1月 282006
 

本節では、フロイトが、リビドーの発展段階として画期した、口唇期、肛門期、男根期という三つのフェイズが、個人史的・人類史的にどういう時代に相当するのかをフォローしながら、私なりに反復説を再構成し、本書が何を目指していたのかを明らかにしたい。

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1 : 人は段階的に去勢を経験する

人は、生まれてから心身ともに自立するまで、段階的に、去勢を経験する。最初の去勢は、産まれてくる時である。へその緒を切ることは、母のペニスを切る行為であり、この去勢により、母子の恒常的な肉体的一体性が終わる。その後も母は、へその緒に代わって、乳房を通して、子に栄養を与え続けるが、やがて子は、離乳という第二の去勢を経験する。次に母は、子が大切に溜め込んでいる糞尿を排出せよと促す。これは第三の去勢である。最後に、父による去勢が行われ、子は母から、精神的に自立する。

精神分析学では、普通四番目の切断だけを去勢と呼ぶのだが、その前の三つの切断も、狭義の去勢と似た構造を持つ。出産時の母の膣とその中の子(または子と母を結び付けている臍の緒)、授乳時における子の口とそこに挿入される母の乳首あるいは乳、硬くなってペニスのような形をした大便と直腸、これらはすべて本来の性交における膣と男根の関係と等価とみなされる。そして四回の去勢という切断は、口唇期、肛門期、男根期という三つのフェイズを区切る。

2 : 個人史および人類史における口唇期

個人史的には、口唇期とは、生後1年余りの、母乳で養われる時期で、この時期では、口が支配的な性感帯になっている。性交の代替としてキスが行われるのは口唇期の名残である。口唇期は、前期と後期に下位区分される。前期では吸うことに、後期では噛むことに快を感じるようになる。これは、生後5ヶ月ぐらいで、乳児の摂食機能が、乳汁を吸うことから、食物をかみつぶして飲み込むことへと発達することに対応している。後期の口唇サディズム的段階は、次の肛門サディズム的段階へと引き継がれる。

人類史的には、口唇期は、トーテム崇拝の初期にあたる。トーテムを殺したり食べたりしてはいけないというタブーは、最初からあったわけではない。オーストラリアのアボリジニのような、きわめて原始的な民族には、そうしたタブーがなく、彼らは、トーテム動植物を自由に殺して食べている。多分、口唇期の人類は、乳児が母の乳首を口に含み、栄養を摂取することに、受動的かつ無反省的な快を感じるように、母なる自然から栄養を摂取することに受動的かつ無反省的な快を感じていたことだろう。

口唇期が終わるころ、ラカンが謂う所の鏡像段階(stade du miroir)が始まる。鏡像段階以前では、子供は自分の身体をまとまった全体としてではなく、寸断された身体として体験する。生後6ヶ月ぐらいの子供は、最初のうちは、鏡に映った自己の身体を手でつかもうとするが、やがてそれが現実の他者ではないことに気が付き、自己のイマージュとの原初的同一化により、鏡を前にして大喜びする。この自己を再認する作業は、生後18ヶ月ぐらいになると完了するが、母子の鏡像的な関係は、次の肛門期でも持続する。

人類史において鏡像段階に相当するのは、4万5千年前頃に起きた文化のビッグバンと呼ばれるコミュニケーション革命である。現生人類(クロマニヨン人)は、鏡像的な関係に基づき、言語と交易のコミュニケーション・ネットワークを築くことができた。

クロマニヨン人の脳に見られる発達した前頭連合野は、新しい神経回路のネットワークを作り出し、交易の新しい社会的なネットワークを作り出し、それによって言語システムを複雑にし、概念の示差的なネットワークに革新をもたらした。この三つのネットワークの創発は、相互に無関係なのではなく、知性の発達という一つの本質の異なった側面にすぎない。[1]

3 : 第3項 個人史および人類史における肛門期

個人史的には、肛門期とは、生後2-3年の、排尿と排便に快を感じる時期である。前期では、口唇期後期を受け継いでサディズム的で破壊的傾向が強く、後期では、対象を確保し、所有しようとする傾向が強い。特に自分の糞尿を、母への贈り物として意識する。尿は金色で、糞は鋳潰した銀のような色をしている。フロイトは、金銀が貨幣として交換に用いられるようになった起源をここに求めている[2]。かくして、母との鏡像関係において、贈り物と取引の経験が始まる。

社会システム論の構図』でも紹介したラカン的な図式なのだが、母子の鏡像関係を図式化すると次のようになる。

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図9 想像界の三角形

“m”は自我(moi)、つまり幼児のことで、“i”はイマーゴ(imago)、つまり母のことで、フロイトの言葉を使うなら、理想的自我にあたる。“φ”は、想像的ファルス(phallus imaginaire)で、母の欠如を埋める媒介的第三者である。肛門期においては、糞尿がこれに相当する。

私は、これまで、蛇や鳥や竜が、想像的ファルスに相当すると書いてきた。垂れた糞便は、その形からして、蛇や竜に似ている。母が糞尿の世話をしてくれるので、糞尿は、母と子をつなぐ媒介者となる。同様に、蛇や竜は、この世とあの世をつなぐ橋なのである。母子をつなぐ橋は、他にもまだある。母子が交わすまなざしや声である。この媒介的第三者は、空中を飛ぶので、鳥として表象される。

肛門期において、母子は、物と情報の交換をする。そして、肛門期は、人類史的には、交易と話し言葉のネットワークが広がった先史時代に相当する。トーテムは、母との鏡像的関係において自己同一可能な想像的ファルスとなり、その殺害がタブーとなる。しかし、現在のトーテムでも観察可能なように、祝祭においてトーテムは殺害され、食される。フロイトが肛門期をサディスティックと形容したゆえんである。

幼児が、糞尿を贈与するから、母は自分に世話をしてくれると想像するように、肛門期の人類は、生贄を捧げるから、地母神は自分たちに自然の恵みを与えてくれると想像する。

ここで、肛門期の子供は、糞尿をすぐに排泄せずに、それを溜め込んだ上で排泄することに快を感じることを思い出さなければならない。トーテムを殺して食べることをタブーによって禁止し、我慢すればするほど、トーテムを殺して食べるエロティシズムの快は大きくなる。

肛門期の子供は、また、離乳により、もはや無媒介に母と合体することは少なくなくなる。しかし、無媒介性が否定されているからこそ、母子の愛の関係は逆に強まる。愛は、「分別」が隔てている自他の差異を消滅させる。それは、未開/原始社会の人々が、祝祭的な供犠において、トーテム動物と一体となる体験と同じである。

タブーは、欲望を否定することで肯定する。エロティシズムは、否定性(他者性)によって媒介された快楽である。弁証法的に表現するならば、肛門期とは、即自的で無媒介な口唇的段階を否定する、他者性の対自化によって媒介された段階であると言うことができる。

幼児は、排泄物を、自分を世話してくれる母に対する対価と考える。人類史の肛門期において、交易(物のコミュニケーション)と表象文化(情報のコミュニケーション)が活発となるが、外婚のネットワークが確立されたのもこの時期であると考えられる。

トーテムが母だとするならば、同じトーテムに属する女とは、母ではなくて、姉妹ということになる。人間は、生物学的に、幼い時から生活を共にする同胞に性的欲望を持たないようにできている。そうした近親相姦は、人間が誕生する以前から回避されているから、フロイトのように、それを説明するのに何か物語を考える必要はない。

エディプス・コンプレックスで「トーテムとタブー」を説明することはできない。エディプス・コンプレックスは、父権宗教が「トーテムとタブー」というエロティシズムを極大化する母権宗教を否定する中で生じた男根期の意識であり、男根期以前の自然民族には無縁である。

4 : 個人史および人類史における男根期

個人史的には、男根期とは、男の子はペニスに、女の子はクリトリスに関心が向かう、生後3-5年の時期である。子は、母にとって自分がすべてでないこと、母の欲望の対象であるファルスが父親、つまり彼女の夫に向けられることを悟る。ファルスが子から父へと移転するわけだ。

なぜか。それは、もしそう言ってよければ、ファルスはぶらつくものだからだ。ファルスは他の場所にある。精神分析学がそれをどこに位置付けているのかは周知の通りであって、所持者とされるのは父親である。この所持者を巡ってこそ、子供においてはファルスの喪失、返還要求、剥奪が始まり、母親においてはファルスを持たないことの不安やファルスへのノスタルジーが始まる。[3]

子供にとって父親はライバルになるのであって、このエディプス的三角関係を表したものが図10である。Pは父(Père)を、Mは母(Mère)を、Iは自我理想(Ichideal/idéal du moi)を表す。想像界の三角形は、裏返され、下へと抑圧され、象徴界の三角形がこれに代わる。

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図10 裏返された想像界の三角形と象徴界の三角形および現実界の帯

父親を殺して、母を我が物としたいというエディプス的欲望は、父の去勢の脅しによって、断念せざるをえなくなる。かくして、子は父を自我理想として、それに同一化しようとする。父のPは、象徴的ファルス(phallus symbolique)の頭文字Pでもある。

象徴の三角形の各頂点は大文字で、想像の三角形の各頂点は小文字で書かれているが、これは、前者がシニフィアンで、後者がシニフィエであるからである。象徴界と想像界は、しかしながら、現実界の帯によって分断され、シニフィアンからシニフィエへの移行ができないままになっている。

男根期は、人類史的には、農業に家畜が使われるようになった時代から始まる。狩猟採取時代、男と女の生産力は大差がなかった。むしろ、女性の採取のほうが男性の狩猟よりも安定的に多くの食料をもたらしたかもしれない。採取が農業に、狩猟が牧畜になっても、男女は平等だった。しかし、農業に家畜が使われるようになると、農業までが男の仕事となり、女の仕事は、育児、家事、機織といったマイナーな分野に限られるようになった。男の生産力が増えるにつれ、社会は次第に男尊女卑になっていった。

これは、男の子が女の子にペニスがないことを見て、女の子を軽蔑するようになるという出来事に対応している。そして、やがて、子供は、同じくペニスのない母を軽蔑し、ペニスを持ち、かつ去勢する権力を持っていると子供が想像する父が尊敬されるようになる。これに対応して、人類は、地母神崇拝をやめ、天父神崇拝を始める。自然の豊穣さに代わって、理性の光が尊重されるようになる。

5 : 太古の記憶を甦らせる

人類史の男根期は、文字が発明された文明時代である。これに対して、それ以前の地母神崇拝の時代は、文字によって記録されていないために、忘れ去られた暗黒時代になっている。これは、個人レベルでの幼児期健忘に対応している。

私たちは、三歳以前の経験を思い出すことはできない。私たちは、三歳以前にも、記憶する能力があったにもかかわらず、男根期以前の記憶は、抑圧され、意識に上ってこない。この理由は、解剖学的には、まだわかっていないのだが、母子の過去の結びつきをばっさりと切り落とすことが去勢の働きであることを考えるならば、男根期の子供が過去の母の思い出を切り捨てることは、十分理解できることである。

意識が、母子相関の享楽を抑圧し、忘れ去ろうとしても、無意識の欲望は、決してそれを忘れない。だから、私と母がかつて交わった通路は、対象aとして、その後も欲動の原因となり続ける。地母神と人類とをつなぐ橋が、蛇や鳥や竜として現れる神話や民話が今も語り継がれるのはそのためである。

心の病は、満たされなかった欲望を象徴的に満たそうとすることでおきる。だから、私たちは、原点に立ち返って、自分が本当は何を欲望しているのかを見つめ直さなければならない。そのためには、シニフィアンからシニフィエへの、象徴的三角形から想像的三角形へと立ち返る道を見出さなければならない。それにはどうしたらよいだろうか。

ここで、Iとi、Mとmを結びつけ、現実界の帯をメビウスの輪にしてみよう。自我理想をその原点である理想自我と結びつけ、もう一度母子一体であった時を思い出すのである。

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図11 想像界の三角形

すると表の象徴的三角形と裏返された想像的三角形は、一つの平面へと連続し、シニフィアンからシニフィエへと、象徴的三角形から想像的三角形へとスムーズに移行することができるようになる。

日本語の「甦(よみがえ)る」は「黄泉(よみ)の国から帰る」という意味である。浦島伝説を読み解きながら、裏返され、闇(やみ)の中にある、母への思いをもう一度思い起こすことで、欲動の基点である想像的ファルスを再発見すること、これが本書の狙いだったのである。

6 : 参照情報

  1. 永井 俊哉.『縦横無尽の知的冒険』. プレスプラン (2003/7/15). p.100-167.
  2. “In ganz analoger Weise decken die Darmreizträume die dazugehörige Symbolik auf und bestätigen dabei den auch völkerpsychologisch reichlich belegten Zusammenhang von Gold und Kot.” Sigmund Freud. Die Traumdeutung / Über den Traum. Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband herausgegeben von Anna Freud, Marie Bonaparte, E. Bibring, W. Hoffer, E. Kris und O. Osakower. 2001/11. Bd.2/3. p.408.
  3. Jacques Lacan. Le Séminaire livre III – Les psychoses, 1955-1956. Editions du Seuil (1 novembre 1981). p.359.
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  8 コメント

  1. 永井様
     まず、質問です。永井さんは、「出産時の母の膣とその中の子、授乳時における子の口とそこに挿入される母の乳首あるいは乳、硬くなってペニスのような形をした大便と直腸、これらはすべて本来の性交における膣と男根の関係と等価とみなされる。そして四回の去勢という切断は、口唇期、肛門期、男根期という三つのフェイズを区切る。」と言われています。
     ここで、羊水中の子自身、母の乳首や乳、大便がペニスとみなされ、それに対して膣、赤ちゃんの口、直腸というか肛門が膣に対応するわけでしょう
     つまり、男の子は、最初ペニスとして生まれ、膣として乳を飲み、膣として大便をし、最後にペニスとして性交すると言うことでしょうか?
     非常に面白く興味深いのですが、例えばホモセクシュアルをこの4段階説で説明するとどうなるのでしょうか?
     

  2. 羊水の中にいるときは、へその緒が母子をつなぐ絆となります。へその緒が切れた後も、子は、その代替を求め、母子の接点を見出そうとします。その際どちらが能動的でどちらが受動的かは、想像的な鏡像関係においては、相対的で、ファリックマザーとの想像的同一化が後の文化的に規定されたホモセクシュアリティの目標となります。

  3. 鏡像段階では、受動と能動は相対的で、受動と能動(膣とペニス)交換可能で、後の象徴段階で、能動受動の非対称性というか局在化が起こるということですね
    以前テレビで、ホモセクシュアルの男に対して、イスラム圏の男が、ものすごい剣幕で「殺す」といっていました。なんでそれほどまでに「ダメ」なのかよく分からなかったのですが、永井さんの論考で少し分かるようになりました。
    永井さんの四つの去勢のなかで、最後の去勢だけが重要ということはない気がします。 つまり、おしっこやウンチを抑制するのと射精を抑制することにさほどの違いが感じられないのです。
    永井さんは、この四つの去勢に対して優先順位というか重要性の違いを感じられているのでしょうか? 構造が類似しているということだけではない気がします。段階的に考えるのなら、最初の去勢が決定的ということなのでしょうか?

  4. 普通、精神分析学で「去勢」といえば、男根期での去勢のみを指します。それは、子が母から自立する最後の局面で、以後、子は、幼児的な性欲を断念して潜伏期に入ります。

  5.  永井様
     幼児期健忘についての永井さんの解釈は非常に面白い。
     それで、思い出したのですが、日本で臨床心理の分野で箱庭療法というのがあって、特に日本で盛んに利用されているそうです。ミニチュアの山や川、いろいろなフィギャーを組み合わせて、一つの箱庭を完成させる。その過程で治癒が達成される。
     臨床心理士は、何かを解釈したりするのでなく、受容的に、母親的に見守るだけ。それでなぜかしら直るのだそうです。
     音楽療法というのもあると聞いたことがあります。
     幼児健忘期の記憶を活性化させるには、言語によらないでイメージとか音楽の方が容易なのかもしれません。
     幼児健忘と言語的な分節とは馴染まないということでしょうか?

  6. 精神分析学は、意識によって抑圧された無意識の欲望を知ることで、心の病を治すという方法をとっています。意識的な方法をとると、意識が検閲しようと抵抗を試みるのでうまくいきません。だから、連想とか、造形とか、無意識のうちに欲望が表れる方法をとるわけです。

  7. ふと思ったのですが、潜伏期や思春期に入るのにも、去勢というのは存在するのでしょうか?

  8. 去勢の影響は、去勢後も続きます。

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