カントの実践理性批判
カントにとって『実践理性批判』は『純粋理性批判』とは異なって超越論的哲学ではなくて、超越的哲学である。だが、本当に道徳法則は、カントが考えたほど超越的であるのだろうか。このページでは、「カントの純粋理性批判」の続編として、理論理性と実践理性、認識行為と身体行為はどこまで同じで、どこが違うのかを考えながら、カントの実践哲学の成否を検討したい。[1]

1. 超越的倫理学としての実践理性批判
1.1. 実践理性批判は何を批判しているのか
道徳の基礎付けを行うカントの実践哲学は、超越論的哲学と言うことができるだろうか。カントは、『純粋理性批判』の緒論の中で次のように主張する。
道徳性の最高原則とその根本概念はアプリオリな認識であるにもかかわらず、それらは超越論的哲学に属さない。なぜならそれらは、総じて経験に起源を持つ、快と不快/欲求と傾向性などの概念を、たしかにその指令の基礎には置かないものの、義務の概念において克服されるべき障害として、あるいは動機とするべきではないのだが、刺激として、純粋な人倫性の体系を起草する際に必然的に一緒に取り入れなければならないからである。それゆえ超越論的哲学とは、純粋でたんに思弁的な理性の世界知なのである。[2]
ここからわかるように、『実践理性批判』は、カントにとって、超越論的哲学ではない。だが実を言えば、このカントの用語法からすれば、『純粋理性批判』までもが超越論的哲学かどうか怪しいのである。カントによれば、「超越論的哲学を成すものは全て純粋理性の批判に属し、そして批判は超越論的哲学の完全な理念であるが、まだこの学問そのものではない[3]」のであり、「この批判が必ずしもそれ自体超越論的哲学と呼ばれないのは、批判が、完全な体系であるためにはアプリオリな人間の全認識の詳細な分析を含まなければならないという点に専ら基づく[4]」。だから批判は「純粋理性の全ての原理の体系[5]」としての超越論的哲学に対するメタレヴェルの反省ということになろう。
カントは、自分の批判とは「純粋な理性能力それ自体の批判[6]」であるとして、それを「超越論的批判[7]」と名付けている。たしかに「批判」は「哲学」でないにせよ、ちょうどマルクスの「経済学批判」それ自体が一つの経済学であるように、カントの「超越論的批判」はそれ自体一つの超越論的哲学であると考えられる。
事情は『実践理性批判』においては異なってくる。前の批判では、純粋理性は批判の対象であったのに対して、今度はそうではない。
実践理性批判は、純粋実践理性があるということをたんに確証するはずであり、そしてこの観点からその全実践的能力を批判する。もしこれに成功すれば、実践理性批判は純粋な能力自身を批判する必要がなくなる。[8]
つまり『純粋理性批判』が「純粋思弁理性批判 Kritik der reinen spekulativen Vernunft」であったのに対して、『実践理性批判』は「経験的実践能力批判 Kritik des empirischen praktischen Vermögens」である。そうすると『実践理性批判』は、「実践的独断的教説 eine praktisch-dogmatische Doktrin[9]」であっても、《理性の自己反省の学=超越論的哲学》ではないということになる。現に『実践理性批判』の分析論の論述は、原則論→概念論→感性論 という“高踏な”順序になっている。もっともこれには、逆の順序を持つ『人倫の形而上学の基礎付け』が先行しているのであって、この後者の順序の方が望ましい。このページの目標は、両批判に対するカントの区別を撤廃し、できるだけ「カントの純粋理性批判」の議論とパラレルに論じることによって実践哲学もまた超越論的哲学でありうることを示すことである。
1.2. カントの実践哲学の位置
まず哲学史上におけるカントの実践哲学の位置を、「前カント哲学の地平」の図に倣って、カント以前の実践哲学との対比で三段論法式に示そう。

独断論的合理論者は、やれ完全性、やれ神の命令、やれ正義等が善自体であると主張するのだが、その具体的内実が問われるや否や、見解に不一致が生じ、そしてこの独断論的帰結の否定が経験論の不可知論的小前提である。
ホッブス・ロック・ヒューム・スミス・ベンサム・ミルと続くイギリス経験論の倫理学は、経験的に実証されうる普遍的善を快楽・幸福・道徳的共感等に求めるのだが、彼等の理論が転倒していることは明白である。私たちは、価値ある事物を獲得/実現することに対して快楽なり幸福なり道徳的共感なりを得るのであって、後者は価値そのものではない。そうだとすれば私たちは、独断論的合理論者のように善自体とは何かを問わなければならないことになるであろう。
独断論的合理論者と懐疑論的経験論者はこのように相互に相手の結論の否定を自分の小前提にして対立し合う。このように、「前カント哲学の地平」における推論にせよ、上掲の「前カント倫理学の地平」における推論にせよ、ともに「二律背反における仮言的推論」の図で示した二律背反の構造を持っている。
カントは、例によって実践哲学の二律背反をも彼等の《対立地平=大前提》そのものを斥けることによって調停する。『純粋理性批判』で物自体の認識を否定して行為論的転回を遂行したように、『実践理性批判』でも善自体(Gut an sich - カントはこのような言葉を使わないが)の認識を否定して行為論的転回を遂行する。これがすなわち彼謂う所の「実践理性批判における方法のパラドックス[11]」である。
つまり善悪の概念は(一見すると道徳法則の基礎にされなければならないようだが)、道徳法則に先立って規定される必要はなく、(ここでそうしているように)道徳法則にしたがって・道徳法則によって規定されなければならないのである。[12]
道徳法則は差し当り(特に幼少期においては)主観にとって超越的なものとして与えられる。一方私たちは、前道徳的には自分の経験的な傾向性に従って行為しようとする。ハーバマスは道徳の諸段階を発達論的に、(1)前慣習的 (2)慣習的 (3)脱慣習的 の三つの類型に分けている[Habermas, Moralbewußtsein und kommunikatives Handeln. p. 176ff]が、(1)に数えられる「権威に制御された相互行為」と「利害に制御された協力」はこの二つに相当する。超越的権威か経験的利害かという選択肢は独断論的合理論と懐疑論的経験論の対立地平で生じる。(2)の段階では人々は道徳規範に従うようになり、(3)の段階ではこれを反省的に吟味して基礎付ける。
精神分析家は、経験科学の立場から、(3)の道徳の超越論的基礎付けも、所詮は父親の超越的権威の事後的な内面化であると考えるかもしれない。フロイト曰く「子供の頃両親に従うよう強制されたように、自我はその超自我(Über-Ich)の定言命法に服従する[13]」。「それゆえカントの定言命法は、エディプス・コンプレクスの直接の相続人である[14]」。フロイトが謂う所の超自我は超越論的意識に、自我は経験的意識に対応する。問題は無意識(エス)の位置なのであるが、もし「無矛盾性・第一次過程(備給の可動性)・無時間性・外的現実の心的現実による置換が、無意識のシステムに属する過程に見出すことができると予期してかまわない性格である[15]」とするならば、無意識はイデアールな存在性格を持つことになる。無矛盾性と無時間性は純粋悟性概念の性格であり、心的現実への置換の第一次的過程とは、前意識(構想力)によって検閲等の第二次的な加工がなされる前の内部感覚に相当する。
フロイトによれば、自我とは「外界から、エスのリビドーから、そして超自我の峻烈さから三種類の服従を強いられ、それゆえ三種類の危険の脅迫のもとに苦しむ哀れな存在[16]」ということだが、自我を三つの異物に囲まれた第四のものと考えるのは、超越論的哲学の立場からすれば正しくない。快楽原則にしたがった即自的には無矛盾で無時間的(普遍的)な人間本性であるリビドーも、外界で実現(備給)しようとすると対他的には矛盾を起こすので、超自我が現実原則にしたがって、目的-手段の時間的秩序にそって欲望を抑圧しつつ満たしてやるという三者の総合の場が自我であると理解しておく。
20世紀における無意識の発見はデカルト以来の意識哲学の神話を崩壊させたといわれる。しかしフロイトの精神医学が、無意識に意識の光を当てることによって神経症的障害の除去を行う治療の実践であるとするならば、そのメタレヴェルでの認識の営み、フロイトの言葉で言えば、メタ心理学(Metapsychologie)は、超越論的と名付けてもよいような自己認識のあり方であり、したがって、無意識の発見は、超越論的哲学の否定をもたらすのではなく、それ自体が知の超越の試みとして捉えられなければならない。
1.3. 超越的倫理学の超越論的再解釈
超越論的主要問題とは、アプリオリな総合判断の可能性を問うことであった。カントに言わせれば、仮言命法が分析的であるのに対して定言命法は総合的である。「目的を意欲するものは、[…]自分で制御できるそれに必要不可欠な手段をも意欲する。この命題は意欲に関するかぎり分析的である[17]」。ある目的に対して何が必要不可欠な手段であるかについての判断は総合的であるが、目的を意欲するものが手段をも意欲するということは分析的であるというわけである。だが定言命法も内容においては総合的であるが、形式においては分析的であるから、総合的/分析的の区別は、定言命法/仮言命法の区別の基準としては使えない。
「カントの純粋理性批判」で確認したように、分析性とは概念の《自己同一性=無矛盾性》であり、《純粋統覚=時間性》の性質であった。「我意欲するものを意欲する」という自己同一性、目的と手段の概念的/時間的な差異を超越する自己同一性は、《アプリオリな総合判断=定言命法》の基礎になる。定言命法においては「私は、何らかの傾向性からの条件を前提することなく、行為[主語]を意志[述語]へと、アプリオリに、すなわち必然的に結合する[18]」。
例えば「弱者を助けること+すべし」といった結合がそうである。この判断で実践的なのは述語のほうであって、主語は理論的に与えられている。判断内部での主語と述語の総合には《直観と直観との総合=直観と概念の総合》が先行しているが、未来へ企投された[弱者を助けること]という直観的統一に対して当為の肯定的態度を示すことによってこの判断が生じる。このかぎりで実践は理論によって基づけられており、実践的認識は理論的認識の一部であるが、理論もまた実践の一部であるという点で包摂関係は逆になる。
いずれにせよ、両者は規則に従った行為という点でパラレルである。ちょうど純粋統覚“Ich denke=Ich denke”が多様な現象へと超越して必然的な超越論的客体を構成することによって、おのれを超越論的統覚として自覚するように、純粋意欲“Ich will=Ich will”が多様な欲求へと超越して必然的な目的の国を超越論的に構成することによって、おのれを自由な英知的存在者として自覚する。前カント倫理学においては、subjectum としての善自体が、objectum である私たちの感性的欲望を抑圧することによってその至高な存在を私たちに顕示する。しかし実践哲学においても、同様のコペルニクス的転回がなされなければならない。二つのS-O関係を重ねた超越論的哲学の定式2の倫理学版は次のようになる。
【超越論的哲学の定式4】超越論的倫理学とは、主体(Subjekt)から超越する客体(Objekt=主体にとって疎遠で外的な規範)へと主体が超越すること(規範の正当化)、すなわち判断において主語(subjectum=人倫)から超越する述語(objectum=感性的欲望)へと基体が超越することを通して、主体が客体の超越的超越を超越しつつ、客体を超越論的に超越すること(自由=人格の尊厳)の学的自己意識である。
定式3の倫理学版は次のようになる。
【超越論的哲学の定式5】 超越論的反省のもとで、
(1) 善意志としての超越が、
(2) 善意志からの超越を
(3) 感性的欲望において超越しつつ、
(4) 感性的欲望から超越する(自律を自己意識する)
定式5における四つの超越を「定式3における四つの超越」に倣って図解すると以下のようになる。

但し、この図は物自体(善自体)を超越的超越とする点で、もはやカントの実践哲学に合致しない。実践哲学においてカントは、物自体の概念を、自然の因果的必然性によって捉えられない道徳的自由の世界へと変質させ、物自体(英知的世界)を人間にとって超越的な世界とは考えなくなる。
人間は、人間における純粋な活動性とでもいうべきもの(決して感官の触発によってではなく、無媒介に意識に現れるもの)の観点から、自分を英知的世界(人間はこの世界について英知的という以上のことは何も知らないのだが)へと数え入れなければならない。[19]
ここにおいて理論哲学と実践哲学のパラレリテート(並行性)が崩れる。
理論的な判定能力に関しては、通常の理性が敢えて経験法則や感官の知覚から離れようとすると、全くの不可解や自己矛盾に、少なくとも不確実・不明瞭・不安定の混沌に陥る。だが実践的な判定能力に関しては、判定力は、通常の悟性が全ての感性的な動機を実践的法則から排除するまさにその時に初めて、本来の真の卓越性を発揮し始めるのである。[…]それゆえ正直で善良であるために、それどころか賢明で有徳であるために何をすべきかを知るためには学問も哲学も不要である。[20]
だが同様に理論的認識においても、何が真であるかを知るためには学問も哲学も不要である。まさに「経験法則や感官の知覚から離れ」て、である。前学問的に子供でも分かっている真/善の判定基準は矛盾律であるが、だからといって人間が物自体界に所属すると考えることはできない。当為についての総合的判断は決して自明ではない。
2. 理論と実践の関係を考える
私たちは、しばしば感性的な動機から、理性的な判断を曇らせ、道徳的に悪しき行為に走る。道徳的に正しくあるためには、そうした倫理学的感性から自由にならなければならない。しかし、その正しさを判断する実践理性は、理論理性とは異なる理性なのだろうか。認識行為と身体行為の相関関係を分析して考えたい。
私たちは「カントの純粋理性批判」でハイデガーのカント解釈を手掛りに時間性から出発した。ハイデガーは『カントと形而上学の問題』の第30節で『実践理性批判』に言及し、尊敬の感情を論じた感性論を自分の現存在分析に引き付けつつ、「尊敬の本質的構造は、自らの中に超越論的構想力の根源的機制を際立たせる[21]」と言う。ハイデガーは、もともと Sollen の問題には関心がなかったのか、時間性と道徳の問題について詳しく論じていないのだが、ここでも時間性から出発する方法を採る。超越論的哲学は内的時間から外的空間へと超越するわけだが、超越論的倫理学もまた内的時間意識において企投された可能的な目的を実在化しようとする。前者の現実化には認識行為による総合が、後者の現実化には身体行為による総合が必要である。
《内部から外部への超越》という体裁をとる外界の存在証明は、実は《部分的契機から全体性への超越》であると「カントの純粋理性批判」で主張した。そして可能性-現実性-必然性という超越論的統覚の自覚の弁証法的運動が超越論的演繹であった。これとパラレルな演繹が超越論的倫理学にも可能かどうか。この問いに答える前に、なにゆえに理論と実践/認識行為と身体行為が、同一でないにもかかわらずパラレルでありうるのかが問題となる。そうだとするならば、両者の相関関係を分析することが私たちの課題にとっての先決問題となるだろう。
認識行為と身体行為の異同と関係を論じるにあたって、まずは両者に共通する「行為」概念を論究しよう。行為によって現象が変化する(変化が生じない場合でもそれは変化の否定としての「維持」という行為である)わけだが、前者が根拠として変化を規定するのに対して、後者は原因として変化を惹き起こす。両者は対等に並びうるものではなく、認識行為は、自由意志による変化である行為とそうではないたんなる変化も規定対象にするのだから、メタレベルの行為ということになるであろう。「超越論的統覚による構成行為」とは、平易な日常言語で記すなら「時間が流れる」ということに他ならない。時間としての構成と時間の中での構成とは区別されなければならない。
《認識行為=時間》はそれ自体知覚されえず、ただ、例えば、変化 Z1(t1)→ Z2(t2)の知覚における他の規定可能性、¬Z2(t2)の排除を通して反省的に認識されるのに対して、身体的行為の場合は行為が知覚の対象となる。例えば、時点t1における私の腕の垂れ下がった状態Z1の知覚、時点t2におけるその直立した状態Z2の知覚から「挙手」という行為が認識される。
しかしまた二つの知覚Z1とZ2自体は行為ではないので、身体行為そのものは知覚の対象ではないとも考えられる。そこでひとは、身体行為では Z1(t1)→ Z2(t2)は未来において意欲されるのに対して、認識行為ではそれは過去において反省の眼差しのもとで認識される、というように時間関係で区別しようと考えるかもしれない。だが身体行為の場合でも、他者の行為の場合、事後的にその動機を遡るしかないし、認識行為の場合でも、未来の自然の出来事を予測するという場合があるであろう。
むしろ自然と人間を区別するのは意志の自由ではなかったのか。カント自身、次の如く言っている。「自然のどの事物も法則に従って活動する。理性的存在者のみが法則の表象に従って、つまり原理に従って行為する(handeln)能力を、 換言すれば意志を持っている[22]」。
蓋し行為(Handeln)を行動(Verhalten)から区別するのは意志の自由である。ヴェーバーも言う通り、「行為 [Handeln]とは、単数/複数の行為者が主観的意味を結び付けた時、またそのかぎりでの人間の行動[Verhalten]を指す[23]」。私は一方で腕の運動を私の意志のたんなる結果と見なし、その原因としての行動を脳細胞の生理的プロセスにまで萎縮させることができるが、他方挙手による法案可決に対する賛意の表明やその結果としての制度の変革をも私の行為と見なす、というように拡大することもできるが、どこまでを行為と見なすかは、どこまでを予め目的として意識しているかにかかっている。感性的に制約された《いまここ》を自由に超越して目的を設定する実践理性的な認識/身体行為、これがカントの言う自由意志に他ならない。しかし同じ意味で理論理性的な認識行為もまた自由だと言えなくはないか。
一般に自由という概念には、英米系の (1)反因果的予測不可能性→偶然性という意味とドイツ系の (2)超感性的本質洞察性→必然性という意味があって二義的だが、カントはもちろん (2)の意味で使っている。超越論的超越は最終的に時間的多様から超越するのだが、これは(2)の意味での自由なのである。両者は「frei ~から離れた」という共通概念から出発しながら全く逆の帰結をもたらしている。もしも(1)の意味で自由を理解するならば、《自由とは道徳法則に束縛されていることなり》というカントのテーゼや《自由とは必然性の洞察なり》というヘーゲルのテーゼは理解できないであろう。
このように自由を(2)の意味に理解するなら、フィヒテが主張するように[24]、それはたんに実践哲学の原理であるだけでなく理論哲学の原理にまで拡張されえるはずである。だが理論哲学においては、超越論的統覚は時間的多様を越えることによって時間的多様を越えない有限な自由しか持たないのに対して、実践哲学においては、主体は物自体的な英知的存在者として無限な自由を持つという差はある。もっともカントは「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と喝破するには至っていないので、結局実践理性の自由でさえも真に無制約的なものとは言えまい。
ともあれカントは、超越論的弁証論の第三の二律背反で、自然必然的な現象から道徳的自由を救うためにこれを物自体に帰したのであったが、その意味するところは、人間は道徳的実践においては、神の知的直観と同じく自らの物自体的理念にしたがって現象を創造するということである。
カントのこの区別を平板化して、理論においては主観が客観を受動的に模写するので真理の源泉(物自体)は客観にあり、実践においては主観が客観を能動的に産出するので、《真理の源泉=物自体》は主観にあると言うことはできない。カントは「事物と知性の一致」という古い真理観を引きずっていたとはいえ、模写説を却け、構成説を採っていたことを想起されたい。
しかしこの《コペルニクス的転回=行為論的転回》において彼には、フッサールが批判するように、ノエシスとノエマを混同する傾向がある。ノエシスとノエマを混同した時、認識論的に見て極めて不合理な事態が生じることは明白である。例えば私が円を認識している時、私のノエシスが、従ってまた私自身が円であとするならば、私は却って円そのものを認識することができいであろう。しかるにカントに言わせれば「皿は丸い」と言うためには、その図式機能、即ち「この図式を伴った悟性の振舞[Verfahren][25]」自体が丸くなければならないのである。すると身体行為を認識するということは行為を行為するということになろうが、その際行為を行為することと行為された行為が区別されないのだから、もはや行為は行為されなくなるであろう。
だが一歩譲って、カントがノエシスとノエマを区別しているものとしよう。問題はここから先である。自由は裸で認識されるわけではない。「自由はもちろん道徳法則の存在根拠であるが、道徳法則は自由の認識根拠である[26]」とカントが言う通り、道徳的自由は道徳法則を遵守することの反照的規定として自覚される。それは理論哲学において、超越論的超越が時間的多様において超越することによって時間的多様から超越するのと同じことである。かくして自由の問題は規則遵守(rule-following)の問題へと移行する。
カント(より典型的には新カント学派)においては、構成的にせよ統制的にせよ原理は、したがってまた法則は客体の形式ではなく(それは模写説的な法則観である)、主体(統覚・構想力)が則るべき規範なのである。ここから経験的-純粋という区別が、事実問題-権利問題という妥当性に関する区別を媒介にして、存在-当為という全く別の区別と混同されてしまうわけだが、両者が同じでないことは、存在命題・当為命題の各々の内部で経験的-純粋が区別されうることからして明らかである。両者の混同の上に成り立っている構成主義的な《実践理性の優位》は、第一哲学と倫理学を同一視するプラトン以来の誤てるイデアリスムスの行為論的変容に他ならない。以下彼等の主張を、類型化して検討してみよう。
2.1. 妥当性概念を手掛りにした真理と価値の同一視
一般に真理には価値があり、価値は真理と同様に人々が求める理念であるが、これには、
- 価値なき真理、例えば道徳的悪という事実、
- 非真理の価値、例えば「嘘も方便」という諺が妥当とする事態、
などの“反証例”がある。哲学的価値と倫理的価値を区別するという逃げ路があるが、そうすれば「真理は価値である」というテーゼはたんなるトートロジーになってしまう。ゆえに《真理=価値》のテーゼは、不毛な同語反復か有害な混乱かのどちらかしかもたらさない。
2.2. 様相概念を手掛りにした存在と当為の同一視
「 … である sein」という事実命題とは異なって、法則命題は「 … でなければならない sein müssen = その反対は不可能である」という必然性を帯びる。紛らわしいことに、この müssen は道徳的義務を表す助動詞の müssen と同じである。
両者の違いは、言語学的に言えば認識的法と義務的法の区別に相当する。例えば英語では両者の間に次の対応がある。

もしも様相を外延量で表現することができるなら(そしてカントは実際そうしているのだが)、(1)の否定が(2)であり、(3)の否定が(4)であることは、
¬(1)⇔(2) : ¬(∀X)FX ⇔ (∃X)¬FX
¬(3)⇔(4) : ¬(∃X)FX ⇔ (∀X)¬FX
から明かである。(2)「Fでないxが存在する」と(3)「Fであるxが存在する」は等値ではないが、もし存在量化が普遍量化を排除する狭い意味を持つなら等値である。(2)と(3)は《FかもしれないしFでないかもしれない》という不確定性の領域である。《必然的にF/必然的にFでない》という二値論理的な否定関係の否定が不確定性なのである。否定によって構成され・否定によって対自化されるという点で、確定性と不確定性は地平である。
同じ対応はドイツ語にも見られる。

ただドイツ語の場合、müssen の否定は(2)と(4)のどちらをも表しうるので、ドイツ語圏の哲学者は英米系の哲学者のように「日常言語の用法」の差にこだわらなくてもよいのかもしれない。
認識的法と義務適法は、しかしながら、様相論理学的には、同じレベルにはない。
- 必然的な偶然性(例えば判断内容は偶然的だが、学問的に妥当な不確定性の原理)や
- 偶然的な必然性(例えば必然的な内容を主張しているのだが、たんなる個人的臆断に留まる判断)
が形容矛盾でないことから明らかなように、対象レベルとメタレベルの様相概念は区別されうるし、また区別されなければならない。そして、道徳的義務の müssen は対象レベルの必然性に過ぎず、その義務の妥当性を表すメタレヴエルの必然性はその義務判断の知のシステムにおける無矛盾的整合性であって、倫理学に固有のものではなくて理論的判断のそれと同じである。その必然性は、「 … である」「 … であるべし」「 … はよい」という存在判断・当為判断・価値判断に対して、「 … である-は必然的である」「 … であるべし-は必然的である」「 … はよい-は必然的である」というようにつながるわけである。
2.3. 規則遵守を手掛りとした理論と実践の同一視
T「全ての物体はニュートンの第二法則に従って運動する」という理論的法則と、P「全ての人は正直でなければならない」という実践的規範は、ともに個物の全集合の普遍的法則への包摂を主張しているという点で似ていると言える。だが、
- 見て明らかなように、Tには当為の müssen がない。強いて付けるなら「判断Tを下すべきだ」というようになるであろう。したがってこの法則を破る物体が出来しても、その物体が罰せられたり道徳的な非難を浴びたりすることはなく、むしろ判断主体のほうが修正を迫られ、かくして相対性理論が成り立つ。もちろんPにおいても判断主体のほうが修正を迫られる場合があるが、人は物体と違って《引責能力がある=自由がある=法則を表象しうる》のである。実践哲学においては道徳的行為を行う主体と立法を行う主体というように主体概念は二義性を帯びるが、それらは経験的と超越論的との区別で振り分ければよい。
- 他方PはTとは異なって、事実について何も語らない。もちろんPも「もしも他人に好かれたければ、正直であるべきだ」というように変形すれば、それは人間社会の事実について何かを語っていることになろうが、これは仮言命法であって定言命法ではない。定言命法は、本来的にはただ道徳的主体に超越を指令する機能を持つだけである。
ⅠとⅡからTとPの相違は明らかである。
以上の認識行為と身体行為の相関関係の分析において《妥当性=必然性》が理論的法則や道徳的法則よりもメタレヴエルにあることを確認した。それゆえ実践哲学における超越論的演繹(これは倫理的判断の倫理的判断ではない)は、理論哲学のそれと全く同じで、無矛盾的整合的なシステムの構成ということになる。両者の相違は、演繹されるべき感性的与件が感覚であるか欲求であるかに過ぎない。
しかるにカントは、『実践理性批判』においては道徳法則の超越論的演繹は不要であると言う。
道徳法則は、さながらアプリオリに私たちに意識され、かつ必当然的な純粋理性の事実として与えられる。[…]それゆえ道徳法則の客観的実在性は、演繹によって、つまり思弁的ないし経験的に裏付けられた理論理性の努力によって証明されえるものではないのである。[27]
実践理性の最高原則は「それ自体で存立している für sich bestehen[28]」のだから、Deduction ではなく Exposition のみが可能である、というわけである。
しかし同じことは理論哲学にも言えるのではないか。超越論的演繹とはカテゴリーの正当化ではなく(それはただ既存の判断表から導出されて exponere されるだけである)カテゴリーによる認識の正当化であったのだから、定言命法(der kategorische Imperativ = カテゴリー的命法)自体が正当化不可能であるからといって、定言命法による倫理的判断の正当化までが不要であるということにはならないはずである。そこで、次に節を改めて超越論的演繹を行うことにしよう。
3. 実践理性のカテゴリー
カントの倫理学の理念は自由であり、その理念は、定言命法の遵守により実現する。では、定言命法はいかなる道徳法則なのか。実践理性のカテゴリー表を分析しながら考えよう。
カントによれば《純粋実践理性の原則=定言命法》は一つしかないはずだが、実際には五つ以上の定式がある。同様に純粋実践理性の対象の概念も一つで、それは「自由」なのだが、自由のカテゴリーも、『純粋理性批判』の判断表と同様に、4×3=12個に下位区分されている[29]。

カントは「この表はそれ自体で十分自明であるので、私はここでこれの解明に何も付け加えない[30]」と言って、一切の解説を省略しているが、それだけに私たちの方でこの必ずしも「それ自体で十分自明である」とは言えないカテゴリー表の解釈に苦労しなければならない。以下、本節では、
- 質のカテゴリー
- 関係のカテゴリー
- 量のカテゴリー
- 様相のカテゴリー
の順番に実践理性について考察を加えていくことにする。
3.1. 質のカテゴリー
「カントの純粋理性批判」の超越論的演繹では、感覚的な要素命題の成立/不成立に関する質のカテゴリーから出発したが、ここでも感覚的な快/不快ないし欲求の正/反から始めることにしよう。
カントは、経験的な指令は「実践的規則[eine praktische Regel]と称せても、しかし決して道徳法則[ein moralisches Gesetz]とは称せない[31]」と言う。ここの用語法から明らかなように質のカテゴリーに謂う「実践的規則」には未だ道徳的意味はなく、量のカテゴリーで言えば(1)の主観的な格率に相当する。それゆえ質のカテゴリーは、(1)「 … したい/することにしている」(2)「 … したくない/しないことにしている」という述語形式を持つ。
(3)の規則は、(1)の肯定的規則と(2)の否定的規則の総合で、例えば「私は金に困ったときには嘘の約束をしてでも他人から金を借りることにしている。但しその嘘がばれそうにない限りにおいてだが、しかし明日の食事にも困るような限界状況においては話は、また別なのであって … 」というように《例外条項 but-rule》を含んでいる。このような格率の体系を作るには結合子が必要なので、次に関係のカテゴリーの考察に移行しよう。
3.2. 関係のカテゴリー
(1)における人格性とは英知的存在者の実体性のことだが、この即自的な段階では、自由は“Ich will = Ich will”としての純粋意志に過ぎない。
因果性のカテゴリー(2)の「人格の状態」は逆に経験的な人間のそのつどのその人の心的状態を意味するので、質のカテゴリーはこのモメントに属する。移い行く快不快の感情や欲求の流れ(偶有性)は、人格性の自己同一的持続性(実体性)を前提する。
実体のカテゴリーが定言的であり、因果性のカテゴリーが仮言的であるのに対して、(3)の相互性のカテゴリーは選言的である。このカテゴリーが主語とする自由は、「ある人格から他の人格に相互的に向けられた自由」、つまり相互主体的自由である。《相互主体性/他者性》が、選言的な《他のようでもありうる》不確定性に基づいているというのは意味深長であるが、この論点については後に詳述したい。
カントの超越論的倫理学は、もちろんこの不確定性を超越しようとするわけだが、1での全称命題への量化や、4での必然的命題への様相化は、自由が個別的特殊性から普遍性へ、あるいは不確定性(偶然性)から確定性(必然性)へ超越することを意味している。
3.3. 量のカテゴリー
このカテゴリーは「各人が自分の傾向性に基づけている格率、理性的存在者のある類[人類]にとって、傾向性に関して一致するかぎりにおいて妥当する指令、そして最後に傾向性とは無関係に全ての理性的存在者に妥当する法則[32]」の三つのモメントから成る。
カテゴリー表では、(1)主観的 (2)客観的 (3)主観的かつ客観的というように区別されているが、『純粋理性批判』の判断表での(1)全称的(2)特称的(3)個別的の区別、カテゴリー表での (1)単一性 (2)数多性 (3)全体性という区別との関係性が判然としない。強いて解釈すれば、(1)は単一の主観でのみ妥当する全称的な格率で、(2)は全人類に妥当するという点で客観的ではあるが、人類という特種な類にしか成り立たないという点で、特称的な数多性の限界を持つ。それに対して、(3)は、個別的な理性的存在者の主観全てに客観的に成り立つ全体性を持つ。
カントの定言命法は、もちろん(3)の法則である。客観的であると同時に主観的でもあるというのは、定言命法が実定法とは異なることところであって、カントは、『人倫の形而上学』のなかで、「それに対して外的な立法が可能である法の義務[33]」と「それが不可能である徳の義務[34]」を区別している。(1)のエゴイスティックな格率は、普遍化不可能であるがゆえに、間主観的に構成/ 承認可能な定言命法へと止揚されるわけだが、しかしカントはホッブスやヘアーの周知の論法で規範を外的に導出するわけではないのである。では定言命法はいかにして規範の超越論的演繹を行うのか。彼の演繹の軌跡は定言命法の定式化の変動の中に読み取ることができるので、次にこれをフォローしていこう。
定言命法は、本来次の唯一つだけである。
それによって格率が普遍的法則に成ることを汝が同時に欲することができるような格率にのみ従って行為せよ。[35]
この法則は要するに「欲しかつ欲しない」ことの禁止の命令であって、その根拠は理論的な矛盾律・同一律に他ならない。それゆえ定言命法が超感性的で、それ自体正当化不可能である以前に不必要である理性の事実であるということは、理論的にみて当然であることはすでに確認した。
だが道徳法則が超感性的であるからといって、道徳的行為までが超感性的であるわけではない。そこで感性的なものに超感性的なものを適用するには『純粋理性批判』に謂う所の“媒介(図式)”がここでも必要であるように思われるが、カントの議論は、そこのところやや微妙である。
「今の[実践的判断力の]場合、法則にしたがう事例の図式が問題ではなく、(もしもこのような言葉がここで適切であるとするならばであるが)、法則それ自身の図式が問題なのである[36]」。ある行為の事例はそれを法則(行為規範)へと包摂することによって正当化されるが、この法則はさらに定言命法に包摂されることによって正当化される。カントは、個別的事例を内に含んでいる感性的な諸々の道徳法則と超感性的な定言命法の《媒介項=総体概念》を範型(Typus)と呼ぶ。それは諸規範には正当化の、定言命法には適用の基準を与える「判断力のための法則[37]」である。『人倫の形而上学の基礎付け』では「範型」の語は見当らないが、「範式 Formel」の語がこれに相当する。
図式と範型の位置を強いて「定式5における四つの超越」の図に書き込むと、以下のようになる。

この図に示したように、構想力が図式を通して悟性と感性を媒介するのに対して、判断力は範型を通して理性と悟性を媒介する。但しこの図 は、拙著では最終的には採用しない。まず理論と実践をパラレルに位置付けようとするならば、図式と範型を区別する必要はない。また図式も範型も言語に相当すると思われるが、カントの哲学においては言語哲学が未成熟である。言語の位置は、『言語行為と規範倫理』で精確に示すので、そちらを参照されたい。
範型/範式は三つあるのだが、
(1)第一範式は
汝の行為の格率が、汝の意志によってあたかも普遍的自然法則と成るかのように行為せよ。[38]
というものである。ここで言う「自然」は物理的自然ではなく(いかに悪徳に満ちた自然でも、それが物理的現象として実現されている以上は、普遍的“自然”法則に従っている)、「自然法」等に謂う理念的な意味での自然である。『実践理性批判』では「汝の意図する行為が、汝自身がその一部であるような自然の法則に従って生起するであろうとき、果たしてよく汝はその行為を汝の意志によって可能なものと見なしうるかどうか自問せよ[39]」が範型とされているが、ここから明らかなように、カントの言う「自然」には《人間的自然=人間本性》も含まれているのである。最初の定言命法の中にある《欲することができる wollen können》という表現に注意したい。悪徳に満ちた社会は、たとえ現実には可能でも、人間本性という点を考えるならば、それを意志することはできないのである。
英米系の倫理学者、例えば、フランケナは「義務論 deontology」vs.「目的論 teleology」という対立地平の中で、カントを典型的な義務論者の内に数え入れている[40]が、ペイトンが指摘する通り[41]、カントの倫理学はむしろ《目的論的義務論=義務論的目的論》とでもいうべき立場である。彼は現に次のように明言している。
私はまた実践理性の概念にあるものを目的としなければならず、したがって法論が含むような選択意志の形式的な規定根拠以外になお実質的な規定根拠を、つまり感性的な衝動に由来する目的とは対置されうる目的を持たなければならないということ、このことはそれ自体において義務である目的の概念であろう。[…]この理由からして倫理学は また純粋実践理性の目的の体系としても定義されうる[42]
それでもなお本書の目的論的解釈に眉を顰める人がいるであろう。曰く「カント倫理学は快楽と幸福を拒否し、結果を度外視した義務の遵守を命じるプロテスタンティズムの倫理の権化なのであり、かかる目的論的改釈は厳粛で崇高な心情倫理を功利主義的に改竄しようとする俗人の曲解なのであって云々」。だが本書の解釈が功利主義的でないのはヘーゲルの目的論的倫理学が功利主義的でないのと類比的である。カントは幸福を斥けたとか、幸福を斥けることこそ徳であるなどという誤解は、経験的な「幸福からの判断」と超越論的な「幸福についての判断」の混同から生じる。
カントは、各人がそれぞれ好き勝手に幸福を求めて行為した結果「神の見えざる手によって」知らない間に合目的的秩序が出来上がるといった意志の他律を否定したまでである。人格の自律は、それ自体では存立しえないのだから、感性的な幸福の整序を媒介にしなければならない。結果においてはともかく、少なくともその意図(目的)において誰の幸福にも寄与せず、むしろそれを破壊するような禁欲的な義務の遂行は狂人の振舞に他ならないし、また逆に悪徳行為、例えば泥棒の窃盗行為も、もしそれによって盗まれるものが、何ら実質的価値がない(つまり可能的幸福に寄与しない)ものであるならば、彼の行為は悪くないという以前に窃盗行為ですらない[43]。実際「実践理性の全目的としての最高善[44]」には、道徳だけではなく「幸福もまた要求される[45]」のである。
(2) そこでこの第一範式から
汝は汝の人格ならびにあらゆる他人の人格における人間性を常に同時に目的として使用し、決してたんに手段としてのみ使用しないように行為せよ。 [46]
という第二範式が帰結する。自己を目的としようとする利己主義は、人間の自然(本性)である(そしてこのこと自体は命令できない)。この目的のために他人をたんに手段として扱おうとすれば、立場の相互変換可能性から自分を目的として扱いかつ目的として扱わないという矛盾が生じる。
この矛盾を積極的に回避するためには、折衷的な目的の相互譲歩ではなく、自他の目的の体系的な同時実現へと進まなければならない。カントはこの目的の体系的結合を「目的の国 Reich der Zwecke[47]」と名付ける。この目的の国の究極目的は道徳的主体であるところの人間性(全き人格=合理的自然)であって、人間の幸福ではない。幸福が目的となるのはただ「幸福が義務遂行のための手段を含むから[48]」なのである。
カントの目的論的倫理学が功利主義ではなく、従ってまたこの“相互に相手を目的とせよ”という定言命法が“自分がされたくないことを他人にするな”という黄金律に由来する処世術とも同じではない[49]ことは明らかである。蓋し後者の命法によっては、傾向性に反する(1)自分に対する徳の義務(例「死にたくなっても自殺をすべからず」)(2)他人に対する愛の義務(例「孤独が好きでも他人に親切を尽くすべし」)(3)犯罪に対する相互に処罰する義務の根拠が示せないのである。超越論的・哲学的な目的論的倫理学は、経験的・技術的な目的的倫理学(または目的合理的倫理学=功利主義的倫理学)から区別されなければならない。
カントの定言命法は、またたんに「君のその行為を全ての人が一斉にやりだしたとしても、なお可能であるかどうかを自問したまえ」と命じているのでもない。例えば「倹約」は美徳的行為であると一般には考えられているが、もしもすべての人が一斉に倹約をすれば、総需要が、したがって総供給・総収入が減り、各家庭はかえって倹約ができなくなる。そこで倹約は、その格率が普遍的自然法則となることを(意欲することができないどころか)考えることすらできない悪徳的行為であるということになる。だが「消費は美徳なり」はデフレ経済においてのみ成り立つのであって、インフレ経済においては倹約が美徳なのである。カントによれば、倹約の堕落である貪欲や吝薔は「様々な目的のための手段を所有しようとする原則であるが、但しそれを自分のために全く使用しようとせず、かくして快適な生の享受から身を退けるのであって、これは目的という観点からして、自分自身に対する義務に真っ向から反する[50]」とのことであるが、要するに倹約/消費のどちらが当為となるかは、合目的性の連関から判断するしかないのである。
もう一つ、カントの私生活から例を取ってみよう。カントは、一生独身だったが、この行為の格率は、カントの意志によって普遍的自然法則と成りうるだろうか。もしすべての人が結婚しなければ人類は滅亡する。婚外交渉を認めるなら、話は別だが、カントによれば、結婚とは「性を異にする二つの人格が自分たちの性的諸固有性を 生涯にわたって相互に占有するための結合[51]」であり、これ以外の性的共同体、即ち「ある人間が他の人間の諸生殖器及び性的諸能力について成す相互的使用[52]」は違法であるから、カントの前提では結婚がなされなければ子供は全く生まれないはずである。しかし、言うまでもなく、人類の滅亡は、意欲することができない。いや、たんに意欲できないだけではない。普遍化は過去にまで及ぶので、「結婚しなくてかまわない」と言っている人の存在(これは結婚の産物である)まで、したがってこの言明までが不可能になってしまう。つまり普遍的自然法則となることを考えることすらできないのである。ゆえにカントの生活は完全義務に違反している。
もっとも、弟宛の書簡[53]によると、カントは、寡婦になった長妹マリーアとその五人の遺児と末妹カタリーナを扶養していたし、弟の死後その遺族にも金を送ったようである[54]から、子孫扶助の義務を怠ったわけではない。現代の中国やインドなどの人口増加が深刻な社会問題になっている国においては、独身であることは美徳である。目的の体系との適合性においてのみ普遍化可能な規範はその妥当性を得ることができる。
ところで、アリストテレスの目的論的倫理学以来、何が究極目的であるのか、いやそもそも究極目的が存在するのかということが問題となってきた。ギーチによれば、「アリストテレスが、“その連続した項が目的-手段関係にある全ての系列には、ある最終項[a last term]がある”から“その連続した項が目的-手段関係にある全ての系列の最終項[the last term]である何かが存在する”を推論することができると考えていることは明白である[55]」が、アリストテレスは、「いかなる行為にもその究極目的がある」という前提から「すべての行為は一つの究極目的を目指して成される」という結論を導出する誤謬を犯しているとのことである。
だが少なくともカントはこの誤謬から免れている。今、行為 H0 の目的 Z1, Z1 の目的 Z2, … というように被制約-制約の系列を上昇して行くと、もはや Zn+1 が存在しないような Zn(最高目的)が、様々な行為与件から出発することによって複数個得られるとする。もし唯一の究極目的というものがあるとすれば、それはこの複数の Zn の総体を実現することであろう。カントの超越論的哲学によれば、多様性を統一へともたらすのアプリオリな機能は超越論的統覚である。ゆえに、究極目的は超越論的統覚(倫理学的に言えば、理性的人格)そのものであるということになる。これと同じ論法で以って最高類概念は実体(主観)であると主張できる。本書では、カテゴリーと複数の最高類概念はノエシスとノエマの関係にあること確認したが、定言命法と複数の最高目的もこの関係にある。
(3) ここから《道徳法則の立法主体の自律=理性の自己実現》が説かれる。すなわち、定言命法の第三範式:
意志がその格率によって自己自身を同時に普遍的立法者と見なしうるような仕方でのみ行為せよ。[56]
が成立する。そこで定言命法の三つの範式は、(1)理性の (2)理性のための (3)理性による命法と整理できるであろう。
第三範式は、形式的第一範式と実質的第二範式との総合として、つまりヘーゲル流に言えば具体的普遍として、より包括的に「すべての理性的存在者は、自らがその格率によって常に(1)普遍的な(2)目的の国の(3)立法者であるかのように行為しなければならない[57]」というように定式化される。かかる自律的行為の命法を自律のために自律的に立法することによって自律的に行為することが、命法の立法主体の自律性なのである。
行為主体が自律的であるのは、あるいはもう少し平たく言って人間が誠実で責任感があるのは、花が赤かったり石が堅かったりするのと同じ意味での実体に対する属性の関係ではない。それはむしろ、超越論的統覚が超越論的客体を「語る」ことによって自らの自己同一性を「示す」のと類比的に、自らの首尾一貫性を「示す」機能概念なのである。
「我意欲するものを意欲する」という空虚で分析的な超越する時間としての欲求能力は、自我を保持しつつ超越的非我(他我の欲求をも含む)の超越へと超越し、自他の目的を《体系的に統合する=超越論的に超越する》ことによって、「我(直接的には)意欲せざるもの を(間接的には)意欲する」という《差異化された同一性=多様性の統一性》として欲求の多様から超越する、すなわち自由たらんとする不自由から自由になる。
3.4. 様相のカテゴリー
超越論的演繹は以上で完遂されたわけだが、今度はこれを様相のカテゴリーからアプローチしてみよう。カントの表には「対象レヴェルの当為の müssen」と「メタレヴェルの妥当性の müssen」が混同されているので三つのモメンテを二つのレヴェルに分けて整理すると以下のようになる。

見て明らかなように、ここではメタレヴェルの三区分は、対象レヴェルの(3)に対して行ったわけだが、(1)と(2)に対しても同様のことができるのは言うまでもない。対象レヴェルで義務なのは(3)だけであり、(1)は「許容法則 leges permissivae[58]」(これは「命令 leges praeceptivae」と「禁止 leges prohibitivae」の中間にある)の行為、(2)は義務様相ゼロのたんなる現実の行為である。
一方メタレヴェルの (1)は、ロスが謂う《可能的義務 prima facie duty[59]》で、可能的には妥当であるが、今ここの現実への適用の妥当性に関しては判断が留保されている義務であり、(2)は、現実に妥当しているがその妥当性に関しては判断が留保されている義務である。
カントは、可能性の様相を対象レヴェルの様相として《許可されたものと許可されないもの das Erlaubte und Unerlaubte》の対概念で示すが、なぜ「 …してもよい tun dürfen/mögen 」の否定は「 …してはいけない nicht tun dürfen」であって、「 …しなくてもよい nicht tun mögen」ではない、つまり「許可の否定」であって「否定の許可」でないのか。 少なくともこの否定関係の採用は、現実性の様相が(こちらはメタレヴェルの方が採用されているのだが)、《義務と反義務 die Pflicht und das Pflichtwidrige》であることと合わないように見える。
カントは『実践理性批判』の別の箇所[60]で様相のカテゴリーを problematisch,assertorisch,apodiktisch に分類しているが、この三者は『人倫の形而上学の基礎付け』[61]では、それぞれ二つの 仮言命法と定言命法に割り当てられている。そうすると「熟練の規則」は可能的義務で「幸福のための勧告」は現実的義務で、両者の総合から定言命法が生じるということになる。同時代人でカントの友人、クリスチャン・ゴットフリート・シュッツは、カント宛の書簡のなかで、現実性の様相を「現実に命ぜられているもの/現実に命ぜられていないもの」、「術語的には」「法則の現存在(義務)/ 法則の非存在(非義務)[62]」に修正することを提案している。ここでは、シュッツの提案に従って、「反義務(das Pflichtwidrige=das Unerlaubte)」を「非義務(Nichtpflicht)」に修正することにしよう。
最後に必然性の様相であるが、これは明らかにメタレヴェルの必然性である。「不完全義務」は「完全義務」とは異なって、「矛盾なしにはその格率を普遍的自然法則として考えることすらできない[63]」わけではないが、少なくとも「意欲することはできない[64]」義務なのであるから、論理的には偶然でも人間の義務としては必然的なのである。必然的当為としての義務に必然的妥当性を与えること、これが超越論的演繹であったわけである。
4. 弁証論の実践哲学的解決
『純粋理性批判』では止揚できなかった、魂・世界・神の三つの理念をめぐる二律背反が、『実践理性批判』では、解決される。しかし、実践理性においても、理論理性においてと同様に、人間理性には調停不可能な二律背反が生じるのではないだろうか。
ここでも、「カントの純粋理性批判」の時と同様に、理念を
- 魂の不死
- 無制約的な世界
- 神の存在
の三つに分けて、対応する実践哲学的問題を考察してみよう。
4.1. 魂の不死の問題
カントは、『純粋理性批判』において、経験的統覚の不死の問題をエポケーしたまま、魂の実体性・単純性・同一性・非物質的離存性を超越論的統覚の述語とするに留まったのだが、『実践理性批判』で初めて、その理念を「純粋実践理性の要請」として、つまり道徳的行為のために統制的に使用することを認めるに至る。
道徳法則への意志の完全な適合性は神聖性であり完全性であるが、感性界の理性的存在者にはその現存在のいかなる時点においてもそれが不可能である。とはいえ、それは実践的に必然的なものとして要求されるので、それはかの完全な適合への無限に続く進歩においてのみ可能であり、そのような実践的前進を私たちの意志の実在的な客観として想定することは純粋実践理性の原理により必然的である。[65]
だがこれで終わりにしてしまってよいのだろうか。経験的統覚の不死だけでなく、超越論的統覚の不死をもここで問題にすべきではなかったのか。規範の超時空的(普遍的)妥当性こそ実践哲学におけるすぐれて無制約的超越的な問題のはずである。理論哲学において、超越論的統覚は、時間的多様を越えることによって時間的多様を越えない相対的に有限な存在者であった。実践的道徳的人格にはこのような有限性はないのだろうか。
カントは「共通の人間悟性[der gemeine Menschenverstand 常識][66]」は、理論的な思弁に関してはそうではないにしても、少なくとも道徳的判断に関しては誤らず、弁証論的な二律背反に陥ることはないと説くが、問題はこの“共通の gemein”の範囲である。
道徳法則の存立を理性の事実として確実視することは特殊近代的な妥当性しか持たないのではないのか。さらにまた、直線的時間、進歩史観、来世における魂の救済といったカント倫理学の諸前提はユダヤ・キリスト教の伝統に基づくのであって、この定立には円環的時間のもとにおける輪廻転生を説くインドの宗教や、現世肯定の儒教などの非ヨーロッパ的宗教の諸教説が反定立となる。
超時代的・超文化的に妥当する倫理という超越論的理念は、『純粋理性批判』における無制約的な時間空間の超越論的理念の倫理学版として当然考察されてもよかったのだが、ケーニヒスベルク周辺から外に出たこともない書斎の哲学者カントは、このような「他のようでもありうるのではないのか」という問いが生起する地平すら持たなかった。パラダイムの相対性の問題は、超越論的哲学と超越論的倫理学がはらむ難点の一つである。
4.2. 自由の問題
自由の問題も、《感性からの自由あるいは認識の超時空性》vs.《マンハイム以来の存在被拘束性あるいはイデオロギー性》の問題にスライドさせれば、第一項の議論を単に蒸し返すことになるので、むしろよく取り上げらる論点「根本悪 das radikale Böse」を考えよう。
私たちは道徳法則の遵守を通してその根拠である自由を認識するのであるが、道徳法則は常に遵守されているわけではない。私たちは道徳法則から逸脱した悪しき行為から悪しき格率を、悪しき格率から悪しき人間本性を推論できる。但しこの「人間本性」は経験的な傾向性ではなく、「それ自体常に再び自由の働きでなければならない(というのも、さもなくば道徳法則の観点からする人間の選択意志[Willkür 恣意]の使用/誤用は人間に帰責されなくなり、人間の善悪は道徳的でありえなくなるであろうから)[67]」。
すると人間の自由には、善き行為を行う自由以外に、悪しき行為をも選びうる恣意的な自由があることになる。善への自由、すなわち自由への自由が《理性の事実》であるとするならば、悪への自由、すなわち不自由への自由は《感性の事実》とでも名付けられるだろうか。私たちは以前自由概念が二義的であることを確認したが、ここでも「選択される自由」と「選択としての自由」が区別されなければならない。だがこれは、「認識の自由」と「実践の自由」の区別ではない。理論的な認識においても、所与の主語に対してある述語を帰属させるべきか/否かという“選択”がその 活動の総体を成すのであって、真の述語を選択すれば時間的多様からの超越(自由)が得られるであろうが、有限な存在者である人間には偽の述語を選択する“不自由への自由”までが(経験的統覚のではなくて)超越論的統覚の“本性”に属する。
だがなぜここから神の恩寵が求められるのであろうか。倫理から逸脱しようとする人間の本性を悪として裁断するカントは、逆に言えばプロテスタンティズムの倫理の存立を理性の事実として確実視しているわけであるが、むしろこちらのほうが人間の判断(選択)の有限性ではなかったのか。かくして問題は第一項に戻るのであるが、同じことは次の項にも言える。
4.3. 元首の問題
「法律のない外的で(獣的な)自由の状態/強制力ある法則によって拘束されない状態が、政治的公民的な状態に入るために人がそこから脱出すべき各人に対する各人の正義なき戦争状態であるように、倫理的自然状態は徳の原理の公的で相互的な命令と内的な人倫性の欠如の状態であり、自然的人間はそこからできるだけ早く抜け出すよう努力すべきである[68]」。かくして人間は神を「立法主体として他の意志に服従することのない」「元首 Oberhaupt[69]」と仰ぐ目的の国の成員となるわけである。
最高善とは彼岸的な徳の完遂とそれのための此岸的な条件である福の付随であったのが、その意味するところは《世界連邦=永遠平和》という政治的条件のもとでの神が統治する宗教的倫理的“国家”の成立である。このパラレリスムスのゆえに、カントにおいては神の存在証明と至上の国家の超越論的演繹はよく似ているのである。
国家とは共同意志の代弁者として立法し、権力を行使し、正義を司る三権を持った人為的人格(議会/政府/裁判所)である。カントは、国家(status)と市民社会(civitas)を区別しなかった所以であるが、地理的・時代的に有限な実在する国家を純粋実践理性概念にまで上昇させてしまった。
それゆえ立法する国家の元首に対しては、国民に何ら合法的な抵抗権はない。というのも、国民の普遍的な立法意志への服従を通してのみ合法的状態は可能となるからである。[…]抵抗に権能を与えるためには、この国民の抵抗を許可する公的な法律がなければならない。つまり最高の立法は最高でないという規定を、そして同じ判断において臣民としての国民は、国民が臣従している者に対して主権者となる規定を自らの中に含むことになるが、これは自己矛盾である。[70]
こうして、臣民には抵抗権も革命権もないことがアプリオリに証明されてしまう。
この抵抗権/革命権の否定の証明は「神はその定義からして、全能、完全、世界の原型等々であり、したがってもし述語《存在する》を持ってないなら、それは、全能、完全、世界の原型等々ではないので、概念の自己矛盾に陥る。ゆえに神が存在することは必然的である」という神の存在論的証明を連想させる。
神の存在論的証明に対してカントは次のように批判していた。
もしも同語反復的判断における述語を破棄して主語を保持するならば矛盾が生じるので、その述語はその主語に必然的に帰属する。しかしもしもその主語を述語もろとも破棄するならば、矛盾は生じない。[…]《神は全能である》これは必然的な判断である。もし諸君が、その概念が神と同一な神性すなわち無限な存在者を措定するなら、全能は破棄されない。だがもし《神は存在しない》と諸君が言うなら、全能やその他の神の諸々の述語は与えられなくなる。なぜならそれらは主語と共にことごとく破棄されたからであり、そしてこの考えには全くなんの矛盾もない。[71]
このカントの理屈を用いて、私たちは次のように言うことができる。もし最高元首が最高でないと言うならば、それは矛盾であるが、主語そのものを破棄してしまえばそこに何の矛盾もない。つまり現存の国家体制そのものを否定しようとする革命行為そのものは合法的でなければ非合法的でもなく、失敗すれば現在の体制から非合法とされるが、成功すれば自らが国家となるのだから合法である。現に当時のフランスのように革命が成功したところもあるではないか。
カントによれば「もしも革命が一度成功して新しい憲法組織が設立されたなら、革命の最初において、あるいはその実行において非合法であったからといって、新しい秩序に良き市民として従うという拘束性から免れることはできないのである[72]」とのことである。これでは御都合主義と言われても仕方がない。
カントを論理の破綻から救う道はないだろうか。カントは革命権を否定したというよりも、むしろ革命権が否定されうるような国家を政治的な実践理性の理念にしたと考えることはできないだろうか。
カントの有名な神の存在論的証明に対する批判には、これまた有名なヘーゲルの反批判がある。
神の存在論的証明に対するカントの批判が無条件的に好意をもって受け取られたのは、カントが思惟と有とのあいだにどんな区別があるのかを説明するのに、100ターレルの例を用いたことも確かにその一つの理由であろう。すなわち 100ターレルは、それがたんに可能的にすぎなかろうと、現実であろうと、概念からすれば同じ100ターレルなのだが、私の財産状態にとってこのことは一つの本質的な相違を成している、というのである。[…]神が話題となる場合、神とは、100ターレルとか何か一つの特殊な概念とか、表象とか、あるいはどんな名前を持とうと、とにかくそのようなものとは違った種類の一対象である、ということをよく考えてみなければならないのである。実際、全ての有限者の有限たる所以は、それの定在はそれの概念とは別であるという点に、そして専らこの点にのみあるのである。これに反して神は、明らかにただ《現存すると考え》られうるものであるはずである。[73]
このヘーゲルのカント批判を、今度は国家論においては逆にカント擁護のために使うことができる。理念的国家とは、フリードリッヒ・ヴィルヘルム2世統治下のプロイセンとかアンシャン・レジュームのフランスとか、あるいはどんな名前を持とうと、とにかくそのようなものとは違った種類の一対象である、ということをよく考えてみなければならないのである。実際、全ての有限な国家の有限たる所以は、それの定在はそれの概念とは別であるという点に、そして専らこの点にのみあるのである。これに反して理念的国家は、明らかにただ統制的に《現存すると考え》られうるものであるはずである。
実在する諸国家は本来的には相互に《法的でない状態=戦争状態》にあるので、根源的な社会契約によって《永遠平和の状態=理念的国家(連合)としての世界連邦》を形成しなければならない。この理念は「確固とした原則にしたがった漸次的改革によって企てられ実行されるなら、最高の政治的善、永遠平和への連続的接近へと導くことができるのである[74]」。「この普遍的で永続する平和の創設は、たんなる理性の限界内における法論の究極目的のたんに一部を成すのではなく、全体を成すと言える[75]」。
それでもなかには「プロレタリア独裁による国家の死滅こそが人類史の究極目的であり、階級支配の手段としての国家を永遠視するカントの法哲学は後進国ドイツのプチブル的イデオロギーの一形態なのであって云々」と言い出す人がいるかもしれない。だが国家あるいは少なくとも権力秩序は、人-間の存在するところには必ず存在する。認識にせよ実践にせよそれらは全て選択行為なのだが、選択による複雑性の縮減は既に権力システムを前提している。完全な理念的国家とは、ちょうど完全な存在者(神)が判断における肯定的述語の総体であるように、正当な選択肢を選ぶ一般意志である。
問題は何を以って「正当な」と見なすかである。人間が《善自体》を実現できるかどうかという前に、《善自体》が何であるのか認識することすらできない。超越論的主体性は、実践理性の分野でも不確定性の地平に留まる。人間にできることは、せいぜい《物自体》の認識に向けての、そして《善自体》の実現に向けての無限な接近でしかないのだから、ただ過去との比較的/相対的な改善と進歩の積み重ねで満足するしかないのが実情である。いずれにせよ、実践哲学の次に問題にしなければならないのは、歴史哲学である。
5. 参照情報
- 永井俊哉『カントの超越論的哲学』Kindle Edition (2014/12/13).
- イマヌエル・カント『実践理性批判』熊野純彦訳. 作品社 (2013/5/10).
- Kant, Immanuel. Kritik der praktischen Vernunft. Felix Meiner Verlag; 1 edition (September 1, 2003).
- ↑このページは電子書籍『カントの超越論的哲学』の第二章をブログ記事用に編集したものです。
- ↑Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). B.28f.
- ↑Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.24=B.28.
- ↑Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.13=B.27.
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私は今現在パリ政治学院に慶応大学からの塾生派遣(交換留学です)で勉強に来ています。国際政治専攻で、カントの「永遠なる平和のために」を読むべく、背景知識を得ようとホームページを探していました。残念ながら、認識論に立ち入る余裕が今はなく、ホームページも国家にかかわる部分のみしか読んでませんが。(カントの認識論を理解せず国家は語れない、との批判はしないで下さい…)また時間をみつけて ホームページを読ませていただきます。
カントの国家論を理解する上で重要なのはカントの倫理学だと思います。カントは国家と市民社会を区別することなく、倫理的共同体の延長線上で国家を考えていたからです。カントの倫理学は、行為を功利的視点から評価するのではなく、普遍化不可能なエゴイズムを理性の立場から否定するところに特徴があります。今の国際秩序はパクス・アメリカーナだと言えるでしょうが、アメリカの外交はプラグマティックで、カントが生きているならきっと評価しないでしょう。アラブ諸国に対してイスラエルを擁護したかと思うと旧ユーゴではムスリムを擁護したり、日本の銀行を潰せと言っておきながら、自国のヘッジファンドの救済には公的資金を投入したりといったダブルスタンダードは、正義よりも自国の利益を重視した戦略的外交の産物であるわけですが、カントならきっとアメリカに「汝の格率が普遍的法則となることを汝が同時にその格率によって意志しうる場合にのみ、その格率にしたがって行為せよ」と言ったでしょう。