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哲学、倫理学、美学、思想史に関する記事。

2014年1月22日

ジャン・フランソワ・リオタールが『ポストモダンの条件』で、「大きな物語の終焉」を語ったのは、1979年のことである。70年代以降起きた思想のパラダイム・シフトの本質は、一行の詩という意味でのユニバースがの時代から、多数の行の詩という意味でのマルチバースの時代への転換である。

2013年9月22日

私たちは、必ずしも役に立つ知だけを求めているのではない。一見すると何の役にも立たない知を求めることもある。しかし、これは人類の生存にとって不利には働かない。なぜなら、種の存続には、環境適応のみならず、変化適応も必要だからだ。「よく遊びよく学べ」とはよく言ったもので、前者は変化適応力を、後者は環境適応力を高めよという教えとして解釈することができる。環境適応にばかり力を入れてると、環境が変化した時、それに適応できなくなるから、バランスが必要だ。

2012年12月30日

紀元前2世紀に現在のインド西北部を支配したギリシア人のミリンダ王は、仏僧のナーガセーナとの問答を通じて仏教に帰依し、出家したと『ミリンダ王の問い』は伝える。この書は、西洋の有の哲学に対する仏教の無の哲学の優位を示すものとして有名であるが、ナーガセーナの無の哲学は、当時のギリシア哲学を論破するような水準のものではなかった。ミリンダ王は出家しなかったし、本当に理解したかどうかも不明である。それにもかかわらず、ミリンダ王や彼の後継者たちが仏教を保護したのは、被支配民の間で仏教の信仰が広がることが、彼らの統治にとって有利であったからと考えられる。仏教は、王朝の保護を受けることで、大衆宗教としては逆に衰退することになる。

2012年11月23日

パラダイムの本来の意味は「模範」であり、クーンは、科学教育において学生が模範として模倣する教科書的な理論や実験方法をパラダイムと名付けた。正常科学においては、科学者はパラダイムに基づくパズル解きに従事するが、これは軽蔑するべき非生産的活動ではなく、科学が本来の機能を発揮するために必要なことであり、科学革命を頻繁に起こすよりも経済的に合理的である。科学革命においても新しいパラダイムは古いパラダイムを引き継いで生まれる。革命が非連続に見えるのは、競合するパラダイムの権力関係が急激に変化するからであって、新しいパラダイムが無から生じることはない。科学革命は、政治革命と同様に、システムの存続のための権力闘争であり、理論が現実をよりよく模写するためにパラダイム・シフトが起きるのではない。

2011年8月2日

ライプニッツは、自分の形而上学を予定調和説と名付けていたが、この形而上学の学説は神の存在論的証明を前提にしている。存在論的証明は神の遍在を説く汎神論を帰結し、そこからさらに、連続律に基づいて、神に当てはまることをすべての実体に当てはめることでモナドロジーが帰結し、充足理由律に基づいて、なぜこの世界が現実存在するかを問うことで最善説が帰結する。ライプニッツは、神は可能的な宇宙をすべて認識する認識力、その中で最善のものを選ぶ善意、そしてそれを現実存在するようにする実行力を持つと想定するが、そのような神は、存在論的証明によってその存在が証明される、たんなる宇宙の合計以上のものであり、両者を同一視することはできない。また、私たちが誤謬、悪、失敗を経験する以上、有限な存在者の認識、意思、行為に予定調和説を適用することはできない。

2011年7月6日

神は完全な無限者であり、その神がたんに観念的で現実に存在しないならば、完全な無限者とは言えないので、神は現実に存在する。このような神の存在の証明を存在論的証明と言い、アンセルムスやデカルトなどによって行われてきた。カントは、存在論的証明が、分析的判断と総合的判断を混同する間違いを犯していると指摘したが、存在論的証明の誤謬は、それとは異なるところに、すなわち、存在論的証明がその存在を証明する完全な無限者は、キリスト教徒が神と考える全知全能の至高な存在者とは全く逆の存在者であるというところにある。

2011年4月13日

18世紀のスコットランドの哲学者、デイビット・ヒュームは、因果関係の客観性や道徳命題の妥当性を疑った懐疑論者として有名である。しかし、原因と結果、「である」と「するべき」は異質で、その結合は主観的であるがゆえに不確定であるという懐疑論は本末転倒である。むしろ、不確定であるからこそ、その不確定性を縮減するために、主観は、原因と結果、事実と価値を分割しなければならないというのが真実である。

2011年4月2日

哲学は、古代のギリシャにおいて、アルケー、すなわち万物の根源は何かという問いから始まった。哲学としてのシステム論の結論は、世界がそこから立ち現れ、哲学がそこから始まるところのアルケーとは、不確定性であるというものだ。アルケーが、あれやこれやの要素であるとか、基体=意識主体であるとかいった従来の哲学者たちの主張は、本来のアルケーの忘却から生じる。不確定性は、時間的にも、理論的にも、すべてに先立つのである。

2009年9月11日

老子(老聃)は、春秋時代の中国の思想家で、『老子道徳経』の著者とされているが、長い間その実在が疑問視されてきた。はたして老子は実在したのか、それとも『老子道徳経』は後世の偽作か。『老子道徳経』で論じられる「道」とは何のことか。反儒教としての道家には、どのような思想的意義があるのか。

2005年6月18日

プラトンは、主著『国家』で、正義とは何かを探求した。身体以外の所有物の否定、妻子共有制、民主主義を否定する哲人政治など、プラトンが思い描く理想郷は、現代の私たちには受け入れがたい共産主義的独裁体制なのだが、正義とは何かに関する彼の哲学的考察は、現代人が正しい国家を考える上でも、参考になる。

2003年10月1日

18世紀のイギリスの哲学者、デイビット・ヒュームは、因果関係の客観性を疑った懐疑論者として有名である。しかし、原因と結果の結びつきだけでなく、原因と結果の分割自体が主観的であり、その主観的動機を考えるならば、事象を原因と結果に分割した段階で、既に両者の関係は不確定になっていると言うことができる。

2003年5月1日

認識とは、対象を受動的に模写するだけのことなのか。それとも対象を積極的に構成することなのか。模写説か構成説か、実在論か観念論か、唯物論か唯心論か。哲学史上の論争をジェンダー論の観点から振り返り、システム論的な止揚を試みる。

2002年5月10日

一つ禅問答をしよう。絶対に蚊に刺されないようにするにはどうすればよいだろうか。蚊取りせんこうをたいたり、虫よけスプレーをまいたりしても根本的な解決にはならない。絶対に蚊に刺されないようにするには、蚊を絶滅させなければならない。では、そのためにはどうすればよいか。

2002年5月3日

「自殺は悪だ」が、私たちの常識である。多くの常識がそうであるように、この常識も、根拠が問われることなく信じられている。はたして、私たちは、自殺が悪であることを根拠付けることができるだろうか。哲学的にこの問題を考えたい。

2000年12月24日

「定義とは何か」という問いは答えにくい問いである。この問いは定義の定義を求めているのだが、定義を定義しようとするならば、あらかじめ定義とは何かが分かっていなければならないからだ。この循環のディレンマから抜け出るために、いったん伝統的な方法で定義を定義した後で、その妥当性を検討する方法をとることにしよう。

2000年12月17日

不定冠詞や「すべて all」や「いくつかの some」などがついた、複数の個体を指示することができる述語を不確定記述というのに対して、固有名詞によって指示されるような、世界に一つしかない個体を指示する、定冠詞のついた述語を確定記述という。では、確定記述は個体の本質を同定できるであろうか。そして固有名詞は確定記述で置換可能であろうか。

2000年12月10日

実存と本質の関係は実存主義哲学のテーマであるが、ここではこのテーマを言語哲学的に考えてみたい。

2000年12月3日

もし障害の原因が人為的なものでないとするならば、その人は憤る対象を間違えている。不条理なのは、障害をもって生まれたことではなくて、障害を理由にその人から自由を著しく奪う社会のありかたの方なのである。

2000年11月26日

一般には原因も理由も、何かを説明するために、区別なく使われているが、哲学的には、両者は区別されるべきである。原因(cause)が「惹き起こす」、理由(reason)が「推論する」という動詞として使われることを手掛かりに、両者の違いを探っていこう。

2000年11月12日

「時間とは何か」は永遠の哲学的問題とこれまでは考えられてきた。しかし、物理的な時間は、物理学的に定義できる。では、意識の流れとしての時間はどう考えたらよいだろうか。

2000年11月5日

自分の認識に限界があると認識できる人は、実は自分の認識の限界を超越している。限界の内部にいる人には、限界が見えない。限界を超越して初めて、限界を認識することができる。認識の限界を認識することは、超越を論じることであり、超越論的である。

2000年10月21日

人は権威に弱い。お上意識の強い日本人は特にそうである。自分で判断せずに、権威に依存することにはどのような問題があるのか。そして権威主義に陥ることで被害を受けるのは誰か。

2000年9月16日

たんに幸福と感じていれば、それが幸福なのか。それとも、本当の幸福には、それ以上の条件があるのか。SF的な思考実験を通して考えてみよう。

2000年9月2日

自分に意識があるということは確実な事実である。では他者にも同様の意識があるということをどうやって証明したらよいのであろうか。この証明に行き詰まる時、ひょっとしたら、意識がある存在者は自分だけではないだろうかという独我論が頭をもたげて来る。

2000年8月19日

真理の意味と基準は何であるのか、これは哲学の永遠の問題である。対応説、整合説、権力説という主要な学説を検討しながら、その本質に迫ってみたい。

2000年8月12日

私たちは、自分には意識があるが、ロボットには意識がないと考えている。あるシステムに意識があるかないかをどのような基準で判断すればよいだろうか。

2000年7月8日

神秘的一元論者は、近代の哲学者たちの二元論的な認識論を批判する。しかし、私たちは、二元論か一元論かという対立地平を克服し、二元論から成り立つ多元論化を目指さなければならない。

1997年9月5日

個を普遍へと包摂することは、一方では認識論的な概念《正当化》であると同時に、他方で権力論における基礎概念である《服従》でもある。正当化と服従は、一見すると正反対に見えるが、実は同じ包摂の二つの側面にすぎない。このページでは、以下第一項で前者を、第二項では後者を論じつつ、第三項では、正当化=服従における「包摂する=包摂される主体」の問題を考察する。

1997年9月4日

これまで哲学者たちは、独我論を論破するべく、他者の存在を証明しようとしたが、うまくいっていない。それは他者の存在を証明しようとしたからだ。証明するということは、そうであって他の様ではない必然性を示すこと、つまり、認識の他者性の排除であり、認識の他者性を排除しようとしている限り、他者の認識は不可能だからだ。

1997年9月4日

地平は、私たちの視界を部分的に遮ると同時に、部分的に与える。ここから、地平は、認識を制限する制約であると同時に認識を可能にする条件という両義性を帯びた哲学的概念として使われる。私たちは、神のような全知全能の存在ではないが、完全な無知無能の存在でもなく、その中間に位置する。本稿ではこれを地平の中間性構造と名付け、地平の中間性構造が私たちの存在の本質を規定していることを確認したい。

1997年9月3日

ヘアーは、オックスフォード大学で支配的だった日常言語学派の立場から道徳的言説の分析を行ったメタ倫理学者として知られるが、規範倫理学にも取り組んだ。実際、彼は、英国の各種委員会に名を連ね、社会政策の立案にも関わった。ヘアーのメタ倫理学的立場は「普遍的指令主義」と呼ばれているが、そこには、規範倫理学の基礎付けとしてのメタ倫理学としてどのような問題があるかを考えよう。

1997年9月3日

自然主義的誤謬とは、ジョージ・エドワード・ムーア(George Edward Moore:1873年 - 1958年)が、1903年の著書『倫理学原理』の中で導入した用語で、一般的には、自然的な事実から規範性のある価値を導く誤謬であると理解されているが、これはムーアの解釈として間違っているだけでなく、メタ倫理学的にも間違っている。本稿では、自然主義的誤謬に対する様々な解釈を検討しつつ、ムーアが実際にはどう考えていたのか、さらにはそれがなぜ誤謬であるのかを明らかにしつつ、ムーアのメタ倫理学ならびにそれに基づく倫理学を乗り越える方法を提案したい。

1997年9月2日

全ての価値を目的に対する手段の価値とみなし、現存の価値をより上位の目的への価値へと還元(reduzieren 縮減)し続けることで、私たちは、究極目的を構成し、それに基づいて、現存の価値を破壊することができる。このページでは、現象学的還元・構成・破壊のモデルを参考にしつつ、認識行為を含めたあらゆる行為の基礎付けを試みる。

1997年9月2日

マックス・シェーラーは、現象学の影響を受けた倫理学者であり、哲学的人間学の提唱者でもある。フッサールは、倫理学にはあまり興味を持たなかったので、現象学的な直観主義が、倫理学に何をもたらすのかを、マックス・シェーラーの提唱する実質的価値倫理学で検証し、彼の哲学的人間学の成否を検討したい。

1997年9月2日

フッサールの超越論的現象学は、カントの超越論的哲学と何が同じで、何が異なるのか。このページでは、カントの超越論的哲学と比較しつつ、フッサールの哲学を全体部分関係論の観点から分析し、超越論的哲学としての現象学の射程と限界を見定めたい。

1997年9月1日

カントの哲学を行為論的・目的論的に解釈するとき、認識的・身体的を問わず、行為一般の究極目的は何かが問題となってくる。このページでは、これまでの「カントの純粋理性批判」と「カントの実践理性批判」での議論を踏まえ、『判断力批判』を、理性の自己実現を究極目的とする目的論的哲学としてヘーゲル的に再構築してみたい。

1997年9月1日

カントにとって『実践理性批判』は『純粋理性批判』とは異なって超越論的哲学ではなくて、超越的哲学である。だが、本当に道徳法則は、カントが考えたほど超越的であるのだろうか。このページでは、「カントの純粋理性批判」の続編として、理論理性と実践理性、認識行為と身体行為はどこまで同じで、どこが違うのかを考えながら、カントの実践哲学の成否を検討したい。

1997年9月1日

自然科学者は、自然法則を探求するが、なぜ自然に法則があるのかまでは探求しない。人間が発見した法則にはどれだけの妥当性があるのか。これは科学ではなくて、哲学の問いである。カントが『純粋理性批判』で提示した批判哲学を検討しながら、超越論的哲学とは何かを考えてみよう。