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朝鮮人はなぜ太平洋戦争を喜んだのか

2009年4月26日

今日、韓国と北朝鮮は、太平洋戦争の被害者と称して、日本に対して謝罪と賠償を求めている。しかし、当時の朝鮮人は、太平洋戦争を熱烈に支持し、侵略戦争の被害者というよりもむしろ加害者としての役割を果たしていた。では、なぜ反日的なはずの朝鮮人が、日本の侵略戦争に加担したのだろうか。彼らの戦略のルーツは、元寇での成功体験にまで遡る。

choeによるPixabayからの画像
景福宮の光化門。日本統治時代に、光化門は移築され、朝鮮総督府庁舎が建てられた。1995年の8月15日に旧朝鮮総督府庁舎は解体され、光化門は2010年に李氏朝鮮時代の位置に戻された。

1. 朝鮮人はなぜ太平洋戦争を熱烈に支持したのか

1.1. 朝鮮人は徴兵を強制されたのか

韓国の歴史教科書は、朝鮮人(以下、韓国人を含めた朝鮮民族という意味でこの言葉を使う)が日中戦争や太平洋戦争に従軍したにもかかわらず、それを、もっぱら被害者の視点から描いている。

わが民族は戦争に必要な食糧と各種物資を収奪され、わが国の青年は志願兵という名目で、また徴兵制と徴用令によって日本、中国、サハリン、東南アジアなどに強制動員され、命を失い、女性まで挺身隊という名で強引に連行され日本軍の慰安婦として犠牲になった。[1]

しかしながら、当時の朝鮮人たちは、必ずしも、強制されて受動的に従軍したわけではなかった。1938年に陸軍特別志願兵制ができて以来、朝鮮人は日本軍に志願兵として参加することができたのだが、以下の表が示すように、その応募者は、日中戦争の進展とともに、採用数以上に伸び、倍率は、太平洋戦争が始まった年には、45倍に達した。しかも、「血書を書いての従軍志願者が何百という数に上り、中にはその希望が達せられないので自殺した青年まで現れ[2]」たというのだから、相当熱心な志願者がいたということである。

内務省資料による陸軍特別志願兵制設置後の朝鮮人の志願状況[3]
西暦(和暦)採用数応募者数倍率
1938(昭和13)年40629467.7
1939(昭和14)年6131234820.1
1940(昭和15)年30608444327.6
1941(昭和16)年320814474345.1

1942年に日本政府が朝鮮での徴兵制の実施を閣議決定した時、『朝日新聞』5月10日朝刊は、「昨年の大東亜戦争開始以後の朝鮮人の戦争完遂に関する熱意は、献金に、あるいはその他各種の銃後援護に強く表明され、内鮮一体の機運はますます強固なるものがあるので、政府は朝鮮同胞のこの報国の赤誠に応え、朝鮮に徴兵制を施行し」たと報道し、同6月11日夕刊の「朝鮮・徴兵制に感激の波高し」と題した記事では、「大東亜戦争の実戦に参加し得る栄誉を与えられた朝鮮同胞は広大無辺の皇恩に感泣し半島全域の同胞から陸軍省へ寄せられた感謝の手紙や電報は連日引きもきらず遂に数千通の多数に達した」として、それを紹介している[4]

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内鮮一体(内地と朝鮮が協力一致すること)で世界の優者になれることを、運動会の二人三脚に喩えた1930年代のポスター。

こうした新聞報道は、必ずしも誇張や捏造によるものではない。1923年生まれの崔基鎬(チェ・ケイホ)が当時を回顧して述べているように、朝鮮人の大部分は、日本の侵略戦争を熱狂的に喜んでいた。

戦前から東京にいた私は、年に1~2回はソウルとか当時の平壌に行きました。その当時の韓国人は日本人以上の日本人です。劇場に行くと映画の前にニュースがありましたが、例えばニューギニアで日本が戦闘で勝利をおさめたという映像が流れると、拍手とか万歳が一斉に出ます。

私は劇場が好きで、日本でも浅草などに行って見ていましたが、韓国で見るような姿はごくわずかです。韓国ではほとんど全員が気違いのように喜びます。それは当時としてごく普通の姿ですから、特別に親日ということではありません。[5]

1.2. なぜ朝鮮人は戦争に熱狂したのか

では、なぜ朝鮮人は、日本人以上に日本の侵略戦争を喜んでいたのだろうか。それは、日本が始めた冒険的な戦争に加担すれば、それが成功しても、失敗しても、どちらに転んでも、自分たちにとって利益になるからである。すなわち、

  1. もしも太平洋戦争が成功すれば、日本軍に参加して手柄を立てた朝鮮人の地位が大日本帝国内部において向上し、朝鮮人は民族のプライドを取り戻すことができる。
  2. もしも太平洋戦争が失敗すれば、朝鮮半島を支配している日本の軍事力が後退し、朝鮮は日本から独立することが可能となり、朝鮮人は民族のプライドを取り戻すことができる。

民族のプライドを取り戻すということは、私たち日本人が考えている以上に、彼らにとっては重要なことである。朝鮮人が、今日の韓国人に典型的に見られるような、プライドに飢えた民族になったのは、朝鮮人が、知能に優れた、潜在的能力のある民族であるにもかかわらず、大国に隣接するという地理的事情により、自分たちにふさわしい国際的な地位をこれまで持つことができなかったからであろう。朝鮮人は、古代より中国の冊封体制に組み込まれ、二等国民としての屈辱的地位に甘んじ、そしてその後、それまで冊封体制外だから自分たちよりも格下だと思っていた日本の支配下に入ってしまった。そんな彼らにとって、世界の一等国民の仲間入りをして、民族のプライドを取り戻すことは、歴史的悲願だったのである。

日中戦争が始まった頃、朝鮮人のプライドを刺激するような人物が現れた。陸軍士官学校出身の陸軍少佐で、千名の日本人部下を指揮する大隊長、金錫源(キム・ソクウォン)である。

彼はかつての宗主国であった支那の大軍を、山西省で木っ端微塵に撃破し、朝鮮人として初めて「金鵄勲章功三級」が授与された。少佐クラスでしかも生存者での「功三級」は全く破格であった。このビッグニュースは朝鮮の新聞に連日、「金部隊長奮戦記」「戦塵余談」等、でかでかと紹介された。日本兵を率いて、支那を撃つというのは、朝鮮人にとって夢みたいな事だったので、早速歌になった。朝鮮人の作詞、作曲で「金少佐を思う」「正義の師に」「正義の凱歌」等々の歌が出来、歌謡大会まで開かれた。文那派遣軍を駅で送る歓声と旗の波、それに金大隊長の賛歌で、自然に朝鮮人のボルテージが上がった。[6]

陸軍特別志願兵制が作られ、朝鮮人青年がその応募に殺到した背景には、こうしたロール・モデルがあったわけである。志願入隊した朝鮮人青年の中には、後に韓国大統領となる朴正煕もいた。

画像
左図:朝鮮人陸軍特別志願兵の行進。右図:朴正熙訓導が満州国軍軍官学校の将校枠出願にあたり受験年齢制限特別免除を求める血書嘆願書を提出したことを報じる1939年3月31日の満洲新聞[7]

もしも日本の太平洋戦争に参加して、日本が戦争に勝てば、自分たちは、当時劣等人種と思われていた黄色人種の国の下層に位置する情けない被征服民族から世界的スケールでの征服民族へとステイタスを高め、かつての宗主国である中国のみならず、人類の指導者を気取る英米すら自分たちの目下にすることができると思って喜んだことだろう。

1.3. 日本の敗北を予想していた朝鮮人

では、もしも日本が太平洋戦争に負けたならば、どうなるのか。当時は検閲が厳しかったので、日本の敗北が朝鮮人にもたらすメリットが公然と語られることはなかった。しかし、検閲で押収された手紙などを読むと、朝鮮人の本音を観て取ることができる。以下の手紙は、金某が愈某に宛てた手紙である。

我等は何時迄も日本の奴隷下に呻吟し乍ら宿命論と亡国論を叫ぶを止め、朝鮮民族独立の為め闘争すべきだ。君も同じ朝鮮民族精神が生きて居る事を信じて疑はない。我等の敵日本は十二月八日自ら死地に入って行った時、正に絶好だ。今こそ我等青年が起ち上る時だ。吾々の同胞は蘇聯[ソレン]で満洲で又中国で準備を整へて居る事を忘れないで下さい。[8]

この手紙に出てくる「十二月八日」は、真珠湾攻撃の日付である。この手紙の執筆者が、日本が米英と戦争を始めたことを「自ら死地に入って行った」と捉え、それを朝鮮民族独立の絶好のチャンスと認識していることに注目しよう。こうした認識は、直接独立運動に従事していなかった朝鮮人にも共有されていたのではないだろうか。血書による嘆願書を提出して志願した朴正煕も、いずれ日本帝国主義が滅び、韓国が独立するという認識を持っていた[9]

日中戦争が始まり、陸軍特別志願兵制が行われるようになると、それまで朝鮮民族の独立を要求してきた「三・一運動の指導者や民族文学の第一人者たちが率先して戦争への協力を呼びかけ[10]た。これは、必ずしも彼らが転向したからではなくて、日本が始めた無謀な戦争が、結果として自分たちの解放につながるという計算があったからなのだろう[11]

朝鮮人が日本人以上に太平洋戦争を「気違いのように」喜んでいたのは、彼らが「気違い」だったからでもなければ、崔基鎬が言うように「日本人以上の日本人」だったからでもない。もしも朝鮮人が本当に「日本人以上の日本人」であるならば、なぜ彼らは現在あれほどまでに反日的であるのか。朝鮮人の太平洋戦争への加担は、計算された戦略に基づくものであって、それを見抜けずに「朝鮮同胞の赤誠(偽りのない誠の心)」などと言って、朝鮮人の戦争協力を賞賛していた日本人は、なんとナイーブなことか。

朝鮮人は、このような見事な戦略をいつ身に付けるようになったのだろうか。私が見るところ、彼らの戦略は、元寇で得られた教訓から練られたようだ。元寇と日中戦争・太平洋戦争とでは、侵略のベクトルが異なるが、異民族の支配を受けて、独立性を失った朝鮮民族が、支配民族の侵略戦争に加担することで、独立を勝ち得たという点で共通点を持っている。そこで、以下、元による支配の中で、高麗国王がどのようにして自らのステイタスの向上を図り、成功したかを見ていくことにしよう。

2. 高麗はなぜ自主的に元寇に加担したのか

韓国の歴史教科書は、高麗人が元寇(韓国は「日本征伐」と呼んでいる)に従軍したにもかかわらず、それを、もっぱら被害者の視点から描いている。

高麗は蒙古との講和以後自主性を著しく損なうに至った。講和後、高麗が最初にうけた試練は日本征伐に動員されことであった。高麗は、国号を元と変えた蒙古の強要によって日本征伐のための軍隊をはじめ多くの人的・物的資源を徴発された。[12]

しかしながら、当時の高麗人たちは、必ずしも、強制されて受動的に従軍したわけではなかった。元寇当時の高麗国王であった忠烈王は、文永の役が起きる2年前からクビライが死去する2年前に至るまで、何度もクビライに、自ら「日本征伐」をしたいと要請していた。

そもそも、クビライが日本に関心を持つようになったのは、趙彝(ちょうい)という高麗人の進言による。趙彝の出身地は、日本への門戸である合浦や金州の近くに位置する咸安で、このため、趙彝は、日本についての情報に詳しかった。趙彝は、進士に合格して、クビライの知遇を受けると、クビライに、日本について詳しく語り、高麗に郷導(道案内)させて、日本に使者を送ることを勧めた。

趙彝は、宮廷に出入りし、「高麗は日本と好を通じています。元が日本に使者を出す場合、本国に道案内させてください」と讒言した。[13]

高麗史』は、趙彝を、洪茶丘等と同様の叛逆者としている。理由は、当時元と交戦状態にあった宋が日本と国交があり、そして高麗がその日本と非公式に交流していたことを密告したからというのだが、これは誤解である。クビライは、高麗と日本との間に非公式の交流があったことを全く咎めていない。そもそも趙彝には、洪茶丘のように、祖国を恨む理由はない。趙彝は、むしろ、元と日本の交易が活発になって、高麗、特に彼の故郷が、東アジア経済のハブになるということを期待したのではないだろうか。また、趙彝は語学に秀でていたので、そうなれば、自分は外交官として活躍し、出世できるようになるとも目論んだのだろう。

クビライは、高麗国王元宗に日本招諭を命じ、元宗は、側近であった潘阜(はんふ)を派遣し、牒状を鎌倉に送ったが、日本側は、返牒を拒否した。何度使者を送っても、成果が上がらないので、クビライは、武力で日本を支配することを決意する。そんな中、当時世子(皇太子)で、モンゴルに送られていた諶(しん=後の忠烈王)は、クビライに、次のように言った。

あの日本だけは、いまだに陛下の支配に服しておりません。それゆえ、私どもは、日本に陛下の命令を伝える使者を発して、さらにその後、軍容を整え、戦艦と兵糧を準備万端にしているところです。もしも、このことを臣である私めにお任せいただけるのであれば、心力を尽くして励み、そして陛下の軍隊を、微力ではありますが、お助けいたします。[14]

諶はなぜ自ら日本遠征への協力を要請したのだろうか。高麗は倭寇に手を焼いていたので、元の力を借りて、倭寇の本拠地を攻撃しようとしたという説がかつて有力であった。たしかに、1223年以降、倭寇が何度もあったことが『高麗史』に記されている。しかし、日本は、元寇以前、倭寇の取締りに協力的であった。

例えば、1227年、鎮西奉行の少弐資頼(しょうにすけより)は、倭寇の悪徒九十人を捕らえ、高麗国使の前で斬首した。このことは、以下のように『高麗史』にも書かれている。

日本は書を寄せて、日本の海賊が高麗沿岸を荒らしたことを謝罪し、両国間の関係を修復し、相互に交易することを要請した。

高麗は、この年、科挙に合格した朴寅を派遣し、日本に行かせた。当時、日本の海賊は、高麗の沿岸を荒らしまわっていた。高麗は、これを憂い、朴寅を遣わして、国書を送り、これまでの友好関係に基づき、海賊行為を行わないように教え諭した。日本は、海賊を検挙し、彼らを処刑した。その結果、倭寇は、しばらくの間、沈静化した。[15]

元寇によって、倭寇を取り締まる日本の為政者を攻撃することは、倭寇対策としては逆効果である。実際、元寇以降、倭寇はいっそう盛んになってしまった。

では、なぜ高麗国王は、元寇に積極的に加担したのだろうか。太平洋戦争の時と同様に、二つの理由が考えられる。

  1. もしも元寇が成功すれば、元寇に参加して手柄を立てた高麗の地位が元内部において向上し、高麗国王の権力が増大する。
  2. もしも元寇が失敗すれば、朝鮮半島を支配している元の軍事力が後退し、高麗が元から独立することが可能となり、高麗国王の権力が増大する。

2が歴史的現実となるのだが、諶(忠烈王)は、当初1しか考えていなかったと思う。だが、時の経過とともに、忠烈王は2の理由でも元寇を支持するようになる。以下、忠烈王の動機の変遷を、文永の役の前、文永の役の後、弘安の役の後の三つの時期に分けて、辿ってみよう。

2.1. 文永の役の前の忠烈王

忠烈王が、最初に日本遠征への参加を要請した1272年当時、高麗国王は、高麗国内において、有名無実の存在となっていた。ちょうど、同時代の日本において、武士が台頭して、天皇や貴族たちが実権を失ったように、高麗でも、1170年のクーデター(庚寅の乱)以来、武臣が国王や文臣よりも優位に立ち、政治を動かすようになる。もしも、モンゴル軍が高麗に侵入してきた時、高麗国王が全実権を握っていたならば、国王は、自分の利権を守るために、最後まで抵抗したかもしれない。しかし、当時既に実権を失っていた高麗国王は、どうせ実権がないのなら、国内の武臣よりも強大な軍事力を持つモンゴル帝国に服従したほうがよいと判断し、江華島に残って抵抗を続ける武臣と決別して、モンゴル帝国に臣従した。

武臣は、高麗国王と結託したモンゴル帝国軍の攻撃を受けて、権力を失ったが、武臣勢力の残党、三別抄は、1270年に江華島から南部の珍島や耽羅島に移って抵抗を続けた。1272年当時、三別抄の乱はまだ続いており、高麗国王としては、日本遠征を促すことで、ついでに国内の反乱軍も一掃してもらおうという意図があったと解釈できる。というのも、日本に遠征するためには、その通路を塞いでいる三別抄を壊滅させなければいけないからである。

1274年に、元と高麗の連合軍は、日本への攻撃を開始した。日本で謂う所の文永の役である。元と高麗の連合軍は、日本に上陸して戦ったが、思うように進軍できないので、引き返し、夕方、軍議を開いた。その時、高麗軍の主将である金方慶(キム・バンギョン)と元の総司令官(東征都元帥)である忽敦(クドウン)との間に次のような議論がなされた。

金方慶は、忽敦と茶丘日に言った「兵法には、本国を遠く離れて敵地に入った軍は、かえって士気があがるとある。我が軍が劣勢ではあるが、既に敵地に入っているのである。兵は自主的に戦う。帰国用の船を焼き、背水の陣を敷いた孟明や韓信のような状態だ。もう一度戦うことを請う」と。

忽敦は言った「兵法には、少人数の敵が力量を考えずに堅守すれば、必ず大軍の虜になるとある。疲れた兵を動員して、日ごとに増えていく軍勢と戦うことは、無謀だ。軍を撤退させるほかない」と。[16]

結局、忽敦は、金方慶の主張を退けて、海中に引き上げ、その夜、暴風に逢ったこともあって、帰国する。韓国の歴史教科書では、嫌がる高麗に元が戦争を強制したことになっているが、ここの件を読むと、その関係が逆であるかのように見える。崔基鎬の表現を借用するなら、この時の高麗人は、「モンゴル人以上のモンゴル人」ということになる。

2.2. 文永の役の後の忠烈王

文永の役が終わった翌年の1275年1月に、忠烈王は、高麗国内が経済的に困窮していることを訴えているが、その後、1278年の7月には、以下のように言って、再び日本遠征を要請した。

日本は、一介の野蛮な島国にすぎませんが、天然の要害があることをよいことにして、来貢せず、敢えて陛下の軍隊に抵抗しております。私が自ら思いますに、これでは陛下の徳が報われることがありません。戦艦を作り、兵糧を蓄え、日本の罪を強調し、討伐して、日本を辱め、救わないことを願います。[17]

忠烈王がクビライに自ら日本遠征を要請したことは、『高麗史』のみならず『元史』にも書かれている。

高麗国王は、百五十艘の船を自ら作り、日本征伐を助けることを請うた[18]

経済的負担が大きいにもかかわらず、忠烈王が再びクビライに日本遠征への協力を要請した理由は何か。実は、1276年と1277年に、金方慶が忠烈王に対して謀反を企てているという密告がなされた。そして、以前から、父が讒言により処刑され、祖国に恨みを抱いていた高麗人の洪茶丘は、この機会を捉えて、クビライに、元軍による高麗の直接統治を進言した。しかし、金方慶の謀叛疑惑は事実無根であることが明らかとなり、クビライは、高麗から元軍とダルカチを引き上げ、洪茶丘を召還した。忠烈王は、この決定の後、日本遠征への協力を申し出て、洪茶丘ではなくて、自分に重要な地位を与えてくれて懇願している。その結果、娘婿の国王として、征東行省の中書左丞相、つまり日本遠征軍の指導的地位に就いた。したがって、この時の動機は、元に対する忠誠心を示すことで高麗の独立を維持するというところにあったようだ。

1281年に弘安の役が始まったが、この時も高麗軍は積極的に戦った。元・高麗の連合軍(東路軍)は、予定よりも早く出港したが、これは、他に先駆けて手柄を立てたいという思惑からだったのだろう。反対に一番士気が低かったのは、1279年に新たに元の支配下に入った南宋出身の兵である。南宋軍主体の江南軍は、予定よりも半月ほど遅れて東路軍と合流したが、その後1ヶ月近く海中にあって戦いに参加しなかった。そうこうするうちに、台風に遭って、海の藻屑となった。台風で沈んだ船のほとんどは、江南軍の船だった。高麗で造られた船が堅固であったのとは対照的に、旧南宋で造られた船は手抜きで造られたものが多く、これは、日本遠征に好意的ではない旧南宋民のサボタージュによるものだったと見られている。

弘安の役の後、1286年1月、クビライが日本遠征を中止した時の状況を『元史』は次のように描いている。

長引く日本遠征のおかげで、庶民は悲しみ、官吏も苦しんだ。今春、日本遠征が中止となり、それを聞いた江蘇・浙江の軍民の歓声は雷のようにとどろいた。[19]

これは、いかに旧南宋民が日本遠征の負担を嫌っていたかを物語るエピソードである。日本遠征の負担は、旧南宋よりも高麗のほうが大きかったはずなのに、同じような記述が高麗に関してないのは、なぜだろうか。1293年に、第三次日本遠征計画が練られたとき、造船命令は、高麗に対してしか出されなかった。クビライは、江南軍が全くあてにならないことを学んだようだ。

2.3. 弘安の役の後の忠烈王

弘安の役が無残な結果に終わった後も、クビライは、日本遠征をあきらめなかった。クビライの日本遠征に対する執念は異常であり、たんなる征服欲によって説明できるものではなく、おそらく、マルコポーロの『東方見聞録』にも登場する、日本に豊富にあると信じられていた金を手に入れようとしていたのだろう。だが、無駄な遠征を繰り返すクビライに対して、帝国内の不満分子が次々に反乱を起こし始めた。まず、1283年以降中国南部で、1284年以降にはベトナムで反乱が起きた。さらに、1287年には、ナヤンの反乱、1288年にはカダアンの反乱といった身内による反乱が起きたことで、日本遠征どころか高麗の支配すらおぼつかなくなってきた。1290年にカダアンが高麗に侵入すると、クビライは、それまで元が直接支配していた東寧路総管府を高麗に返還した。これは、おそらく、高麗がカダアンに寝返ることを恐れたためだろう。結局、1291年に元の援軍が高麗に到着し、元と高麗の連合軍はカダアンを鎮圧することに成功した。

これまで、元は、高麗が元に反抗したことを口実に、高麗の領土の一部に総管府をおいて、直接統治した。1225年に、高麗に送られたモンゴル帝国の使節が高麗で殺害されると、1231年に、モンゴル軍は、報復のために高麗に侵入した。その時、洪福源は、高麗の鎮将だったが、投降し、モンゴル帝国の高麗侵略に協力した。この時の占領地が、後の東寧路総管府となる。1254年には、崔氏などの武臣が江華島に残っていることを口実に、モンゴル軍が高麗に侵入した。1258年には、高麗北部の和州以北が占領され、双城総管府が置かれ、降伏した高麗人が総管に任命された。1273年には、元に最後まで抵抗した三別抄を耽羅島で滅ぼし、後に、ここに耽羅総管府が置かれた。

こうした、奪われた領土を取り戻すことは、高麗王朝の悲願であり、元での内乱のおかげで、失われた国土を取り戻せたことは、高麗にとっては望外のことであった。これに味をしめたのか、忠烈王は、カダアンの反乱の翌年、次のように言って、クビライに日本遠征を要請している。

我が国は、元朝に来貢しない殊俗の日本にもともと隣接しております。私ども自ら日本を討伐し、もって、ささやかながら功績を挙げることを願っております。[20]

これまでの奏上とは異なり、元軍の補助ではなくて、高麗単独の出兵を要請したとも取れる内容になっている。単独で日本遠征を行うとなれば、忠烈王には、今よりももっと多くの権力がなければならない。おそらく忠烈王は、双城総管府の返還を期待していたのではないだろうか。

結局、クビライは、この2年後死去し、第三次日本遠征は中止となった。忠烈王の生前に戻ってきた領土は、東寧路総管府と耽羅総管府だけであったが、かつて飛ぶ鳥を落とす勢いだったモンゴル帝国も、日本遠征の失敗以降衰退し、1351年に起きた紅巾の乱で元が壊滅に瀕すると、その5年後に高麗は元と断交し、独立して、双城総管府など北辺の領土を奪還した。

朝鮮人は、ここから一つの教訓を得た。モンゴル軍のような強大な権力に対して、武臣たちがやったように、無駄な抵抗を試みても、領土を奪われたり、自治権を奪われたりして、なにもよい結果をもたらさない。むしろ、忠烈王がやったように、元の侵略戦争に積極的に加担した方が、その侵略戦争が成功した場合はもちろんのこと、失敗した場合ですら、自分たちにメリットがある。

元寇での体験は、560年後、日本人と朝鮮人の行動指針にそれぞれ異なった影響を与えた。日本人は、国難に際しては神風が吹いて、どんな大きな敵からも神が日本を守ってくれるというばかげた信仰を抱き、無謀な戦争に突入して、破滅への道を歩んだ。朝鮮人は、もっと現実的で巧妙な戦略により、独立を果たした。朝鮮人と日本人が元寇から学んだことには雲泥の差があったと言わなければならない。

3. 韓国はなぜ米国のイラク戦争に参加したのか

3.1. 今でも同じ戦略を用いている韓国人

一般に、ある民族が異民族の圧政下に入って、被支配民へと転落すると、ゲリラ活動的な反乱によってその支配に抵抗し、独立しようとする動きが出ることが自然である。元朝に支配された旧南宋民や大日本帝国の支配下に入った台湾人たちがそうだった。朝鮮人は、そういう無駄な抵抗を試みるよりも、むしろ、支配者の侵略戦争の手先になって、自分たちの地位を向上させようとする。もしその侵略戦争が成功すれば、強大になった帝国内で、より高い地位を手に入れることができる。もし侵略戦争が失敗したら、宗主国の軍事力が衰退するので、独立することができるようになる。戦場で残虐な行為を行っても、後世になってから、「自分たちは宗主国に戦争を強要された被害者だ」と主張することで、戦争のすべての責任を宗主国に転嫁することができる。この伝統的戦略は、今でも韓国人によって使われているように思われる。最近の事例は、盧武鉉によるイラク戦争への派兵である。

盧武鉉は、反米左翼の政治家であったが、2002年の大統領選挙に当選することができた。これにはある偶然の出来事が追い風となった。この年、米軍装甲車が二人の韓国人女子中学生を轢き殺すという事故が起きたのである。11月に、米軍の軍事法廷が無罪の表決を言い渡したために、国内で反米感情が高まり、それを背景に、12月、反米左翼の盧武鉉が大統領に当選したのである。

盧武鉉は、大統領に就任すると、前任の金大中から太陽政策を継承し、北朝鮮に対しては宥和的な政策を採り、さらに「北東アジアのバランサー」として冷戦構造が残る北東アジアで中立的な立場を採ろうとしたために、日米との溝を深めることとなった。このように、反米左翼路線を邁進し続けたにもかかわらず、盧武鉉は、米国の侵略戦争であるイラク戦争に、派兵という形で協力した。しかも、その兵数は、約3600人で、米英に次ぐ規模であった。また、これに加えて、イラク再建のために2億6000万ドルの支援を行った。

3.2. 盧武鉉がイラク戦争に加担した理由

なぜ反米左翼のはずの盧武鉉が、米国の侵略戦争にこれほどまで加担したのだろうか。一般には、次のように解釈されている。

盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は、「(イラク派兵は)北朝鮮の核問題など、韓(朝鮮)半島の安保に重大な影響を与える懸念があり、これを解決しなければならないわれわれとしては、いつも以上に篤実な韓米関係が望まれる」(12月3日付け朝鮮日報)と、イラク派兵の最大の根拠は北朝鮮への抑止力としての米国との関係を維持、強化するためであることを明らかにしている。
韓国民には数百万人もの死傷者を出した朝鮮戦争はまだ記憶に生々しい。米国との同盟関係が損なわれた場合、在韓米軍の縮小、撤退などを招き、南北間の軍事的バランスが崩れることを怖れる人は少なくない。その不安感は戦争の体験者ばかりでなく、一般の国民の心にこびりついている。多くの人々は米国のイラク攻撃に「大義」はないと考えているものの、米国の派遣要請を断ることにはためらいがある。[21]

たしかに、表向きの理由は、米韓同盟の強化であるが、これが本当の理由であったとは思えない。なぜならば、後に、盧武鉉は、自主国防のためと称して、米国に戦時作戦統制権の返還を要求したからだ。この要求は認められ、2012年4月に戦時作戦統制権が韓国に移管され、米韓連合司令部は解体され、半島における米軍のプレゼンスは大幅に縮小されることになった。盧武鉉は、「在韓米軍の縮小、撤退」を怖れていたどころか、自ら率先してそれを行ったのである。

朝鮮人の伝統的戦略を知らない者には、盧武鉉がやっていることは、矛盾しているように見えるだろうが、実は彼の政策は、計算された合理性に基づいており、首尾一貫している。盧武鉉が、「自ら死地に入って行った」米国の背中をポンと後押しして、米軍を泥沼の戦争から抜け出ることができないようにしたおかげで、米国は、朝鮮半島に余分な部隊を置けなくなり、盧武鉉の戦時作戦統制権返還要求を呑まざるを得なくなった。近い将来、韓国が自主国防を取り戻し、米国は、在韓米軍を縮小、撤退させなければならなくなったのだから、盧武鉉は、朝鮮半島の赤化統一という彼の野心の実現に向けて、大きな一歩を踏み出すことに成功したと言うことができる。

2007年に、米国下院外交委員会で、イラク派兵やイラク再建への資金援助など、韓国によるテロとの戦いへの参加に感謝する決議案が満場一致で通過した。オバマ大統領も、「韓国は米国の最も親密な同盟国の一つで、最も偉大なる友邦の一つ[22]」と褒めちぎっている。どうやら今の米国は、太平洋戦争時の日本と同様に、朝鮮人の伝統的戦略を理解していないようだ。これまでの朝鮮人の行動パターンから予測すると、将来、米国の覇権が崩壊し、朝鮮人が米国の支配から脱したら、彼らは、米帝が韓国人青年をベトナム戦争やイラク戦争に強制動員したとか、IMFを通じて韓国を経済植民地にして、韓国の資源を収奪したとかいったことを歴史教科書に書くだろう。そしてその時、米国は、韓国が「最も偉大なる友邦」という認識が間違いであったことに気がつくだろう。

3.3. 所謂「かの国の法則」について

ネット上では、かの国(Kの国=韓国)と組むと、不幸(壇君の呪い)に見舞われ、身を滅ぼすという「かの国の法則」なるものが広く信じられている。例えば、2009年4月に草彅剛が公然猥褻罪で逮捕されると、彼が韓国語を学び、韓国の芸能界でも活躍していたことから、「法則発動」などと囁かれた。しかし、彼の韓国へのコミットと逮捕にはなんらの因果関係もないのだから、その意味では、「かの国の法則」は迷信であると言わなければならない。

しばしば「かの国の法則に例外はない」と言われるが、そんなことはない。例えば、白村江の戦いでは、朝鮮人国家である新羅と組んだ唐が、夫余系で、朝鮮系ではない百済の遺民と組んだ日本に勝った。文禄・慶長の役では、李氏朝鮮と組んだ明が日本に勝った。企業や個人に関しても例外はいくらでもある。だから、「かの国の法則」を盲目的に信じて、何にでもみだりに適用しようとすることはばかげている。

しかしながら、「火のないところに煙は立たぬ」で、こういう法則がまことしやかに語られるのは、それなりの理由があるからだと思う。私が本稿で提示した「朝鮮人の戦略」仮説が正しいとするならば、なぜ「かの国の法則」が成り立つのか、その根拠を合理的に説明することができる。朝鮮人は、属国民としての歴史が長く、宗主国に面従腹背で事大しつつ、自分に都合のよいように宗主国を手玉に取って、これを利用する術に長けている。だから、モンゴルや日本や米国といった、宗主国としての歴史が浅いナイーブな国は、朝鮮人の戦略に嵌められやすい。モンゴルが文永の役や弘安の役、日本が日中戦争や太平洋戦争、米国がベトナム戦争やイラク戦争といった、朝鮮人が積極的に参加した戦争を通して没落していったことは、偶然ではない。これに対して、中国は、宗主国としての長い歴史を持ち、属国の扱いも手慣れたもので、朝鮮人国家を併合したり、内政に深くかかわったりせずに、付かず離れず、適切な距離を保ちながら、これを支配してきた。漢民族への法則発動が少ないのは、このためであろう。

以上、朝鮮人の戦略について述べたが、朝鮮人の戦略は、朝鮮人にのみ特有の戦略というわけではなくて、戦争を望む右翼に共通して見られる戦略ではないかと考えている。本稿は既に十分長文になったので、これについては、次回改めて論じよう。

4. 付録年表

日本では、元寇は日本の視点から記述され、高麗の視点が欠如していることが多いので、旗田巍の『元寇―蒙古帝国の内部事情 』を参考にしながら、高麗史を中心に元寇前後の出来事をまとめてみました。元寇の勉強をしている人は、参考にしてください。

モンゴル軍による高麗侵入

918年 王建が高麗を建国。

1159年 平治の乱。日本では、武士が貴族に代わって実権を握るようになる。

1170年 高麗の重臣、鄭仲夫が反乱を起こし、鄭仲夫、慶大升、崔忠献らが実権を握る(庚寅の乱)。高麗でも武臣政権時代が始まる。

1185年 源頼朝が平家を滅ぼし、鎌倉幕府を開く。以後、148年間、鎌倉時代。

1196年 崔忠献が政権を掌握。以後、62年間、崔氏による武臣政権時代。

1206年 テムジンがモンゴルを統一し、チンギス・カンとして初代のモンゴル帝国の皇帝となる。

1223年 文献上に初めて記された倭寇。「倭寇金州(倭、金州に寇す)[23]」とある。

1225年 高麗に送られたモンゴル帝国の使節が何者かによって殺害され、モンゴル帝国は高麗と国交断絶。

1227年 鎮西奉行の少弐資頼(しょうにすけより)が「高麗国使の前に於いて悪徒九十人を捕らえて斬首し」た[24]。「日本国は書を寄せ、賊船の辺を寇するの罪を謝し、仍(よ)りて修好し互市(ごし)せんことを請う。是の歳、及第(きゅうだい)の朴寅(ぼくいん)を遣わし、日本に聘(へい)せしむ。時に倭賊は州県を侵掠(しんりゃく)す。国家之(これ)を患(うれ)い、寅を遣わして牒(ちょう)を齊(もた)らし、歴世の和好を以て、宜(よろ)しく来侵すべからざるを諭す。日本は倭賊を推検し、之を誅(ちゅう)す。侵掠稍々(やや)に息(や)む[25]」。

1229年 チンギス・カンの死後、オゴデイが第二代モンゴル皇帝となる。

1231年 サルタク率いるモンゴル軍による第1次高麗侵入。8月、洪福源は、高麗人だったが、投降し、モンゴル帝国の高麗侵略に協力した[26]。占領地には、モンゴル帝国の民政監察官(ダルカチ)が置かれた。

1232年 6月、ダルカチによる収奪が激しいので、崔氏は、ダルカチを殺し、国王を連れて都を開城から江華島に移し、モンゴル帝国への抵抗を開始。8月、サルタク率いるモンゴル軍による第2次高麗侵入。モンゴル軍は、国宝の八万大蔵経の版木を焼いた。当時僧だった金允侯が、サルタクを射殺。モンゴル軍引き上げる。

1234年 モンゴル帝国、金を滅ぼす。宋を攻め始める。

1235年 タングタイ(唐古)率いるモンゴル軍による第3次高麗侵入。モンゴル軍による高麗蹂躙が約5年間続く。

1236年 王椹、後の忠烈王、高麗王元宗の長男として生まれる。

1241年 高宗、モンゴル帝国と和解。王族の永寧公[糸享]を人質としてカラコルムの宮廷に送る。オゴデイが急死。

1246年 グユクが第三代モンゴル皇帝に就任。

1247年 高麗、モンゴル帝国への貢納をやめる。アムカン率いるモンゴル軍による第4次高麗侵入。

1251年 モンケが第四代モンゴル皇帝に就任。高麗国王に、出陸(江華島から出ること)を要求した。

1253年 高麗国王が出陸拒否。イェグ(也古)率いるモンゴル軍による第5次高麗侵入。高麗国王が出陸し、第二王子を入朝させる。

1254年 モンゴル軍、引き上げる。半年後、崔氏などの実力者が江華島に残っていることを口実に、ジャラルダイ(札剌児帯)率いるモンゴル軍による第5次高麗侵入。ジャラルダイは、6年間にわたって、4回高麗に侵入する[27]

1258年 高麗北部の和州以北が占領され、双城総管府が置かれ、降伏した高麗人、趙[日軍](ちょうき)が総管に任命される。武臣の金俊たちによるクーデターにより、崔氏政権が打倒され、モンゴル帝国へ降伏。

1259年 高宗の世太子がモンケへの謁見を求めて華南へ向かう途中、モンケが死去。代わりに、クビライに謁す。高宗の死去により、世太子が高麗に帰国し、元宗として国王に即位。

1260年 クビライが第五代モンゴル皇帝に就任。

クビライの日本征伐計画

1261年 洪福源が、永寧公[糸享]の讒言で処刑される。趙彝(ちょうい)は、進士に合格し、クビライの知遇を受け、クビライに、高麗に郷導(道案内)させて、日本に使者を送ることを勧める。「趙彝 帝所に出入りして、讒しりて曰く、高麗、日本と隣好す。元、使いを日本に遣わすに、本国をして郷導せしめよと。[28]」。

1263年 勿島で倭寇。高麗、日本に使者を送って、倭寇の取り締まりを要請。

1266年 クビライ、高麗の宋君斐に案内をさせて、ヒズル(黒的)をモンゴルの国信使として日本に送ろうとする。

1267年 宋君斐たちは、風濤険阻であることを理由に、渡海を断念し、巨済島の松辺浦で引き返す。クビライは激怒し、高麗国王元宗に日本招諭を再度命じる。元宗は、側近であった潘阜(はんふ)を派遣。

1268年 正月、潘阜が大宰府に来着。少弐資能を通じて牒状が鎌倉に送られたが、日本側は、返牒を拒否。外寇の警告が当たったことで、日蓮は、北条時宗等に書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。3月、北条時宗が執権に就任。7月、潘阜は高麗へ帰還。12月、ヒズル、潘阜らともに対馬に渡る。反モンゴルの武臣、林衍が金俊を暗殺し、実権を握る。

1969年 3月、ヒズル、潘阜ら、対馬で喧嘩となった二人の島民を捕らえ、連れて戻る。6月、林衍、元宗に代わって安慶公王を国王にしようとする。10月、崔担が反乱を起こし、蒙古に降伏。11月、クビライ、ヒズルを送って、元宗廃位を批判。林衍は、元宗を復位させた。

1270年 1月、クビライ、高麗から崔担が支配していた東寧路を奪い、西京(現在の平壌)に東寧府を設置。崔担が長官に任命される。2月、元宗、クビライに謁見し、出兵を要請した。林衍病死。5月、子の林惟茂、殺される。元宗は、江華島に残っている三別抄に解散を命じたが、三別抄はこれを拒否して、挙兵。6月、三別抄は全羅南道の珍島に移る。7月、クビライ、日本人捕虜と接見。11月、高麗に日本攻略拠点として、屯田経略司を設置した。

1271年 5月、三別抄の拠点、珍島が陥落。6月、世子諶(後の忠烈王)が人質としてモンゴルに送られ、クビライの皇女、クトゥルク・ケルミシュ(忽都魯掲里迷失)と婚約。モンゴル帝国、国号を大元に改める。9月、元は、日本人捕虜の返還を名目として、趙良弼らを派遣したが、日本側は黙殺した。日蓮、良観・念阿弥陀仏等により幕府に訴えられ、佐渡に流される。

1272年 1月、趙良弼、12人の日本人をつれて高麗に戻る。2月、世子諶(後の忠烈王)、「惟(た)だ彼(か)の日本のみ、未だ聖化を蒙(こうむ)らず。故に詔使(しょうし)を発し、継いて軍容を糴(かがや)かし、戦艦・兵糧は方(まさ)に須(もと)むる所在り。儻(も)し此の事を以て臣に委(ゆだ)ぬれば、勉めて心力を尽し、小(すこ)しく王師を助くるに庶幾(ちか)からん[29]」と言って、クビライに日本征伐を請う。日本では、二月騒動。北条時宗ら得宗派が、元からの国書への返答に関して対立していた反得宗派を一掃。事件処理に当たった外戚の安達泰盛の勢力が台頭する。

5月、趙良弼、再度日本に渡り、1年間、大宰府に滞在して、交渉する。7月、日本人が金州に来る。曹子一は、このことが元に露見することを恐れて、帰国させる。洪茶丘は、曹子一が倭と通じているとクビライに密告し、曹子一を殺す。鎌倉幕府、異国警護番役を設置し、鎮西奉行であった少弐氏や大友氏に対して指揮を命じた。

1273年 4月、元と高麗は、三別抄の最後の拠点、耽羅島を陥落させ、三別抄の乱を最終的に鎮圧。

1274年 1月、元は高麗に戦艦900艘を造船させる命令を出す。2月、日蓮、許され、幕府評定所へ呼び出さる。平頼綱の質問に対して、年内の蒙古来襲を予言。5月、諶がクトゥルク・ケルミシュと結婚。8月、諶、忠烈王として高麗王に即位。10月、元と高麗の連合軍、総勢3万2300人が合浦を出港し、対馬と壱岐を攻撃し、博多湾に上陸。文永の役が始まる。11月、連合軍は、暴風で損害を受け、高麗に戻る。「会々(たまたま)、夜、大いに風ふき雨ふる。戦艦、厳崖に触れて多く敗る[30]」。 未帰還者は、1万3500人以上であった。

文永の役後

1275年 1月に、忠烈王、高麗の経済的困窮を元に訴える。2月、鎌倉幕府、異国警護番役の制を定める。4月、クビライは杜世忠を正使とする使者を日本に送る。9月、北条時宗、鎌倉の龍ノ口で使者5名を斬首に処す。10月、元から日本再征伐のため、戦艦修造を命じられる。耽羅国に耽羅総管府が設置される。

1276年 1月、元、南宋攻撃に専念するために、日本遠征の中止命令。12月、忠烈王に対する謀反が密告される。東寧府(現在の平壌)が、東寧路総管府に昇格され、洪茶丘が東征都元帥となる。これで、旧高麗領に、東寧路総管府、双城総管府、耽羅総管府の三つの総管府がおかれ、元の統治下に入ったことになる。

1277年 12月、金方慶に謀叛疑惑。洪茶丘、クビライに、元軍による高麗の直接統治を進言。

1278年 7月、密告が無実であることが証明され、洪茶丘は召還させられる。この時、忠烈王、「日本は一島夷(いちとうい)のみ、険を恃(たの)みて庭(てい)せず、敢えて王師に抗す。臣自(みずか)ら念(おも)うに、以て徳に報(むく)ゆるなし。願わくは、更に造船・積穀し、声罪(せいざい)・致討(ちとう)して、蔑(す)てて済(すく)わざらんことを[31]」と言って、クビライに日本遠征を求める。

1279年 3月、元、崖山の戦いで、南宋を滅ぼす。6月、元、宋の降将、范文虎の進言により、周福を正使とする使者を送ったが、翌月、使者は大宰府で全員斬首となる。7月、高麗の国王、クビライに「自から船一百五十艘を造りて、日本を征するを助けん[32]」と要請する。

1280年 8月、忠烈王、使者を通じて「東征の事は、臣、入朝して稟旨(ひんし)を請わん[33]」と申し出る。12月、忠烈王、征東行省の中書左丞相ならびに[馬付]馬(娘婿)国王に任命される。

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『蒙古襲来絵詞』後巻、絵十六。弘安の役において、敵船に乗り込む竹崎季長と大矢野三兄弟(1293年頃の作品)。

1281年 5月、忻都・洪茶丘率いる元軍と金方慶率いる高麗軍、総勢4万人の東路軍が、予定を早めて、合浦を出港し、対馬に上陸した。弘安の役始まる。6月、東路軍、単独で日本本土を攻撃する。7月、壱岐島に東路軍と10万人の江南軍が合流するが、暴風により壊滅的な打撃を受ける。生還者は、総勢14万人のうち、3万3千人に過ぎなかった。

弘安の役後

1282年 1月、クビライ、征東行省を解散させる。10月、日蓮死去。

1283年 1月、クビライ、征東行省を再設立。忠烈王、再び、征東行省の中書左丞相に任命される。8月、クビライ、王君治を国信使として日本に送ろうとしたが、失敗。9月、広東に一揆が起きる。10月に福建で宋王朝復活のための大規模な反乱が起きる。

1284年 1月、福建の乱、鎮圧される。2月、中国南部の各地や占城(ベトナム南部)で一揆が多発する。元の占城遠征軍が暴風で損害を受け、反乱鎮圧に失敗する。4月、北条時宗、死去。嫡男の北条貞時が執権となる。5月、クビライ、征東行省を再び解散させる。7月、クビライが国信使として日本に送った王積が、対馬で部下の使者に殺される。

1285年 10月、クビライ、征東行省を再設立。11月、日本遠征計画の大綱がまとまる。日本では、霜月騒動。頼綱の讒言により安達泰盛一族が滅びる。北条氏、28カ国の守護職を独占。得宗の専制化が進む。

1286年 1月、クビライ、ベトナムでの戦況が思わしくないため、日本遠征計画中止。「連年日本の役、百姓は愁戚し、官府は擾攘す。今春停罷す。江浙の軍民、歡聲雷の如し[34]」。11月、日本では、弘安の役に対する恩賞。

1287年 4月、ナヤンが、クビライの日本遠征を不満として反乱を起こす。モンゴルと満州が戦場となる。5月、クビライ、忠烈王を征東行省の長官に任命。7月、ナヤンの反乱を鎮圧。

1288年 2月、カイドゥが元への攻撃を開始。その後、カダアンが反乱を起こす。

1290年 カダアンが朝鮮東北部に移動。3月、クビライ、カダアンの反乱を鎮圧するために、東寧路総管府を元から高麗に返還する。その後、カダアンが高麗に侵入。12月、忠烈王、カダアンの攻撃を避けるために、都を江華島に移す。

1291年 4月、元の援軍が高麗に到着。5月、元と高麗の連合軍がカダアンを破る。6月、カダアン高麗から撤退。高麗、都を開城に戻す。

1292年 9月、忠烈王、クビライに日本征伐を進言「臣、既に不庭(ふてい)の俗(ぞく)に隣す。庶(ねが)わくは、当(まさ)に躬自(みずか)ら致討(ちとう)し、以て微労(びろう)を効すべし[35]」。10月、日本の商船、元に交易を求める。高麗は、金有成を日本に派遣(その後消息なし)。

1293年 3月、鎌倉幕府、異国警護番役の御家人が鎌倉へ直訴することを禁止し、現地で訴訟を採決できるように、鎮西探題を置いた。4月、鎌倉大地震。この地震の混乱のさなか、平頼綱が殺され、北条貞時が実権を握る。8月、元が高麗に、造船と兵糧米の蓄積を命じる。

1294年 2月、クビライ死去。孫のテムルが第2代元皇帝となる。

1297年 忠烈王妃でクビライの娘、クトゥルク・ケルミシュが死去。日本では、永仁の徳政令。

1298年 忠烈王、廃位となるが、元の力により、復位。

1306年 日本の商船、元に行き、貿易を行う。

1308年 忠烈王、死去。

1325年 元に建長寺船を派遣。

1333年 鎌倉幕府滅亡。

1336年 後醍醐天皇の吉野遷幸。南北朝時代始まる。

1350年 南北朝時代の混乱により、倭寇が本格化。「倭寇の侵すは此より始まる[36]」。

1351年 元で、白蓮教徒による紅巾の乱起きる。

1356年 高麗、元と断交し、双城総管府など北辺を奪還。元の年号を止めて独立。

1357年 紅巾の北伐軍が、高麗に侵入し、首都である開城を占拠したが、李成桂らが反撃。その後、北伐軍は、開城を捨て、元の上都を占領したが、やがて、元軍によって撃破される。

1366年 朱元璋、紅巾の乱を終息させる。

1368年 朱元璋、明を建国。

5. 参照情報

関連著作
注釈一覧
  1. 申 奎燮 (原著, 翻訳), 大槻 健 (翻訳), 君島 和彦 (翻訳).『新版 韓国の歴史―国定韓国高等学校歴史教科書』明石書店; 第二版 (2003/1/30). p. 397.
  2. 名越二荒之助. 『日韓2000年の真実』国際企画 (1997/07). p. 435.
  3. 名越二荒之助. 『日韓2000年の真実』国際企画 (1997/07). p. 436.
  4. 安田将三, 石橋孝太郎.『読んでびっくり朝日新聞の太平洋戦争記事』リヨン社 (1994/07). p. 198-199. 原文は旧仮名遣いである。
  5. 崔基鎬. 「武士道の覚醒と強い日本を願う」『漁火新聞』平成16年12月号.
  6. 杉本 幹夫. 『「植民地朝鮮」の研究―日本支配36年』展転社 (2002/6/1). p. 96-97.
  7. IJA(Imperial Japanese Army) Special Volunteers by Korean people" + “Park Chung-hee sent a pleading letter written in his blood to be granted a special favor beyond the age limit to take Manchu Army Academy entrance examination as Japanese.“. Licensed under CC-0.
  8. 小林 英夫, 張 志強. 『検閲された手紙が語る満洲国の実態』小学館 (2006/05). p. 120.
  9. 趙 甲済 (著), 永守 良孝 (翻訳).『朴正煕(パク・チョンヒ)―韓国近代革命家の実像』亜紀書房 (1991/10/20). p. 63.
  10. 名越二荒之助. 『日韓2000年の真実』国際企画 (1997/07). p. 436.
  11. 朝鮮人が日本人から独立すると、日本人の戦争は、自分たちの独立を脅かすことになるから、朝鮮人は、日本人に対して絶対平和を求めるようになる。この日本の戦争に対する朝鮮人の態度の変化は、偶然かもしれないが、朝日新聞の論調の変化と奇妙に一致している。朝日新聞が太平洋戦争中にいかに戦意高揚を煽る記事を書いていたかは、『読んでびっくり朝日新聞の太平洋戦争記事』を読むとよくわかるのだが、戦後になると、朝日新聞は禁欲的なまでの平和主義を日本国民に説くようになる。.
  12. 申 奎燮 (原著, 翻訳), 大槻 健 (翻訳), 君島 和彦 (翻訳).『新版 韓国の歴史―国定韓国高等学校歴史教科書』明石書店; 第二版 (2003/1/30). p. 149.
  13. 「趙彝 出入帝所讒曰、高麗與日本隣好、元遣使日本、令本國鄕導」 Source: 武田 幸男 (編訳)『高麗史日本伝 (下)』岩波書店 (2005/7/15). p. 219.
  14. 「惟彼日本、未蒙聖化、故發詔使、繼糴軍容、戰艦兵糧、方在所須、儻以此事委臣、庶幾勉盡心力、小助王師」 Source: 武田 幸男 (編訳)『高麗史日本伝 (上)』岩波書店 (2005/5/17). p. 90.
  15. 「日本國寄書、謝賊船寇邊之罪、仍請修好互市。是歳、遣及第朴寅、聘于日本、時倭賊侵掠州縣、國家患之、遣寅齊牒、諭以歷世和好、不宜來侵、日本推檢倭賊誅之、侵掠稍息。」 Source: 武田 幸男 (編訳)『高麗史日本伝 (上)』岩波書店 (2005/5/17). p. 57.
  16. 「方慶謂忽敦茶丘日、兵法千里縣軍、其鋒不可當、我師雖少、巳入敵境、人自爲戰、即孟明焚舩淮陰背水也、請復戰。忽敦日、兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍。」 Source: 武田 幸男 (編訳)『高麗史日本伝 (下)』岩波書店 (2005/7/15). p. 32.
  17. 「日本一島夷耳、恃險不庭、敢抗王師、臣自無念以報徳、願更造船積穀、聲罪致討、蔑不濟矣」 Source: 武田 幸男 (編訳)『高麗史日本伝 (上)』岩波書店 (2005/5/17). p. 113-114.
  18. 「高麗國王請自造船一百五十艘,助征日本」 Source: 『元史卷一十二本紀第十二』至元十九年七月.
  19. 「連年日本之役,百姓愁戚,官府擾攘,今春停罷,江浙軍民歡聲如雷」 Source: 『元史卷一百六十八・列傳第五十五』至元二十三年.
  20. 「臣既隣不庭之俗庶當躬自致討以效微勞」 Source: 武田 幸男 (編訳)『高麗史日本伝 (上)』岩波書店 (2005/5/17). p. 174.
  21. 野中章弘. 「韓国はなぜイラクへ派兵をするのか」『アジアプレス・ネットワーク』2003年12月16日.
  22. 《In brief comments to reporters, Obama praised South Korea as one of America’s “closest allies and greatest friends."》 Source: Michael D. Shear and Debbi Wilgoren. “Obama Discusses N. Korean Missile at G-20“. The Washington Post Thursday, April 2, 2009; 7:25 AM.
  23. 高麗史日本伝〈上〉. p.56
  24. 百練抄. 嘉禄三年七月二一日条.
  25. 高麗史日本伝〈上〉. p.57
  26. 元史・列傳第九十五
  27. 元史・本紀第三
  28. 高麗史日本伝〈下〉. p.219
  29. 高麗史日本伝〈上〉. p.90
  30. 高麗史日本伝〈上〉. p.106
  31. 高麗史日本伝〈上〉. p.113-114
  32. 元史本紀第十二
  33. 高麗史日本伝〈上〉. p.121
  34. 元史・列傳第五十五
  35. 高麗史日本伝〈上〉. p.174
  36. 高麗史日本伝〈上〉. p.200