このウェブサイトはクッキーを利用し、アフィリエイト(Amazon)リンクを含んでいます。サイトの使用を続けることで、プライバシー・ポリシーに同意したとみなします。

超越論的認識とは何か

2000年11月5日

哲学の専門家たちは、「超越論的認識」とか「超越論的間主観性」などと、「超越論的」という形容詞を頻繁に使う。今回はこの一見難解そうなジャーゴンをできるだけ平易に説明してみたい。

Image by Stefan Keller+John Hain from Pixabay modified by me

1. 超越論的認識とは有限性の自覚である

ある人が、「自分は愚かな人間だ」と自覚しているとしよう。この人は、本当に愚かな人だろうか。そうではない。本当に愚かな人は、自分が愚かだということすらわかっていない人である。「生兵法は大怪我の基」という諺があるが、自分の能力の限界を知らない人ほど、大失敗をするものだ。自分の限界を心得ている人は、無理をしないし、その限りでは利口なのである。

自分の認識に限界があると認識できる人は、実は自分の認識の限界を超越している。限界の内部にいる人には、限界が見えない。限界を超越して初めて、限界を認識することができる。認識の限界を認識することは、超越を論じることであり、超越論的である。

image
カントは超越論的哲学の創始者である。18th century painting of Immanuel Kant.

超越論的哲学の源泉となったカントの哲学では《超越論的 transzendental》は《超越的 transzendent》から区別される。両者は、英語で言えば、"transcendent" と “transcendental" に相当する。ドイツ語や英語の接尾辞“-al”には、「…に関する」という意味があり、したがって、超越論的認識とは超越に関する認識ということになる。全知全能の存在者が限界を持たず、したがって限界を認識することもないので、端的に超越的であるのに対して、有限な存在者は自己の限界を意識せざるをえず、その認識の様態は超越論的になる。

2. 限界認識のパラドックス

それにしても、私たちの認識に限界があるということの認識自体が、限界を超えているということはパラドキシカルだ。そこには、もし私たちの認識が有限であるとしたならば、私たちの認識が有限であるという認識自体も有限であり、したがって、私たちの認識は有限とは限らないという自己矛盾は存在しないだろうか。

答えは否である。私たちの認識は常に正しいわけではないが、常に間違っているわけでもない。「私の発言はすべて間違っている」という発言は自己矛盾であるが、「私の発言はすべて間違っているかもしれない」という発言は自己矛盾ではない。対象レベルでもメタレベルでも偽と断定しているわけではないからだ。

3. 不確定性の自己反省は可能か

しかし、はたして私たちは、自分の認識がすべて不確定であると言うことができるのだろうか。私たちが何かを疑う時、何かの信念を前提にしている。いや、もっと正確に言うと、何かを信じているからこそ、それと矛盾することがらを疑うのだ。

確かに、すべてを一度に疑うことはできない。しかしすべてを個別的に疑うことならできる。例えば、今世界にA,B,Cという三つの命題しかないと仮定しよう。私は、A,B,Cすべてを同時に疑うことはできない。しかし、Aを前提にBを疑い、Bを前提にCを疑い、Cを前提にAを疑うことならできる。結果として、すべては疑いうるということになる。超越論的認識とは、不確定的存在者による不確定性の自己反省である。不確定性とは、「他のようでもありうること」であり、この《認識の他者性》が《他者性の認識》の基礎になっていることは、「他者は存在するのか」で既に述べた。

ここから、超越論的意識とは、本質的に超越論的間主観性であると言うことが、そして「自分の認識に限界があると認識できる人は、実は自分の認識の限界を超越している」という命題を「自分の有限性を自覚している人は、他者の立場に立った多元的な思考が可能である」と新たに解釈し直すことができる。私は他者ではないが、しかし他者を理解できるという微妙な立場が、限界があるにもかかわらず、その限界を超越しうるということの意味である。これに対して、自己の有限性に気が付かずに、自己を絶対視する人は、かえって社会のネットワークにおいて存続することが困難である。