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カントの純粋理性批判

1997年9月1日

自然科学者は、自然法則を探求するが、なぜ自然に法則があるのかまでは探求しない。人間が発見した法則にはどれだけの妥当性があるのか。これは科学ではなくて、哲学の問いである。カントが『純粋理性批判』で提示した批判哲学を検討しながら、超越論的哲学とは何かを考えてみよう。[1]

カントの純粋理性批判

1. 超越論的哲学としての純粋理性批判

1.1. 超越論的哲学とは何か

まずは、カントによる「超越論的哲学」の定義を確認しよう。「超越論的という言葉は、私の場合には、決して物に対する私たちの認識の関係を意味するのではなくて[これには経験的という言葉が使われるのであって]、たんに認識能力に対する私たちの認識の関係を意味するに過ぎない[2]」。したがって、超越論的認識とは、「対象にではなく、むしろそれがアプリオリに可能であるかぎりでの対象についての私たちの認識様式一般に携わる認識[3]」である。

カントによれば、哲学とは「全ての哲学的認識のシステム[4]」である。定義項に被定義項の「哲学」が含まれているので、定義になっていない思うかもしれないが、重要なことは、哲学は、«認識されるシステム»ではなくて、«認識するシステム»であるということだ。他方で、超越論的哲学は「学の理念」すなわち「純粋理性の全ての原理のシステム[5]」と定義されている。最初に引用した「超越論的」の定義を考慮に入れるなら、超越論的哲学とは、たんなる«認識するシステム»ではなくて、«認識するシステムを認識するシステム»であると言うことができよう。カントにおいては、「原理 Prinzip」は認識行為に認識内容を構成させたり、行為自体を統制したりする機能を持っているので、《認識行為の規範のシステム》とでも言い換えられる。超越論的哲学は超越論的統覚(超越するという認識行為の機能のこと)の哲学であると言ってもよい。

ただし、カントは「超越論的 transzendental」という形容詞を使っても、「超越する transzendieren」という動詞は一度も使っていない。とはいえ、もともとこの形容詞は、ラテン語の動詞 transcendere に由来しており、前者の形容詞は後者の動詞から派生してきたものと見なしてよい。だから、超越論的哲学の根源を超越行為に求めることは語源的にも不当ではない。かつて transzendental に、「アプリオリ」の訳語と区別のつきにくい「先験的」なる訳語があてられたが、それが不適切である所以も、このカント哲学の行為論的性格にある。

このような《行為論的=統覚中心的》なカント理解は、なにゆえにそもそもカントの哲学が哲学史上画期的意義を持つのかを考え直すなら、正当化されるであろう。しばしば、ラインホルト[6]以来、カントは大陸における悟性重視の合理論的独断論と英国における感性重視の経験論的懐疑論を総合したと評されているが、このような位置付けはミスリーディングである。

ライプニッツにおいても「永遠の真理」とは別に「事実の真理」が認められていた[7]し、ヒュームにおいても観念と印象が区別され、観念の関係の学に確実性が認められていた[8]のであるから、いわゆる感性/悟性の二元論はカント哲学の本質的特徴ではない。カントの功績は、以下の三段論法によって示された《大前提=対立地平》そのものを克服した点にあるのであって、小前提を足して二で割った点にあるのではない。

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前カント哲学の地平

独断論は、物自体の認識の実在を認める点で超越論的(正確にはむしろ超越的)実在論であり、懐疑論は、経験的認識を本来の認識と認めない点で経験的観念論なのだが、同一地平に基づくがゆえに「この超越論的実在論者は、もともと後に経験的観念論者の役割を演じることになる[9]」のである。

これに対してカントは、まず物自体を私たちの認識の対象としない超越論的観念論の立場を採り、したがって経験的認識に学的認識としての地位を認める経験的実在論の立場に立つ。「それゆえ超越論的観念論者は経験的実在論者であって、現象としての物質に、推論されるのではなくて、直接知覚される現実性を認める[10]」。

もちろん、たんなる意識内在主義であるために行為論的である必要はない。にもかかわらず認識内容にではなく、(これと不可分の関係にあるのだが)認識作用に認識の制約を求める所に模写説的真理観との決別を見ることができる。カントは、いたるところで「物と知性との一致 adaequatio rei et intellectus」という伝統的真理観に引きずられているとはいえ、これが真理の定義としてはともかく、真理の基準として役に立たないことを十分弁えていたのである。

ところで認識作用としての超越(transzendieren)とは、何がどこから超越することなのであろうか。まず「超越的 transzendent」について考えてみよう。スコラ哲学においては、アリストテレスの範疇の下に包摂されない概念をトランスケンデンティア(transcendentia)と呼んでいたが、カントの謂う「超越的概念 transzendente Begriffe」もその語義を継承している。なぜなら超越的概念とは「すべての経験の限界を越え出る[11]」概念で、その「経験の可能性のアプリオリな制約[12]」がカテゴリー(範疇)だからである。内在的意識(カントが謂う所のカテゴリーによって制約された経験)を越え出ているという「超越的」の定義は、新カント学派やフッサールにおいても継承されている。そこでは《超越 transzendieren》は《主観からの客観の超越》である。主観は、いわば客観によって超越されているのであって、主観自体は超越せず、したがってこのままでは不可知論である。

カントにおいては、しかし「超越論的と超越的は同じでない[13]」。超越論的哲学は客観が超越的であることを可能ならしめるわけではないので、「超越的」と「超越論的」は、ハイデガーの謂う「存在的 ontisch」と「存在論的 ontologisch」と同じ関係にはなく、 むしろ「経験的」と「超越論的」が「経験的」と「経験論的」の関係にある。「超越論的」が「経験論的」だというのは奇異に聞こえるかもしれない。だが経験、とりわけ「可能的経験」ないし「経験一般」と言われる時の経験は、アポステリオリな感覚とは違って、アプリオリに総合された《自然》を意味する。「それゆえ、経験の可能性一般は同時に自然の普遍的法則である[14]」。

超越論的客観を構成する(konstruieren)つまり認識する超越論的統覚(超越論的主観)は、主観から超越する客観をおのれのうちへと取り入れるというあり方において客観から超越する、つまり「今私にはかくかくに思われる」という時間内的臆断的有限性から超越する。この意味において、超越論的認識とは《超越することを超越すること》なのである。超越論的超越としての超越が、カント(但しフィヒテに近付けて解釈されたカント)が謂う所の自由である。

だがはたして超越者は、超越論的認識によって内在化されうるのだろうかとひとは訝しく思うかもしれない。たしかに、カントにおける超越的概念は形而上学的な物自体であって、フッサールなどが云う経験的な超越者とは異なる。しかしもしひとが「物自体」で以って人間の認識の進歩とは無関係に現象界の背後に超越している神秘的な別世界を考えているならば、それはカントに対する誤解である。彼自身ある遺稿で述べているように、「物自体(ens per se)は、現象と別の客観ではなく、同じ客観への表象の異なった関係(respectus)である[15]」。この異なった表象の関係とは、構成的にではなく統制的に理性を使用することでの認識への係りということを意味している[16]

物自体を意識から端的に超越させることができないことに関しては、ヘーゲルの周知の論法[17]が有効である。物自体は無限で絶対的な理念なのであるが、もしそれが私の意識を超越し、私の意識の外にあるならば、言い換えれば、もし物自体がそれから区別された存在者と相対しているなら、それはもはや絶対者ではなくなってしまう。したがって物自体と超越論的統覚は、外部と内部の関係ではなく、全体と部分の関係にある。つまり物自体の理念は、理性を統制的に使用する限り、意識内在的であるのであり、物自体は、超越論的統覚が自己を究極的に実現することによって自己を実現する性質の理念なのである。

だがそのようなことは、少なくとも『純粋理性批判』では不可能であり、だからこそ物自体の認識は永遠の課題でありうる。そこで厳密に言えば、物自体は究極的全体性の地平(限界)である。しかしこの点は後の超越論的弁証論で触れることにして、ここではとりあえず形而上学的超越は経験的超越の極限値であって、前者は後者と量的に連続しており、けっして質的に違うものでないことを断っておく。

1.2. 超越概念の二義性

超越的超越とそれの超越としての超越論的超越という超越概念の二義性は、《Subjekt》概念の二義性に対応している。前者においては「主語」としての Subjekt が、後者では「主観」としての Subjekt が超越する。主語といっても、例えば判断「この花は赤い」における名辞「この花」のような文法的な主語ではない。この判断は「このxは花でありかつ赤い」というようにパラフレーズされるが、その概念「赤い花」に対応する個物xとしてのメタ文法的な主語が属する実体のことである。実体(Substanz)とは、「持続性の感性的規定を消去するならば、(他の何物の述語とならずに)主語 Subjekt として考えられうるある物以外の何をも意味しない[18]」。《Subjekt》は、カントにおいては、たいがい「主観」の意味で使われるのだが、ここの引用から明らかなように、現象の「基体 Substrat」あるいはラテン語風に Substratumという意味でも使われる。カントによれば、「全ての実在的な物、即ち事物の現実存在に属する物の基体実体である[…]したがって持続的なものは[…]現象における実体、即ち全ての変易の基体として常に同一であり続けるものの実在的なものである[19]」。要するに基体とは実体であり、実体とは基体のことなのである。

ちょうど Substrat が sub-sternere(下に-広げる)の完了分詞 substratum に、Substanz が sub-stare (下に-立つ)の名詞 substantia に由来するように、Subjekt は sub-icere(下に-投げる)の完了分詞 subjectum から来ている。これに対して、Objektは ob-icere(前に-投げる)の 完了分詞 objectum から派生していて、objectum は「前に投げられたもの」として subjectum よりも、近代的な意味での“主観”に近いところにある。その心的な性格ゆえに、objectum は「客観」と訳さずに、「客象」と訳れることがある。例えば、デカルトの『省察』[20]における réalité objektive は、所謂客観的実在性ではなくて、意識内容としての《概念的客観性=客象的実在性》である。 「下に投げられた基体・実体」としての主語 Subjekt が、デカルトからカントにかけての近代以降、「主観」の意味に転倒する。この語誌的哲学史的経緯は同時に超越論的哲学の論述の過程でもある。

私は先にカントが模写説的真理観を斥けた旨を記したが、「所与の感性的な現象界は信用できないのであって、その背後に横たわる本体界と判断が一致していることが真理なのである」という模写説は次の二つの難点を持っている。

  1. 判断と本体界が一致しているという認識自体が判断なので、判断が真であることを確認しようとすると無限後退に陥る。このアポリアを解消するためには、判断の真偽は、判断と本体界との関係ではなく、むしろ判断と判断の関係で決まるという整合説を採らなければならない。
  2. 私たちは感覚的認識よりも科学的認識の方が本体界に近いと考えるが、科学的認識は本体界から現出した感覚を材料に構成されたものであるから、むしろ感覚よりも本体界から遠いないし間接的であるということになる。だから感覚の背後にある本体界と考えていたものは、実は意識それ自体であるということに意識は気が付く。

こうして意識は対象の認識から意識自身の自己認識へと認識の課題を変えていく。これが本体界としての基体・実体 Subjekt が主観 Subjekt へと転倒した経緯であり、また超越的超越が超越論的超越によって超越される経緯でもあるわけである。もとよりカントにおいては人間悟性/理性は有限であるから、少なくとも『純粋理性批判』においては「主体は実体なり」というヘーゲル的なテーゼ[21]は唱えられない。カントは「誤謬推論」を批判するある個所[22]で《思惟の持続的な論理的主語 das beständige logische Subjekt des Denkens》と《偶有属性を担う実在的な主体 das reale Subjekt der Inhärenz》との混同を戒めているが、それは実体を「実体現象 substantia phaenomenon[23]」の意味に解する限りであって、実体を物自体的基体と理解するなら、それは理論的主観にとって自己同一されえないにしても、自己同一の目標には成りうるのである。『実践理性批判』においては、カントは「自由の主体としての自己をヌーメノン[物自体]に」して、「理論的認識においては否定され、実践的認識においては主張されるヌーメノンに適用されたカテゴリーの客観的実在性[24]」を説くに至るのだから、本文の叙述にあるように、カントの超越論的哲学を《主体=実体》のテーゼに引き付けて説明することも許されるであろう。

認識作用が《Transzendieren》なる超越論的行為であるとしても、それは行為として直接知覚されず、認識内容における超越を通して反照的に規定されるので、超越論的哲学の論述は判断の分析から始めなければならない。「超越論的主要問題[25]」が差し当って「いかにしてアプリオリな総合的判断は可能であるのか[26]」という判断の問題として提出されるのはこのためである。

ペイトンなども「超越論的」を「アプリオリ」から定義している。

すべての超越論的認識は常に純粋であるが、純粋な認識がすべて超越論的であるというわけではない。超越論的認識は批判的ないし反省的ないし哲学的認識である。すなわち認識が純粋あるいはアプリオリであるという認識である。かくして超越論的感性論が超越論的であるのは、超越論的感性論が私たちの時間空間の直観が純粋であることを示すからであり、超越論的論理学が超越論的であるのは、超越論的論理学が、人間の意識はある純粋な概念またはカテゴリーを所有することを示すからである。これに対して数学的認識は、純粋あるいはアプリオリであるが、超越論的ではない。数学がアプリオリな学問であるという認識のみが超越論的と呼ばれうる。[27]

明解な定義だが、ペイトンのこの定義では、「なぜカントは、このような認識を記述するのに“超越論的”という言葉を使ったのかという疑問が当然わいてくる。この疑問に対する答えは、何であれ憶測の域を出ないであろう[28]」。そして小著は、敢えて「憶測」で超越論的哲学を《超越》概念から定義しようとするわけである。

ペイトンの定義によれば、超越論的認識とは、認識がアプリオリであるという(二階の)認識であった。だが厳密に言えば、一階の認識はアプリオリであるだけではなく、総合的でもなければならない。その可能性が「超越論的主要問題」であるアプリオリな総合的判断は、アプリオリ/アポステリオリと分析的/総合的という二つの区別の区別によって構成されているので、まずこの両二項性の検討から始めなければならない。

アプリオリな認識とは「すべての経験からまったく独立に起きる認識[29]」であり、それには「アポステリオリに、つまり経験によってのみ可能となる認識が対置される[30]」。この定義で「独立に unabhängig」が「分離されて abgetrennt」でないことに注意されたい。アプリオリな認識は経験についての認識なのであるが、ただその認識は経験に左右されない、つまり経験的内容を変項として取りながら、それ自体は不変の関数関係なのである。「アプリオリな認識のうちで経験的なものが全く混入されていない認識を純粋な認識という[31]」。ここからして、純粋な認識(経験から分離された認識)がアプリオリな分析的判断であり、それ以外のアプリオリな認識がアプリオリな総合的判断であることが予想される。

しかし一体《純粋な認識=分析的判断》といったものがあるのだろうか。カントが分析的判断の例として挙げる「すべての物体は延長している[32]」という判断は、「物体」という観念を知っている人にとっては分析的であろうが、そうでない人にとっては総合的ではないのかと反論したくなる人がいるであろう。ところがカントは、それどころか『プロレゴーメナ』では、さらに「金は黄色い金属である」という判断まで分析的判断にしてしまっているが[33]、原子番号47の金属が黄色であるかどうかは見てみなければ分からないのであって、それゆえこれは総合的判断ではないのか。

このような疑問は、判断そのものが分析的と総合的とに分類されうるという誤解から生じる。「金は黄色い金属である」は、それが金の性質についての判断である以上総合的であるが、

  1. 「もし金が黄色い金属であるとするならば、金は黄色い金属である」
  2. 「もしすべての金が黄色い金属であるとするならば、どの金も黄色い金属である」

という判断は、同一律が恒真的である以上、金の性質と無関係に恒真的である。「それゆえ(肯定の)分析的判断とは、そこにおいては主語と述語の結合が同一性によって考えられるような判断である[34]」。

問題は同一性と分析的判断の関係である。Ⅰは「金が黄色であること」を名辞化すればたんなる同語反復であることが判明する。この点Ⅱは全称判断という全体を分析して特称判断という部分を析出して いる点で“分析的”判断の名に値するように見える。しかし「すべてのSがPであるならば、どのSもPである」は、集合に関するアプリオリな総合的判断であって、分析的判断とは言えない。してみると、すべての判断は総合的なのであって、ただ同一律に従った判断の導出の妥当性/ 判断システムの持つ整合性が分析性なのである。換言すれば、分析性は「判断 das Urteil=das Geurteilte」の性質ではなく、「判断すること das Urteilen」の性質(ないし形式)だと言える。

同一律《A=A》は、要するに《Ich denke A und Ich denke A》であって、《Ich bin Ich》の能力に基づく。この「すべての可能的表象における自己自身の全般的同一性[35]」が純粋統覚である。「ところで一つの主観における多様の統一性(Einheit 単一性)は総合的である。それゆえ純粋統覚は、全ての可能的直観における多様の総合的統一の原理を与える[36]」。これは第一版における説明である。第二版では、逆に「分析的な統覚の統一性は、総合的統一性の前提のもとでのみ可能である[37]」とされるが、これは統覚の自己同一性はアプリオリな総合の整合性から反照的に規定されるという意味であって、第一版と矛盾するわけではない。矛盾律の能力としての自己同一的な純粋統覚は、客観へと《超越》しつつ、現象を《無矛盾的=整合的》に総合し、必然的な超越論的対象を構成することによって、その相関項としてのおのれを超越論的統覚として充実する。ハイデガーが註釈したように、超越論的超越は「 …へと越えて hinüber zu …」であると同時に、「 …を越えて überweg」である[38]。すなわち現象へと超越する(感性的対象について判断をする)ことが同時に現象を超越する(感性的有限性を脱する)ことでもある。

1.3. 超越論的哲学の定式

超越論的哲学を、三つの超越(超越的超越と二つの超越論的超越)から包括的に定式化すると次のようになる。

【超越論的哲学の定式1】Die Transzendental-Philosophie ist das wissenschaftliche Selbstbewußtsein vom transzendentalen Transzendieren des transzendenten Transzendierens, durch das das Subjekt hinüber zum das Subjekt transzendierenden Objekt dasselbe Objekt überweg transzendiert.

ドイツ語によるこの定式では表現されていない Subjekt/Objekt 概念の、「基体/客象」と「主観/客観」の二つのレヴェルを区別して日本語で式述すれば、

【超越論的哲学の定式2】超越論的哲学とは、主観から超越する客観へと主観が超越すること、すなわち、判断において主語(基体)から超越する述語(客象=現象)へと基体が超越する(主語と述語が結ばれる)こと、および、主観が客観の超越的超越を超越しつつ客観を超越論的に超越することの学的自己意識である。

となる。

定式1も定式2も晦渋であるから、その意味するところをもう少し噛み砕いて説明しよう。超越論的哲学の理論的枠組は、意識/対象と経験的/超越論的という二つの区別の交差によって得られる(但しカントの表現では、“意識”は“統覚”である)。図解すると、以下のようになる。

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カントの超越論的哲学の四角形。カントは「経験的対象」という言葉は使っていないが、「経験的認識の対象 Gegenstände empirischer Erkenntnis」という言葉を「現象 Erscheinungen」の意味で使っている[39]ので、それに相当すると考えてほしい。

四つの頂点によって形成されるこの超越論的哲学の四角形 TB-TG-EG-EB は、前カント哲学(具体的には、デカルト哲学)の3項図式である

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前カント哲学の三項図式(ラテン語の表記はデカルトの用語)

とカントによって中央の軸の周りに鏡像的に転回された3項図式である

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カントによって転回された三項図式

における二つの三角形 O-M-S の総合として理解される。

中世的な遺産に多くを負っている前カント哲学においては、「前カント哲学の三項図式」のように、コギトは、基体から現象する客象(objectum)を通して基体を認識する。中世神学においては、究極的な《基体=実体》である神が、人間の認識という有限性を媒介に自己を顕現する。「カントによって転回された三項図式」の中央にある点線を軸に左右を逆転すると、「カントによって転回された三項図式」のようになる。コペルニクス的転回を経たこの新たな布置関係では、人間の主観が客観を媒介にして自分自身を認識する。

だがカントは、「前カント哲学の三項図式」を完全には払拭しておらず、『純粋理性批判』の中でも「超越論的客観は現象の原因である[40]」だとか、「外的諸現象の根底に横たわるあるもの[subjectum]、私たちの感官を触発して感官に空間・物質・形態などの表象[objectum]を与えるこのあるものは、ヌーメノン(あるいはより適切に言えば、超越論的対象)として考えられようが、だがまた同時に、諸思考の主語 [Subjekt]でもありうる[41]」などといった言い回しを繰り返している。それゆえ定式2でもその両方を盛り込んだ。「判断において主語(基体)から超越する述語(客象=現象)へと基体が超越する(主語と述語が結ばれる)こと」は「前カント哲学の三項図式」に相当し、「主観から超越する客観へと主観が超越すること」は「カントによって転回された三項図式」に相当する。そのどちらも「超越的超越の超越論的超越」であるが、後者は前者の反照として可能となる。

ところでカントは、しばしば超越論的客観あるいは超越論的対象がまるで物自体であるかのように語る。しかし超越論的客観/対象とは、本来「ただ統覚の統一の相関項として感性的直観における多様の統一に役立つだけ[42]」であり、「感性的所与からはまったく切り離されない[43]」のだから、物自体のような統覚の限界を越えた絶対的な超越性は持たない。

超越論的客観/対象とは区別された物自体を「カントの超越論的哲学の四角形 TB-TG-EG-EB」の図に位置付けると、以下のようになる。

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超越論的自己意識の歴史

この図の三角形 TG=TB-EG=TG0-EB0=TB0 の内部にある四角形 TB-TG-EG-EB の縦の長さを超越の度合いの変数としてみよう。知の進歩は指数関数的なので、対数目盛であると考えてほしい。"超越=0″ のとき、超越論的/経験的の区別はなく、四角形 TB-TG-EG-EB は緑色の線分 EG=TG0-EB0=TB0 となってしまう。これは自己意識以前の動物的状態である。EG=TG0→TG1→TG2 へと、つまり EB0=TB0→ TB1→TB2 へと上昇するにつれて(上の図で言うと、緑色の底辺から青色の四角形を経て紫色の四角形へと高さを高めるにつれ)、意識は物自体(TG)へと接近する。人間の意識と物自体との間には無限の隔たりがあるのだが、ヘーゲルの哲学においてそうであるように、意識が絶対知の高みにまで超越したとしてみよう。その時四角形 TB-TG-EG-EB は赤い線分 G-EG=TG0 となってしまい、統覚/対象の区別は消滅し、意識は世界をことごとく内に包摂する絶対者になって、《主体=実体》すなわち《TG=TB》となる。だがカントにおいてはそれが不可能であり、物自体への無限な接近が統制的に人間に課せられるのみである。

2. 純粋理性批判における感性論

カントにとって超越論的主要問題とはアプリオリな総合的判断の基礎付けである。総合的判断における感性と悟性の総合は、いかなる超越によって可能なのだろうか。まず「総合的判断」について考えよう。

2.1. アプリオリな総合判断はいかにして可能か

「総合的判断」という言葉は聊か剰語的である。というのもカントにおいては、総合とは「様々な表象を相互に結合し、その多様性を一つの認識において概念的に把握する行為[44]」であり、判断とは「私たちの諸表象における統一性の機能[45]」である、つまり判断とはすべて総合であるからである。ただハイデガーに言わせれば、主語と述語の総合としての判断は最も派生的な総合である[46]。すなわち、以下の三つの総合において、1と2が先行しており (1と2は同じこと)、しかる後に、3の総合が成立する。

  1. 多様な直観の総合:黄色い金の知覚
  2. 直観と概念の総合:「コレハ金ダ」「コレハ黄色イ金属デアル」
  3. 主語と述語の総合:「コノ金ハ黄色イ金属デアル」

このアポステリオリな総合的判断では、属性「金」と「黄色」は、対応する直観において偶然に結合している。が、この判断はアプリオリな総合的判断「スベテノ金ハ黄色イ金属デアル」と個体の記述「コレハ金ダ」から導出されることによって、その結合は必然的になる。カントがその可能性を問うている総合的判断は、もちろんそのようなアプリオリな判断である。

ではアプリオリな総合的判断において、主語と述語を必然的に総合するのは何か。

もし所与の概念[主語]を他の概念[述語]と総合的に比較するためには、それ[主語]を越え出て行かなければならないことを認めるならば、そこにおいて(worin)のみ二つの概念が総合されうる第三項が必要である。ところでしかしこの全ての総合的判断の媒介としての第三項とは何であろうか。それは[…]内部感覚であり、それのアプリオリな形式、時間である。[47]

この引用からわかるように、判断内部における主語と述語の総合(概念と概念の総合)としての Transzendieren は時間である。もちろん、感性的な時間的多様がそのまま超越論的意識であるわけではない。厳密に言えば、Transzendieren は時間の流れそのものではなくて、時間の流れを可能ならしめている時間性(Zeitlichkeit)である。

2.2. 時間性と超越論的哲学

この時間性の概念に定位して超越論的哲学の定式2を書き換えると、次のようになる。

【超越論的哲学の定式3】 超越論的反省のもとで、

(1) 時間性としての超越が

(2) 時間性からの超越を

(3) 時間的多様において超越しつつ、

(4) 時間的多様性から超越する。

超越論的自己意識の歴史」の図を用いて この定式3の四つの超越を説明すると、以下のようになる。

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定式3における四つの超越

紫色の矢印で示された (1) は超越論的超越であり、有限であるがゆえに、物自体は時間性から超越的に超越している。時間性はそれ自体では無媒介で空虚な純粋統覚であり、また緑色の矢印で示された (2) の超越的超越は主体にとっては疎遠な超越であるから、超越的超越を超越論的に超越するべく、(3) が必要となる。青色の矢印で示された (3) は、subjectum を物自体から超越論的客体の水準へ引き降ろし、このXへと感性的多様を結合する。その際、何と何を結合するのか、あるいは同じことだが、何から何へと超越するのか、その組み合わせとして、まずは先ほどのハイデガーの1~3の段階付けに対応して、

1{直観,直観},

2{直観(主語),概念(述語)},

3{概念(主語),概念(述語)},

さらに、

4{判断(根拠),判断(帰結)},

5{主観,客観}

が考えられる。感性的多様を総合して一定の形象へもたらすことは、それを概念的に把握することであるから、1と2は同じ超越の行為である。だがある概念を正しく適用するためにはその概念の《適用基準=定義》を知らなければならないし、その定義が妥当であるためには、それが知のシステムにおいて整合的に位置付けられていなければならないという意味において2は3を、3は4を前提する。そして (3)1から4までの超越(時間的多様における超越)の過程が、同時に5の超越(時間的多様=感性的有限性からの超越)である。赤色の矢印で示された (4) がこの超越である。

もちろん超越的超越は完全には超越されえないから、「定式3における四つの超越」の (2) の矢印は相変わらず残る。以前、「前カント哲学の三項図式」で、S→O→M→Sの三角形は、「カントの超越論的哲学の四角形 」の超越論的対象→経験的意識→超越論的意識→超越論的対象に相当すると説明した。「定式3における四つの超越」では、TG→EB→TB→TG に相当する。確かにそう解釈してかまわないであろう。しかしそこでは、前カント哲学にはなかった物自体と現象の区別が導入されたのであるから、別の解釈が妥当性を持つはずである。つまり前カント哲学の三項図式は、むしろこの図の上部の三角形、∞→TG→TB→∞ としてカントの批判哲学に残存している。

2.3. 時間はなぜ空間よりも根源的なのか

超越論的超越のプロセスと構造は、所謂《三段の総合》に即して詳説しなければならないのだが、感性論が主題である本節では、その前に超越の「媒介」たる時間についてもう少し論じなければならない。なぜ空間ではなくて時間が超越の媒介になるのだろうか。カントは次のように説明する。

全ての外的直観の純粋形式としての空間は、アプリオリな制約としてたんに外的現象に制限される。これに対して全ての表象は、外的事物を対象として持っていようといまいと、心の規定性としてそれ自体において内的状態に属しているのだが、この内的状態は内的直観の形式的制約、つまり時間に属するので、時間は全ての現象一般のアプリオリな制約である[48]

カントは「超越論的感性論」を、空間→時間の順序で論じているが、デカルト以来の観念論の伝統に立って内的意識を外的知識よりも確実と見なす。この内的と外的というのは空間的な意味でのそれではない。もしも空間が空間的な意味で外的なら、内的なものもまた空間的であるから、明らかにナンセンスである。むしろ意識に対する与えられ方が「間接的[49]」、二次的であるという意味である。

カントは内的時間意識の流れから出発する。しかし本当に時間は空間よりも根源的なのであろうか。私たちは普通「時間の流れ」を川の流れのような空間的アナロゴン(類同的代理物)から理解しているという意味で、空間のほうが時間よりも私たちにとっては根源的・直接的・一次的であり、時間は空間的変化の矛盾を回避するために捻出された派生的な形式であるという考えだってありうる。

カントは、一方で「変化の概念、およびそれと(場所の変化としての)運動の概念は、時間を通して、時間においてのみ可能である[50]」と言いながらも、「すべての時間規定は、(例えば地球上の諸対象から見た太陽運動などの)空間における持続的なものとの関係における外的関係の転変(運動)を通してのみ可能である[51]」ことを認めている。もちろん内的時間意識には「喜び」「痛み」「不安」のようなそれ自体は空間的でない感覚もあろうが、しかしそのような非空間的感情も、それの原因となっている空間的規定(私の現存在と環境との関係)なしにはありえないであろう。それなら、時間は空間を前提していることにならないだろうか。

こう問う人は空間の概念を広く取り過ぎている。時間の前提となる空間はすでに時間的認識によって媒介された空間なのだ。そのような空間は三次元的であるが[52]、時間の流れに与えられている空間は、ちょうど映画のスクリーンの画像は三次元的に見えるが実は二次元的であるように、二次元的であるのかもしれない。そこで内的時間意識の確実性から出発する超越論的哲学は、二次元平面から三次元空間へと超越しなければならない。

数学的に言えば、0次元の点の変動軌跡が線で、一次元の線の変動軌跡が面で、二次元の面の変動軌跡が立体で、三次元の立体の変動軌跡が四次元時空体、すなわち歴史的現実である。このように空間は、時間変数を積分することによって構成されるのであるから、時間のほうが空間の基礎であると言えなくもない。カントの「観念論論駁」は、実は二次元平面から三次元空間への超越を通して、空間の基体が、時間性としての超越論的統覚であることを示そうとする試みなのである。

私は自分の現存在を時間において規定されたものとして意識する。全ての時間規定は知覚における何らかの持続的なものを前提する。しかしこの持続的なものは私の内部における何かではありえない。なぜなら時間における私の現存在はこの持続的なものによって初めて規定されうるからである。それゆえ、この持続的なものの知覚は、ただ私の外部の事物によってのみ可能なのであって、私の外部の事物のたんなる表象によって可能なのではない。[53]

ゆえに外界は存在するというわけである。

たしかに、例えば《氷-水-水蒸気》といった変化が、「転変 Wechsel」でなくて「変化 Veränderung」であるためには、そこに水分子という持続的なものがなければならない[54]。水分子はさらに水素と酸素に分解されうるが、分子は原子に、さらに素粒子、クォーク、ストリングというように、より持続的な実体/基体に還元される。カントは『自然科学の形而上学的原理』(1786年)の中で実体とは物質だと言っている[55]が、そうすると「実体の持続性の原則[56]」は、『純粋理性批判』第一版出版の7年前にラヴォアジエによって唱えられた質量一定の法則だということになる。因みに、その後原子核反応において質量がエネルギーに転化して減量することが知られて以来、不変量の実体はエネルギーとされているが、いずれにせよ『純粋理性批判』における「実体」は、『自然科学の形而上学的原理』の実体とは異なり、アプリオリなカテゴリーであって、経験科学の知識によって同定できない。かくして私たちは、より基本的普遍的な実体・基体を求めることによって世界の総体概念、さらにその相関者としての超越論的統覚に辿り着くのであるが、この《実体=主観》の転倒は、既に述べた通りである。

してみると、カントが謂う所の「私の外部の事物 ein Ding außer mir」とは、実体/基体としての超越論的統覚だということになる。私、すなわち経験的統覚の外部は存在するが、その外部をも含む超越論的統覚の外部は、ただ物自体という超越不可能な限界として与えられるだけである。私たちはもはや「経験的統覚の内部から外部へ」などというミスリーディングな表現は慎むべきである。《内部から外部への超越》という体裁をとる外界の存在証明は、実は《部分的契機から全体性への超越》なのである。「世界を“物自体”と理解するならば、世界“自体”と私たちに対して現われるような世界、即ち世界の諸現象との違いは、全体と部分との違い以上のものではないことがたやすく分かる[57]」。

カントは『純粋理性批判』第二版の序言で、「私たちの外なる事物の現存在をたんに信念に基づいて想定しなければならないことは、常に哲学と普遍的人間理性のスキャンダル[58]」であったとして、自らの超越論的観念論が外界の存在を証明しえたことを誇示している。ハイデガーはこれに対して次のように言う。

《哲学のスキャンダル》は、この証明がこれまでにまだなされていない点にあるのではなく、そのような証明が絶えず期待され、試みられてきたという点にある。そのような期待・意図・要求は、それとは独立に、それの《外部で》《世界》が、事物的(vorhanden)なものとして証明されるはずの当のもの[世界内存在]を存在論的に不十分に評価するところから生じるのである。[59]

このハイデガーの批判に対して、私たちは ある程度カントを弁明することができる。カントの超越論的哲学においては、世界から切り離された宙に浮いたフォアハンデンな主観が、現存在の「気遣い Sorge」から切り離された「延長したもの res extensa」としてのフォアハンデンな客観へと《飛び移る》というような構図には必ずしもなってない。主観は《いつも・既に》世界のもとに住んでいる。内部が外部を認識するのではなくて、部分的契機が全体性を理解するのである。

とはいえ、このことは、時間が部分的契機で空間が全体性であるということではない。意識作用が時間的であるなら意識内容も時間的である。経験的な作用と内容を部分として包摂する全体性に相当するのは、超越論的統覚と超越論的客観である。ハイデガーも「現存在は、その存在においてそのつど既に、後からやってくる証明が現存在のために前もって論証してやることが必要だと思っているまさにそれ[世界内存在]なのだ[60]」と言っている。

《超越問題》は、どのようにして主観というものが客観というものへと踏み出すかという問題に変えることはできないのであって、そう変えてしまう場合には、客観の全体性は[フォアハンデンな]世界の理念と同一視されているのだ。… 《主観》が、その存在が時間性に根付いている実存する現存在として存在論的に理解されるなら、世界は《主観的》だと言われなければならない。この《主観的》な世界は、しかしながらその時には、時間的-超越的な世界としてどの可能的《客観》よりも《客観的》である。[61]

ここで次のように考える人がいるかもしれない。もし超越論的統覚が時間を部分的契機として含んでいる全体性であるとするならば、超越論的統覚自体が時間的性格を帯びてくるはずである。だが、超越論的統覚の認識がたんに総合的であるだけでなくアプリオリでもあるのは、それが超時間性(純粋統覚)をももうひとつの部分的契機として含んでいるからなのではないのか。カントは純粋統覚のことを「立ち留まる自我 das stehende und bleibende Ich[62]」と表現しているが、これは時間の流れからの独立性を言っているのではないのか、と。ハイデガーによれば、しかし、純粋統覚が“立ち止まっている stehend und bleibend”であるのは、それが時間を越えているからではなくて、むしろそれが時間そのものだからである[63]。もっとも、これは精確な表現ではない。純粋統覚は、時間(Zeit)そのものではなくて、時間性(Zeitlichkeit)とみなされるべきである。

システム論的には、時間とはエントロピーの増大であり、純粋統覚は、そのエントロピーの増大に抵抗する意識システムの働きである。再び「時間の流れ」を川の流れに喩えるなら、川の流れそれ自体も、川に一方的に流されるだけの存在者も、流れから超然として川の上を飛んでいる存在者も川の流れを感じることはできない。川の流れを感じることができるのは、川の中で流されそうになりながら、それこそ“stehend und bleibend”にその流れに抵抗して立っている者である。私たちの意識システムは、エントロピーの増大に無抵抗な存在でもなければ、時間の流れ(エントロピーの増大)そのものあるいはエントロピーの増大に対して超然としていられる存在者でもない。時間的存在でありながら、刹那的な現在を超越し、過去を記録し、未来を予測する普遍性を求めるがゆえに、意識システムには時間認識が可能になる。

超越論的感性論は結局のところ超越論的時間論である。本書は次に超越論的分析論へ移行するが、超越論的統覚が時間の流れを可能にする制約である以上、そこで問われるのは、「時間はいかにして流れるか」であり、最後の超越論的弁証論においても「無制約的な時間はいかにして可能なのか」が問われるのだから、カントの超越論的哲学は超越論的時間論であると言ってもよいかもしれない。しかしカント哲学を時間論的に解釈することは、小著の目標ではない。時間論はさらに目的論・歴史哲学の前座として理解されなければならない。

3. 純粋理性批判における分析論

私たちは、感性的多様から出発して、時間性そのものである純粋統覚へと到達した。純粋統覚は、どのように感性的多様を総合し、超越論的統覚となることができるのだろうか。純粋統覚とは同一律の能力であるが、同一律は等根源的に矛盾律でもある。カントがアリストテレスを批判して言うように、矛盾律に「同時に zugleich」という条件は不必要である[64]。ハイデガーによれば「カントは …“矛盾律”の時間的性格を否認しようとした。というのも、根源的に時間そのものであるものを、そこから派生してきた産物の助けを借りて本質的に規定しようとすることは理に悖ることだからである[65]」。だが時間が矛盾を否定するというのはどういうことなのか。

「SはPでありかつ¬Pである」は、内的時間意識の流れの中で言明されので、“S als P”という述定と“S als ¬P”という述定の間には時間的な差異があるがゆえに言明自体は矛盾せず、したがって言明された事態が矛盾であることを明示するためには、やはり「同時に」という条件を挿入したくなる。しかしそうすれば、矛盾律はたんにレアールな、かつきわめてトリヴィアルな個物Sについての記述になってしまう。もし矛盾律が認識に役立つべきであるとするならば、それはむしろイデアールな、普遍的で時間的多様を越えた概念としてのPの述定を規制すべきである。

但し、《時間的多様を越えている=普遍的》という等式が成り立つわけではない。“個物「ソクラテス」が生まれてから死ぬまで様々に変貌しながらも同一性を保っているから、この固有名詞が普遍的な普通名詞と同じだ”と言う人は、フッサールも主張するように、固有名詞の外延的普遍性と普通名詞のシュペチエス的普遍性を混同しているのである[66]。普遍性は実在的な個物の時間内持続ではなく、複数の個物に妥当する理念的存在者の性質と定義するのが穏当である。

もしも、今ある無学な人間は、今のところ無学である[ein Mensch,der ungelehrt ist,ist nicht gelehrt]と言えば、“同時に”という条件がなければならない。というのも、ある時無学[ungelehrt]な人 が他のときには極めてよく有識[gelehrt]でありうるからである。だがもし、無学な人間には学がない[kein ungelehrter Mensch ist gelehrt]というならば、この文は分析的であり、[…]“同時に”という条件をつけ加える必要なく、矛盾律から直接明白である。[67]

ある経験的な人間が同時に gelehrt かつ ungelehrt でないことは、

¬(gelehrt∧¬gelehrt)

という普遍的な論理法則からの帰結に過ぎない。

矛盾律は、例えば「ヒマワリは黄色い」と言明すれば、“同時に”そのヒマワリに対して、ということは当然として、“常に”いかなるヒマワリに対しても 「黄色い」と述定することを理性的(悟性的)存在者に命令する。“S als P”と述定する超越論的統覚の時点t1と“S als ¬P”と述定する超越論的統覚の時点t2は、同じではないが、時間の均質性・同一性は異なる時点の相互置換を可能にする。かくして S(t1)=S(t2) から P∧¬P が導出される。

矛盾律と同一律は「全ての分析判断の最高原則[68]」であるが、「全ての真理のたんに消極的な基準[69]」に過ぎないので、分析性の能力としての純粋統覚は、時間的多様において超越しなければならない。純粋統覚の、したがってまた超越論的統覚が超越する振舞の形式がカテゴリーであると解釈できる。

カントは「カテゴリーの現象への適用[使用]die Anwendung der Kategorie auf Erscheinung[70]」というような言い回しをするが、超越論的統覚がカテゴリーなる形式ないし規則「を」さながら道具のように「使用して」現象に「当てはめる」などという理解は斥けなければならない。カントは、カテゴリーを「悟性の主観的形式[71]」、「Gedankenformen[72]」などの語で換言している。ここからも明らかなように、カテゴリーは、超越論的統覚にとってノエシス(思惟作用)に対するノエマ(思惟内容)ではなくてノエシスの形式なのである。

アリストテレスは述語、すなわち“下に置かれたもの(ヒュポケイメノン)について(カタ)語ること(アゴレウエイン)”をカテーゴリアと名付けた。カントもまた、主語-述語を持つ判断から述語(Kategorie)を導出しようとする。カテゴリーのドイツ語訳は 「純粋悟性概念 der reine Verstandesbegriff」であるが、これは「純粋概念」のような《判断によって総合される概念》ではなくて、《判断において総合する概念》である。

もし任意の経験的述語を類-種の階層にしたがって抽象していった結果の最高類概念(他の概念の種とならない最上位の類)がカテゴリーであるとするならば、経験的概念とカテゴリーとの相違は相対的なものとなってしまう。アリストテレス自身は導出プロセスを省略してカテゴリーを列挙しているが、おそらく彼はこのようなやりかたで、カントが批判するように「なんらの原理をも持つことなく」「行き当りばったりに掻き集めた[73]」のであろう。

カントは次のように言っている。

形而上学とは人間的認識の第一原理についての学問であると言ったところで、ひとはそれによって全く特別の認識の種類に気が付いたわけではなく、ただ普遍性に関する序列を認めたに過ぎず、したがってそれによって普遍性が経験的なものから判然と区別されうるわけではない。というのも、経験的原理のもとでも、あるものは他のものよりより普遍的で、それゆえ、より高次であり、そのような従属関係の系列において(完全にアプリオリに認識されるものをただアポステリオリに認識されるものから区別しないのだか)、第一の部分・最上位の諸項と最後の部分・従属的な諸項とを分ける切断線をどこに設けたらいいのか? … と人は問うことになるであろう。同様に私は問う。延長しているものの概念は形而上学に属するか?-諸君は然り!と答える。おやおや、それでは物体という概念もか。然り!では液体の概念は。 諸君は当惑する。というのも、この調子で行くなら、全てが形而上学に属することになるだろうからである。[74]

ノエシス/ノエマの区別はともかくとしても、カントはこのように、アプリオリ/アポステリオリを明確に区別するわけであるが、カテゴリー導出の恣意性という点では実はアリストテレスに優るとも劣らない。カントが手掛りとした判断表は、記号化して表現すれば、図8のようになる。

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カントの『純粋理性批判』における判断表

カントは「どこにおいても三番目のカテゴリーはそのクラスの二番目と一番目のカテゴリーとの結合から生じる[75]」と注釈するが、もし「結合」が連言を意味するならば、記号論理学的には、そうはなっていない。なぜなら、

  1. (∀x)Px∧(∃x)Px は(∀x)Px であり、
  2. Px∧¬(Px)は矛盾であり、
  3. Px∧(Px⇒Qx)は Qx であり、
  4. ◇Px∧Px はたんにPxであり、

決して第三の判断にはならないからである。

また「魂は可死的ではない」という否定判断と「魂は不可死である」という無限判断も、真理値的には同値で、通常の記号論理学では区別が表現できない。関係のカテゴリーでは、定言判断・仮言判断・選言判断という伝統的論理学の三区分が使われているが、条件法・選言・連言などの結合肢は、そのうちどれか一つと否定があれば他の結合肢をすべて定義できる、いやそれどころか、シェファーの棒記号を使えば結合肢は一つで済むのだから、仮言判断と選言判断には本質的な区別はない(Px⇒Qx は ¬Px∨Qx と等値である)。

カントは判断表/カテゴリー表の区分を『純粋理性批判』の論述のいたるところに使用しているが、ストローソンがいうように、この区分に固執しなければならない理由はない。

彼はこの[4-3構成の]枠組を彼の理解する形式論理学から自由に改作して、彼の議論の題材の全域にわたって断固として押し付けるのである。繰り返し、繰り返し同じパターンの分割・区分および結合が『批判』のいろいろな部門で再生されている。この強いられた体系の人工的で精巧なシンメトリーは、もし哲学においてバロック様式というタイトルに値するものがあるとすれば、このタイトルにふさわしい性格をもっている。しかしそれは私たちに労をとる必要のない難題を負わせ、また主題とは関係のない喜びを与えるのであるが、結局無視して心配のない特徴なのである。[76]

ここでは、カントのバロック建築をいったん取り壊したうえで、より現代的な再構成をする必要がある。

第二版でカントは、量と質を数学的カテゴリーへ、関係と様相を力学的カテゴリーへと二つの部門(Abteilung)に分けているが、記号論理学的には質と関係、量と様相が相互に密接な関係をもっていると思われる。そこで次のようにカテゴリーを導出することにしよう。

  1. 質のカテゴリーにおいては要素命題の成立/不成立が知覚され、
  2. 関係のカテゴリーにおいてはそれらが結合子によって複合され、
  3. 量と様相のカテゴリーで量化子と様相子が導入される。

量化と様相は同じでないのだが、カントは普遍性と必然性を相互変換可能と見なしている[77]ので、ここでは差し当り一括しておく。この三つの操作過程は、

  1. 直観における把捉の総合
  2. 構想における再生産の総合
  3. 概念における再確認の総合

という三段の総合に対応するものと思われる。

だが演繹に入る前に、図式についてコメントしたい。

さて、一方においてカテゴリーと他方において現象と同種でなければならず、カテゴリーの現象への適用を可能ならしめる第三者が存在しなければならないことは明白である。この媒介する表象は、経験的なものをいっさい含まず、純粋で、それでいて一方で知性的で他方において感性的でなければならない。そのような表象が超越論的図式なのである。[78]

それはちょうど「経験的概念、皿が、そこにおいて思惟された丸さが純粋幾何学概念円において直観されることによって、それと同種性を持つ[79]」のと同じである。

こういうカントの説明をうさんくさく思うひともいるであろう。もしも、AとBが異種(ungleichartig)である時、AをBへ包摂するためには、一方においてはAと他方においてはBと同種(gleichartig)な媒介的第三者Mがなければならないとするならば、AとMは、完全には同種ではないので(さもなくば、仮定からして、MはBと異種になってしまう)、AをBへ包摂するためには、さらに一方においてはAと他方においてはMと同種な媒介的第三者Maがなければならないが、このMaもAと完全には同種ではないので云々、と無限後退に陥るからである。

しかしこのような背理が生じるのは、媒介的第三者を媒介される諸部分から切り離して考えるからであって、現象がカテゴリーへと包摂された《全体》が図式であるとすれば、問題は生じない。「図式はそれ自体においてはいつも構想力の産物である[80]」が、「人間的認識の二つの幹すなわち感性と悟性[81]」が構想力という「共通の、私たちには知られざる根から生じる[82]」と見なす周知のハイデガーのカント解釈[83]はここからも理解されえよう。《規定されたもの das Bestimmtes》としての現象(時間的多様)を《規定するもの das Bestimmende》としての純粋統覚(時間そのもの)へと包摂することが、《超越論的時間規定=図式》である。

以下、この包摂のプロセスである三段の総合をフォローして行こう。

3.1. 直観における把捉の総合

「私たちの表象は、どこから生じようとして生じるにせよ、外的事物の影響によってまたは内的原因によって引き起こされようとも、アプリオリにまたは現象として経験的に成立したのであれ、私たちの表象は心の変容として内部感官に属し、そして最終的にはそれ自体において私たちのすべての認識は、内部感官の形式的制約、即ち時間に従属する[84]」。時間の流れにおける「各表象は、ある瞬間に含まれたものとして絶対的単一体以外ではあり得ない[85]」ので、それを取りまとめることが必要であるが、かかる行為が把捉の総合である。

この総合において、質のカテゴリーが直観に適用された結果生じるアプリオリな総合判断(原則)である「知覚の予料」が成り立つ。「すべての現象において、実在的なもの、つまり感覚の対象となるものは内包量、すなわち度を持つ[86]」。

質のカテゴリー自体はたんに要素命題の成立/不成立の形式に係わるだけだが、それが時間内容に適用されることによって要素命題の成立が“検証”される。もちろんアプリオリに予料されるのはそのようなことではなく、ただ感覚が0から100まで度を成すということを原則にしているに過ぎない。だけれども、もしも原則が「全ての判断一般の形式的制約(Bedingungen)[87]」であるとするならば、当の《das bedingte Urteil》は経験と関係を持たなければなるまい。

内包量は量のカテゴリーにいう外延量とは異なる。「度はただその把捉が継時的ではなく瞬間的である量を表示するだけである[88]」。「度はそれゆえ量ではあるが、直観における量ではなくたんなる感覚による量である … 性質の量が度である[89]」。

例えば温度は、温度計の水銀の高さとして直観において外延量として継時的に把捉することができるが、水銀の高さ自体は温度ではなく、温度そのものはただ感覚されるほかはない。この点で性質の量と空間の量は異なる。しからば時間の量は如何。私たちは時間を時計なり天体の位置なりによって測る。だがこれらが示す量は空間的な外延量であって時間の量そのものではない、という点で時間の量は性質の量にアナロガスである。

にもかかわらず、カントは時間の量を空間の量と同様外延量の原則のもとで論じているが、これはベルクソンが批判する時間の空間的固定化[90]ではないのか。人はしかしここで認識主体自体が時間であることを思い起こさなければならない。カントにおいても空間化・客体化された「流れた時間」とは違った主体的な“純粋持続 durée pure”としての「流れる時間[91]」が見失われていたわけではない。もちろんカントは時間を「真実存在」だの「生の躍動 élan vital」だのと称して自然科学批判をするわけではない。シェーラーが論評するように[92]、ベルクソンの生命論的科学批判は、ノエシス-ノエマの混同に基づく心理主義である。

3.2. 構想における再生産の総合

把捉の総合は継時的に総合されない知覚の継時的総合なのであるが、この第一階の述語の反省的規定たる構想における再生産の総合は第二階の関数化に属する。だから、把捉の総合は再生産の総合と分かちがたく結び付いている。

頭の中で一本の線を引こうとしたり、ある正午から別の正午までの時間を考えようとしたり、それどころか、ある数を表象しようとする時でも、私はまず必然的に、これら多様な諸表象のうちの一つを他の諸表象の後に頭の中で捉えなければならないということは明白である。だがもしも後に行くにしたがって、先行する部分(線分の第一の部分・時間の先行部分・順次表象される諸単位)を頭の中で見失い、それを再生産することができないなら、全体の表象は、そして前述の全ての思想は、いやそれどころか空間時間の最も純粋で第一の根本表象ですら生じないであろう[93]

カントによればこの再生産の総合は、構想力による「超越論的行為[94]」であるが、構想力による総合が統覚による総合と感官による総合との《間》にある外的媒介者でないのは、図式がカテゴリーと現象の間にある外的媒介者でないのと同じことである。したがって、構想力とは図式機能の能力であるが、ここの総合で全ての図式が適用されるわけではなくて、関係の図式だけが適用されると考られる。

関係の図式/カテゴリーは、まず実体と偶有性の二つに分かれる。実体の図式は時間における実在的なものの持続性である。この変易しない実体においてのみ、変易する偶有性、つまり現象の継起(因果性)と同時存在(相互性)が時間からみて規定されるのである。すなわち、因果性の図式は法則に従った変異する実在的なものの継起であり、相互作用の図式は法則に従ったそれらの規定性の同時存在である[95]。この図式機能から「経験は知覚の必然的結合の表象によってのみ可能である[96]」という原則が生じる。カントはこの原則を「経験の類推」と名付ける。これには三つ(A~C)ある。

A:第一の類推は、「全ての現象の変化において、実体とその量は自然において増減しない[97]」という実体の持続性についての原則である。この原則の証明として、カントは次の二種類を用意している。

  1. 既に述べたように、変化は変化であるためにはむしろ持続するものを前提している。例えば、昔元気だったA氏が年老いて病弱に「なった」というためには、n年前の元気だった人、An と 今の病弱な人、A0 が同一の持続するA氏でなければならない。A氏はやがて死んでA氏でないものに変化する。だがそれが変化であるためには、生前/死後を通してある持続するものがなければならないのであって … というように持続するものへの問いは続く。それでは一体、時間の流れの中で究極的・絶対的に持続しているものは何なのか、という問いが生じるが、一番確実な候補は時間そのものである。ところが時間そのものは知覚されないから、知覚の対象の中に基体がなければならない。そしてこの基体が実体に他ならない。ゆえに実体は、その量が自然において増加も減少もすることなく持続する。
  2. カントはさらに背理法によってこの証明を補強している。今Bなる現象が全く新しく生じたとする。しかしB以前に時間が持続しているなら、知覚の対象となる現象Aがなければならないが、そうするとBは実体Aの偶有性ということになる。もしB以前に時間が持続していなければ、Bは新しく生じたことにはならず、かくしてBそれ自身が実体になってしまう。Bが消滅して全く何も残らなくなったと仮定した場合も同様に、Bは消滅したことにならず、それ自体実体になってしまう。

この二つの証明で、いずれも太字で強調した部分が問題になるであろう。空虚な時間が知覚されないというのはいいとしても、だからといってなにゆえ知覚の対象に実体がなければならないという結論が生じてくるのか。実体が知覚の対象であるというのは明らかにナンセンスである[98]。エネルギーのような、知覚の対象ではないが経験科学の対象となるような「実体」であっても、それを「純粋悟性の原則」のもとで扱うことは不適切である。むしろ「主体は実体なり」という準ヘーゲル的なテーゼを掲げて主体である時間を実体にすべきである。なお、相対性理論によれば時間でさえ観測系の位置によって伸縮する。だがこれは経験的統覚の時間についてであって、これをも対象化する超越論的統覚(アインシュタイン)としての時間はこのかぎりではない。相対性理論自体が相対化されるかどうかはメタ物理学的(metaphysisch=形而上学的)問題である。

B:次に第二の類推についてであるが、これは「すべての変化は、因果結合の法則[der Gesetz der Verknüpfung der Ursache und Wirkung]に従って生起する[99]」という因果性の原則である。

ヴィトゲンシュタインによれば、「因果法則は法則ではなくて、ある法則の形式である[100]」。「もし因果法則が存在するとしても、その意味しうるところは、せいぜい“自然法則が存在する”である。だが人はもちろんそのことを語ることはできない。それは示される[101]」。

語ることができる具体的な自然法則とは、原因に相当するある現象E1の後に、いつでも必然的にある別の現象E2が生起する規則性である。このような意味において因果性とは《限定による限定の無限定的限定》、すなわち特定の原因による特定の結果の無制約的(普遍的)規定であると定式化される。もっともこのような抽象的定式では、つまりE1やE2を具体的に限定しないならば、因果性はその定式の主張内容に反して何も限定しない。具体的な因果結合の関係を確定することの反照的規定として自然法則の存在は示される。

カントは、ヴィトゲンシュタインとは違って、自然法則の存在のみならず、超越論的統覚の存在までも示そうとする。カントは、因果性の分析をも例によって内的時間の流れから始めるのだが、主観的な把捉の順序が E1→E2 だからといって両者が客観的な因果関係にあるとは言えない。

まず、E2→E1 という逆の順序の把捉が可能であってはならない。例えば、最初に家の屋根を見て次にその土台を見たからといって、屋根が土台の原因であるとは言えない。なぜなら、私たちは土台を見てから屋根を見ることができるからである[102]

しかしたんに不可逆的であるだけでは不十分である。たまたま家の中で飼っている猫が鳴いた時に雨が降り、この逆が成り立たなかったとしても、両現象が因果関係にあると直ちには言えない。E1⇒E2 すなわち ¬(E1⇒¬E2)の関係が恒常的であることが経験的に検証されなければならない。

では昼の後に常に夜が継起するからといって、昼は夜の原因であると言えるであろうか。これは不合理である。しかし科学的探求が最終的に目指しているのは、事実的な因果関係の確定ではなく、この関係の法則への包摂であるので、これとて地球の自転・公転の天文学的法則によって説明されるべき与件である。

私たちは、原因なる作用因を、したがってまたそれから区別された先行現象=《初期条件》をも想定することなく、所与の先行現象E1において法則によって説明されるべき《本質》を観取する。物理学者は、落下するリンゴにおけるリンゴの堅さや赤さやうまさといった非本質的属性を捨象して、それを地表に向かって加速度運動する一定質量を持った質点として観ずる。このようにいったん F=ma によってその運動 E1→E2 が説明されるなら、具体的なあれやこれやの状況において何が原因で(したがってまた何がその時の初期条件で)リンゴが落下したかはどうでもよい問題となる。問題は法則の妥当性であるが、これは超越論的主観性の内部での諸法則間の整合性に依存している。

かくして私たちは、主観的な意識の流れにおける諸表象の結合の客観性を求めながら、却ってそれが「主観的な」法則に依存していることに気が付く。しかしなぜ与件 E1/E2 を全称命題に包摂することが、当の現象に客観的根拠を与えることになるのか。かく問いを立てて反省することは、すでに第三階の量化を行うことである。

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三段の総合

C:最後に相互作用の原則「全ての諸実体は、空間中に同時として知覚されるうるかぎり、全般的な相互作用のうちにある[103]」であるが、ここでカントが「相互作用」という言葉で念頭においているのは、感官と諸対象との間の連続的影響であり、目と物体の間を戯れる光の働きであり、私たちの位置感覚と物質の間の相互影響である。もし各実体が完全に孤立しているならば、諸実体を経験的に総合することはできず、それらが同時存在であることが知覚されえない。それゆえ諸実体はその位置を相互に規定し合い、一つの全体を成していなければならない、とカントは言う。

わざわざ“同時”と断ったのは、継起的な原因-結果関係との違いを明示するためだったのであろう。だがなぜ同時“存在”なのか。カントの時代でも、光の速さが有限であることが知られていた。私が今見ている夜空の星は、なるほど光を通じて私と連続しているのだろうが、星そのものは既に消滅しているのかもしれない。

同時なのは存在ではなくむしろ作用の方である。壁を手で 10kg の力で押す作用は“同時に”壁が手を 10kg の力で押し返す作用を、リンゴが地表に 1m 落下することは“同時に”地球全体がリンゴに向かって 1m 接近することを意味している。それゆえ原因-結果関係と相互作用関係は別のものではなく、後者は前者の反照的規定として前者(一方向的作用関係)と同時なのである。量子力学の不確定性原理を持ち出すまでもなく、知覚において知覚が知覚されたものによって規定されると同時に、知覚されるものは知覚することによって規定される。

本書は最初に、以上の再生産の総合を要素命題の結合子による複合として規定した。カントの説明によれば因果性のカテゴリーは仮言判断から、相互作用のカテゴリーは選言判断から導出される。だが相互作用においては作用と反作用の二つの要素命題が成立しているわけであるから、むしろ連言に近いし、またたしかに因果関係は条件法による複合に似ているが、条件法によって結合された真理関数はたんに前件が真で後件が偽であることを排除しているだけだから、例えば「もし7+5=12であるならば、物体は延長している」といったような因果的結合として妥当でない命題も真ということになる。この点、命題結合子とカテゴリーの間にはギャップがあるわけだが、にもかかわらずここで真理関数を持ち出すのは別の思惑があってのことである。

C で私たちは、因果性が相互作用へと止揚され、個別的な出来事が宇宙の総体的な相互依存の関係へと組み込まれるのを見る。A → B → Cは派生的なものへの移行ではなく、C のモメントはかえって A のモメントへ還帰していると言えなくはないか。私たちは A において知覚の対象における実体が何であるかの判断をエポケーしておいたが、それを関数的諸関係の総体だと言えなくはないか。

全ての知覚の対象は変化するものであり、変化するものは持続するものを前提する。だから、知覚の対象全体は実体そのもの(時間そのもの)ではないにしてもその相関者である。ところですべての知覚の対象は、知覚ですらすでに直観と概念を《変数 Argumente》とする《関数 Function》 なのであるから、ことごとく法則のもとへと包摂される。ゆえに法則・真理関数の体系は実体の相関者である。

だが人あって次のように異議を唱えるかもしれない:真理関数においては独立自存の要素命題の真理値が一義的に複合命題の真理値を決定するのであって、したがって実体は関数や法則ではなくて、個物なのではないのか。しかしそれはラッセル流の素朴実在論的アトミズムの立場を採るからであって、フレーゲの“文脈原理”を採用するなら関係の第一次性のテーゼは保持できる。フレーゲは「完全な文においてのみ語は本来意味[Bedeutung]を持つ。[…]文が全体として意義[Sinn]を持つなら十分であり、そのことによって文の部分もまたその内容を得るのである[104]」と言っている。

ここで「実体概念と関数概念」というカッシーラー以来の論点を詳述できないが、 とりあえず経験科学の、したがって現象としての自然の可能性が法則(変項からなる全称の関数表現)の体系に必然性を与えることに依存していることを確認して第三階の量化に移ることにしよう。

3.3. 概念における再確認の総合

もしも構想力によって結合された継起する諸表象が瞬間ごとに異なるものであるなら、再生産の総合はおろか把捉の総合すら全く成り立たないことになるであろう。例えば1+1+1=3 において、それぞれの1を同一のものとして「再確認」することができないならば、この計算はできないことになる。概念は《いつでも》自己同一的な意味を保持していなければならないのであって、そこで「必然性の図式は、すべての時間での対象の現存である[105]」ということになる。

カントはこのように必然性を普遍性で置換しようとする:「必然性と厳密な普遍性はそれゆえアプリオリな認識の確実な目印(Kennzeichen)であり、また分かちがたく相互に結び付いている[106]」。もちろん個物についての必然的判断や偶然的でたんなる憶断に留まる普遍的判断もあるであろう。だが前者に関して弁明するならば、例えば「ソクラテスは可死的である」という判断の必然性は「全ての人間は可死的である」という判断の必然性から《演繹され》てきたと考えるならば、個別的/特称的判断の必然性は全称判断のそれに《権利を持っている》ことがわかる。では後者はと言えば、こちらの説明は簡単ではない。カントは慎重にも「厳密な streng」という形容を冠しているが、これで以って「必然的な」を意味しているならばそれはたんなる論点先取である。

そこでまず、必然性とは何であるかを問わねばならない。アリストテレスは、「必然的な ἀναγκαῖος」を (1)「そうあるより他ではありえないこと[107]」と定義している。アリストテレスによれば、これ以外の(2)「必要不可欠の」、(3)「強制的な」という意味もそこから規定することができる。

(2)について言えば「例えば呼吸作用や栄養物などが動物に必要 [必然的]であると言われるが、それは、これらがなくては動物が生存できないからである[108]」というように、□P=¬◇¬P である。(3)は「強制されるがために自らの衝動のままには行為することができないような場合[109]」であるが、これも同じことである。カント流に特徴付ければ、これらは仮言命法的必然性であって、「SのためにはPが必然的である」(逆に言えば、Sがなければ、Pは不必要かもしれない ¬S⇒◇¬P)という形を取る限定的相対的必然性である。それは、普遍的認識が、所詮はある限定によって限定された相対的普遍性しか持たないのと同じことである。絶対的普遍性を持つのは矛盾律ぐらいであろうが、それは世界について何も語らない。

しかるにカントは、必然性の図式を「常に対象が現存在すること das Dasein eines Gegenstandes zu aller Zeit」、つまり超越論的統覚における遍在と定式化している。この点を弁明するためには、先の段落では区別しなかった全称性(一般性)と普遍性を、普遍性とは全称判断の総体の無矛盾的なシステムであると定義することによって、区別しなければならない。そしてここからなぜ普遍性が必然性に置換されうるのかという前段落で保留した問題が解決されるようになる。

個別的な全称判断は反証されうる、つまり「他でありうる」ので必然的とは称せないが、そのためにはそのように反証する判断は相対的に必然的でなければならず、かくして全称判断の整合的な体系は、最終的には必然的であることが「要請 postulieren」される。もしこの最終的な必然性まで認めないならば、所謂うそつきのパラドックスに陥ってしまう。

全称性が抽象的普遍であるのに対して、ここで言う普遍性は具体的普遍である。Ich=Ich の能力としての純粋統覚は、差異を含んだ現象を無矛盾的に総合して超越論的客体を構成することを通しておのれを超越論的統覚として自覚しうる。

このようにして得られた知のシステムは、純粋統覚の分析的統一のゆえに《単一的総体》として私たちに与えられ、そして新たな感覚によって再充填されていくわけだが、そうすると様相のカテゴリーを適用した結果、さらに量のカテゴリー、質のカテゴリー… が適用されるということになるので、四つのカテゴリーは円環を成しているということになろう。「この進捗を通して[認識の]端緒は、直接的で抽象的なもの一般であるという規定性において一方的に持っているものを失う。端緒は媒介されたものとなり、学問的前進の直線はそれによって円環となる[110]」。この円環を循環しつつ人間的認識は進展する。

カントにおいては《自我の定立-非我の反定立-止揚》なる弁証法的運動には完結はない。時間としての純粋統覚は、(このように今における完結を否定する点で)おのれを無制約的に実現することを否定することによって、(時間は無限に流れるのだから)おのれを無制約的に実現する。超越論的統覚は、自らが経過した時間的多様を《超越》して無矛盾的な超越論的客体を構成しなければならないが、それは、科学的認識の場合では、

仮説→演繹→検証または反証(仮説理論の帰結と経験との矛盾)→仮説の変更

記号化すると、

(H1∧H2∧ … Hn→F)∧¬F → ¬H1∨¬H2∨ … ¬Hn

という過程を辿ることによって成される。

もしたんに「(1)いま・ここでは、SはPであるように(2)私には見える」としか判断しないのなら、私は決して誤謬を犯すことはないであろう。私は普遍的・客観的に 妥当な判断を下すことによって (1) 超時空感性的(2)超個人的な意識の高みへと上昇するが、それだけに誤謬を犯す、つまり反証されて相対的歴史的な意識となる可能性が増大する。それゆえ超越論的統覚は、時間的多様を超越することによって時間的多様を超越しなくなるのである。しかしそれはまた時間的多様を超越していないがゆえに時間的多様を超越しようとする。

もしも私たちの認識能力が、たんに空虚な時間である純粋統覚であったり、たんに内時間的な経験的統覚であったり、はたまた超時間的な知的直観(神的直観)であったりするなら、認識の進歩は不可能であるという以前に無意味である。内時間性と超時間性の間を「彷徨する discurro」人間悟性、すなわち、超越論的統覚においてのみ、認識の進歩は有意味かつ可能なのである。

ところでカントの認識論(というよりも近代哲学一般の認識論)に対して、真理の間主観的構成・相互主体的形成の側面が欠落している、モノロークであるという批判がよくなされる。しかしカントの超越論的哲学は間主観性の議論と不協和なわけではなく、実際『純粋理性批判』には、客観性を間主観的妥当性と等値している箇所[111]があるぐらいである。

だがもしここからさらに一歩進んで、認識を知識社会学的、経験的に相対化することによって超越論的哲学を否定しようとするならば、それはカントが拒絶するところであろう。真理が間主観的に形成されるからといって、真理そのものが間主観的であるとは言えないのである。人-間の成立とともに真理が発生し、人-間の滅亡とともに真理が消滅するということは、明らかに理に悖る。《物自体を消去して=全てを物自体とすることによって》超越論的哲学を超越的哲学にした上でその認識を相対化するということは、カント以前への後退に他ならない。物自体を認識しえたと僭称する超越的哲学は、主観に対する客観の超越を否定することによって肯定する。すなわち、超越的哲学にとって自分は超越的ではないのだが、まさにそうであるがゆえに超越的哲学は超越論的哲学にとっては超越的なのである。

超越論的対象に完結ということはなく、常に新たな経験によって反証される可能性があるという点で現在の認識は相対的なわけであるが、この相対性はむしろ未来の認識がより相対的でないことを指示しているわけで、この謂わば《理想的な未来の超越論的対象》の極限値が物自体なわけである。それゆえ物自体の想定は、一見不可知論的なように見えて、実はその正反対なのである。かくして私たちの主題は物自体にまで到達した。

4. 純粋理性批判における弁証論

カントは、

  1. 魂の不死
  2. 無制約的な世界
  3. 神の存在

という三つの超越論的理念をそれぞれ

  1. 定言的
  2. 仮言的
  3. 選言的

の三つの推論の総合から得られる純粋理性概念としている[112]が、本書では、このバロック建築を崩して、全て以下のような仮言的推論の二律背反でまとめることにしたい。ドイツ語の bedingen は「制約する」という意味の動詞で、die Bedingung は制約者、das Bedingte は被制約者である。

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二律背反における仮言的推論

ここでの定立と反定立はそれぞれお互いに相手の結論の否定を自分の小前提にするという形で相争っているのだが、カントはそのいずれにも與さずに、物自体を認識しようとする《超越的実在論=経験的観念論》なる定立と反定立が共有する《地平》そのものを斥け、これに《経験的実在論=超越論的観念論》の《地平》を対置する、ということは冒頭で誌した通りである。その内実を 1~3 の理念ごとに見ていくことにする。

4.1. 魂は不死でありうるのか

ここでの das Bedingte は霊魂が持続しているという経験である。「二律背反における仮言的推論」における「独断論的合理論による定立」と「懐疑論的経験論による反定立」に分けて、それぞれの主張を検討しよう。

定立:独断論的合理論である霊魂不滅論者は、この所与の部分から無制約的な全体(die Bedingung)つまり生前や死後における霊魂の持続を推論しようとする。霊魂、即ち「考える存在者としての私は、私の全ての可能的判断の絶対的主語である[113]」がゆえに実体であり、「その働きが、多くの働く事物の共働と決して見なされえない[114]」がゆえに単純であり、「様々な時間において自己自身の数的同一性を意識する[115]」人格であり、「そこから他の全ての現存在が推論され なければならない全ての現存在の相関者[116]」であって、したがって実体的に死後も持続し、複合物に分解されることなく物質から隔離された同一性を保持するというわけである。

だがここで掲げた四つの性質はすべて超越論的統覚(独断的合理論者にとっては、超越的主体)の特性であって経験的統覚の特性ではない。「思惟の総合における統一性を、この思惟の主観における知覚された統一性と見なす仮象ほど自然で誘惑的なものはない。この仮象は、実体化された意識(apperceptiones substantiatae)の取り違え[Subreption]と名付けることができよう[117]」。要するに霊魂不滅論者は「経験の統一」を「統一の経験」に摩り替える「誤謬推論 Paralogismus」を犯した、というわけなのである[118]

しかしここで、カントのこのような取り違えの批判自体が一つの取り違えに基づいているのではないか、という疑念が頭を抬げてくる。いま自分の魂が死後もなお存続するか否かについて真剣に悩んでいる人がいるとしよう。そこへカントがやってきて「君が問題にしているのは経験的統覚だが、それとは別に超越論的統覚というモノがあって、それは実体的に持続し、単純で、同一性を保持し云々」という議論をやり出したとする。この高尚な超越論的統覚の理説は当の悩みに光明を与えるであろうか。否。してみると霊魂不滅論者が超越論的統覚を経験的統覚に摩り替える Subreption を犯したのに対して、カントは経験的問題の解決を超越論的問題の解決に摩り替える Subreption を犯したのではないかと人は考えたくなるであろう。

だが、カントはその点もよく承知しており、ただそのような経験的問題に答えることは《批判哲学=超越論的哲学》の仕事ではないとして、判断をエポケーするだけである。カントは、一般に「異論」を独断的/批判的/懐疑的に三分したうえで次のように主張する。「批判的異論は、命題の真理値の有無に触れることなく、ただ証明に異論を唱えるだけであるから、対象をよりよく知っている、あるいは知っていると僣称する必要は全くない。批判的異論はただ主張が無根拠であることを示すだけであって、それが間違っているということを示すわけではない[119]」。もちろんカントはここでも「批判的異論」を唱えているのである。

反定立:他方で、「二律背反における仮言的推論」の「懐疑論的経験論による反定立」が示すように、懐疑論的経験論は、独断論的合理論の結論を否定する(¬ die Bedingung)あまり、そこから所与の確実な与件までを否定してしまう(¬ das Bedingte)結果となる。つまり、懐疑論的経験論は生前や死後の霊魂の持続のみならず、(例えばヒュームがそうであるように)生存中の霊魂の持続までを疑わしいものにしてしまうのである。

しかし、カントによれば、懐疑論も独断論も、世界概念において物自体と現象を区別しないのとアナロガスに(もっとも同じことではないのだが)超越論的統覚と経験的統覚を区別しないという点で同一地平に立っている。独断論は経験的統覚を超越論的統覚にまで格上げして、前者にオカルト的な持続性を主張し、懐疑論は超越論的統覚を経験的統覚にまで格下げして、前者の持続性一般を習慣と連想の産物にまで貶めた次第であるが、カントは二つの統覚を区別し、経験的統覚の持続性が習慣と連想の産物であることを認めながら超越論的統覚には実体的な持続性を認める。

ところで、経験的統覚の不死の証明を認めないにしても、超越論的統覚の“不死”の証明の方はどうか。超越論的統覚はせいぜい超越論的客体の相関者であって、現象界の内部に留まる。だがもし超越的認識というものがあるとするならば、それは超越論的統覚の背後にあってそれを現象させる、つまり超越論的統覚の死後もなお存続する物自体の相関者としての「自我自体 Ich an sich[120]」の認識ではないだろうか。

しかしこのような問いに対しては、人は慎重でなければならない。超越論的統覚は時間そのものであるから、それの生前や死後を語ること自体がナンセンスである。時間が成立した前は時間が流れているし、時間が消滅した後も時間が流れる。そこで謂う所の超越的問題は、無限な時間が可能かどうかという問題になる。しかしこれは次の宇宙論的理念をめぐる二律背反の問題である。

4.2. 世界は無制約的でありうるのか

そこで次に宇宙論的理念をめぐる二律背反を考察しよう。これには四つある。

  • 第一の二律背反
    • 定立「世界は時間において端緒を持ち、空間においても限界付けられている[121]」。
    • 反定立「世界は端緒を持たず、空間に限界を持たず、時間的にも空間的にも無限である[122]」。
  • 第二の二律背反
    • 定立「世界の複合的実体は単純な部分から成り立っており、単純体とその合成物しか現実存在しない[123]」。
    • 反定立「世界におけるいかなる複合物も単純な部分からは成り立っておらず、世界には一般に単純体は現実存在しない[124]」。
  • 第三の二律背反
    • 定立「自然法則による因果関係だけでなく、自由による因果関係によっても世界の現象は説明されなければならない[125]」。
    • 反定立「自由は存在せず、世界のすべてはもっぱら自然法則にしたがって生起する[126]」。
  • 第四の二律背反
    • 定立「世界には、その部分または原因として端的に必然的な存在者が属する[127]」。
    • 反定立「世界の中にも外にも、端的に必然的な存在者が世界の原因として現実存在することはない[128]」。

以下、「二律背反における仮言的推論」の仮言的推論を手引きとしつつ、それぞれについて検討していくことにしよう。

まずは、第一の二律背反から始めよう。定立は、次のような根拠で有限な時間空間を主張している。

世界は時間上の始まりを持っていないと仮定すると、各所与の時間点[これが das Bedingte に相当する]までに永遠が流れたことになる […]しかし[…]そうすると、系列の無限性はいつまでたっても継時的総合によって完結されえないことになる。[129]

要するに、現在までに無限の時間が流れるのは不可能であるということから「世界の始まり ein Anfang der Welt」という制約(die Bedingung)が推論されるわけだ。

これは一見不可解である。独断論的合理論者ともあろう者が世界の「有限性」を主張するのか。霊魂の不滅を説く以上は当然《永遠=無限な時間》を認めなければならないのではないのか。これはもっともな疑問である。しかし、デカルト以来の合理論者は、精神と物質あるいは思惟と延長を二分した上で、前者に(そして最終的には神に)無限を認めようとするのであるから、後者の物質(延長)の方は創造された世界として有限である必要がある。デカルトは神の存在証明を試みた人であるが、霊魂の不滅についてまでは論じていない。彼の『省察』の第一版のタイトルにあった「神の存在及び霊魂の不死が論証される Dei existentia et animae immortalitas demonstratur」が、第二版では「神の存在および人間の霊魂と肉体との区別が論証される Dei existentia,et animae humanae a corpore distinctio,demonstrantur」に修正された所以である。

そもそもキリスト教では、旧約聖書の『創世記』に書かれているとおり、この世は神によって創られたということになっており、世界は時間において端緒を持たなければならない。霊魂の不死と言っても、地上で肉体を持ったまま永遠に生きるのではなく、天国で永遠の生を享受するということになっているので、だから、霊魂の不滅と世界の有限性は矛盾しないのである。これに対して、キリスト教以前の、そしてキリスト教よりは経験主義的なアリストテレスの哲学では、原因なしで何かが生じることはないという理由から、時間に端緒はないとされている。原因なしで、何かが生じるかどうかは、第三の二律背反のテーマなので、ここではこれ以上取り上げないことにしよう。

第一の二律背反ではさらに空間の限界の有無が問題にされるが、ここでも問題は「無限な世界の部分の継時的総合[130]」が、したがってその総合をするための無限な時間が可能か否かであって、最初の問題に帰着する。それは無限分割をめぐる第二の二律背反においても同様である。部分を一定にして全体を無限に拡大することは、全体を一定にして部分を無限に縮小させることと同じ操作であるから、第一の二律背反における無限大と第二の二律背反における無限小は、数学的には同じ極限の問題なのである。経験論者は、時間の始まり/空間の限界/分割不可能な最小単位といった独断論的合理論者の第一原理に懐疑の眼差しを向ける。もしも時間の始まりの前が、空間の限界の外が空虚で知覚不可能なら、それらはもはや始まり/限界ではないし、最小単位といえども広がりを持つ以上はさらに分割可能である。独断論的合理論者によれば、懐疑論的経験論者のこのような ¬ die Bedingung からは ¬ das Bedingte が、つまり、いま・ここという確実な与件の存立までが怪しくなるという帰結が生じる。

カントは差し当り懐疑論的経験論者の結論に近い結論を引き出す。但し、独断論的合理論者と懐疑論的経験論者が共有する現象を物自体と見なす地平を否定して、である。すなわち、時間空間が無限であるのは、それが物自体としてそうだからなのではなく、ただ知覚の継時的総合という《認識行為》が無限に続きうるからであり、また無限分割が可能であるのは、物自体が実際に単純な部分から成り立っているからではなくて、ただ分割するという《認識行為》が無限に続きうるからに他ならない。

制約されたもの[das Bedingte]が与えられている時、それに対するすべての制約[Bedingung]の系列における背進は、まさにそのことによって私たちに[与えるられている gegeben のではなくて]課せられている[aufgegeben]のである。[131]

宇宙論的理念をめぐる二律背反は、現代では形而上学というよりも物理学のテーマになっている。ビッグバン仮説は既に定説として受け入れられているが、ビッグバン以前が存在するかどうかに関してはコンセンサスが得られていない。希薄なガスがただよう空間だった宇宙が集まって塊となり、ブラックホールを形成し、その中の密度が極限に達した時にビッグバンが起きて、現在の宇宙が形成されたという説[132]もある。宇宙の終焉に関しても、諸説あって、かつてはビッグバンとよく似たビッグクランチという特異点で宇宙が消滅するとされていたが、宇宙の膨張が加速されているという新しい観測結果から、宇宙の全ての物質が、宇宙の無限大の膨張のために引きちぎられるビッグリップを予測する仮説が提起されているが、異論もある。

宇宙の空間的な大きさが無限かどうかに関しても定説はない。観測可能な宇宙(observable universe)は半径470億光年程度と考えられている。観測可能な宇宙は、今の人類が実際に観測している宇宙ではなく、理論的に観測が可能な宇宙ということであるから、カントの用語で言えば、経験的対象ではなくて、超越論的対象ということになる。そして、観測可能な宇宙の外部は、認識不可能なので、物自体ということになる。物自体としての宇宙自体は、ちょうど二次元の存在者にとっての球の表面のようなもので、境界と境界がつながっていて、宇宙の果ては存在しないという見解もある。時間も循環していると考えれば、端緒なき有限な時間のモデルを作り上げることができる。だが、そうした思弁的な見解は仮説の域を出ていないし、そもそも経験的に実証できない。

第二の二律背反に対しても、現代科学は決定的な答えを見出していない。近現代の科学者たちは物質を原子、素粒子、クォークといった単純な部分へと分解してきた。現代における万物の理論の最も有力な候補である超弦理論/M理論によれば、自然界に存在する4つの力も、素粒子のあらゆる性質も、すべてプランク長程度の小さな弦(string)、あるいはp次元の膜(p-brane)という基本単位で説明される。しかし、プランク長が最小の長さというわけではない。超弦理論/M理論からは、プランク長よりも小さい物理学とプランク長よりも大きな物理学にT双対性を見出すことができる。T双対性の仮説が正しいなら、プランク長以上の宇宙と等価な小宇宙がプランク超未満にあることになる。

話をカントの二律背反に戻そう。第一/第二の二律背反が有限と無限を扱っていたのに対して、第三/第四の二律背反は自由と必然を扱っている。後者の問題は前者の問題と無関係ではない。因果連鎖は時間系列であり、時間に始めがあるなら、自由な存在者による原因のない結果、無からの天地創造を認めなければならない。これはキリスト教の教義であり、ニュートンのような物理学者も、神の最初の一撃によって力学的な運動が始まったと考えていた。

カントは、第一/第二の二律背反に対しては、懐疑論的経験論者の結論に近い結論を引き出していたが、第三/第四の二律背反に対しては、独断論的合理論者の結論に近い結論を引き出す。但し自由が存在するのは行為主体が道徳法則を遵守する限りにおいてであり、必然性の制約としての第一原因が存在するのは、認識主観が自然法則を探求する限りにおいてである。要するに、超越論的理念の使用は統制的であって、構成的ではない。

理念はもともとただ発見的[heuristisch]な概念であって、直示的 [ostensiv]な概念ではなく、対象がどのような性質であるかをではなく、その発見的概念の導きのもとに経験の対象の性質と結合を一般にどのように探求すべきかを指示する。[133]

超越論的心理学の理念も同様であって、「内的経験の導きの糸に従って、私たちの心の全ての現象・働き・感受性を、あたかも心が人格的同一性をもって(少なくとも生存中は)持続的に存在する一つの単純な実体であるかの如く結合する[134]」。つまり、人格の同一性という理念も、統制的に使用しなければならないということである。

カントの時代においては、自然法則による因果関係の必然性は疑いの余地のないもので、意思の自由は、統制的、倫理的に要請するほかはなかった。ラプラスが、ある瞬間における全ての初期条件からすべての時点における状態を見渡すことができる「知性[135]」、所謂「ラプラスの悪魔」を想定したのは、1814年であるが、ニュートン力学がヨーロッパの学界を席巻して以来、こうした決定論が主流になっていたのである。ところが、20世紀になって量子力学における不確定性原理が知られるようになると、「ラプラスの悪魔」の存在は否定されるようになった。量子力学的なミクロなレベルにおいてのみならず、マクロなレベルでも、多体問題やバタフライ効果の発見から、決定論が疑問視されるようになった。また、意識のあり方が量子力学的な性質が深く関わっているとする量子脳理論により、自由意志の因果的閉包性を否定する主張も現れている。要するに、現代科学においては、もはや神のような超越的存在者を持ち出さなくても、因果的必然性からの自由を経験科学のレベルで認めることができるようになったということである。

4.3. 神は存在しうるのか

カントが超越論的弁証論の最後で取り上げるのは、神の存在証明である。神の存在証明において最も中枢的なのは次のようなアンセルム以来の存在論的証明である。

形式論理学においては、全ての述語はその否定が矛盾対当を成すものとして可能であるが、そこでは「明るくない」という否定的述語が、同時に「暗い」という肯定的述語でもあるというように、肯定的か否定的かは相対的である。だが超越論的論理学では、肯定は存在を、否定は非存在を意味する。さて神は最も完全な存在者であり、現象における全ての模型の根源的根拠なのだから、この意味において全ての肯定の述語を持つ超越論的基体でなければならない。従って神の理念は、肯定/否定の選言推論において常に肯定のほうを選ぶことによって得られる。ヴィトゲンシュタイン風に言えば、存立/非存立の二値を取る諸事態の無限系列の中で、存立の場合だけを連言で結合した組合わせが神なのである。そしてこの神は当然「存在する」という述語を肯定形で持っているはずである。故に神は存在する。

この証明を行う独断論的合理論者は、「肯定の述語=存在する」という das Bedingte から「神=全き存在者」という die Bedingung を推論しているのだが、これに対して、懐疑論的経験論者は、それはイデアールな「実在の述語」とレアールな「述語の実在」との混同であるとして ¬ die Bedingung を主張する。ところがこのように完全な必然的存在者を否定すると、個別的な必然性まで怪しくなるという¬das Bedingte が帰結する。

この二律背反を解決するために、カントは、例によって物自体の認識という独断論的合理論者と懐疑論的経験論者が共有する前提を斥けて、実践論的な転回を行う。すなわち神の理念は、「世界の諸事物を目的論的な法則にしたがって結合し、かくして世界の諸事物の最大の体系的統一性へと到達する[136]」ため、統制的に使用しなければならない。

ここでこれまでの議論を反省してみると、カントの『純粋理性批判』の行為論的性格が際立たされてくる。概念のみならず直観をも悟性の産物と見なす超越論的演繹による超越論的問題の解決と超越的問題に対する超越論的批判は、超越論的統覚の超越論的行為論という盾の両面を成している。

カントは純粋理論理性の思弁を批判し、実践理性の優位を説いたと謂われる。しかしその《実践》は直ちに道徳的実践を意味するのではなく、むしろ理論理性-実践理性の対立以前的なより根源的な位相で行為論的転回を遂行することによって、旧来の存在論的形而上学の超越的問題を、遡っては自然科学的認識に関する超越論的問題を解いたといいうる。即ち弁証論における超越論的仮象は、

  1. 超越論的対象を総合・構成する統覚の行為を実体化したり、
  2. 知覚の継時的把捉という行為に先だって無限な時間空間を、分割するという行為に先だって最小単位を、道徳的行為に先だって自由を、因果連鎖を遡及する行為に先だって第一原因を客観自存するものとして想定したり、
  3. 自然の合法則性を探求することなく英知的創造主を前提したり

することによって生じるのである。

結局のところ、カントは認識行為によって構成された自然の物象化的自存視を批判したわけである。もちろん、カントの全批判哲学を実践哲学として統一的に理解するということは、かつてフィヒテによって為されたことであるし、私の勝手な造語である「行為論的転回」とは、従来「コペルニクス的転回」と呼ばれていたものに他ならない。物自体の認識を否定して実践へと転回することは、ヘーゲルの観想の哲学をプラクシスの立場から「唯物論的に転倒」したマルクスや論理実証主義の科学主義をホーリズムの立場からプラグマティズムへと改作したクワインにおいて反復されることである。だが、私たちはこの問題を哲学史的にではなく哲学的に解明しなければならないし、行為論は最終的には、目的論に結び付けられなければならない

5. 参照情報

関連著作
注釈一覧
  1. このページは電子書籍『カントの超越論的哲学』の第一章をブログ記事用に編集したものです。
  2. Kant, Immanuel. Prolegomena zur einer jeden künftigen Metaphysik. 1783. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 4. p. 294.
  3. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). B.25.
  4. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.836=B.866.
  5. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). B.27.
  6. Reinhold, Karl Leonhard. Beyträge zur leichtern Übersicht des Zustandes der Philosophie beym Anfange des 19.Jahrhunderts. 1801. Hamburg.
  7. Leibniz, Gottfried Wilhelm. Discours de métaphysique. 1686. Gallimard, §.13; Leibniz, Gottfried Wilhelm. Monadologie. 1714. Die Philosophischen Schriften von G.W. Leibniz, Bd. 6. Weidmannsche Buchhandlung. ed. Gerhardt, §.33.
  8. Hume, David. A Treatise of Human Nature. 1739. Oxford Clarendon Press. ed. p. H. Nidditch. p. 70.
  9. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.369.
  10. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.371.
  11. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.327=B.384.
  12. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.94=B.126.
  13. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.296=B.352.
  14. Kant, Immanuel. Prolegomena zur einer jeden künftigen Metaphysik. 1783. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 4. p. 319.
  15. Kant, Immanuel. Opus postumum. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 3, Band 22. p. 26.
  16. Kant, Immanuel. Opus postumum. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 3, Band 22. p. 43.
  17. Hegel, Georg Wilhelm Friedrich. Phänomenologie des Geistes. 1807. Felix Meiner Verlag. ed. Johannes Hoffmeister. p. 125f.
  18. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.147=B.186.
  19. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). B.225.
  20. Descartes, René. Meditationes de prima philosophia. 1641. Oeuvres de Descartes. Vol. 7. Librairie J. Vrin. ed. Adam et Tannery. p. 32.
  21. Hegel, Georg Wilhelm Friedrich. Phänomenologie des Geistes. 1807. Felix Meiner Verlag. ed. Johannes Hoffmeister. p. 24.
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  27. Paton, Herbert James. Kant’s Metaphysic of Experience. 1936. George Allen & Unwin, Vol.1. p. 227.
  28. Paton, Herbert James. Kant’s Metaphysic of Experience. 1936. George Allen & Unwin, Vol.1. p. 230.
  29. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). B.3.
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  80. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.140=B.179.
  81. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.15=B.29.
  82. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.15=B.29.
  83. Heidegger, Martin. Kant und das Problem der Metaphysik. 1927. Martin Heidegger Gesamtausgabe Bd. 3. Vittorio Klostermann. p. 130.
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  91. Henri, Bergson. Essais sur les données immédiates de la conscience. 1889. p. U.F. p. 136.
  92. Scheler, Max. Vom Umsturz der Werte. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 3. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 324.
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  98. 岩崎武雄. 『カント『純粋理性批判』の研究』 1982. 岩崎武雄著作集第七巻. 新地書房. p. 251ff.
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  104. Frege, Gottlob. Die Grundlagen der Arithmetik, Eine logisch-mathematische Untersuchung über den Begriff der Zahl. 1884. Georg Olms Verlag,§.60. p. 71.
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  107. Αριστοτέλης. Τὰ μετὰ τὰ φυσικά. アリストテレス. 『形而上学』 1959. 岩波書店. 出隆訳, Δ5,1015a.
  108. Αριστοτέλης. Τὰ μετὰ τὰ φυσικά. アリストテレス. 『形而上学』 1959. 岩波書店. 出隆訳,Δ5,1015b.
  109. Αριστοτέλης. Τὰ μετὰ τὰ φυσικά. アリストテレス. 『形而上学』 1959. 岩波書店. 出隆訳,Δ5,1015a.
  110. Hegel, Georg Wilhelm Friedrich. Wissenschaft der Logik. 1812. Gesammelte Werke herausgegeben von der Rheinisch-Westfälischen Akademie der Wissenschaften, Bd. 21. Felix Meiner Verlag. p. 58.
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  120. Adickes, Erich. Kants Lehre von der doppelten Affektion unseres Ich als Schlüssel zu seiner Erkenntnistheorie. ed. J.C.B. Mohr, 1929.p.31.
  121. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.426=B.454.
  122. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.427=B.455.
  123. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.434=B.462.
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  125. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.444=B.472.
  126. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.445=B.473.
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  130. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.429=B.457.
  131. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.497f=B.526.
  132. Veneziano, Gabriele. “The Myth of the Beginning of Time". in Scientific American 290:5 (May 2004), pp. 54–65.
  133. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.671=B.699.
  134. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.672=B.700.
  135. Laplace, Pierre-Simon. Essai philosophique sur les probabilités. 1814. Courcier. p. 2.
  136. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.687=B.715.