公的年金制度は必要か
老後は働かずに年金生活を送りたいという人は、自分で民間保険会社が提供する私的年金に加入すればよいのであって、国家が老後働かないという特定のライフスタイルを国民全員に制度的に強制することは、多様なライフスタイルを選択する自由を否定することになり、好ましくない。したがって、加入が義務である公的年金制度は不要である。[1]

1. 問題提起
2011年10月中旬に、厚生労働省は、厚生年金の支給開始年齢を65歳から68歳にまで引き上げる案を出したが、あまりにも世間の反発が大きかったので、10月26日に、小宮山洋子厚生労働相は、この案を来年の通常国会に提出する関連法案に盛り込まない方針を示した。大多数の企業の定年は60歳で、ほとんどの人は、8年間も無収入無年金では生活できないからだ。

もとよりこうした問題は、支給開始年齢を60歳から65歳に引き上げを決めた時点から指摘されていた。企業が定年を支給開始年齢に合わせて引き上げてくれればよいのだが、そういうことができる体力のある企業は少数だ。それで政府は、2004年に高年齢者雇用安定法を改正し、企業が定年退職者を新たな契約条件で雇用し直す再雇用制度を作った。だが、給料は低く、不本意な仕事を押しつけられたり、年功序列制度で作られたプライドが傷つけられたりなどの理由で、脱落者が多いとのことである。
全国民必読 まやかしの再雇用 いつわりの年金 「仕事はない、年金は大幅減額」 60過ぎたら、この世は地獄 (date) 2011年10月11日 (media) 現代ビジネス さんが書きました:
「かつての部下が直属の上司になってしまったのは、どうにも困った。タクシーで出掛けるときは、私が運転手の隣に座り、元部下が後ろの席に座る。そして降りるとき、『料金を払っておいて』と言われたりする。そのうえ『おいちょっと、~クン』と呼ばれるのは、仕方ないとわかってはいても、怒りと屈辱で精神的に病んでしまいました」(元食品メーカー勤務・65歳)
[…]
だが、待遇は悪くても仕事があるだけまだマシかもしれない。実のところ、再雇用制度を導入している企業で「希望する者全員を雇用」しているのは全体の 31.5%にすぎない(’10年度、産労総合研究所の調査による)。残りの企業は「本人が希望し、会社が必要と認めた者」を選んで雇用している。つまり、企業は再雇用する人の基準を独自に決めることができ、それに適合しない者は雇用しなくともよいのである。
再雇用制度は、公的年金制度の破綻を取り繕うために捻り出された弥縫策であり、失敗だったと評価せざるを得ない。もちろん、働くことができる高齢者は働くべきだという考えは正しい。しかし「働く」イコール「雇用される」という発想は考え直さなければならない。政策を立案する役人も当事者のサラリーマンも、組織に依存する生活が長すぎて、こういう発想しか持たなくなってしまったのかもしれないが、《雇用される労働》以外にも《雇用する労働》があるのであって、高齢者にふさわしい労働は、前者ではなくて、後者であることに気付くべきである。
日本では、35歳以上の転職は困難と言われる。日本の年齢差別は異常であるが、海外でも、高齢になるほど再就職が困難になるという傾向はある。これは、中高年にとって憂鬱なことのようにも思われるが、それは《雇用される労働》に話を限定したらのことであって、《雇用する労働》という観点からすると、逆のことが言える。すなわち、人は、一般的に言って、年を取るにつれて、様々なノウハウや社会に関する知識が身に付き、資産も増え、人脈も豊かになる。つまり、文化資本、経済資本、政治資本の蓄積が大きくなるので、雇用する側になるにはそれだけ有利になるのである。
もとより、中には、起業するにも開業資金がないという高齢者も多いだろう。しかし、もしも退職金に加え、公的年金(サラリーマンの場合、厚生年金)で蓄積した保険金を一括で受け取ることができるなら、その合計は、小規模な事業を開始するのに十分な額の資金(標準的には、四千万円程度)になるだろう。年金という形で毎月少額の金額を支払っていると、高齢者は、働くことなく、それを生活費として消費してしまう。しかし、一括して支払えば、それを資本として、会社を設立し、経営者として働くことで、生活費を稼ぐことができる。事業内容が優れていれば、外部から投資を募ることもできるだろう。
政府は定年時期の延長や再雇用制の普及に熱心だが、高齢者雇用を企業に政策的に強要すると、その分、若者の雇用が減る恐れがある。高齢者が従業員として働くのではなくて、雇用主として働くなら、それは、若者の雇用を奪うどころか、むしろ逆に増やす効果が期待できる。一般的に言って、企業の数が増えるにしたがって、新たな潜在的な需要が掘り起こされ、経済活動が活発になるからだ。
同じ「高齢者を働かせる」目的の政策であっても、私が提案する方法の方が、再雇用制度よりも高齢者にとってはより多くのメリットがある。再雇用制度での時給はフリーターレベルであることが多いが、経営者になる場合、成功すればの話だが、収入は青天井である。また事業内容は自分で選べるし、苦手な仕事、やりたくない仕事は、人を雇ってやらせればよい。身分は、社長なので、これ以上にプライドが保てる肩書はない。だから、給与水準の低さ、不本意な仕事内容、プライドといった再雇用制度が抱えている問題は解決される。もちろん、事業に失敗して一文無しになるリスクがあるというデメリットもあるが、生活保護の制度があるから、一文無しになった高齢者が餓死することはない。
年金を一括支給すると、生活保護受給者が増えるので、かえって財政を圧迫するのではないかと懸念する人もいるかもしれない。しかし、失敗する人もいる半面、成功する人もいるのであって、成功した高齢者が納税を通じて財政に貢献すれば、高齢者全員を働かせないようにする場合と比べて、セーフティネットのシステムは、負担者と受益者のバランスが取れた、より持続可能な制度となる。
年金制度と生活保護が制度的な矛盾をきたしていることは、従来から指摘されているとおりである。生活保護が最低限の生活を保障するセーフティーネットであるのに対して、公的年金は、最低以上の、豊かな老後のためにあるというように、その役割の違いを説明することはできるが、その場合、前者は、日本国憲法第25条1項の規定により政府が行わなければならない公的制度として正当化できるが、後者に関しては、なぜ政府がやらなければならないのか、その根拠はあいまいになる。
老後は働かずに年金生活を送りたいという人は、自分で民間保険会社が提供する私的年金に加入すればよいのであって、国家が老後働かないという特定のライフスタイルを国民全員に制度的に強制することは、多様なライフスタイルを選択する自由を否定することになり、好ましくない。現行制度では、60歳以降も働く場合、賃金と年金の合計額が月28万円を超えると年金が削減されるが、これでは、政府が高齢者に働かないように圧力をかけているようなものだ。
今の生活保護の制度にも、いろいろ欠陥があるが、「セーフティネットはどうあるべきか」で私が提案した制度なら、モラルハザードを引き起こすことはない。最低限の生活を保障するセーフティーネットがあるなら、公的年金制度は不要であり、廃止したほうがよい。ただし、受給総額が複利で計算した納付金の総額に満たない加入者には、その差額を還付しなければならない。積立金不足のため、加入者全員に同時に返還することはできないので、60歳以上になった段階で一括返還をすることにして、税金も投入しながら、長期にわたって清算するしかない。
一括返還される金がすべて高齢者の開業資金になるとは限らない。中には、ローンの返済に使う人もいるだろうし、投資信託に投資して、毎月年金をもらうように分配金を受け取ろうとする人もいるだろう。自分が積み立てた金なのだから、どう使うかはその人の勝手だ。だが、それを元手に商売を始めようとする高齢者も確実に出てくるだろう。日本は自立をあまり評価しない社会であるが、開業率が廃業率を下回る現状を打開するためにも、公的年金制度の廃止を高齢者の起業家やシルバー・ベンチャーの育成につなげていってもらいたいものだ。
「社会福祉は必要か」も読みましたが、公的年金の不合理さがよく分かりました。
しかし、永井先生のおっしゃるような、理想的なセーフティーネットが不在な現状では、一般人は公的年金制度を利用するしかないですよね。
また、この論文は、第一号被保険者の、年金不払いを良しとするものではないですよね。年金に対して否定的な文章なので、誤解しそうになりました。
国民年金は老齢基礎年金のほか、障害基礎年金、遺族基礎年金、死亡一時金、 寡婦年金が給付されるので、基礎的な年金保険としては悪くないと思います。私的年金と比べても、倒産がないことやインフレに強いというメリットがあり、このメリットは例えセーフティネットが完成しても、安心できる年金制度として支持され続けてしまうのでは?
「社会福祉は必要か」で既に書いたように、倒産のリスクは、民間の再保険でカバーできます。金利を減額するという条件を付けるのであれば、政府が再保険者の役割を果たしても、モラル・ハザードは起きないでしょう。もっとも、政府にも、倒産に相当する財政破綻のリスクがあり、政府が保証しているから絶対安全ということはありません。
また、公的年金の擁護者は、公的年金はインフレに強いという主張をよくしますが、これは、公的年金がなければ、国民はもっぱら現金を金庫(あるいはタンス)に保管することで貯蓄を行うはずだという非現実的な仮定に基づいています。実際には、普通の人は、余剰資金を、直接的あるいは間接的に、債券、株、不動産、私的保険などの形で貯蓄します。そして、これらは、すべて公的年金と同様にインフレに強いのです。債券には金利が付きますが、
名目金利=実質金利+インフレ率
ですから、インフレになると、名目金利が上昇します。だから、固定金利の長期債を除けば、インフレで債券が減価することはありません。株や不動産などの現物資産は、物ですから、インフレ局面では、評価額が上昇します。そして、それらで資金運用している私的保険も、同様にインフレに強いということになります。
年金は、ご指摘の通り、高齢者のみならず、障碍者や寡婦などにも支払われます。しかしながら、これらの人々に公的年金を一律に支払うことは、高齢者に支払う場合と同じ問題を孕んでいると私は考えています。
障碍者や寡婦が、高齢者と同様に、一般の労働者よりも所得が低いというのは、統計的事実としては、真理でしょう。しかし、中には、一般の労働者と同等以上に稼いでいる、あるいは稼ぐ潜在的能力を持っている人もいるのですから、それらのカテゴリーに該当する人たちを予断と偏見で一律に弱者扱いにして、公的年金を支給するといういことは、本人の自立を損なうという点でも、財政負担の増大という点でも、好ましくありません。
政府は、レッテル貼りによる一律扶養をやめて、自助自立による生命維持が不可能になった段階で救済するセーフティネットを提供することで、働くことができる人を最大限働かせるべきだというのが私の考えです(遺児に関しては、私が提案する教育保険の対象です)。
日本の公的年金制度の起源は、軍人に対する恩給制度です。軍人は、生命を危険にさらす過酷な職業ですから、退役後の本人あるいは戦死後の遺族を厚遇しなければ、割に合わないという考えがあったのでしょう。しかし、現代日本の自衛隊は、かつての日本の軍隊ほど危険な職業ではありません。また、現代の日本には、かつてないほど、民間ベースでの資産運用の選択肢があります。公的年金制度を正当化する前提が、なくなっているのですから、制度そのものを抜本的に考え直す必要があるでしょう。
公的年金というより社会福祉全般の問題ですが、これは道徳的問題であり、であるが故に強制的に上限を設けなければならない問題であること、憲法に「借金を増加させる、また財政内での一定比率を越えた社会福祉を禁止する」条項を立てて政府のバラ撒きを禁止しなければならない問題であることを説明します。
今社会福祉を受けている世代が借金でそれをまかなっている場合、それは後の世代からの収奪を意味します。その後の世代は今は何の政治的権利も持たない、もっと言えば生まれてすらいない者が大量に含まれます。現世代が分不相応の社会福祉を享受することと引き替えに、その全く無力な弱者を社会に出る以前、生まれる以前から半ば借金返済の奴隷にされてしまっている訳です。借金が政府財政を破壊するほど厖大なものである場合、後の世代は今借金で賄っているような水準の社会福祉を受けられることはほぼまったくあり得ません。彼らは、質が低く毀損された社会福祉しか受けることができないのに、厖大な借金を返済する為に身を粉にして働き貧しい生活に耐えねばならないことが予約されています。また、福祉を受ける老人とそれを負担する中年以下の人口比率が圧倒的に後者に不利な日本では現役世代も奴隷になっています。先進国における子育ての費用を考えた時、少子化の主たる原因はこのような若者・現役世代から老人への所得移転、つまり公を介した搾取であり、それはさらに未来の社会を縮退に追い込んでより悪い方向へ落ち込んでいきます。しかし、成人国民一人につき一票設定の民主主義では負担する側の後の世代がこれを改めることはできません。ましてやもっとも被害を受ける未成年やまだ生まれてもいない者達は何の関与もすることはできません。つまり、憲法で政府の行動に縛りをかけない限り、民主主義では老人比率が増えた段階で社会福祉は後の世代の搾取と奴隷化を必然的に招来します。
つまり社会福祉は本来道徳的にその絶対的上限額が決まっていなければならず、その上限の中で割合を変えることが許されるだけ、ということです。こうした未来の社会に対する道徳的責任と憲法による縛りを背景に野放しの社会福祉が許されなくなれば、必然的に働ける人は働く、外国人に無闇に払わないということは当たり前になります。"人権"を題目に何かと社会福祉の範囲と量を拡大してきましたが、それが最悪の道徳的犯罪の元に成り立っているということが周知されれば、そのような御託は通用しなくなるでしょう。
また永井さんは軍人恩給の話に触れていますが、すべてを金で解決するからおかしくなる訳です。社会福祉の費用を負担している側、危険な戦場で共同体全体の為に戦った人に対しては投票数を増票しなければなりません。共同体の為に負担している側は票を増やし、それを享受する側は最低限の票しか持てない、そうして初めて公正で責任ある社会になります。"7月4日に生まれて"の主人公の様な戦場で負傷して半身不随になった人間は五票程度の投票権を持つのが当たり前です。そうであれば、彼は最初からその投票権を以て不当な待遇を改めさせることができたのです。軍人に金でなく票が与えられるようになれば、昭和の五・一五事件の様なことは起きなくなるでしょう。民主的にその意見を反映させられるのですから。
共同体に何億もの税金を納めている人は額に応じて十票ぐらいまでの投票権を持つ、これもまた当たり前です。その人物は脱税している訳ではなく共同体に奉仕しているのですから。一円納めようが十億納めようが一票しか投票権を得られないから脱税し、国外に金も事業も逃し、代議士に金を渡して裏から自分の意見を通すようになるのです。そして当然、労働して社会福祉に頼らず生活している、それだけで増票されて当たり前です。私は十五歳になれば一票の投票権を与えられて当然と考えます。社会保障を浪費していなければ一票増票され、さらに税金を納める側であれば一票追加されます。共同体に奉仕する側と貰う側が同じという悪平等が社会保障の自壊、民主主義の腐敗をもたらしているのです。
日本でも、かつて、納税額によって選挙権が制限されていたことがありました。納税額が多いほど、政府への貢献も多いということはできるかもしれませんが、貧困層ほど政治に対する不満が大きいというのも事実です。彼らにとって、選挙は不満を合法的に解消する最も重要な手段です。その手段が封じられると、彼らは不満を爆発させて、暴動を起こすかもしれません。
制限選挙で選ばれた議員が、一見すると彼らを選んだ高額納税者にとって不利とも思える普通選挙の実施に合意したのは、貧困層に選挙権を与えて、ガス抜きをした方が、鬱積した不満から暴力的な共産主義革命が起きるリスクを減らすことができると高額納税者及びその利害の代弁者たちが判断したのでしょう。普通選挙法が治安維持法との抱き合わせで成立した史実がそのことを雄弁に物語っています。
未成年者の利害の代弁や無節操な債券の発行の抑制方法に関しては、「民主主義はどうあるべきか」で私なりの案を提示しているので、そちらをご覧ください。
永井俊哉 さんが書きました:
日本でも、かつて、納税額によって選挙権が制限されていたことがありました。納税額が多いほど、政府への貢献も多いということはできるかもしれませんが、貧困層ほど政治に対する不満が大きいというのも事実です。彼らにとって、選挙は不満を合法的に解消する最も重要な手段です。その手段が封じられると、彼らは不満を爆発させて、暴動を起こすかもしれません。
制限選挙で選ばれた議員が、一見すると彼らを選んだ高額納税者にとって不利とも思える普通選挙の実施に合意したのは、貧困層に選挙権を与えて、ガス抜きをした方が、鬱積した不満から暴力的な共産主義革命が起きるリスクを減らすことができると高額納税者及びその利害の代弁者たちが判断したのでしょう。普通選挙法が治安維持法との抱き合わせで成立した史実がそのことを雄弁に物語っています。
私が言っているのは貢献者増票制度です。制限選挙ではありません。貢献者増票制度が受け入れられるかどうかは、・貢献した人に増票するのが社会全体にとって有益だという共通認識が高まること・一票=一円といった極端な金持ちに有利な設定にしないことの二点が必要です。
納税と兵役は貢献者増票の二大基幹であり、これらに対する共通認識は適切な説明と設定であれば得られるでしょう。納税は社会保障も含めたすべての行政活動の原資になり、兵役は共同体のために命や身体の危険を負いますから。他の増票に値する貢献項目は、一人一票設定の投票により追加もしくは削除されます。どの程度の納税や兵役が何票の増票に値するかということも一人一票設定の投票で決めれば貧者の暴発には繋がりません。
永井俊哉 さんが書きました:
未成年者の利害の代弁や無節操な債券の発行の抑制方法に関しては、「民主主義はどうあるべきか」で私なりの案を提示しているので、そちらをご覧ください。
以前にも何度か見たことはあったのですが、今回理解できるまで読み込みました。以下が私の理解した要録です。
◇hybrid民主主義=直接民主主義を基本にその欠点を克服する制度
・すべての国民がすべての議決に対して投票権を持つ=これで直接民主主義が担保される>実際の議案認知や議論、議決はnetを利用した架空議場で行われる。(次節)
・誰でも登録さえすれば議員になることができる=供託金のような金銭的縛りはなく、議員になること自体に費用はかからない。
・棄権時投票権委託議員はただ登録しただけでは一般人と同じ、投票において一票の影響力しかない。
ここで出てくるのが棄権時の投票委託制度。大多数の国民は日々の生活の忙しさや、能力的限界、またはその志向により、政治判断に関わるさまざまな問題を詳しく知ることなどできない。よくわからない問題には関わっていられないので自らに対する負荷を減らすために棄権を選択することになる。これは直接民主主義の形骸化を招きかねないが、そうして棄権した時に、投票権は自動的に事前に委託した議員に移行する。その議員が棄権すれば所属政党に投票権は移行する。
有権者はなにがしかの議員に必ず棄権時委託登録を行わねばならず、死に票は消える。棄権時委任投票の合計がそのまま議員の力となるのがこの制度の要点となる。
・与えられる議員報酬・政治資金は潜在的保有票=棄権時投票委託の合計と連動
潜在的保有票=棄権時投票委託の合計実効投票数=棄権時投票委託の合計 – 棄権せずに投票した数=その議員がその議案に対して持つ投票数
棄権時投票委託の合計が多い議員は人々から支持されている。議員報酬や政治資金はそれと連動し、支持されている人はより多くの報酬や活動資金を貰える。ただし、最低数を越えないとこれは払われない。こずかい稼ぎを防ぐため。
・子供など判断能力を持たない存在分の投票権は親など扶養者に強制委託そうして強制委託された分は半分の投票数扱いになる。例えば子供四人なら2投票扱いで、その親は自分の分も含め、合計3の投票になる。
・政党は強制力を持たず、議員の主体的判断が優先される
◇net上の架空の議場 – 潜在保有票がすべてを決めていく
・一般投票者は閲覧しかできない・議員や政党は法案を提出することができる
・それぞれの議案には公開討論場が設けられる・議案はそれを支持する議員の潜在的保有票の合計、すなわち棄権時委託投票の総計が多いほど高い順位に付き、人々の目に止まる。順位が一定以上に上がると全有権者での議決にかけられる。
◇議員内閣制
・議員内閣制・合計棄権委託得票数で首位の政党が内閣を組織過半数を占める必要はなく、一位の政党が政府になる・任期は一年一年ごとに潜在得票数により、交替する。潜在得票数で首位であり続ければ何年でも継続可能。
◇まとめ・すべての国民が議決に参加できる・成人であれば誰でも簡単に議員になれる・棄権しても無駄にならず、委託した議員の票になる。委託するのはその議員を支持すること。・棄権時の代行委託がそのまま議員の力になり、ひいては政党の力。政府にまでなって直接物事を決定していく。・議案の認知には新しいsystemを用い効率化を図る・絶対多数でなくとも、相対的に多数である政党に政権を取らせることで大胆な政策の実行を可能にし、かつ失敗を早く判定することで損害を最小化する・連邦制に近い、国防外交以外のかなりの自主決定権を持つ地方分権が並立するので、市民が投票を経ずとも政府を選ぶことのできる"足の投票"が可能になる。
◇課題
> 有権者が、利己的で、近視眼的で、無責任な選択をしないようにするには、制度的な工夫が必要である。
これに関しては私は代理人に対してあれば解答を持っています。今まで革命など体制転換を経なければ行えなかった"事後の裁き"を制度化し、税金受けて働く者や国民の代理として選ばれた代理人はすべて事後に功罪を裁いて褒賞と罰を与えることです。大衆の多くは事前に何かの結果を正しく予測して判定することなどできません。専門家でも人によりその意見はバラバラで誤ることが多々あります。普通の人にできるのは事後に、結果を見てから判断を下すことです。委託した専門家(議員・医者・教師・官僚・裁判官など)への公的な報酬や罰はその事後判断により行われます。事後から、直接民主主義が行われる訳です。有権者が事後から裁きを下すことが予約されていれば、代理人の側の"利己的で、近視眼的で、無責任な選択"も、有権者の側の"利己的で、近視眼的で、無責任な選択"も激減します。皆が長期で後のことを考えて行動するようになるからです。今の大衆は公的な代理人を裁く権利も判断情報も判断力も持たされていません。であるから、内閣をコロコロ替えたり、自民党と口先でおいしいことを謳う民主党を取り替えるようなことしかできません。暗闇の中で何の情報もなく石を掴まされているようなものです。
学校解体 – 教育の完全流動化制度化された事後の裁きを教育に適用した例です。社会主義的な他者に責任をなすりつけ、保障を求める傾向は教育バウチャー程度では解決せず、学校を解体し、真に役に立ったものには何であろうとすべて報酬を与えることでしか解決しません。また長期かつ半強制的に維持される関係をなくすので、学校だけでなく、社会全体のいじめを無意味化します。
有権者が、利己的で、近視眼的で、無責任な選択をしないようにするには、単なる市場原理の適用ではなく直接民主主義的な参加とその責任を負うことを社会に織り込んで繰り返していく他ないでしょう。
井上朋樹 さんが書きました:
私が言っているのは貢献者増票制度です。制限選挙ではありません。
たしかに、ご提案の制度は、狭義の制限選挙ではありませんが、しかしながら、制限選挙と本質的に同じような問題を抱えています。たとえ貧困層に票が与えられたとしても、富裕層にそれ以上の票が与えられるなら、貧困層は、票が与えられなかった時と同様の不満を抱くでしょう。
また、兵役に就く者の票を増やすなど、貢献基準を多様化すると、評価基準をどう定めるかという別の問題が発生します。「共同体のために命や身体の危険」を冒す職業は軍人に限定されません。慈善活動に多額の寄付をするとか、ボランティア活動をしている人たちにはどの程度の票を増やせばよいのでしょうか。多数決で決めるといっても、票の配分に不公平感を抱いている人が多いなら、結論が受け入れられない可能性があります。
国民が票の配分のあり方に疑問を持てば持つほど、政権は正当性を失います。上記の理由により、ご提案の制度も、権力から疎外されていると感じる人たちが暴力革命を起こすリスクを高めてしまうのではないかと懸念します。
井上朋樹 さんが書きました:
“事後の裁き"を制度化し、税金受けて働く者や国民の代理として選ばれた代理人はすべて事後に功罪を裁いて褒賞と罰を与える
現行の間接民主主義でも、議員は選挙の洗礼を受けていますから、「事後の裁き」は既に行われています。公務員も、平成19年に改正された国家公務員法に基づき、「能力・実績主義の人事管理」に関する諸制度が導入され、地方でもそのような動きがあるので、十分かどうかは別として、一応制度自体はあるといってよいでしょう。
しかし「事後の裁き」ですべての問題が解決するわけではありません。公務員は、必ずしも悪意があって間違った政策を行っているわけではないし、さらに「事後の裁き」自体が間違っている可能性もあります。「事後の裁き」で行われる評価が正しいかどうかを「「事後の裁き」の事後の裁き」に委ねるなら、無限後退に陥ってしまいます。人間の判断が不完全である以上、不完全であることを前提にしたシステム、すなわち、市場原理に基づくシステムが必要だと私は考えています。
ここの本来のテーマ、公的年金制度から話がだいぶ脱線しましたので、元のテーマに話を戻しましょう。
現行の公的年金制度が抱えている世代間格差がなかなか解消されない原因の一つは、受益者である高齢者が、全員投票権を持ち、暇なため投票場に足を運ぶ確率が高いのにたいして、負担者である若者世代は、一部が投票権を持たず、また、忙しいからなのか、無知だからなのか、棄権する確率が高いので、代議士は、高齢者に有利な制度を作らざるを得なくなるというところにあります。
自民党が、地方の声を聴くという大義名分の下、過疎地の票の価値を維持する制度を作ったおかげで、過疎地に多い高齢者の政治的発言力が都市部に多い若者よりも強いという状況が続いたことも、原因の一つでしょう。最高裁は、2011年3月23日に、衆議院選挙で、一票の格差が2.3倍もあるのは、違憲状態であるという判決を出しています。
公的年金制度を改革するにあたって、まずは未成年者を含めて国民全員に一票を平等に与えること、有権者が棄権しても、その人たちの利害が反映されるシステムを作ることが重要だと思います。私が提案したハイブリッド民主主義は、そういうシステムの一つです。
永井俊哉 さんが書きました:
現行の公的年金制度が抱えている世代間格差がなかなか解消されない原因の一つは、受益者である高齢者が、全員投票権を持ち、暇なため投票場に足を運ぶ確率が高いのにたいして、負担者である若者世代は、一部が投票権を持たず、また、忙しいからなのか、無知だからなのか、棄権する確率が高いので、代議士は、高齢者に有利な制度を作らざるを得なくなるというところにあります。
自民党が、地方の声を聴くという大義名分の下、過疎地の票の価値を維持する制度を作ったおかげで、過疎地に多い高齢者の政治的発言力が都市部に多い若者よりも強いという状況が続いたことも、原因の一つでしょう。最高裁は、2011年3月23日に、衆議院選挙で、一票の格差が2.3倍もあるのは、違憲状態であるという判決を出しています。
公的年金制度を改革するにあたって、まずは未成年者を含めて国民全員に一票を平等に与えること、有権者が棄権しても、その人たちの利害が反映されるシステムを作ることが重要だと思います。私が提案したハイブリッド民主主義は、そういうシステムの一つです。
hybrid民主主義は正直理解するのに手間取りました。後半の連邦制的国家内分権はUSAや(足の投票の自由はありませんが)日本の江戸時代の藩といった具体的事例を思い浮かべることができるので理解しやすいのですが、前半の手による投票の革新は実在した事例で裏打けることができないので中々多くの人の支持を得るのは難しいのではないか、という感想です(支持する、しない以前に理解が難しいということです)。その中で、親に未成年の子供の分の投票を委任代行させる案は、社会保障全般の負担と密接に関わるもので正統性を得やすく、一般にも理解し易く受け入れられやすいものだと思います。子育て中の親の権力が増大することは結果として少子化対策にも繋がります。
永井俊哉 さんが書きました:
自民党が、地方の声を聴くという大義名分の下、過疎地の票の価値を維持する制度を作ったおかげで、過疎地に多い高齢者の政治的発言力が都市部に多い若者よりも強いという状況が続いたことも、原因の一つでしょう。最高裁は、2011年3月23日に、衆議院選挙で、一票の格差が2.3倍もあるのは、違憲状態であるという判決を出しています。
私はこのような判決を出す裁判所がおかしいと思います。LebanonやIranなど明らかに異なる集団で構成された国では、人数の多寡ではなくそれ専用に議席が与えられています。北海道の様な一人の議員で把握が困難な広大な土地を人口の多寡だけで議席配分するのも間違っています。外国と隣接したり、広大な海洋領域が含まれればそれも人口の多寡だけで考えることはできません。必要なのはむしろ一人一票という既成概念を打ち破っていくことではないでしょうか。
蛇足ですが、"5. 自由主義的地方分権と社会主義的地方分権"は被ってもいいので独立した記事にしてわかりやすい状態にした方がいいのではないでしょうか。中央集権か地方分権かということはよく話題になりますが、その地方分権を語る時に知っておかねばならない重要な違いだと思いました。
井上朋樹 さんが書きました:
北海道の様な一人の議員で把握が困難な広大な土地を人口の多寡だけで議席配分するのも間違っています。外国と隣接したり、広大な海洋領域が含まれればそれも人口の多寡だけで考えることはできません。必要なのはむしろ一人一票という既成概念を打ち破っていくことではないでしょうか。
政治は人のために行われるのであって、土地のために行われるのではありません。もとより、日本が行ってきた過疎地への投資は、過疎地のためにすらなっていないのですが、それは、その場所の出身の議員をさらに増やすことで解決できる問題でもありません。
領土問題のような外交や安全保障にかかわる問題は、国家全体の利害にかかわる問題であって、地元出身の代議士が少ないからといって疎かにされる類の問題ではないでしょう。むしろ、「国土の均衡ある発展」を目標にして、費用対効果の低い過疎地への公共投資を偏重したことが国力の低下につながったことを反省して、一人一票の大原則に戻るべきです。
一人一票の原則は、「結果の平等は保証しないが、機会均等は保証する」という公平性の原則に基づいています。競争の参加者全員が、競争のルール作りに平等に関わり、そのルールが特定の競技者に有利ではないことに同意するならば、競争の結果明らかになる優劣を参加者たちは受け入れることができます。ルール作りの権限が不平等であるほど、競争の結果を受け入れることに不服な者が出てきます。一人一票の普通選挙が共産主義革命を防ぐために必要なのは、このためです。
一人一票の原則には、多様な意見を反映させることで、政治が過激な方向に走るリスクを低下させるという効果もあります。高額納税者、軍人あるいは元軍人など、特定カテゴリーの票の価値を高めると、それだけ意見の多様性が損なわれることになり、多様な観点からの権力の監視が行われにくくなります。カルト教団の教祖が、自分の政治的権力を増やすために、信者に軍役に服すことを推奨するなどということも起きるかもしれません。
井上さんのここでの議論は、恩給制度をどうするかというところから始まっているようなので、そもそも志願兵は何を動機に軍役に志願するのかということを考え直してみたいと思います。失業しているからといった経済的な理由から志願する人もいれば、祖国を守るためといった愛国心から志願する人もいるでしょうが、ヒーローになりたいからという理由から志願する人もいます。今の日本の自衛隊には、そういう理由で入隊する人はいないでしょうが、外国ではそういうケースはよくあるようです。日本でも、かつて武士たちは、後世に名声を残そうと戦場に赴いたものです。それならば、軍人の士気を高めるために必要なことは、その名誉の顕彰でしょう。票の数を増やすというのは、報酬のあり方として不適切です。
永井俊哉 さんが書きました:
政治は人のために行われるのであって、土地のために行われるのではありません。もとより、日本が行ってきた過疎地への投資は、過疎地のためにすらなっていないのですが、それは、その場所の出身の議員をさらに増やすことで解決できる問題でもありません。
領土問題のような外交や安全保障にかかわる問題は、国家全体の利害にかかわる問題であって、地元出身の代議士が少ないからといって疎かにされる類の問題ではないでしょう。
土地がなければ人は住めません。国も成り立ちません。有権者が少なくても、外国人が大量に出入りしていたり、居住していれば問題が増えます。政治家の数は問題の多さと複雑さに比例すべきです。問題がなければそれこそ政治家はいりません。無政府で十分です。
民主主義において数の大小、声の大小は重要視されるか、おろそかにされるかに明らかに反映されています。国会議員は国政全般に関わり、当然領土問題の様な外交や安全保障の問題にも発言しますし、またすべきです。特定の地域と関わり無い国家同士の段階での問題もありますが、沖縄・北方領土や領海侵犯による不法操業など特定の地域と絡む問題もまた多くあります。
永井俊哉 さんが書きました:
むしろ、「国土の均衡ある発展」を目標にして、費用対効果の低い過疎地への公共投資を偏重したことが国力の低下につながったことを反省して、一人一票の大原則に戻るべきです。
政府建設投資は大幅に削減され、しかも連年減り続けており、無駄な公共事業よりもいかに維持修繕していくかが問題になっています[3]。無駄な公共投資に対する批判の声は大きく、しかも予算がこのように減っているということは、少なくとも公共投資に対しては反省は十分為されていると見なせるでしょう。私は強力な中央集権の元で、中央が定める紐付きの地方への公共投資を上手く取ってくることが地方自治体の首長や地元の代議士の有能さの証となり、その発想や行動の型を縛ってしまったことが主因であって、その議員比率が都市と地方で違ったからといって結果が大きく異なっていたとは思えません。
永井俊哉 さんが書きました:
一人一票の原則は、「結果の平等は保証しないが、機会均等は保証する」という公平性の原則に基づいています。競争の参加者全員が、競争のルール作りに平等に関わり、そのルールが特定の競技者に有利ではないことに同意するならば、競争の結果明らかになる優劣を参加者たちは受け入れることができます。ルール作りの権限が不平等であるほど、競争の結果を受け入れることに不服な者が出てきます。一人一票の普通選挙が共産主義革命を防ぐために必要なのは、このためです。
一人一票の原則には、多様な意見を反映させることで、政治が過激な方向に走るリスクを低下させるという効果もあります。高額納税者、軍人あるいは元軍人など、特定カテゴリーの票の価値を高めると、それだけ意見の多様性が損なわれることになり、多様な観点からの権力の監視が行われにくくなります。カルト教団の教祖が、自分の政治的権力を増やすために、信者に軍役に服すことを推奨するなどということも起きるかもしれません。
井上さんのここでの議論は、恩給制度をどうするかというところから始まっているようなので、そもそも志願兵は何を動機に軍役に志願するのかということを考え直してみたいと思います。失業しているからといった経済的な理由から志願する人もいれば、祖国を守るためといった愛国心から志願する人もいるでしょうが、ヒーローになりたいからという理由から志願する人もいます。今の日本の自衛隊には、そういう理由で入隊する人はいないでしょうが、外国ではそういうケースはよくあるようです。日本でも、かつて武士たちは、後世に名声を残そうと戦場に赴いたものです。それならば、軍人の士気を高めるために必要なことは、その名誉の顕彰でしょう。票の数を増やすというのは、報酬のあり方として不適切です。
私は最初から貢献者増票制を念頭においています。恩給はそれが発露する上での契機に過ぎず、士気は副次的問題です。基本は"全員に基本的な最低限の参政権は与えられる、加えて共同体全体の為に支払った人がそれに応じた増票を受ける"というものです。
軍役に関して、納税(によって成り立つ財政)と軍役(によって成り立つ安全保障)は独立した共同体が存続する上で絶対に欠かすことのできない二大原則です。人類史においても、古代のRomeやGreekにおいて兵役は参政権と表裏一体の市民の義務でした。制限選挙がなくなり、必要性が薄れて徴兵制が維持されなくなっていても民主主義国家においてその本質は変わりません。よって納税と兵役は貢献者増票制における基準の多様化ではなく、絶対に欠かせない基幹です。近代的な民主国家の成立以降、国民の志願徴兵で成り立った兵に対して尊敬を払い、軍人が払った犠牲に対して補償を行うことは一般化しており、共通認識や合意は得やすいと思われます。
貢献者増票制においてどの程度の貢献がどれだけの増票に繋がるか、また納税・軍役以外の項目の増加・削減については一人一票の多数決により決まります。貧者が多額の納税を行うことは難しく、不健康な者が軍人になることは難しいでしょうが、増票に値する貢献を行うことに対して何も機会を制限していません。そもそもそれが"共同体全体に貢献するもの"として多数により承認されているのだから、カルト教団がお布施を集めて多額の納税をして票を得たとしても、現在の様な全体に貢献している訳でもないのに課税から除外され、その金を自前の代議士の生成や支持を得ることに利用して影響力を拡大していることから鑑みれば、全体への貢献を通す分だけ遙にマシです。カルト教団の問題はその様な共同体乗っ取りを計る集団を取り締まるかどうかの問題でしょう。
共産主義革命という側面からの懸念ですが、貧者も基準の設定に平等に関与でき、影響力を発揮します。多数決による投票の結果、増票はすべての項目においてまったく0になってしまった、ということもあるかもしれません。(私自身は最低限の基準を定めるべきという立場です。また0になった項目は自動的に削除されるべきでしょう。)
私は貢献に応じた増票が為されないことで、民主主義はむしろ不公正になり毀損されてきたという認識です。前者の例が金持ちの節税・脱税と代議士にそれを渡すことで直接その他大勢を無視して自分の利益になる制度を一般大衆の目の届きづらいやり方で作り上げてしまうことで、後者の例が軍人による武力での政権奪取やその試みです。また、貢献していないのに貰えるものは最大限貰おうとするのは共同体の毀損であり、それがここで議論している社会保障、年金に現れています。
多様な意見を数に応じて公平に反映させるために一人一票の原則を最重視するのが永井さんの主義なのか、様々な歴史や事象を観察した上で、それなくしては成り立たない絶対の前提としておられるのかはわかりかねますが、貢献者増票制、また一人一票の原則を解きはなった様々な制度によって不公平を感じる人間が増えて共産主義的な革命にまで到るかは、それぞれの制度の内容や時代の情勢、大衆の側の意識に左右されるのでやってみなければわからないとしか言い様がありません。
私の見立てでは、最早単純に共産主義に希望を抱くことのできた時代は過ぎ去っており、貢献者増票制が貧困層の不満を呼んだとしてもせいぜい制度が廃止される程度で、実際は「この項目のあの増票は多すぎる!」といった小さく部分的な不満に終始することでしょう。
高額納税者が一人複数の投票権を持つ、ということですね。高額納税者は、たいてい、金持ちですね。今でも、金持ちは、自分の経営する法人(株式会社)を通じて、あるいは、経団連を経由して政治献金をしていますよね。政治家の立場で考えたら、自分と親しくもない金持ちのオッサンが複数票を持つことよりも、自分に政治献金をしてくれる顔見知りのオッサンのほうが、ありがたいと思いますね。だから、複数投票制度は、実現しません。橘玲が指摘するように、社会が変革するときとは、革命か戦争しかないのです。(わたしは、それに「アメリカ合衆国からの外圧」を加えてもよいと思いますが。)こんなことは、百年以上前に、マルクスが指摘しています。『民主的な改革』なんて、自己矛盾でしかありません。
井上朋樹 さんが書きました:
土地がなければ人は住めません。国も成り立ちません。
それは、逆に言うと、人間がどうでもよいのなら、人間が活用する土地もどうでもよくなるということですね。それならば、政治が直接に問題にするのは、人間の利害であって、土地は間接的にしか問題にならないということになります。
井上朋樹 さんが書きました:
特定の地域と関わり無い国家同士の段階での問題もありますが、沖縄・北方領土や領海侵犯による不法操業など特定の地域と絡む問題もまた多くあります。
2010年9月7日に尖閣諸島付近で起きた中国漁船衝突事件のことを思い出してください。日本人は誰もあの島に住んでいないにもかかわらず、したがって、あの島選出の代議士が一人もいないにもかかわらず、日本中が大騒ぎになりました。領土問題が特定の地域と絡む問題だからといって、その地域の議員を増やすべきだという結論は導くことはできません。
井上朋樹 さんが書きました:
政府建設投資は大幅に削減され、しかも連年減り続けており、無駄な公共事業よりもいかに維持修繕していくかが問題になっています。
私が問題にしていたのは、全国での公共投資ではなくて、過疎地での公共投資です。もちろん、都市部での公共投資にもいろいろな問題があるのですが、それは、また別問題です。
井上朋樹 さんが書きました:
貧者が多額の納税を行うことは難しく、不健康な者が軍人になることは難しいでしょうが、増票に値する貢献を行うことに対して何も機会を制限していません。
健康であれば、だれでも軍人になれるということはありません。自衛隊の場合、入隊するには、まず年齢制限があるし、さらに体力・学力・人物に関して厳しい検査があます。試験の競争倍率は9倍を超えており、自衛官はエリートであると言ってよいでしょう[4]。
普通の人は、富裕層や自衛官といったエリートになりたくてもなれません。エリートの票数を増やすと、エリートになりたくてもなれない落ちこぼれたちは、格差が固定されていると感じ始め、不満を溜め込み、何かをきっかけに暴動を起こす可能性があります。
ペンペン さんが書きました:
橘玲が指摘するように、社会が変革するときとは、革命か戦争しかないのです。(わたしは、それに「アメリカ合衆国からの外圧」を加えてもよいと思いますが。)こんなことは、百年以上前に、マルクスが指摘しています。『民主的な改革』なんて、自己矛盾でしかありません。
小泉改革や橋下改革のように、革命や戦争や米国からの外圧なしで、有権者の高い支持を得て、民主的に改革が行われることもあります。
2. 参照情報
- 奥野文夫『60歳からの働き方で、もらえる年金がこんなに変わる』WAVE出版 (2019/2/21).
- 高橋洋一『「年金問題」は嘘ばかり ダマされて損をしないための必須知識』PHP研究所 (2017/3/15).
- 田村正之『人生100年時代の年金戦略』日経BP (2018/11/21).
- ↑ここでの議論は、システム論フォーラムの「公的年金制度は必要か」からの転載です。
- ↑Monaneko. “The number of the births and the birthrate in Japan from 1947." Licensed under CC-BY.
- ↑山崎一邦「建設投資が40兆円に回復、政府建設投資はさらに減少」『日経クロステック』2011.01.31.
- ↑田村建雄「自衛官はタダで資格10種類が取れ転職できるので競争倍率9倍」『NEWSポストセブン』2010.12.11.
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年金の代わりに勲章をあげれば、年金制度は救われます。
希少価値のない勲章にありがたみはありません。