芸者の化粧の謎を解く
芸者の襟足は、白い化粧の塗り残しという形で、強調される。この化粧にはどのような意味があるのか。なぜ芸者は、襟を後方に大きく開いて、男に背中を見せるのか。なぜ襟足は、正月と八朔には、二本ではなくて三本になるのか。芸者の化粧に込められた意味を解読してみたい。
1. 芸者の化粧の塗り残し
芸者(芸妓)は、伝統的に、白塗りの厚化粧をする。その際、目の周りはぎりぎりまで白く塗るのに、髪の毛の生え際の周りでは、かなりの幅を取って、地肌を露出させる。その結果、肌が白いというよりも、むしろマスクをしているかのような観を呈する。なぜこのような塗り残しをするのか。ヒストリーチャンネルが芸者を特集した番組で、“Memoirs of a Geisha”の著者、アーサー・ゴールデンは、塗り残しの地肌は、一種のヌーディティ(裸であること)を表していると言っていたが、確かに、それは、白い下着からチラリとはみ出た肌のようで、エロティックで、男性客の気を惹くにちがいない。
ところで、地肌は、とりわけ項(うなじ)において、大きく露出している。しかも、それは、以下の写真で確認できるように、独特のWの形をしている。
芸者が化粧するプロセスを撮影した“Maiko or Geisha Painting Her Face” を見ればわかるように、芸者は、首の両側を直線的に塗った後、ブラシを左右の下から塗り上げ、リターンさせることで、丸い部分を描き、項の紋様を仕上げる。では、項に見られるこの独特のメーキャップには、どのような意味があるのだろうか。デズモンド・モリスは、首の地肌は、女性の秘所を暗示していると言う。
「小股の切れ上がった人」という、首の後ろの生え際の美しい形を記述する特殊な日本語の言い回しがあった。しかし、その意味は変わってしまった。そのメーキャップは性器の形を反映するべく意図的に施されたものであるから、今では、その言い回しは「美しい性器をもった芸者」を意味するようになった。[2]
2. 小股の切れ上がったいい女とは?
「小股の切れ上がった」という言い回しは、最近では使われなくなったので、知らない読者のために、国語辞典的な定義を引用しておこう。
女性の足がすらりと長く、いきな姿を表す言葉。
「―・ったいい女」[3]
この表現の本来の意味が何であるかは、デズモンド・モリスが断定するほどはっきりはしていない。この言い回しの由来に関しては諸説があって、デズモンド・モリスが紹介した説は、そのうちの一つにしか過ぎない。NHKの「気になることば」は、小股が襟足にあるという説を次のように紹介している。
髪を日本髪に結い上げた時に、左右に伸びた髪を足にみたてて、その間が長い方が粋だとされて、剃り上げたり、白粉を塗るなどして襟足を際立たせました。そこを小股と言ったという説です。[4]
たしかに、左右に伸びた髪の生え際を二本の足に見立てることは可能であるし、だからこそ、それらは、襟足(えりあし)と呼ばれる。そして、芸者の細く伸びた二つの地肌の線は、その襟足を強調するためのものであることは疑えない。股に相当する部分は丸くて、「切れ上がっている」と言えるような形状をしていないと思うかもしれないが、「切れ上がっている」というのは、切り口がシャープなV字型であるということではなくて、『大辞泉』の定義にあるように、足がすらりと長くて、粋であるということである。
「小股」の解釈としては、襟足説以外にも、足袋の切れ込みを小股と言うことから、小股とは足の親指と他指の間のことであるという説とか、大股歩きに対する小股歩きのことと解釈する説とかいろいろあるが、私が見るところ、奥秋義信氏の以下の説明が最も説得力がある。
この場合の「小」は“体言挟みの係り”とか“名詞跳びの修飾”とかいい、「股」を跳び越えて「切れ上がった」に係っているのです。つまり「股がちょっと切れ上がった」を表しています。身体の一部を用いた比ゆには、このような体言挟みの修飾をする接頭語が多いのです。上記の例も、同様に解釈することができます。「小耳に挟む」=耳にちょっと挟むで偶然に聞く、「小首をかしげる」=くびをちょっとかしげるで不審がる、「小手をかざす」=手をちょっとかざすで遠方を見るしぐさ、「小鼻をうごめかす」=鼻をちょっとぴくぴくさせるで得意げな顔をする、というような言葉の構造になっているのです。[5]
奥秋義信氏の説が正しいとするならば、本来の股とは別の体の部位に小股を求める必要はなくなる。要するに、「小股の切れ上がったいい女」とは、股が胴体に向かってちょっと切れ上がっていて、脚がすらりと長く見える粋な感じの女性ということで、現在の意味が、そのまま本来の意味ということになる。
デズモンド・モリスは、「小股の切れ上がった人」とは、本来、襟足が長い人のことを意味したのが、後に、女性性器のクレバスが切れ上がっている人を意味するようになったと理解しているようだが、この説明は、多分正しくないだろう。
デズモンド・モリスは、女性の乳房は尻の、口唇は陰唇の擬態であるという性的擬態説で有名な人である。
女性の突出した半球形の乳房は、肉質の尻のコピーに違いないし、また口のまわりのはっきりと区切られた赤い唇は赤い陰唇[女の外部生殖器の一部]のコピーに違いない。[6]
この論理でいくならば、襟足と襟の股は、本物の足と本物の性器の擬態であるということになるはずだ。「小股の切れ上がった」という言い回しの意味に関しても同じ事が言える。
3. なぜ項は日本の男の性欲の対象となるのか
項に下半身の擬態が形成される理由は何か。そもそも、なぜ芸者は、胸を露出させないのに、背中を露出させ、首に意味ありげな化粧を施すのか。なぜかつての日本の男は、項に色気を感じたのか。まずは、ウィキペディアの常識的な説明を紹介しよう。
江戸時代、和装における着物は日本文化が儒教の影響を受けたことで肌の露出を避け胸や尻を帯飾りで隠し、化粧をする部分は眉とうなじに限定されたことで、うなじや髪の生え際・首筋の美しさや長さで色気を強調し、後姿の美しさを競った。[7]
このような説明は、芸者の化粧には当てはまらない。冒頭に引用した芸者の写真でわかるように、芸者は、背中が大きく露出するほどに、襟を下げている。もしも儒教の影響で肌の露出が避けられていたとするならば、このような背中の露出もご法度となるはずだ。問題は、背中でこれだけサービスする芸者が、なぜ前面でももっとサービスして、胸元が見えるほど襟を広げないのかというところにある。
デズモンド・モリスは、もっと興味深い説を紹介している。
伝統的に、日本の子供は、母の乳房で乳を飲んで過ごす時間よりも、母の背中に紐で縛られて過ごす時間のほうが長いということが指摘されている。このことと、日本人女性の乳房が比較的小さいという事実が、首への固執の理由と考えられる。[8]
日本人女性の乳房が小ぶりである話は措くとして、かつて、日本人は髷を結い、また、日本の母親は乳児を背中におんぶして育てたので、子供は母の襟足を眺めながら育ち、その結果、乳房に代わって襟足が母子の絆を思い出させる対象となり、そこにリビドーが備給されるようになったということは十分考えられる。
子供をおんぶして育てる習慣は日本のみならずアジアに広く見られるが、欧米にはそのような伝統はない。赤ちゃんを背中におんぶ紐(中国ではメイタイという)で括り付くことで、母親は、仕事をしながら、長時間にわたって母子のスキンシップを保持することができる。欧米の大人が、握手したり、キスしたり、抱き合ったりと、やたらとボディタッチをするのは、幼少期のスキンシップが足りなくて、スキンシップに飢えているからだろう。これに対して、アジアでの伝統的な挨拶はお辞儀であって、身体的な接触は、欧米ほど頻繁には行わない。
もっとも、こうした欧米人とアジア人の違いは最近では崩れつつある。日本の母親は、近年では、おんぶ紐を使わずに、ベビーベッドに寝かせきりにしたり、ベビーカーを使うことが多くなってきた。他方で、欧米では、乳幼児に対する愛着養育(attachment parenting)が、乳幼児の心の安定にとって重要であることが認識されるようになり、ベビースリング(赤ちゃん用の吊帯)を使用して、スキンシップを大切にする両親が増えている。もとより、以下の写真が示すように、おんぶよりも、だっこの方が多いようだが。
日本の母親は、以前ほど、子供をおんぶしたり、髪を結い上げたりしなくなった。このことが、首フェチの日本の男が減ったことの原因ではないだろうか。
4. 三本足の化粧の謎
話を芸者に戻そう。芸者の襟足の塗り残しは、通常、W字型の、二本足である。ところが、黒紋付で正装する正月と八朔(8月1日)には、以下の写真に示されているように、三本足にする。
二本足の塗り残しが女性の下半身を表すとするならば、二本足の間に追加された三本目の足は、本来は存在しないはずの女性のペニスということになる。つまり、これは、ファリック・マザーの紋様と解釈することができる。逆に言うならば、普段の二本足は、欠如の記号としてのファルスということになる。
では、ファリック・マザーとしての三本足は、なぜ、正月と八朔に現れるのか。旧暦の正月と八朔は、早春と初秋に相当し、かつて日本では、この時期に先祖が祀られた。後に、仏教の影響で、先祖供養は盆に行われるようになったが、この先祖供養は、本来は、早春と初秋に行われる豊作への祈りと感謝と無関係ではない。秋に死ぬ植物も、春になったら、再び生命の息吹を取り戻す。だから、早春と初秋は、この世とあの世が橋で結ばれ、生命がその橋を通って、あの世に逝ったり、戻ったりする時期である。だから、早春と初秋には、死んだ祖先への供養が行われた。
あの世は、地母神の胎内と考えられたので、その橋は、ファリック・マザーのペニスということになる。そして、そのペニスは、正月と八朔という、あの世とこの世を結びつける橋が復活する日に、失われた母子の絆の思い出の場所である項に、三本目の足として描かれることで、復活する。
地母神の胎内は、黄泉の国と言われ、暗い場所であると考えられていた。だから、あの世を垣間見る正月と八朔には、芸者は、黒紋付(黒地に紋を付けた着物)を着る。葬式の時に、黒い喪服を着るのも、同じ理由による。
5. 追記
早春と初秋に、彼岸と此岸を架橋するファルスが出現するセレモニーは、世界各地に見られる。4月27日のTBSの番組“THE 世界遺産”でも紹介されていたが、マヤ文明の時代に造られたピラミッド、チチェン・イッツァ(Chichen Itza)は、春分/秋分の日没時になると、西からの射光が、北面の階段の最下段にあるククルカンの頭部に胴体を与えるように設計されている。
ククルカンは、マヤ神話における最高神で、羽毛のある蛇の姿をしていて、アステカ神話におけるケツァルコアトルに相当する。鳥と蛇が融合した想像上の動物といえば、これは、旧大陸における龍に相当する。ククルカン(ケツァルコアトル)信仰は、典型的なファルス崇拝である。
以下の表を見てもわかるように、春分/秋分は、時期的には、旧正月と八朔の時期に近い。日本の芸者とマヤ文明のピラミッドという全然違う場所に、類似の現象が見られるということは興味深い。
旧暦(太陽太陰暦) | 新暦(太陽暦) | |
旧正月 | 1月1日 | 2月頃 |
春分 | 2月頃 | 3月21日頃 |
八朔 | 8月1日 | 9月頃 |
秋分 | 8月頃 | 9月23日頃 |
6. 参照情報
- ↑Daniel Bachler. “A photograph of 2 Geisha conversing near the Golden Temple in Kyoto, Japan“. 21 November 2004. Licensed under CC-BY-SA.
- ↑“There was a special Japanese phrase to describe the beautiful shape of the hairline on the back of the neck – komata no kereagatta hito – but its meaning has changed. Because the make-up is deliberately applied to mirror the shape of the genitals, the phrase now signifies 'a Geisha with a lovely genital area’.” Desmond Morris. The Naked Woman: A Study Of The Female Body. St Martins Pr (2005/08). p.103.
- ↑大辞泉.「小股が切れ上がる」小学館.
- ↑NHK「小股談義 その弐」気になることば. 2004年12月14日(火).
- ↑奥秋義信「そこが知りたい日本語何でも相談」『月刊日本語』1997年7月号.
- ↑“The protuberant, hemispheric breasts of the female must surely be copies of the fleshy buttocks, and the sharply defined red lips around the mouth must be copies of the red labia.” Desmond Morris. The Naked Ape: A Zoologist’s Study of the Human Animal. Delta (1999/4/13). p. 75.
- ↑Wikipedia.「うなじ」2008年1月22日 (火) .
- ↑“It is pointed out that, traditionally, Japanese children spend more time strapped to their mother’s back than they do nursing at the breast. This, and the fact that the breasts of Japanese women are comparatively modest in their dimensions, is thought to be the reason for the neck-fixation.” Desmond Morris. The Naked Woman: A Study Of The Female Body. p. 103.
- ↑Jenrose Jennifer Rosenberg. “Father holding 7 week old baby in a homemade baby carrier. The carrier is a stretchy wrap.” 12 May 2005. Licensed under CC-BY-SA.
ディスカッション
コメント一覧
着物についてですが、着物は帯が太くて、あえて寸胴に見せるているのかなと思います。歴史を見ると、くびれを作り出すコルセットが西洋で発達した一方、帯は江戸時代にいまの太さになったようです。ネットの説明は豪華に見せるためとのことでしたが、あまり納得がいきません。どうして帯は太くなったのでしょうか。
男性にとって魅力的なのは、太った女性かそれとも痩せた女性かという問題は、「ヒトはなぜ難産なのか」のコメント・フォームでも提起されました。これに対する答えは、二つの変数によって変わってきます。
(1)内臓脂肪の多さか骨盤の大きさか
内臓脂肪が多いと生活習慣病により寿命が短くなるので、男女とも配偶者を選ぶ上でデブを避けようとします。内臓脂肪が多いと子宮や産道が圧迫され、難産になる可能性があるので、内臓脂肪の多い女性は、特に避けられるようになったと考えられます。こうした理論的知識がない人でも、審美的な好みからそうするのは、淘汰圧力がかかった結果なのでしょう。
他方で、骨盤は大きい方が安産になるので、男は腰回りの大きい女性を「グラマーな女性」と呼んで、好みます。この好みはデブを嫌う心理と矛盾しているように見えますが、そうではありません。「グラマーな女性」とは乳房が大きいとか腰回りが大きいといった特徴を持つ女性であって、内臓脂肪をため込んでおなかが出ている女性ではないからです。
(2)飢餓と隣り合わせの貧しい社会か飽食の豊かな社会か
現代の先進国のような飽食の豊かな社会では、内臓脂肪過多による生活習慣病が大きな健康上のリスクですが、飢餓と隣り合わせの貧しい社会では、栄養失調の方が大きな健康上のリスクです。後者では、やせ細った個体の方がむしろ配偶者として避けられる傾向にあります。
江戸時代以前の日本では、飢餓が頻発しており、男たちは、現代ほどスマートな女性に性的魅力を感じなかったのでしょう。寸胴に見える着物もその結果であろうと思います。他方で、コルセットが一般に普及しはじめた19世紀のヨーロッパでは、近代化によって飢餓が克服されており、男たちは女性にスマートであることを求めるようになったのでしょう。
コルセットは、胴回りだけを小さくすることで、乳房の大きさや腰回りの大きさを強調し、女性をグラマーに見せるという効果があります。しかし、コルセットをきつく締めすぎると、健康被害や流産をもたらすので、極端なコルセットは長く続きませんでした。内臓脂肪を減らすことで胴回りを小さくする方が、審美的欲望の本来の目的に適っていると言えるでしょう。
「小股の切れ上がった人」とは、着物の裾の開きが(足の膝から下が長く見える)きれいな姿を指すと思っていました。
膝をくっつけて少し曲げ、片方の足(足首)を少し後ろに引いて立ち姿を造ります。これは歌舞伎役者の女形が実践しています。
日本の女性美は江戸時代に確立されたようですが、今でいう「気を付け」「休め」の姿勢や「仁王立ち」は美しいとはされなかった。見えない着物の中で膝を離さず歩くことは難しいことであり、立っている時でも膝をくっつけ足首を揃えないことは辛い立ち方でもあります。
そのような苦難を強いる姿勢が、日本人の美意識だったのかも知れません。
芸者の塗り残しはグラフティであり、人口の循環運動を示す隠されたグラフであると思う。白い塗は貨幣経済を示しており、貨幣経済に搾取されていない無垢を示すのが塗り残しである。塗り残しは再生産労働である。白い塗が示すバブル期と塗り残しが示すベビーブームが交互に現れる。女体を経済指標として表現する江戸期の美的水準の完成度の高さ。美的完成度が高いと商品圧力が出生を抑制するので人口は均衡を保つと思われる。
アホほど子供を作った戦中・戦後期がアホなのである。アホ期の哲学者や科学者の話は8割減で聞いていた方が良いのである。
芸舞妓さんが衣紋を極端に多く抜く様になったのは実は、そんなに古くなさそうですね❥戦前の芸舞妓さんの写真(ピンタレストなどに載ってる)を見ると衣紋の抜き方は現代の成人式・二十歳の集いの振袖と同程度みたいですね❦戦後すぐの映画でも一般の女性は衣紋を全くと言って良いほど抜かず、芸舞妓さんも現代の一般の振袖と同程度みたいですね❥
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襟足を3本足に塗るのは春日大社(奈良市)の「みかんこ」(巫女)も、みたいですね❥
衣紋を抜く風習は、江戸時代からあったけれども、昭和になってから衣紋を抜かないスタイルが流行するようになったそうです。それは、昭和の前半が禁欲的な時代だったからなのかもしれません。