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カントの判断力批判

1997年9月1日

カントの哲学を行為論的・目的論的に解釈するとき、認識的・身体的を問わず、行為一般の究極目的は何かが問題となってくる。このページでは、これまでの「カントの純粋理性批判」と「カントの実践理性批判」での議論を踏まえ、『判断力批判』を、理性の自己実現を究極目的とする目的論的哲学としてヘーゲル的に再構築してみたい。[1]

カントの純粋理性批判

1. 判断力批判は何を批判しているのか

1.1. 三批判書の関係

『純粋理性批判』においては悟性の能力が、『実践理性批判』においては理性の能力が批判的に吟味されたが、『判断力批判』では「悟性と理性の中間肢[2]」である判断力の可能性が問われる。しかし、カントの三批判書は、三つの能力をそれぞればらばらに吟味した書ではない。理性も判断力も『純粋理性批判』において導入された概念であり、『純粋理性批判』において論じられている理性と判断力は、『実践理性批判』において論じられている理性や『判断力批判』において論じられている判断力とは異なる。同じ理性でも、『純粋理性批判』においては純粋理論理性が、『実践理性批判』においては純粋実践理性が扱われた。では、三批判書は、それぞれ真・善・美という三つの理念を扱っているのかと言えば、そう単純ではない。たしかに『判断力批判』の第一部の主題は美観的判断力であるが、第二部は目的論的判断力となっている。自然が合目的であることは美しいと言えなくはないが、それならば、道徳的に正しい行為とか真理とかも美しいと言えるから、拡大解釈するべきではないだろう。

この点に関するカントの説明は明快ではないので、私のほうで仮説を立てることにしよう。カントの三批判書は、直説法(Indikativ)、命令法(Imperativ)、接続法(Konjunktiv)という、ドイツ語の文の三つの法(Modus)に対応していると考えることはできないだろうか。事実をありのままに陳述する直説法と命令する時に使う命令法が理論と実践に対応していることは容易く見て取れる。もちろん、命令法が使われる命令が道徳的とは限らないが、それは直説法が使われる事実陳述が学問的に真であるとは限らないのと同じことである。これに対して、接続法は、日本語の文法にはない文法範疇であり、説明を要する。英文法を知っている人なら、英語の仮定法に相当すると言えばわかるかもしれない。英語では、仮定法現在、仮定法過去、仮定法過去完了にそれぞれ動詞の不定形、過去形、過去完了形を使うが、ドイツ語では接続法第一式と第二式という接続法でしか使わない独特の動詞の活用形を用いるので、ドイツ人はイギリス人以上に接続法を直説法から意識的に区別して使っていると言うことができる。

ドイツ語の接続法第一式は、主として間接話法で用いられる。他人の話を間接話法で引用する時、接続法第一式を用いることで、その話が事実であるかどうかに話者が関与しないことを示すことができる。この他、話者が願望を示す時にも接続法第一式が使われる。願望は、事実ではないからこそ願望なのであり、事実であることを主張する直説法とは異なる。接続法第二式は、主として事実とは異なる仮定をする時に使われる。またそこから転じて、事実の断定を避け、婉曲的に発言する時にも使われる。要するに、接続法は、事実と異なる、もしくは事実かどうかを問題としない可能的事態に対する想像的な判断に用いられるということである。

カントは『純粋理性批判』で「悟性一般が規則の能力として説明されるのに対して、判断力とは、規則のもとへと包摂する能力である[3]」と定義しているが、それなら、直説法の判断、命令法の判断、接続法の判断でも、規則のもとに個物を包摂しているのだから、その能力は同じ判断力であると言うことができる。しかし、直説法の判断力は悟性に服従しているし、命令法の判断力は理性に服従しており、どちらも独自の領域を持たない。しかし、接続法の判断力は、悟性や理性から自由に、すなわち、それが事実かどうかとか、道徳的に正しいかどうかといったこととは無関係に、行使できるから、独自の認識領域を持ちうる。だからこそ、カントは『判断力批判』という独立した書を書いたのである。

1.2. 判断力批判の超越論的解釈

カントのようなキリスト教文化圏の人々は、美しいものや崇高なものを見ると、それは偶然の産物ではなく、創造主が意図的に創ったもので、したがって、自然は合目的的に創られているに違いないと考える傾向にある。米国では、生命や宇宙の精巧な仕組みは知性のある存在者によって意図的に設計されたとする、インテリジェント・デザイン仮説を公教育の理科で教えるべきだと主張する人が、ジョージ・ブッシュを含め、今でもたくさんいるぐらいである。しかし、悟性的にしか考えない科学者からすれば、インテリジェント・デザインなどは想像の産物に過ぎない。啓蒙主義者のカントも、そうした考えに近い。しかし、想像というのは、まさに接続法の判断力が関わるべき認識能力であり、その可能性の批判吟味、超越論的認識が『判断力批判』固有のテーマとなる。

かくして、『判断力批判』では「自然は合目的的である」というアプリオリな総合判断の可能性が超越論的問題となるのであるが、『実践理性批判』の時と同様、主語は理論哲学によって与えられており、ただ述語のみがここに特有である。超越論的哲学の定式3の『判断力批判』版は、次のようになる。

【超越論的哲学の定式6】超越論的反省のもとで、

(1) 合目的性としての超越が

(2) 合目的性からの超越を

(3) 自然において超越しつつ

(4) 自然から超越する。

このページの構成に関して言えば、(1) が主観的合目的性(第一節)、(2) と (3) が客観的合目的性(第二節)、(4) が自覚的合目的性(第三節)に相当する。

1.3. 判断力批判における二つの超越

『純粋理性批判』では構想力の図式が悟性と感性の総合の媒介となった。悟性と理性を総合する媒介は判断力の原則であるが、人間悟性と物自体を媒介しようとすると仮象が生じるので、その判断の無制約的な推論は否定された。『実践理性批判』においては、判断力は範型を通して悟性に理念を与える。『判断力批判』では、差し当りこれらの媒介機能から遊離した判断力の独自の能力が考察される。

「判断力一般は、特殊を普遍のもとに含まれたものとして考える能力である。もしも普遍(規則・原理・法則)が与えられているならば、特殊をそのもとへと包摂する判断力は規定的である。しかし、もしただそれに対して判断力が普遍を見つけるべき特殊が与えられているだけならば、判断力はたんに反省的である[4]」。規定的判断力は図式によって悟性概念を感性化したが、これに対して反省的判断力は「象徴 Symbol」によって、本来感性化されえないアプリオリな概念を「類比的 analogisch に[5]」に直観する。

反省的判断力は美感的判断力と目的論的判断力とに下位区分される。前者の原理が形式的主観的合目的性(自然美)であるのに対して、後者の原理は実在的客観的合目的性(自然目的)である。ところでカントに言わせれば、これら自然の合目的性という「概念は実践的合目的性(人間の技術のまたは人倫の)からは完全に区別される[6]」。もし反省的判断力の合目的性が実践的合目的性と異なるなら、道徳の現象界における実現という超越論的問題は、解決されえないことになるのではないだろうか。

しかし総合するために予め区別するというのがカントの常套手段であるということを想起しなければならない。「究極目的の可能性の条件をアプリオリに、また[即自的には]実践的なものへの顧慮なしで前提するところのもの、即ち判断力は、自然概念と自由概念との間を媒介し、純粋理論的理性から純粋実践的理性への、前者に従う合法則性から後者に従う究極目的への移行を可能ならしめる概念を、自然の合目的性という概念において暗示している。なぜなら、この媒介的表象によって、それのみが自然において、また自然の諸法則に一致して現実的となりうる究極目的の可能性が認識されるからである[7]」。自然における自由の実現、理論と実践の統一に際して、自然と自由のどちらが主体であるかに関して、次の二つが考えられる。

(1) 主体(自由)から超越する客体(自然)へと主体が超越する。

(2) 主体(自然)から超越する客体(自由)へと主体が超越する。

(1)は人間理性の主体性を強調した立場であるが、『判断力批判』や歴史哲学的諸論文の面白いところは、そうした「近代的」あるいは「カント的」と形容される立場が揺らいで、ヘーゲルの歴史哲学を彷彿とさせる視点が顔を覗かせている点にある。このページでは、第三批判を、真・善と並ぶ美という理念を扱った書としてではなく、最初の二批判書を架橋する書として解釈することを目指すが、その際、理性の自覚の歴史である文化を《戯れ Spiel》という概念を手がかりに解明しつつ、カント的(と世間では考えられている)主体性の解体を試みる。

『判断力批判』は、第一部が「美感的判断力の批判」で、第二部が「目的論的判断力の批判」で、第三部はない。ヘーゲル的な弁証法になじんでいる哲学者なら、第三部を書きたくなるものだ。田辺元は、「意志が自己と独立に自己の外にあるものに於て、自己に対する合目的性を自覚するといふ意味で[8]」、「自覚的合目的性」という第三の合目的性を提案した。以下私は、田辺のこの用語を借用して、主観的合目的性と客観的合目的性に、自覚的合目的性という謂わば『判断力批判』の《未だ書かれざる第三部》を補って、超越論的問題の究極的解決の意味を考えてみたい。

2. 主観的合目的性

私たちは、美しいものに惹かれ、崇高なものに感嘆する。悟性や理性とは無関係に見える美感的判断力は、カントの哲学においてどのような位置を占めるのだろうか。目的論の立場から考えてみよう。

2.1. 美しいものの分析論

カントは、『判断力批判』を「美感的判断力 die ästhetische Urteilskraft の批判」をもって始めるわけであるが、この「美感的」はもちろん『純粋理性批判』の感性論(Ästhetik)とは関係がない。カントの『純粋理性批判』において、“Ästhetik”は、美学の基礎を築いた同時代のバウムガルテンの用法に反して、たんに「感性の教説」という意味しか持たない。しかし、『判断力批判』での“ästhetisch”は、バウムガルテンの用法に従っている。それは、美や醜は対象の認識に係わる感性的直観の表象様式ではなく、快・不快の感情による表象様式であるからである。とはいえ、この快・不快はまた、『実践理性批判』での主題である 快適(Angenehm)や 善(Gut)とも異なる。 美はそれらと「適意 Wohlgefallen」という点で同じなのだが、実践的関心と結び付いていないという点で異なる。「趣味判断を規定する適意は全ての関心を離れている[9]」のである。

趣味判断は、このように関心から自由であるがゆえに普遍性を持つ。但し趣味判断の普遍性は、悟性(概念)によって規定されたものではないので、客観的ではなく“主観的”である。「趣味判断における表象様式の主観的普遍的な伝達可能性は、何ら特定の概念を前提することなしにそうであるのだから、構想力と悟性の自由な戯れ[das freie Spiel der Einbildungskraft und Verstandes]における心的状態以外の何物でもない[10]」。この自由な戯れの結果、美的なものに関して諸個人の間に共通感覚(Gemeinsinn 共通のセンス)が形成されるようになるが、これはたんなる外的感覚でもなければ、概念とも、したがって常識[11]とも異なる。

しからば趣味判断の普遍的な伝達可能性は、共通感覚あるいは純粋感情のいかなる形式を根拠としているのであろうか。カントは、それは合目的性であると言う。「趣味判断は対象(ないしはそれの表象様式)の合目的性の形式以外何物をも根拠としない[12]」。合目的性とは、概念(手段)が対象(目的)の規定根拠となっているということであって、この因果性の主体における意識が快となる。合目的性は、目的の欲求(意志)を必ずしも前提しておらず、その可能性は規則の表象によって理解されうる。美感的判断力の根拠たる合目的性は《目的なき合目的性》であって、実質的目的を欠くがゆえに形式的であり、したがってアプリオリなわけである。

この形式は実質的な実例(Beispiel)によって直観化されるが、絵画や音楽の本質は、色や音という感覚的魅力にではなく、素描や作曲に(正確に言えばその合目的的な形式に)あるとカントは主張する。もちろん絵画に感性的な色が無かったり、音楽に感性的な音が無かったりすれば、それらに対する美もないであろうから(それどころか、それらは絵画や音楽ですらないであろうから)、趣味判断は実例を、さらには模範を必要とする。しかしいかに完全な美の模範と雖えども、私たち自らが美しいと感じなければ美しくないのだから、趣味判断の基準は客観にではなく主観に求めなければならない。

最高の模範・ 趣味の原形はたんなる理念[Idee]であって、各人はその理念を自分の中に産出し、その理念に従って趣味の客体や趣味による評価の実例である全てのものを、そして各人の趣味すらをも評価しなければならないのである。[13]

美の理念は構想力の平均値的理念であって、理性の理想(Ideal)とは異なり、その必然性(普遍妥当性)は《模範的 exemplarisch》であって《必当然的 apodiktisch》ではない。美感的判断力は、個別反省的であって普遍規定的ではないことを思い出されたい。「美しい『花』がある。『花』の美しさといふ様なものはない[14]」のである。

反省的判断力が与える合目的性は偶然的で、それだけに意外さと快の感情の余地がある。構想力が悟性に仕える規定的判断力の合法則性が退屈であるのに対して、悟性が構想力に仕える反省的判断力の「法則なき合法則性 Gesetzmäßigkeit ohne Gesetz」は、構想力が自由に戯れることができるので飽きない。自らは規則正しい生活を送ったカントも「全ての硬直した合規則性は(それは数学的な合規則性に近似しているのだが)、それ自体趣味に反するものを持っている[15]」と漏らした所以である。

ガダマーは、『判断力批判』における「構想力と悟性の自由な戯れ」の概念に注目しつつ、次のように批評する。

私たちにとって重要なことは、Spiel という概念がカントやシラーにおいて持っていたような、そして近代の全ての美学と人間学を支配していた主観的な意味から、この概念を解放することである。芸術経験との関連で Spiel について語るならば、Spiel は[芸術作品の]創作者と享受者の関係ではないし、ましてや心的関係ではなく、一般に言って Spiel において活動する主観性の自由ではなく、芸術作品そのものの存在様式なのである。[16]

《Spiel》は、さらに芸術作品の存在様式であるのみならず、作品一般の存在様式でもある。このページは、ガダマーが試みる存在論的転回の方向に沿って、『判断力批判』第二部の“客観的”合目的性や、第三部と位置付けた歴史哲学にまで《Spiel》論を拡張するつもりである。その際重要なことは、ガダマーの解釈学的な伝統論、歴史哲学を“模倣”するのではなくて、システム論の立場から“継承”することである。

システム論的には善も美も低エントロピーな価値であるが、両者は似て非なる概念である。私たちは可能的にシステムの維持・発展をもたらす普遍的法則への合目的性に対して「善い」という述語を与えるが、これに対して「美しい」という述語は《目的なき合目的性》に与えられる。芸術は美を創造する人間の営為であるが、その活動の本質は、労働における生産と対照を成す《遊び Spiel》である。芸術は語源的に《技術》から由来している。今日でこそ芸術は科学技術とは明らかに異なるが、もともと芸術は現代芸術のように完全に自己目的化しておらず、労働や宗教と一体となっていた。それゆえアルタミラ洞窟の絵画は、決して現代的な意味での芸術ではなかった。逆に言えば芸術は、技術からその実質的目的を捨象し、創作形式を自己目的的に抽象化することによって歴史的に誕生したといえる。

芸術以外の遊びには、たんなる《戯れ Spiel》もあれば、《勝負・賭 Spiel》を含む《ゲーム Spiel》もある。多様な種類の《Spiel》が持つ一つの“家族的類似性”は、やはり《実利的な目的に結び付かないこと》である。遊びがなくても人間は生きていくことができる。したがって遊びは贅沢であり、過剰ゆえの富の蕩尽という人間文化の構造的特性を持つ。芸術が他の遊びと異なる点は、それが他者によって観賞されうる作品を産み出すこと、遊戯活動よりもその作品に評価の重点がおかれることにある。《作用-対象-内容》という実践/認識の基本的な図式に即し て言えば、芸術作品を創造/観賞するどちらの場合でも、レアールな作用-対象ではなくて、イデアールな内容が重要であり、かつ間主観的合意が得られなければならない。美自体は心的事実ではあるが、美の真理はたんなる心的事実を越える。ルーマンの術語を用いて言えば、芸術はコミュニケーション・メディアの一つであり、ダブル・コンティンジェントな複雑性の増大を通して複雑性を縮減する。

芸術は手段的な有用性を持たない。しかし芸術は、有用性を持たない(あるいは持とうとしない)がゆえにある有用性を持つ。もし効率だけが問題であり、一切の無駄を省こうとするならば、芸術を含め遊びは不要となる。その時人間社会は機械的で単調となり、安定はするものの進歩しなくなる。進歩には飛躍が必要であり、秩序はゆらぎを通して自己形成しなければならない。芸術は、虚構において現実の新たな可能性を探るという意味で精神の実験である。芸術あるいは遊びは、人間の精神の自由で多様な活動の余地(遊戯空間 Spielraum)を造る。それはさしあたり有用性を持たない[遊び]ではあるが、システムが環境の変化に適応する際に何らかの形で意図せずして役に立つことがある。「芸術を通して聴覚的/視覚的世界の新しい諸可能性が発見され、役に立つ。分散 [秩序化の放棄]の戦術を採ることによって、そうでないときよりも世界を秩序化するより多くの可能性が現れる[17]」。

芸術/美的観賞においては、システムが要素を“規定的に”決定する のではなくて、要素がシステムを“反省的に”形成する。科学や道徳においても、既製のパラダイム内部でのパズル解きは規定的であるが、パラダイム転換に際して生じる新たな可能性の出現は芸術的創造に近い。その時、いかなるパラダイムが望ましいかを決める基準をあらかじめ設定しておくことはできない。そうした高次の基準そのものが解体するのだから。それは事後的に追認されるのみである。それゆえ、『判断力批判』での超越論的“演繹”は、《上から下へ》ではなくて、《下から上へ》という方向を取らざるを得ない。

カントは趣味判断の超越論的演繹を次のような「三段の総合」(?)によっておこなう。「(1)自分で思考すること、(2)あらゆる他人の立場で思考すること、(3)いつでも自分自身と一致して思考すること[18]」。

まず、(1)に関してであるが、趣味判断においては個別判断が普遍的判断に先行するので、「美しい」と言うためには自分で確かめてみなければならない。趣味の「継承 Nachfolge」と「模倣 Nachahmung」は区別されるべきであって、前者は後者とは異なり、偉大な先人と同じものを汲み取りながら、その汲み取り方だけを模倣する。「間主観的に妥当している、ゆえに美しい」などということはありえない。しかしまた(2)が(1)より派生的というわけでもない。カントは趣味を「所与の表象についての私たちの感情を、概念の媒介なしに普遍的に伝達可能にするもの[共通感覚 sensus communis]の評価の能力[19]」として定義しているぐらいである。もし も普遍妥当性を持たないならば、それは趣味判断ではなくて、たんなる感覚(Empfindung)である。

(2)の格率は、換言すれば「(他者の立場に自己を置き移すことによってのみ規定することができる)普遍的な立場から自分の判断を反省する[20]」ことであると言う。だから反省的判断力において《特殊から普遍を見出す》ということは、個別判断を全称化することではなく(さもなければそれは趣味判断ではなく論理的判断となってしまう)[21]、それの間主観的妥当性を得ることと考えられる。

(3)で謳われる判断の首尾一貫性も、超越論的統覚による統一ではなく、概念以前的・自他未分的な間主観的統一として受け取らなければなるまい。

以上の超越論的演繹を可能ならしめる《共通感覚》の存在はいかにして証明されるのであろうか。カントはこの問いに答えようとしない。さながらその存在は《判断力の事実》だとでも言わんばかりである。

2.2. 崇高なものの分析論

主観的合目的性は自覚的合目的性に止揚されるので、カントの美学の細部に深く立ち入る必要はない。実践的関心を持つ者にとっては、むしろこの合目的性の即自的段階に価値哲学を読み取ることのほうが重要課題であるが、そのためには美の感情だけでなく崇高の感情をも考察する必要がある。

崇高なるものとは「それとの比較においては全てが小さくなるようなもの[22]」のことであるが、これにはさらに「それをただ考えることができるだけでも、あらゆる感官の尺度を凌駕するような心の能力を示すようなもの[23]」という条件が付け加わらなければならない。

Aよりも大きいB、Bよりも大きいC … という部分から全体への把捉の継続(例えば、私の身体→私の家→私の町→日本→地球→太陽系→ 銀河系 usw.)において最初のAやBが忘れられるならば、この思惟の運動は同じものの繰り返しであり、その大きさは相対的であるがゆえに崇高の感情は生じない。しかしもしも直観の最初に把捉された部分表象が構想力のうちに保たれているなら、その大きさには最大があり、またその絶対性のゆえに崇高性を持つ。

例えば最初に地球儀を眼前にありありと思い浮かべ、次に本物の地球を思い浮かべるとき、二つの球の思惟の地平における大きさはほとんど同じである。それは本物の地球を表象しているとき、その中に含まれているはずの地球儀の思惟における大きさがどれぐらいであるかを考えることによって逆に推測がつく。大きさを 「論弁的 diskursiv」に知ることと偉大さを「直観的 intuitiv」に理解することとは別なのである。

似たような例をもう一つ挙げれば、社会経験の浅い子供は「内閣総理大臣」の地位がそれほど高いとは思わないだろうが、もし彼が公務員となって序列社会の厳しさを、身をもって体験すれば、「自分がその足元にも及ばないあの上司の上のさらにその上の … 」という“把捉の総合”を続けていって首相の地位の高さに驚嘆することであろう。

キリスト教においてはこのような最高権力者ですら神の前において相対化される。今、地上の強者の権力が100で、弱者のそれが1だとする(100は思惟の地平における最大限度の量を表すとする)。ところが次に神の無限大の力を表象すると、無限が100になるために先ほ どの地上の99の権力格差は無限に0に近付く。また現世のことしか考えない人にとって自分の人生は100の長さで与えられるが、来世において自分の魂が永遠に不死であることを知れば、現世での苦しくて辛い人生の長さは無限に0に近付く。キリスト教は(総じて背後世界を説く宗教は)このように思惟の地平の有限性を利用して人々の魂を“救済する”。

「地平」とは「否定によって構成され、否定によって対自化される意識の領域」なのであるが、ここでもまず現世における大と小の格差が対比(否定)によって構成され、次に現世という地平が来世という地平によって対自化されるわけである。

崇高とは、無制約的なものに対する感情である。把捉の総合の極限として得られる無制約的客体は、『純粋理性批判』に謂う純粋理性概念(Idee)に外ならない。そこで美の感情の根拠が悟性と構想力との戯れにおける自然の合目的性であったのに対して、崇高の感情のそれは理性と構想力との戯れにおける自然の反目的性であると言えよう。

もっとも反目的的であるといっても、理性は感性を端的に越えているがゆえに、自然が理念に不適合・反目的的であるということは、 理性の本性(自然)にとっては適合的であるから、これとて結局は自然の合目的性を根拠としているということになる。「私たちの能力が、私たちにとって法則である理念[道徳的理念]に到達するのに不適切であるという感情が尊敬である[24]」。不適切性としての適切性の感情が、適切的たらんとする道徳的行為の客観的ではないが主観的な動機となるのである。

理論哲学において、超越論的統覚が超越論的客体を構成する際、外界の規定によって内界が反照的に規定されるというありかたで経験的統覚が触発されるのと同様に、実践哲学においても、純粋実践理性が目的の国を構成するする際、自他の義務遂行のために経験的欲求(傾向)が否定されるというありかたにおいて尊敬という感情が惹き起こされる。

純粋実践理性は、私たちの自尊心を傷付けることによって道徳法則を尊敬の対象にするわけである。私たちは謂わば、低められることによって高められるのであって、それはかつてカントがルソーの本に接して経験したことであった。

尊敬という感情は、全く理性によってのみ惹き起こされ、理性によってアプリオリに認識される道徳的感情として、経験的な情念的感情からは区別される。後者が快を生じさせる感情であるのに対して、前者は快を生じさせないことによって快が生じる感情である。カントはここからキリスト教の隣人愛を批判する。人間は、愛という情念的感情に従って道徳法則を守ることができるほど高尚な存在者ではないのである。「人間がその都度ありうる道徳的状態は、Tugend 即ち戦闘の中にある道徳的心術であって、意志の心術の全き純粋性を所有していると思念された神聖性ではないのである[25]」。

だがこのことを 逆に言うならば、神の如き傾向性と戦う必要のない存在者には尊敬の感情が生起しないということなのである。ここに道徳のパラドックスがある。道徳の価値が理解できるのは、「心の欲するところに従いて矩を踰えぬ」君子ではなくて、「心の欲せざるところに従いて矩を踰えぬ」凡人なのである。犠牲にしなければならない欲望が大きければ大きいほどそれだけ道徳的な価値は輝きと崇高さを増すのであって、この点、感性的に制約されていることは、人間の道徳的な弱さであると同時に強さでもあると言えよう。

できるかぎり犠牲を少なくしようとする努力とこれに伴う痛切な感覚のゆえに、私たちは、犠牲が完全になくなって初めて生は最高度の価値へと高められると思い込む。しかしこの際私たちが見落としていることは、犠牲は必ずしも外的な障害ではなく、目標それ自体とそれへの道のりの内的な条件であるということである。[…]魂は罪を克服した後に永遠の祝福へと高められるのであるが、その罪が魂に初めてかの《天上の喜び》を保証するのであって、天上にいるそもそも始めから義しい人はこの喜びに与かることはない。[26]

ところがカント自身は、このような「欠点のある人間のほうが意志なき天使の群れよりも優れている[ハラーの詩]」という考えを、価値の「量の評価の主観的制約を量そのものの客観的制約と見なす」「錯視」であるとして斥ている[27]が、私たちはこのよう な価値実在論に対してもコペルニクス的転回を施すべきではないだろうか。

カントは『純粋理性批判』の第二版序論でプラトンのイデア界への飛行を揶揄している。「軽快な鳩は、自由に空気中を飛び回って空気の抵抗を感じるので、真空の中ではもっとずっとうまく飛べると考えるかもしれない[28]」。しかしもし空気が無ければ、うまく飛べるどころかそもそも飛ぶこと自体が不可能になるであろうというわけである。同様に私たちはカントに対してこう言うことができよう。道徳的完全性を目指す有限な存在者人間は、もしこの肉体的欲望の障害が無ければもっと容易に神聖で崇高な人間になれるのに、と考えるかもしれない。しかしもしこの障害が無ければ、そもそも神聖さや崇高さ自体が存在しなくなるであろう。

もっとも尊敬感情は、義務遂行の動機ではなくて結果にすぎず、カント倫理学においては本質的な構成契機ではない。あたかも、道徳は感情とともに(mit)始まるにしても感情から(aus)生じるわけではない、とでも言わんばかりである。それにしても彼の尊敬感情論は、シェーラーによって「形式主義」の烙印を押された『実践理性批判』の中では殆ど唯一の「実質的価値倫理学」であるという点で注目してよい。

一般に価値は(経済学の用語で言えば)有用性と希少性の二つの契機から成り、(例えば水や空気がそうであるように)いかに有用性があっても希少性がなければ、その価値は価値として対自化されない。この点道徳法則の遵守は、互酬性(reciprocity)の原理から言って、感性的欲求充足の 有用性価値を犠牲にした結果の(それに相当する量の)希少性価値を持つと言える。

しばしばカントの三批判書に真・善・美の三区分をあてがう試みがなされるが、この三者は対等に並びうるものではない。『実践理性批判』で論じられているのは当為であって価値ではない。価値判断は趣味判断や美感的判断と親近性を持つので、そして実践における価値と当為の間の関係は理論における受動的感性と自発的悟性の関係とパラレルであるので、当の三区分は理論的(真)と実践的(善・美)の二区分として整理される。

カントは快の感情の対象として、(1)快適なもの(das Angenehme)、(2)美しいもの(das Schöne)、(3)崇高なもの(das Erhabene)、(4)端的に善いもの(das Schlechthin-Gute)の四つを挙げている[29]が、(3)が(4)から生じてきたように、(2)は(1)から生じてきたと言 えないのだろうか。しかるにカントは、美の感情を「関心なき適意」として美的なものの独自性を主張する。彼はただ「美しいものは人倫的に善なるものの象徴である[30]」と言って善と美の関係を仄めかすだけである。

2.3. 美感的判断力の弁証論

『判断力批判』第一部「美感的判断力批判」の後半では、お約束のように弁証論が取り上げられている。

2. 反定立 趣味判断は概念に基づく。なぜなら、さもなくば、趣味の相違にもかかわらず、それについて言い争う(他者がこの判断と必然的に一致することを要求する)ことすら全くないであろうから。[31]

俗に「蓼食う虫も好き好き」と言われるように、人の好みはさまざまである。では、美しいかどうかは全く主観的で、恣意的で、議論する余地もないのかと言えばそうではない。もしもそうであるなら、ミス・コンテスト(美人コンクール)で順位を決めることは全く不可能であるはずだ。もっとも、ミスコンで優勝者が選ばれると、必ずと言ってよいほど「よりにもよって、こんなのが優勝者か」といった異論が噴出する。つまり、万人を納得させる順位付けは不可能ということである。

カントによれば、件の趣味判断の二律背反は、見せかけの矛盾にすぎず、趣味判断が基づくところの「概念」の意味が違っている。

それゆえ、定立においては、「趣味判断は、規定された概念に基づかない」と言われるべきであり、これに対して、反定立においては、「趣味判断は、未規定な概念ではあるが、なおある概念(すなわち現象の超感性的基体の概念)に基づく」と言われるべきである。そうすれば、二つの判断の間に矛盾は存在しないことになるだろう。[32]

例えば、「彼女は二重まぶただから美人だ」という趣味判断を行ったとしよう。この趣味判断は「彼女は美人だ」という純粋な趣味判断とは異なり、「二重まぶた」という概念に基づいている。そして二重まぶたかどうかは概念的に判断できる。しかし、「二重まぶただからといって美人と言えるのか」と問い返すことができる。「彼女は歯並びが美しいから美人だ」という趣味判断はどうだろうか。「歯並びが美しい」という命題が「歯並びが一直線である」という事実命題であるのなら、「いや、いや、八重歯の女の子の方が可愛い」といったような異論が出てくるだろう。要するに、趣味判断は概念に基づくことはできるが、その概念は趣味判断を決定するような根拠にはなりえないということである。

異性の容姿に対する趣味判断にせよ、飲食物の味覚に関する趣味判断にせよ、なんであれ、趣味判断には、ある程度概念的根拠がありながら、それが根拠として決定的ではないことに、どのような生物学的意味があるのだろうか。味覚は、有毒物を摂取しないためのセンサーとして発達したし、配偶者の容姿に対する選り好みは、確実に子孫を残すための性淘汰としての機能を担っている。すなわち、配偶者が寄生者に集られていたり、病弱であったり、婚期を過ぎていたりすると、健康な子孫を作れる確率が低下するので、その確率を高めるべく、容姿で配偶者を選別していると考えられる。

こうした目標が客観的に決まっているのなら、趣味判断の根拠となる概念ももっと一義的に決まってもよさそうに思えるかもしれない。しかし、選別基準があまりにも画一的になると、種の多様性が失われ、現在の環境に最適化される一方で、環境の変化によって種が絶滅するリスクが増える。そうしたリスクを避けるため、私たちの趣味判断は、一定の斉一性を持ちつつ、ある程度の遊びの余地を残している。だから、カントが提示した趣味判断の二律背反とは、変化適応(定立)と環境適応(反定立)という、種保存のために必要な二律背反的な二つの要件を反映している。こう考えるなら、主観的合目的性も客観的合目的性に基づいていると言うことができる。かくして、私たちの議論は、主観的合目的性から客観的合目的性へと移行する。

3. 客観的合目的性

自然界には、偶然にできたとは信じがたい合目的的な相互連関があり、人々は、かつてそこから神の存在を感じ取った。たんなる部分の寄せ集め以上の合目的的全体はいかにして可能なのか、『判断力批判』第二部「目的論的判断力批判」を手掛かりに、考えてみよう。

3.1. 主観的合目的性から客観的合目的性へ

自然の客観的合目的性(例えばあたかも種の自己保存を目的として巧妙に造られているかのような生物のメカニズム)は、自然の因果結合という点からすればむしろ偶然的であって、それをアプリオリに想定する権利はなく、ただ特殊な事例から反省的に想定されるだけである。だから(少なくとも本節で扱う)目的論的判定は、構成的な規定的判断力にではなく、統制的な反省的判断力に属する。カントは、アリストテレスのように自然の説明に目的因が必要だとは考えなかったのはこのためである。

カントは、合目的性の概念を、主観的と客観的、形式的(反省的)と実質的(規定的)、内的と外的の区別にしたがって分類しているので、それを以下のように整理してみた。

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合目的性の分類

この表を見ると、規定的判断力を扱う『実践理性批判』と反省的判断力を扱う『判断力批判』との関係がよくわかる。前者では、目的から手段が選ばれるが、後者では手段から目的が反照的に規定される。『実践理性批判』では客観的合目的性が主観的合目的性よりも重視されたが、同じことは『判断力批判』についてもあてはまる。

最後の「真理」の合目的性に関してコメントしておくと、これは真理そのものにとっては必然的ではない諸真理間の有機的体系性のことであって、真理が技術知として人間生活に奉仕するというような実質的有用性(これは一番左の幸福への合目的性に該当する)とは異なった可能的有用性のことである[33]

ここでもまた形式的合目的性は、 形式的なるがゆえに特定の実質的目的を持たない《目的なき合目的性》なのである。同じ客観的形式的合目的性でも真理の合目的性が、可能的にではあるが、有用性を前提しており、また部分が全体から独立しているという点で外的であるのに対して、自然目的(有機体)は、おのれ自身が目的であると同時に手段であり、また全体が部分に優先しているという点で内的な合目的性を持つと言える。

生命体においては、種内的にも個体内的にも自己が自己を産出し、諸部分は相互に因果関係にある(相互依存の関係にある)。この意味において自然目的は、「組織化され、かつ自己自身を組織化する存在者[organisiertes und sich selbst organisierendes Wesen][34]」、スピノザ流に言えば《能産的自然 natura naturans》である。

アルチュセールは、因果性論のモデルを、(1)ガリレオ=デカルト型の推移的・分析的因果性の理論、(2)ライプニッツ=ヘーゲル型の表出的因果性の理論、(3)スピノザ=マルクス型の構造因果性の理論に分類している[35]が、カントの有機体論的因果性の理論はどれに入るであろうか。要は原因と結果を時間的な先行/後続の関係、精神的な内的本質/外的現象の関係、構造論的な全体/部分の関係で捉えるかである。

カントは、イギリス経験論的変容を経て(1)の力学的機械論的モデルを受け継いでいる。しかしカントの哲学は超越論的観念論であって、(1)のモデルは(2)のモデルに包摂される。さらに既に確認したことであるが、カントの超越論的哲学の超越は、内部としての主観が外部としての客観へと「超越する」わけではなくてむしろ部分的モメントが全体性へと超越するのだから、(2)のモデルは(3)のモデルへと変形される。

もちろんスピノザにおいては、カントにおけるように目的論は単に統制的に使用される理念ではない。スピノザの能産的自然は、その機能という点からはカントの《超越論的統覚=超越論的客体》に相当するが、たんなる現象ではなくて無限実体つまり物自体なのである。だがカントの《超越論的哲学=超越論的目的論》に、スピノザ-マルクス-構造主義的なモデルへの萌芽がなかったとは言えない。

3.2. 目的論と機械論の対立の止揚

目的論を機械論と比較するなら、以下のようになる。

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機械論と目的論の相違

カントは、目的論と機械論の違いを説明するべく、時計を有機物の例として挙げ、無機物と比較する。

時計のある部分が他の部分を産出するということはないし、ましてやある時計が他の材料を使って(それを有機化して)他の時計を産出することはない。それゆえ時計は、自分からなくなった部分を補充したり、最初に出来た時の欠陥を他の部分を援用して直したり、調子が狂ったとき自らを修繕したりすることはない。これに対して私たちはこれら全てを有機化された自然に期待することができる。[36]

カントのこの説明では、まるで目的論と機械論の区別は(無機物と有機物という)客体の区別に求められるかのようである。なるほど時計は人間によって造られる。しかし人間(和辻哲郎的に、人-間)もまた時計によって造られるとは言えないだろうか。目的論的結合が観念的原因によるものであることを上の表で確かめられたい。時計もまた目的論的体系の中での有機的一分肢なのである。また生命体に自己増殖力があると言っても、それは環境との不断の新陳代謝を行う開放系としてのみ可能なのであって、この点同じく外部からエネルギーを得ている時計と人間との相違は相対的である。

人間行為の目的論的説明、例えば「彼は喉の渇きをいやすために水を飲む」は、同時に「喉の渇きが彼をして水を飲ましめた」というように機械論的説明へと転換可能であり、他方(古代インドの思想やアニミズムなどがそうするように)宇宙の総体をマクロ生命と見なすことも可能であるのだから、目的論と機械論の相違は世界観的な相違だと言える。

実際カントは正当にも、機械論を構成的、目的論を統制的というように判断様式によって区別している。『純粋理性批判』の弁証論を想起されたい。目的論的格率は私たちの自然観察の手引きであって、自然科学の探求者が「何物も偶然には生じない」を格率とするように、有機体の研究者は「何物も無駄にはない」を格率とするのである。合目的性のこのような性格を忘れて、目的論と機械論のどちらが正しいかを問うならば、合目的性の実在性に関して以下のごとき二律背反が生じる。

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機械論と目的論の二律背反

カントは「二律背反」という言葉を使いながら、『純粋理性批判』における二律背反のように、“定立 Thesis”と“反定立 Antithesis”ではなくて、“第一格率 die erste Maxime”と“第二格率 die zweite Maxime”あるいは“命題 Satz”と“反対命題 Gegensatz”という名称を使っている。これは、ここでの第一格率と第二格率が『純粋理性批判』における定立と反定立に対応していないためと考えられる。

カントは、偶然性の観念論は自然の合目的性を仮象としてすら説明することができず、スピノザの宿命論的決定論は全てのものを目的と見なすことによって目的の表象を不可能にしているとして機械論を斥け、目的論も、それが物活論であれ、唯神論であれ、根拠なき独断論であるとして斥ける。以下にまとめたように、カントはここの二律背反でも、《超越論的観念論=経験的実在論》の立場を採ることによって定立と反定立の対立地平そのものを克服しようとする。

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二律背反の止揚

この三者のうち左の機械論しか認めないのが第一格率、右の目的論までも認めるのが第二格率、機械論を認めながらも真中の目的論をも認めるのがカントの立場である。右の目的論は物自体的な目的論であって、人間には認識不可能であり、ただ神的な知的直観によってのみ《認識=創造》される。

しかしカントは、規定的構成的目的論を人間に全く認めないわけではない。理論的自然目的は偶然的統制的概念であるが、実践的道徳目的は必然的構成的概念なのである。定言命法の実現は、認識が同時に無制約的なものの創造であるという点でも神的な知的直観と類似しているが、ただ実現能力が有限か無限かの相違があるだけである。

かくして目的論のトピックは、自然目的の観察から道徳目的の実現へと移って行く。《目的なき合目的性》としての自然に究極目的が措定されることによって《超越論的哲学=超越論的目的論》の画竜は点睛を得る。しかし、その前に、現代では、もはや実践理性の要請による統制的理念という形を取らなくても、目的論が成り立つ余地があることについて触れておきたい。

3.3. 現代科学における機械論と目的論

機械論的な自然観は、因果的必然性と同様、カントの時代には自然科学的には疑いようのないもので、キリスト教のような超越的独断論でも持ち出さなければ、目的論的な説明は不可能だった。しかし、既に述べた通り、量子力学の不確定性原理や多体問題やバタフライ効果の発見により、機械論的なモデルを肯定したからといって、結合が必然であるとは言えなくなった。現在では、さらに、宗教的な教義を持ち出さなくても、マルチバース仮説に基づく人間原理により目的論を説明できるようになった。

マルチバース(multiverse)とは、ユニバース(universe 一行の詩=宇宙)とは異なり、複数行の詩=多宇宙ということである。マルチバース仮説によると、この宇宙(私たちにとって観測可能な宇宙)以外にも多くの宇宙がある。他の宇宙といっても、いろいろなレベルがあり、テグマークは、宇宙の地平線の外部、異なる物理定数の宇宙、量子力学的な多世界、異なる数学的構造の宇宙という四つのレベルに分けている[37]

グリーンは、これよりもさらに多くのバージョンの多宇宙論を以下のようにまとめている[38]

  1. パッチワークキルト多宇宙:テグマークの分類では、レベルⅠに相当する多宇宙。私たちが所属する宇宙は、ハッブル体積(宇宙膨張の後退速度が光速未満となる宇宙の体積)内の観測可能な宇宙で、宇宙は光速よりも大きな速度で膨張しているので、同一のビッグバンから生まれた領域内に、観測可能な宇宙以上の空間が並行宇宙としてあるはずだという根拠による。
  2. インフレーション多宇宙:テグマークの分類では、レベルⅡに相当する多宇宙。永遠の宇宙インフレーションが泡宇宙の巨大ネットワークを生み、私たちの宇宙はその一つであるとするカオス的インフレーション理論による。
  3. ブレーン多宇宙:超弦理論/M理論のブレーンワールド・シナリオに基づく多宇宙。私たちの宇宙が存在する3次元ブレーンは、ほかのブレーン(他の並行宇宙)も存在する、より高次元の場所に浮かんでいるとみなす宇宙観による。
  4. サイクリック多宇宙:ブレーンワールド間の衝突がビッグバンのような始まりとして現れ、時間的に並行するいくつもの宇宙を生み出すという宇宙観による多宇宙。宇宙にビッグバンという始まりがあるという不都合を解消するために考え出されたアイデアである。
  5. ランドスケープ多宇宙:量子トンネル現象によって、泡宇宙の中の領域にある、超弦理論が想定する余剰次元の形が変わって、泡宇宙が独立することでできる多宇宙。インフレーション宇宙論と超弦理論を合体させることで考えられるモデルである。
  6. 量子多宇宙:テグマークの分類では、レベルⅢに相当する多宇宙。量子力学における確率波に具体化される諸可能性は、すべて、巨大な並行宇宙集団のいずれかで実現すると考えるヒュー・エヴェレットの多世界解釈による。
  7. ホログラフィック多宇宙:私たちの宇宙を映し出しているとホログラフィック原理が想定する遠くの境界面。ホログラフィック原理とは、ブラックホールのエントロピーは、その地平面の面積で決まるというベケンスタインとホーキングの発見が一般化されたもので、私たちが三次元だと思っているこの宇宙は、二次元のホログラム(レーザーを使って立体画像を再生する二次元の感光材)の投影のようなものと考えられている。
  8. シミュレーション多宇宙:映画『マトリックス』が描いて見せたように、私たちが生きているこの世界は、コンピュータによって作られた仮想現実かもしれないという想定に基づく多世界。技術の飛躍的発展は、宇宙のシミュレーションがいつか可能になるかもしれないとグリーンは言っている。
  9. 究極の多宇宙:テグマークの分類では、レベルⅣに相当する多宇宙。ノージックが謂う所の豊饒性の原理によると、ありうる宇宙はすべて実在の宇宙であり、したがって、なぜ一つの可能性(私たちのもの)が特別なのかという疑問は回避される。これらの宇宙はありうる方程式すべての具体例である。

カントの用語を用いるなら、私たちにとって観測可能な宇宙は現象であり、それ以外のすべての宇宙を含めた究極の宇宙の集合は物自体に相当する。これまで述べてきたように、現象と物自体の関係は、部分と全体の関係である。

他方で、人間原理とは、この宇宙の物理定数や物理法則などが現在観測されるような値や法則になっているのは、そのような値や法則でなかったら、人間のような知的生命体が生まれないはずだからという説明原理である。人間原理には、弱い人間原理と強い人間原理があるが、ここでは後者の一般化された解釈でカントの超越論的哲学と結び付けてみよう。

人間のような理性的存在者が、否それどころか原始的な単細胞生物であっても、宇宙に生まれてきたことは必然ではなかった。もしもビッグバン初期の膨張速度が実際よりほんの少し速ければ、重元素(水素やヘリウム以外の元素)や銀河が形成されず、低濃度の水素ガスが希薄になるだけの歴史しか展開しなかっただろう。逆にもし膨張速度が実際よりほんの少し遅ければ、宇宙は数分の一秒以内に崩壊しただろう。いずれの場合にも、生命の存在余地はない。生命を育む宇宙を初期の特異点が作る確率は10のマイナス1230乗と試算されている。

宇宙開闢の段階で、生命誕生はもう既に十分偶然的と言えるが、生命が誕生する条件が整うためには、これ以外にも多くの偶然が重なっている。プランク定数、光速度、電子と陽子の質量比などが現在の値と異なっていても生命は存在しなかったはずだ。またこうした基本的な条件がそろっていても、もし太陽系の適正な惑星数、太陽と地球の間の適当な距離、地球の程よい重力、大気の温暖効果、太陽風や紫外線のカットなど様々な偶然のうち一つでも欠いていたら、地球上に人間は誕生していなかっただろう。陳腐なたとえだが、この宇宙で人間が誕生したのは、猿がタイプライターの鍵盤をランダムに叩いて、シェイクスピアの作品を打ち出すようなものである。

こうしてみるなら、この宇宙に生命が、さらには人間が現れたのは、奇蹟的な偶然であると言いたくなる。キリスト教の信者は、このような奇跡が起きたのは、神が宇宙や人間を設計し、創造したからだと考えている。最近では、公教育でキリスト教的な思想を教えるべく、より宗教色の少ないインテリジェント・デザイン(Intelligent design)論が米国などで提唱されている。しかし、人間のような理性的な存在者の誕生を説明するために、神やあるいはインテリジェント・デザイン論者たちが謂う所の「偉大なる知性」が必要なのだろうか。

猿がタイプライターの鍵盤をランダムに叩いて、シェイクスピアの作品を打ち出すことはまずありえないが、無限の数の猿たちが、タイプライターの鍵盤を無限に叩き続けるならば、シェイクスピアの作品を打ち出すことはありうる。もしも宇宙が一つしか存在しないなら、10のマイナス1230乗の確率でしか起きない出来事が起きることは奇蹟だが、もし10の1230乗個以上の宇宙が存在するなら、そのうちの一つに生命が存在しうる宇宙があったとしても驚くに値しない。このようにして、マルチバース仮説に基づく人間原理は、神や「偉大なる知性」を引き合いに出すことなく、人間の存在を合理的に説明することができる。

マルチバース仮説に基づく人間原理は、因果論的機械的世界観と目的論的有機的世界観の二律背反を調停することができる。すなわち、宇宙開闢以来、あらゆる可能性が実在する宇宙として機械的に分岐し、そのうちの一つとして私たちが存在する宇宙が生まれたに過ぎない。しかし、その宇宙一つだけを取ってみるならば、あたかも現在の私たちの存在を目的とするがごとく宇宙の過去を説明する目的論的説明が許される。この二律背反の調停の仕方はカントの方法とは異なるが、超越論的哲学の方法と無関係ということはない。なぜなら、それは、物自体と観測可能な宇宙を区別し、理性的存在者が、自分たちの認識対象が世界のすべてではないという自らの理性の限界を超越論的に自己反省することで得られる結論だからだ。

もっとも、人間原理を超越論的観念論の立場から目的論的に解釈することには、批判もある。例えば、三浦は、「人間原理は人間を宇宙の『目的因』とする、という見方は、科学バージョンからは出てこない[39]」と言って、「目的因は宗教バージョンである[40]」と決めつけている。三浦によると、人間原理の解釈の宗教バージョンには、二つある。

第一に、この宇宙は人間のような観測者が生まれてくることができるように巧妙に物理法則を微調整されているという、デザイン理論。ここから、宇宙の「目的」は人間を生み出すことであるといった「設計者としての神」の護教論が出てくる。実際この形での神の存在証明は、中世以降繰り返し行なわれてきている。この世界の自然法則の数学的美しさや生物の巧みな適応性を神の御業として説明するわけだ。

第二の解釈は、「観測者を持たないただの物質だけの宇宙は宇宙とは言えない」「宇宙は観測者の心が生み出す」といった考えだ。素粒子宇宙論学者ジョン・ホイーラーらが支持しているこのテーゼは、哲学的には「観念論」の一形態である。およそ何物であれ、心に認識されることによって初めて存在する、という世界観で、「カントの実践理性批判」の末尾に見たデカルトの懐疑主義の出発点でもあった。この種の人間原理は、知的存在が参加して初めて物理的世界は実体化する、という意味合いから「参加型人間原理」と呼ばれている。心が物質を生み出すというわげで、これもまた、すべては神の心のうちにあるというキリスト教的世界観と相性がよい。[41]

たしかにそうした宗教バージョンの解釈もあるだろう。しかし目的論的観念論的解釈がすべて宗教的で、したがって間違っているのか。三浦は「『世界がこれこれであると認識されるためには、心がなげればならない』という自明の真理から、『「世界がこれこれであるためには、心がなければならない」と認識される』という疑わしい主張へと移行[42]」する哲学的観念論を詭弁だと言って批判している。しかし、こうした批判は、カントのような超越論的観念論には当てはまらない。カントのように、物自体と現象を区別している場合、現象としての世界から超越論的主観の存在を反省したり、逆に超越論的主観の存在から現象としての世界を基礎付けたりすることは、詭弁でも誤謬でもない。

同じことは、人間原理の目的論的解釈についてもあてはまる。「宇宙は人間の存在を目的としている」という命題は、「宇宙」でもって物自体的な宇宙を意味しているなら偽であるが、現象としての宇宙を意味しているなら真である。「宇宙は人間の存在を目的としている」という命題から神の存在を導こうとしている人たちは、「宇宙」でもっと物自体的な宇宙を念頭に置いている。そしてそれを批判している三浦も、その前提を受け入れている。この構図は、認識対象が物自体であるという大前提を共有しつつ、小前提の違いから合理論的独断論者が「神は存在する」と主張し、経験論的懐疑論者が「神は存在しない」と主張している二律背反的状況と似ている。

もとより、三浦は、普通名詞としての宇宙と固有名詞としての宇宙という、物自体的宇宙と現象としての宇宙と同じような区別を行っている。そして、以下の引用が示す通り、固有名詞としての宇宙を目的論的に説明することの妥当性を認めている。

固有名詞としての「宇宙」に関しては、強い人間原理の宗教バージョンは正当化されるだろう。ただし宗教バージョンといっても運命論的な重い意味においてではなく、起こってしまったものは起こっていなければならない、というつまらない意味においてである。[43]

固有名詞としての宇宙、すなわち観測可能なこの宇宙が観測者の存在を必要としているということは当たり前のことである。だが、目的論的な解釈がつまらない意味でしか成り立たないということを認識すること自体は、決してつまらない意味しか持たないということはない。なぜなら、それによって、目的論的解釈から宗教色を払拭することができるからだ。「宇宙は人間の存在を目的としている」という命題から神の存在を導くには、宇宙で人間が誕生したことが奇跡的なことでなければならない。宇宙を現象としての宇宙と解釈するなら、この目的論的命題の成立には神は不要であり、その結果、人間原理の宗教バージョンの解釈が否定されるだけでなく、「目的因は宗教バージョンである」という三浦の主張も否定される。

三浦の言葉を使って、結論をまとめるなら、固有名詞としての宇宙で人間の存在を目的論的に説明するのが人間原理であり、普通名詞としての宇宙では機械論が成り立ち、どのようなレベルであれ、マルチバースはランダムに生成し、それらに人間のような知的な観測者がいる確率はゼロに近いということになる。なお、普通名詞としての宇宙と固有名詞としての宇宙は、物自体と現象との関係に似ているが、厳密には同じではない。ハッブル体積内の観測可能な宇宙が減少で、その外側が物自体ということはない。これまで述べてきたとおり、現象と物自体は、内部と外部の関係にはない。私たち人間は、ハッブル体積外はもちろんのこと、ハッブル体積内も十分には認識していない。私たちのこの宇宙に対する理論は、時代とともに大きく変化してきたし、今後も大きく変化するだろう。このように宇宙に関する理論が変化し続けているということは、私たちの認識が物自体と完全に合致していない証拠である。要するに、マルチバースだけでなく、この宇宙もまた物自体であり、私たちは完全にそれを認識していない。

マルチバースから区別された観測可能な宇宙を説明する物理学での人間定理は、物自体から区別された現象を目的論的に説明する超越論的哲学と、議論の構図はよく似ているが、一応区別した方がよい。特にカントの場合、純粋実践理性が純粋理論理性に優位しているため、歴史の目的論的説明と言っても、道徳的な色彩が強い。そこで、節を改めて、カントの目的論的歴史哲学を考察したい。

4. 自覚的合目的性

私たちは、これまで、主観的合目的性と客観的合目的性を考察してきた。客観的合目的性を可能ならしめる主観的制約は何かを考える時、カントの目的論は歴史哲学、それもたんに人間界だけでなく全自然界を、究極目的を目指して展開される理性の自己実現と観ずる歴史哲学となる。

4.1. 究極目的としての理性の自己実現

カントは、『世界市民的意図における普遍史のための理念』の中で、「およそ被造物の全ての自然素質[Naturanlage]は、いつかは完全に合目的的に開展されるように規定されている[44]」と述べている。有機体の構造がそれぞれ多様であるにもかかわらず類似性を持っていることは、それらが単純で根源的な有機体から進化して来たことを示すのであるが、このように自然を知性的な第一原因による進化(第四の二律背反の主題である神の世界創造)の体系と見なすためには目的論的原理が必要である。

カントは、ダーウィンに先立つこと70年ほど前に、機械論に徹し切れない進化論を唱えたという次第であるが、種および個体の発生に関しては、目的論的な前成説(Evolutionstheorie)を採りながら機械論的な後成説(Involutionstheorie)をも採るというように彼一流の“調停”をやってのけている[45]。今日的な認識から言えば、遺伝子の連続性という点では前成説が正しいし、環境への後天的な適合あるいは淘汰による形態決定という点では後成説のほうが正しい。

カントはもちろん今日的な進化の説明はしていないが、総合説的な進化論を《Spiel》という不確定性概念から理解することは可能である。遺伝子が同じ個体を再生産することは、パラダイム内部でのパズル解きに相当する。問題はパラダイム転換である。総合説によれば、突然変異という《Spiel》によって遺伝子の様々な可能性が生まれ、それらが環境によって淘汰される。人間による芸術的創造が主観的合目的性における《Spiel》であるのに対して、神による種の創造は客観的合目的性における《Spiel》であると言っていいかもしれない(カントは 多分同意しないと思うが)。

造形芸術家は、自分の《Spiel》に基づいて様々な造形の可能性を産み出す。だが気にいらない作品は、惜しげもなく破棄(淘汰)する。そのことによって、彼の選び抜かれた作品には希少価値が生じる。生物の進化にせよ、知の進化にせよ、そのメカニズムは《選択することが選択されること》である。『判断力批判』においては、《spielen しつつ spielen される》人間存在のあり方が描かれているような気がする。

進化のプロセスを通して自覚される究極目的について考えてみよう。究極目的とは、目的の表象によって行為する存在者の存在の目的がその存在者の内に含まれているような存在者(要するに理性の実現を目的として持つ理性的存在者)のことである。前節では、マルチバース仮説に基づく人間原理により、理性的存在者の存在を目的とした宇宙の歴史の目的論的説明が可能であることを説明したが、ここでは、現代科学ではなくて、カントのテクストに即して、この問題を考えたい。

カントによれば、自然界内部には「最終目的 ein letzter Zweck」はありえても「究極目的 ein Endzweck」はありえない。最終目的とは、他の存在者の手段とはならない目的のことであるが、本当にそのような目的が自然にあるのであろうか。例えば人間は動植物を食用その他の手段として利用するが、逆にこのことによって彼等の間に均衡を作るという点で動植物の手段になっている。このかぎりでは自然的存在者としての人間は最終目的ですらないし、したがって自然は人間をピラミッドの頂点とする目的の体系ではないことになる。

だが人間は、他の存在者とは異なって目的の表象によって行為する存在者であり、目的という表象を可能にする存在者であり、おのれを目的として行為しうる存在者である。目的論は反省的判断力という人間の超感性的原理によってのみ可能となる。ゆえに超感性的存在者としての人間は究極目的たりうるのである。しかしながら、果して「自然を可能にしているのは私である」からといって「自然の目的は私である」と言えるのだろうか。

このカントの論証がいかにもトリッキーに見えるのは、目的の概念を狭く考えるからである。究極目的は、それが同時に自然の第一原因でもありうる所以であるが、超感性的な概念であって、《感性的な=時間的な》目的-手段系列の最後に位置する自然的事物ではない。

実際、地球の歴史が人間理性の自己実現という極相(climax)で終結するという保証はなく、「永遠平和」とは逆の核戦争か何かで人類が滅亡し、後には下等動物だけが残るということも考えられるが、しかしその時その下等動物が自然の究極目的だとは言えないのである。下等動物には目的意識がないのだから、その時には目的論的な歴史そのものがなくなるからである。いやそれどころか彼等には意識一般が欠けているから、歴史どころか自然一般が不可能になるだろう。「人間が滅亡した後」という観念からして、人間の《直観形式=純粋統覚》である時間の観念を前提しているのである。

歴史が人間の反省行為によって可能となる以上、そして反省行為が人間の行為一般に属し、また人間の行為がすべて道徳的理念を究極目的としている以上、歴史の究極目的は人間理性の自己実現である。理性によって規定された現象は、理性によってはじめて可能になるがゆえに、理性的存在者を究極目的としなければならない。これが人間原理の哲学バージョンである。

4.2. 最終目的としての徳福一致

究極目的自体は超歴史的であるにしても、それは歴史において最終目的として実現されなければならない。最終目的とは、人間が究極目的でありうるために自然が成しうることであって、それは差し当り人間の幸福だと考えられる。蓋し徳福一致が最高善の教説であった。

だが外的自然は様々の災害によって人間を苦しめ、内的自然は人間を相互に戦争状態に置かせるので、自然が人間の幸福を目的としているとは言えまい。たんなる幸福なら、下等動物のほうが本能によって人間よりもはるかに容易に手に入れることができるだろう[46]。しかるに人間は本能以外に理性を持つ。《自ら考える》という禁断の木の実を食した人間は本能の楽園から追放され、困難を理性によって克服することを通しておのれの自然素質を開展するように宿命づけられている。

理性なき生物の生活史は同じものの繰り返しであり、そこには厳密な意味での歴史がない。これに対して人間は、自分達の新しい開化を子孫に教育・伝達することによって開化(Kultur 文化)の歴史を築く。だから「人間にあっては、人間の理性の使用を目指している自然素質は個体においてではなく類においてのみ完全に発展するようになっている[47]」のである。大器晩成である。

そしてこの自然素質の完全な開化が自然の最終目的であって、人間の幸福を不断に危機に晒すことはこの目的を実現するために自然が仕組んだ巧妙な手段(理性の狡智?)であるわけである。飢えと災害は人間をして生産手段・生活形式を改善せしめ、戦争の悲惨さは人間を反省させて平和へと向かわせる。個体内的にも個体間的にも国家間でも、人類は対抗関係(Antagonism)において進歩する。

カントはとりわけ、人間本性にある社会進歩の原理を「非社交的社交性 die ungesellige Geselligkeit[48]」と名付ける。もし人間がたんに非社交的で個体化するばかりであるならば、社会はホッブス謂う所の《万人の万人に対する戦い bellum omnium contra omnes》となって解体するであろう。またもし人間がたんに社交的で利己心を持たないならば、社会はマンドヴィルの謂う蜂の集団となって進歩しなくなるであろう。諸個人が社会化しつつ個体化することによって社会の存立と進歩は可能となるのである。

カントはこのように歴史を否定的なものの克服による理性の自己実現として弁証法的に観る。歴史の最終目的は完全に公正な市民的体制(世界連邦の樹立と永遠平和)であり、そしてそこにおける最高善の全き成就が究極目的であるが、このような目的の達成が事実上不可能なのは、科学がいくら進歩しても物自体の認識が不可能であるのと同じことである。理論的認識もまた道徳的実践と同様人間の行為である。

目的論的な自然だけでなく機械論的な自然もまた、自然の自己意識の歴史としておのれを展開して来た。機械論的な自然はケプラーやニュートンのような人物を産出したが、機械論的な自然はまた彼等の意識によって《構成=産出》されたのである[49]。そしてこのような歴史哲学全体がカントという自然の産物によって産出されたのである。だから合目的的な自然は、合目的的な自然を産出するカントを合目的的に産出することによっておのれの合目的性を産出しえたということになるであろう。

しかしカントは、ミネルバの梟の巣立ちを観望するような悟りの境地には達していない。歴史はまだ終わっていないのだ。究極目的は、それがまさに究極的であるがゆえに実現は究極的に不可能であり、また究極的に不可能であるがゆえに究極的に永遠の理念として人間に当為を命じうるのである。

私たちが究極目的と名付けているものは、目的論的系列の上を漂って、この系列に対して、ちょうど地平[Horizont]が地上の道に対するような関係にある。地上の道はたえず地平に向かっているが、どんなに長くさまよい歩いても、出発点の時より地平に近付くわけではない。[50]

だがカントが謂う所の当為は、個人道徳的な修身精進の域を出ず、あまつさえ、『純粋理性批判』においては超越的な形而上学が否定されていたにもかかわらず、“背後世界”への逃避が説かれており、今日の私たちから見るならば、彼の倫理学は、ちょうど彼の哲学が当時のユークリッド幾何学やニュートン力学の絶対視を前提にして成り立っているように、所詮は当時のプロテスタンティズムの倫理の学的反省に過ぎないと言わざるを得ない。同時代のフランスの思想家のように、現象界の社会/国家を変革しようとする実践哲学からは程遠い。彼の目的論や歴史哲学も同様である。

カントにとって目的論は統制的に使用される判断力の理念であって、その唯一の例外は人間の道徳的行為であった。だがこのような自然か人間かという二者択一を緩めて、その間に「社会」という中間項を入れることはできないだろうか。非道徳的行為は機械論的因果決定論的に説明される他ないというカントの議論は、自然科学偏重・社会科学未熟 の当時としては止むを得なかったとはいえ、今日の私たちが採るところではないであろう。大学・企業・国家というような社会組織は、その設立の目的無しには意味の定義すらできないのだから、これらの概念にとって目的概念は統制的ではなく構成的というべきである。

人間社会は目的の体系である。全ての人間の行為は(もしそれが本当に“行為”であるとするならば)目的を持った有意味的なものであり、またそうであるがゆえに全ての人間によって造られた社会組織は合目的的で有意味的である。

それなのに、なにゆえに諸個人の“主観的に意図された”行為の有意味な産物(理論的・実践的・文化的な超越論的行為によって構成された最広義での合目的的社会)が、物象化的に自己運動し始め(とその個人には観えるのだが)、“わけのわからない世の中”となって諸個人を“疎外”するようになるのか。なにゆえにプロテスタンティズムの倫理という「いつでも脱ぐことができる薄い外套」が「鉄の檻」となって、資本主義という「機械を化石化」し、人間を《無》にするのか。これらの倫理学的な問いに答えるためには、私たちはもはや資本の蓄積なり官僚制の成立なりといった「結果を度外視して」来世における徳福一致を夢想することなく、目的の体系を社会哲学的に考察しなければならない。

既に「カントの実践理性批判」第三節で述べたように、カントはパラダイムの相対性を問題にしようとしない。このことは彼の倫理学において(あるいは総じて彼の哲学において)他者や社会が問題とされないことと同じことである。なぜなら意識の他者性とは意識の不確定性のことであるからである。私たちはしかしまた、認識の社会性を問題とするにしても、カントの超越論的哲学を“上空飛行的”な「先験哲学」へと矮小化した上でこれを切り捨て、ケセラセラの相対主義に走るという路線をも取らない。パラダイムの相対性なり、間主観性なりといった問題圏はむしろ超越論的哲学にとっては射程拡大の領域だと思うのであるが、これについては後日論ずることにしたい。

4.3. 超越論的目的論としての超越論的哲学

最後に本書を総括しよう。

超越論的哲学とは、(1)超越的超越を超越論的に超越すること、有限な所与性を超越して部分が全体へと係わることについての学的反省であった。大まかな構図を言えば、(2)純粋統覚(時間そのもの)は(3)現象(時間的多様)において超越することによって(4)超越論的統覚(時間総括)を形成するわけで、(2)~(4)全体が《部分から全体への超越》なのであるが、さらにこれら三つのモメンテもそれぞれ《部分から全体への超越》なのである。

すなわち、(2)時間は今の一点を脱自的に超越して過去/未来の全体に係わるという点で可能的形式的な Transzendieren であり、(3)《現象の認識=現象における時間の超越》は、概念が自らを超越して判断全体へと、さらに判断がおのれを 超越して知のシステム全体へと係わる現実的実質的 Transzendieren であり、(4)知のシステムを整合的自己同一的に構成することは「今ここでは私にはかくかくに思われる」という臆断的段階から「いつでもどこでも誰にとってもかくかくに違いない」という確信的段階へと上昇する、つまり、時間的有限性から超越する形式と実質の総合としての必然的な Transzendieren である。

以上の(1)から(4)までをまとめると、以前本書が《超越論的哲学の公式》と名付けた「(1)時間からの超越を(2)時間としての超越が(3)時間的多様において超越しつつ、(4)時間的多様から超越する」なる定式ができる。以上は分析論であるが、弁証論においては超越的理念が問題とされる。もとより本書は物自体と現象が全体と部分の関係にあると解釈するので、やはり問題は《部分から全体への超越》なのである。無制約的なものに関しては(次の点では本書のスタンスはカントのそれと異なるのだが)理論哲学だけでなく実践哲学においても完全な超越は不可能であるが、超越可能性のみならず超越不可能性の可能性をも洞察しうるのは超越論的哲学であって、超越的哲学や経験的哲学ではない。

A.ここからさらに「目的論は超越論的である」という命題を主張したい。カントによれば目的とは「その概念がある客観の現実性の根拠を同時に含んでいるかぎりでのその客観の概念[51]」かつ「その規定根拠がたんに原因の結果の表象であるようなそういう原因の産出[52]」のことである。要するに目的志向的行為においては、レアールな時間的経過において

(1) 目的を実現しようとする動機(原因)→ 手段の行為(結果)

(2)手段の行為(原因)→ 実現されるであろう目的(結果)

なる二つの因果関係が絡まっているのであって、両者を総合すれば、

(3) 目的の表象 → 手段の行為 → 表象された目的

という因果系列ができる。現在の行為は、過去の目的と未来の目的の中間(Mitte)である手段(Mittel)として媒介されて(vermittelt)いる。 狂人や不随意の行為においては、未来へ企投された目的が表象されないが、自由な行為においては、目的は特定の時点を《超越》して未来へと係わる。目的tnに至る手段系列 t1,t2 … tn-1 は、合目的的連関という全体の部分としてその存立が規定されるという意味で目的論は全体-部分関係論なのである。したがって目的論は部分が部分を超越して 全体へと係わるという点で超越論的なのである。

もちろんカントが謂う所の合目的性は「目的なき合目的性」である。私たちは決して、実用的な目的だけに縛られずに、遊ぶことがある。だが、遊びには、一見すると目的がないようで、実は目的がある。既に述べたように、生命システムは、長期にわたって存続し続けるには、環境適応と変化適応という二律背反的な要件を満たさなければならない。実用的な目的の実現ばかりを目指していると、現在の環境に過剰に適応してしまい、想定外の環境の変化に適応できなくなってしまう。それを避けるために、実用的な目的を度外視して、遊ぶことで、多様性を生み出さなければならない。だがそうした多様性が、結果として生命システムの存続に貢献するとするならば、「目的なき合目的性」と思えたものも、実は「目的ある合目的性」にその母体を持つと言わなければならない。

B.ここからさらに「超越論的哲学は超越論的目的論である」という命題を主張したい。

カント自身「哲学とは、すべての認識を人間理性の本質的目的(teleologia rationis humanae)へと関係付けることについての学である[53]」と定義しているのでこの命題は支持されよう。理論的実践的文化的を問わず人間の認識は、すべて「理性の自己実現」という《本質的目的=究極目的》に貢献すべく理念によって統制される行為である。

目的論は、従来、前近代的な形而上学と思われていたが、私たちは、本書において、現代科学で謂う所の「人間原理」を超越論的に解釈することで、理性を宇宙の制約条件としてみなすことができることを確認した。それは、たんに理性が宇宙を認識するということのみならず、理性的存在者を作り出すように宇宙が進化しなければならないという意味で、制約条件である。

もちろん私たちは日常の生活世界では、そうした形而上学的な目的を意識することなく経験的な諸事物を認識し、また卑近で近視眼的な目的しか念頭におかずに行為している。だが超越論的哲学=超越論的目的論は「対象にではなく、むしろそれがアプリオリに可能であるかぎりでの対象についての私たちの認識様式一般に」「目的にではなく、むしろそれがアプリオリに可能であるかぎりでの目的についての私たちの認識様式一般に」反省の眼差しを向け、認識はアプリオリな原理にしたがった行為であって、その目指すところは超越論的統覚の自己実現であり、目的志向的行為においてもその目指すところが諸目的の体系的合目的的実現であることを自覚するようになる。

C.以上のAとBの命題を合わせ考えるならば、本書が謂う所の「超越論的目的論」は超越論的分析論や超越論的弁証論などと並ぶ超越論的哲学の一下位部門ではなく、むしろ超越論的哲学そのものであると言える。超越論的反省による認識の基礎付けと二律背反の調停は《予定調和的=目的論的》である。目的論は『判断力批判』に至ってやっと登場する付加物ではなく、むしろ三批判書全体を貫く原理であった。

5. 参照情報

関連著作
注釈一覧
  1. このページは電子書籍『カントの超越論的哲学』の第三章をブログ記事用に編集したものです。
  2. Kant, Immanuel. Kritik der Urteilskraft. 1790. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 5. p. 177.
  3. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.132=B.171.
  4. Kant, Immanuel. Kritik der Urteilskraft. 1790. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 5. p. 179.
  5. Kant, Immanuel. Kritik der Urteilskraft. 1790. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 5. p. 255.
  6. Kant, Immanuel. Kritik der Urteilskraft. 1790. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 5. p. 181.
  7. Kant, Immanuel. Kritik der Urteilskraft. 1790. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 5. p. 196.
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  9. Kant, Immanuel. Kritik der Urteilskraft. 1790. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 5. p. 204.
  10. Kant, Immanuel. Kritik der Urteilskraft. 1790. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 5. p. 217f.
  11. ドイツ語では、共通の悟性(der gemeine Verstand)が常識に相当する。英語では、共通感覚を意味する“common sense”に「常識」という意味があるが、ドイツ語の“Gemeinsinn”が「常識」という意味を持っていたのは古い時代においてのことで、現代のドイツ語にはそのような意味はない。
  12. Kant, Immanuel. Kritik der Urteilskraft. 1790. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 5. p. 221.
  13. Kant, Immanuel. Kritik der Urteilskraft. 1790. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 5. p. 232.
  14. 小林秀雄. 「無常といふこと」 1942. 『小林秀雄著作集』. 創元社, 12頁.
  15. Kant, Immanuel. Kritik der Urteilskraft. 1790. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 5. p. 242.
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  22. Kant, Immanuel. Kritik der Urteilskraft. 1790. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 5. p. 250.
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  50. Simmel, Philosophie des Geldes. p. 238.
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