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コペルニクスはなぜ地動説を唱えたのか

2012年9月11日

コペルニクスが、当時支配的だったプトレマイオスの天動説に反して地動説を主張したことは、宗教的迷信に対する科学の勝利と呼べるものではなかった。コペルニクスのモデルはプトレマイオスのモデルよりも正確でもなければ単純でもなかった。それにもかかわらず、コペルニクスが太陽中心の地動説を唱え、かつそれに魅了される天文学者が少なからずいたのは、当時太陽崇拝のネオプラトニズムが流行していたからであり、そしてそれは当時が近代小氷期と呼ばれる寒冷期であったことと関係がある。

コペルニクスのイメージ画像

1. コペルニクスの地動説に科学的合理性はあったのか

地球上に存在する私たちが、地球は静止し、運動しているのは天体の方であるとみなすことは自然なことであり、古来、そうした地球中心の天動説が当然視されてきた。古代ギリシャの時代には、サモスのアリスタルコスなど、太陽中心の地動説を唱える者も少なからずいたが、彼らは異端として扱われ、ヨーロッパでは16世紀まで、地球中心の天動説が、キリスト教とも整合的なコスモロジーとして信じられてきた。

厳密に言えば、地動説かそれとも天動説かという問題は、太陽中心説かそれとも地球中心説かという問題と同じではない。中世インドの数学者にして天文学者のアリヤバータは、宇宙の中心を地球としつつも、地球が地軸を中心に自転していることを認識していた。中世イスラムの物理学者、イブン・アル=ハイサムも同じような見解を取ったが、こうした地球中心の地動説は地球中心の天動説から太陽中心の地動説への過渡的形態と位置付けることができる。

地球中心の天動説は多くの人によって提唱されたが、中でも、古代ローマの時代に現れたアレクサンドリアのクラウディオス・プトレマイオスの天文学は、最も理論的な完成度が高く、幾何学的に洗練されており、彼の著作『アルマゲスト』は、中世における最も権威のある天文学書であった。しかし、1543年に出版された『天球回転論』で、ニコラウス・コペルニクスは、プトレマイオスの地球中心の天動説を否定し、近代で最初に太陽中心の地動説を唱えた。

以下の図の右側は、『天球回転論』に掲載されている天球の概略図で、この図では、地球の周りをまわっているのは月だけで、宇宙の中心に太陽(SOL)があり、その周りを、内側から順に、水星、金星、地球、火星、木星、土星が回り、一番外側には、不動の天球があることが示されている。図の左側は、同時代の地球中心説に基づく天球の概略図で、宇宙の中心は地球で、その周りを、内側から順に、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星が回っている。

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左図:1524年に出版された『コスモグラフィア』に描かれている地球中心の天体システム[1]。右図:1543年に出版された『天球回転論』に描かれている太陽中心の天体システム[2]

太陽中心の地動説は、その後、ヨハネス・ケプラーやガリレオ・ガリレイによって受け継がれ、近代天文学のパラダイムとなった。以下のアニメーションは、単純化された太陽(黄色の点)中心の地動説と地球(青色の点)中心の天動説に基づく火星(赤色の点)の逆行を説明するモデルであるが、前者の方が後者よりも火星の軌道が単純となる。だから、今日では、太陽系の惑星の運動は、太陽中心説に基づいて説明される。

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地動説(左図)と天動説(右図)に基づく火星の軌道の説明。[3]

では、コペルニクスが太陽中心の地動説を唱えたことは、中世を支配していた宗教的迷信に対する科学の勝利とみなしてよいのだろうか。そうだと思っている人が多いが、実際にはそうではなかった。トーマス・クーンが言うように、「コペルニクスのシステムは、プトレマイオスのシステムと比べて、単純でもなければ正確でもない[4]」からだ。

どれだけ単純でも正確でもないかを具体的に確かめよう。コペルニクスの最終的な理論では、以下の図(a)に示されているように、地球は OE を中心とした円軌道で回転し、その OE は、O を中心にゆっくりと回転し、そしてその O が太陽 S の周りを回転する。火星は、以下の図(b)に示されているように、周転円で回転し、その周転円は、地球の軌道の中心と一定の幾何学的関係を持った点、OM を中心とした従円軌道上を回転する。

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コペルニクスによる (a) 地球と (b) 火星の運行の説明[5]

1609年にケプラーは、惑星が太陽を一つの焦点とする楕円軌道上を動き、その速度は太陽との距離に反比例する[6]ことを発見したが、コペルニクスは、惑星が円軌道上を等速円運動するという前提のもと、惑星の不規則な運動を等速円運動の組み合わせで説明しようとしたため、そのモデルは複雑なものとなった。このような複雑なモデルで惑星軌道を計算することに実用的なメリットはない。それにもかかわらず、コペルニクスが太陽中心説を提唱し、かつ少ならぬ人々がそれに魅了された理由は何だったのか。クーンは次のように言っている。

この問いに対する答えは、『天球回転論』に満載の技術的詳細から容易に読み解くことはできない。なぜなら、コペルニクス自身が認めるように、太陽中心の天文学が実際に訴えていることは、実用的というよりも審美的であるからだ。天文学者にとって、コペルニクスのシステムを選ぶのかそれともプトレマイオスのシステムを選ぶのかという最初の選択は、もっぱら趣味の問題でしかありえず、趣味の問題は、決定したり議論したりする上で最も困難なことなのである。しかし、コペルニクス的転回がそうであるように、趣味の問題はどうでもよい問題ではない。幾何学的なハーモニーを聞き分ける耳は、コペルニクスによる太陽中心の天文学において新たな均整と統一を発見することができたのであり、その均整と統一が認識されていなかったのなら、いかなる転回もなかったかもしれない。[7]

コペルニクスは、『天球回転論』で、地球中心の天動説に根拠がないことを縷々主張している。その主張は正しいが、一般的に言って、どの観測地点から運動を記述するかは恣意的な問題で、精度や単純性に大差がないなら、太陽中心説かそれもと地球中心説かは「趣味の問題」とならざるを得ない。以下は、『天球回転論』でコペルニクスが太陽中心説を主張している箇所であるが、これを読めば、その根拠は科学的ではなく、むしろ宗教的信念とでも呼ぶべきものであることがわかる。

万物の中心には、間違いなく太陽が静止している。というのも、誰が、この最高に美しい寺院[宇宙]において、このランプ[太陽]を、そこからすべてを同時に照らし出すことができる場所[宇宙の中心]以外のより良い場所に置くことができようか。実際、太陽は、「宇宙のランプ」、「宇宙の心」、「宇宙の支配者」と呼ばれるが、そうした呼称は不適切ではない。ヘルメス・トリスメギストスは太陽を「目に見える神」と呼び、ソポクレスの『エレクトラ』は「すべてを見渡す者」と呼んでいる。かくして太陽は、実に王座に座るかのごとく、その周りを回転する惑星の家族を支配するのである。[8]

結局のところ、コペルニクスが太陽中心の地動説を唱えたことは、宗教的迷信に対する科学の勝利などというようなものではなくて、伝統的な宗教的信念に別の宗教的信念を対置させただけということになる。では、コペルニクスが信じた宗教とは何だったのか。もっとも有力な候補は、当時流行していた太陽崇拝の神秘思想、ネオプラトニズムである。

2. ネオプラトニズムはなぜ地動説を動機付けたのか

ネオプラトニズム とは、ローマ帝国時代の3世紀に、エジプト出身のプロティノスが、500年前の思想であったプラトンの哲学(プラトニズム)を継承して作り上げた神秘思想のことである。15世紀のフィレンツェで、マルシリオ・フィチーノが、メディチ家の保護のもとプラトンやプロティノスの著書をラテン語に翻訳すると、彼らの思想が再びイタリアでブームになった。

ネオプラトニズムは、ローマ帝国時代に流入したオリエントの神秘思想の影響を受けており、本来のプラトン哲学からはかなり逸脱した思想であったが、プロティノスには独自の思想を作ったという自覚はなく、フィチーノもプロティノスをプラトンの真正な継承者と認識していた。だから当時は「ネオプラトニズム」という言葉はなかった。この言葉は、プラトンの本来の哲学と後世における改作を区別するため、19世紀にフリードリヒ・シュライアマハーが考案したものである。

プラトニズムの中心はイデア論である。プラトンによれば、イデア(ἰδέα)とは、感覚的対象を超えた観念のことである。感覚的対象それ自体はイデアではない。例えば円のイデアを考えてみよう。この世界には、感覚の対象となる丸い物は存在するが、それらはどれも幾何学的に定義された完全な円ではない。それにもかかわらず、私たちが完全な円のイデアを理解しうるのは、私たちがかつてイデアの世界に所属し、それを想起するからである。『メノン』に登場する想起(ἀνάμνησις)説である。そこで、イデアの世界は、その完全性ゆえに、真の実在であり、これに対して感覚の対象となるこの世界はイデアを模倣して作られた偽りの仮象にすぎないということになる。

イデアの世界の内部においてもさらに階層があって、私たちがイデアを認識することができるのは、イデアのイデアとでもいうべき善のイデア(the Idea of the Good)のおかげである。プラトンは、『国家』において、善のイデアと一般のイデアとイデアの認識者との関係を太陽と太陽光で見えるものと見る物の関係に喩えている。

私が善の子供と言っていたのは太陽のことだと理解してくれ。善は太陽を自分と類比的なものとして生み出した。すなわち、思惟によって知られる世界において、善が《知るもの》と《知られるもの》に対して持つ関係は、見られる世界において、太陽が《見るもの》と《見られるもの》に対して持つ関係とちょうど同じである。[9]

善のイデアに基づいてイデアが作られ、イデアに基づいて感覚的な世界が作られたとするプラトニズムは、神が善意で世界を創造したとするキリスト教の思想と同じと解釈することができる。プロティノスは、キリスト教徒ではなかったが、善のイデアを「一者(τὸ ἓν)」と呼び、これを神と同一視する一神教的な解釈を施した。プロティノスによれば、一者から理性(νους)が、理性から霊魂(ψυχή)が「流出(ἀπορροή/ἀπόρροια)」し、多様な世界を作り出している。プロティノスは、一者を太陽に、理性の流出を太陽放射に、霊魂を太陽光を受けて輝く月に喩えている。

プラトンにとっても、プロティノスにとっても、太陽は善のイデアの比喩であって、善のイデアそのものでないことはもちろん、一般的なイデアですらなく、たんなる感覚の対象にすぎない。しかし、フィチーノは善のイデアと太陽を同一視し[10]、その結果フィチーノのネオプラトニズムはさながら太陽崇拝の宗教のようになった。コペルニクスはフィチーノの太陽崇拝思想の影響を受けて太陽中心の地動説を考案したのではないかとクーンは言う。

例えば、フィチーノは、太陽が最初にしかも天の中央に作られたと著作に書いた。たしかに太陽の威厳と創造的機能にふさわしい時空上の位置は他にはあり得ない。しかしその位置はプトレマイオスの天文学とは両立不可能であり、そこから帰結するネオプラトニズムの問題を解決するために、コペルニクスは太陽中心の新しいシステムを構想するに至ったのかもしれない。[11]

では、なぜこの時代に太陽崇拝の思想が流行したのか。これを次に考えてみよう。

3. 地動説と天動説の時代背景は何か

近代以前の天文学では、その運行が説明されるべき天体は、太陽と月と五つの惑星に限られていた。地球を含めた八つの天体の運動を記述するだけなら、地球中心の天動説でも太陽中心の地動説でも決定的に間違いとは言えず、どちらを選ぶかは「趣味の問題」ないしは宗教的なコスモロジーの問題ということになる。今日の科学者が宗教的理由で天文学的理論を正当化することはないが、コペルニクスの時代までは、つまり天文学と占星術が明確に分かれていなかった時代においては、宗教的な動機が重要な役割を果たしていたと言ってよい。

ケプラーも、1596年に出版した『宇宙の神秘』(Mysterium Cosmographicum)では、神は太陽を父の似姿として描いたという宗教的な動機からコペルニクスの太陽中心説を支持していた。太陽中心説ないし地動説が初めて科学的根拠から正当化されたのは、1609年に出版された『新天文学』(Astronomia Nova)においてである。近代的な物理学は、「天体物理学(physica coelestis)」という副題を持つこの本の出版から始まったと言っても過言ではない。

では、それ以前の地動説の宗教的動機は何を背景にしていたのか。過去の歴史を振り返ると、温暖期には天動説が、寒冷期には地動説が唱えられる傾向を見て取ることができる。科学が宗教から独立する以前の時期になぜこのようなことが言えるのか、理由を考える必要がある。

気候とコスモロジーの関係
寒暖の時代区分コスモロジー
古代寒冷期(800~250BC)古代ギリシャの時代。サモスのアリスタルコスなどが太陽中心の地動説を提唱する。
古代温暖期(250BC~AD400)古代ローマ帝国の時代。プトレマイオスが地球中心の天動説を集大成する。
中世寒冷期(AD400~950)中世インドでアリヤバータが地球の自転を主張し、この認識がインドで広まる。
中世温暖期(AD950~1250)中世イスラム科学の全盛期。プトレマイオスの地球中心の天動説が支配的となる。
近代寒冷期(AD1250~1830)コペルニクス、ケプラー、ガリレオなどによる太陽中心の地動説が普及する。
近代温暖期(AD1830~現在)宇宙には中心がないことがわかる。太陽は再び特権的な位置を失う。

どの文化にも太陽崇拝の思想が多かれ少なかれあるものだが、崇拝の念は、太陽活動が弱まる寒冷期において強まる。これは逆ではないかと思う人がいるかもしれないが、そう思う人は、雨乞いはどういう時に行われるものなのかを考えてみるべきだ。自然信仰を持った人が、雨を降らすと信じる神を称え、その神に対して雨乞いをするのは、雨が降らない日が続き、旱魃で苦しんでいる時である。同様に、太陽活動が低下し、作物が実らなくなって初めて私たちは太陽のありがたみを実感し、実りをもたらしてくれると信じている太陽神を崇拝するものなのである。

太陽活動が活発な時、作物は良く実り、私たちは特に努力をしなくても生きていくことができる。太陽活動が低下するとこれとは逆の結果となり、私たちは、生き延びるために動き回らなければならなくなる。太陽が活発さを失うということは、動いていた太陽の停止と意識され、私たちの側が動くということは地球の運動という発想につながる。太陽活動が活発な温暖期には常識的な天動説が信じられ、そうではない寒冷期になると地動説を唱える異端が現れるのは、こうした思想傾向が背景にあるのではないだろうか。

たぶん、多くの人はこうした説明をばかげていると感じることだろう。しかし、それは科学的な説明に慣れた現代人の偏見というものである。コペルニクスの時代までは、天文学は、天体運動を象徴主義的に解釈する占星術の呪縛からまだ完全に脱却していなかった。プトレマイオスは『アルマゲスト』を著した天文学者であると同時に『Τετράβιβλος (テトラビブロス)』を著した占星術師でもあったし、コペルニクスもまた、天文学だけでなく、占星術の勉強もしている[12]。だから、コペルニクスの理論が科学的合理性に欠く象徴主義的な根拠に基づいていたとしても、それは驚くに値しないことなのである。

4. 参照情報

  1. Petrus Apianus; Gemma Frisius . “Petri Apiani cosmographia, per Gemmam Phrysium, apud Louanienses medicum ac mathematicum insignem, restituta." 1539.
  2. Nicolaus Copernicus. “De revolutionibus orbium coelestium." Book 1, Chapter 10.
  3. Illustration of the apparent retrograde motion of Mars. The apparent retrograde motion is an artifact of mapping the motions of the objects of the solar system in a coordinate system that is itself in accelerated motion.” Licensed under CC-BY-SA.
  4. “Copernicus’ system is neither simpler nor more accurate than Ptolemy’s" Thomas S. Kuhn. The Copernican Revolution: Planetary Astronomy in the Development of Western Thought. Harvard University Press; Revised edition (January 1, 1992). p. 171.
  5. Thomas S. Kuhn. The Copernican Revolution: Planetary Astronomy in the Development of Western Thought. Harvard University Press; Revised edition (January 1, 1992). p. 170.
  6. Johannes Kepler. Astronomia nova αιτιολογητοs, seu physica coelestis, tradita commentariis de motibus stellæ Martis, ex observationibus G. V. Tychonis Brahe. Chapter 32.
  7. “The answer to this question is not easily disentangled from the technical details that fill the De Revolutionibus, because, as Copernicus himself recognized, the real appeal of sun-centered astronomy was aesthetic rather than pragmatic. To astronomers the initial choice between Copernicus’ system and Ptolemy’s could only be a matter of taste, and matters of taste are the most difficult of all to define or debate. Yet, as the Copernican Revolution itself indicates, matters of taste are not negligible. The ear equipped to discern geometric harmony could detect a new neatness and coherence in the sun-centered astronomy of Copernicus, and if that neatness and coherence had not been recognized, there might have been no Revolution." Thomas S. Kuhn. The Copernican Revolution: Planetary Astronomy in the Development of Western Thought. Harvard University Press; Revised edition (January 1, 1992). p. 172.
  8. “In medio vero omnium residet Sol. Quis enim in hoc pulcherrimo templo lampadem hanc in alio vel meliori loco poneret, quam unde totum simul possit illuminare? Siquidem non inepte quidam lucernam mundi, alii mentem, alii rectorem vocant. Trimegistus visibilem Deum, Sophoclis Electra intuentem omnia. Ita profecto tanquam in solio regali Sol residens circum agentem gubernat Astrorum familiam." Nicolaus Copernicus. De revolutionibus orbium coelestium. Book 1. Chapter 10.
  9. “τοῦτον τοίνυν, ἦν δ᾽ ἐγώ, φάναι με λέγειν τὸν τοῦ ἀγαθοῦ ἔκγονον, ὃν τἀγαθὸν ἐγέννησεν ἀνάλογον ἑαυτῷ, ὅτιπερ αὐτὸ ἐν τῷ νοητῷ τόπῳ πρός τε νοῦν καὶ τὰ νοούμενα, τοῦτο τοῦτον ἐν τῷ ὁρατῷ πρός τε ὄψιν καὶ τὰ ὁρώμενα." Plato. Republic.book 6, section 508b508c.
  10. Liber de sole (date) 1487 (author) Marsilio Ficino
  11. “Ficino wrote, for example, that the sun was created first and in the center of the heavens. Surely no lesser position in space or in time could be compatible with the sun’s dignity and creative function. But the position was not compatible with Ptolemaic astronomy, and the resulting difficulties for Neoplatonism may have helped Copernicus to conceive a new system constructed about a central sun." Thomas S. Kuhn. The Copernican Revolution: Planetary Astronomy in the Development of Western Thought. Harvard University Press; Revised edition (January 1, 1992). p. 131.
  12. Sheila Rabin. Nicolaus Copernicus. Stanford Encyclopedia of Philosophy.