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『言語行為と規範倫理学』を出版しました

2015年2月25日

私の著作『言語行為と規範倫理学』の解説動画、書誌情報、販売場所、概要、読者との質疑応答などを掲載します。本書に関してコメントがありましたら、このページの下にあるコメント・フォームに投稿してください。誤字脱字の指摘から内容に関する学問的質問に至るまで幅広く受け入れます。

1. 解説動画

言語行為と規範倫理学

2. 表紙画像

画像
横幅300ピクセルに圧縮した『言語行為と規範倫理学』表紙画像

3. 書誌情報

  • Title :: 言語行為と規範倫理学
    • Furigana :: ゲンゴコウイトキハンリンリガク
    • Romaji :: Gengokoi to Kihanrinrigakugaku
  • Author :: 永井俊哉
    • Furigana :: ナガイトシヤ
    • Romaji :: Nagai, Toshiya
  • Author bio :: 著作家。インターネットを主な舞台に、新たな知の統合を目指す在野の研究者。専門はシステム論。1965年8月、京都生まれ。1988年3月、大阪大学文学部哲学科卒業。1990年3月、東京大学大学院倫理学専攻修士課程修了。1994年3月、一橋大学大学院社会学専攻博士後期課程単位修得満期退学。1997年9月、初めてウェブサイトを開設。1999年1月、日本マルチメディア大賞受賞。電子書籍以外に、紙の本として『縦横無尽の知的冒険』(2003年7月, プレスプラン)、『ファリック・マザー幻想』(2008年12月, リーダーズノート)を出版。
  • Language :: ja
  • Page :: 335ページ
  • Publisher :: NAGAI, Toshiya
  • ISBN :: 9781311722218 (Smashwords, Inc.)
  • BISAC :: Book Industry Standards and Communications
    • Philosophy / Language
    • Philosophy / Movements / Analytic
    • Philosophy / Ethics & Moral Philosophy
  • Tags :: キーワード
    • Japanese :: ヴィトゲンシュタイン, クワイン, ムーア, ヘアー, サール, ロールズ, ノージック
    • English :: language, libertarianism, wittgenstein, quine, epistemology, moore, rawls, philosophy of language, nozick, metaethics

4. 販売場所

販売価格は小売店によって異なることもあります。リンク先で確認してください。

5. 短い概要

ヴィトゲンシュタイン、クワイン、ムーア、ヘアー、サール、ロールズ、ノージックなど、論理学研究から言語行為論へ、実証主義から形而上学へ、メタ倫理学から規範倫理学へと変貌を遂げた英語圏の思想界を代表する論理学者、哲学者、倫理学者、社会哲学者の理論を批判的に検討しつつ、超越論的言語哲学の可能性を探り、言語行為とその規範を超越論的目的論の立場から考える。

6. 長い概要

二十世紀の英米の哲学は、言語哲学として特徴づけられる。デカルト以来、哲学者は意識に知の源泉を求めてきた。しかし、意識は言語を通じて認識活動を行っているのであり、言語を分析せずして認識の基礎付けを行うことはできない。また、言語は最初から社会を前提としており、意識哲学のように、間主観性の問題で迷宮入りすることはない。本書は、ヴィトゲンシュタイン、クワイン、ムーア、ヘアー、サール、ロールズ、ノージックなど、論理学研究から言語行為論へ、実証主義から形而上学へ、メタ倫理学から規範倫理学へと変貌を遂げた英語圏の思想界を代表する論理学者、哲学者、倫理学者、社会哲学者の理論を批判的に検討しつつ、超越論的言語哲学の可能性を探り、言語行為とその規範を超越論的目的論の立場から考える。

7. 質疑応答

本書の内容に関する読者からの質問への私の返答をここに転載します。

第一章 第三節 前期ウィトゲンシュタイン
OfSkinerrian(2015年9月3日 12:12 AM)

「ウィトゲンシュタインが次のように言う時、 あたかもクワイン並みのホーリズムに達しているかのようである」という箇所は、以前は「ヘーゲル並のホーリズム」となっていた気がするのですが、(もしそうでしたら)変更の意図は何でしょうか?

また、クワインのホーリズムということでデュエム=クワインテーゼのような確証のホーリズムが念頭に置かれているのだとすれば、「対象が与えられている時、それとともにまた全ての対象がすでに我々に与えられている。要素命題が与えられている時、それとともにまた全ての要素命題が与えられている」という見解のどの辺が似ているのかがよく分かりません。

永井俊哉(2015年9月3日 12:37 PM)

ヘーゲルだろうが、クワインだろうが、ホーリズムはホーリズムですが、ヘーゲルよりもクワインの方が思想史的にウィトゲンシュタインに近いので、読者には違和感がないかなと思って、変えました。

クワインのホーリズムは、以下のよく引用される文章で表明されています。

地理や歴史といったごく表面的な事柄から、原子物理学、さらには純粋数学や論理に属するきわめて深遠な法則に至るまで、我々の所謂知識や信念の総体は、周辺に沿ってのみ経験と接触する人工の構築物である。換言すれば、科学全体は、その境界条件が経験である力の場のようなものである。周辺部での経験との衝突は、場の内部での再調整を引き起こす。いくつかの言明に関して、真理値が再配分されなければならない。ある言明の再評価は、言明間の論理的相互連関のゆえに、他の言明の再評価を伴う。論理法則は、それ自身、システムの中の更なる言明、場の更なる要素に過ぎない。一つの言明が再評価されたならば、他の言明をも再評価しなければならない。そうした言明は、初めの言明と論理的に連関している言明であるかもしれないし、論理的連関そのものについての言明かもしれない。だが、場全体は、その境界条件、すなわち経験によっては、きわめて不十分にしか決定されないので、対立するような経験が一つでも生じたときに、どの言明を再評価すべきかについては、広い選択の幅かある。どんな特定の経験も、場の内部の特定の言明と結び付けられているということはない。特定の経験は、場全体の均衡についての考慮という間接的な仕方でのみ、特定の言明と結び付くのである。[1]

言明(statement)は命題に相当すると考えてよいでしょう。経験的な命題から数学的論理的命題に至るまで、あらゆる命題は論理的に相互に連関しており、特定の命題の真理値を特定の経験と一対一に対応させて検証させることはできないのだから、あらゆる命題の真理は一つの真理として同時に私たちに与えられているということができます。まさにヘーゲルが言うように「真理は全体である[2]」ということです。

第二章 第三節 メタ倫理学から規範倫理学へ
石黒ティナ(2011年7月9日 1:11 AM)

実に面白い切り口で構成なさっていらっしゃる内容だと思います。僭越ながら楽しく読ませていただきました。この内容を「イメージで以って」述べさせていただけば、【とある立体多角対(所謂ダイヤモンドのような立体)の多角各面に立ちつつ不透明であるその立体多角体内部を覗く姿】がそれであるような感じさえ持ちました。

言語表現というのは、(表現対象がメタ対応型であればあるほど)難しいものであるとも考える中、永井俊哉氏の文章にて論じられている内容は(誠に僭越ながら)笑みさえ浮かびますほどの精密さに在るとも思いました。

また、ウィトゲンシュタイン曰くであるところの【哲学が“哲学”なる語の使用について語るなら、第二階の哲学がなければならないと考えることができるかもしれない。しかしそうでは全くないのであって、その事情は、正字法が“正字法”という語をも扱わなければならないからといって、第二階の正字法が存在するわけではない事情に対応している】←との一説につきましても、以前から『哲学』-その-語表現における『語そのものと事実上との誤差』を感じておりましたことから、私もこの件に関しましては、彼(ウィトゲンシュタイン)に悉く同意を致しておりました次第であります。

つきましては、永井俊哉氏がお考えになる【ディレンマ消滅法】などについても伺いたく思いましたところです。

永井俊哉(2011年7月9日 1:22 PM)

ディレンマとは、ギリシャ語で「二つの命題」という意味で、この言葉は、日常的には、ある命題を肯定しても否定しても、困ったことになる時に使われます。論理学的には、以下のように表現することができます。

(P⇒Q∧¬Q)∧(¬P⇒R∧¬R)

こういう時には、Pか、それとも¬Pかという対立を生じしめる前提を検討することで、ディレンマを解消することができる場合が多いようです。本ページの場合、自己矛盾か循環論証かというディレンマは、真理全体を究極的に基礎付けなればいけないという前提から生じるので、この前提を否定すればよいというのが本論での主張です。

石黒ティナ(2011年7月10日 1:24 AM)

(P⇒Q∧¬Q)∧(¬P⇒R∧¬R)

例えば、そのことを「生と死・楽と苦」に置き換えてみると、

{(生きているならばそれは楽しい)且つ(生自体、楽ではない)}且つ{(死ぬならばそれは苦しい)且つ(死自体、苦しくない)}
ということになりますでしょうか?

永井俊哉(2011年7月10日 12:40 PM)

連言は条件法よりも結び付きが強いというのが一般的な約束なのでわざわざ括弧で括らなかったのですが、誤解があるようなので、冗長になることを厭わず書くなら、

(P⇒(Q∧¬Q))∧(¬P⇒(R∧¬R))

となります。背理法を使うと

(P⇒(Q∧¬Q))⇒¬P
(¬P⇒(R∧¬R))⇒P

となるから、いつまでたっても決着がつきません。そこで隠れている条件を見出し、

((P∧A∧B∧C…)⇒(Q∧¬Q))⇒(¬P∨¬A∨¬B∨¬C…)

¬P以外の選択肢、¬Aや¬Bや¬Cなどを選ぶことを考えます。「前提を検討することで、ディレンマを解消する」というのは、そういうことです。

「日常的には、ある命題を肯定しても否定しても、困ったことになる」と書きましたが、一般的に言って、困るとは、欲望と現実が一致しないことであり、欲望されている可能的事態と現実的事態が異なること自体は矛盾ではないものの、その可能的事態を現実的事態に変えようと欲望している者は矛盾に直面していると考えることができます。ご提案の例で言うと、自殺してもしなくても困ったことが起きるというディレンマを解消するには、「生きている」をいう前提以外の前提を否定することで、欲望が満たされることはないかどうかを検討するということになります。

石黒ティナ(2011年7月13日 12:55 AM)

(P⇒(Q∧¬Q))∧(¬P⇒(R∧¬R))

{生きているならばそれは楽であり楽ではない}且つ{死ぬならばそれば苦しくもあり苦しくもない}

ということですね。

ただ、

【{生きているならばそれは楽であり楽ではない}且つ{死ぬならばそれば苦しくもあり苦しくもない}という論理を考えることができているのも生きているからである】

ということだけは謂えますよね。

ご提案の例で言うと、自殺してもしなくても困ったことが起きるというディレンマを解消するには、「生きている」をいう前提以外の前提を否定することで、欲望が満たされることはないかどうかを検討するということになります。

【死ぬ】ということは、何も「自殺」に限ったことでもなく、そう、それは「事故」だったり「病気」だったり「寿命」だったりということによる【果てであるところ】に位置付けられるのが【死ぬ】ということでありますので、この(私からの設問例)の場合における【>前提以外の前提を否定することで、欲望が満たされることはないかどうかを検討する】←というのは、言語表現で以ってすると具体的にどのように表現され得るコトガラなのでしょうか?

永井俊哉(2011年7月13日 1:39 PM)

例えば、多額の借金を抱えた貧しい母子家庭があって、母親は、自分の子供に不自由のない生活を送らせてやりたいと思っているとしましょう。この場合、母親が死んでも死ななくても、母親の欲望に矛盾が生じます。

(1) もしも、母親が自殺することを望むと仮定します。母親が死んだならば、母親と共に借金は消滅するが、子供は、育ててくれる親を失い、不自由のない生活を送ることが不可能になります。よって、子供たちが不自由のない生活を送ることを母親が望み、かつ望まないという矛盾が生じます。

(2) もしも、母親が生き続けることを望むと仮定します。母親が生き続けるならば、母親の稼ぎが借金の返済に充てられ、子供は、養育費不足が原因で、不自由のない生活を送ることが不可能になります。よって、子供たちが不自由のない生活を送ることを母親が望み、かつ望まないという矛盾が生じます。

自殺を欲望しても、しなくても、どちらにしても矛盾が生じるのだから、これはディレンマの一例とみなすことができます。もしも、母親が、これまで思いつかなかった何らかの手段を用いることで、生きたまま借金を短期間で返すことができるようになるなら、欲望の矛盾が解消されるので、ディレンマも解消されたということになります。

石黒ティナ(2011年7月13日 6:39 PM)

もしも、母親が、これまで思いつかなかった何らかの手段を用いることで、生きたまま借金を短期間で返すことができるようになるなら、欲望の矛盾が解消されるので、ディレンマも解消されたということになります。

『もしも、母親が、“これまで思いつかなかった何らかの手段を用いる”ことで』←という仮定も【あり】なのでしたら、どうせ多額の借金をするなら、借金の可能機関は何も一箇所ではないので、「生活費に当てる」程度の額を借金するよりも、【智慧の限りを尽くし“これまで思いつかなかったほどの「財産レベルの借金」をし、尚、「子供の生活プラス教育費すべてを借金」でまかない、且つ、「子供には難関校を卒業」させ、且つ、「エリートコースの確信」を得て、且つ「奨学金の申請」をしてから(母親自らは)自殺する】という無矛盾なディレンマ解消法もあるのではないかと思います。

「母親が生き続ける」と仰るところの、その-「生き続ける」-期間というのにも(人であるがゆえに寿命があるということから)それぞれの限度があるとも云えますので、【自分の命の終わりは自分で決める】という意味で以って、もし【矛盾の生じない借金】ということを考えるのであれば、上記のような流れ(方法)も考えられるのではないかと思うところです。

第三章 第一節 サールの言語行為論
ザックス(2006年1月31日 2:05 PM)

“認識は行為であるとともに体験でもあり、現象学のように後者を重視し過ぎると、ある種のイデオロギーとなる”とありますが、志向的体験の重視はどのような意味で虚偽意識なのでしょうか?

永井俊哉(2006年2月2日 9:45 AM)

廣松渉の用語で言うならば、物象化的錯視に陥りやすいということです。

第三章 第二節 ロールズの正義論
国会どん(2007年8月31日 2:54 PM)

「正しいthat is right.」とひとが言うとき、それは言うひとのコミット・承認によって当該状況や対象の実際の存在=that which exit soとは《別な像=that so that》のほうを原因とみなす行為を規制する規則のことだ、と考えることは規範倫理学ではなくメタ倫理学に属するのでしょうか?

永井俊哉(2007年9月2日 2:18 PM)

倫理学が、「何が善いのか」「何が正しいか」を問題にするのに対して、メタ倫理学は、「善とは何か」「正義とは何か」を問題にします。

国会どん(2007年9月3日 4:12 PM)

レスありがとうございます。永井先生の仰る「目的論」とは何らかの目的によって思惟や行為や経験を説明するという理解で良いですか。カントの『純粋理性批判』のアンチノミー論は単一の目的論が必然的に矛盾に陥るゆえに弁証論が必須となると私は理解しています。なんとなれば、超越論的目的論は論理的には弁証法という枠組みにならざるをえないという考えは正しいのでしょうか。複数の目的論による「政治学」のようなイメージです。

永井俊哉(2007年9月3日 8:43 PM)

カントの場合、目的論は機械論の対概念で、『判断力批判』では、両者の二律背反が論じられています。私は、原因/結果関係は手段/目的関係を自然界に読み込んだものに過ぎないと考えているので、原因/結果のカテゴリーを認めた段階で、手段/目的のカテゴリーをも認めたことになると思います。

国会どん(2007年9月4日 8:51 AM)

恥ずかしながら『判断力~』は未読でした。原因/結果関係というのは手段/目的関係の「指標」となる、ということでしょうか。そうであれば、「指標」を分析すれば手段/目的関係が得られるということになりますか。

永井俊哉(2007年9月4日 10:36 AM)

手段/目的関係は、そのまま原因/結果関係です。

安西光彦(2010年8月4日 10:21 PM)

手段/目的関係は、そのまま原因/結果関係です。わたしは、客観をそのまま認めるほどナイーヴではないですが、主観が客観にかぶったものとも思えません。カントの、自然科学に対する、私的失望がありました。それが、彼の、理性批判、科学批判に展開したように思います。

永井俊哉(2010年8月5日 12:40 PM)

目的が実現されたら、結果としてそう言うことができますが、しばしば、ある目的を実現するために、ある手段を講じたにもかかわらず、主観の誤認により、間違った手段を選んでしまい、その結果、その目的が実現しないということがあります。その場合でも「手段/目的関係は、そのまま原因/結果関係です」と言えるでしょうか。

8. 参照情報

  1. “The totality of our so-called knowledge or beliefs, from the most casual matters of geography and history to the profoundest laws of atomic physics or even of pure mathematics and logic, is a man-made fabric which impinges on experience only along the edges. Or, to change the figure, total science is like a field of force whose boundary conditions are experience. A conflict with experience at the periphery occasions readjustments in the interior of the field. Truth values have to be redistributed over some of our statements. Re-evaluation of some statements entails re-evaluation of others, because of their logical interconnections — the logical laws being in turn simply certain further statements of the system, certain further elements of the field. Having re-evaluated one statement we must re-evaluate some others, whether they be statements logically connected with the first or whether they be the statements of logical connections themselves. But the total field is so undetermined by its boundary conditions, experience, that there is much latitude of choice as to what statements to re-evaluate in the light of any single contrary experience. No particular experiences are linked with any particular statements in the interior of the field, except indirectly through considerations of equilibrium affecting the field as a whole." Quine, Williard V. From a Logical Point of View: Nine Logico-Philosophical Essays. 1953. Harverd University Press. p. 42-43.
  2. Hegel, Georg Wilhelm Friedrich. Phänomenologie des Geistes 1807. Felix Meiner Verlag. ed. Johannes Hoffmeister. §.21.