5月 012003
 

認識とは、対象を受動的に模写するだけのことなのか。それとも対象を積極的に構成することなのか。模写説か構成説か、実在論か観念論か、唯物論か唯心論か。哲学史上の論争をジェンダー論の観点から振り返り、システム論的な止揚を試みる。

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近代認識論の原型を作ったデカルト(左)とカント(右)

1. 認識論の根本問題

哲学者たちは、長い間、唯物論と唯心論、実在論と観念論のどちらが正しいかをめぐって論争してきた。一方で科学主義を標榜する唯物論者たちは、「真に実在するのは、物質とエネルギーだけであり、意識とか観念といった幽霊は、実在の世界から退治しなければならない」と主張し、他方で、極端な観念論者たちは、物の実在を否定し、すべては意識が主観的に作り上げた観念にすぎないと主張した。

19世紀の中頃、ドイツの俗流唯物論者、フォークトは、『妄信と科学』(1854年)の中で、「思想の脳髄に対する関係は、胆汁の肝臓に対する、尿の腎臓に対する関係とほとんど同じである」と書いている。これほど粗雑でないにしても、多くの唯物論者たちは、意識とその相関項である観念を、脳の中に押し込めようとしていた。この流れに対抗して、新カント学派は、カントの時代の観念論を復活させようとしていた。エントロピー概念が発見された当時の思想状況は、このようなものだった。

20世紀になると、エントロピー概念が情報理論で使われるようになり、低エントロピーとしての情報が、物質やエネルギーと並ぶ基本的な物理学的概念とみなされるようになった。唯物論者たちや実在論者たちは、物理学を、科学の模範として崇拝してきた。その物理学ですら、もはや、情報を、主観が色眼鏡をかけているために、客観に備わっていると錯覚している幻想とは考えなくなった。

デカルト以来の近代の意識哲学は、イデアールとレアールの関係を主観と客観の関係に対応させた。一見対立関係にあるように見える唯物論的実在論も唯心論的観念論も、物心二元論を質料と形相の二元論へと重ね合わせたという点で、同じ地平の内部に留まっている。即ち、両者は、形相が主観の独占物であるという大前提を共有しており、実体が形相か質料かという小前提の違いから、違った結論を出しているだけなのである。エントロピー概念による情報の説明は、この地平を越えるがゆえに、唯物論的実在論だけでなく、唯心論的観念論をも否定することになる。

2. 認識論へのジェンダー論的アプローチ

歴史的に見て、人間と自然、男と女の関係は、認識論のあり方を規定してきた。前文明的な母権社会での人類は、アニミスティックな宇宙観を持ち、自然を崇拝していた。人間は自然に埋没し、形相も質料に埋没していて、両者の差異が対自化されることはなかった。前近代的な父権社会での人類は、《自然=女性=偶像》の崇拝を止めて、不可視の理性的な男性神を崇拝し始めた。いわゆる枢軸時代に、質料から形相を切り離して、形相を実体として崇拝する哲学と宗教が世界的に誕生した。近代になると、人間は形相を実体として崇拝するのではなくて、主観自らが実体となって、形相を独占し、質料を支配するようになる。人間が、神のように自然を支配しようとするようになったのも、男による女の支配が頂点に達したのもこの時代である。

デカルト以来の近代哲学を超克しようとした日本の哲学者に、廣松渉がいる。廣松哲学は、近代的な主観と客観の対立図式を本当に克服したのだろうか。廣松は、《我》の独我論を否定したものの、《我々》の独我論に陥ってしまったのではないのかというのが私の感想である。廣松哲学においても、意味の規定は主観によってなされる。不確定性が、間主観性を形成するのではなくて、逆に共同主観性によって止揚されるという点で、廣松哲学は近代哲学の一種と判断できる。

ポスト近代の時代を生きる私たちが、男女平等の社会を目指すとするならば、自然を崇拝するのでも支配するのでもなく、自然と対等な関係を持とうとするならば、どのような認識論を目指せばよいのか。私は、エントロピー概念に定位したシステム論でなら、前文明的なアニミズムへと後退することなく、主観に形相を独占させた近代の意識哲学のパラダイムから脱却することは可能だと思う。

3. 認識論へのシステム論的アプローチ

観念論の哲学者たちは、

エントロピーは、将来主観によってその有効性が否定されるかもしれない経験科学の概念の一つだ。哲学は、すべての経験科学の概念を超越している。だから、エントロピーを含め、すべての概念は意識の産物にすぎない。

と反論するかもしれない。私は、エントロピーをたんなる経験科学の概念としてだけではなく、不確定性あるいは選択可能性という哲学的な概念としても捉えているので、この問題を哲学的に考えてみよう。

もしも、観念論が正しいとするならば、すなわち、意識がすべての観念を産出し、そして観念を孕まない物が存在しないとするならば、主観は、世界を意のままに創造することができるはずである。しかし実際には、私たちは、個別主観的にはもちろんのこと、共同主観的にも、世界の認識に苦労している。このことは、客観が、主観によって受動的に意味付与されるだけの存在ではなくて、自ら能動的に意味を表現するシステムであることを、しかも、主観が予期するのとは他のようにエントロピーを縮減する他者であることを示している。

物は、意識システムのように、情報を認識する能力はないが、情報を表現している他者である。だが、認識とは、表現された情報を受動的に受け入れるだけの営みではない。認識は、観念論者が想定するような純粋な能動でも、実在論者が想定するような純粋な受動でもない。このことを理解するには、そもそも、認識とは何のために行われるのかを考察しなければならない。

ここで、システムの分類の復習をしよう。システムとは、自己の構造のエントロピーを減らし、環境から自らを区別する選択主体である。選択の基準が、自己再生産へと方向付けられているシステムは、特に生命システムと呼ばれる。生命システムにおいては、エントロピーの縮減のためにエントロピーが縮減される。生命システムの中で、エントロピーの縮減基準が自由意志によって後天的に修正可能なシステムは、意識を持つ。

認識は、エントロピー縮減の一つとして、エントロピー縮減の再生産、即ち自己保存を目的としている。したがって、理想的な認識とは、表現されたすべての情報を受動的に受け取ることではない。この宇宙に存在するすべての情報は、私たちの脳の容量制限を超えているので、それをすべて認識するということは、不必要という以前に不可能である。私たちが必要としている情報は、将来にわたって、システムの自己保存に役立つ情報である。

このことは、私たちが、将来どうなるかという未来予測の知識だけを求めているということを意味しない。例えば、明日雨が降るか否かという未来予測に関して、気象学者Aは、一つの過ちを犯すことによって、間違った予測をし、気象学者Bは、二つの過ちを犯すことによって、たまたま正しい予測をしたとしよう。この場合、正しい予測をしたからといって、BをA以上に信用するというわけにはいかない。偶然性というエントロピーを縮減するためには、たんに正しい予測をするだけではなく、正しい予測をするための普遍的な理論を築かなければならない。

「今ここでは、私には、…のように見える」といった受動的で個別的情報なら、間違えることはないが、同時に情報としての価値はきわめて低い。そこで、意識システムは、個別的情報を超えて、普遍的理論を能動的に構成しようとする。だから、認識は、受動的であるだけでなく、能動的でもある。

4. 結論

結論をまとめよう。近代以前の認識論では、母権社会であれ、父権社会であれ、人間は、世界の意味を与えられ、受動的にそれを体験した。近代になって、人間は、自ら神となって世界の意味を能動的に創ろうとした。世界を意のままに支配する野望が幻想と化したポスト近代においては、人間は、認識対象と対等の立場で対話することを余儀なくされている。男と女の関係についても、同じことが当てはまる。

読書案内
書名世界の共同主観的存在構造
媒体文庫
著者広松 渉
出版社と出版時期講談社, 1991/11

廣松渉は、全共闘世代に大きな影響を与えた、戦後日本を代表する哲学者の一人で、現在中国の研究者からも注目されている。廣松は、「我」の独我論を否定しようとして、「我々」の独我論に陥ったというのが私の感想である。本書は、廣松が、初めて自らの哲学を体系的に展開した記念碑的労作で、特に共同主観的四肢構造論は圧巻である。主著存在と意味は難解なので、初学者には、この本から読んだ方がわかりやすい。

追記(2006年1月17日)システム論は独我論的か

Living, Loving, Thinking – 永井俊哉/ジェンダー/廣松渉」に対するコメント。「社会学・社会理論専攻のSUMITA」さんが、「認識するとはどういうことか」に投げかけた疑問に答えます。

「システム」を「主体」とするということはどうなのだろうか。「廣松は、《我》の独我論を否定したものの、《我々》の独我論に陥ってしまった」というのは永井氏にそのまま返ってくるのではないだろうか。〈システムの独我論〉として。

システムは、常に環境と相関的な関係にあります。システムの機能は選ぶことですが、選ばれない選択肢があるからこそ選ぶことに意味があるわけで、《他のようではありえない》選択は、選択ではありません。私の他者論に関しては、「他者は存在するのか」をご覧ください。

廣松先生は、個の実体化のみならず、全体の実体化をも否定する関係主義のテーゼを打ち出しておられるので、「《我々》の独我論に陥ってしまった」という評を不満に思われるかもしれません。しかし、廣松哲学は、外部に物自体の存在を認めないヘーゲル的な汎神論の影響下にあって、他者は、我々を構成している他者であって、我々とは異なる他者ではありません。

昔、ゼミで私が相対主義を主張したところ、「相対主義が正しいと主張するなら、どこかに絶対主義的な確信があるのでは」と廣松先生から言われたのを覚えています。相対主義自体を相対化できるのかという問題です。二値論理学的には、自己否定はパラドックスをもたらしますが、多値論理学的、つまり様相論理学的には、そうではありません。これについては「確率の認識と認識の確率」をご覧ください。

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  4 コメント

  1. 永井さんは、エントロピーを不確定性あるいは選択可能性として捉えます。しかも、この不確定性あるいは選択可能性は、広松のように共同主観的に止揚されないわけでしょう。原理的、哲学的に止揚されないわけです。いつも、足元に大きな穴が開いている感じとでもいうのでしょうか。従って、永井さんの認識論では、普遍的な理論を能動的に構成しようとしても、絶対的な普遍性に達することは絶対にないことになります。勿論、永井さんの認識論は実存主義のように無とかいわずに、自己保存=エントロピー縮減の再生産を認識の目的として立てます。私は、この永井さんの自己保存というのを、環境変化に対して適応できた者のみが生き残り、結果的に多数派が成立する。やがてこの多数派も環境変化に適応できない場合は、つまり修正システムが機能不全、物象化ですかね。この場合は、かっての多数派は没落し少数派に転落するといった歴史的生物的プロセスを表現しているように解釈しました。歴史的相対主義のような感じでしょうか。このような、理解でいいのでしょうか。

  2. 廣松渉が言う物象化とは、関係概念の実体化です。マルクスも廣松も歴史的相対主義ですが、ヘーゲルの影響で、最終段階が絶対化されています。私が問題にしているのは、廣松の関係の第一次性のテーゼではなくて、関係が不確定的関係としてではなく、たんなる差異の関係としてしか捉えられていないことです。

  3. 関係の第一次性については、文句なく永井さんも賛成ということですね。廣松渉では、この関係が不確定的関係としてではなく、単なる差異の関係としてしかとらえられていないところが問題になるということですよね。一応、永井さんのサイト内検索で、差異と不確定性で検索して私も考えました。永井さんの練り上げた概念ですから、一筋縄ではいかないという印象を持ちました。ただ、一つだけ分かったことは、差異が文化=男で、不確定性は自然=女ということです。出来れば、差異と不確定性をもう少し明快に説明してもらえませんか?正直いって、不確定性を差異と分かつものは不確定なのではないですか?不確定は差異としてしか実現しないのではないですか?冗談ではなくそういう風に思います。

  4. 関係の第一次性のテーゼは、左があるから右もあるという差異の否定関係が、左や右に先立ってあるということを主張しているのですが、これだけでは、不確定性の意味を積極的に評価したことにはなりません。左か右かどちらか一つを選ばなければならない時になって初めて、不確定性が生まれるのです。差異は、不確定性にとって必要条件ですが、十分条件ではありません。

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