柿本人麻呂はなぜ死んだのか
柿本人麻呂は、持統朝時代を中心に活躍した宮廷歌人であった。後に歌聖として崇められ、人麻呂を神として祀った神社が創建された。梅原猛の『水底の歌』によれば、神として祀られたことは、人麻呂が非業の死を遂げたということを暗示している。この梅原説は正しいだろうか。人麻呂の歌を分析して、私なりの結論を出したい。[1]
1. 梅原猛が提唱した人麻呂刑死説は間違いか
梅原猛は、1973年に出版した『水底の歌』で、人麻呂刑死説を唱えた。柿本人麻呂の名は『万葉集』に登場するが、『日本書紀』のような正史には登場しない。他方で、柿本猨(佐留)は、歌人として正史(『続日本後紀』)に登場するが、その歌が残っていない。そこで、梅原は、猨(さる)は「人」麻呂が罪人となったがゆえに名付けられた蔑称で、人麻呂の名で『万葉集』に歌が掲載されているのは、怨霊の鎮魂のためという解釈を示した。
この梅原説に対して益田勝実は、猨(佐留)が罪人ゆえの蔑称なら、なぜ正史に官位の高い人物として記載されているのかという問題点を指摘した[3]。たしかに、『続日本紀』には「從四位下柿本朝臣佐留卒[4]」とある。喪葬令薨奏条は「親王、及び、三位以上は、薨と称すこと。五位以上、及び、皇親は、卒と称すこと。六位以下、庶人に至るまでは、死と称すこと」と定めている。罪人で官位を剥奪されているのなら、「佐留死す」となるはずだし、死後名誉回復され、四位か五位を贈位されたとするなら、「人麻呂卒す」となるはずだ。しかし、実際には正史では佐留に「卒」が使われ、『万葉集』では人麻呂に「死」が使われている。梅原は、益田が指摘したこの矛盾を解消することができなかった[5]。このため、梅原説は学界では受け入れられていない。
しかし、益田が指摘した矛盾は、《人麻呂=猨》同一説を否定するものの、人麻呂刑死説を否定する根拠にはならない。人麻呂が猨とは別人で、官位が六位以下でも、藤原氏がその歌の内容を問題視して、人麻呂を処刑したという可能性はまだ否定できていない。ウィキペディアには「政治的な粛清に人麻呂があったのなら、当然ある程度の官位(正史に残る五位以上の位階)を人麻呂が有していたと考えるのが必然であるが、正史に人麻呂の記述が無い点を指摘し、無理があると考える識者の数が圧倒的に多い[6]」という記述があるが、五位以上の高官でなければ粛清されないという必然性はない。
それは、多くのジャーナリストが殺害されているロシアの現状を見ればわかる。あるいは、サウジアラビアのジャーナリスト、ジャマル・カショギの殺害といった事例でもよい。ジャーナリストには政治的権力はないが、メディアが俗に第四の権力と呼ばれていることからもわかる通り、その影響力は、権力者にとって無視できないポテンシャルを秘めている。人麻呂は、官位が六位以下とはいっても、当代随一の歌人であり、当時歌が持っていたソフト・パワーの大きさを考えるなら、歌の内容を理由に権力者が人麻呂を粛清するということはありうる話だ。
人麻呂が宮廷歌人として生きた時代は、天武天皇の皇后(後の持統天皇)が自らの血統を皇統に残そうと執念を燃やした時代であった。藤原不比等は、藤原(中臣)氏が壬申の乱で没落する中、そこに目を付け、彼女の子である草壁皇子に仕えた。草壁皇子には多くの異母兄弟がいたが、天武天皇崩御後、大津皇子が謀反の疑いを受けて自害に追い込まれたのを皮切りに、ライバルが次々に消されていった。
草壁皇子が即位前に亡くなると、持統天皇は孫(後の文武天皇)を天皇にしようとする。それに成功すると、成功報酬としてなのか、不比等の娘を文武天皇の夫人とすることを認める。通常は、皇女との間にできた子の方が、天皇になるうえで有利なのだが、持統天皇は、権謀術数に長けた不比等と婚姻関係を結んだ方が有利と判断したのだろう。実際、不比等の娘が文武天皇の子(後の聖武天皇)を儲けると、持統天皇崩御後も、不比等はこの皇統を守ろうと画策した。不比等亡き後は、後を継いだ藤原四兄弟が、不比等が始めた粛清を続けた。
はたして人麻呂もこの大粛清時代の犠牲者の一人だったのか。その問題を考える前に、まずは人麻呂がどのような人生を送ったのかを、次の章で概観しよう。
2. 柿本人麻呂はどのような人生を送ったのか
人麻呂がいつどこで生まれたのかははっきりしないが、生まれ育った場所は、柿本氏の本貫である大和国添上郡櫟本(そえかみぐんいちのもと:現在の天理市櫟本町)と推測されている[7]。天武天皇が、芸能に優れた男女を全国から集めるよう命じたのが、675年で、歌集に残っている人麻呂の最初の歌は、680年に制作した七夕歌[8]なので、そこから推測すると、生まれた時期は、660年頃だろう。その場合、最後に結婚した時の年齢は40歳を少し超えていた程度だから、不自然とは言えない。大宝令制で課役が減ぜられるのは61歳以降だ。平均寿命が短かったこの時代であっても、40歳代は、まだ働き盛りの年齢である。
他方で、北山茂夫のように、人麻呂が近江朝に出仕したと想定し、生年を647~648年と大幅に引き下げる研究者もいる[9]。吉備津采女(きびつのうねめ)挽歌を人麻呂が歌ったことがこの説の根拠となっている。采女とは、諸国の郡司が一族の中から容姿端麗な未婚女性を選んで天皇に貢進した後宮女官で、出身地名で名を呼ばれた。したがって、この采女は吉備津(岡山県都宇郡)出身ということだ。ところが、同じ采女が、この挽歌に添えられた二つの短歌では、「志我[現在の滋賀]津の子ら[10]」や「大津の子」と呼ばれている。北山は、人麻呂の作品には「フィクションにもとづくものは皆無である[11]」ことを指摘して、創作説を否定し、近江朝出仕時の歌と主張する。
しかし、『万葉集』は、吉備津采女挽歌を、近江大津宮時代から二十年以上たった藤原京時代の作として載録し、配列している[12]。また、題詞には「吉備津釆女が死んだときに、柿本人麻呂が作った歌[13]」とあるのだから、采女の死と作歌は同じ時代と受け取らなければならない。だから、北山の説は成り立たない。つまり、この歌は、人麻呂が近江大津宮に出仕していた時に作ったものでもなければ、遠い過去を追憶して作ったものでもない。では、藤原京時代の歌なら「志我津の子ら」や「大津の子」をどう解釈すればよいのか。
長歌に「其嬬子(そのつまのこ)」が寂しい気持ちで寝ているという件がある。この時代、「つま」や「こ」は男にも女にも使われた。ここでは、「つま」に「嬬」の字が当てられているので、「その采女の恋人」という意味だが、男女を入れ替えた表現が「志我津の子ら」や「大津の子」と解釈すればよい。つまり、「大津(滋賀)出身のあの男の彼女」という意味にとればよい。
この男が誰かはっきりしないが、采女が天皇以外の男と私通することは禁止されていたので、勅勘の対象となることを憚って、ぼかした表現を使ったのだろう。それなら、釆女の呼称を直接使えばよいと思うかもしれないが、「楽浪(ささなみ)の志賀津の子らが罷り道の川瀬の道を見れば寂しも」は、水のイメージを喚起する枕詞のため、「そら数ふ大津の子が逢ひし日におほに見しかば今ぞ悔しき」は、「大津」と「おほに」の音韻的な呼応のためという詩作上の都合で、「志我津の子ら」や「大津の子」という呼称を使ったと考えることができる。
人麻呂が宮廷歌人として活躍した時期は、持統女帝が天皇あるいは上皇として君臨した時期と重なる。これは偶然ではない。この時代、男性は漢詩を好み、女性は和歌を好んだ。持統天皇は、女性として自身が和歌の愛好者であったからこそ、人麻呂を宮廷歌人として重用したと言える。だが、持統天皇が退位して以降、漢詩の愛好者であった藤原不比等が権力者として台頭するにつれ、人麻呂は都で出番を失うようになる。
人麻呂が宮廷歌人として詠んだ最後の歌は、701年9月の持統上皇と文武天皇の紀伊国行幸の際に作られている。以下、引用文中の[括弧]内は口語訳である。
後見むと君が結べる磐代(いわしろ)の小松がうれをまたも見むかも[後で見ようと皇子が結んだ岩代の小松の梢を私も見ることになるだろうか][14]。
ここに出てくる「君」とは、有間皇子のことで、以下の皇子の歌を念頭に置いている。
磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む[岩代の浜に生えている松の枝を引き結び、幸運に恵まれるなら、またこの結びを帰りに見よう][15]。
有間皇子は、孝徳天皇の子であったが、孝徳天皇崩御後、皇極天皇が斉明天皇として重祚した。658年に斉明天皇が中大兄皇子らを引き連れて紀伊国の牟婁(むろ)の湯に行幸した隙を狙って、飛鳥に残っていた有間皇子に蘇我赤兄が謀反を唆した。有間皇子が同意すると、赤兄は中大兄皇子にそれを密告し、かくして有間皇子は捕らえられた。ライバルを粛正しようと中大兄皇子が仕掛けた罠にかかったのだ。この歌は、有間皇子が裁きを受けるために斉明天皇が滞在する牟婁の湯に護送される途中、磐代(現在の和歌山県日高郡みなべ町)で詠んだ歌である。
有間皇子が松の枝を結んだのは、旅の安全を祈るためと思われているが、むしろ「結ぶ」という行為は、別れた者との再会を象徴していると解すべきではないか。1979年の在イラン米国大使館人質事件の際、人質の無事帰還を願って街路樹に黄色いリボンを結ぶ運動が行われたことに見られるように、そうした象徴行為は海外でもある。有間皇子も、家族、恋人、友人などとの再会を待ち望んで、「待つ」と同音の松の枝を結んだのだろう。しかし、そうした望みもむなしく、有間皇子は、藤白坂(現在の和歌山県海南市藤白)で処刑され、帰らぬ人となった。
人麻呂が、有間皇子の歌に思いを馳せたのは、当時の紀伊国行幸と今回の紀伊国行幸との間に類似性があるからだろう。女帝の斉明天皇に相当するのが持統上皇で、後継者となる中大兄皇子に相当するのが文武天皇で、藤原鎌足に相当するのが藤原不比等である。「またも見むかも」は、原文に「将」が使われているので、主語が有間皇子ではなくて、人麻呂であることがわかる。この歌を詠った時、人麻呂は、有間皇子の身になりながら、自分の行く末に不安を感じていたということだ。
人麻呂は、翌年11月の持統上皇の東国行幸に従駕していない。おそらく、701年から702年の間に、石見国(現在の島根県西部)に国司として赴任したのだろう。梅原は人麻呂が流罪になったと考えたが、少なくとも当初はそうではなかったはずだ。「柿本朝臣人麻呂の石見国より妻と別れて上り来たりし時の歌[16]」、所謂石見相聞歌は、人麻呂が、依羅娘子(よさみのをとめ)と結婚した後、石見国から上京したことを伝えている。流罪なら、そういうことはないはずだ。人麻呂が、上京の途中で亡くなったと言う研究者もいるが、人麻呂の死亡想定場所が上京経路上にないことから、再び帰国してから亡くなったと考えるべきだ。
では、人麻呂は、いつどこで亡くなったのか。まず、場所から考えよう。島根県益田市高津町にある高津柿本神社が伝えるところによれば、益田川河口沖合にあった鴨島で人麻呂は人生を終えた。それから間もなくして、神亀年間(724〜729年)、聖武天皇の勅命を受けて石見国司が鴨島に人麻呂を祀る小社を創建した。しかし、万寿3年(1026年)の大地震で島は海底に沈み、御神体も津波で流され、現在の高津松崎に漂着した。そこで、地元の人々は、高津松崎に人丸社を建てた。1681年に津和野藩主亀井茲親(これちか)は、人丸社が再び津波で流されることがないように、それを高角山(たかつのやま)[17]に移築した。これが今日の高津柿本神社である。
1993年から翌年にかけて松井考典を団長とする鴨島海底学術調査団がおこなった調査により、万寿地震と津波の証拠が確認された[19]。これにより、高津柿本神社の伝承には一定の信憑性があると言える。終焉伝承地は、他にも複数あるが、鴨島を最有力候補としたい。以下の空中写真に見られる益田川の河口から約1km沖の浅瀬、大瀬が鴨島の痕跡ではないかと言われている。なお、島と言っても、実際には、本土とは砂州でつながった陸繋島と想定されている。
島根県での益田市の位置を以下の地図で確認しよう。人麻呂が勤務していたであろう石見国の国府は、現在の浜田氏より少し北東の那賀郡にあった。
石見相聞歌に登場する角の浦は、江津市より南西にあり、現在の都野津町や二宮町の海岸である。角の里とも呼ばれ、妻の依羅娘子はそこに住んでいた。人麻呂が上京した時は、ここから山陰道を北に上ったことだろう。鴨島はそれとは逆の方向にある。
次に、人麻呂が亡くなった時期を考えよう。斉藤茂吉など病死説を唱える人は、707年と考えている。『続日本紀』には、707年6月7日の記事として、
天下疫飢す。詔して賑恤を加ふ。但丹波、出雲、石見三國尤甚し。幣帛を諸社に奉じ、又た京畿及諸國寺に讀經せしむ。[21]
という件がある。全国の中でもとりわけ、丹波、出雲、石見で疫病と飢餓が蔓延したというのなら、石見国にいた人麻呂もこの時、疫病に感染して、死亡してもおかしくないというわけだ。もとより、この時代、疫病は全国的に頻繁に起きているので、707年はそれほど特異な年ではない。他方で、粛清説の立場では、708年に藤原不比等が右大臣に昇進し、事実上の最高権力者になってからという見方が主流である。
いずれにせよ、人麻呂は、715年までには亡くなった。人麻呂の臨死自傷歌が収録された『万葉集』の原撰部は、元明天皇在位中(707年~715年)に作成されているので、715年以降ということはない。人麻呂の死後、鴨島をはじめ、人麻呂にゆかりのある地域に神社が建てられ、人麻呂は神として崇められる。古代の日本において、死後神として祀られるのは、たいてい権力闘争に敗れ、非業の死を遂げた貴人たちだ。そうした人たちが怨霊となって祟らないようにするためのもう一つの方法は、贈位による名誉回復である。生前六位以下だった人麻呂は、905年に奏上された『古今和歌集』の仮名序で正三位となっている。一千年忌にあたるとされた1723年には、朝廷から正一位が贈位された。
代表的な怨霊である菅原道真も、死後神として祀られ、正一位が贈位された。それなら、人麻呂も道真と同様の非業の死を遂げたことが疑われる。はたして、人麻呂の死は病死だったのか、刑死だったのか。死の直前の歌を分析することで、どちらの可能性が高いかを判断しよう。
3. 人麻呂の臨死自傷歌群をどう解釈すべきか
『万葉集』には、以下のような臨死自傷歌群と呼ばれる人麻呂最後の歌とそれに関連する歌が掲載されている。
柿本朝臣人麻呂の石見(いはみの)国に在りて臨死(みまか)らむとせし時に、自(みづか)らを傷(いた)みて作れる歌一首[柿本人麻呂が、石見の国で、これから死のうとする時に、自分の境遇を嘆いて作った歌一首]:
[223]鴨山の 岩根し枕(ま)ける 我をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ[鴨山の岩を枕に伏して死のうとしている私を、そうとは知らずに妻は今こうしている間も待ち焦がれていることであろうか]。
柿本朝臣人麻呂の死(みまか)りし時、妻依羅娘子が作る歌二首[柿本人麻呂が死んだ時、妻の依羅娘子が作る歌二首]:
[224]今日今日と 我(あ)が待つ君は 石川の貝に[一云 谷に]交りてありといはずやも[今日は今日はと私がお待ちしているあなたは、石川の貝に混じって、水の中だというではありませんか]。
[225]直(ただ)の逢ひは逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲(しの)はむ[直接会うことはできないでしょう。石川に雲よ立ちわたれ。せめてそれを眺めてあの方を偲びましょう]。
丹比真人(たぢひのまひと)<名は欠けたり>柿本朝臣人麻呂が意(こころ)に擬(なずら)へて報(こた)ふる歌一首[丹比真人<氏名不詳>が、柿本人麻呂の気持ちになって返した歌一首]:
[226]荒波に 寄り来る玉を 枕に置き 我れここにありと 誰か告げけむ[荒波に打ち寄せられて来る玉を枕もとに置き、私がここに伏せっていると、誰が告げてくれたことであろうか]。
或る本の歌に日く[ある本に載っている歌]:
[227]天離る夷の荒野に君を置きて思ひつつあれば生けるともなし[遠い片田舎の荒野にあの方を置いたままで思い続けていると、生きた心地もしない]。
右の一首の歌、作者いまだ詳らかならず。但し、古本、この歌をもちてこの次に載す[この歌は詠み人知らずだが、古い本にはこの歌が添えられている]。[22]
223番歌の詞書で注目するべきは、「自傷」である。『万葉集』において詞書に「自傷」が使われているのは、この歌と既に引用した有間皇子の「磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む」だけである。元明天皇が今上天皇であった時代に成った巻二挽歌の原撰部は、有間皇子自傷歌群で始まり、人麻呂自傷歌群で終っている[23]。人麻呂と有間皇子の境遇に類似性があることをほのめかそうとする原撰者の編集意図を感じさせるところだ。
小伏志穂は、漢文での使用例から、「自傷」は、必ずしも死と結びつくものではないが、「当人には原因がないにもかかわらず、何らかの外圧によって望ましくない状況に陥る運命となったことに対して嘆き悲しむ[24]」という意味を持つと言う。それなら、蘇我赤兄が仕掛けた罠にかかって、捕らえられた有間皇子の境遇にふさわしい表現だ。そして、『万葉集』は、有間皇子に我が身を重ねた歌を詠った人麻呂もまた似たような終焉を迎えたことを示唆している。
通説では、人麻呂は、旅先で病死したということになっている。しかし、人麻呂が、狭岑嶋(さみねのしま)の石中死人[25]のように、旅先で一人で客死したということはない。もしそうなら、223番歌が後世に残ることはないのだから、周囲には必ず人がいたはずだ。もしも人麻呂が国司なら、その地域では高い身分なので、旅行であれ、視察であれ、何であれ、従者を引き連れて外出したことだろう。224番歌は、223番歌を踏まえた内容になっているから、きっと、人麻呂の死を看取った従者が、223番歌を書き留め、依羅娘子に夫の死を知らせた際に、歌も伝えたのだろう。
しかし、そう想定した場合、疑問が沸く。なぜその従者たちは、医者もおらず、薬もないであろう「天離る夷の荒野」に人麻呂を死ぬまで放置したのか。その気になれば、従者たちは、医者がいて、薬もあるであろう国府に、あるいは、妻が住む角の浦にまで、発病した人麻呂を舟で鴨島から運ぶこともできたはず(上掲の地図を参照)なのに、なぜそれをしなかったのか。歌を読めばわかるとおり、人麻呂と妻は相思相愛で、再開を望んでいたのに、妻は、臨終に居合わせることができなかったばかりか、葬儀に参加することも、遺体あるいは遺灰に対面することすらできなかったのである。「直の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ 見つつ偲はむ」を読めばわかるとおり、彼女は直接会うことができず、火葬で立ち上った煙が一体となったであろう雲を夫の霊魂を偲ばせるものとして遠くから眺めることしか許されなかったのだ。それはなぜなのか。
鴨島に流刑となり、そこで刑死したとするなら、こうした疑問を説くことができるが、通説ではそれが難しい。そこで虚構説や仮託説が唱えられる。しかし、既に確認したように、人麻呂は、フィクションで作歌しない。また、人麻呂以外の人が、人麻呂の身になって作歌する場合は、226番歌でそうしているように、詞書で仮託であることが明記されるはずだ。私は、『日本書紀』には政治的な意図による捏造があったと考えているが、『万葉集』に関しては、そう疑う理由はないと考えている。『万葉集』は、藤原氏が実権を握っていた時代に、大伴家持や橘諸兄といった非主流派の貴族が編集した歌集と考えられていて、権力闘争に敗れた者たちの鎮魂という役割があるとさえ言われている。だから、臨死自傷歌群も、その趣旨での解釈をしたい。
人麻呂が刑死したとするなら、その刑はどのようなものだったのだろうか。梅原は、依羅娘子と丹比真人の歌の内容から、人麻呂の死体が水の中にあったと想定し、人麻呂は水死の刑に処せられたと想像する。
おそらくはうららかな初夏の一日、詩人は舟に乗せられて海に投げられたのであろう。ひょっとしたら、詩人の首には重い石が付けられていたかもしれないが、この六十を越えていたのではないかと思われる都の詩人に、荒波を泳ぎきることができるとは思えない。詩人は、悲鳴を上げて海に落ち、その姿はたちまち波間に沈んで見えなくなったのであろう。そして初夏の海は何事もなかったかのようにうららかであり、舟は詩人を一人海の中におきざりにしたままで、やがて帰ってきたのであろう。[26]
だが、果たして、当時このような死刑の方法があったのだろうか。養老律は「苔・杖・徒・流・死」の五刑を定め、死刑には絞と斬があったが、水死刑などというものはない。梅原は、「われわれは現在残されている「養老律」の断片から水死の刑をよみ取ることはできないが、水死の刑が当時存在していたことを、他ならぬ日本最古にして最大の古典である古事記によって知りうるのである[27]」と言って、ニニギノミコトの降臨の際に、天つ神によって入水自殺を強要された出雲の国つ神オオクニヌシとその息子コトシロヌシの例を挙げる。人麻呂の息子である躬都良(みつら)は壱岐の島に流されたことになっているのだから、親子の受難という点でもよく似ている。しかし、オオクニヌシやコトシロヌシの話は、神話に属する話であって、歴史的事実の写実的な描写と受け取るわけにはいかない。神話の常として、高度に象徴化されていることを考えなければならない。
一般に、死刑において、刑吏は受刑者の死を確認しなければならない。たとえ生き延びる可能性が事実上ゼロだとしても、生きたまま沈めるだけでは、受刑者がどうなったかを確認できない。だから、梅原が想像したような方法は、死刑の方法としてはあまり用いられない。むしろ、人麻呂は、律令の刑体系で最も重い罪に対して行われる斬首で死刑になったのではないか。
私は人麻呂像をあちこちで調べたが、人麻呂像は時代が古いものほど奇妙なのである。画像の方はまだへんなことは目立たないが、彫像の方はいっそう奇怪である。一番奇怪なのは、人麻呂像の首が抜けてしまうことである。人麻呂像にかんして、首ははめこみになっていることである。特に新庄の柿本神社の御神体とされる人麻呂像は、たいへん不思議な彫像である。硬直しつつ眼だけはぎょろりと宙をにらんでいる像であるが、これがもっとも古い形の像であろう。この人麻呂像が首が抜けるのである。そればかりではなく、このへんに数多くある人麻呂像は、いずれも首が抜ける。[28]
首が抜けるように作られている人麻呂の像は、人麻呂が斬首になったことを今に伝えているのではないだろうか。
律令時代の刑体系では、同じ死刑でも、斬首刑は絞首刑よりも重い刑とされた。頭と体がつながっているなら、死後、黄泉の国に行った後、魂は復活できるが、首を切られると、復活できない。肉体が死ぬだけでなく、魂も死ぬ。絞首刑では一回の死が与えられるのに対して、斬首刑は二回の死が与えられる。
謀反は権力者にとってもっとも許せない罪である。謀反人は斬首刑にしなければならない。謀反人は、蘇(よみがえ)る、つまり黄泉(よみ)から帰(かえ)ることがあってはならない。蘇った謀反人に復讐されてはたまらない。濡れ衣を着せて殺した場合は怨恨が強いから特に注意が必要だ。だから、少なくとも、死後、首と胴体は別々にしなければならない。
梅原は、本書と同年に出版した『黄泉の王―私見・高松塚』では、この考えを明確に出している。梅原によれば、高松塚古墳は、持統天皇と不比等という最高権力によって死に追いやられた弓削皇子の怨霊を封じ込めるために造られた墓である。高松塚古墳の埋葬者には、頭蓋骨がない。斬首刑にされたわけではないが、蘇らないように、死後、頭蓋骨を取り除かれたようである。
高松塚古墳では、男女四人ずつが東西南北の壁面に描かれている。この四×四=十六という二重の四(死)は、怨霊封印の記号である。実際、この時代、十六と書いて「しし」と呼んだ。『法隆寺伽藍緑起併流記資材帳』によると、法隆寺の高さは十六丈であり、出雲大社の公称の高さも十六丈である。実際にはそんなに高くないのに、高さは十六丈でなければならない。十六という数字には、怨霊が二度死んで、蘇らないようにという願いが込められている。『黄泉の王―私見・高松塚』の理論を本書にも適用するなら、柿本人麻呂もまた、反逆者とみなされたがゆえに、二度の死を賜って、斬首刑にされたと考えることができる。
斬首刑なら、陸上で死んだことになるので、223番歌と227番歌はよいとしても、依羅娘子が詠んだ224番歌と225番歌では石川、226番歌では海の中に人麻呂の遺体があるように読める。しかし、これも、鴨島で刑死した後、遺体は火葬場がある場所まで運ばれ、火葬後、遺灰が川に散骨されたと解釈すれば、人麻呂の臨死自傷歌群のすべてを矛盾なく読み解ける。罪人には葬礼は行われないし、妻といえども遺体と対面できない。
依羅娘子の歌に登場する石川は、この時代「小石が多く底の浅い川[29]」という意味の普通名詞である。固有名詞ではない。実際には、底の浅い川ということだから、高津川よりも小規模な河川である益田川(鴨島が河口にある方の川)と推定される。「石川の貝に交りてありといはずやも」とあるので、依羅娘子は、夫の死を告げた使者から川への散骨も聞かされたのだろう。700年に道昭が火葬されて以降、日本でも火葬習俗が普及した。古代では、通常、山に散骨するものだが、川に流したのは、罪の穢れを「水に流す」禊のためだったのかもしれない。
「石川の貝に交りて」に「石川の谷に交りて」という異伝歌詞があることから、「貝」を「峡」の借訓字とする解釈もある。しかし、「谷(峡)の川」なら「谷間を流れる川」という意味で理解できるが、「川の谷(峡)」は意味をなさない。また「谷(峡)に交りて」も不自然な表現だ。「貝に交りて」も不自然と言う人もいる[30]が、遺灰が複数の貝の間に紛れ込むと解すれば、不自然ではない。225版歌の「石川に雲立ち渡れ」が不自然だという人もいる。たしかに、雲が立つのは、通常、山であって、川ではない。しかし、散骨を山ではなくて、川でした以上、死後の霊魂を象徴する雲も、川から立ち渡るとしなければならない。
川に流された遺灰は、やがて海に出る。これで、人麻呂が海の中にいることをイメージした226番歌の説明ができる。さらに、後世、人麻呂が水難の神として崇められるようになった経過も説明できる。しかし、私は、そうした物理的説明以外に、《水の中の死者》が持つ象徴的意味を重視したい。「あの世は縄文時代どこにあったのか」で書いたように、水はあの世とこの世のインターフェイスである。もちろん、もし地下にあの世があるなら、土もあの世とこの世の境界に位置することになる。しかし、土に葬れば死者の姿は見えなくなるが、水の中なら死者の姿を見ることができる。水中の死体は、あの世にいるにもかかわらず、この世から見える境界上の両義的存在の象徴なのだ。
もしも死霊が完全にあの世に逝ってしまうならば、その存在は少しも怖くない。心霊写真が人々を震え上がらせるのは、あの世に逝ったはずの死霊が、まだこの世から見えるほどにこの世に近い位置でさまよっているからだ。人々は、無実の罪で殺された人麻呂が怨霊となったと信じた。怨霊は、この世に未練を残して境界上をさまよう両義的存在なのである。それゆえ、水死は最も怨霊になりやすい死に方と言える。吉備津采女挽歌も、おそらく禁断の恋ゆえに入水自殺した吉備津采女が怨霊化しないようにするための鎮魂歌だったのであろう。
4. 不比等は人麻呂の歌の何を問題視したのか
以上、人麻呂が不比等によって粛清された可能性は十分に高いということを述べた。では、その場合、不比等が人麻呂を粛正した理由は何であろうか。江戸時代に刊行された『人丸秘密抄』には、人麻呂は文武妃の宮子すなわち不比等の娘を犯したことが原因で流罪になったという記述がある。人麻呂が様々な女性と関係を持ったプレイボーイだったのは事実だが、これは江戸時代になって出てきた話だから、信憑性は薄い。既に述べたように、人麻呂が六位以下であるにもかかわらず、不比等から目を付けられるとするなら、その理由は彼の歌の内容に求めなければならない。
人麻呂は、「やすみしし 我が大君 神ながら 神さびせす[我が天皇は、神そのものとして、神らしく振舞っておられる][31]」というように、天皇を現人神と称賛する歌を詠んだ。この吉野行幸の歌に登場する「大君」は持統天皇である。今上天皇に対して「大君」や「神ながら」といった表現を使うことは問題ない。また、日並(草壁)皇子殯宮挽歌で、人麻呂が草壁皇子に対して「我が大君皇子の命」という呼称を使ったことも問題はない。草壁皇子は、天武天皇と持統天皇の子で、皇太子だからだ。
しかし、草壁皇子は、天皇に即位する前に28歳で早世した。そこで、次に誰を皇太子にするかが問題となった。天武天皇存命中に吉野の盟約が結ばれて以降、天武天皇の息子の間で優先順位は、
- 草壁皇子
- 大津皇子
- 高市皇子
- 忍壁皇子
であった。しかし、天武天皇崩御後、持統天皇は、大津皇子に謀反の疑いをかけ、自害に追い込んだ。大津皇子が本当に謀反を企てたかどうかは疑わしい。おそらく、持統天皇が、我が子を確実に即位させるために、不比等とともに仕組んだ謀略だろう。高市皇子は、天武天皇の長男で、壬申の乱で武功をたてるなど有能であったが、母の身分が卑しかった。そこで、持統天皇は、高市皇子を大津皇子ほど危険視せず、即位後、太政大臣に任命した。太政大臣は、臣下としては最高の地位であるが、臣下であることには変わりない。だから、この人事は、高市皇子の実力と人望は活用するが、次期天皇としては認めないという持統天皇の意思表示でもあった。
高市皇子は、太政大臣として藤原京への遷都という困難な事業を成し遂げた。そのため彼の名声は高まるばかりであった。おそらく、当時の人の感覚では、天武天皇の皇后にすぎない持統天皇よりも、実務を執り行う高市皇子の方こそ天武天皇の後継者と受け止められていたことだろう。それを示す考古学的な出土がある。1980年代に長屋王邸発掘調査が行われ、「長屋親王」と書かれた木簡が出土した。長屋王は高市皇子の子で、「親王」は天皇の子に対して使われる称号であることから、当時、高市皇子は天皇並みの扱いを受けていたことがわかる。
それは、『万葉集』の高市皇子挽歌[32]にも表れている。詞書で皇太子でもないのに「高市皇子尊」という草壁皇子並みの表現が用いられている。さらに、人麻呂は「神葬り葬りいまして」や「神ながら鎮まりましぬ」など、高市皇子を現人神として扱う表現を用いている。吉田義孝は、「愛児草壁亡きあと皇位を襲った天皇持統の、皇孫軽擁立への一貫した強い志向にもかかわらず、天皇みずからが仕命した太政大臣高市の卓越した政治手腕と篤実な人柄から、久しきにわたる執政の過程で、高市を次期皇位継承者として肯う雰囲気がおのずから醸成され、現実にそうした処遇がとられつっあったところから、そのような宮廷的現実を踏まえて、人麻呂がかかる歌詠をなした[33]」という見解を示している。要するに、世間の不満のガス抜きのために、持統天皇が人麻呂に高市皇子を天皇扱いする挽歌を作らせたというのである。
結局のところ、持統天皇は、自分の孫、軽皇子を文武天皇として即位させることに成功するが、それが容易でなかったことは、高市皇子の没後に次の皇太子を決めるべく開かれた群臣会議が紛糾したことからもわかる。『懐風藻』には「群臣おのおの私好を挾みて、衆議紛紜たり」とある。その時、大友皇子の子、葛野王(かどののおう)は、兄弟相承では内乱になるとして、子孫相承を主張し、それに異論を挟もうとした弓削皇子を喝破した。持統天皇が葛野王の発言を支持したことで、軽皇子の立太子が決まった[34]。とはいえ、後継候補から外された天武天皇の皇子たちが不満を抱いたことは想像に難くない。
弓削皇子が葛野王にどのような異議申し立てを行ったかを『懐風藻』は伝えていないが、同母兄(いろせ)の長皇子を推す内容だったと考えられている。長皇子は、天智天皇の娘と天武天皇との間に生まれた皇子で、血統が良かった。人麻呂は、長皇子が狩りに出かけた時、以下のような歌を詠んでいる。
やすみしし 吾が大王 高光る 吾が日の皇子の 馬並めて 御狩り立たせる 若薦を 狩路の小野に 獣こそば い匍ひ拝め 鶉こそ い匍ひ廻れ 獣じもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひ廻り 畏みと 仕へまつりて ひさかたの 天見るごとく まそ鏡 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき 吾が大王かも[天下を隅々まで治めておられる私たちの大王、天高く光る私たちの日の皇子、馬を勢揃いして狩りにお出かけになる。若い薦を刈る猟路の野には、猪や鹿たちは皇子に狩られて腹ばって拝みなさい。鶉たちは捕らえられ腹ばって廻りなさい。猪や鹿のように待ち伏せの地に伏して拝み、鶉のように狩りの大地をはい廻って、恐れ多いこととしてお仕え申し上げ、彼方の空を望むように、清らかな鏡を仰ぐように見ても、春草の萌え出るようにお慕わしい吾が大王でいらっしゃいます。][35]
見ての通り、長皇子を皇太子なみどころか天皇なみに称賛している。これに対する「或る本の反歌」は、もっと踏み込んでいる。
皇は神にしませば 真木し立つ荒山中に 海し成すかも[天皇は神でいらっしゃるから、真木の生茂る荒山の中に、海をお作りになった。][36]
この反歌が作られたのは、文武天皇即位後と考えられるが、ここに登場する天皇は、文武天皇のことではない。山に狩りに来た長皇子のことだ。長皇子が、神のごとく、山の中に雲海をお創りになったと言っている歌である。まさに現人神として称賛しているのだ。人麻呂は、長皇子が次期天皇にふさわしいという考えを表明していると言える。弓削皇子も同じ考えだが、この反歌の次に登場する弓削皇子の歌は死を覚悟した悲壮な内容になっている。
瀧上し三船の山に居る雲の常にあらむとわが思はなくに[吉野川の滝の上の、三船山に懸かる雲のように、何時までもこの世にあろうとは、私は思わない。][37]
詞書には「弓削皇子の吉野に遊(いでま)しし時の御歌一首」とある。「吉野」は、31回も吉野に行幸した吉野好きの持統天皇を指すメタファーでもある。つまり、これは、我が身を持統天皇という危険な滝の上のはかない雲に喩え、命が長くないことを予感した歌ということだ。実際、群臣会議で異論を唱えてから三年ほどで、弓削皇子は若い命を散らせた。持統天皇と不比等によって謀殺された可能性が高い。
人麻呂が長皇子を天皇として扱う歌を詠んでも、持統天皇は不満分子のガス抜きになると考え容認したようだ。人麻呂が持統天皇と意思疎通できていたからこそ、持統天皇存命中は、人麻呂は粛清されずに済んだ。しかし、人麻呂は不比等とは意思疎通ができていなかった。不比等の目には、人麻呂がライバルとなる皇子の皇位継承の正当性を主張する反権力の歌人と映ったようだ。このため、不比等が権力者になるにつれ、人麻呂は朝廷から遠ざけられた。まずは、石見国の国司として地方に追いやられ、ついで鴨山に流罪となり、最後にはそこで処刑されたということだろう。
人麻呂に関する信用できる資料は数が少ないので、彼の死の真相に関しては何も断定できることはない。しかし、今日私たちに残されている情報を手掛かりにして判断するなら、人麻呂は、不比等の画策で殺された可能性が高いというのが、本ページでの結論である。
5. 参照情報
- 梅原猛『水底の歌―柿本人麻呂論 (上)』新潮社; 改版 (1983/3/1).
- 梅原猛『水底の歌―柿本人麻呂論 (下)』新潮社; 改版 (1983/3/1).
- 佐竹 昭広, 山田 英雄, 工藤 力男, 大谷 雅夫, 山崎 福之『万葉集セット(全5冊)』岩波書店 (2016/1/24).
『水底の歌』は、第一回大佛次郎賞を受賞した柿本人麻呂論で、毎日出版文化賞を受賞した法隆寺論『隠された十字架―法隆寺論』とともに、梅原猛の主著と呼ばれている有名な本であり、独自の怨霊史観に基づき、歴史ミステリーを推理小説のように解明するエキサイティングな歴史書である。著作集にも収められているが、安く買いたいなら、文庫版がお薦めである。
- 645年6月12日、中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。
- 645年6月13日、入鹿の父・蘇我蝦夷が自害。
- 645年6月14日、皇極天皇、同母弟の孝徳天皇に譲位。
- 646年1月1日、孝徳天皇は、都を難波宮に移したが、中大兄皇子の反対により、皇族と群臣の大半が飛鳥に戻った。
- 654年11月24日、孝徳天皇崩御。
- 655年1月3日、皇極天皇が斉明天皇として飛鳥板葺宮で重祚。
- 658年12月11日、孝徳天皇の皇子、有間皇子が謀反の疑いをかけられ、処刑される。
- 661年8月24日、斉明天皇崩御。以後、中大兄皇子が皇太子のまま称制。
- 663年10月4~5日、白村江の戦いで、日本が大敗。
- 667年4月17日、近江大津宮へ遷都。
- 668年2月20日、中大兄皇子が天智天皇として即位。
- 669年11月14日、藤原(中臣)鎌足、死去。
- 672年1月7日、天智天皇崩御。
- 672年1月9日、大友皇子が弘文天皇として即位。
- 672年7月24日、大海人皇子が壬申の乱を起こす。
- 672年8月21日、弘文天皇が自害。
- 673年3月20日、大海人皇子が天武天皇として即位。
- 675年3月13日、天武天皇が、芸能に優れた男女を全国から集めるよう命じる。
- 675年5月25日、天武天皇が、才芸者に禄を与えた。
- 679年5月5日、天武天皇と皇后が、二人の子である草壁皇子を後継に立て、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子と吉野の盟約を結ぶ。
- 680年8月10日、人麻呂の最初の歌(万葉集巻10-2033)。人麻呂歌集七夕歌の中の一首。
- 683年、草壁皇子が持統天皇の異母妹との間に軽皇子を生む。
- 686年2月19日、天武天皇が、俳優と歌人に褒賞を与えた。
- 686年10月1日、天武天皇崩御。皇后が実権を握る。
- 686年10月25日、天武天皇皇子の大津皇子が謀反の疑いを受けて、自害に追い込まれた。
- 689年2月26日、草壁皇子に仕えていた藤原不比等が判事となる。
- 689年5月7日、草壁皇子が死去。人麻呂による草壁皇子殯宮挽歌(万葉集巻2-167~170)。
- 690年2月14日、鸕野讃良皇后が、持統天皇として即位。吉野讃歌(万葉集巻1-36~37)など、この頃から、柿本人麻呂が宮廷歌人として活躍するようになる。
- 690年7月5日、天武天皇の長男だった高市皇子、太政大臣となる。
- 691年10月6日、天智天皇皇子の川島皇子死去。
- 694年、藤原京への遷都。人麻呂による藤原宮役民歌(万葉集巻1-50)や藤原宮御井歌(巻1-52~53)など。
- 696年7月10日、高市皇子死去。人麻呂による高市皇子殯宮挽歌(万葉集巻2-199~201)。次の皇太子を決める群臣会議で、弓削皇子が、軽皇子ではなく、同母兄の長皇子を推したが、葛野王(弘文天皇の子)に退けられた。
- 697年8月20日、藤原不比等、娘の宮子を入内させる。
- 697年8月22日、持統天皇、孫の軽皇子に譲位。文武天皇即位。藤原宮子、即位直後の天皇の夫人となる。
- 699年8月21日、天武天皇皇子の弓削皇子死去。
- 700年4月27日、明日香皇女死去。人麻呂による明日香皇女殯宮挽歌(万葉集巻2-196~198)。
- 701年3月21日、藤原不比等、正三位大納言に昇進。
- 701年12月27日、文武天皇と藤原宮子の子(不比等の外孫)である首皇子(聖武天皇)誕生。
- 701年9月の持統上皇・文武天皇の紀伊国行幸の際、有間皇子の結び松を見ての作歌に人麻呂歌集中歌がある(万葉集巻2-146)。この頃までは人麻呂は都にいた。
- 702年11月8日、持統上皇の東国行幸に人麻呂が従駕せず。
- 703年1月13日、持統天皇崩御。
- 705年6月2日、天武天皇皇子の忍壁皇子死去。
- 707年4月15日、通説:柿本人麻呂、疫病により死去?
- 707年6月7日、『續日本紀』に「天下疫飢す。詔して賑恤を加ふ。但丹波、出雲、石見三國尤甚し。幣帛を諸社に奉じ、又た京畿及諸國寺に讀經せしむ」とある。
- 707年7月18日、文武天皇、崩御。
- 707年8月18日、天智天皇の皇女かつ草壁皇子の正妃が、元明天皇として即位。
- 708年1月11日、藤原不比等、正二位に昇進。
- 708年3月13日、藤原不比等、右大臣に昇進。
- 708年5月18日、『続日本紀』に和銅元年四月壬午に「從四位下柿本朝臣佐留卒」とある。
- 709年4月15日、粛清説:柿本人麻呂、刑死?
- 712年3月9日、古事記成立。
- 715年7月9日、天武天皇皇子の長皇子(那我親王)死去。
- 715年8月30日、天武天皇皇子の穂積親王死去。
- 715年10月3日、元明天皇が年齢を理由に草壁皇子との娘に譲位。元正天皇即位。
- 716年9月1日、天智天皇皇子の志貴皇子死去。
- 720年7月5日、日本書紀成立。
- 720年9月9日、藤原不比等死去。
- 721年12月29日、元明太上天皇、崩御。
- 724年3月3日、元正天皇が首皇子に譲位。聖武天皇即位。
- 729年3月16日、長屋王の変。藤原四兄弟が長屋王家を抹殺。
- 735年~737年、天平の疫病大流行。藤原四兄弟が相次いで病死。
- 741年3月9日、聖武天皇が国分寺建立の詔を出す。
- 749年8月19日、聖武天皇崩御。
- ↑本稿は、2005年3月7日に公開した書評「水底の歌」に大幅な加筆を行い、「柿本人麻呂はなぜ死んだのか」と解題して、2021年4月14日に公開したものである。最初の書評に関しては、リンク先を参照されたい。
- ↑“Kakinomoto no hitomaro(部分)” between 1844 and 1854. by Utagawa, Kuniyoshi, 1798-1861.
- ↑益田勝実. “文学のひろば" 『文学』43巻. 岩波書店. 1975年4月. p. 46.
- ↑『續日本紀』卷第四和銅元年四月壬午. グレゴリオ暦に換算すると、708年5月18日に相当する。人麻呂もこの前後に亡くなったと考えられている。
- ↑梅原猛. “「水底の歌」のアポロギア ― 益田勝実氏に“『文学』43巻. 岩波書店. 1975年10月. p. 1154-1174.
- ↑Wikipedia. “猿丸大夫.” 2020-12-21T09:45:04.
- ↑阿蘇瑞枝『柿本人麻呂論考』おうふう; 増補改訂版 (1998/10/1). p. 189.
- ↑「天漢 安川原 定而 神競者 磨待無」『万葉集』第10巻2033番歌.
- ↑北山茂夫『柿本人麻呂』岩波新書評伝選. 岩波書店 (1994/11/21). p. 19.
- ↑この「ら」は、愛称であって、複数を意味する「ら」ではない。中西進『柿本人麻呂』講談社 (1991/12/1). p. 105.
- ↑北山茂夫『柿本人麻呂』岩波新書評伝選. 岩波書店 (1994/11/21). p. 25.
- ↑橋本達雄 (編集)『柿本人麻呂《全》』笠間書院 (2000/6/1). p. 139.
- ↑「吉備津釆女死時柿本朝臣人麻呂作歌」『万葉集』第2巻217番歌.
- ↑「後将見跡 君之結有 磐代乃 子松之宇礼乎 又将見香聞」『万葉集』第2巻146番歌.
- ↑「後将見跡 君之結有 磐代乃 子松之宇礼乎 又将見香聞」『万葉集』第2巻141番歌.
- ↑「柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時歌」『万葉集』第2巻139番歌.
- ↑高角山は、益田市だけでなく、江津市にもある。石見相聞歌に登場する高角山は、依羅娘子の居住地の近くだから、江津市島の星町にある高角山だろう。
- ↑Srats. “高津柿本神社拝殿." 17 June 2011. Licensed under CC-0.
- ↑中田高, 後藤秀昭, 箕浦幸治, 松田時彦, 日野貴之, 加藤健二, 松井考典. “益田市における万寿3年大津波の地形学的研究: 1993年度地理科学学会春季学術大会発表要旨.”『地理科学』48, no. 3 (1993): 227.
- ↑Lincun. “Map of Shimane Prefecture, Japan." 30 April 2008. Licensed under CC-BY-SA. Modified by me.
- ↑“天下疫飢。詔加振恤。但丹波。出雲。石見三國尤甚。奉幣帛於諸社。又令京畿及諸國寺讀經焉。" 『續日本紀』卷第三慶雲四年四月丙申. グレゴリオ暦に換算すると、707年6月7日に相当する。
- ↑「柿本朝臣人麿在石見國時臨死時、自傷作歌一首。鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有。柿本朝臣人麿死時、妻依羅娘子作謌二首。且[旦 ]今日々々々 吾待君者 石水之 貝尓 [一云 谷尓] 交而 有登不言八方。直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍将偲。丹比真人(名闕)擬柿本朝臣人麿之意報歌一首。荒浪尓 縁来玉乎 枕尓置 吾此間有跡 誰将告。或本歌曰。天離 夷之荒野尓 君乎置而 念乍有者 生刀毛無。右一首歌作者未詳。但、古本、以此歌載於此次也。」『万葉集』第2巻 223-227番歌.
- ↑伊藤博『万葉集の構造と成立 上』塙書房 (1974/1/1). p. 95.
- ↑志穂小伏. “有間皇子自傷歌群試論 ―「自傷」の伝えるもの.”『国文学』 December 1995, p. 57.
- ↑『万葉集』第2巻 220番歌.
- ↑梅原 猛. 『梅原猛著作集〈11〉水底の歌』. 集英社, 1982. p.270-271.
- ↑梅原 猛. 『梅原猛著作集〈11〉水底の歌』. 集英社, 1982. p.267.
- ↑梅原 猛. 『梅原猛著作集〈11〉水底の歌』. 集英社, 1982. p.475.
- ↑小学館国語辞典編集部『精選版 日本国語大辞典』小学館; 精選版 (2006/2/23).「石川」の項.
- ↑桂孝二. “狭岑島流人島説批判–梅原猛「水底の歌」を読む."『香川大学一般教育研究』(通号 6) 1974.10. p. 32~49. 桂孝二が挙げている「水くくる玉に交れる磯貝の独恋のみに年は経につつ」の「玉」も、水中にたくさんあると想定するからこそ、「玉に交れる磯貝」の意味が通るのだから、それと同じことだ。
- ↑「安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須」『万葉集』第1巻 38番歌.
- ↑「高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首[…]百濟之原従 神葬 々伊座而 朝毛吉 木上宮乎 常宮等 高之奉而 神随 安定座奴」『万葉集』第2巻 199番歌.
- ↑吉田義孝. “藤原京における柿本人麻呂と天武諸皇子.”『国語国文学報』44 (March 20, 1987): 9–22.
- ↑“高市皇子薨後,皇太后引王公卿士於禁中,謀立日嗣。時群臣各挾私好,眾議紛紜。王子進奏曰:「我國家為法也,神代以此典。仰論天心,誰能敢測。然以人事推之,從來子孫相承,以襲天位。若兄弟相及,則亂聖嗣,自然定矣。此外誰敢閒然乎」弓削皇子在座,欲有言。王子叱之乃止。皇太后嘉其一言定國,特閱授正四位,拜式部卿。" 『懐風藻』葛野王.
- ↑「八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而 三猟立流 弱薦乎 猟路乃小野尓 十六社者 伊波比拝目 鶉己曽 伊波比廻礼 四時自物 伊波比拝 鶉成 伊波比毛等保理 恐等 仕奉而 久堅乃 天見如久 真十鏡 仰而雖見 春草之 益目頬四寸 吾於富吉美可聞」『万葉集』第3巻 239番歌.
- ↑「皇者 神尓之坐者 真木之立 荒山中尓 海成可聞」『万葉集』第3巻 241番歌.
- ↑「瀧上之 三船乃山尓 居雲乃 常将有等 和我不念久尓」『万葉集』第3巻 242番歌.
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