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日本的経営が誕生した理由は何か

日本的経営は、江戸時代から続く日本の伝統的な経営ではありません。その先駆的な実践例が20世紀の初頭から見出されるにせよ、完全に普及して、定着したのは1960年代という歴史の浅い経営方法です。日本的経営が、どのような動機で考案され、普及していったのかを明らかにします。

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日本的経営の起源は何か

まずは、日本的経営の本質がどこにあるのかを見定めたうえで、その起源を、従来の諸仮説を批判的に検討しつつ、求めましょう。

日本的経営とは何か

日本的経営とは、欧米には見られない日本企業特有の経営慣行のことです。米国の社会人類学者、ジェームズ・アベグレン(James Abegglen, 1926年 – 2007年)が、1955年に来日し、日本の工場を調査して、1958年に発表した『日本の経営』(原題:The Japanese Factory)で、日本企業には、終身雇用(lifetime commitment 終生の誓い)、年功序列(年功賃金)、企業別労働組合という特徴があることを指摘し、以来、この三つが日本的経営の三種の神器とみなされるようになりました。

アベグレンが調査したころ、戦前から存在した職工(ブルーカラー)と職員(ホワイトカラー)の差別がまだ残っていたので、日本的経営は未完成でした。しかし、戦後民主主義の風潮の中で「社員の平等」を求める声が強くなり、1960年代に工員と職員の身分差別が撤廃されるようになりました。かくして、スペシャリスト分業型の欧米の雇用形態とは異なるジェネラリスト擦り合わせ型の日本的な雇用形態が生まれました。新卒一括採用した未経験者を、ジョブ・ローテンションで様々な職務に就けさせ、先輩たちがOJTで指導し、将来幹部となりえるジェネラリストを育成するという海外では見られない平等主義が1960年代末までに確立したのです。

日本的経営の本質は、終身雇用にあります。年功序列(年功賃金)は、労働者の転職を防止する効果があります。同じ会社に居続けるのですから、労働者は、欧米の労働者のように産業別あるいは職業別の企業横断的な労働組合に所属する必要はありません。欧米の労働者のようなスペシャリストだと、業務内容の変更に伴って解雇しなければならなくなるので、日本企業では潰しが効くジェネラリストを育成しなければならないのです。

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日本的経営と欧米の経営

日本的経営は、企業内で従業員と長期的関係を築くだけでなく、企業間でも、株式持合、メインバンク制、系列による下請け制などにより、長期的関係を築きます。日本企業は、株主のために短期的な利益を追求するよりも従業員の長期的な雇用の維持を優先するので、株主からアクティビストを排除し、直接金融よりも間接金融に依存し、企業間分業も固定的であることを好みます。

日本では、本来政府が国民に直接提供すべき福祉を企業が担っているので、政府は既存企業の温存に力を入れます。雇用調整助成金を支給して、倒産しそうな企業を延命させたり、規制と補助金で斜陽産業を守ろうとしたりします。こうした官民協調も、日本的経営の特徴の一部とされることがありますが、いずれにせよ、その本質が終身雇用にあることには変わりありません。

日本的経営の先駆者

日本的経営が完成したのが1960年代であるとしても、それは戦後に突然誕生したのではなく、戦前にその先駆的な事例を見出せます。最古の事例は、武藤山治(むとうさんじ, 1867年 – 1934年)が鐘紡(後のカネボウ)で実践した家族主義的な温情主義的経営です。

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武藤山治(左)と旧鐘紡工場(右)。Source: 663highland. “Awaji Gochiso-kan Mitsukekuni in Sumoto, Hyogo prefecture, Japan." Licensed under CC-BY-SA.

それは、父が家族を温情で保護するように、経営者は従業員を温情で保護しなければならないというパターナリズム(paternalism 父親主義)に基づく経営です。日本的経営の萌芽は、1920年代に多くの企業で見られるようになるのですが、1894年に鐘淵紡績兵庫分工場支配人に就任した武藤は、それ以前に、以下のようなパターナリスティックな職場改善策を実行に移しました。

  • 福利厚生施設の充実と高賃金による職工の優遇
  • 企業内学校の設立と従業員への無償教育
  • 男女職工を社員へと昇格させる制度
  • 注意箱設置による提案制度の導入
  • 社内報の発行による社内での意思疎通の徹底
  • 不解雇主義に基づく再審制度
  • 無料の医療サービスの提供
  • 共済組合の設立による企業内福祉の充実

明治時代には、終身雇用の慣行はありませんでした。企業は低賃金で職工を使い捨てにしていたのです。しかし、それでは熟練の職工が育たないので、競争力のある高品質な製品が作れません。武藤が当時としては異例の職工優遇策を打ち出したのは、職工の定着率を高め、熟練の職工を育成するためでした。

武藤が家族主義的な温情主義を提唱したのには、もう一つ理由があります。当時、既に労働争議が頻発していました。言うまでもなく、ストライキは経営にとって打撃になります。そこで、武藤は、職工の待遇改善により未然に労働争議を防ごうとしました。1919年8月に、武藤は、その考えを「我国労働問題解決法[1]」で表明しています。

その2か月後、武藤は、ワシントンで開催された第一回国際労働会議に資本家代表として出席しました。この会議の主要な議題は、週の労働時間を48時間に制限することによる長時間労働問題の解決でした。

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1913年ごろに8時間労働を求めてニューヨークでストライキをする仕立物労働者[2]

日本の長時間労働が槍玉に挙げられるはずでしたが、武藤は、鐘紡で実践していた職工優遇策を英語とフランス語に訳して、事前に配布[3]して、委員たちの理解を得たため、まだ国際競争力が十分でなかった日本だけは、週57時間労働とする特例扱いを受けることに成功しました。

武藤は、1921年に鐘紡の社長に就任する際、株主総会で定款を改正し、社長と常務取締役に就任するには、5年以上会社の業務に従事しなければならないようにしました。この改正には株主による不当な支配を防ぐ目的があります。1906年にアクティビストが鐘紡の株を買い占め、翌年に武藤が退職する事件が起きました。その再発を防ごうとしたのでしょう。もともと株主のことを意味した社員という言葉が従業員を意味するようになり、会社は株主のものというよりも従業員のものという意識が強いことも日本的経営の特徴の一つです。株主が自分の利益を極大化するために外部から経営者を雇う欧米とは異なり、社内の従業員が出世して、社長や幹部になるという日本的経営の原型を鐘紡の定款改正に見出せます。

もとより、日本的経営の先駆者は、武藤だけということではありませんが、武藤の取り組みの時期が早かったこと、戦後の日本的経営との類似性が極めて高いこと、鐘紡が1933年当時売上日本一の大企業で、影響力があったことを考慮に入れると、武藤こそ日本的経営のパイオニアにふさわしいと言えます。

起源に関する諸仮説

日本的経営の起源に関しては様々な仮説があります。現在最も支持されているのは、戦時経済説です。岡崎哲二(おかざきてつじ, 1958年 – )と奥野正寛(おくのまさひろ, 1947年 – )は、日本的経営が「1930年代から40年代前半にかけての日本経済の重化学工業化と戦時経済化の過程で生まれた[4]」という説を1993年に出版された『現代日本経済システムの源流』で提唱しました。

現代日本の社会システムは,歴史的にみて比較的新しいものである。その多くは最終的に300万人以上の人命と国富の4分の1以上を犠牲にした日中戦争・太平洋戦争を遂行するために,資源を総力戦に動員することをめざした企画院などによって人為的に作られた統制システムを原型としている。この総力戦体制自体が,一党独裁の下で策定されたナチス・ドイツの戦時経済体制と,計画と指令によって重化学工業化と軍事大国化を目指したソ連の社会主義的計画経済に範をとったものであった。[5]

この見解を継承して、野口悠紀雄(のぐちゆきお, 1940年 – )が、1995年に『1940年体制 ― さらば戦時経済』という一般向けの本を出版したことで、日本的経営の起源を戦時経済体制に求める説が人口に膾炙するようになりました。

しかし、武藤を日本的経営の祖と見做すなら、戦時経済説は成り立ちません。武藤の家族主義的温情主義の経営は、1905年にほぼ完成しています。これは、日本が戦時経済体制に移行するよりずっと前のことです。また、鐘紡の紡績業は軽工業で、重化学工業ではありません。この点でも、岡崎と奥野の説は否定されます。もちろん、1930年代以降、それまで自由放任であった経済が混合経済に移行したことは事実ですが、民間での日本的経営の実践は、それ以前からあったということです。

社会学者の小熊英二(おぐまえいじ, 1962年 – )は、明治時代の奏任官(高等官の最下層)が勤続年数に応じて俸給が右肩上がりになった制度が日本企業の年功賃金と類似していることを根拠に、官制が日本型雇用の起源だという説を提唱しています[6]

明治期の企業や工場は、どのような近代的秩序を作るか模索しており、その秩序は固まっていなかった。そしてこの混沌状態は、あたかも触媒を投じられた薬剤が一気に凝固するように、官庁の制度をモデルとし構造を与えられていった。[7]

しかし、小熊の官制模倣説も、武藤を日本的経営の祖と見做すなら、否定されます。武藤は、慶應義塾での恩師、福沢諭吉(ふくざわゆきち, 1835年 – 1901年)の影響で、官僚嫌いでした。彼は官民癒着を批判し、1923年に、安価な政府(小さな政府)の実現を目指す実業同志会を結成し、衆議院議員となります。1932年に政界を引退した後、福澤が創刊した時事新報の経営権を取得し、そこで「番町会を暴く」という官民癒着のスキャンダルを暴く連載を開始し、1934年に暗殺されます。このように、民は官から独立すべしという思想(福沢諭吉が謂う所の独立自尊の精神)を持っていた武藤が、官庁の制度を模範に会社を組織化したということはありえません。

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1891年撮影の福沢諭吉(左)と1889年発行の時事新報の紙面(右).

もとより、明治政府の官吏任用制度は、新卒一括採用、人事異動によるジェネラリストの育成、年功序列、終身雇用といった日本的経営と同じ特徴を持っています。そうした公務員の任用と昇進の制度は、クローズド・キャリア・システム(Closed Career System)と呼ばれます。米国のように、公務員までがオープン・キャリア・システム(Open Career System)を採用している国もありますが、フランスの公務員、ドイツの官公吏(Beamte)、英国の国家公務員は、日本と同じく、クローズド・キャリア・システムを採用しています。しかし、それらの国で、民間の営利企業がクローズド・キャリア・システムを採用することはありませんでした。営利目的の企業にはふさわしくないシステムであるからです。

明治時代の官吏任用制度には、日本的経営との違いもあります。任用に際して、高等官と判任官という身分差別があり、判任官が高等官に昇格することは困難でした。この身分差別は、現代の官僚制度においても、キャリア官僚とノンキャリア官僚という形で残存しています。他方、武藤は、男女工に対して実業補習教育を実施し、優秀な職工が使用人(中間管理職)へと昇格できるようにしていました。使用人492名のうち378名が職工からの昇進であった[8]とのことなので、内部昇進によるブルーカラー労働者とホワイトカラー労働者の身分差別の解消という日本的経営の慣行を先取りしていたと言えます。ゆえに、日本的経営の起源は、官制ではなく、武藤の家族主義的温情主義というのが私の結論です。

武藤の評伝を書いた山本長次(やまもとちょうじ, 1962年 – )は、武藤の方法に近世の商家経営の再生という要素があると指摘しています[9]。たしかに、江戸時代の商家には、丁稚、手代、番頭という内部昇進の年功序列があり、のれんわけは出向と似ています。しかし、江戸時代の商家には、日本的経営の本質的特徴である終身雇用の慣行がありませんでした。奉公人が必要な技能を獲得できなかった場合、容赦なく暇を出され(解雇され)ます。それも、奉公人のうち番頭やのれんわけまで「昇進するものよりも淘汰されるものの方が圧倒的に多かった[10]」というのが実態です。新入社員全員が原則として定年まで雇用される日本的経営とは大きく異なります。

但し、鐘紡が不解雇主義であったからといって、解雇が皆無であったわけではありません。1929年から始まった世界恐慌は、日本に昭和恐慌をもたらし、武藤が社長を退任した後とはいえ、鐘紡も人員合理化を余儀なくされました。鐘紡は、当初、減給で雇用を維持する方針でしたが、減給に抗議する労働争議が起きたため、人員整理に踏み切ったのです。ただし、退職者には多額の退職金を支払うという形で、かろうじて社是の温情主義を守りました。現在の日本企業も、不況期には、退職金を積み増して希望退職者を募るという温情主義的方法を採っているので、この点でも、日本的経営の先駆けと言ってよいでしょう。

武藤の家族主義的温情主義的経営が、江戸時代の商家経営の復活でないとするなら、誰の影響を受けて創り出されたのでしょうか。職工の定着率を高めるために待遇を改善したのは、専務に就任した朝吹英二(あさぶきえいじ, 1849年 – 1918年)の方針だったので、朝吹の推薦で兵庫分工場支配人に就任した武藤は、その方針に従ったまでですが、そこからさらに進んで、日本的経営の原型を作り上げる過程で、実は海外の先進的な事例からインスピレーションを得ていました。武藤は、米国の大学に留学した経験があり、帰国後も欧米の動向に関心を持ち続けました。そこで、次の節では、同時代の欧米におけるパターナリズムを紹介し、それが日本に与えた影響を確認しましょう。

欧米におけるパターナリズム

欧米におけるパターナリズムないしは福祉資本主義(welfare capitalism)の先駆者は、英国の実業家にして社会主義者のロバート・オウエン(Robert Owen, 1771年 – 1858年)です。しかしながら、理想郷の建設に失敗して一文無しになったオウエンを武藤は反面教師にしていました。武藤が目指していたのは、実業家としての成功と労働者の待遇改善の両立です。この点で彼が範を仰いだのは、ドイツのアルフレート・クルップ(Alfred Krupp, 1812年 – 1887年)と米国のフレデリック・テイラー (Frederick Taylor, 1856年 – 1915年)です。そこで、まずはこの二人の思想を紹介しましょう。

アルフレート・クルップ

アルフレート・クルップは、現代のティッセンクルップ社の前身にあたるクルップ製鋼会社の2代目社長でした。彼は、1871年に英国が労働組合法を制定して、ストライキ権を認め、ドイツの社会民主労働党(SDAP)がゼネストを組織するという時流に対抗して、1872年に『一般規則 Generalregulativ』を発表し、自社の労働者が住宅補助を受け、疾病保険(健康保険)に加入できるようにするなどの厚遇策で、労働者を手懐けました。また、終身雇用の労働者には養老保険により企業年金を支給することにして、労働者の自社への忠誠心を高めようとしました。

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アルフレート・クルップ(左)鉄道車輪をイメージしたクルップ製鋼会社の社章(中央)ビスマルク(右)。Source: Stahlkocher. “Drei Ringe von Krupp." Licensed under CC-BY-SA.

クルップのパターナリズムを国レベルで採用したのが、ドイツ帝国の宰相オットー・フォン・ビスマルク(Otto von Bismarck, 1815年 – 1898年)です。ビスマルクは、医療保険法、労働者災害保険法、養老保険法など、当時として世界で最も進んだ社会保障制度を創設しましたが、同時に、社会主義者鎮圧法を制定して労働者の運動を抑制するというアメとムチの政策を実行しました。彼は、一方で多数の穏健派労働者をアメで懐柔しつつ、他方で少数の過激派労働者をムチで弾圧するという分断作戦で、労働者が団結して社会主義革命を起こすことを阻止したのです。

武藤は、1904年初めにクルップ社の職工施設に関するドイツ語の小冊子を入手し、経済学者の福田徳三(ふくだとくぞう, 1874年 – 1930年)に翻訳を依頼しました。そして、作成された調査書をもとに福田と相談を重ねて、1905年から鐘紡共済組合を発足させました。実は、武藤が第一回国際労働会議に資本家代表として選ばれたのは、福田による推薦があってのことです。福田は、「日本より派遣すべき国際労働委員の適任者は誰か」という雑誌『改造』の問いに対して、武藤を第一の適任者と回答し、武藤を「労働問題の実際的施設者としては、日本一の先覚者[11]」と絶賛しています。日本初の労働保険を実施したのですから、これは過大評価とは言えません。

鐘紡共済組合は、年金制度を取り入れるなど、拡充されていきましたが、1926年に健康保険法が施行されたため、廃止となりました。1941年には労働者年金保険法が公布され、翌年に施行されるなど、鐘紡が民間企業として実践した社会保障が、国レベルで採用されました。戦前の日本政府は、一方で、治安維持法を制定して、社会主義運動を弾圧しつつ、他方で、失業者救済のために公共事業を実施したり、解雇手当を支給したりして、労働者の不満が高まらないようにしていました。この点でも、日本はドイツと同様に、パターナリスティックな手法で社会主義革命を阻止したと言えますが、両国は、世界恐慌以降のデフレを国家社会主義的な方法で乗り越えようとして、戦争への道に踏み込んだという点でも、似たような運命を辿ることになります。その話の前に、米国でのパターナリズムを見ておきましょう。

フレデリック・テイラー

武藤に影響を与えたもう一人の労働問題の解決者に、米国の機械技師で、後に「科学的管理法の父」と呼ばれるようになったフレデリック・テイラー (Frederick Taylor, 1856年 – 1915年)がいます。テイラーは、工場での労働者の作業を要素動作に分解し、各要素動作に必要な時間を計測して、標準的作業時間を算出しました。そして、作業に使用する工具や手順などを標準化しつつ、労働効率が良い大量生産方式を考案しました。1911年に出版された『科学的管理法の原理』(The Principles of Scientific Management)はその集大成です。

生産計画の立案と実行を司る管理者を労働者と分離し、また労働者を職務ごとに分け、高度な分業体制下で合理的かつ能率的に生産するテイラー考案のシステムは、テイラー・システムと呼ばれます。また、テイラーは、生産効率の改善で増えた収益を労働者に高い賃金として還元することで、労働者の不満を抑えられるので、労働組合や労働争議が不要になると主張しました。その労使協調の理念は、テイラリズムと呼ばれます。

武藤は、いち早くテイラー・システムを自分の工場に導入して、成果を上げました。そして「科学的操業法」を補習教育の一科目にしました。武藤は、テイラリズムの理念にも共鳴しましたが、「科学的操業法」が物質面に偏りすぎていると感じ、1915年に「精神的操業法」を考案しました。労働者はたんなる高賃金だけでは満足しないので、良好な人間関係が必要だというのです。また、1920年には「家族式管理法」を提案しました。家族がやるように、上下の関係を超えて、意思疎通を盛んにする方針を打ち出したのです。

武藤は、テイラーのアメリカ的な民主主義が日本になじまないと感じて、経営者を父親、労働者を庇護すべき子と位置付けるパターナリズムの色彩が強い経営方法に改作しました。米国は民主主義の国ですが、そんな米国にも、テイラリズムをパターナリズムの色彩が強い経営方法に改作して、大きな成功を収めた経営者がいます。自動車王、ヘンリー・フォード(Henry Ford, 1863年 – 1947年)です。

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フレデリック・テイラー(左)『科学的管理法の原理』の表紙(中央)ヘンリー・フォード(右)

ヘンリー・フォード

フォードは、テイラー・システムを自動車生産に適用しました。労働者の無駄な動きを減らすために、ベルトコンベアを用いたライン生産方式を導入し、安価な自動車を大量生産したのです。労働者の作業は、細分化され、標準化され、単調で退屈になったので、人材をつなぎとめるために、フォードは賃金を当時の相場の倍となる日給5ドルに引き上げました。労働者の収入の増加は、自社製の安価な自動車の購入を可能にし、そうした自動車の需要増大がさらに自動車の大量生産を促進するという好循環が生まれました。

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ベルト・コンベアを用いたアセンブリー・ラインで働くフォード社の労働者たち。[12]

フォードは、労働者を高給で優遇する一方で、労働者の私生活にまで干渉し、風紀を取り締まりました。それはまるで子供を躾ける父親のようなやり方でした。労働組合の結成にも反対で、組合結成を阻止するために、威嚇や暴力も厭いませんでした。武藤は、労働組合の結成に理解を示していたので、フォードの福祉資本主義は武藤のよりも厳しいパターナリズムであったと言えます。

フォード版テイラリズムは、フォーディズムと呼ばれます。ナチズムがフォーディズムの影響を受けていたことは、22年前の記事「フォーディズムとナチズム」で指摘した通りです。ファシズムは、国家レベルのパターナリズムなのですから、これは自然なことです。ドイツと日本のみならず、米国も世界恐慌によるデフレを集産主義的な財政政策で克服しようとしました。第二次世界大戦の本質が戦争ケインズ主義によるデフレからの脱却にあったことは、「ニューディールは成功したのか」で述べたとおりです。岡崎と奥野は、重化学工業化と戦時経済化の過程で日本的経営の原型が生まれたと主張しましたが、同じ過程は他の先進国にもありました。世界恐慌から1970年代に至る時期に、日本のみならず、他の先進国でも集産主義的な混合経済の傾向が続きました。そのような中、日本的経営という日本独自の経営スタイルが確立した理由はなんであるのかを次の節で考えましょう。

日本の経営が特殊化した過程

武藤は、海外のパターナリズムから影響を受けつつも、直輸入することなく、独自の経営手法を編み出しました。武藤に最も強い影響を与えた思想は、恩師福沢の「独立自尊の精神」でした。この節では、武藤による独立自尊の実践から日本的経営の原型が作り出され、それが太平洋戦争、戦後民主主義の歴史的過程で、どのように完成していったかを辿りながら、日本的経営が誕生した理由を解明します。

独立自尊の武藤型実践

「独立自尊」は、福沢が晩年に考案した四字熟語ですが、「独立自尊」に相当する思想自体は著作活動の早い段階から福沢の主張の中心を形成していました。1872年に初版が出版された代表作『学問のすゝめ』にも、「一身独立して一国独立する」という理念が掲げられています。1882年に『時事新報』を創刊した時の「本紙發兌之趣旨」にも、「唯我輩ノ主義トスル所[13]」としてこの思想が位置付けています。

当時の日本は、欧米列強の属国となる可能性があったので、列強と肩を並べる先進国として独立することが至上命題でした。そのためには、国民それぞれが独立すべしというのが福沢の考えです。江戸時代、幕府は「民は由らしむべし、知らしむべからず」という方針で統治していました。鎖国時代ならそれでよかったけれども、開国して列強と競争する時代になると、愚民政策は国を亡ぼすことになります。そこで、福沢は、国民に学問を勧め、独立を促したのです。

独立とは自分にて自分の身を支配し他によりすがる心なきを言う。みずから物事の理非を弁別して処置を誤ることなき者は、他人の智恵によらざる独立なり。みずから心身を労して私立の活計をなす者は、他人の財によらざる独立なり。人々この独立の心なくしてただ他人の力によりすがらんとのみせば、全国の人はみな、よりすがる人のみにてこれを引き受くる者はなかるべし。[14]

ここからも明らかなように、福沢が説く独立は、判断力の独立のみならず、経済力の独立をも含意していました。福沢は、官に依存していた当時の民間事業者を次のように痛烈に批判しています。

およそ民間の事業、十に七、八は官の関せざるものなし。これをもって世の人心ますますその風に靡(なび)き、官を慕い官を頼み、官を恐れ官に諂(へつら)い、毫(ごう)も独立の丹心(たんしん)を発露する者なくして、その醜体見るに忍びざることなり。[15]

福澤が、明治政府から出仕を求められたにもかかわらず、仕官を辞退し、在野の教育者としての立場を貫いたのは、彼の独立自尊の精神ゆえのことです。福沢に心酔した武藤も、経営者として独立自尊を実現したのですが、官に依存するまいと独立自尊を貫いた結果、教育や福祉といった本来国家がすべきことまで企業内で実施し、その結果、鐘紡はあたかもミニ国家ともいうべき独立性を持つようになりました。

武藤は、福沢の教えに忠実であったつもりかもしれません。しかし、武藤が鐘紡の独立自尊を高めたことで、そこで働く労働者の独立自尊が失われるという皮肉な結果が生じました。福沢が独立を求めたのは、経営者のような少数の指導者だけではなく、国民全員です。『学問のすゝめ』でも、以下のように書いています。

仮りにここに人口百万人の国あらん。このうち千人は智者にして九十九万余の者は無智の小民ならん。智者の才徳をもってこの小民を支配し、あるいは子のごとくして愛し、あるいは羊のごとくして養い、あるいは威(おど)しあるいは撫(ぶ)し、恩威ともに行なわれてその向かうところを示すことあらば、小民も識(し)らず知らずして上の命に従い、盗賊、人殺しの沙汰もなく、国内安穏に治まることあるべけれども、もとこの国の人民、主客の二様に分かれ、主人たる者は千人の智者にて、よきように国を支配し、その余の者は悉皆(しっかい)何も知らざる客分なり。すでに客分とあればもとより心配も少なく、ただ主人にのみよりすがりて身に引き受くることなきゆえ、国を患(うれ)うることも主人のごとくならざるは必然、実に水くさき有様なり。[16]

「あるいは子のごとくして愛し、あるいは羊のごとくして養い」の件は、経営者が労働者を、ちょうど父親が子を愛し、養うかのごとく厚遇する武藤の家族主義を彷彿とさせます。もとより、日本的経営の原型が、武藤の福沢に対するたんなる無理解から生まれたと言うつもりはありません。福沢の思想形成期には、まだ労働争議は社会問題化していなかったので、武藤は、新たな時代の問題を解決すべく、彼なりに工夫して家族主義的経営を考案したということなのでしょう。

戦時下での集産主義化

鐘紡は、当時の日本で最も成功した企業であったため、その後、他の多くの企業も鐘紡の経営手法を真似るようになりました。政府は相変わらず自由放任の経済政策を採っていたものの、むしろ政府が自由放任だからこそ、民間企業が、頻発する労働争議の問題を自分たちで解決しようとしてパターナリスティックな経営を実践したと見るべきでしょう。

しかし、第一次世界大戦終結後、日本では、戦後恐慌、震災恐慌、金融恐慌、昭和恐慌と相次いで恐慌が起き、民間だけでの取り組みに限界が生じ、自由放任的な経済政策が疑問視されるようになりました。1922年にソビエト連邦が成立すると、社会主義革命によって資本主義経済の限界を克服する方法が模索されました。日本は、国体護持を至上命題としていたので、社会主義革命は無理でしたが、天皇制と両立する国家社会主義なら、実現可能でした。

北一輝(きたいっき, 1883年 – 1937年)は、元々は社会主義者でしたが、国家社会主義に転向し、1923年に『日本改造法案大綱』を出版しました。この案では、天皇が大権を発動することによって三年間憲法を停止し、戒厳令下のもと、華族制と貴族院を廃止し、私有財産の限度を設定して、限度超過財産を没収し、私企業も規模を制限して、限度超過の企業を国有化し、階級対立を解消する計画が提示されています。天皇主権を認めつつ、それを逆手にとって、社会主義革命を実現しようとしたのです。一般に右翼と左翼は、対極にある思想と思われていますが、集産主義によって貧困問題を解決しようとする点で、両者には共通点があります。少なくとも戦前の革新右翼は、革新左翼の代替としての性格が強かったのです。

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北一輝(左)と二・二六事件事件で決起した青年将校たち(右).

1936年に、北の影響を受けた皇道派の陸軍青年将校らがクーデター(二・二六事件)を決行しましたが、肝心の天皇が親政を拒否したため、失敗に終わり、北は実行犯たちとともに処刑されました。二・二六事件の翌年に内閣を発足させた近衛文麿(このえふみまろ, 1891年 – 1945年)は、発足直後に始まった日中戦争の長期化に備え、1938年に国家総動員法を成立させ、以後、日本を戦時経済に移行させました。近衛は、共産主義やファシズムによる集産主義を時代の流れと認識し、新体制運動を開始します。近衛が、1940年に閣議決定した経済新体制確立要綱で確立しようとした経済新体制は、北が構想した国家社会主義の代替でした。

岡崎と奥野が主張するように、戦後も続く政府による統制経済は、戦時経済への移行とともに始まりました。では、日本的経営の三種の神器もこの時代に大いに普及したのでしょうか。年功賃金は、表向き戦間期に普及したように見えますが、実際には技能水準が重視されており、勤続年数とともに技能水準が上がったので、結果として年功賃金になったにすぎなかったようです[17]。終身雇用も普及には程遠く、総動員法を発動して労働者の移動防止を強化したにもかかわらず、賃金統制に不満を抱いた労働者の移動が絶えませんでした[18]。企業別労働組合に至っては、すべて解散となり、代わりに、労使協調を理念とする大日本産業報国会が結成されました。労働組合が復活するのは、戦後になってからなので、項を改めて、なぜ企業別労働組合になったのかを説明しましょう。

企業別労働組合の起源

アベグレンが指摘したように、日本の労働組合は欧米の労働組合とは大きく異なります。欧米では、個々の労働者が産業別あるいは職業別労働組合に所属し、企業別労働組合はそれらの支部にすぎません。それゆえ、労働者は産業と職務を変えることなく、企業を変えて雇用を維持します。これに対して、日本では、個々の労働者が企業別労働組合に所属し、産業別労働組合は企業別労働組合の連合にすぎません。それゆえ、労働者は企業を変えることなく、同一企業内で職務を変えて雇用を維持します。

この違いはなぜ生まれたのでしょうか。日本の社会学者、木下武男(きのしたたけお、1944年 – )は、ヨーロッパにおける労働組合の遠祖を中世のクラフト・ギルド(手工業者の職業団体)に求めて、この違いを説明しています。中世日本にも徒弟制度はありましたが、ヨーロッパのように同業の親方がギルドを結成し、対外的独占と対内的平等を実現することはありませんでした。そして、「ギルドの不在という伝統は、日本で職業別労働組合を確立する上での困難な土壌となり、職業別組合の未確立は産業別組合を日本で創り出すマイナスの条件となった[19]」と言っています。

もとより、こうした歴史的背景の違いは過大評価すべきではありません。ヨーロッパのギルドは、絶対王政の時代に衰退して、消滅したので、現代の労働組合と直接結びつきません。欧米も、日本も、産業革命の初期の段階においては、労働組合が存在しない自由放任主義経済だったのです。1824年に、英国が団結禁止法を廃止し、労働組合の結成を合法化したのを皮切りに、欧米では、労働組合が次々に結成されるようになりました。1897年に、米国に出稼ぎに出ていた日本人たちが、欧米の影響を受けて、労働組合期成会を結成しました。このころには、終身雇用の慣習はまだなかったので、欧米型の労働組合が組織化される可能性はありました。

しかし、欧米型の労働組合が組織化される前に、日本は戦時経済に突入し、1940年にはすべての労働組合が解散を余儀なくされました。代わりに大日本産業報国会が結成されたことは既に述べました。ここに、国家レベルでのパターナリズムが完成しました。企業レベルでのパターナリズムが、経営者を父とする家族主義だとするなら、国家レベルでのパターナリズムは、天皇を父とする家族主義です。それは、まさに国「家」だったのです。

敗戦後、日本を占領した連合国軍は、日本の再軍事大国化を阻止すべく、権威主義的なパターナリズムの解体に着手しました。連合国軍といっても、実質的には、米国であり、米国は、自国の民主主義を模範に日本を民主化しようとしました。もしもその方針のままなら、日本の経営と雇用のスタイルは、米国に近いものになっていたかもしれません。実際、1947年に労働基準法が制定された当時、終身雇用は想定されていなかったので、30日前の予告または30日分以上の平均賃金を支払えば、原則として労働者を解雇できると定められました。その結果、終身雇用は、日本的経営の本質であるにもかかわらず、2008年に労働契約法が制定されるまでの間、法的根拠を持たず、もっぱら判例法理(個別事案の判決の蓄積で形成された法理)により、法と実際の雇用慣行との乖離が埋められていたのです。

労働組合の方も、米国は、自国のアメリカ労働総同盟・産業別組合会議をモデルに組織化させる予定でしたが、結局のところそうなりませんでした。マッカーサーが、日本共産党主導の2.1ゼネストに中止命令を出した1947年を転機に、占領政策が転換されたからです。もしも2.1ゼネストが実行されていたなら、日本で共産主義革命が成就していたかもしれません。しかし、1947年の冷戦開始とともに、米国の対日政策が非軍事化・民主化から「共産主義の防壁」化へと変更されました。共産主義革命を阻止するためには、日本全国の労働者が同じ労働組合に加盟して団結するよりも、企業ごとに労働組合が分断され、終身雇用の労働者が企業と運命共同体になっている方が好都合です。かくして、戦前のパターナリズムが、部分的にとはいえ、復活したのです。

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1956年に開催された総評(日本労働組合総評議会)の定期大会[20]。後に連合(日本労働組合総連合会)となった総評は、日本共産党と結びついた産別(全日本産業別労働組合会議)とは異なり、日本社会党を支持した。今でも連合は共産党と犬猿の仲にあり、労働組合を分断して共産主義革命を阻止する作戦の影響は、現代まで続いている。

1947年以降、農地改革も実行されました。小作農家を自作農化する構想は、新体制運動を推進していた近衛のブレインが作成した農業政策要綱に見られますが、革新的すぎたため、閣議決定が見送られ、1941年の企画院事件で最終的に挫折しました[21]。当時は左翼的な政策とみなされていたのです。それなのに、1947年以降、農地改革が実施されたのは、土地の再分配という疑似社会主義的な政策を実行すれば、社会主義革命を阻止できるともくろんでいたからです。実際、それまで共産党の支持者が多かった小作農は、土地をもらったとたん保守化し、今日に至るまで自民党の重要な票田となっています。

日本的経営も、社会主義革命を阻止するために認められた疑似社会主義的な妥協の産物と言えます。米国は、当初、日本の年功序列や年功賃金に否定的な反応を示しました。年齢とともに必要な収入が増えていくので、年功賃金は、カール・マルクス(Karl Marx, 1818年 – 1883年)の「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る[22]」という共産主義の理念に合致していますが、能力に応じて働き、能力に応じて受け取るという資本主義の原則に反しています。それでも、当時は餓死者が出るほど貧しかったこともあって、年功賃金が採用されました。

年功序列と年功賃金は、年齢ではなくて、勤続年数に基づいているので、終身雇用が前提となります。日本的経営の完成に最後に残された課題は、ブルーカラー労働者とホワイトカラー労働者の身分差の解消でしたが、この特徴も、既に述べたように、1960年代の末までには実現しました。こうして、新卒一括採用された「社員」が、ブルーカラーとホワイトカラーの区別なく、ジョブ・ローテーションとOJTによりジェネラリストとして育成され、勤続年数に応じた賃金を受け取り、定年まで同じ会社と同じ労働組合に所属するという日本的経営での雇用形態が完成したのです。

これまで見てきたように、日本的経営は決して一朝一夕で確立したのではありません。日本的経営の生成過程には、大きく分けて戦前、戦中、戦後の三つの段階があります。日本的経営の起源をどの段階に求めるにせよ、それが誕生した理由はみな同じです。

  1. 武藤による先駆的実践の段階:離職、労働争議、さらには社会主義革命を防ぐために、温情主義と家族主義により、労働者の不満を解消しようとした。
  2. 戦時体制下での集産主義の段階:深刻なデフレ下で社会主義革命が起きることを防ぐために、国家社会主義による集産主義的な財政出動により、デフレを克服しようとした。
  3. 戦後民主主義での完成段階:冷戦の開始に伴って、日本を共産主義の防壁とするために、米国は民主化路線を転換し、疑似社会主義的な日本的経営を容認した。

日本的経営とは、本物の社会主義革命あるいは共産主義革命を阻止するための妥協策として生み出された疑似社会主義的な経営方法であるというのが本記事の結論です。1991年にソ連が崩壊して以降、社会主義革命や共産主義革命を望む人はほとんどいなくなりました。もう革命を心配しなくてもよい以上、疑似社会主義的遺物は一掃されてしかるべきなのですが、長年続けてきた慣行を全廃することは容易ではなく、このために日本経済は、失われた30年と呼ばれる長期低迷から抜け出せずにいるのです。

参照情報

関連著作
関連動画

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Source: YouTube.
関連年表
  • 1824年、英国が、団結禁止法を廃止し、労働者団結法を制定。
  • 1833年、英国が、一般工場法を制定(児童労働の禁止、労働時間の制限など)。
  • 1835年、福澤諭吉誕生。
  • 1848年、フランスで二月革命。ドイツで三月革命。マルクスとエンゲルス『共産党宣言』発表。
  • 1853年、ペリーが浦賀に来航。
  • 1854年、日米和親条約。
  • 1858年、日米修好通商条約。福澤諭吉、慶應義塾大学を創立。
  • 1862年、ビスマルク、プロイセン首相に就任。
  • 1864年、第一インターナショナル結成。
  • 1867年、武藤山治誕生。マルクス『資本論』を出版。
  • 1868年、戊辰戦争開始。明治維新。
  • 1869年、ビスマルクが労働者の団結権を保護。
  • 1871年、英国が労働組合法を制定し、ストライキ権を認める。ドイツ帝国成立。社会民主労働党がゼネラルストライキ。
  • 1872年、アルフレート・クルップが、クルップ製鋼会社内で疾病保険、養老保険などを整備して労働者の保護を図る。
  • 1878年、ビスマルクが社会主義者鎮圧法を制定。
  • 1882年、福澤諭吉『時事新報』を創刊。
  • 1883年、ビスマルクが疾病保険法を制定。マルクス死去。
  • 1884年、ビスマルクが労災保険法を制定。フランスが労働組合を合法化。武藤山治、慶應義塾を卒業。
  • 1885年、武藤山治、米国に留学。
  • 1886年、米国でアメリカ労働総同盟が結成される。メーデー開始。日本で最初のストライキ。
  • 1888年、ビスマルクが障害・老齢保険法を制定。武藤山治、日本に帰国。
  • 1889年、第二インターナショナル結成。
  • 1890年、ビスマルク失脚。社会主義者鎮圧法廃止。
  • 1892年、朝吹英二、鐘淵紡績専務に就任し、職工の待遇改善に努める。
  • 1893年、武藤山治、三井銀行に入行。
  • 1894年、朝吹の推薦で、武藤山治が鐘淵紡績兵庫分工場支配人に就任。
  • 1896年、鐘淵紡績兵庫工場操業開始。
  • 1897年、労働組合期成会の結成。
  • 1899年、武藤山治、鐘紡支配人に就任。
  • 1901年、福澤諭吉、死去。
  • 1903年、フレデリック・テイラー『工場管理』を出版。ヘンリー・フォードがフォード・モーター・カンパニーを設立。
  • 1905年、武藤山治、クルップ製鋼会社の事例を参考に、鐘紡共済組合を設立。
  • 1908年、ヘンリー・フォード、T型フォードを発表。
  • 1911年、英国が国民保険法を制定。フレデリック・テイラー『科学的管理法の原理』を出版。
  • 1914年、ヘンリー・フォード、従来の賃金のほぼ2倍に相当する日給5ドルを提示。1週間の労働時間も削減。
  • 1917年、ロシア革命。武藤山治、男女工に対して実業補習教育を実施
  • 1918年、第一次世界大戦終結
  • 1919年、ヴェルサイユ条約締結。武藤山治、ワシントンで開催された第一回国際労働会議に資本家代表として出席。第三インターナショナル(コミンテルン)結成。
  • 1920年、戦後恐慌。5月2日、日本初のメーデー。
  • 1921年、武藤山治、鐘紡の社長に就任。
  • 1922年、ソビエト連邦成立。日本農民組合の結成。治安警察法改正。日本共産党が秘密裏に結党。健康保険法制定。
  • 1923年、関東大震災と震災恐慌。北一輝『国家改造案原理大綱』出版。
  • 1924年、武藤山治、衆議院議員に当選。
  • 1925年、治安維持法と普通選挙法が成立。日本労働組合評議会結成。
  • 1927年、蔵相片岡直温の失言により金融恐慌。
  • 1929年、ウォール街大暴落。世界恐慌。トロツキー追放。
  • 1930年、武藤山治、鐘紡社長を辞任。
  • 1931年、満州事変開始。金輸出再禁止。高橋財政が始まる。
  • 1932年、武藤山治、政界を引退し、時事新報社に入社。五・一五事件。
  • 1933年、フランクリン・ルーズベルト、米国大統領に就任し、金本位制から離脱。
  • 1935年、米国でワグナー法制定。団結権、団体交渉権を認める。産業別組織会議結成。
  • 1934年、武藤山治、「番町会問題をあばく」を掲載し、暗殺される。
  • 1936年、ケインズ『一般理論』出版。二・二六事件。
  • 1937年、近衛内閣発足。盧溝橋事件。日中戦争開始。
  • 1938年、国家総動員法制定。日本が戦時経済に移行。第四インターナショナル結成。
  • 1939年、第2次世界大戦開始。
  • 1940年、日独伊三国軍事同盟。経済新体制確立要綱。労働組合が解散し、大日本産業報国会結成。賃金統制令。
  • 1941年、日本軍真珠湾攻撃。太平洋戦争開始。
  • 1945年、太平洋戦争終結。治安維持法廃止。財閥解体。労働組合法公布。
  • 1946年、公職追放。極東国際軍事裁判開廷。労働関係調整法制定。日本国憲法公布。
  • 1947年、マッカーサーの中止命令により2.1ゼネスト中止。冷戦開始(マーシャル=プランとコミンフォルム結成)。労働基準法公布。日本国憲法施行。民法改正。
  • 1948年、公務員のストライキが禁止される。マッカーサーが日本に経済安定九原則を指令。
  • 1949年、ドイツ分割。NATOの創設。中国内戦の終結と中華人民共和国の成立。シャウプ勧告。
  • 1950年、朝鮮戦争開始。警察予備隊令を公布・施行。旧職軍人の公職追放解除。
  • 1951年、マッカーサー解任。板門店で朝鮮休戦協定署名。サンフランシスコ平和条約調印。日米安全保障条約調印。
  • 1952年、日本主権回復。破壊活動防止法公布・施行。公安調査庁設置。
  • 1953年、朝鮮戦争終戦。ヨシフ・スターリン死去。
  • 1954年、自衛隊発足。防衛庁設置。
  • 1955年、ワルシャワ条約調印。自由民主党結成し、保守合同なる。神武景気。ジェームズ・アベグレン来日。
  • 1956年、日本の国際連盟に加盟。
  • 1958年、ジェームズ・アベグレン『日本の経営』出版。日本的経営の概念が知れ渡る。
注釈一覧
  1. 武藤山治「我国労働問題解決法」『経済雑誌ダイヤモンド』ダイヤモンド社. 1919年8月1日号.
  2. Glasshouse Images. “Garment Workers on Strike, New York City, USA, Circa 1913." Licensed under CC-0.
  3. このパンフレットは、1921年に平井国三郎編『鐘淵紡績株式会社従業員待遇法』として出版されました。
  4. 岡崎哲二, 奥野正寛「現代日本の経済システムとその歴史的源流」『現代日本経済システムの源流』第一章. 日本経済新聞社 (1993/6/1). p. 2.
  5. 岡崎哲二, 奥野正寛「現代日本の経済システムとその歴史的源流」『現代日本経済システムの源流』第一章. 日本経済新聞社 (1993/6/1). p. 3.
  6. 小熊英二『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』講談社現代新書. 講談社 (2019/7/17). p. 230.
  7. 小熊英二『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』講談社現代新書. 講談社 (2019/7/17). p. 240.
  8. 平井国三郎編『鐘淵紡績株式会社従業員待遇法』鐘淵紡績営業部. 1921年初版. 1922年再版. p. 57.
  9. 山本長次『武藤山治: 日本的経営の祖 (評伝・日本の経済思想) 』日本経済評論社 (2013/9/5). p. 115.
  10. 田畑和彦「江戸期大商家の奉公人管理の実態」『静岡産業大学国際情報学部研究紀要』3 (2001). p. 66.
  11. 『改造』清水書店. 第1巻第4号. 1919年7月.
  12. Workers on the first moving assembly line put together magnetos and flywheels for 1913 Ford autos.” Highland Park, Michigan. Licensed under CC-0.
  13. 福沢諭吉「本紙發兌之趣旨」『時事新報』明治15年3月1日.
  14. 福沢諭吉『学問のすすめ』1872-1876年. 三編. 青空文庫. Accessed on 2023/09/24.
  15. 福沢諭吉『学問のすすめ』1872-1876年. 四編. 青空文庫. Accessed on 2023/09/24.
  16. 福沢諭吉『学問のすすめ』1872-1876年. 三編. 青空文庫. Accessed on 2023/09/24.
  17. 尾髙煌之助「「日本的」労使関係」『現代日本経済システムの源流』第五章. 日本経済新聞社 (1993/6/1). p. 156-157.
  18. 高岡裕之『総力戦体制と「福祉国家」― 戦時期日本の「社会改革」構想』岩波書店 (2011/1/29). p. 154-156.
  19. 木下武男『労働組合とは何か』岩波新書新赤版 1872. 岩波書店 (2021/3/22). p. 16.
  20. 画報現代史 補巻第15集』1957年10月15日. Licensed under CC-0.
  21. 高岡裕之『総力戦体制と「福祉国家」― 戦時期日本の「社会改革」構想』岩波書店 (2011/1/29). p. 215.
  22. “Jeder nach seinen Fähigkeiten, jedem nach seiner Leistung (各人からはその能力に応じて、各人にはその必要に応じて)" ― Karl Marx. Kritik des Gothaer Programms – Randglossen zum Programm der deutschen Arbeiterpartei. (1875).