なぜ日本のテレビ番組は芸能人をゲストとして呼ぶのか
スタジオに専門家でもない芸能人をゲストとして呼び、コメントを求めるという日本のテレビ番組でよく見かける光景は、欧米のテレビ番組ではほとんど見かけない。これは、欧米人が客観的真理を重視するのに対して、日本人は真理であるかどうかを他者との同意を通じて確認しようとすることによる。つまり、欧米人が情報番組に客観的な情報を期待するのに対して、日本人は、芸能人が自分たちの心情を代弁して表明し、意見の共有を確認することで安心しようとするということだ。[1]
1. 問題提起
日本の情報番組や教養番組では、番組の内容とは直接関係のない芸能人、作家、スポーツ選手などの有名人(以下、包括的に芸能人と呼ぶことにする)をスタジオにゲストとして招き、VTR を見せて、感想を述べさせるというスタイルが多い。最近では、雛壇芸人と呼ばれる大勢の芸能人が、雛祭り人形よろしく複数段の雛壇に座り、内幕ネタの世間話で盛り上がったりとか、コーナーワイプの手法を取り入れ、VTR 放映中にも画面の片隅に小窓で芸能人の顔を映し出すとか、番組における芸能人の存在が大きくなっており、その結果、報道番組とワイドショー、あるいはドキュメンタリー番組とバラエティ番組の区別がつかなくなっている。
こうした日本ではおなじみの芸能人の活用方法は、欧米のテレビ番組では見られない。報道番組ではスタジオにゲストが招かれることはあるが、そのゲストは専門家や報道している事件の関係者などであり、日本の情報番組のように、何の関係もない芸能人がレギュラー・コメンテイターとして出演し、愚にもつかないコメントをするということはない。また欧米のドキュメンタリー番組では、日本人が VTR と呼んでいるコンテンツだけが放送される。まれに俳優が案内役として出演することはあるが、その役割はスタジオで感想を述べる日本の芸能人とは異なる。では、日本のテレビ番組は、なぜ世界的に特異な形で芸能人を活用しているのか。
日本では芸能人が非常に人気があり、芸能人を多数出演させると視聴率が上がるからだと思うかもしれない。しかし、芸能人に人気があるのは世界共通の現象であり、海外でも、歌、ドラマ、コメディなど、芸能人が本来の仕事をする番組は人気がある。問題は、なぜ日本のテレビは情報番組や教養番組といった場違いの番組に芸能人を出演させるかというところにある。米国では、例えばレディー・ガガのファンは、彼女が出演する歌番組を喜んで見るだろうが、科学系のドキュメンタリーにレディー・ガガがゲスト出演して素人くさいコメントをするなどといったことは評価しない。
雛壇芸人が出演するバラエティ番組が増えた背景には、放送局が予算を減す中、番組制作費を抑える必要があるからだという指摘がある。たしかに、一時間のドラマ一本分の制作費が8000万円ほどであるのに対して、バラエティーなら2000万円から3000万円程度で済む。これに対して、報道番組やドキュメンタリー番組の制作費は、特殊なものを除けば、一千万円程度であり、スタジオに芸能人を呼ばない方が安くつく。比較的ギャラの低い雛壇芸人でも一人当たり最高で50万円程度のコストがかかるのにもかかわらず、彼らを呼ぶのは、視聴者がそれを求めており、たんに VTR を流すだけでは視聴者が満足しないからだと考えなければならない。
その理由は、やはり日本人の特異性に求められなければならない。日本の視聴者が、芸能人の無意味とも思える感想や反応を見ようとするのは、日本人が、欧米人などとは異なり、他者からどう見られているかを常に気にする民族であるからではないだろうか。かつて米国の人類学者、ベネディクトは『菊と刀』で、西欧の文化が罪の文化であるのに対して、日本の文化は恥の文化だと言ったが、もっと一般化して言うなら、欧米人が客観的真理を重視するのに対して、日本人は真理であるかどうかを他者との同意を通じて確認しようとする。だから、テレビを見ている日本人は、芸能人が自分たちの心情を代弁して表明し、意見の共有を確認することで安心しようとするのである。これに対して、欧米人が情報番組に期待するのは客観的な情報だけであり、「すごいですねー」とか「かわいそー」とかいった情報価値ゼロの芸能人の感想など必要としないのである。
私はこれまで「なぜ日本人は幼児的なのか」などで、日本人の民族的特異性は、去勢以前の幼児性を色濃く残しているところにあると主張してきた。日本のテレビ番組の特異性もそれで説明できる。完全な去勢を経た欧米人は、父=神という超越者が啓示する真理を絶対的に信じる。これに対して、去勢が不完全な日本人では、自分と対等な母という鏡像的他者を通じて真理を相対的に共有する。VTR を見て感想を述べる芸能人は、テレビを見ている視聴者を鏡像的に映し出したものと解釈することができる。
こう解釈すれば、なぜ日本では、専門家ではなくて、直接関係のない素人がゲストとして呼ばれるかがわかる。視聴者自身が素人だからである。それなら、芸能人ではなくて、純粋に素人の一般人をゲストに呼べばよいと思うかもしれない。実際、一般人からスタジオ観覧者を募集し、放送中にその人たちに意見を求めるというスタイルの番組もある。しかし、鏡像的他者は憧れの対象である必要があり、憧れて自己同一しやすいという点では、人気芸能人が最適なのである。
かつてテレビは家族団欒で見るのが一般的であったが、今では一人でテレビを見るというケースが増えている。面白いことに、家族団欒の視聴スタイルが一般的でなくなるにつれて、それを代償するかのごとく、雛壇芸人が活躍するようになった。日本のテレビ番組が、多数の雛壇芸人を集めて、仲間内でワイワイガヤガヤと世間話をさせるのは、一家団欒でテレビを見ながら、家族同士でワイワイガヤガヤと楽しく盛り上がっていた古き良き時代の理想的視聴形態を再現するためである。このように、鏡像的他者は、現実の自己をそのまま映し出した分身ということではなくて、憧れの対象となるような、理想化された自我なのである。視聴者は人気芸能人と自己同一し、彼/彼女と会話する雛壇芸人を家族と想定することで、一家団欒でテレビを見ている気分になるのである。
日本のテレビ番組のこのスタイルは、欧米のテレビ番組のスタイルとは異なるが、韓国のように日本のテレビ番組のスタイルをそのまま真似ている国もある。これは、朝鮮文化と日本文化は、前者が肛門期に固着しているのに対して、後者は口唇期に固着しているという相違点はあるものの、ともに去勢以前の幼児性を残しているという点で共通点を持つことによる。姜平元らの論文[3]によると、韓国人は、米国人以上に、他人の視線を気にしすぎることが神経科学的に実証されたとのことである。日本人もまた他人の視線を気にしすぎる民族であり、同じ実験をしたら、韓国人の脳と同じような反応を示すだろう。
最近の若者は、テレビよりもインターネットの動画サイトを見るようになった。メディアが変化しても、他人の視線を気にするという民族性は簡単には変わらない。日本の代表的な動画サイトであるニコニコ動画と海外の代表的な動画サイトである YouTube を比較してみよう。YouTube にもコメントを付ける機能はあるものの、あくまでも動画が主要コンテンツであり、コメントには従属的なステータスしか与えられていない。これに対して、ニコニコ動画では、再生画面上にコメントを書き込むことができる。これはテレビ画面上に芸能人の反応をワイプで表示する機能に相当する。コメントは、しばしば弾幕と呼ばれるぐらい大量に画面を覆い尽くすことがある。コンテンツが見えなくなるほどの弾幕を見ていると、一体視聴者はコンテンツとコンテンツに対する視聴者の反応のどちらを優先しているのだろうかと首をかしげざるを得ない。日本文化は相変わらず恥の文化のままなのである。
日本のテレビ番組においても、芸能人がゲスト出演しない番組もあるので、それらに関する注釈を付記したい。
代表的なものは短時間のニュース番組で、NHK でも民放でも、アナウンサーがニュースを手短に伝えるだけである。しかし、ニュースの背景を掘り下げて解説する長時間の本格的な番組では、芸能人がゲスト出演することが多い。そうした番組はワイドショーと呼ばれるが、日本では主としてワイドショーが、他国では報道番組が果たす役割(in-depth coverage)を果たしている。
教養番組でも、『世界の車窓から』のようなミニ番組を除けば、通常芸能人がゲスト出演する。日本では純粋なドキュメンタリー番組は稀で、他の国ではドキュメンタリー番組が果たしている役割をバラエティ番組が果たしている。例外は、NHK のドキュメンタリー番組で、NHK のドキュメンタリー番組が世界標準の形態をとっているのは、多くの番組を国際共同制作で作っているからである。
国際共同制作(コープロ、International Co-production)は大型番組を制作する上で今や世界的に常識となっています。 経済危機や環境問題に見られるように、世界はますます一体化しています。さまざまな問題について、世界が共通の関心を持っていることが、その背景にあります。
また各国のテレビ局の間では、制作費や制作スタッフを分担することで、より大型で高品質の番組を確保しようという動きが活発化しています。 テレビ番組は、“国内向け”のものから、よりグローバルな存在へと変化しつつあるのです。[4]
もとより NHK も、純粋に国内向けの情報番組では、民放の手法を用いている。
民放のドキュメンタリー番組でも、芸能人がゲスト出演しない番組はある。TBS 系列局で放送されている『THE 世界遺産』はその代表である(但し、ナレータとして俳優が選ばれているのだが)。この番組はソニーの単独提供で、ソニーは、世界遺産の美しい映像をハイビジョンや 3D といった自社が提供する先端的な AV 機器で楽しんでもらうためのサンプル番組として使っており、これはかなり特殊なケースである。
なお、ワイドショーは和製英語であるが、バラエティ番組はそうではない。しかしながら、英語圏には、日本のバラエティ番組と同じような番組はない。英語圏のバラエティ番組は、歌、踊り、コメディ、トークなどを組み合わせた総合的な娯楽番組で、チャンネル数が限られていた時代に、できるだけ多くの視聴者の関心を惹きつけるべく採用されていたフォーマットである。ケーブルテレビや衛星放送が普及し、歌、踊り、コメディ、トークそれぞれの専門番組ができると、視聴者はどっちつかずのごちゃまぜ番組を見なくなり、今ではバラエティ番組はすっかりはやらなくなった。多チャンネル化の流れは日本でも起きているが、それにもかかわらず、バラエティ番組がいっこうに衰えないのは、同じ「バラエティ番組」という名前でも、その内実が異なるからである。
永井さんのお話を興味深く読みました。いちいち合点が行く内容だと思います。日本人の幼児性という概念で、日本人・日本文化の特異な部分をかなり広範囲に説明できると思います。「幼児性」からは文字通り子供じみたあるいは幼稚なという現象がまず連想されます。分別ある年齢に十分達している筈の成人が、本来子供とはとても言えない年齢の女性達による、中学生の学芸会並み(私にはそう見える)の遊戯にエロティシズムを加味したパォーマンスに興じたり、マンガやアニメにいつまでものめり込んだりする姿は、やはり幼稚で子供じみて見えます。「カワイイ」が世界(の成人)に通用する文化だとは到底思えません。このコラムは芸能人の話ですが、TVなどで芸能人が多用する「カーワイーイ」とか「オーイシーイ」などの言葉・表現は、殊更に自己を幼児化して自らを弱者に見せる行為なのでしょう。これは特に女性に顕著なので、白痴美を求める男性の性欲・支配欲を刺激する意図もあるのかもしれません。これらの自国の現象には何か馴染めないものがあります。欧米をより自我の確立した(去勢体験のある)文化圏とすれば、比較において日本人には欧米では恐らく一般的ではない幼児性が明らかにあると思います。
但し、永井さんの本コラムのご趣旨はそこにあるのではなく、(ネオテニーの属性である)「幼児性」で説明のつく日本人の他人依存のことだと思います。ベネディクトが「恥の文化」と言い、土居健郎が「甘え」と言ったように、永井さんの「幼児性」も説得力がありますし、実は同じ様な普遍的真理を言っているのだと思います。例えば永井さんは天皇のこともよく話題にされますが、日本人の多くが皇室を崇めるのも幼児性で説明がつきそうです。日本人の皇室崇拝は多くの場合無条件・無批判です。将門、頼朝、信長やマッカーサーが違う運命に進んでいたら、今日の日本人の幼児性にも変化があったのではないかと思います。
ひとつ申し上げたいのは、「幼児性があるから悪いのだとは言えない」というおっしゃりようについてです。折角そこまで深く掘り下げられているのに、この表現はやや興醒めです。小型製品やアニメ・漫画を創り出す能力などを積極評価して、どれだけ意味があるでしょうか。大げさにいえば、守るべき民主主義や自由・正義に対し、幼児性は邪魔にならないのでしょうか。「大人になろう」と言い切られては如何。幼児性を克服した後に来る文化も、賢い日本人なら上手に進めていくのではないでしょうか。
slow dokucho さんが書きました:
分別ある年齢に十分達している筈の成人が、本来子供とはとても言えない年齢の女性達による、中学生の学芸会並み(私にはそう見える)の遊戯にエロティシズムを加味したパォーマンスに興じたり
これは AKB48 のことを言っているのでしょうか。秋元康が以前手がけていたおニャン子クラブは、本物の女子高生が主体でしたが、素人くさい女子高生がテレビに出ていきなり人気になったあたりに日本人男性の嗜好を見て取ることができます。
slow dokucho さんが書きました:
欧米をより自我の確立した(去勢体験のある)文化圏とすれば、比較において日本人には欧米では恐らく一般的ではない幼児性が明らかにあると思います。
精神分析学の創始者であるフロイトはユダヤ文化圏およびヨーロッパ文化圏に属する人で、自分が属する特殊な文化を普遍的と認識していたようです。この文化圏の人々が世界で指導的地位にあることから、その価値観を基準とすることには一定の合理性がありますが、父親の役割は、他の文化圏では、フロイトが考えるほど大きくはないので、フロイトの精神分析学は普遍的とは言えません。だから私は、研究者のはしくれとして、ユダヤ文化やヨーロッパ文化を相対化しつつ、精神分析学をもっと普遍化させなければいけないという問題意識を持っています。
slow dokucho さんが書きました:
小型製品やアニメ・漫画を創り出す能力などを積極評価して、どれだけ意味があるでしょうか。大げさにいえば、守るべき民主主義や自由・正義に対し、幼児性は邪魔にならないのでしょうか。「大人になろう」と言い切られては如何。幼児性を克服した後に来る文化も、賢い日本人なら上手に進めていくのではないでしょうか。
たしかに主体性のない日本の幼児的な政治や外交とかを見ていると「もっと大人になれ」と言いたくなることもあるのですが、地球上に多様な文化が存在することは、人類全体のリスク分散になるから、多様な文化は多様なままでよいと現状肯定するのが私の基本的なスタンスとなっています。
返信ありがとうございました。
ひとつだけ例をあげますと、駅のホームで「XX駅で人が線路に入ったため目下安全確認中です、このため電車の到着が遅れています」というよくあるアナウンスがあったとします。そのあと決まって「お忙しい中皆さまには大変ご迷惑をおかけしております、心よりお詫びもうしあげます」の様な例の「謝罪」があります。ちょっと考えれば、常識的には客が線路に入ったのだろうし、それは鉄道会社の責任とは言えないだろう、鉄道会社は客の安全を図るための運行責任を誠実に全うしようとしており、客としては鉄道会社に感謝することはあっても彼らに謝罪させる筋ではないはず、ということになると思います。聞いている人々がどう思うかわからないのですが、これが問題視されたという話は聞かないので、おそらく「それでよい」という行為・現象なのでしょう。
「謝罪」についてはそれこそ政治・外交を含め実に様々な論議がおこりますが、上記の話はごく卑近な例であり、それだけ日本人の文化に深く根付いていると思いますし、異文化の人から見るとなぜだろうと不思議に思う現象の一つではないかと思います。なに、日本における謝罪というのはapologyとは違うのだ、鉄道会社は単に儀礼で言っているだけだ、「これはつまらないものですが」と言って進物を差し出すのと同じことだ、という見方もあるかもしれません。しかし、私は鉄道会社はやはり文字通り謝罪しているのだと思います。即ち、責任の所在は別として(実は自分にはないのだが)、電車の到着が遅れたことが結果として客に不快の念を抱かせた、鉄道会社は自らの業務の範囲内で他人に不快の念を抱かせてはならないという絶対律があり、これが起こってしまったら謝罪して(自分が恥をかいて)取り除かなければならない、ということではないでしょうか。客としては不快感が謝罪(鉄道会社に恥をかかせること)によって癒されて「それでよい」ということに収まることになります。
誰かが(誰でもよいから)恥をかくことによって問題を解決するというのは、因果関係を無視し責任を不明確にすることであり、そこには甘えがあり極めて幼児的な発想ではないでしょうか。私はそれに加えて、問題の真の原因となった線路に入った人の責任が全く忘却されてしまうという、unfairなものを感じます。冤罪を憎む気持ちは恐らく万国共通で、当然日本人にもある筈です。その正義感があるならば、上記の例でいかに正義が曲げられているかに思い至るべきでしょう。永井さんは政治・外交面では「大人になれ」と言いたくなると言われましたが、日本人が「大人になるべき」分野はもっとずっと広いような気がします。
御指摘の件は、日本文化の特異性の一つとしてよく話題になることです。日本人は、他人をどかせてそばを通る時ですら「ちょっとごめんなさい」とか「すみませーん」とか言うけれども、それらは、挨拶と同じぐらい日常的な言い回しで、謝罪という言葉を使うのは適切ではありません。日本人が口にする「ごめんなさい」や「すみません」には、謝罪という外来語よりも、お詫びという和語の方がしっくりきます。
日本語の「お詫び」は「わぶ」に由来しますが、この語は、古語においては、悲しむ、困る、寂しく思うといった心的状態を表す言葉で、謝罪するという意味はありません。たんに他者の悲しむ、困る、寂しく思うといった心情に同情するだけです。日本人は、良好な人間関係を維持するために、頻繁にお詫びをしますが、だからといって頻繁に賠償金を支払うことはありません。日本の駅員は、外国の駅員とは異なり、電車が5分遅れただけでお詫びのアナウンスを流しますが、だからといって乗客に金一封を手渡すということはしません。
日本人が米国のような訴訟大国に行くとき、しばしば「安易にアイム・ソーリーと言うな」という忠告を受けます。自動車の衝突事故を起こして、相手を慰めようと日本式に「アイム・ソーリー」と言えば、自分に落ち度があったことを認めたことになり、賠償金を支払わされるはめになります。そういう意味で、私は、侘びと謝罪は区別するべきだと思います。侘びることが、他者の主観的感情を鏡像的に自己の主観的感情へと反映し、感情を共有することで共同体的な満足を得ることであるのに対して、謝罪することは、自分の罪を客観的基準で認定し、それを貨幣などの普遍的な基準で測定される等価値の代替で補償することです。
日本人の美意識はしばしばわび・さび(侘・寂)で表されます。侘びは本来否定的な感情のはずですが、侘しい感情の共有は肯定的に捉えられ、美しいとすら意識されます。震災報道で、日本のメディアがやたらと「被災者の気持ち」に同情しようとするのはそのためでしょう。
福島原発の事故が起きて、総理大臣が体育館に避難している被災者のお見舞いをした時、ある避難民が「総理、一度ここに泊まって、避難生活をしてみてください。そうすれば、どれだけ私たちがつらい思いをしているかがわかります」というような発言をしているのを聞いて、これは極めて日本的な要請だと思いました。一国の指導者にあのようなリクエストをする民族は他にあまりないのではないでしょうか。たしかに、総理大臣が避難民と同じ生活をすれば、避難民のニーズがどこにあるのかが理解できるでしょう。しかし、多忙を極める総理大臣がそのような時間のかかることをしなくても、避難民に欲しい物のリストを作ってもらった方が時間効率が良い。にもかかわらず、被災民が総理大臣に自分たちと同じ境遇と感情を追体験させようとしたのは、彼らが求めていたものが物質的な満足ではなくて、精神的な満足だったからでしょう。
このトピックの本題に戻りますが、日本人が頻繁にお詫びするのも、ゲスト出演している芸能人が VTR を見て視聴者の気持ちを代弁するのも、他者との感情の共有を通じて共同体的な満足を求める日本人の性向ゆえと考えることができます。
「日本に住み日本を愛する外国人記者たち」(主として欧米人)が、「日本は大好きだけど、ここだけは最悪にイケてない!」と思う10のことの中に、日本のテレビ番組が入っている。日本人がテレビに共感を求めるのに対して、外国人は新鮮な情報を求めているという違いが背後にあるのだろう。やり玉に挙がっているのは、芸能人が出演するグルメ、バラエティ、ドタバタ喜劇である。
日本は、これまでずっと世界中に素晴らしいアニメを提供してきたし、海外には日本のドラマを愛するファンもいる。だが、テレビ番組の多くはイケてない。
料理番組やトーク番組、お笑い番組……など、その多くが退屈で、出演者や観客たちの決まりきった反応も面白味を感じない。例えば、何かを食べるシーンでは、まず食べ物を持った手元がクローズアップされ、口に入れた3秒後には必ず「ウマイ!」と叫ぶ。残念だけど、日本のテレビ番組は本当にイケてない。[5]
英語版のオリジナルはもう少し詳しく書いている。
If you’re into variety shows with panels of the same B-list celebrities week after week, each with carefully crafted lines and jokes to reel off (and reactions to others’) and audience members shouting “Eeeeeee~!” to express their amazement and disbelief at least ten times per show – all presented in a format that looks like the network just splashed out on some new graphics software and is damn well going to get its money’s worth – then you’re in for a real treat.[6]
毎週同じような面々のB級セレブがバラエティにパネル出演して、事前に用意したネタ話を披露しては、観客が「エェー!」と大げさに叫ぶシーンを毎回十回繰り返すという猿芝居に外国人はうんざりしているようだ。
ニュース番組へのタレントの起用は、芸能情報をニュースとして報じることと同様に、外国人の目には異様に映るらしい。
ニュースで扱われるのも芸能人なら、ニュースを扱うのも芸能人。ニュースや情報番組のMC・コメンテーターにタレントが起用され、したり顔で意見を述べるのも外国人には異様に映るという。
「アメリカでは、政治やニュースに芸能人がコメントすることはありません。私は日本のニュース番組を見ながら、“どうしてこの人のコメントを聞かなきゃならないの?”と思うことがしょっちゅうあります。例えば政治のニュースなら、当然政治に詳しい人に解説してほしい。
自分が知らないことを知りたいからテレビを見るんですから。芸能人は一般の視聴者と同レベルの感想を述べているだけ。もしアメリカでそういう番組を作ったら、誰も見なくなりますよ」(『ニューヨーク・タイムズ』東京支局長のマーティン・ファクラー氏)[7]
違いは、米国人がニュース番組に情報を求めるのに対して、日本人は共感を求めているところにある。
もう20年以上も昔のことですが、週刊新潮にこんな記事がありました。
当時 欧州には、国営放送はあるけれども、民放がない国があったそうな。当然 民放を開設しようとする者がいるのだが、それに反対する者の殺し文句が「日本のようになってもいいのか」であったそうな。
この話の真偽はともかく、いわんとすることには同意せざるをえない。
しかし、大多数の者が見ている番組を自分だけが見ていないと、学校でも職場でも爪弾きにされるんだよね。(デ・ファクト・スタンダードってやつですか、違いますか・・・)
番頭、手代、その他の商業使用人が、毎朝 日経を読むのも同じ現象ですね。
ペンペン さんが書きました:
大多数の者が見ている番組を自分だけが見ていないと、学校でも職場でも爪弾きにされるんだよね。(デ・ファクト・スタンダードってやつですか、違いますか・・・)
私は高校生の頃テレビを全く見なかったので、友達たちの芸能人の話題にはついていけませんでした。「伊藤つかさ」を知らないどころか、それが男か女かすらわかっていないとからかわれたものです。でも現在の若者はテレビを見ないから、テレビの芸能人を知らないからといって仲間外れになることはないでしょう。でも、その代わりに、インターネットの動画サイトを見るようになっているので、最近の若者たちの話題作りに必要なのは、ユーチューバーと呼ばれているネット上の芸能人なのかもしれません。例えば、今の小学生の間では、ヒカキンという芸人が人気で、100万人以上が視聴登録をしています。あれだけ多くの人が見ているのは、知らないと仲間外れになるからという理由で見ている人も含まれているからでしょう。
こういうのまでをデ・ファクト・スタンダードと呼ぶのはどうかと思いますが、「多くの人が見ているから多くの人が見る」というポジティブ・フィードバックが働いているのは確かです。
2. 参照情報
- 難波義行『一流芸能人がやっているウケる会話術 場を盛り上げ相手を楽しませる話し方』ゴマブックス株式会社 (2016/5/31).
- 山田ルイ53世『一発屋芸人列伝』新潮社 (2020/11/30).
- 怖い話研究会芸能部『テレビでは流せない芸能界の怖い話【事務所NG編】』TOブックス (2013/7/1).
- ↑ここでの議論は、システム論フォーラムの「なぜ日本のテレビ番組はスタジオに芸能人をゲストとして呼ぶのか」からの転載です。
- ↑“Aufzeichnung von „Kripo live“ im Studio 1 des MDR 2005" by Tilo Mittelstrass. Licensed under CC-BY-SA
- ↑Kang, Pyungwon, Yongsil Lee, Incheol Choi, and Hackjin Kim. “Neural Evidence for Individual and Cultural Variability in the Social Comparison Effect.” The Journal of Neuroscience: The Official Journal of the Society for Neuroscience 33, no. 41 (October 9, 2013): 16200–208.
- ↑NHK 国際共同制作「国際共同制作って何?」
- ↑むねやけサンデー. “日本に住み日本を愛する外国人たちが嘆く「日本が最悪にイケてない10のこと」" 『ロケットニュース24』2013/11/28.
- ↑Philip KendallPhilip. “10 things Japan gets horribly wrong" . RocketNews24 2013/11/06.
- ↑ニュース番組へのタレントの起用 外国人の目には異様に映る│NEWSポストセブン 『週刊ポスト』2014年12月5日号
ディスカッション
コメント一覧
日本のテレビ番組は身内がワイワイ楽しんでいるのが多い。身内で盛り上がっている。テレビの私物化?
ソーシャル・メディア上でのやり取りももそういう感じなので、それに合わせているのではないでしょうか。
今の若い人は、だんだんテレビを見なくなってきているそうなので、団塊ジュニアが死に絶える頃には、このような低俗なテレビ番組も消滅していることだろう。
最近の太田光や谷原章介が馬脚を現わした話題など、まさにこのテーマピッタリの出来事ですね。専門知識が乏しく底の浅い芸能人がやたら貴重な公共の電波上に登場して知ったか振りに偉そうなコメントをし、ただ個人の感情をぶつける姿は見るに堪えません。時事に関して和田アキ子の倫理観や梅沢冨美男の激怒、デビ夫人の嫌悪感等々を聞かされても、殆どの場合新鮮な情報としての価値はおっしゃる通り皆無であって、それらに共感する或いはしたいと思う心情は甚だ幼稚に見えます。
何故こういう情景が日本に特徴的に現れるのか、「日本人は他人(芸能人)との共感を通じて真理を確認しようとする」ことは間違いないと思いますが、それは嘗てマッカーサーに精神年齢が12歳と言われた日本人が、今日に至っても未だ自律出来ていない証左ではないかと懸念します。またその淵源はあるいは日本人社会に巣食う「ムラ社会」の伝統にあるのではないかと思う次第です。
芸能人の中には「~大学の教授」の肩書の人物よりも専門的な知識量が豊富な人もいます。中には芸能人本人が客員教授・客員講師の役職であることもあります。
例えば歴史関係のニュースでは「高学歴芸能人」がコメントを出すことも半ば当たり前に。
「朝まで生テレビ」でも芸能人がもっと参加してもいいと思います。
失言に気を付ければ可能な限りコメントを求めてもいい(電話取材の方式にすれば生放送中のコメントに限定する必要もない)と思います。
いっそのこと、欧米のように芸能人が単独で司会役をする「ワンマン・トーク」方式の番組をもっと作ればいい(日本の芸能人でこれに長けている(=「1人だけで語りをする方式」でも話術が得意な芸能人)のはタモリさんやビートたけしさん。女性だと黒柳徹子さん)のかもしれません。