三位一体とは何か
三位一体とは、キリスト教の奥義の一つで、神には、父・子・聖霊という異なった三つの位格(persona)があるが、神は実体(substantia)としては同一であるという考えである。この程度のことなら、高校生でも、世界史の授業で習うので、知識としては知っている。でも、異なるけれども同じとはどういうことなのか。弁証法的に考えてみよう。

1. 三位一体の教義の成立
聖書によれば、イエス・キリストは、神が受肉した、つまり人の姿をして現れた、神の子である。では、イエスは、人間ではなくて神なのか。さらに、イエスが昇天した10日後のペンテコステ(収穫感謝祭)に、弟子たちに聖霊が降臨したことになっているが、この聖霊も神なのか。父なるヤハウェ、子なるイエス、聖霊を同格の神と認めることは、多神教的であり、一神教の大前提に矛盾するのではないのか。こうした疑問から、三位一体論争が起きた。

その中でも最大の論争点は、イエスは神なのか、それとも人間なのかという問題であった。325年のニケーア公会議では、イエスの神性を認めないアリウス派が異端として排除され、451年のカルケドン公会議では、イエスの人性を認めない単性論派が異端として排除された。その結果、イエスは人であると同時に神でもあるとするアタナシウス派(カトリック教会)がヨーロッパで正統派としての地位を得た。
2. システム論的解釈
イエスが神性と人性を兼ね備えた両義的存在であったことは、イエスの処刑をスケープゴート現象として認識する上で重要である。復習になるが、スケープゴート現象とは、境界上の両義的な、つまりエントロピーが高くて穢れた存在者をシステムから排除することにより、システムに低エントロピーな秩序を回復する儀式である。
イエスもまた、その両義性ゆえに、穢れた罪人として十字架で屠られた。しかし、屠られることを通して、イエスは、秩序を回復させた神聖な存在者として、いったんはイエスを見捨てた信者たちから再び崇拝されたのであり、これを聖霊降臨と解釈することができる。
イエスが神となったプロセスは、卑弥呼が天照大神となったプロセスと同じである。すべての罪を背負って、処刑されることで、ケガレた存在は、ハレた存在へと祭り上げられる。それをシステム論的に表現するならば、複雑性の増大(ケガレ)がなければ、複雑性の縮減(ハレ)もないということである。
3. 弁証法的解釈
三位一体の教義は、静止的な形式論理学にとっては矛盾以外の何ものでもない。だが、父・子・聖霊を普遍・特殊・個体と理解することにより、三位一体の教義を弁証法的論理学と捉えることができる。
弁証法的論理学とは、プロセスの論理学である。例えば、ある子供が「パンダ」という言葉を覚えるプロセスをたどってみよう。動物園で子供にパンダを見せて、「ほら、あれがパンダだよ」と言っても、その子供がパンダの本質を理解するとは限らない。子供が最初に見たパンダは、たまたま昼寝中で動いていないかもしれないし、たまたま痩せているかもしれない。その結果、その子供は、おにぎりを指差して「パンダ!」と言うかもしれないし、白と黒のぶち犬を見て「パンダ!」と叫ぶかもしれない。
イエス・キリストが布教活動をした時にも、人々はキリスト教を正しく理解しなかった。イエスのもとに集まった人たちは、彼が、病気を治したり、水をぶどう酒にしたりといった奇蹟により、自分たちの世俗的な欲望を満たしてくれることをもっぱら期待した。イエスが処刑され、受肉した特殊な存在様態を抹殺してはじめて、人々はキリスト教の本質を理解した、つまり聖霊が降臨した。

同様に、子供がパンダの本質を理解するには、つまり、おにぎりやぶち犬をパンダと誤解しないようにするためには、初めて見たパンダから非本質的な特殊性を抹殺しなければならない。この抹殺を通してはじめて、全パンダの個体にパンダの本質が降臨する、つまり、パンダの本質は真に普遍的となる。
結論をまとめよう。私たちは、有限な存在者であるから、普遍的本質を即自的に(無媒介に)我が物とすることはできない。したがって、普遍的本質は特殊として対自的に(自己を否定して)現出する。ところが、特殊は、まさに特殊であるがゆえに、普遍的であると同時に普遍的でないという矛盾した存在である。私たちは、特殊から特殊性を抹殺することを通して、すなわち、学習という苦痛に満ちた道(ヴィア・ドロローサ)を通ってはじめて、即かつ対自的に(媒介的に)普遍のもとへと個物を包摂することができる。
4. 関連著作
5. 参照情報
- ↑James Chan 氏の作品. March 31, 2015. Licensed under CC-0.
- ↑“The Holy Trinity (16th cent.), unknown Portuguese master. Museu Diocesano de Santarém, Portugal” by Alvesgaspar. Licensed under CC-BY-SA.
ディスカッション
コメント一覧
三位一体説によれば、人間の普遍的本質は神であるということになる、と理解してよろしいでしょうか。
パンダにはパンダとしての普遍的本質があるのでしょうか。それはプラトンのイデア論と同じようなものでしょうか。
ヘーゲルの三位一体の解釈で重要なことは、神は普遍的ではあるものの、超絶的ではなく、人間もまた、努力しだいでは、神的な高みに近づくことができるということです。
ペンテコステは「収穫感謝祭」じゃなくて「聖霊降臨祭」だと思うのですが、如何でしょうか。
ペンテコステとは、ギリシャ語で「五旬節」という意味で、もともとユダヤ人たちが祝う収穫感謝祭でした。イエスが処刑された後の五旬節で、集まった使徒たちに、突如、神の聖なる霊の力が与えられたために、それ以後、キリスト教徒にとっては、収穫感謝祭が聖霊降臨祭になりました。それにしても、収穫感謝祭が、イエス昇天の収穫(聖霊降臨)を感謝する祭りとなったことは、単なり偶然とは思えませんね。
私はクリスチャンなので、「ペンテコステ」が「五旬節」だということは知っていました(新約聖書の『使徒言行録』に書いてあるので)が、五旬節が「ユダヤ人たちが祝う収穫感謝祭」だとは知りませんでした。麦の収穫でも祝ったのでしょうか・・・。「収穫感謝祭」と言えば、アメリカで祝われる11月第四日曜日のことかと思いました。クリスチャンの一方的なものの見方だったようですね。
『三位一体とは何か』は理解出来ますが、目下流布しています小泉「三位一体改革」は、何故三位一体と名付けられたのか、当方は解りかねるのですが、先生の心理分析的高説を拝聴出来ますか?
「三位一体」の改革とキリスト教の三位一体は全く関係がありません。たんに三つの政策をパッケージで行うという意味しかなく、しかも中身をよく見ると、政策の柱は三つというよりも、むしろ二つ(国から地方への補助金/地方交付税の削減+国から地方への税源移譲)です。そう言えば、医療制度改革の時も、三方一両損というキャッチフレーズが使われていたので、小泉さんは、調和を表す三という数字が好きなのでしょう。
3は調和の数かもしれませんが、御当人の行動はとても調和を好むとは言い難いですね。カトリックの三位一体は、よく御承知のように歴史の重い積み重ねがあり、数多の人命でもって贖われた、信者と教会にとっては神聖な教義です。欧米の政治家なら恐ろしくて出来ない事を、平然と言葉のみを一政策に拝借する小泉首相は、単なる教養がない所為のか、神聖を軽んじたい心理的傾向があるのか等、今少し詳しくお尋ねしたかったのですが。
政治家という存在は、対立を止揚する第三者の立場にあるので、三という数字が好きなのでしょう。小泉純一郎の「改革」はいつも中途半端な結果に終わりますが、これは、彼が緊縮財政を進める大蔵族で、財政拡大を求める他の族議員と妥協を図った結果と考えることができます。
「学習という苦痛に満ちた道(ヴィア・ドロローサ)を通ってはじめて、即かつ対自的に(媒介的に)普遍のもとへと個物を包摂することができる」との事ですが、バーナディッツロバーツの自己消失の体験をちょっと連想しました。僕は、例えば、その苦痛にみちた無駄な事をしつくして何もする必要がなかった事が分かる(悟るために)というふうに解釈しましたが、実際の所どうなんでしょうか、理解力が乏しいので解説してもらえたら嬉しいです。