7月 262002
 

生贄もスケープゴートも、罪なくして犠牲となるという点で共通点を持つものの、その機能と排除のベクトルが異なっている。両者の相違を分析しつつ、なぜ現代人が、生贄を捧げることをやめ、代わりにスケープゴーティングをし続けるのかを考えよう。

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“The Scapegoat” by William Holman Hunt (2 April 1827 – 7 September 1910).

1. 生贄とスケープゴートの起源

スケープゴート(scapegoat)とは、“the goat allowed to escape”、つまり「追放された山羊」という意味で、その起源は、聖書の次の一節にあるとされている。

アロンは二匹の雄山羊についてくじを引き、一匹を主のもの、他の一匹をアザゼルのものと決める。アロンはくじで主のものに決まった雄山羊を贖罪の献げ物に用いる。くじでアザゼルのものに決まった雄山羊は、生きたまま主の御前に留めておき、贖いの儀式を行い、荒れ野のアザゼルのもとへ追いやるためのものとする。

[聖書, レビ記,16:08-10]

この短い一節に、生贄とスケープゴートの違いがはっきりと書かれている。主(ヤハゥエ)のために屠られ、捧げられる雄山羊が生贄であるのに対して、スケープゴートはアザゼルのもとへと追放される雄山羊である。アザゼルが何であるかはっきりしないが、主との対比で登場するので、悪魔的な存在であると想像できる。

「生贄」は、「生きている贄」という意味である。「贄」は「人と会見するときに贈る礼物」のことである [字通] が、祭事では、神と会見するときに贈る礼物である。英語では、“sacrifice”に相当するが、この語は、「捧げる、神聖なものとして拝する、不死にする」という意味のラテン語“sacrare”に由来する。

2. 供犠とスケープゴーティングの相違

スケープゴーティング(スケープゴートを抹殺すること)は、これまで何度も説明してきたように、システムのエントロピーが増大し、システムと環境の境界があいまいになったとき、境界上の両義的存在者を排除することによってシステムのエントロピーを縮減する、システムの自己維持作用である。これに対して、供犠(生贄を屠ること)は、貴重な動物や人間を捧げること神の怒りを鎮めたり、神を喜ばせたりするために行われる。

両者の違いは、どのような存在者が犠牲になるのかを見ると、はっきりしてくる。スケープゴートの典型例がナチスによるユダヤ人迫害であるのに対して、供犠の典型例は、カルタゴで行われた子供の人身御供である。古代のカルタゴ人が、初子(最初に生まれた子供)を生贄として神に捧げていたことは、現地の伝説やローマ人による記録を通して古くから知られていたが、これがたんなる伝説でないことは、カルタゴ人にとっての聖域であったトフェの墓地に、生贄となった羊の骨とともに幼児の骨が埋葬されていることから明らかである。古代人は、犠牲にする生贄が大切なものであればあるほど、神が喜ぶと信じていた。カルタゴ人が自分の子供を犠牲にしたのは、我が子がもっとも大切な所有物だったからなのだ。これとは対照的に、ナチスドイツがユダヤ人を殺戮したのは、彼らが存在する価値すらない劣等民族だとヒトラーが考えたからだ。

自分の初子を神に捧げるという習慣は、古代エジプトにまでその起源をたどることができる。『死者の書』によると、エジプトには、初子を小さく刻んでなべで焼くという伝統があった。『旧約聖書』では、神とイスラエルの民との契約として、初子をヤハウェの祭壇に捧げることが記されている。

あなたの初子をわたしにささげねばならない。あなたの牛と羊についても同じようにせよ。七日の間、その母と共に置き、八日目にわたしにささげねばならない。

[聖書, 出エジプト記,22:29]

どちらの地域でも、後に羊が身代わりとして生贄となった。そのことは、アブラハムが、ヤハウェに命じられたとおり、我が子イサクを屠ろうとしたところ、ヤハウェの天使に止められ、代わりに雄羊を提供されたという、旧約聖書に登場する、有名な逸話に象徴されている [聖書, 創世記, 22] 。

では、なぜ古代の地中海人は、新穀や羊の初仔だけでなく、大切なはずの初子までを神に捧げたのだろうか。それは、旧約聖書に書かれているとおり、彼らが、穀物であれ家畜であれ子供であれ、最初の収穫物は神の所有物で、神のものは神に返すべきだと考えていたからだ。

肉体を一時的な住処とみなし、霊魂の不滅を願い、また信じていた当時の人たちは、霊魂を本来の場所に戻すことを、来世を信じない現代人がそう感じるほどには、残酷なことと思わなかったに違いない。彼岸と此岸の境界上に位置する、霊的であると同時に肉的でもある両義的存在者を屠り、彼岸のネゲントロピーを増大させることにより、神を喜ばせ、神の恩寵に与ろうとすることが供犠だと定義することができる。

こう定義すると、供犠とスケープゴーティングとでは、中心/周縁関係が逆であることに気がつく。前者においては、中心は彼岸に超越する神であり、供犠を行う人々は、自分たちを、謙虚にも、罪深く穢れた周縁である此岸に位置付けている。これに対して、後者では、中心は自分たちであり、罪深いスケープゴートは穢れた周縁へと追放される。穢れを排除する方向が逆なのだ。

供犠型と迫害型は、あくまでも理念型であり、実際には二つの側面を持つ中間的なスケープゴーティングも存在する。例えば、16世紀まで存在していたアメリカのアステカ帝国では、戦争の捕虜を生贄として祭壇の上に横たえ、黒曜石のナイフでその胸を突き刺し、ぴくぴくと動く心臓を取りだし、太陽に向かって捧げる儀式を行っていたが、このスケープゴーティングは、捕虜という両義的存在者(内に存在する外敵)を抹殺するという点ではスケープゴート的であり、太陽を象徴する心臓を、生贄の聖俗両方の性質をもつ両義的身体から切り離して太陽に捧げるという点では供犠的でもある。

3. なぜ現代人は供犠をしなくなったのか

アステカ帝国は、大規模な人身御供の儀式を続けた最後の文明であった。今日、人身御供は、仮に行われているとしても、一部の辺境の地域でしか行われていない。供犠からスケープゴーティングへというのが歴史の流れである。とりわけ近代以降、彼岸の超越的存在であった subjectum が人間の主体を意味するようになって以来、人間はもはや自己を周縁にではなく、中心に位置付けるようになった。神を殺し、自らを神の地位にまで押し上げようとするようになってからは、超越的な神のために生贄を捧げるのではなく、自分たちのための生贄を要求するようになった。

スケープゴーティングは、宗教を信じる無知蒙昧な連中による迷信的行為だという考えは間違っている。スターリンは唯物論者で、神のために生贄を捧げることはしなかったが、まさに神を信じないがゆえに自己を神格化し、革命に対する裏切り者という両義的存在者を、社会不安を惹き起こすスケープゴートとして粛清することに血道を上げていた。供犠からスケープゴーティングへという時代の流れは、人類がそれだけ傲慢になったということの表れなのである。

読書案内
書名聖書―新共同訳
媒体文庫
著者共同訳聖書実行委員会 他
出版社と出版時期日本聖書協会, 1996/01
価格¥ 2,940
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