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言語教育と文学教育は分離するべきである

2013年3月16日

日本では、文学教育が言語教育を乗っ取っているため、文学教育を必要としない学習者までが文学教育を強いられている。この現状を変えるために、私は現行の国語を廃止し、これを日本語と日本文学に分割し、前者を必須教科に、後者を日本史などと同様の選択科目にすることを提案したい。[1]

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1. 言語教育と文学教育は分離するべきである

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年3月16日(土) 14:05.

日本の大学あるいは短大には英文科と国文科が多数設置されている。英文学や国文学に対する社会の需要は民俗学や考古学と同程度と考えられるが、前者の分野における研究者の供給力が後者の分野における研究者の供給力をはるかに上回っている理由は何か。それは、日本の教育市場では、言語教育と文学教育の抱き合わせ販売が制度化されており、その結果、文学教育に対する需要が、そうでない場合の水準以上に過大に膨らまされているからである。

抱き合わせ販売とは、人気のない商品を人気のある商品にバンドルして、人気がある方しか必要としていない客にも両方を売りつける悪徳商法の一種である。公取委員会は、「相手方に対し、不当に、商品又は役務の供給に併せて他の商品又は役務を自己又は自己の指定する事業者から購入させ、その他自己又は自己の指定する事業者と取引するように強制すること[2]」を「抱き合わせ販売」と定義し、独禁法でこれを禁止している。

ところが、日本の公教育では、不当と言ってよいような言語教育と文学教育の抱き合わせ販売が行われている。日本で生活しようと思えば、日本語の能力が必要だし、大学を卒業するほどの知識人になろうとするならば、英語の能力も必要である。だから、日本の学校が国語を必須科目にしたり、大学が英語教育に力を入れるというのは理解できる。しかし、必須の重要科目と位置付ける言語教育に、必須とは言い難い文学教育を抱き合わせるのはいかがなものか。英文学の研究者が大学における英語教育を担うことによる弊害は「日本の大学は英語で授業を行うべきか」で既に行っているので、ここで取り上げることはやめ、代わりに国語の方を取り上げよう。

多くの大学が入試において国語を、日本史のような選択科目ではなくて、必須の教科に指定しているが、大学入試の国語の内容は、受験生全員が受験しなければならないような性格のものではない。代表的な国語の入試問題であるセンター試験の国語を見てみよう。問題構成は毎年決まっており、評論、小説、古文、漢文から1問ずつ出題される。評論には芸術論が好んで取り上げられ、小説は文学作品そのものであり、古文と漢文も文学作品が主として出題される。このため、国語は、日本語の能力を試す問題というよりも、文学作品の鑑賞力を試すような問題になっている。

もっとも、出口汪のように、国語の問題が試しているのは、日本語の能力でもなければ、文学作品に対するセンスでもなく、論理的な思考力だという人もいる。なるほど、文学作品に関する設問で、受験生の論理力を試すことはできなくはない。しかし、受験生の論理力を試すために、文学作品を用いなければならない論理的必然性はなにもない。論理力を試すだけなら、出題に使う文章の出典は、ビジネス文書でも学術書でも政治演説でも何でもよいはずだ。

ここで、日本の入試制度を相対化するために、これを米国の大学入試制度と比較してみよう。米国の大学が入学志願者を選別する時に使っている代表的なテストは、SAT(Scholastic Assessment Test 大学進学適性試験)である。SAT は、SAT Reasoning Test(推論力テスト)と SAT Subject Tests(科目別テスト)に分かれる。前者は、Critical Reading(批評),Writing(作文),Math(数学)の必須三教科(所謂、読み、書き、そろばん)から成り、後者は選択科目である。

SAT Reasoning Test のうち、最初の二つは日本の国語に相当するが、これは基本的な読み書き、論理的な判断力を試す教科で、日本のように文学作品の鑑賞力を試す教科ではない。なぜなら、そういう能力を試す英文学(Literature)の科目は、SAT Subject Tests の一つとして必須教科から切り離されているからだ。英文学の受験生は他の選択科目の受験生よりも多いが、例えば米国史の受験生よりも少ないのだから、日本史の受験生より国語の受験生の方が圧倒的に多い日本とは事情が異なる。

日本では、文学教育が言語教育を乗っ取っているため、文学教育を必要としない学習者までが文学教育を強いられている。この現状を変えるために、私は現行の国語を廃止し、これを日本語と日本文学に分割し、前者を必須教科に、後者を日本史などと同様の選択科目にすることを提案したい。これにより国文学の出身者の仕事が減ってしまうかもしれないが、生産者の利益よりも消費者の利益の方が優先されるべきである。

文学というのは、哲学と同じで、興味を持った人が自発的に学ぶべき学問であり、すべての生徒が学習を制度的に強制される性質のものではない。日本の大学入試における文学の偏重は、中国の科挙に由来するのかもしれない。中国は、詩作に優れているが、行政の実務には疎い文人を官僚として重用したため、清朝の時代に近代化に失敗した。このため中国では科挙は廃止されたのだが、日本も、こうした悪しき伝統の残滓を払拭するべきではないか。

2. 理系の研究者は文学作品を読むべきか

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年3月26日(火) 18:34.

小野雅裕が、MIT 留学の体験から、日本の理系の学生には国語力が必要だと言っている。

「国語力」を磨けば、日本の理系は世界で勝てる-「舌先三寸」のアメリカ人に負けて気づいたこと (date) 2013年3月22日 (media) 東洋経済オンライン (author) 小野雅裕 さんが書きました:

日本では「理系」の仕事に国語力は無用なのか。そんなことは決してない。

世間で「研究者」といえば、毎日方程式を解いたり試験管を振ったりする仕事だと思われているかもしれない。「技術者」といえば、ひたすら設計図を書いたりコンピュータをプログラミングしたりする仕事と、思われているかもしれない。しかし現実は違う。僕は仕事の時間の半分以上を、話したり、書いたりすることに使っている。

研究とは、今まで誰も知らなかった世の中の真理を発見する仕事である。しかし、僕がどんなにすばらしい発見をしても、それを他人に伝えないまま死ねば、その発見はこの世から消失してしまう。だからこそ論文を書き、プレゼンテーションをして、自分の発見の価値を他人に伝えることがこの上なく重要なのだ。

また、研究をするには研究費がいる。研究費を取るためには、提案書を書いたりプレゼンテーションをしたりすることで、「理系」ではない人たちに対して自分の研究の価値を売り込まなくてはならない。

僕には経験がないが、会社勤めの技術者だって、企画書を書き、経営陣に新技術の価値を伝えるなどの場面において、国語力がものを言うのは同じだろう。

(ア)から(エ)の選択肢から正しいものを選びマークシートの該当する記号を塗り潰す能力や、計算した結果を小数点以下第2位まで解答欄に正確に記入する能力だけでは、研究費を取ることも、プロジェクトを立ち上げることも、新発見の価値を世に知らしめることもできない。自分の考えを言葉で話し、文章に書いて他人に伝える「国語力」こそ、理系の人間に最も必要とされる能力なのだと僕は思う。

また、これは慶応に教員として着任して気づいたことだが、多くの日本人にとって、英語が不得手である原因は国語力にある。つまり、英語で話したり書いたりするのが苦手な人は、そもそも日本語でも筋を立てて話したり書いたりするのが得意ではないケースが多いのだ。

小野は、それで、理系の学生を集め、ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』や谷崎潤一郎の『春琴抄 』などを読む読書会を開いているという。たしかに、理系の学生といえでもプレゼンテーション能力が必要なことは言うまでもないが、それはこうした類の文学作品を読むことで養われるものなのか。

小野は、MIT での苦労話を書き綴ったコラムで以下のように書いている。

MITで失った自信、得た自信 (date) 2013年3月08日 (media) 東洋経済オンライン (author) 小野雅裕 さんが書きました:

精神がすり減るような努力が初めて報われたと思った瞬間を、今でも鮮明に覚えている。人工衛星設計の授業で提出したリポートの、僕が書いたセクションに、先生がこんなコメントを付けてくれたのだ。

”Despite the grammatical and spelling problems, this section is technically excellent.” (文法やスペルに問題があるが、このセクションの技術的内容はすばらしい)。

もっともこれは、毎週提出するリポートに何十と付けられるコメントのひとつにすぎない、ほんのささいなことである。それでもMITに来て以来、話しても相手にされず、RAも見つからず、自信を喪失する一方だった僕にとって、初めてMITの先生が、しかも僕が付きたいと思っていた先生が、僕を認めてくれた瞬間だったのだ。夜中に寮の部屋で一人、Eメールで送られてきたそのコメントを読んで、僕は飛び上がらんばかりにうれしかった。

ここから判断すると、小野に欠けていたのは、文学的表現力といった高尚な能力などではなくて、正しいスペルや正しい文法といった基礎的な言語能力であろう。そうした基礎的な言語能力がないなら、いかに小野が理数的能力に優れようとも、周囲から認められなかったのは当然と言える。基礎的な言語能力すらない人が文学的な比喩のテクニックなどを使おうとすると、かえって周囲から理解されなくなるだろう。それならば、理系の学生に必要なのは、文学教育ではなくて言語教育ということになる。

3. 参照情報

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注釈一覧
  1. ここでの議論は、システム論フォーラムの「言語教育と文学教育は分離するべきである」からの転載です。
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