12月 152008
 

東洲斎写楽は、江戸時代に、突如彗星のごとく華々しく現れ、画期的な浮世絵を大量に発表しながら、10ヶ月で忽然と姿を消した謎の天才絵師である。写楽とはどういう人物だったのか。写楽はあのデフォルメされた役者絵で何を表現したかったのか。写楽にまつわるさまざまな謎を解き明かしたい。

1. 写楽とは誰なのか

写楽をめぐる最大の謎は、写楽が誰かという問題だった。1844年に斎藤月岑が編集した『増補浮世絵類考』に「俗称 斎藤十郎兵衛」と記載されて以来、その説を疑うものはほとんどいなかったが、徳島に斎藤十郎兵衛の実在を証明する証拠が見つからなかったことから、『増補浮世絵類考』の信憑性を疑って、多種多様な写楽別人説を提唱する者が、大正の末頃から現れるようになった。

他方で、その後、さまざまな古文書から、斎藤十郎兵衛の正体が明らかになってきた。1956年に、後藤捷一は、『蜂須賀家無足以下分限帳』に「江戸住斎藤十郎兵衛」の記事を見つけた。「江戸住」ということは、「江戸詰」とは異なって、徳島に帰ることなく、恒久的に江戸に住んでいたということである。徳島に、手掛かりがないはずである。これにより、写楽が「江戸八町堀に住す」とする式亭三馬による1821年(文政4年)頃の『浮世絵類考』への書き込みが裏付けされた。

また、同じ頃、河野太郎は、1816年(文化13年)4月5日付の『徳川礼典附録』(巻の九・下)に記載されている「鉢の木」の御能明細書に、ワキである万作の弟子として、斎藤十郎兵衛の名が記載されていることを見つけた。この演目では、斎藤十郎兵衛は、ワキツレを演じている。森敬助は、蜂須賀家藩邸で催された「巴」と「大蛇」で、十郎兵衛が、ワキ、ワキツレとして出演していたことを1931年に既に指摘していたが、御能明細書の年号が不明であったために、写楽と同時代の十郎兵衛かどうかはわからなかない。それに対して、「鉢の木」に出演していた十郎兵衛は、写楽と同時代である。

もちろん、斎藤十郎兵衛なる蜂須賀家お抱えの能役者がいたことが実証されたとしても、それが写楽であるという証拠にはならない。しかし、1977年に、中野三敏は、1818年(文政元年)に歌舞伎役者の瀬川富三郎が作成した江戸の文化人名簿である『諸家人名江戸方角分』の八丁堀の項目に、浮世絵師を示す記号の入った「写楽斎 地蔵橋」とあることを公表した。かくして、『増補浮世絵類考』に写楽の住所と素性が追記されるよりも3年ほど前の史料で、写楽斎と号する浮世絵師が八丁堀地蔵橋に住んでいたという情報が記載されていたことがわかった。

1981年には、内田千鶴子が、幕府の公式名簿である『猿楽分限帖』と、能役者の伝記『重修猿楽伝記』に、喜多流に属する能役者として斎藤十郎兵衛が記載されていることを見つけた。この史料から、斎藤十郎兵衛の父の名は与右衛門であり、斎藤家は、代々、与右衛門と十郎兵衛の名を交互に名乗っていることが、さらに、斎藤十郎兵衛が、1761年(宝暦11年)の生まれで、写楽が浮世絵師として活躍していた1794年には、33歳であったことがわかった。

1997年には、徳島の「写楽の会」のメンバーが、埼玉県越谷市の浄土真宗本願寺派今日山法光寺の過去帳に「八丁堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十良兵衛」が1820年(文政3年)に58歳で亡くなったという記録があることを発見した。ここから計算される斎藤十郎兵衛の生年は、『猿楽分限帖』や『重修猿楽伝記』から推測される生年と矛盾せず、これにより、斎藤十郎兵衛が八丁堀地蔵橋に住んでいたという事実の信憑性は高まった。

以上、戦後の写楽研究を概観したが、これらの実証的な研究により、浮世絵師、東洲斎写楽と蜂須賀家お抱えの能役者、斎藤十郎兵衛は、八丁堀地蔵橋という場所を媒介にして、強く結びつくこととなり、斎藤十郎兵衛説は、再び定説としての地位を取り戻したといってよい。かつてあれほど出版業界を賑わせた写楽別人説ブームもすっかり下火になってしまった。もちろん、なおもこの説に疑問を持つ人もいるので、斎藤十郎兵衛説に対する代表的な批判を取り上げ、それに答えよう。

1.1. 『諸家人名江戸方角分』に対する疑問

現存する『諸家人名江戸方角分』としては、国会本と東京教育大学(筑波大学)本の二種類があるが、前者の方が古いので、ここでは前者のみを扱う。この本は、1818年(文政元年)7月5日、竹本氏が大田南畝に届けた写本であることが、奥書の記述からわかっている。

National Diet Library. Japan
図1 諸家人名江戸方角分にある写楽斎の項目。左から二番目に、通号と実名を空白にしてある。右肩の×印は浮世絵師を、¬記号は故人を意味する合印である。[国立国会図書館開館60周年記念貴重書展:諸家人名江戸方角分(019の画像の一部)

『諸家人名江戸方角分』に基づく藤十郎兵衛説にしばしばなされる批判には、大きく分けて二つある。一つは、故人印が付けられている点であり、もう一つは、号が「東洲斎写楽」ではなくて「写楽斎」となっている点である。

まずは、故人印の問題点から取り上げよう。斎藤十郎兵衛が死去したのは、今日山法光寺の過去帳によれば、1820年(文政3年)であるが、竹本氏が『諸家人名江戸方角分』の写本を南畝に届けたのは、1818年(文政元年)で、それよりも前であるにもかかわらず、「写楽斎」の項の右肩には、故人印が付けられている。これもまた、『諸家人名江戸方角分』に記載されている写楽斎が、東洲斎写楽こと斎藤十郎兵衛と別人であるという説の根拠の一つとなっている。

だが、ここで気を付けなければいけないことは、今日私たちが閲覧することができる『諸家人名江戸方角分』には、原著者が書いた『諸家人名江戸方角分』にもともとなかった故人印が後世になって書き込まれている場合があるということである。はっきりわかっているケースだけでも、1819年に死亡した者二名、1920年に死亡した者一名に、故人印が付けられている[中野 三敏:写楽―江戸人としての実像, p.105]。1820年に死亡した写楽斎にも、後になって、故人印が書き込まれたという可能性がある。諏訪春雄は、国会本の『諸家人名江戸方角分』の故人印の書き入れには四種類があって、写楽の分は後人の書入れと判断できると報告している[朝日新聞,平成9年7月3日夕刊]。私もこの説を採りたい。

これよりももっと重大な問題点は、「写楽斎」という号である。写楽は、落款として「東洲斎写楽画」あるいは「写楽画」を使用しており、「写楽斎画」を使ったことは一度もない。1789/90年(寛政元年/2年)の作とされる絵暦に、「写楽斎自画」と署名されたものが二点あるが、画風が全く異なるので、ほとんどの評者は、東洲斎写楽の作品ではないとみなしている。但し、「写楽斎自画」の「画」の中心部分が、「東洲斎写楽画」のそれと同様に、通常の“由”型ではなくて、写楽に特徴的な“田”型になっていることから、写楽の初期習作として後世に捏造された作品という可能性が強い。瀬木慎一は、「写楽斎」「写楽翁」と名乗ったことがある、写楽より後に現れた浮世絵師、歌川国直の作ではないかとしているが、その可能性もある[新版・写楽実像,p.37]。

いずれにせよ、東洲斎写楽が、自ら「写楽斎」と名乗ったことはないといってよいだろう。では、なぜ『諸家人名江戸方角分』は「東洲斎写楽」ではなくて「写楽斎」としたのか。この問いに答える前に、まず、なぜ『諸家人名江戸方角分』の写楽斎の項には、通号と実名が省略されているのかという問題から考えてみたい。通号と実名の両方が省略されている者は『諸家人名江戸方角分』ではたったの三名しかおらず、写楽斎以外の二人は、東洲斎写楽よりも格段に無名の人物である。おそらく、その二人の項は、情報不足で、空欄にしたのだろうが、原著者の三代目瀬川富三郎は、写楽の役者絵に多数描かれた二代目瀬川富三郎や瀬川菊之丞の後輩に当たるので、先輩から写楽についての詳しい情報を得ていたはずである。にもかかわらず、全くの無名文化人と同様に、通号と実名の両方を省略した理由は何か。

この問いには、もしも東洲斎写楽が斎藤十郎兵衛ならば、容易に答えることができる。当時、歌舞伎役者は「かわらもの」と呼ばれ、卑しい職業とみなされていた。斎藤十郎兵衛は、無足(下級武士)とはいえ、士分であるから、歌舞伎役者の浮世絵を描くといった卑しい仕事に手を染めることは許されない。士分たる者、歌舞伎を客として見るだけならかまわないが、演じる側に回ってはいけないのである。例えば、福山藩阿部家のお抱え医師だった森枳園は、芝居好きが高じて、士分であるにもかかわらず、舞台に立ってしまった。このことが阿部家の知るところとなり、森枳園は、首となって、浪人生活の末、夜逃げするはめとなる。斎藤十郎兵衛も、自分の副業がお上にばれようものなら、同じような憂き目をみたことだろう。

中野三敏は、こうした理由から、瀬川富三郎が、写楽斎の通号と実名を知っているにもかかわらず、わざと書かなかったと推測する[中野 三敏:写楽―江戸人としての実像, p.180]。私もこの仮説に賛成だ。そしてこの仮説を肯定するならば、東洲斎写楽が写楽斎と記された理由もはっきりする。たとえ、通号と実名を書かなくても、東洲斎写楽という正式の号と八丁堀地蔵橋という住所を併記すれば、東洲斎写楽の正体がわかってしまう。だから、瀬川富三郎は、わざと写楽斎という、「洒落臭い」をもじったような偽名でカムフラージュしたと考えることができる。もちろん、こういう偽名でも、わかる人にはわかったことだろうが、現代でも「写楽と写楽斎は別人だ」と主張している人がいるぐらいだから、偽名の効果はあったというべきである。

1.2. 『浮世絵類考』に対する疑問

斎藤十郎兵衛説の発端となった根拠は、1844年(天保15年)に斎藤月岑が編集した『増補浮世絵類考』である。この浮世絵師の考証の書は、1800年(寛政12年)までに大田南畝が書いた原著の『浮世絵類考』に、さまざまな人物が加筆して成ったものである。原著は残っておらず、最も古い写本は、1802年(享和2年)に、近藤正斉が山東京伝から伝写した『神宮本浮世絵考証』で、そこでは、写楽に関しては、次のように書かれていただけだった。

写楽 
これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしがあまりに真を画かんとて、あらぬさまにかきしかバ、長く世に行われず、一両年にして止ム

[内田 千鶴子:写楽・考, p.37]

1821年(文政4年)4月の『坂田文庫本浮世絵類考』では、写楽の名前の右横に、朱書きで「イニ写楽斎トモ阿リ」と書かれている。「イニ」とは、「異本に」の意味で、ここでいう異本というのは、これより3-4年前に書かれた『諸家人名江戸方角分』のことを指していると考えることができる。また、『静嘉堂文庫本浮世絵類考』には、式亭三馬による「三馬按ルニ、写楽号東周斎、江戸八町堀に住ス、僅に半年余行ハルルノミ」という追記がある。式亭三馬が同じ『静嘉堂文庫本浮世絵類考』の春潮の項に行った追記には、「文政四年今尚」というくだりがあるので、書き込んだのは、1821年(文政4年)頃と考えられる。

要するに、1821年になって、『諸家人名江戸方角分』が用いた偽名の正体が暴露され、『浮世絵類考』に写楽の住所が書き込まれるようになったということである。1821年といえば、写楽が浮世絵界の表舞台から姿を消してから、26年が経過している。時間が経ちすぎているので信用できないという人もいる。しかし、1821年になって、その素性が明らかにされたことは、斎藤十郎兵衛説を逆に裏付けるものであると私は考える。なぜならば、1821年とは、斎藤十郎兵衛が死去した翌年に当たるからだ。本人が生きている間は、申し合わせたようにその素性が隠され、死没により、お咎めを受ける可能性がなくなってから、素性に関する情報が次々に出てくるということは、まさに写楽が斎藤十郎兵衛であったからこそなのである。

1844年に斎藤月岑が編集した『増補浮世絵類考』では、以下のように、素性がさらに詳しく書かれる。

写楽 天明寛政中ノ人
     
 俗称 斎藤十郎兵衛 居 江戸八丁堀に住す
     
 阿波侯の能役者なり 号 東洲斎
  
歌舞伎役者の似顔を写せしが、あまりに真を画んとて、あらぬさまに書なせしかば、長く世に行れず、
一両年にして止む 類考
   
 三馬云、僅に半年余行はるゝのみ
  五代目白猿、幸四郎(後京十郎と改)半四郎、菊之丞、富十郎、広治、助五郎、鬼治

これとは別に、達磨屋伍一(1817-1866)が購入した、通称『伍一本浮世絵類考』に「写楽は阿波侯の士にて俗称を斎藤十郎兵衛といふよし栄松斎長喜老人の話那り 周一作洲」という記載がある。『伍一本浮世絵類考』の巻末には、「この本は三馬の補記を加えし本より記したりと見ゆ蔵前の書估田中長次郎か蔵せしを得」とあるので、達磨屋伍一が追記をしたわけではない。書估(本の商人)である田中長次郎が書いたとも思えない。この本の成立時期は不明であるが、浮世絵師の略伝が、1829年(文政11年)に没した歌川豊広で終わっているので、「文政末期以後天保か弘化の頃」[内田 千鶴子:写楽・考, p.69]とみなされている。いずれにせよ、斎藤月岑の『増補浮世絵類考』より早い。

栄松斎長喜(えいしょうさいちょうき)は、写楽が活躍した頃、写楽と同様に、蔦屋重三郎の版元から美人画の浮世絵を出版しており、この頃の蔦屋の内部情報を知る立場に合った。また、彼の作品『高島屋おひさ』では、写楽の絵が団扇に描かれており、写楽となんらかの関係があったことを推測させる。長喜の情報は、三代目瀬川富三郎の情報よりも、時間的には後だが、独立したものであり、かつより高い信憑性を持つ。富三郎と長喜が同じ間違いをすることは、確率が低いから、やはり、斎藤十郎兵衛説は肯定されるべきであろう。

なお、式亭三馬の書き込みが「東洲斎」ではなくて「東周斎」となっていることを問題視する人もいるが、この時代のマニュスクリプトでは、こうした同音異字の使用は日常茶飯事で、これを根拠に「東洲斎写楽」とは別に「東周斎写楽」がいたといった主張をすることはナンセンスである。『伍一本浮世絵類考』に「周一作洲」とあることからもわかるように、「周」も「洲」も同じである。

写楽の活躍期間は、寛政6年5月から寛政7年1月にかけての約10ヶ月間(閏月を含む)であるが、『浮世絵類考』の原文では「一両年」となっており、三馬の書き込みでは「半年余」となっており、対立している。しかし、「一両年」を、二年間という意味ではなくて、「寛政6年から寛政7年にかけての期間」、「半年余」を、「半年+半年未満の余り」と解釈するならば、両者の認識は、実際と大きく異なるということはない。

1.3. 時間的余裕についての疑問

写楽は、わずか10ヶ月の間に142枚の浮世絵を描いたが、能役者という本業があるならば、このような浮世絵の大量生産は不可能ではないのか、あるいは、そもそも絵の修行をする時間的余裕はなかったのではないかという批判が過去になされた。だが、当時の藩抱えの能役者は、5月から翌年の4月まで1年間任務に就くと、翌月の5月から来年の4月まで、丸1年間休みを取ることができた[内田 千鶴子:写楽・考, p.97]。江戸時代の能役者は、幕府諸藩から手厚い保護を受けていたので、趣味として絵を描く時間的余裕は十分にあったわけである。

斎藤十郎兵衛は、宝生座の一員で、宝生座は、寅5月から卯4月まで一年間非番であった。一方、写楽が浮世絵を描いたのは、寛政6年(甲寅)5月から寛政7年(乙卯)1月までで、宝生座が非番(休み)であった時期の中にすっぽり納まる。だから、斎藤十郎兵衛は、この期間中、浮世絵に全力集中できたはずである。また、写楽の作品には、同じデッサンの使い回しも見られるので、版画製作にあたって、蔦屋重三郎が有能な彫師・摺師を総動員した(したがって、その間、蔦屋は、写楽の作品以外の浮世絵を出版していない)ことも併せ考えるならば、10ヶ月で142枚という大量生産は決して不可能ではなかったということができる。

写楽がなぜライバルである豊国に4ヶ月遅れ、5月にデビューし、歌舞伎の人手がない夏に最も豪華な作品を出したのかは、従来、写楽の謎の一つとされてきたが、斎藤十郎兵衛の非番の時期を考えれば、納得がいく。逆に、時間に融通が利くプロ専業の絵師だと、この疑問は解消できない。

ところで、2008年7月に、ギリシャ・コルフ島のアジア美術館に所蔵されていた肉筆扇面画を、小林忠ら国際学術調査団が写楽の真筆と鑑定した。描かれている役者絵は、1795年の5月に上演された歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」を題材にしていると推定され、もしこれが本当ならば、写楽は、1795年1月以降も、さらに、斎藤十郎兵衛が詰番になったときにも作画をしたということになる。しかし、私は、これが本当に写楽の作品かどうかを疑っている。写楽は、1794年11月以降、落款を「東洲斎写楽画」から「写楽画」に変えたにもかかわらず、この肉筆扇には、「東洲斎写楽画」と署名されている。後で述べる理由により、東洲斎写楽画と称する物には大量の偽作が存在するので、真偽の判定は慎重に行わなければならない。

1.4. 素人にこれほどの絵が描けたのかという疑問

当時、写楽は、「他流役者絵師」[三升屋二三治:賀久屋寿々免]、「外流」[河艸寿河老人:紙屑籠]、「別風」[江戸風俗惣まくり]と評されていた[内田 千鶴子:写楽・考, p.233]。式亭三馬の「倭画巧名盡(やまとえしのなづくし)」でも、写楽は孤立した一つの島として描かれている。写楽は、素人だったにもかかわらずではなくて、むしろ、素人だからこそ、あのような異端的な絵を描くことができたのではないか。もしも、既存の浮世絵師に師事して修行していたならば、もっと平凡な絵を描いたのではないだろうか。

写楽が、わずか10ヶ月余で浮世絵を描くことを止めたのは、失敗しても、他に戻るべき本業があり、浮世絵に固執しなければならない必然性がなかったからだろう。多くの別人説は、写楽は、号を変えて絵を描き続けたとするが、その場合、なぜその絵師は、写楽の正体が知られることを拒み続けたのかに関して、斎藤十郎兵衛説よりも困難な立場に立たされる。写楽が描いた絵は、蔦屋から出版されたもの以外は、ほとんど残っていないが、これは、正体がばれることを恐れて、本人が処分してしまった結果であろう。

1.5. 素人絵師への巨額投資についての疑問

もしも写楽が、斎藤十郎兵衛という無名のアマチュアならば、なぜ一流版元である蔦屋重三郎が、いきなり巨額の投資をするというリスキーな冒険したのか、説明がつかないと批判する人もいる。例えば、梅原猛は、次のように言っている。

蔦屋が一気に百四十二枚もの錦絵を出版する。それはけっして一冊の本を出版するようなものではない。むしろ一人の作家の著作集を出版するようなものである。それはまさに膨大な費用を要し、その版元の運命がかかっている出版といわなければならない。

[…]

これらの状況を考えるとき、とても写楽を阿波の能役者と考えることはできない。もし、現在の大出版社がまったく無名の素人の小説を著作集として売り出したとしたら、それは狂った企画であるといわざるをえないだろう。私は、最後の瞬間まですぐれた出版社であるとともに、利にさとい商人であった蔦屋重三郎がこうした狂った企画を許すはずはないと思う。

梅原は、こう言って、写楽とは、実績のあるプロの絵師、歌川豊国の仮名であるという説を唱える。しかし、梅原の推論はおかしくはないだろうか。たしかに、著名なプロの作品の出版は、無名の新人の作品の出版よりも、リスクが少ない。しかし、それは、著名人が、その著名な名前を前面に出すからであって、著名人が、未知の仮名を使って、それまでとは異なる作風で実験をするとなれば、その出版のリスクは、有能だが無名の新人の作品を出版するリスクとほとんどかわらない。

では、正体が誰であれ、写楽をデビューさせた蔦屋重三郎の企画は狂っていたのかと問われれば、そのとおりと答えざるをえない。実は、蔦屋重三郎が狂った企画をした背景には、事情があった。喜多川歌麿が、蔦屋重三郎のおかげで、売れっ子の美人画絵師になったにもかかわらず、1793年(寛政5年)頃から、ライバルの出版社から美人画を出版し、あまつさえ、蔦屋を非難するような秘戯画まで描いている。怒った蔦屋重三郎は、歌麿に取って代わる才能ある絵師を探し、かくして、写楽に白羽の矢を立てた。写楽に歌麿のときと同様の雲母摺の大判大首絵を大量に描かせたことからそのことが窺われる。しかし、写楽への巨額の投資は失敗し、蔦屋は財政的に行き詰った。明らかに、この時の蔦屋重三郎の経営判断は狂っていた。

蔦屋の失敗について、梅原は、先ほど引用した箇所と矛盾するようなことを言っている。

百四十二枚にわたる写楽絵の出版は、蔦屋に十分な利益をもたらさなかったのであろうか。とすれば、これはこの天才ジャーナリストの、ほとんど唯一の失敗であることになるが、蔦屋重三郎はあの財産半減の処分によっていささかあせりを生じ、その判断を狂わせ、ついに最後の賭けに失敗したのであろうか。

蔦屋は、筆禍事件で財産半減の処罰を受けたが、その後、歌麿の美人画のヒットにより、経営を立て直した。だから、財産半減の処罰で焦りが生じたということはない。蔦屋重三郎の経営判断を狂わせたのは、歌麿の裏切り行為に対する憤りである。蔦屋重三郎の狂った企画は、蔦屋にとっては不幸な出来事であり、日本の美術界にとっては幸運な出来事であった。

2. 東洲斎写楽という号にはどういう意味があるのか

「東洲斎」という斎号は、東の川の中島にある居室という意味である。過去帳によると、斎藤十郎兵衛が八丁堀地蔵橋に住むようになったのは、1799年(寛政11年)からで、写楽がデビューした1794年には、南八丁堀阿波藩屋敷内に住んでいた。南八丁堀の阿波藩屋敷は、現在の中央区湊一丁目あたりに位置し、八丁堀のすぐ南である。どちらも、江戸城から見て東に位置する中州の土地であった。よって、東洲斎は、斎藤十郎兵衛の住所を暗示していると解釈できる。

「写楽」は、文字通りに解すれば「楽しみを写す」である。写楽の作品には、役者絵が多いから、「楽屋を写す」の略と考えることもできる。もちろん、洒落(しゃらく)という同音異義の漢語も意識していたことであろう。この漢語は、もともと「さっぱりしている」という意味であったが、江戸時代の前期頃から、「洗練された」という意味の「しゃれ」の当て字として使われるようになった。写楽の作品には、しゃれて垢抜けた趣があるから、「しゃれ」のしゃれであるというこの解釈も妥当である。

梅原猛によれば、「写楽」には豊国の本姓が隠されている[梅原猛:写楽 仮名の悲劇,梅原猛著作集〈11〉人間の美術,764-766頁]。梅原は、裏から読むことができる、左右逆の文字が描かれている写楽の作品『都座楽屋頭取口上の図』をヒントに、写楽とは、左右逆に読むことによって解読できる暗号ではないかと考えた。「しゃらく」を左右逆に読むと「くらゃし」となる。これは、豊国の本姓である「倉橋」の音に近い。「くらはし」の鏡文字である「しはらく」を早口でしゃべると、「しゃらく」になる。梅原は、ここから、写楽は豊国であると考えた。

梅原は、さらに「東洲」を「とよくに」と読んで、豊国に近づけようとするのだが、「洲」は「州」とは異なるのだから、この読み方には無理がある。落款を鏡文字として解読するならば、「東洲斎写楽」全体をその方法で解読するべきだ。「とうしう・さい・しはらく」を左右逆にすると「くらはし・いさ・うしうと」となる。これは「倉橋、いさ、憂し、疎し(倉橋?うーん、気にくわないし、オレとは疎遠だね)」という意味に解釈できる。これは、ライバルだった豊国に対する写楽の自然な感情ではないだろうか。

写楽が、彼の仕事を始めるにあたって、豊国を意識していたことは想像に難くない。1794年の正月、長い休業の後、控櫓によって江戸三座そろっての芝居興行が再開された時、役者絵の大物、勝川春章は既に亡くなっており、これをビジネスチャンスと見た和泉屋は、豊国に「役者舞台之姿絵」のシリーズを描かせて、芝居のファンに売り出した。これに対して、蔦屋が写楽絵の販売を始めたのは5月になってからである。この遅れは、5月にならないと斎藤十郎兵衛が非番にならないために生じたものであるが、蔦屋にとって不利であったことは否めない。蔦屋は、出遅れを挽回するべく、量で勝負する。こういう状況でデビューしたのだから、写楽が豊国にライバル意識を持ったとしても不思議ではない。

多くの人がすでに指摘したように、写楽は豊国ではない。落款が全然異なるし、写楽の絵に特徴的な、鼻線切れが見られない[大沢まこと:写楽は豊国ではない,芸術公論,1986年5月]。そもそも、写楽の仕事と平行して豊国の仕事をもこなすことは一人の人間にできることではない。しかし、それでも、梅原の発見は、無意味ではない。私は、写楽が、倉橋=豊国と鏡像的に反転する関係にあることに別の解釈を与えたい。しかし、その前に、豊国と対比されるべき写楽の特殊な立場を確認しておく必要がある。

3. 能役者だったことはどのような影響を与えたか

内田千鶴子は、斎藤十郎兵衛説を強化しようと、『能役者・写楽』で、写楽の大首絵と能面、役者絵の衣裳と能衣裳を比較して、類似点を見出そうとした。両者の間には、なるほど類似点もあるが、それ以上に相違点もあるから、斎藤十郎兵衛説の補強という点ではあまり役立っていない。私も、能役者であったことは、写楽の絵に影響を与えたと思うが、その影響は、こうした皮相なものではなくて、もっと深くて本質的であったと考えている。

ここで、そもそも能とは何かという本質的な問いを立てなければいけない。能は、歌舞伎と並んで、日本の代表的な舞台芸能であるが、歌舞伎とは異なり、「能には、単式であれ複式であれ、諸国一見の僧の前に亡霊があらわれ、生前を物語り、僧に供養されて消え失せる、という筋のいわゆる夢幻能が多い」[松岡 心平 :能―中世からの響き]。歌舞伎がこの世の出来事を扱うのに対して、夢幻能はあの世の出来事を扱う。能の起源は、中国にあるという人もいるが、日本の能は、怨霊に思い残すことをすべて語らせ、晴々とした気持ちで成仏してもらうという、日本的ニーズに合致したカタルシスのセレモニーであり、その意味では、日本独特の舞台芸能である。

夢幻能では、神、亡霊、鬼など、異界からの来訪者がシテと呼ばれる主人公を演じる。シテは、鏡の間から、橋掛りと呼ばれる細い通路を通って、本舞台へと現れる。鏡の間は子宮で、本舞台はこの世で、橋掛りは両者をつなぐ膣=ペニスを象徴している。本舞台の正面奥にある板は、鏡板と呼ばれ、観客は、本舞台で舞うシテを鏡に映った像として見る。これは、古代以来、あの世は、この世から見て、鏡に映った像として表象されているからである[あの世は縄文時代どこにあったのか]。鏡の間も、そう名付けられるのは、たんにそこに鏡が置かれているからという以上の理由がある。

シテの語りを聞く諸国一見の僧は、ワキといわれる。ワキは、舞台の脇に座っているから、ワキと呼ばれると一般に思われているが、安田登によると「脇」はもともと「分く」に由来するから、「ワキとは「分ける人」であり、そして「分からせる人なのだ」[安田登:ワキから見る能世界, p.19]ということになる。すなわち、ワキは、本来見えないはずの幽霊であるシテの存在を観客に分からせ、シテの物語を聞き分ける役割をしているというのである。

斎藤十郎兵衛は、宝生座で、ワキツレをしていた。ワキツレは、ワキの従者で、役割はワキと同じと考えてよい。ワキが旅をしているとき、偶然、異界を覗き込み、シテを見分け、そしてそれを観客に分からせるように、斎藤十郎兵衛は、能役者にとっての異界である歌舞伎役者の世界を覗き込み、役者を見分け、そしてそれを浮世絵を通して観客に分からせた。ワキは、冥界と俗界の媒介者であるが、斎藤十郎兵衛は、能と歌舞伎の媒介者と位置づけることができる。

もとより、能と歌舞伎は、あの世とこの世の関係にあるのだから、歌舞伎舞台を異界と扱うのは逆ではないかと訝しがる向きもあるだろう。しかし、能においては、こうした対立関係の鏡像的反転は容易に起きる。例えば、『実盛』では、実際にはクビを洗われる存在であるシテの実盛が、自分の生首を洗う。『塔婆小町』では、かつて、小野小町を恋い(乞い)続けて断られた深草の少将の霊が、老婆の乞食となった小町に憑いて、今度は小町が、食料を乞い続けて断られるという惨めな境遇に落ちる。能は、鏡の世界の出来事なので、このように、能動と受動の対立関係は、自己を自己の鏡像へと想像的に移し置くことで、反転する。

古来、日本人は、ちょうど母の子宮から膣を通って人が生まれるように、人は、死ぬ時、地母神の膣を通って子宮に戻ると考えた。この想像自体が、鏡像的反転に基づいている。能と歌舞伎は、彼岸と此岸の関係にあるが、鏡像的反転により、ワキである斎藤十郎兵衛は、歌舞伎舞台を異界とみなし、役者をシテとして描こうとした。このことは、以下に見るように、写楽の作品を鑑賞する上でも重要な視点となる。

4. なぜ写楽は黒雲母摺を選んだのか

写楽の作品は、その出版の時期によって分類される。第1期の作品は、1794年5月、第2期の作品は、7月と8月、第3期の作品は、11月と閏11月、第4期の作品は、1795年1月に出版されている。今日名作と評される第1期の28枚は、すべて背景が黒雲母摺の役者の大首絵である。同じ手法は、勝川春英も採っていたから、そのこと自体が珍しいわけではない。ただ、ライバルである豊国が背景に白っぽい鼠潰しを用い、写楽以前の蔦屋の看板絵師、歌麿が背景に白雲母摺を用いていたことを考えると、なぜ黒を背景にしたかを考えてみる必要がある。

第1期が当時不評であったためか、第2期の作品では、異なる多様な趣向が試されている。『都座口上図』でも「新板」ということが強調されている。第1期では大首絵が描かれていたが、第2期では全身図が描かれ、黒雲母摺は38枚中、たったの1枚になってしまう。黒雲母摺が減った理由は、大首絵の場合、背景が黒だと白い顔が浮かび上がる効果があるが、全身図の場合、白装束でもない限り、そうした効果はないというところに求められる。それにもかかわらず、黒雲母摺が1枚あるのだから、その1枚が黒雲母摺になった理由を探れば、第1期の黒雲母摺の狙いも分かる。

第1期の黒雲母摺の1枚とは、以下の図の右側にある「三代目市川高麗蔵の亀屋忠兵衛と初代中山富三郎の新町のけいせい梅川」である。

浮世絵ギャラリー〈4〉写楽の意気浮世絵ギャラリー〈4〉写楽の意気
図2 左図:四代目松本幸四郎扮する新口村孫右衛門と初代中山富三郎扮する新町のけいせい梅川(ハーバード大学美術館,ケンブリッジ),右図:三代目市川高麗蔵の亀屋忠兵衛と初代中山富三郎の新町のけいせい梅川(国立図書館,パリ)[浅野 秀剛: 写楽の意気, p.69]

これは、近松門左衛門の『冥途の飛脚』の改作である『四方錦故郷旅路』の一場面で、心中を決意した亀屋忠兵衛と遊女の梅川が、忠兵衛の故郷、新口村を目指して死出の道へと旅立つところを描いている。これに対して、同じ『四方錦故郷旅路』の一場面でも、左の図の「四代目松本幸四郎扮する新口村孫右衛門と初代中山富三郎扮する新町のけいせい梅川」のように、梅川が忠兵衛の父の草履の鼻緒を紙縒りで挿げるといった場面は、白雲母摺になっている。ここから判断すると、写楽が黒雲母摺を選ぶ芸術的なモチーフは死であると考えることができる。

この観点から、すべて黒雲母摺だった第1期の作品を振り返ろう。以下の一対の浮世絵は、『花菖蒲文禄曽我(はなあやめぶんろくそが)』に登場する石井源蔵(いしいげんぞう)と藤川水右衛門(ふじかわみずえもん)を描いたものである。

浮世絵ギャラリー〈4〉写楽の意気浮世絵ギャラリー〈4〉写楽の意気
図3 左図:坂東三津五郎の石井源蔵(メトロポリタン美術館,ニューヨーク),
右図:坂田半五郎の藤川水右衛門(山種美術館,東京)[浅野 秀剛: 写楽の意気, p.6,7]

この劇は、元禄14年に、伊勢の国、亀山で実際に起きた「元禄曽我」と呼ばれる事件をもとに脚本されている。父を殺された石井源蔵は、敵を討とうと藤川水右衛門に挑むが、反対に返り討ちに遭ってしまう。後に、源蔵の遺児(実際は幼い兄弟)である源之丞、半二郎が、水右衛門を倒す。

以下の一対の浮世絵は、『敵討乗合話(かたきうちのりやいばなし)』に登場する尾上松助(おのえまつすけ)の松下造酒之進(まつしたみきのしん)を描いたものである。

浮世絵ギャラリー〈4〉写楽の意気浮世絵ギャラリー〈4〉写楽の意気
図4 左図:尾上松助の松下造酒之進(ネルソン=アトキンズ美術館,カンザス・シティ),右図:市川高麗蔵の志賀大七(慶応義塾,東京)[浅野 秀剛: 写楽の意気, p.14,15]

尾上松助は、松下造酒之進を殺害するが、尾上松助の二人の娘が父の敵を討つ。

以下の一対の浮世絵は、『恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)』に登場する江戸兵衛と奴一平を描いたものである。

浮世絵ギャラリー〈4〉写楽の意気浮世絵ギャラリー〈4〉写楽の意気
図5 左図:大谷鬼次の江戸兵衛(シカゴ美術研究所),右図:市川男女蔵の奴一平(フィッツウィリアム美術館,ケンブリッジ)[浅野 秀剛: 写楽の意気, p.16,17]

丹波の由留木家の家臣である伊達与作は、由留木家の能指南役の娘と不義密通し、能指南役は、その責任を取って切腹する。由留木家の剣術指南役は、江戸兵衛に命じて、与作の下僕である奴一平から、与作が由留木家から預かっていた用金を巻き上げ、与作は由留木家を勘当される。写楽は、上の図にあるように、用金を奪おうと両手を突き出す江戸兵衛とそうはさせじと刀を抜く奴一平を描いた。

写楽が第1期において好んで描いたのは、こうした生を賭しての戦いである。豊国のおっとりした役者絵とは異なり、写楽の絵には力強さと迫力がある。口をへの字に曲げた、凄みのある役者の形相から、死の危機を迎える緊張感がひしひしと伝わってくる。白っぽい鼠潰し地の豊国絵が生の世界を表しているのに対して、黒雲母摺地の写楽絵は死の世界を表している。私は、豊国と写楽が鏡像的に反転する関係にあるといったが、それは、三代目市川八百蔵の不破伴左衛門の絵ように、豊国と写楽とで左右対称の対を成す絵があるといった皮相な意味で言っているのではない。なお、白雲母摺地の歌麿絵に対しても、同じことが言える。

写楽は、異界の絵師であった。浮世絵というのは、もともと浮世、すなわちこの世を描写する絵である。しかるに、写楽は、デフォルメされた異形の役者絵を描くことで、浮世絵を通じて異界を描いた。歌舞伎界からすれば異界である能の世界から来た斎藤十郎兵衛は、その段階で、「他流」「外流」「別風」なのだが、それ以上に、斎藤十郎兵衛は、ワキの視点から歌舞伎を異界とみなし、役者をシテとみなして描画することで、異界の絵師となったのである。

日本では、古来、あの世は地下にあると信じられた。地下だから、冥界は暗い。だから、異界は黒色で表象される。ところが、写楽は、第2期以降、黄潰し地の絵を多数書くようになった。しかし、それでも、依然として、写楽の主たるモチーフは、異界であったと思う。土の色は黄色であり、だから、地下の冥界は、「黄泉の国」と呼ばれた。黄色は黒色と同様に、異界の色なのである。黄色は、また危機の色であり、境界上の両義的存在を象徴する色でもある[スケープゴートは何色か]。

5. 写楽はなぜ端役を好んで描いたのか

写楽は、人気のある著名歌舞伎役者のみならず、あまり有名でない役者も好んで描いた。さらには、中島和田右衛門、中村此蔵、谷村虎蔵、板東義次など、当時全く無名だったといってよいような三流役者までを描いている。これに対して、豊国は、一流の人気役者しか描かなかった。おそらくこれは、写楽の絵が、豊国の絵とは異なって、商業的に成功しなかった理由の一つであろう。写楽は、豊国よりも大量の役者絵を描いたから、豊国とは違って、端役まで描かなければならなかったという説明は成り立たない。劇によっては、人気役者を省略して、端役だけを描いている場合があるのだから。

写楽が端役に注目した一つの理由として、斎藤十郎兵衛自身が、能舞台において端役しか果たしていなかったことを挙げることができる。能の主役はシテであり、ワキは文字通り脇役で、斎藤十郎兵衛はワキツレだったから、その脇役のさらに脇役である。芸術家というものは、作品の中に、自分の分身(鏡像的他者)を描こうとするものである。だから、写楽の視線が、脇役に注がれたとして、不思議ではない。

だが、私は、写楽が端役を描いたのには、もっと重要な動機があったと考えている。一流の人気役者は、脚光を浴びる位置にいるが、二流以下は、そうではない。両者は、光と闇の関係にある。そして、闇の中にあって、浮かばれない存在を見分け、観客に分からせるのがワキ(あるいはワキツレ)の仕事である。さらに、スケールを広げて、同じ考察をするならば、写楽がデビューする直前、伝統的な三座がすべて休場・倒産するほど、歌舞伎の人気は落ちてしまっていた。写楽は、人気が落ちた歌舞伎全体を見分け、一般人に分からせようとしたと解釈することもできる。

6. なぜ写楽は短期間で姿を消したのか

内田千鶴子は、写楽の役者絵が当初よく売れたと推測している。

写楽版画は売れに売れた。その証拠に、大首絵の個々の作品の摺りの状態や色調の違ったりしたものが現在でもかなり残っていて、その枚数も多いから、写楽大首絵は評判が良かったために、大量に摺られたことが考えられる。

[内田 千鶴子:写楽・考, p.155]

たしかに、写楽の役者絵には、さまざまな異版があるのだが、それは、必ずしも、当時よく売れたということを意味しない。当時、写楽以上に人気があって、よく売れた勝川系の画家の作品には、こうした現象は見られない。さまざまな異版があるのは、後世にさまざまな偽作が作られたからではないのか。

内田が「市川男女蔵の奴一平」[内田 千鶴子:写楽を追え―天才絵師はなぜ消えたのか, p. 10]として口絵に採用している出所不明の浮世絵は、落款にある「画」が“由”型になっていて、写楽に特徴的な“田”型になっているないことから、後世の模造品と判断できる。こういうものを採用しているところをみると、内田は、原画と模造品の区別に関して無頓着なようだ。

ドイツのユリウス・クルトが、1910年に『写楽』を出版し、写楽はレンブラント、ベラスケスと並ぶ三大肖像画家と絶賛され、海外でも写楽の評価は高まった。もともと写楽の現存する作品の数が少なかったために、写楽の錦絵の買い取り価格は、他のどの錦絵よりも高くなった。その結果、写楽の作品の模造品を作って、本物と偽り、海外に売る輩が出てきた[瀬木 慎一:新版・写楽実像, p.101]。

こうした事情を考えるならば、やはり、写楽の錦絵は、第1期からあまり売れなかったと考えるべきであろう。もしも第1期の大首絵が売れていたならば、歌麿と同様に、写楽も大首絵を描き続けたに違いない。そうせずに、第2期以降、さまざまな手法を試しているところを見ると、彼の作品は、最初から最後まで、あまり売れなかったと推測できる。また、第1期はすべて高価な大判だったのが、第2期以降、それよりも安い細版が増えている。これは成功している作家がたどる道とは逆であり、蔦屋の写楽に対する評価が下がっていったことをも示唆している。

写楽のシリーズを出し終わった翌年、蔦屋が、蔵版の狂歌絵本などの版権を大阪の版元に譲渡しているところをみると、やはり写楽をデビューさせるプロジェクトは、商業的には失敗に終わり、その結果、蔦屋は財務的に行き詰ったということなのだろう。写楽の作画活動が短期間で終了したのは、この商業的失敗が原因である。もしも写楽がプロの作家ならば、他の出版社を探して、再起を図るということをしたかもしれない。だが、さまざまな出版社に売り込みをするということは、斎藤十郎兵衛の場合、素性がばれるのでできない。斎藤十郎兵衛には、戻るべき本業があるのであり、だからこそ、彼はあっさりと筆を捨てることができた。

写楽は、蔦屋からデビューする前に、大量の習作を描いていたに違いない。そうでなければ、蔦屋重三郎の目にすら留まらなかっただろう。しかし、それらは、現在、一切残っていない。もちろん、斎藤十郎兵衛が描いたとされる絵画もまったく残っていない。しかし、残っていないということは、存在しなかったことを意味するのではない。斎藤十郎兵衛は、きっと自分が東洲斎写楽であることが暴露されることを恐れて、手持ちの自作品をすべて処分したと私は推測している。だから、私は、出版のための版下絵を除いて、写楽作と称する肉筆画を信用していない。

7. なぜ写楽の作品は質が低下していったのか

写楽の作品は、第1期、第2期、第3期、第4期と後になるほど作品の質が落ちていくというのがもっぱらの評価である。このため、後期の作品は、前期とは別人が書いたという説を唱えるものまでいる。たしかに、役者の顔の描写という観点からすると、後になるほど粗っぽくなり、生彩を欠くことは事実である。しかし、それは大首絵から、全身絵、さらには風景画へと描く領域が拡大していった結果必然的に起きることであり、写楽の力量が下がったとか別人が書いたという結論を導くことはできない。

写楽の作品の中でも、なかんずく、背景を細かく描写した第3期と第4期の細版は評判がよくないのだが、これは、各細版を独立した作品として評価しようとするからであって、例えば図6でやってみたように、背景をつなげて、全体で一枚の絵と見てみると、決して手を抜いた作品とは言えないことがわかる。第3期は大量生産の時期と言われるが、続き物を一つの作品とカウントするならば、特に多作というわけでもない。

写楽の全貌写楽の全貌写楽の全貌写楽の全貌写楽の全貌
図6 左から順に、中島和田右衛門の家主身替りの地蔵、四世松本幸四郎の皆川新右衛門じつは畑六郎左衛門、四世岩井半四郎のおとまじつは楠正成女房菊水、三世市川高麗蔵の小山田太郎、二世小佐川常世の女髪結いお六[山口 桂三郎:写楽の全貌, p.144-146]

もとより写楽の才能は肖像画において最大限発揮されるのであって、舞台全体を風景画のように描くと、個々の肖像画の魅力は落ちてしまう。にもかかわらず、なぜ写楽は、あえて自分にとって不利な手法を取り入れたのか。

『江戸風俗惣まくり』は、写楽が不評であった理由を次のように説明している。

写楽といふ絵師の別風を書き顔のすまいのくせをよく書たれど、その艶色を破るにいたりて役者にいまれける。

写楽という絵師が、[歌川豊国や国政などとは]異なった作法で[歌舞伎役者の肖像画を]描いて、顔の形の欠点をうまく描写したが、その美しさを台無しにしたために、役者から嫌われた。

[江戸叢書刊行会編纂:江戸叢書巻の八,江戸風俗惣まくり,絵双紙と作者]

『浮世絵類考』では「あまりに真を画かんとて、あらぬさまにかきしかバ、長く世に行われず、一両年にして止ム」と評されていたが、真を画くといっても、それは写真で写したようにありのままに描く写実主義ではなく、顔の欠陥を誇張することで、本物以上に本物らしく描くというリアリズムだった。当時、役者絵は、歌舞伎のブロマイドのような機能を持っていたので、実際以上に役者を魅力的に描かなければならないのだが、写楽は、実際以上にグロテスクにデフォルムして描いてしまった。それが『浮世絵類考』が謂う所の「あらぬさま」ということであおる。

男役の役者はそれでもまだよいが、美貌を売りにしている女役にとっては、そしてその女役のファンにとっては、写楽の絵は我慢のならないものだったに違いない。例えば、以下の図7は、写楽が描いた三世瀬川菊之丞であるが、美人と言えるだろうか。

写楽の全貌写楽の全貌
図7 左図:三世瀬川菊之丞の田辺文蔵の妻おしづ,右図:沢村宗十郎の名古屋山三と三世瀬川菊之丞の傾城かつらぎ(一部)[山口 桂三郎:写楽の全貌, p.13, 69]

三世瀬川菊之丞は、当時最高の給料をもらっていた最高の女方である。豊国は三世瀬川菊之丞を色気たっぷりに描いているが、写楽が描いた三世瀬川菊之丞は、まるで異界の妖怪変化のようだ。これでは役者やファンが怒るのも無理はない。

写楽は、クレームがあった顔の部分の比率を絵全体の中で相対的に小さくするべく、役者絵を大首絵から全身絵へと、さらには風景画へと変化させていったのだろう。しかし、比率が小さくなっても、あらぬさまにかいていた点は何も改善されず、結局、写楽は、役者とファンから評価されないまま、作画を断念するにいたったというのが、写楽シリーズが短命に終わった事情に違いない。

さらに、想像をたくましくするならば、写楽は、役者たちから嫌われた結果、芝居前のデッサンができなくなったのではないだろうか。複数の浮世絵師が同じ舞台の同じ役者を描いているにもかかわらず、服装が異なっていたり、公演が中止になった舞台の浮世絵が残っていることからも分かるように、当時の役者絵は、芝居前に描かれていた[梅原猛:写楽 仮名の悲劇,梅原猛著作集〈11〉人間の美術,583頁]。内田は、写楽が芝居を見ながら描画したと想像しているが、以下のような営業妨害的なことをしていたとは到底考えることができない。

写楽は思わずかぶりつきに立ち上がり、矢立の筆を手にした。

「何やってんだ!」
「引っ込め!」

観客から野次や怒号?。

野次や怒号を無視して、蝦蔵の顔を見据える写楽。ぎょっとした表情を化粧に隠す蝦蔵。写楽は蝦蔵の演技に能役者として絵師として満足感を覚え、座ることも忘れて、画帖一杯に筆をたたきつけた。

おそらく、当時の浮世絵師たちは、稽古中の役者を見ながらデッサンをしたのだろう。それができなくなることは、肖像画家にとっては致命的なことだ。第3期と第4期の役者絵が生彩を欠いているのは、このためではないのか。写楽は舞台背景を描くことで、その欠陥をカバーしようとしたが、それは、たんに写楽の作品の芸術的価値を下げる結果にしかならなかった。

8. 『高島屋おひさ』の写楽絵は何を物語るか

浮世絵ギャラリー〈4〉写楽の意気写楽の全貌
図8 左図:栄松斎長喜『高島屋おひさ(一部)』,右図:写楽『四世松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛』[山口 桂三郎:写楽の全貌, p.22]

『伍一本浮世絵類考』で「写楽は阿波侯の士にて俗称を斎藤十郎兵衛といふ」と証言したと記された栄松斎長喜が、彼の浮世絵『高島屋おひさ』で、写楽の絵をあしらった団扇を描いたことは既に述べた。この絵は、縦長の柱絵であるが、左の画像は、細長い『高島屋おひさ』の主要部分を切り取ったものである。団扇絵のオリジナルは、右に掲げた写楽の第1期の作品『四世松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛』である。

ところが、よく見ると、団扇に描かれている『四世松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛』は、写楽のオリジナルとは左右が逆になっている。つまり、オリジナルと団扇絵は鏡像的な関係にある。高島屋おひさが持っているのは団扇であるが、これは、その形状からして、手鏡のようにも見えないだろうか。手鏡の鏡面に写楽の作品が写っている、そういうようにも見える。栄松斎長喜は、この絵で何を表現しようとしたのだろうか。

実は、栄松斎長喜が『高島屋おひさ』を描いたのは、写楽が姿を消した翌年にあたる。あの世がこの世から見て、鏡の向こうの世界だということは、これまで繰り返し述べてきた。写楽の絵が鏡の向こう側にあるということは、写楽の絵はもうあの世に逝ってしまって、この世にはないということを示している。現代人にはいちいち説明しなければ分かってもらえないこのようなメッセージも、当時の人は、ヒントなしですぐに分かったことだろう。写楽は異界の絵師であった。彼は、能という異界から来て、歌舞伎を異界として描き、そして、異界へとまた帰っていったのだ。

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  7 コメント

  1. 写楽はシャーロック説のほうを信じています。

  2. 東洲斎写楽の東洲斎の名前の由来は斎藤十郎兵衛の最初の3文字だけとって
    東洲斎
    とう しゅう さい
    さい とう じゅう
    斎藤十
    ですよ。

  3. なるほど、アナグラムというわけですね。ただ、なぜその三文字だけを選んで、その順番に並べたかに関しては、別の説明が必要でしょう。

  4. 明治以降特に大正時代に江戸時代の業績を抹殺しようという策謀があったようで、いろいろな分野で新説が発表されもてはやされました。美術の分野では北斎や若冲が価値の無いものとされたり、政治のほうでは田沼意次がやられています。江戸期の文献を無視した思いつき程度の新説が現在では定説になってしまっているものもあります。それらを覆すにはたいへんな労力が必要です。そのために労苦を厭わず頑張っておられる我師や永井俊哉様のご健闘に感謝感謝であります。

  5. 「ドイツのユリウス・クルトが、1910年に出版した『写楽』で、写楽をレンブラント、ベラスケスと並ぶ三大肖像画家と絶賛して以来」

      ↑

    ウィキペディアによるとクルトの『写楽』にこのような記述はなく、三大肖像画家の賞賛は日本の仲田勝之助が始めたことだとされています。

  6. ご指摘ありがとうございます。誰がそう言ったかがどうでもよいように書き替えました。

  7. お手間をおかけしました。議論の余地はない問題だと思えるのですが、写楽別人説が絶えないのと同じで、外国の研究者の賞賛にしておいた方が歓迎されるためにいつまでも通説の誤りが改まらないのでしょうね。すぐ上の朝見素山様もおっしゃる通り、いったん定着した誤解を覆すのはたいへんな労力が必要になるようです。

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