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日本は覇権国になりうるのか

2008年9月24日

現在、覇権国家として、世界で支配的な権力を握っているのは米国である。将来、多くの人がそう予想するように、中国が、米国に代わって覇権国家となるのだろうか。かつて有力な候補だった日本が覇権国家となることはもはや不可能か。過去の覇権国家の盛衰から、覇権国家の法則を導き出し、それに基づいて、これらの問題を考えてみたい。

Image by Iván Tamás + OpenClipart-Vectors+ Relentless from Pixabay modified by me

1. 覇権国家の条件は何か

ここで、私は、覇権国家(hegemony)という言葉をウォーラーステイン(Immanuel Wallerstein)が使った意味で使っている。ウォーラーステインは、中核(core)と周縁(periphery)によって差異化された世界システムにおいて、単独で世界システムの経済と政治を支配する最強の中核を、特に覇権国家(hegemony)と呼んだ。第二次世界大戦以降の覇権国家は、言うまでもなく、米国である。では、米国の覇権は、今後も続くだろうか。

1.1. 中国は将来覇権国になるか

ドイツのベルテルスマン財団が、2005年に世界の主要国を対象に行った調査によると、2020年に世界の強国(world powers)としての地位を持つことが、多くの人によって予想される国は、1位が米国(57%)、2位が中国(55%)、3位が日本(32%)、4位がEU(30%)、5位がロシア(26%)であった[1]

この割合は、2005年時点での認識と比較すると、米国は24%減で、中国は10%増である。この調査からもわかるように、多くの人は、将来、米国の覇権が衰退し、中国が新たな覇権国家として浮上すると予測している。特に、中国人の返答だけに限定すると、2005年現在での強国としての現状認識は、米国(84%)の方が中国(44%)よりもはるかに高いが、2020年での予測は、中国(71%)の方が米国(42%)よりもずっと高くなっている。

著名な投資家、ジム・ロジャーズも次のように言っている。

中国は、次の大国となるだろう。19世紀は英国の世紀だった。20世紀は米国の世紀であった。21世紀は中国の世紀となるであろう。[2]

多くの人がこう予想する理由は、成長著しい現在の中国の経済力である。IMFによると、中国の購買力平価ベースのGDPは約7兆ドルで、約14兆ドルの米国に次いで、既に世界第二位である[3]。中国の経済成長が著しいことから、2026年には、中国の購買力平価ベースのGDPは米国のそれを追い越すかもしれないとする予測もある[4]。中国が今後も現在の経済成長のスピードを維持することができるかどうかは、はなはだ疑問であるが、では、もしも、中国のGDPが、購買力平価ベースで、さらには名目でも、米国のそれを追い越したなら、そのとき、中国は米国に取って代わる覇権国家になれるだろうか。

image
世界に占めるGDPの割合の変化[5]。過去の実績から、将来中国がGDP世界一になって、覇権国になると予想する人がいる。

1.2. GDP世界一は重要ではない

私はそうは思わない。なぜなら、GDPが世界一であることは、覇権国家であるための必要十分条件ではないからだ。英国は、1815年にライバルであるフランスに最終的に勝ってから、1873年に成立したドイツ帝国を新しいライバルとして迎えるまでの間、覇権国家として世界に君臨したが、アンガス・マディソンの推定によれば、その黄金時代の間ですら、「世界の工場」である英国のGDPが中国のGDPを超えたことはなかった[6]。しかしながら、この当時の中国が、とりわけアヘン戦争(1840年)敗北後の清王朝が、いくらGDPが世界一だとしても、覇権国家としての地位を持っていたとはいえない。

一般的に言って、GDPという尺度で測ると、国土が広くて、人口が多い国の方が有利になる。私たちは、ともすれば、覇権国家や超大国と聞いて、米国や旧ソ連や中国など、広大な領土と膨大な人口を持った国を思い浮かべがちであるが、英国やオランダといった、かつて世界の海を支配した覇権国家は、領土も人口規模も小さい国であったことを考えると、覇権国家の条件を考え直さなければならないであろう。

覇権国家の条件としては、GDPよりも1人当たりのGDPの方が重要である。以下のグラフは、主要国の1人当たりのGDP(購買力平価ベース)の世界平均に対する倍率の歴史的推移を描いているが、これを見ると、オランダ→英国→米国という覇権国家の推移が、対世界倍率の高さとなって現れていることに気がつく。

Angus Maddison
一人当たりGDPの歴史的推移[7]

もとより、1人あたりのGDPだけで覇権国家かどうかが決まるわけではない。ルクセンブルクは1人あたりの名目GDPが世界一だが、この小国が覇権国家だと思う人はいない。

1.3. 覇権国家盛衰の三法則

では、覇権国家の条件は何か。世界を支配する権力の源泉は何か。権力には、文化資本、経済資本、政治資本という三つの源泉がある。覇権国家は、科学技術力、経済力/金融力、政治力/軍事力という三種類の権力において、他の国に対して優位にあるのだが、私は、過去の覇権国家の盛衰から判断して、科学技術力の優位が経済力/金融力の優位をもたらし、経済力/金融力の優位が政治力/軍事力の優位をもたらすと考えている。

通常の世界史の説明では、覇権国家の盛衰は、戦争の勝敗で説明される。例えば、「スペインは、アルマダの海戦で英国に敗れたので、覇権を失った」とか「オランダは、三回にわたる英蘭戦争に敗れて覇権を失った」とか、「フランスは、英国との第二次百年戦争に敗れたので、覇権国家になることができなかった」とか、「ドイツは二回の世界大戦で敗れたので、覇権国家になることができなかった」といった説明がそうである。しかしながら、覇権国家の盛衰は、戦争の勝敗だけでは決まらない。英国は、二度におよぶ世界大戦に勝ったが、世界大戦に勝利するたびに、覇権国家の地位から転落した。

戦争の勝敗は、覇権国家の盛衰に対して、二次的な影響しか与えない。一次的な影響を与えるのは、先端的な産業における主導権である。私は、この観点から、覇権をめぐる列強の争いを、次の三法則で説明してみたい。

  1. その時代が要求する先端技術のパラダイムで主導権を握った国が、覇権国家となる。
  2. 先端産業の担い手を迫害する国は権力を弱め、彼らが移住した国は権力を強める。
  3. 古い技術から新しい技術へとパラダイムが変化する時、古いパラダイムで成功した国は、変化に乗り遅れやすくなる。

2. 先端産業で主導権を握った国が覇権を握る

大航海時代になって世界が一体化してから、さまざまな列強が覇権をめぐって争った。大航海時代の先駆者は、ポルトガルとスペインだが、ウォーラーステインは、ポルトガルやスペインは、当時、イタリアの都市国家やアジア/アラブの世界帝国に対して圧倒的な力をもっていたわけではないので、中核ではあっても覇権国家ではないと考えていた。近代の世界システムにおける最初の覇権国家は、オランダであり、その次は英国であり、その次は米国である。これらの国は、なぜ覇権国家となることができたのか。

2.1. オランダの事例

世界で初めて近代的な市民革命と産業革命を起こして、資本主義国家となったのは、英国ではなくて、オランダだった。この解釈は一般的ではないが、それは、今日にまで続く学界でのアングロサクソンの覇権のおかげである。よく言われるように、歴史は勝者によって書かれる。英国人たちは、オランダ人のまねをしたにもかかわらず、オランダが世界の近代化と資本主義の成立において果たした先駆的役割を過小評価することで、自分たちの業績を過大評価させようとしているのである。

今日のオランダとベルギーは、かつてネーデルラント(低地)と呼ばれ、スペインの支配下にあった。1568年に、オラニエ公ウィレムが指導者となって、スペインに対して反乱を起こし、1579年に、ネーデルラントの北部7州がユトレヒト同盟を結成し、ネーデルラント連邦共和国が成立した(以下、慣例に従って、オランダと呼ぶ)。スペインという絶対主義的国家に対して、新教徒のブルジョワたちが中心になって行ったこの独立戦争は、ピューリタン革命やアメリカ独立戦争と同様に、市民革命と呼ばれてしかるべきである。

もしも産業革命(the Industrial Revolution 工業革命)を、手工業から人間や家畜以外の動力源を用いた工場制機械工業への移行と定義するならば、世界で最初の産業革命は、オランダで起きたと言ってよい。1594年に、コルネリスゾーン(Cornelis Corneliszoon)は、風力で動くのこぎりを開発した。のこぎりの動作は正確かつ強力で、これが船舶の大量生産を可能にした。オランダは、風車工場で、大航海時代に増大した船舶の需要に応えた。風車は、これ以外にも、灌漑、毛織物の縮絨、穀物の製粉の動力源として用いられた。ワット(James Watt)が最初の商用蒸気機関を作ったのは、1776年であるから、オランダの産業革命は、英国の産業革命に200年近く先行していたことになる。

オランダは、1602年に東インド会社を設立したが、これは、世界初の株式会社であった。1531年にアントワープで開設された市場では、世界初の先物取引が行われた。これは、1730年に大阪の堂島米会所で始まった先物取引に200年近く先行していた。もとより、アントワープは、現在ベルギーの北部に位置し、オランダには属さない。だから、ネーデルラントの北部7州がスペインから独立してからは、交易と金融の中心は、アントワープからアムステルダムに移った。アムステルダムは、ロンドンにその地位を奪われるまでは、世界の交易と金融の中心であった。

オランダは、あらゆる面から見て、世界初の近代資本主義国家だった。オランダが覇権国家になることができた理由としては、ネーデルラントはもともと毛織物産業が盛んで、気温が低下し、衣類の需要が増加した近代小氷期が有利に働いたということを挙げることができるが、風力を動力源とする産業革命によって生産性が向上したことが、オランダの覇権の源泉になっていたという事実はあまり知られていない。

2.2. 英国の事例

英国は、オランダより遅れて、1642年の清教徒革命、1688年の名誉革命といった市民革命を経て、ブルジョワ経済に移行した。英国では、産業革命に先立って、18世紀に農業革命が起きた。これは、ノーフォーク農法と呼ばれる輪栽式農業による生産性の向上のことなのだが、同様の農業革命は、オランダで、ずっと以前から起きていたことであった。英国の海上帝国は、オランダの海上帝国をのっとる形で築かれた。

こういうと、まるで英国はたんにオランダのまねをしただけのように見えるが、英国は、オランダが成しえなかった重要なイノベーションを成し遂げた。オランダは、動力源として風力を使ったが、英国は、石炭火力を用いた。オランダが素材として木を用いたのに対して、英国は鉄を用いた。オランダが毛織物産業に終始したのに対して、英国は機械生産が可能な綿織物産業を発展させた。

動力源を風力に依存すると、オランダのような、風力が強いところに利用が限定されてしまう。石炭火力による蒸気機関なら、どこでも利用できるし、船や鉄道のような可動体にも使える。英国は、燃料源を木炭から石炭へと変えると同時に、石炭を利用したコークス製鉄法により、良質の鉄鋼を量産するようになった。こうした産業革命による一連の技術革新が、英国の覇権を可能にしたことは、言うまでもない。

2.3. 米国の事例

1815年に、英国は、ナポレオン戦争を終結させ、長年覇権をめぐって争ってきたフランスを突き放し、その後、半世紀以上にわたって、覇権国としての地位を安定的に維持する。しかし、19世紀末になると、技術革新の停滞により、衰退が始まる。英国は、繊維産業、製鉄産業、蒸気機関による鉄道産業の技術革新を中心に起きた、いわゆる第一次産業革命を先導したが、重化学産業、電気産業、内燃機関による自動車産業の技術革新を中心に起きた第二次産業革命を先導したのは、米国とドイツであった。

ポスト大英帝国の覇権争いに勝ったのは、米国である。第二次世界大戦後、ライバルだったドイツの没落により、米国は、覇権国となった。ソ連は、宇宙開発といった限られた分野以外では、米国に及ばなかった。しかし、1980年代になると、米国の覇権は、日本に脅かされるようになった。日本が、バブル崩壊後、長期的に低迷するまでは、ウォーラーステインのように、米国の覇権は終了し、日本が代わりに覇権国となると予想した人もいた[8]

しかし、結局そうはならなかった。第二次産業革命の最後の勝利者は日本であったが、1980年代に、日本が時代遅れのパラダイムで勝利を収めていた後、米国は、次の技術革新のパラダイムである情報産業で、主導権をとり、新しい時代の覇権国として返り咲いた。2000年のドットコムバブルの崩壊や2007年の住宅バブル崩壊といった経済危機のたびごとに「米国の時代は終わった」という人が出てくるが、米国の覇権はまだ続いている。もちろん、米国の覇権が永遠に続くわけではない。

3. 先端産業の担い手を迫害する国は没落する

以上、覇権国家の成功事例を紹介してきたが、今度は、有力な候補であったにもかかわらず、覇権国家になることができなかった中核国の失敗の原因を分析してみよう。覇権国家が自由で民主主義的な政治システムによって技術革新を促進したのに対して、これらの国々は、抑圧的な政治システムによって、優れた技術者や知識人を失い、技術革新の競争に敗れている。このことを、以下確認しよう。

3.1. スペインの事例

スペインは、1580年にポルトガルを併合し、南北アメリカ、アフリカ、アジアにまたがる広大な植民地を手にし、「太陽の沈まない国」を実現した。ウォーラーステインは、スペインを覇権国家とはみなさなかったが、当時のスペインは、覇権国家の有力候補であったことは確かだ。それにもかかわらず、なぜスペインは、その後没落し、後進的な弱小国に転落したのか。

スペインの最盛期の国王はフェリペ2世であるが、スペインの没落のきっかけを作ったのもまた、フェリペ2世である。フェリペ2世は熱心なカトリック信者で、国内の新教徒を弾圧した。その結果、新教徒が多かったネーデルラントは独立戦争を起こし、結局スペインはネーデルラントの北部7州を失うことになった。これは、スペインにとって、致命的な出来事であった。なぜなら、当時最も重要な産業は毛織物産業であり、毛織物産業の主要な担い手は、ネーデルラントの新教徒であったからだ。

多くの人は、スペインは、アルマダの海戦で英国に敗れたので没落したと信じているが、もしもこの戦争がそれほど決定的ならば、スペイン没落後、オランダではなくて英国がすぐに覇権国家になってもよさそうなのであるが、実際にはそうはならなかった。そもそも、スペインが英国に無敵艦隊を派遣したのは、英国が、ネーデルラントの北部7州の独立を支援していたからであり、アルマダの海戦は、スペインがネーデルラントの北部7州を失う過程でエピソード的な意義しか持たない。

3.2. フランスの事例

近代においてフランスの大国としての基礎を築いたのは、アンリ4世である。アンリ4世は、1598年にナントの勅令を発布して、新教徒対してカトリック教徒とほぼ同じ権利を与え、フランス国内の宗教戦争、ユグノー戦争を終結させた。その後、フランス・ブルボン朝は、リシュリューやマザランといった宰相の補佐により、オランダや英国と覇権を争う中核国となっていった。

フランスは、ルイ14世の時代に最盛期を迎える。しかし、ルイ14世は、フェリペ2世と同じ過ちを犯す。ルイ14世は、これまでの和解政策を翻し、ナントの勅令を廃止し、国内の新教徒を弾圧した。その結果、国内の産業の主要な担い手であった新教徒たちの大半は、国外(主としてライン川流域)へ逃れ、これがフランスの産業を衰退させることになった。以後、フランスは、先端産業において主導権を握ることができないまま、覇権国家のレースから外れていく。

多くの人は、フランスは、第二次百年戦争で英国に敗れたので没落したと信じているが、むしろ産業競争に敗れて経済的に没落したからこそ、ナポレオンのような軍事的天才をもってしても、フランスは覇権国家になることはできなかったと言うべきである。ナポレオンは、1806年に、英国を大陸の市場から締め出すべく、大陸封鎖令を発令したが、フランスが、経済先進国だった英国の代わりになることはできなかったので、フランスの同盟諸国は経済的に大いに困窮し、これが同盟諸国の反乱とナポレオンの没落をもたらすことになった。

3.3. ドイツの事例

ルイ14世が新教徒の技術者や資本家を迫害したおかげで、彼らが避難して来たドイツ西南部は先進的な工業地帯となった。そして、1871年に成立したドイツ帝国は、米国とともに、第二次産業革命を推し進めることで、英国を凌駕する工業国家として台頭するようになる。特に科学に関しては、世界の最先端に位置していた。このことは、1901-1945年における自然科学分野でのノーベル賞受賞者は、ドイツが36人で、26人の英国や18人の米国を抑えて最多であったことからも窺うことができる。

ところが、1933年にアドルフ・ヒトラーが権力を掌握すると、ドイツは、ユダヤ人を迫害するようになる。その結果、ユダヤ人の科学者や資本家たちがドイツからアメリカへと大挙して亡命することになった。これまでの事例においてもそうであったが、先端産業の担い手を迫害する国は没落し、その国が享受した繁栄は、彼らが移住する国によって奪われる。第二次世界大戦後、科学の最先端はドイツから米国に移り、これが米国の覇権を決定的にした。

多くの人は、ドイツは、第二次世界大戦で英米に敗れたので没落したと信じているが、そういう結論で満足する前に、なぜドイツは第二次世界大戦に敗れたのかをさらに考えてみる必要がある。第一次世界大戦での敗北は、ドイツにとって大きな負担になったが、ドイツは依然として、科学技術の面では世界の最高水準にあった。もしもヒトラーがユダヤ人を迫害していなかったなら、ドイツは原子爆弾の開発に成功して、第二次世界大戦に勝利していたかもしれない。逆に、レオ・シラード、ニールス・ボーア、ジョン・フォン・ノイマン、エンリコ・フェルミといった迫害を逃れて渡米した科学者たちがいなければ、米国は、原子爆弾を製造することはできなかったかもしれない。

科学技術力は、経済力を媒介にして、軍事力に間接的に影響を与えるのみならず、兵器の性能という点で、直接的な影響をも与える。戦争の勝敗は、覇権国家の盛衰に大きな影響を与えることがあるが、軍事力が果たす役割は、二次的、三次的なものに過ぎない。

4. 古いパラダイムでの成功者は変化に乗り遅れて没落する

ある技術で成功した企業が、その技術による既得権益を守ろうとして、競合する新技術の開発に消極的になり、技術変革の波に乗り遅れて没落するということはよくある。例えば、ソニーは、ベガ (WEGA) という、画面をフルフラット化したブラウン管テレビを開発し、人気を集めた。だが、この成功ゆえに、液晶テレビやプラズマテレビといった、次世代のフラットパネルディスプレイを使った薄型テレビの開発に遅れ、それがその後のテレビ部門におけるソニーの不振をもたらした。企業レベルで起きていることが、国家レベルでも起きる。

4.1. オランダの事例

多くの人は、オランダは、英蘭戦争で英国に敗れたので没落したと信じているが、これは正しくない。英蘭戦争は三度にわたって行われたが、いずれにおいても、オランダは英国に敗れてはいない。特に、第二次英蘭戦争(1665-1667年)と第三次英蘭戦争(1672-1674年)では、むしろオランダ側の方が優勢のまま和議がなった。1688年の名誉革命では、オランダの統領であるオラニエ公ウィレム3世は、2万の軍を率いて、英国に上陸し、戦わずしてジェームズ2世を王位から追放し、ウィリアム3世として、妻とともに王位に就いたのであるから、形式的には、英国はオランダに併合されたことになる。

だから、オランダは、イギリスに政治的・軍事的に敗北を喫して没落したわけではない。オランダは、第三次英蘭戦争後も、ヨーロッパ一の経済先進国であり、政治的・外交的地位も高かった。ただ、英国やフランスの台頭で、相対的に地位が低下しただけである。オランダが覇権国から転落するのは、18世紀の後半からである。このことを1人当たりのGDPの推移から確認してみよう。

オランダは、繁栄を極めた17世紀後半においても、GDPは英国の40-45%程度にしかならなかった。それでも、1人当たりのGDPは、英国よりも30-40%も高かった[9]。以下のグラフからもわかるように、1740-60年頃になると、オランダの優位は10-15%程度となり、18世紀の末には英国に逆転されてしまう。

The First Modern Economy: Success, Failure, and Perseverance of the Dutch Economy, 1500-1815
18世紀から19世紀にかけての英国(実線)とオランダ(点線)の1人当たり国民所得の推定値[10]

18世紀後半に起きた逆転の原因は、英国の産業革命である。オランダは、排水による国土の維持から造船にいたるまで、あらゆる動力源を風力に頼っていたので、風力が駆動する風車から石炭火力が駆動する蒸気機関へという英国が先導した動力源のパラダイム転換の流れから取り残され、その結果、覇権国から弱小国へと転落していく。

4.2. 英国の事例

第一次産業革命に成功した英国は、ライバルだったフランスに競り勝ち、覇権国として、地球の四分の一を支配する帝国を築き、植民地から集まる膨大な富で繁栄を謳歌したが、それとともに、技術革新は停滞した。ドイツと米国が第二次産業革命により、新たな産業を育成している時にも、英国は、植民地をほとんど持たないそれらの後発国が自分たちの巨大な帝国を脅かすほどのものではないと油断していた。

一般的に言って、イノベーションを行うのは、現状に満足した中心の存在者ではなくて、ハングリー精神のある辺境の存在者である。第二次産業革命の担い手となったのは、当時は、まだ西欧文明の辺境に過ぎなかったドイツと米国であった。英国の繊維産業は、もはや先端産業ではなくなり、ドイツでは化学工業が、米国では電気工業が新たな先端産業として出現した。石炭を燃料とする蒸気機関(外燃機関)からガス/石油を燃料とする内燃機関へと動力源が変化するにつれて、古いインフラで古い技術により古い産業を続けていたイギリスの産業競争力は落ちていった。

4.3. 日本の事例

米国は、第二次産業革命の推進者として、英国から覇権を奪い、ライバルだったドイツを突き放し、第二次世界大戦以後、覇権国として世界に君臨した。だが、1980年代に入ると、自動車、電気、化学といった第二次産業革命の主要な分野で、日本が技術革新の主導権を握るようになり、米国の覇権は危機に瀕した。だが、これにより、米国は「古いパラダイムでの成功者は変化に乗り遅れて没落する」という法則を免れた。ババを引いたのは、日本である。

私は本節の冒頭で、ソニーのベガの話をしたが、日本の失敗は、ソニーの失敗で喩えるとわかりやすい。ソニーはブラウン管テレビという古いパラダイムでなまじ成功したおかげで、薄型テレビという新しいパラダイムへの適応に遅れてしまった。日本は、第二次産業革命が生み出した古いパラダイムで最も成功したがゆえに、新しいパラダイムへの適応に遅れてしまった。最も、ここで言うパラダイム・シフトとは、作っているものの変化ではなくて、作り方の変化である。

第二次産業革命に最も適合的な生産システムは、フォーディズムである。フォードの名前に由来することからもわかるように、米国から始まったシステムであるが、第二次世界大戦直前にドイツや日本もこの準社会主義的なシステムを取り入れた。米国は、覇権国としての全盛期に、フォーディズムを採用し続けたが、80年代に入って、経済が悪化すると、これを放棄した。そして、このフォーディズムからの脱却が、その後の情報革命を可能にした。

これに対して、日本は、フォーディズムという古いパラダイムでなまじ成功したおかげで、過去の成功体験による呪縛から逃れられず、ポスト・フォーディズムの新しいパラダイムへの移行が進まない。前回「どうすれば労働者の待遇は良くなるのか」で終身雇用制の廃止を提案したところ、ある人は「単に欧米の真似をすればうまくいくという単純思考」と評したが、これはポスト・フォーディズムの時代に適応できるかどうかという問題であって、日本/欧米といった文化の差異が問題なのではない。

そもそも、終身雇用制度などというものは、明治時代の日本にはなかった労働慣行である。日本人が日本的経営と呼んでいるフォーディズムは、日本固有の経営方法でもなければ、日本の伝統的な経営方法でもない。米国から輸入した時代遅れのパラダイムに「日本的」などという民族の自尊心をくすぐるような形容をして、それに固執し続けるということは、日本の将来にとって望ましいことではない。

5. 日本は覇権国家になることができるか

以上、私は、覇権国家の盛衰を、三つの法則で説明してきたが、基本的な考えは「先端産業で主導権を握った国が覇権を握る」という第一法則で尽きている。そして、この法則に基づいて、中国が2020年までに覇権国家になるということはまずないと判断できる。

5.1. 中国が覇権国になれない理由

中国は人口が多いので、優秀な人材も多く、彼らが米国で先端的な科学技術を学んでいるのは事実であるが、それにもかかわらず、中国国内ではいっこうに先端産業が育っていないのは、人材や技術に問題があるからではなくて、社会システムに問題があるからだ。

中国のような社会主義経済は、第二次産業革命を遂行する上では効率的ではあるが、情報社会における先端産業を育成するには、社会主義を脱して自由で民主主義的な政治システムに移行する必要があるのだが、中国が現在の共産党による独裁体制から脱却することは、日本が従来の開発独裁体制から脱却する以上に困難である。

中国が永遠に覇権国になれないというわけではないが、あと10年か20年で覇権国になるというのは無理である。短期的には、まだ日本の方が、覇権国になる可能性が高い。日本は、中国と比べて国土が狭く、人口も小さいが、オランダや英国よりも国土も人口規模も大きいのだから、それが理由で覇権国になることができないということはない。

5.2. 軍事力よりも経済力の方が重要である

こう言うと、オランダや英国は海外に広大な植民地を持つことができたから覇権国になることができたのであって、現代の日本は、それができない以上、覇権国になることはできないのではないかと反論する人もいるだろう。また、日本は、戦争アレルギーが強いので、米国のような「世界の警察」としての役割を果たすことができないと考える人もいるだろう。

たしかに、国外の領土を政治的に支配することはできないが、株式を取得して海外の企業を経済的に支配することならできる。海外の労働者が稼ぐ利益の一部が本国に上納されるのであるから、これは経済的帝国主義である。情報社会の時代における経済的帝国主義の維持には、工業社会の時代における政治的帝国主義の維持の時とは異なって、強力な軍隊などは必要でない。

工業社会の時代においては、各国の国民経済は自立性が高くて、経済制裁はあまり効果を発揮しない。しかし1970年代以降の情報社会においては、グローバル化とボーダレス化が進むので、各政治単位の経済的自立性が低くなり、経済的帝国主義に対する反乱は、経済制裁だけで鎮圧することができるようになった。

例えば、ジンバブエを例としてあげよう。ジンバブエは、かつて白人が支配する英国の植民地であったが、1980年に成立したジンバブエ共和国では、黒人のロバート・ムガベが首相(後には大統領)に就任した。ムガベは、2000年8月から「農地改革」と称して、白人農場主から農地を強制収用し、黒人に再配分した。2008年3月には、国内全企業の株式の過半数を地元の黒人住民に所有させる法案に署名した。これは経済的帝国主義の支配に対する反乱である。

その結果、どうなったか。技術力のある白人が農業経営から撤退したことで、農業の生産性が大幅に減少し、さらに、外資がジンバブエから撤退したことで、ジンバブエでは、記録的なハイパーインフレが生じた。

AP通信によると、超インフレが続くジンバブエの中央銀行は30日、100億ジンバブエ・ドルを1ジンバブエ・ドルとするデノミ(通貨単位の切り下げ)を8月1日に実施すると発表した。

政治・経済双方で混乱が続く同国ではインフレ率が200万%を超えており、先週、前代未聞の1000億ジンバブエ・ドル札が導入されたばかり。1000億ドルでも卵3個程度しか買えず、現金自動預け払い機(ATM)の運用にも支障が出ていた。ただ、大幅なデノミでさらに混乱が広がる可能性もある。

大規模なデノミとしては、第1次大戦後の1923年、ドイツが1兆マルクを1マルクにした例がある。[11]

経済帝国主義の反乱者を鎮圧するためには、軍隊を送る必要はない。経済制裁と市場原理により、反乱者は自滅してくれる。

経済帝国主義は、覇権国が技術や資本を提供する代わりに、その対価を受け取るという互恵的な支配関係であり、暴力なき権力に基づいている。暴力がなければ維持できない権力よりも、暴力がなくても維持できる権力の方がはるかに強力であり、持続可能である。

米国の覇権が後退すると、世界が無秩序化し、安全保障がおろそかになると危惧する人もいるが、9/11以降の世界情勢を見ると、米国の覇権が衰えた方が世界は平和になるのではないかと思わざるをえない。日本が、経済制裁をすることはあっても、軍事力を行使しない覇権国家として世界を支配することは可能であるし、世界各国もそのような覇権国家を歓迎するだろう。

5.3. 覇権国家になるために必要なこと

最後に、日本が覇権国家になるにはどうすればよいのかを考えてみたい。日本が覇権国家を目指すのであれば、情報技術、人工知能、食料、新エネルギー、環境といった、焦点となっている分野で、技術的に主導権を握らなければならない。日本は、情報技術、人工知能の分野では立ち遅れているが、後の三つなら望みがある。だからといって、政府がこの分野の大学の研究室や関連企業に補助金をばら撒くといった工業社会型・開発独裁型の「振興策」をとるべきではない。民主党は農家に所得補償をすることを公約にしているが、こうしたばら撒きもするべきではない。

私の提案は、法人税・事業税を廃止して、代わりに環境税を導入することだ。そうすれば、企業は、環境税の負担を減らすために、環境技術や代替エネルギーの開発に投資するようになるだろう。官僚が、自分らで「有望な技術」を指定して、補助金をつけるという方法よりも、民間の創意工夫が生かされるので、技術革新を促進する。

食料に関しては、まず、農業は、補助金で守らなければいけない衰退産業ではなくて、新技術により付加価値が付くハイテク産業であるという認識を持つことが重要である。この認識に基づいて、農協を解体し、株式会社による農業経営への参加を促進するべきである。

国内で、新技術の開発に成功したら、それを用いて、世界のマーケットでビジネスを展開すればよい。世界は、今、食料・エネルギー価格の高騰と環境悪化に苦しんでいる。この分野で日本が覇権を握っても、誰も非難しないし、逆に歓迎されるだろう。

6. 参照情報

  1. Bertelsmann Foundation (2006) World Powers in the 21st Century. Berlin, June 2, 2006. p. 16.
  2. “China is going to be the next great country. The 19th century was the century of the U.K. The 20th century was the century of the U.S. The 21st century is going to be the century of China.” Source: Lawrence C. Strauss. Light-Years Ahead of the Crowd: Interview With James B. Rogers, Private Investor." WSJ. 2008年4月14日.
  3. International Monetary Fund (2008) World Economic Outlook Database. April 2008 Edition.
  4. Economist.com(2006)"The world in 2026 Who will be number one?" Nov 18th 2005.
  5. The evolution of global economies over 2000 years, in terms of percent GDP contribution by each major economy over history" by M Tracy Hunter. Licensed under CC-BY-SA. Data: Angus Maddison. Contours of the World Economy 1-2030 AD: Essays in Macro-Economic History. OUP Oxford; 1版 (2007/9/20).
  6. アンガス・マディソン.『世界経済の成長史1820‐1992年―199カ国を対象とする分析と推計』東洋経済新報社 (2000/07). 参考資料:GDP表.
  7. 社会実情データ図録.「1人当たりGDPの歴史的推移(日本と主要国)」2007年11月30日収録. Data: Angus Maddison. Contours of the World Economy 1-2030 AD: Essays in Macro-Economic History. OUP Oxford; 1版 (2007/9/20).
  8. Wallerstein. Geopolitics and Geoculture. Cambridge University Press (1991/7/26). p. 43.
  9. Jan De Vries, Ad Van Der Woude (1997) The First Modern Economy: Success, Failure, and Perseverance of the Dutch Economy, 1500-1815. p. 710.
  10. Jan De Vries, Ad Van Der Woude (1997) The First Modern Economy: Success, Failure, and Perseverance of the Dutch Economy, 1500-1815. Cambridge University Press (1997/5/28). p. 707.
  11. 『読売新聞』2008年7月31日.