を証明する古の伝統的諸論拠を破壊している」第8章は、章全体が抹殺の対象となりうると書いている。これは地動説が迫害された一つ目の事例である。
  7. 『天球回転論』は、地動説が天体の予測を容易にするための数学的な仮説にすぎず、実際にどう動いているかに関する理論ではないという但し書きを付けて、教皇庁から閲覧が再許可された。この但し書きは、プロテスタントの印刷担当者が、本人の判断で勝手に付け加えたもの[7]ではなくて、地球は可動ではあるが、神の意志により静止されているという当時の教皇庁の見解を反映したものである。
  8. 地動説が迫害された二つ目の事例は、1633年のガリレオの裁判である。地動説で裁かれたのがガリレオだけだった[10]からといって、地動説が迫害されていなかったという結論にはならない。結果としてそうなったのは、迫害の対象が1616年以降のイタリアに限定され、かつそれ以降の学者が、ガリレオの二の舞になるまいと警戒したからである。デカルトはフランス在住だったが、1637年に公刊した『方法序説』の第6部で、この裁判のおかげで、3年前に自然学に関する自説の出版をためらったと告白している。
  9. 11 は何の根拠にもなっていない。科学は聖書の教えに反しない限り許可されるのであって、地動説はそれに反するから禁止の対象になったのである。11が指摘するように、教皇ウルバヌス8世は当初ガリレオを支持しており、もしも地動説自体が何の問題もないのだとするならば、たとえ一部が嫉妬心から「出世しはじめていたガリレオの出世の道を閉ざすために」[10]罠を仕組んだとしても、それには乗らなかったであろう。

ウィキペディアの執筆者は、「地動説が教会から禁止された」というのは正しいが、「教会が実際に地動説を信じる者を迫害した」ということは必ずしも正しくはなく、この二つのことが混同されているせいで、迫害説は論旨としては必ずしも正しいものではないと言っているが、前者は正しいが後者は正しくないということはありえない。ペナルティがないなら、禁止したとは言えないのである。イェーリングが『法における目的』で言う通り、 「強制力のない法は燃えない火であり、照らさない灯火である」つまり、概念における自己矛盾である。二つの迫害事例があり、かつそれが後世の学者の心理を委縮させた以上、迫害の事実はあったと言わなければならない。

改訂版の掲載
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年7月01日(月) 00:13.

本稿の改訂版である「ガリレオはなぜ異端審問で有罪となったのか」を掲載しました。ここでのトピックに関しては、第一節の「キリスト教は本当に地動説を弾圧したのか」をご覧ください。ここで新たに書き加えた論点として、以下のものがあります。

  1. コペルニクスは、オジアンダー宛の手紙の中で、アリストテレス学派や神学者たちが地動説を批判することを懸念する内容の手紙を書いていた。ここから判断すると、『天球回転論』の公刊が死後になった理由の一つとして、地動説が異端的な思想であることをコペルニクス自身が自覚していたことを挙げることができる。
  2. 天球回転論』の出版直後から、地動説を断罪しようとする動きがカトリック教会側にもあったが、それをしようとした教皇宮廷神学顧問のバルトロメオ・スピナとドミニコ会の同僚、ジョバンニ・トロサーニが相次いで死亡したので、それは表面化しなかった。
  3. カトリック教会は、ラテン語での教会批判には寛容であったが、俗語での批判や異端的思想による啓蒙には厳しかった。コペルニクスやケプラーが著書をラテン語で書いたのに対して、ガリレオは『天文対話』をはじめ、主要な著作をイタリア語で書いたため、カトリック教会に睨まれることになった。

Wikipedia での記事は相変わらずですが、本稿はこうした巷の誤解を解く上で役立つかと思います。

9. 関連著作

コペルニクスの地動説に関しては、この本が詳しい。原書以外に、教皇庁図書検閲聖省の検定意見などの翻訳もあり、解説も詳しい。

最近『天球回転論』の完訳が出版された。

科学史研究で著名なトーマス・クーンの著作には、『科学革命の構造』よりも具体的な、『コペルニクス革命―科学思想史序説』という研究がある。私たちは、1851年のフーコーの振り子の実験から地球が自転していることを、1838年のベッセルによる年周視差の発見から地球が公転していることを知っている。しかし、コペルニクスやガリレオの時代には、これらの地動説の根拠は知られていなかった。コペルニクスは、天動説だと、火星天球と太陽天球が交差することになる不都合を回避するために地動説を提唱し、そして、ガリレオがその地動説を支持した根拠は潮の干満だった。どちらも地動説の根拠としては間違っている。パラダイム転換は、決して合理的に行われるわけではない。

10. 参照情報

  1. Cristiano Banti. “Galileo facing the Roman Inquisition.” 1857. Licensed under CC-0.
  2. “Der Narr will die Ganze Kunst Astronomie umkehren! Aber wie die Heilige Schrift anzeigt, so hiess Josua die Sonne stillstehen und nicht das Erdreich.” Martin Luthers sämtliche Schriften herausgegeben von Joh.Georg Walch, Bd.22: Colloquia oder Tischreden. S. 2260.
  3. 聖書 』詩篇,19:6;伝道の書,1:5.
  4. 聖書 』詩篇,93:1;96:10;104:5;歴代志上,16:30.
  5. 聖書 』ヨシュア記,10:12-13;列王記下,20:11.
  6. “אָ֣ז יְדַבֵּ֤ר יְהֹושֻׁעַ֙ לַֽיהוָ֔ה בְּיֹ֗ום תֵּ֤ת יְהוָה֙ אֶת־ הָ֣אֱמֹרִ֔י לִפְנֵ֖י בְּנֵ֣י יִשְׂרָאֵ֑ל וַיֹּ֣אמֶר לְעֵינֵ֣י יִשְׂרָאֵ֗ל מֶשׁ בְּגִבְעֹ֣ון דֹּ֔ום וְיָרֵ֖חַ בְּעֵ֥מֶק אַיָּלֹֽון׃ וַיִּדֹּ֨ם הַשֶּׁ֜מֶשׁ וְיָרֵ֣חַ עָמָ֗ד עַד־ יִקֹּ֥ם גֹּוי֙ אֹֽיְבָ֔יו הֲלֹא־ הִ֥יא כְתוּבָ֖ה עַל־ סֵ֣פֶר הַיָּשָׁ֑ר וַיַּעֲמֹ֤ד הַשֶּׁ֙מֶשׁ֙ בַּחֲצִ֣י הַשָּׁמַ֔יִם וְלֹא־ אָ֥ץ לָבֹ֖וא כְּיֹ֥ום תָּמִֽים׃ וְלֹ֨א הָיָ֜ה כַּיֹּ֤ום הַהוּא֙ לְפָנָ֣יו וְאַחֲרָ֔יו לִשְׁמֹ֥עַ יְהוָ֖ה בְּקֹ֣ול אִ֑ישׁ כִּ֣י יְהוָ֔ה נִלְחָ֖ם לְיִשְׂרָאֵֽל׃ פ.”『聖書』, ヨシュア記,10:12-14.
  7. ガリレオ,豊田 利幸.『世界の名著 26 ガリレオ』中央公論新社 (1979/08). p.124.
  8. “הִשָּׁמְר֣וּ לָכֶ֗ם פֶּֽן־ תִּשְׁכְּחוּ֙ אֶת־ בְּרִ֤ית יְהוָה֙ אֱלֹ֣הֵיכֶ֔ם אֲשֶׁ֥ר כָּרַ֖ת עִמָּכֶ֑ם וַעֲשִׂיתֶ֨ם לָכֶ֥ם פֶּ֙סֶל֙ תְּמ֣וּנַת כֹּ֔ל אֲשֶׁ֥ר צִוְּךָ֖ יְהוָ֥ה אֱלֹהֶֽיךָ׃ כִּ֚י יְהוָ֣ה אֱלֹהֶ֔יךָ אֵ֥שׁ אֹכְלָ֖ה ה֑וּא אֵ֖ל קַנָּֽא׃ פ.” 『聖書』, 申命記,04:23-24.
  9. コペルニクス (著), 高橋 憲一 (翻訳).『コペルニクス・天球回転論』みすず書房 (1993/12/25). p. 74-75
  10. “né meno eccelentemente ci si scuopre Iddio negli effetti di natura che ne’ sacri detti delle Scritture.” Galileo Galilei (1610). “A madama Cristina di Lorena granduchessa di Toscana.”
  11. The Copernican Revolution: Planetary Astronomy in the Development of Western Thought (page) 199 (author) Thomas S. Kuhn