ライプニッツはなぜ予定調和説を提唱したのか
ライプニッツは、自分の形而上学を予定調和説と名付けていたが、この形而上学の学説は神の存在論的証明を前提にしている。存在論的証明は神の遍在を説く汎神論を帰結し、そこからさらに、連続律に基づいて、神に当てはまることをすべての実体に当てはめることでモナドロジーが帰結し、充足理由律に基づいて、なぜこの世界が現実存在するかを問うことで最善説が帰結する。ライプニッツは、神は可能的な宇宙をすべて認識する認識力、その中で最善のものを選ぶ善意、そしてそれを現実存在するようにする実行力を持つと想定するが、そのような神は、存在論的証明によってその存在が証明される、たんなる宇宙の合計以上のものであり、両者を同一視することはできない。また、私たちが誤謬、悪、失敗を経験する以上、有限な存在者の認識、意思、行為に予定調和説を適用することはできない。

1. 予定調和説を読み解く三つの鍵
ライプニッツの形而上学はしばしばモナドロジー(単子論)と呼ばれるが、これは後世の人が付けた名前であって、彼自身はこのような言葉を用いていない。ライプニッツの形而上学の本来の呼称は予定調和説である。実際、彼は、いくつかの論文で「予定調和説の著者(l’auteur du système de l’harmonie préétablie)」と名乗っていた。彼にとって、モナドに関する議論は予定調和説を唱えるための下準備のようなものであって、彼の形而上学の最終的な目標ではない。本稿では、予定調和説をライプニッツの形而上学全体の名称として使用し、ライプニッツがなぜ予定調和説を提唱したのか、その理由を、存在論的証明に基づく汎神論、連続律に基づくモナドロジー、充足理由律に基づく最善説という三つの鍵で解明しつつ、その問題点は何であるかを探りたい。
2. 存在論的証明に基づく汎神論
ライプニッツは、神を以下のようなものとして定義して、存在論的証明を行っている。
神は絶対に完全であり、完全であるということは、事物の持つ限界や制限を取り去るという厳密な意味での肯定的な事象性の大きさに他ならない。[1]
このように、ライプニッツによれば、神は、肯定的な事象性を無限に持つという点で完全であり、「可能な限り多くの事象性を含む[2]」。ここで謂う所の「事象性(réalités)」は、ラテン語の「事物(res)」に由来するが、これは、ライプニッツにおいては、現実的に存在する事物のみならず、可能的に存在する事物も含む。だから、ライプニッツが考えている神は、現実存在する宇宙と同じではない。「神の観念の中には無数の可能的宇宙がある[3]」という所からもわかるように、神は、現実存在する宇宙のみならず、すべての可能的宇宙までをも含んでいる。この点で、ライプニッツの汎神論は、神を現実存在する宇宙と同一視する普通の汎神論とは異なる。
ライプニッツは本来数学者であり、可能的宇宙を扱う数学という学問の性質上、神は可能的宇宙まで含まなければ完全であるとは言えないと考えたのだろう。1696年に書いた論文『すべての数を1と0によって表す驚くべき表記法-事物の根源を神と無によって表し、創造の神秘を表す方法[4]』において、ライプニッツは二進法と創世神話を結び付けている。すなわち、すべての数を1と0だけで表すことができるのだから、すべては神と質料からではなくて、神と無から生じたというのである。ここで、1が「肯定的な事象性」に、0が無に相当すると考えるならば、神は肯定的な事象性を無限に持ち、神以外の存在者はいないという命題の二進法的意味がわかる。
ライプニッツの形而上学の最終的な到達点を示す『モナドロジー』(1714年執筆)では、「神だけが原初的な1である[5]」とはっきり書かれている。また、1696年の『すべての数を1と0によって表す驚くべき表記法』以前には「形而上学的点」などの名称で呼ばれていたものが、それ以降では「モナド」と呼ばれるようになった。「モナド」は、ギリシャ語の“μονάς”に由来し、「1」という意味である。被造物は、神であるところの原初的な1から派生した、原初的ではない方の1とみなされていたのである。
ライプニッツは、一方で神を存在論的証明によって完全に遍在する存在者と規定しつつ、伝統的なキリスト教に従って、神を完全な善意を持った全知全能の存在者ともみなしていた。全知ということは認識能力があるということだが、存在論的証明によって規定される神は、どのように認識を行うのだろうか。認識とは、意識が窓を通して意識の外にある対象を知ることというのが一般的な理解だが、もしも神も神の外部にある対象を窓を通して認識するというのであれば、認識対象である現実存在する宇宙は神の外部にあって、神に含まれないということになるが、これは「可能な限り多くの事象性を含む」とした神概念の規定に反することになる。だから、神には外に開かれた窓はなく、認識は常に自己自身の認識でなければいけない。
3. 連続律に基づくモナドロジー
予定調和説を理解するためのもう一つの鍵は連続律に基づくモナドロジーである。ライプニッツは微積分学の創始者の一人であるが、関数が連続していることは、微分可能であるための必要条件であり、ライプニッツは、形而上学においても、以下のような連続律を公理として前提している。
二つの事例(所与のもの)がどこまでも接近し合い、ついにはお互いに相手のうちに紛れ込んでしまうところまで来ると、その帰結としての出来事(求められたもの)も同じようにならなければならない。[6]
この定式は、わかりやすくもなければ、厳密でもないのだが、この論文で、ライプニッツは、楕円と放物線というわかりやすい具体例を用いて連続律を説明しているので、それを紹介しよう。以下のグラフには、F1 (0,1) と F2 (0,f) = (0,3) を焦点とする楕円が青色で描かれている。

もしも f の値を無限に大きくしていくならば、青色の楕円は、限りなく赤色の放物線に近づいていく。このように楕円と放物線が連続しているので、連続律に基づき、楕円について当てはまることは放物線にも当てはまると言うことができる。例えば、F2 から発した光は、楕円の鏡面に反射して、F1に集まる。F2 が無限遠に位置すると、F2 からの光はY軸に限りなく平行となるので、光は放物線の鏡面に当たって、F1に集まる。
これはライプニッツが述べていることではないが、もしも f の値を無限に1に近付けていくならば、青色の楕円は、限りなく緑色の円に近づいていく。このように楕円と円が連続しているので、連続律に基づき、楕円について当てはまることは円にも当てはまると言うことができる。先ほどの例で言うと、焦点から発した光が焦点に集まるという事実は、円の焦点が円の中心に相当すると考えるならば、円においても当てはまることである。
放物線、楕円、円は、質的に異なる曲線であると通常は考えられているが、連続律に従うならば、その必要はないということになる。ここで、放物線、楕円、円を神、人間、人間以下の被造物に当てはめてみよう。焦点間の距離を限りなく大きくすると楕円は放物線に近づき、限りなく小さくすると円に近づく。同様に、人間の認識を限りなく完全にすると神の認識に近づき、限りなく不完全にすると非生物の認識に近づく。それでいて、すべては一なるものという点で同じであり、ライプニッツはそれをモナドと名付けた。
モナドとは、「複合的なものに含まれている単純な、つまり部分を持たない実体[7]」であり、それゆえに、「広がりも形もなく、分割も不可能である[8]」。こういう説明を聞くと、モナドは原子のようなものにみえるが、今日の自然科学が教えるように、原子には広がりがあり、その語源に反して分割可能である。ライプニッツは、以下のように形而上学的点あるいは実体の点であるモナドを物理学的点や数学的点と区別している。
このように、物理的点は見かけ上でのみ不可分であるにすぎない。数学的な点は、厳密ではあるが、形式に過ぎない。厳密でかつ事象性を持つのは、形而上学的点もしくは(形相ないしは魂によって構成された)実体の点だけである。[9]
ここの引用文にもあるように、形而上学的点あるいは実体の点は、形相や魂によって構成されている。ライプニッツによれば、理性的な魂である精神は、他の形相や魂より完全であり、神に近い。
それゆえ、神が精神を支配するのは、あたかも国王が臣下を支配するような、あるいはむしろ父親が子供の世話をするようなものである。これは、神が他の実体を取り扱うのが、あたかも技師が自分の機械を操作するようなものであるのとは対照的である。[10]
実体には、神、人間の精神、動物の魂、一般の事物の形相という完全性の度合いによる序列があるものの、これらは、放物線、楕円、円と同様に、同じ実体(モナド)として連続しており、神について当てはまることは、不完全な形で、神以下の実体についても当てはまる。神は外部を持たないがゆえに窓を持たないが、外部を持つ他のモナドもまた窓を持たない。
モナドには、そこを通って何かが出入りすることができるような窓はない。[11]
神の認識は、外部の認識ではなくて、自己自身の表出である。私たち人間の認識も、外部の認識ではなくて、神の表出の反映である。「私たちに影響を及ぼす外的原因は、神のみを唯一の例外としてない[12]」のであり、「私たちの魂に触れて、直ちに私たちの表象を生じさせるような外的対象はない[13]」のである。モナドにおける宇宙の表出は、人間の精神、動物の魂、一般の事物の形相の順に不完全に、つまりパースペクティブ的に歪められていくが、宇宙全体を表出している点では同じである。だから、モナドは「宇宙を映す永遠の生きた鏡[14]」である。
モナドは、表出される宇宙が多様であっても、それを無矛盾に、つまり統一的に表出している点で、1であると言うことができる。
1すなわち単純実体において多を含みかつ多を代表象するプロセスが所謂表象に他ならないが、これは統覚、すなわち意識とは区別されなければならない。[15]
人間の精神が持つ意識とは異なるとはいえ、動物の魂や一般の事物の形相にまで表象の能力を認めたという点で、ライプニッツの形而上学は、デカルトの形而上学とは大きく異なる。デカルトの思惟と延長の二元論は、所謂心身問題を惹き起こした。デカルトは、人間の魂と身体が、松果腺という窓を通して相互作用を行っている[16]と考えたが、ライプニッツはそうした窓を通しての相互作用を認めず、心身問題を唯心論で解決しようとした。
では、もしも「ある特定の実体が他の特定の実体に影響を及ぼすことは決してない[17]」とするならば、人間の精神はどのようにして自分の身体を意のままに動かすことができるのだろうか。
魂は自らの法則に従い、身体もまた自らの法則に従う。それでも両者は、あらゆる実体の間に存在する予定調和のおかげで一致する。なぜなら、どの実体も同じ一つの宇宙の代表象であるからだ。[18]
これがライプニッツ謂う所の予定調和である。予定調和とは、二つの完全に調整された時計が、相互に因果的な影響を与えることなく、同じ時間を刻むような調和のことを言う[19]。もしもモナド間に予定調和がないならば、すべてのモナドを含む神自身にも調和がないことになるが、それは神の完全性に反する。このように、予定調和説は、存在論的証明によって規定される汎神論的な神概念に基づいているのである。
4. 充足理由律に基づく最善説
ライプニッツは、矛盾律と充足理由律を、思考の二大原理と呼んでいる。充足理由律(principe de la raison suffisante)とは、「いかなる事実も、なぜこうであってそれ以外ではないのかということに十分な理由がなければ、真または現実存在することもできないし、いかなる言明も真ではありえない[20]」というものである。
これに対応して、真理には思考の真理と事実の真理がある。思考の真理はその反対が不可能な真理で、矛盾律により正当化される。事実の真理は、その反対が可能な真理で、充足理由律によって正当化される。事実の真理の理由、その理由の理由…を求めて無限後退に陥ることを防ぐには、もはやそれ以上理由を問うことができない必然的な実体の中に究極の理由がなければならない。ライプニッツは、その必然的な実体が神だと言う。
これは宇宙論的証明と呼ばれている神の存在証明の方法の一つであるが、ライプニッツは存在論的証明も併用しているので、神は、因果連鎖の最初の原因にだけなればよいということにはならない。既に述べたように、神は現実存在する宇宙のみならず可能的な宇宙もすべて含むのであり、充足理由律により、なぜ神が他の可能的宇宙ではなくて、この宇宙を現実存在するものとして選んだのかを説明する充足理由を持たなければいけない。
ライプニッツは、神は可能的宇宙の中で最善の宇宙を選んで、それを現実存在する宇宙にしたと考えた。なぜなら、神は、全知全能で完全な善意を持っており、「神がその知により認識する最善は、神がその善意によりそれを選び、その能力により産み出すことで現実存在している[21]」。これは、一般に最善説(optimisme)と呼ばれている。
ライプニッツによれば、最善説も予定調和説の一種である。
私たちは、これまで、作用原因の領域と目的原因の領域という二つの自然の領域の間に完全な調和があることを確認したが、ここではさらに、自然の物理的世界と恩寵の道徳的世界との間に、つまり、宇宙という機構の建設者として考えられた神と、精神から成る神聖国家の君主として考えられた神との間に、もう一つ別の調和があることを認めなければならない。[22]
最善説としての予定調和説は、公表当時から不評であった。この世界には明らかに悪があるにもかかわらず、なぜそれが最善と言えるのかという批判があった。これに対して、ライプニッツは、悪が全くない世界よりも悪が少しある世界の方が、善が引き立つから善いと言う。
少々酸っぱかったり、辛かったり、苦かったりする方が、しばしば砂糖よりも喜ばれる。陰影は、色彩を際立たせる。不協和音も、然るべき所で発すれば、音楽的調和を浮き彫りにする。私たちは、落ちそうになっている綱渡り芸人を見てはらはらすることを望んだり、悲劇が泣きたくなるほどのものであることを望む。病気に罹ったことがない人が、健康を高く評価して、神に感謝するということがあるだろうか。少しの悪が善をより目立たせ、したがってより大きくするということが、実にしばしば必要なのではないのか。[23]
ライプニッツが神から悪を排除しなかったのは、汎神論という立場からすれば、当然であった。もしも善だけが神で、悪は神でないとすれば、道徳理論的には合理的で、受け容れられやすいが、そうすると神の外部に神でないものが存在することになり、存在論的証明が成り立たなくなる。神の外部はゼロでなければならず、その結果、神は清濁併せ呑まなければならなくなったのである。
5. 予定調和説の根本問題
以上見てきたように、ライプニッツの予定調和説は、存在論的証明によって規定された汎神論的な神概念を前提にしており、ここに根本的な問題がある。一般的に言って、存在論的証明によってその存在が証明される神は、完全な認識力、完全な善意、完全な実行力を持った存在者というキリスト教の神とは異なる。ライプニッツは、神は可能的な宇宙をすべて認識する認識力、その中で最善のものを選ぶ善意、そしてそれを現実存在するようにする実行力を持つと想定するが、そのような神は、存在論的証明によってその存在が証明される、たんなる宇宙の合計以上のものである。
もしも神の完全な認識が、たんに宇宙が自らを自らに対してありのままに表出するという当たり前のことしか意味しないならば、そしてもしも神の完全な実行力が、たんに現実存在する宇宙が可能的宇宙とは異なるというこれまた当たり前のことしか意味しないならば、存在論的証明によってその存在が証明される神が全知全能であると言うことは可能である。しかし、そのように解釈される認識力や実行力は、私たち人間の認識力や実行力のあり方とは異なる。
ライプニッツは、人間の精神というモナドも、神と同様に、不完全であっても全宇宙を映し出し、人間の意志は神の予定調和により実現すると考えた。しかし、私たちが絶対な真理と思っていることが間違っていたり、絶対に実現するつもりだった目標が達成されなかったりすることがある。ライプニッツが信じていた動物の発生に関する前成説は間違いだったし、彼が意図したカトリックとプロテスタント両協会の統一は失敗に終わった。予定調和が必ずしも成り立たないのであるならば、神は自らの内に矛盾を含むことになるのではないだろうか。
多分、ライプニッツはこういう批判に対して、最善説を擁護する時と同じ方法で、つまり「いつも認識したことが真理ばかりだと、真理のありがたみがわからなくなるから、神は時々間違わせる」あるいは「いつも意図したことが実現ばかりしていると、実現のありがたみがわからなくなるから、神は時々失敗させる」と言って、予定調和説を擁護することだろう。だが、こういう安易な現状追認による擁護は、予定調和説を説明理論として無意味なものにしてしまう。
実際、私たちは、同じライプニッツの論法を使って、最善説とは全く逆の最悪説を主張をすることができる。すなわち、この宇宙を支配しているのは神ではなくて、悪魔であり、悪魔は可能的多宇宙の中から最悪の宇宙を選んで実現しているのであって、最悪のはずの宇宙に善があるのは、悪ばかりだとモナドは悪に対して鈍感になってしまうので、たまに善を混ぜることで、期待を抱かせ、失望の苦痛が最大になるようにしているといった説明である。
ライプニッツは、存在論的証明によって規定された汎神論的な神概念を前提に、できるだけ整合的な理論を構築しようとして予定調和説を作り上げた。この点で、同じく存在論的証明によって神の存在を証明しておきながら、全知全能の神がどのように認識し、行為するのかを真剣に考えなかったデカルトとは対照的である。しかし、前提が間違っているのだから、その前提と整合的な理論を作ろうとすればするほど、その理論は奇怪で異様なものとなる。こういう時は、弥縫策で矛盾に対処するよりも、前提を根本から疑うことが必要である。
6. 参照情報
- ↑“Dieu est absolument parfait ; la perfection n’étant autre chose que la grandeur de la réalité positive prise précisément, en mettant à part les limites ou bornes dans les choses qui en ont." Gottfried Leibniz. Monadologie. 1re édition en 1720 (édition posthume). §. 41.
- ↑“contenir tout autant de réalités qu’il est possible" Gottfried Leibniz. Monadologie. 1re édition en 1720 (édition posthume). §. 40.
- ↑“il y a une infinité d’univers possibles dans les idées de Dieu" Gottfried Leibniz. Monadologie. 1re édition en 1720 (édition posthume). §. 53.
- ↑Gottfried Leibniz. “Mira numerorum omnium expressio per 1 et 0, repraesentans rerum originem ex Deo et Nihilo, seu Mysterium creationis." in Die philosophischen Schriften. Vol. 6 ed. Karl Immanuel Gerhardt.
- ↑“Dieu seul est l’unité primitive" Gottfried Leibniz. Monadologie. 1re édition en 1720 (édition posthume). §. 47.
- ↑“Lorsque les cas (ou ce qui est donné) s’approchent continuellement et se perdent enfin l’un dans l’autre, il faut que les suites ou événements (ou ce qui est demandé) le fassent aussi." Gottfried Leibniz. “Lettre de M. L. sur un principe general utile à l’explication des loix de la nature par la consideration de la sagesse divine, pour servir de replique à la reponse du R. P. Malebranche." in Die philosophischen Schriften: Band III . p. 52.
- ↑“une substance simple, qui entre dans les composés ; simple, c’est-à-dire sans parties" Gottfried Leibniz. Monadologie. 1re édition en 1720 (édition posthume). §. 1.
- ↑“il n’y a ni étendue ni figure, ni divisibilité possible" Gottfried Leibniz. Monadologie. 1re édition en 1720 (édition posthume). §. 3.
- ↑“Ainsi les points physiques ne sont indivisibles qu’en apparence: les points mathématiques sont exacts, mais ce ne sont que des modalités: il n’y a que les points métaphysiques ou de substance (constitués par les formes ou âmes) qui soient exacts et réels." Gottfried Leibniz. Système nouveau de la nature et de la communication des substances. 27 juin 1695. §. 11.
- ↑“C’est pourquoi Dieu gouverne les Esprits, comme un Prince gouverne ses sujets, et même comme un père a soin de ses enfants ; au lieu qu’il dispose des autres substances, comme un Ingénieur manie ses machines." Gottfried Leibniz. Système nouveau de la nature et de la communication des substances. 27 juin 1695. §. 5.
- ↑“Les Monades n’ont point de fenêtres par lesquelles quelque chose y puisse entrer ou sortir." Gottfried Leibniz. Monadologie. 1re édition en 1720 (édition posthume). §. 7.
- ↑“il n’y a point de cause externe qui agisse sur nous, excepté Dieu seul" Gottfried Leibniz. Discours de métaphysique. 1686. §. 28.
- ↑“il n’y a point d’autre objet externe qui touche notre âme et qui excite immédiatement notre perception" Gottfried Leibniz. Discours de métaphysique. 1686. §. 28.
- ↑“un miroir vivant perpétuel de l’univers" Gottfried Leibniz. Monadologie. 1re édition en 1720 (édition posthume). §. 56.
- ↑“L’état passager qui enveloppe et représente une multitude dans l’unité ou dans la substance simple n’est autre chose que ce qu’on appelle la Perception, qu’on doit distinguer de l’aperception ou de la conscience." Gottfried Leibniz. Monadologie. 1re édition en 1720 (édition posthume). §. 14.
- ↑Gottfried Leibniz. L’homme et un traitté de la formation du foetus. 1664. p. 73.
- ↑“une substance particulière n’agit jamais sur une autre substance particulière" Gottfried Leibniz. Discours de métaphysique. 1686. §. 14.
- ↑“L’âme suit ses propres lois et le corps aussi les siennes, et ils se rencontrent en vertu de l’harmonie préétablie entre toutes les substances, puisqu’elles sont toutes des représentations d’un même univers." Gottfried Leibniz. Monadologie. 1re édition en 1720 (édition posthume). §. 78.
- ↑Gottfried Leibniz. “Considérations sur les Principes de Vie, et sur les Natures Plastiques, par l’Auteur du Systeme de l’Harmonie préétablie." in Die philosophischen Schriften. Vol. 6 ed. Karl Immanuel Gerhardt.
- ↑“aucun fait ne saurait se trouver vrai ou existant, aucune énonciation véritable, sans qu’il y ait une raison suffisante pourquoi il en soit ainsi et non pas autrement." Gottfried Leibniz. Monadologie. 1re édition en 1720 (édition posthume). §. 32.
- ↑“c’est ce qui est la cause de l’existence du meilleur que la sagesse fait connaître à Dieu, que sa bonté le fait choisir, et que sa puissance le fait produire." Gottfried Leibniz. Monadologie. 1re édition en 1720 (édition posthume). §. 55.
- ↑“Comme nous avons établi ci-dessus une Harmonie parfaite entre deux règnes naturels, l’un des causes Efficientes, l’autre des Finales, nous devons remarquer ici encore une autre harmonie entre le règne Physique de la Nature et le règne Moral de la Grâce, c’est-à-dire, entre Dieu considéré comme Architecte de la Machine de l’univers, et Dieu considéré comme monarque de la Cité divine des Esprits." Gottfried Leibniz. Monadologie. 1re édition en 1720 (édition posthume). §. 87.
- ↑“Un peu d’acide, d’acre ou d’amer, plaît souvent mieux que du sucre; les ombres rehaussent les couleurs; et même une dissonance placée où il faut, donne du relief à l’harmonie. Nous voulons être effrayés par des danseurs de corde qui sont sur le point de tomber, et nous voulons que les tragédies nous lassent presque pleurer. Goûte-t-on assez la santé, et en rend-on assez grâces à Dieu, sans avoir jamais été malade? Et ne faut-il pas le plus souvent qu’un peu de mal rende le bien plus sensible, c’est-à-dire plus grand?" Gottfried Leibniz. Essais de Théodicée sur la bonté de Dieu, la liberté de l’homme et l’origine du mal. 1710. §. Première partie, 12.
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コメント一覧
≪…全知全能の神がどのように認識し、行為するのかを真剣…≫を、取り入れて、ライプニッツの「理性に基づく自然と恩寵の原理」の《モナド》を観たい。
【数そのモノ】(数学言語)を十進法の基での桁表示の西洋数学の成果の6つのシェーマ(符号)から観えてくる『ジャーゴン(数の核)』を『身体がする数学』として[肉体と精神]で[構築]する。
『ジャーゴン(数の核)』 = 『創発エネルギー』×『ホログラフィック係数』
『ジャーゴン(数の核)』 → 《モナド》
『創発エネルギー』 → ⦅人間⦆ と ⦅宇宙⦆ との 『呼吸』
『ホログラフィック係数』 = 『コスモス』×『カオス』/『創発係数』
『コスモス』×『カオス』 → [意識の野]
『創発係数』 → [シナプス]
と双対というか対応させたい。
これらの事象(現象)を 幼く、
『(わけのわかる ちゃん)(まとめ ちゃん) (わけのわからん ちゃん)
(かど ちゃん)(ぐるぐる ちゃん)(つながり ちゃん)』 の
⦅モナド》の[精霊](ニンフ)に観てみたい。
[数の言葉]の⦅自然数⦆の[エンテレケイア](『創発回転体』)の[『⦅モナド⦆』]を・・・
『自然数のシナプス』は、
令和2年2月13日~令和2年3月15日
京都市左京図書館で・・・