十六菊花紋の謎
紀元前3500年ごろに世界最古の都市文明を築いたシュメール人は、紀元前2004年にウル第三王朝が滅亡した後、歴史の表舞台から消えたと言われていたが、実は、その後、日本列島に上陸し、弥生人になったという説がある。江戸時代に来日したエンゲルベルト・ケンペルが最初に唱え、戦前から熱心な支持者がいる日本人シュメール起源説は本当だろうか。岩田明が『十六菊花紋の謎―日本民族の源流を探る』で挙げる根拠を検討しながら考えてみよう。
1. 人種的類似性
シュメール人の人種的特徴は日本人に似ている。
シュメール人の特徴は、目が大きく鼻も大きい。身長は高からず、つぶらな瞳で、髪の色は黒である。[1]
しかし、「目が大きく鼻も大きい」のは、弥生人よりも縄文人の特徴であり、シュメール人が、日本に上陸して弥生人になったという仮説に反する。弥生人は、寒冷な気候に適応した北方モンゴロイドの特徴を備えているが、シュメール人や縄文人は、温暖な気候に適応した顔の特徴を持っている。
岩田は、日本人にも、イラク人にも蒙古斑が見られるという事実をも指摘する[3]。蒙古斑とは、乳児の背中、特に腰の辺りにできる青いあざで、2歳をピークに次第に消えていく。蒙古班は、モンゴロイドに幅広く見られるので、有力な証拠にはならないが、シュメール人が、アラブ人ではなく、中央アジアの出身で、その遺伝子はイラク人に引き継がれていると言うことはできる。
2. 十六菊花紋
紀元前600年ごろ、ネブカド・ネゼル2世が築いたバビロンのイシュタル門の両壁には、ライオン像が多数描かれ、その周囲には、日本の皇室の紋章に酷似した十六菊花紋があしらわれている。ライオン像と聞いて、スフインクスとともに、日本の神社社殿の内外に守護獣として、狛犬とともに獅子の像が置かれていることが思い起こされる。岩田は「十六菊花紋の原型は菊の花弁ではなく、船乗りが使っていた羅針儀または日時計を、平面に図案化したものではないかと推論している[5]」。岩田は、一等航海士らしく、シュメール人を海洋民族と捉え、海路で日本に来たと考えている。
しかし、紀元前2300年頃のナラムシン戦勝碑に描かれている紋章は、その位置から判断して、太陽のようにも見える。もっとも、シュメール人が太陰暦を使い、太陽よりも月を崇拝していたことを考えると、光を放つ月と解釈できるかもしれない。
3. 道祖神
日本の道祖神の像には、向かって右側にいる男神が、左の女神の肩に右手をかけ、左手で女神の右手を握っている像があるが、これと同じ構図の粘土製の塑像が紀元前3000年頃のメソポタミア遺跡から出土している[7]。これも、たんなる偶然とは言えない。
しかし、よく見ると、シュメール人の像は、眼がどんぐり眼で、鼻が大きく(男の鼻は欠損している)、縄文人風であるのに対して、日本の道祖神の像は、眼は切れ長で、鼻が目立たず、弥生人風である。
4. 楔形文字と岩刻文字
日本列島には、ペトログリフと呼ばれる絵文字のような岩刻文字がある。吉田信啓によると、山口県下関市彦島にある有名な岩刻文字は、古代北方ツングース系の楔形文字に当てはめると、「世々子々孫々現れ、勇猛に打ち振るい、日夜戦う日神の子らが日神を祭り、天地に力を満たす。戦いつづける日神の子孫の日々を!」と解読され、シュメール系の古拙楔形文字に当てはめると、「最高の女神が、シュメール・ウルク王朝の最高司祭となり日の神の子である日子王子が神主となり、七枝樹にかけて祈る」と解読される[9]
絵文字だから、漫画の解釈と同じで、どうとでも読めるのではないかという恣意性を感じてしまう。ただ、太陽崇拝だけは共通していて、日神(ヒミコ)と日王(ピリギス)というように、日が、日本語と同様に、ピ(ヒ)と発音されているところは注目に値する。ちなみに、アイヌ語でも、日はピと発音される。
シュメールの楔形文字は、後にアラム文字として、インド経由で東南アジアに、そしてソグドやウイグル経由でモンゴルと満州に伝わった。岩田は、シュメール人が南方の海路で日本に来たと考えるが、現日本語がツングース系の言語の影響を受けていると考えるならば、文字文化は、北方の陸路を伝わって、日本に来たということになる。
5. 言語的な類似性
シュメール語は、日本語と同様に、しかし周辺のセム系言語とは異なり、「てにをは」に相当する語を持つ膠着語であり、動詞が文末に来る。アッカド語やバビロニア語はシュメール語の影響を受けたが、統語論的には全く別だった。
日本語とシュメール語は、統語論的に似ているだけでなく、意味論的にも共通するところがある。シュメール人たちは、自分たちの国を楔形文字で「葦の主の地」(キエンギ)の「国」(クル)と呼び、古代の日本人たちは、自分たちの国を 「豊葦原の瑞穂国」(とよあしはらのみずほのくに)と呼んでいた[10]。
シュメール(Sumer スメル)は他称で、岩田は次のように解説する。
スメル族の意。ス(Su)は妙、善の意で、崇高なメル族の意。メルは古代の緬(めん)族と同族か。尊い、気高いの皇(すめ)に通じる。[11]
メルの解釈には賛成できない。古代エジプトでは、ピラミッドを「メル」(昇天の場)と呼んでいた。また、ヒッタイト人が崇拝した太陽神は、シウあるいはスと呼ばれた。だから、「シウメル」「スメル」は、太陽の昇天と関係がありそうだ。
日本では、天皇を褒め称える時、天皇のことを「すめらみこと」あるいは「すめろき」と言う。「め」は甲類である。
「すめ」は「統べ」の意とする説が従来行われていたが、「統べ」のべは乙類であるから、その交替形としがたい。それで吉田金彦に「清めら」説がある。宗教的な最高位者をいうのに、ふさわしい語のようである。[12]
スメラの語源がシュメールだとするならば、スメラミコトはアマテラス信仰と深いつながりがあることになる。
タミール語では、「メル山の頂上[13]」という意味があり、「すめら」は、タミール語経由で、日本に入ったと考えることもできる。
これ以外にも、シュメール語には、日本語あるいはアイヌ語と共通点が多い。ここでは詳しく書かないが、シュメールの創世神話と日本の創世神話にも多くの類似点がある。
6. 私の結論
私は、日本人シュメール起源説が、江上波夫の騎馬民族征服王朝説に似ていると思う。4世紀の日本が、ツングース系騎馬民族の文化的影響を受けたことは確かだが、だからといって、ツングース系騎馬民族が日本人を征服して王朝を建てたと結論を下すことは、論理の飛躍である。同様に、日本文化が、シュメール文化の影響を受けたことは確かだが、だからといって、シュメール人が弥生人として日本に移住したとまでは言えない。
日本に来たかどうかという前に、シュメール人がインダス文明を作ったかどうかも怪しい。インダス文明の言語は、シュメール語とは異なって、まだ解読されていない。インダス文明は、メソポタミア文明の影響を受けてできたことは確かだが、シュメール人が移住して造ったとまでは言えない。
メソポタミア文明とインダス文明は、ともに麦の文明だが、弥生人は、日本に稲作をもたらした民族だった。弥生人は、縄文人とは異なって、太陽を崇拝していたが、シュメール人は月を崇拝していた。人種的特徴から考えても、シュメール人と弥生人は異なるのではないか。
シュメール人は、戦争によって中央集権的な帝国を拡張させずに、都市国家に甘んじて、交易に従事する平和な民族だった。しかし、それが、かえって、シュメール文化を世界に広げることになったのではないだろうか。シュメール文化は、古くから存在した交易のネットワークを通じて、バケツリレー的に世界に伝播したと考えたい。
7. 参照情報
- 岩田明『十六菊花紋の謎―日本民族の源流を探る』潮文社; 新装版 (2003/5/1).
- 岡田明子, 小林登志子『シュメル神話の世界 粘土板に刻まれた最古のロマン』中央公論新社 (2008/12/20).
- 小林登志子『シュメル―人類最古の文明』中央公論新社 (2005/10/25).
- ↑岩田 明.『十六菊花紋の謎―日本民族の源流を探る』. 潮文社. 新装版 (2003/5/1). p.67.
- ↑Alma E. Guinness. “From the royal tombs of Ur, the Standard of Ur mosaic, made of lapis lazuli and shell, shows peacetime.” Licensed under CC-0.
- ↑岩田 明.『十六菊花紋の謎―日本民族の源流を探る』. 潮文社. 新装版 (2003/5/1). p.29.
- ↑上野. “菊の御紋章.” 2008年3月27日 (木) 13:22. Licensed under CC-BY-SA.
- ↑岩田 明.『十六菊花紋の謎―日本民族の源流を探る』. 潮文社. 新装版 (2003/5/1). p.67.
- ↑松本 健 他.『四大文明 (メソポタミア)』. NHKスペシャル「四大文明」プロジェクト. 日本放送出版協会 (2000/07). p.36, 37.
- ↑岩田 明.『十六菊花紋の謎―日本民族の源流を探る』. 潮文社. 新装版 (2003/5/1). p.70.
- ↑岩田 明.『十六菊花紋の謎―日本民族の源流を探る』. 潮文社. 新装版 (2003/5/1). p.1. 左の写真の出典は『メソポタミアの昨日とイラクの今日』(サルテック社)で、右の写真は、岩田が撮影。
- ↑岩田 明.『十六菊花紋の謎―日本民族の源流を探る』. 潮文社. 新装版 (2003/5/1). p.122. Cf. 吉田 信啓.『神字日文解(かんなひふみのかい)―ペトログラフが書き換える日本古代史』. 中央アート出版社; 改訂新版 (1999/3/1).
- ↑岩田 明.『十六菊花紋の謎―日本民族の源流を探る』. 潮文社. 新装版 (2003/5/1). p.100-107.
- ↑岩田 明.『十六菊花紋の謎―日本民族の源流を探る』. 潮文社. 新装版 (2003/5/1). p.136.
- ↑白川 静.『字訓 新装普及版』. 平凡社; 新装普及版 (1999/01). p.425-426.
- ↑田中孝顕. “第13章 雷神「スメラ」としての大王.” 12 Aug 2004.
ディスカッション
コメント一覧
永井俊哉さま
ごせつを拝見して感ずることを残します
シュメール人と縄文人とが合わせて述べられていますね。
これはあやまりです。
インダス文明のドラピタ人は石器文明となり中国に移動して後
の殷や周国の覇者となります。
ではシュメール人は岩田説とは解釈方がまったく別になっています。
十六菊花紋は天の梯子となりシュメール王だけ腕につけています,これは私の先祖にあたるので,信じてもらえないでしょうが日本の書にも数々残されていますが,その解釈された方はどなたもいられません。
ドラピタ人は次第に夏王朝時期平原へと移ったりモンゴルに移動したりしていました。
これがツングース系騎馬民族といわれる狩猟民族で動物を飼い
移動生活していたのに由来しています。
はい、私も、シュメール人は縄文人ではないと考え、だからこそ、日本人の起源がシュメール人であるという説に疑問を呈しているのです。
シュメールは10年以上前から素人ながら調べているのですが、例えば、知多半島にはイナンナ女神を思わせるような神様を祀った神社があります。
その神社は中東の国名に似た神社なんです。
吉野ヶ里遺跡はシュメールの形跡がありますよね。
ギリシャでしか採れない紫貝の染料、手裏剣型の刻印等々・・・。
弥生人がシュメール人としたら、縄文人は原日本人(古代ユダヤ人、東南アジア人等々?)。
縄文人対弥生人の戦争も激しかったわけですから、民族は違う。
その後、和睦をはかり、混血していった、のではないか。
「正月」は百済語だそうです。百済と新羅は言語が通じなかった。
中国「殷」、「斉」はシュメール国だとしたら、「百済」(百人の済人を連れてきたという)はどうなのだろう。
兎に角、シュメール人は沖縄から、雲南から、または、潮に乗って大航海して北海道の果てまで辿り着き、世界中を駆け巡っている感がします。
東北には「デンデラ」もありますしね。
では‘本隊’は何処へ?
熊野あたりでしょうか?ヨーロッパ方面ですかね。
ジグラットの頂上には水、井戸、プール?があったようで、「水」は重要なキーワードになりますよね。
モヘンジョダロにも大きなプールがありました。
10月19日
神島には「ゲータ祭」というシュメールにそっくりの祭りがありますね。
ご存じの方は多いのではと思いますが、シュメールでの伝承では「天に二つの太陽(宇宙船?)は要らない」というので、一つを落とすということなのだそうです。(現在は解釈が違っているのかも)
神島を初めて訪れたとき、日本にこんなに美しいところがあるんだなあ、と感嘆したものです。
三島由紀夫が気に入ったのも成る程、と。
(三島は瀬戸内海大三島からとったPNだそうで、神島にも古代探索?か、何か狙いがあったんでしょうね。)
島は2日かけてじっくり廻りました。
帰りには、漁師さんが、20数隻の漁船でずーっと航路をつくって見送ってくれたのには、もうびっくりして、感激のあまり涙が溢れました。
黄色い帆かけ漁船が、亀に見える神島を背景に、絵になる一生忘れられない光景でした。
余談ですが、うちの上司はシュメール系?かもしれず、シュメールの男性像に顔、体格がそっくりなのです。
「人こそ世界遺産!」ですね。
10月20日
岩田明さんも、海路で日本に来たと考えているようですが、言語学的に考えれば、彼らの出身地は、中央アジアでしょうから、インダス川を遡って、陸路で日本にきたということも考えられます。
コメントを書かれている方々が意味不明な繋がりで語られています。私もそうかも知れませんが、一般人が判る推論進語で語ってください。
永井さんは、何も生み出していませんね。著者の御説のほうが欠点はあっても、余程クリエイティブに映ります。
私は、シュメール人が日本に来たとする岩田明さんの説に対して、シュメール文化は来たけれども、シュメール人までは来ていないと主張しています。この私の主張のどこが、そしてなぜ間違っているのかを指摘しないオマーカリフさんのコメントは、学問的にクリエイティブではありません。
シュメール人=イラク人
それが全てではないでしょうか。彼らは消滅したのではありません、混血したのです。
もっとも重要な当事国に住む住民を無視した議論はいかがなものかと思います。
それとギリシャやメソポタミア、ペルシャをはじめ、後にはアッバース朝やオスマン朝などの中近東の文化は、歴史の中で絶えず日本へと伝わったものだと思います。今でも近代において西洋の文化が入っているように。
その時代、時代の優れたものを取り入れることは歴史の必然であり、この先にもそういったことがインド、あるいは中国から伝わってくると思います。
ちなみに日本音楽の祖である八橋検校は著名な音楽家、柳内調風氏らの説によるとその先祖は中東、現イラクあたりから渡ってきた可能性が高いのだそうです。大規模な人の流れ(今のイスラエルやオーストラリア、南アフリカなど)は西洋近代以降盛んになりましたが、小規模な移動(ローマやギリシャ等帝国内での移動や、家族の引越しなど)は太古の昔から繰り返されたのでしょう。
それらを踏まえると、日本において容姿や体系がシュメール人のそれと合致するものが見られるというのはむしろ、弥生時代以前から定住し、日本列島全域に存在していたアイヌ人の流れという方が妥当ではないでしょうか。混血はすれど、遺伝子は残る、です。
最後になりますが、はじめに述べたシュメール人=イラク人について、イラク人の大きな瞳や鼻、浅黒い肌をよく写真などで見てみてください。(昨今はサッカーでアジア王者にもなったので、その容姿が確認しやすいかと思います)特に南部(サマワやバスラ近郊)に暮らす人々は今も、シュメール時代の家に暮らし、踊りを踊り、何千年も昔の生活様式自体が色濃く残っています。
シュメールに興味があれば、みなさんぜひ、いずれ一度はイラクへ足を運んでみてください。(今は無理ですが)
遺伝的には、日本人の起源は、シベリア地方なのでしょうが、文化的な起源はまた別です。
私の住む岩手県北では、正月に「ホロローン、ホロローン」と言って子供たちが近所の家々をまわり、お菓子をもらいます。南インドにも同じような習慣があるそうですね。怖いです。誰かこの言葉の意味と、なぜ同じ習慣が遠い二つの国に存在するのか教えて下さい。