水底の歌

2005年3月7日

柿本人麻呂は、持統・文武両天皇に仕えた宮廷歌人であり、歌聖として崇められた。柿本人麻呂を神として祀った神社は全国に多数ある。そして、梅原猛の『水底の歌』によれば、このことは、柿本人麻呂が非業の死を遂げたということを暗示している。

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歌川国芳画「柿本人麻呂」[1]

1. 柿本人麻呂は藤原不比等に殺された

梅原は、『萬葉集』に掲載されている人麻呂臨死の歌を分析して、下級役人として山陰地方に赴任中に死亡したという通説を疑う。

「鴨山の 岩根し枕(ま)ける 我をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ」

柿本朝臣人麻呂の死(みまか)りし時、妻依羅娘子(よさみのをとめ)が作る歌二首

「今日今日と 我(あ)が待つ君は 石川の貝に交りてありといはずやも」

「直(ただ)の逢ひは逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲(しの)はむ」

丹比真人(たぢひのまひと)[名は欠けたり]柿本朝臣人麻呂が意(こころ)に擬(なずら)へて報(こた)ふる歌一首

「荒波に 寄り来る玉を 枕に置き 我れここにありと 誰か告げけむ」[2]

文語が苦手な人のために口語訳も付けておこう。

「鴨山の岩を枕に伏して死のうとしている私を そうとは知らずに妻は今こうしている間も待ち焦がれていることであろうか。」

柿本人麻呂が死んだ時、妻の依羅娘子が作る歌二首:

「今日は今日はと私がお待ちしているあなたは、石川の貝に混じって、水の中だというではありませんか。」

「直接会うことはできないでしょう。石川に雲よ立ちわたれ。せめて眺めてあの方を偲びましょう。」

丹比真人[氏名不詳]が、柿本人麻呂の気持ちになって返した歌一首:

「荒波に打ち寄せられて来る玉を枕もとに置き、私がここに伏せっていると、誰が告げてくれたことであろうか。」[3]

梅原は、第一首の詞書にある「自らを傷みて」が詞書として使われているのは、有間皇子が謀反の罪で処刑される時に詠った歌[4]だけであることから、人麻呂もまた、高位に登りつめたものの、藤原不比等という当時の実質的な最高権力者ににらまれ、謀反の疑いをかけられて処刑されたのではないかと推理する。

では、人麻呂はどのように処刑されたのだろうか。妻の依羅娘子と丹比真人の歌から、人麻呂の死体が水の中にあることを窺うことができる。そこで、梅原は、次のように、人麻呂は水死の刑に処せられたと想像する。

おそらくはうららかな初夏の一日、詩人は舟に乗せられて海に投げられたのであろう。ひょっとしたら、詩人の首には重い石が付けられていたかもしれないが、この六十を越えていたのではないかと思われる都の詩人に、荒波を泳ぎきることができるとは思えない。詩人は、悲鳴を上げて海に落ち、その姿はたちまち波間に沈んで見えなくなったのであろう。そして初夏の海は何事もなかったかのようにうららかであり、舟は詩人を一人海の中におきざりにしたままで、やがて帰ってきたのであろう。[5]

だが、果たして、当時このような死刑の方法があったのだろうか。

われわれは現在残されている「養老律」の断片から水死の刑をよみ取ることはできないが、水死の刑が当時存在していたことを、他ならぬ日本最古にして最大の古典である古事記によって知りうるのである。[6]

梅原は、こう言って、ニニギノミコトの降臨の際に、天つ神によって入水自殺を強要された出雲の国つ神オオクニヌシとその息子コトシロヌシの例を挙げる。人麻呂の息子である躬都良(みつら)は壱岐の島に流されたわけだから、親子の受難という点でもよく似ている。しかし、オオクニヌシやコトシロヌシの話は、神話に属する話であって、歴史的事実の写実的な描写と受け取るわけにはいかない。神話の常として、高度に象徴化されていることを考えなければならない。

2. 反逆者は二度死ななければならない

一般に、死刑において、刑吏は受刑者の死を確認しなければならない。たとえ生き延びる可能性が事実上ゼロだとしても、生きたまま沈めるだけでは、受刑者がどうなったかを確認できない。だから、梅原が想像したような方法は、死刑の方法としてはあまり用いられない。むしろ、人麻呂は、律令の刑体系で最も重い罪に対して行われる斬首で死刑になったのではないか。

私は人麻呂像をあちこちで調べたが、人麻呂像は時代が古いものほど奇妙なのである。画像の方はまだへんなことは目立たないが、彫像の方はいっそう奇怪である。一番奇怪なのは、人麻呂像の首が抜けてしまうことである。人麻呂像にかんして、首ははめこみになっていることである。特に新庄の柿本神社の御神体とされる人麻呂像は、たいへん不思議な彫像である。硬直しつつ眼だけはぎょろりと宙をにらんでいる像であるが、これがもっとも古い形の像であろう。この人麻呂像が首が抜けるのである。そればかりではなく、このへんに数多くある人麻呂像は、いずれも首が抜ける。[7]

首が抜けるように作られている人麻呂の像は、人麻呂の死刑の方法がまだ記憶されている頃に作られたのではないだろうか。

律令時代の刑体系では、同じ死刑でも、斬首刑は絞首刑よりも重い刑とされた。頭と体がつながっているなら、死後、黄泉の国に行った後、魂は復活できるが、首を切られると、復活できない。肉体が死ぬだけでなく、魂も死ぬ。絞首刑では一回の死が与えられるのに対して、斬首刑は二回の死が与えられる。

謀反は権力者にとってもっとも許せない罪である。謀反人は斬首刑にしなければならない。謀反人は、蘇(よみがえ)る、つまり黄泉(よみ)から帰(かえ)ることがあってはならない。蘇った謀反人に復讐されてはたまらない。濡れ衣を着せて殺した場合は怨恨が強いから特に注意が必要だ。だから、少なくとも、死後、首と胴体は別々にしなければならない。

梅原は、本書と同年に出版した『黄泉の王―私見・高松塚』では、この考えを明確に出している。梅原によれば、高松塚古墳は、持統天皇+藤原不比等という最高権力によって死に追いやられた弓削皇子の怨霊を封じ込めるために造られた墓である。高松塚古墳の埋葬者には、頭蓋骨がない。斬首刑にされたわけではないが、蘇らないように、死後、頭蓋骨を取り除かれたようである。

高松塚古墳では、男女四人ずつが東西南北の壁面に描かれている。この四×四=十六という二重の四(死)は、怨霊封印の記号である。『法隆寺伽藍緑起併流記資材帳』によると、法隆寺の高さは十六丈であり、出雲大社の公称の高さも十六丈である。実際にはそんなに高くないのに、高さは十六丈でなければならない。十六という数字には、怨霊が二度死んで、蘇らないようにという願いが込められている。

黄泉の王―私見・高松塚』の理論を本書にも適用するなら、柿本人麻呂もまた、反逆者とみなされたがゆえに、二度の死を賜って、斬首刑にされたと考えなければならない。

3. なぜ人麻呂には水のイメージがあるのか

ここで、もう一度、冒頭で引用した『萬葉集』の歌を見てみよう。人麻呂の辞世の歌「鴨山の岩根し枕ける我をかも 知らにと妹が待ちつつあるらむ」からもわかるように、人麻呂は自分が水死することを予測していない。むしろ、彼は、自分の死体が野晒しになると予測して歌を作っている。

ところが、人麻呂の死の後に詠われた妻の依羅娘子と丹比真人の歌は、人麻呂の死体が水中にあることを示唆している。ということは、人麻呂は、石川の河原で斬首となった後、川に捨てられたということだろうか。もっとも、人麻呂の死体が本当に、つまり物理的に水中に沈んだのかどうかということは重要ではない。オオクニヌシとコトシロヌシのモデルとなった実在の人物が本当に入水自殺したかどうかも重要ではない。重要なことは《水の中の死体》が持つ象徴的意味である。

あの世は縄文時代どこにあったのか」で書いたように、水はあの世とこの世のインターフェイスである。もちろん、もし地下にあの世があるなら、土もあの世とこの世の境界に位置することになる。しかし、土に葬れば死者の姿は見えなくなるが、水の中なら死者の姿を見ることができる。水中の死体は、あの世にいるにもかかわらず、この世から見える境界上の両義的存在の象徴なのだ。

もしも死霊が完全にあの世に逝ってしまうならば、その存在は少しも怖くない。心霊写真が人々を震え上がらせるのは、あの世に逝ったはずの死霊が、まだこの世から見えるほどにこの世に近い位置でさまよっているからだ。人々は、無実の罪で殺された人麻呂が怨霊となったと信じた。怨霊は、この世に未練を残して境界上をさまよう両義的存在なのである。

4. なぜ火葬が行われるようになったのか

水死は最も怨霊になりやすい死に方である。日本でも、仏教の影響を受けて、火葬を行うようになるが、

文武四年、道招の死において、日本最初の火葬が行われる。『続日本紀』は道招伝を異常に大きく記載するが、それは道招の偉大さを示すより、道招の火葬の衝撃を示すものであろうと私は思う。人間は死して黄泉の国へ行き、そこでこの世とは別な生を受ける。そういう信仰が大きく崩壊しようとする。人間は死に、一筋の煙になるのではないか。人麻呂が火葬の歌をつくっているのも、既に彼の時代が終わろうとしているのを感じ取っていたのであろうか。[8]

5. 関連著作

『水底の歌』は、第一回大佛次郎賞を受賞した柿本人麿論で、毎日出版文化賞を受賞した法隆寺論『隠された十字架―法隆寺論』とともに、梅原猛の主著と呼ばれている有名な本であり、独自の怨霊史観に基づき、歴史ミステリーを推理小説のように解明するエキサイティングな歴史書である。著作集にも収められているが、安く買いたいなら、文庫版がお薦めである。

6. 参照情報

  1. Kakinomoto no hitomaro(部分)” between 1844 and 1854. by Utagawa, Kuniyoshi, 1798-1861.
  2. 万葉集. 岩波書店 (2016/01). 巻弐, 223-226.
  3. 万葉集. 岩波書店 (2016/01). 巻弐, 223-226.
  4. 万葉集. 岩波書店 (2016/01). 巻弐, 141.
  5. 梅原猛. 『梅原猛著作集〈11〉水底の歌』. 集英社, 1982. p.270-271.
  6. 梅原猛. 『梅原猛著作集〈11〉水底の歌』. 集英社, 1982. p.267.
  7. 梅原猛. 『梅原猛著作集〈11〉水底の歌』. 集英社, 1982. p.475.
  8. 梅原猛. 『梅原猛著作集〈11〉水底の歌』. 集英社, 1982. p.256-257.