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インダス文明の謎を解く

2001年6月30日

インダス文明は、パキスタンが政情不安定なこともあって、学術調査が進んでおらず、今でもまだわからないことが多い。この文明の担い手は誰なのか。紀元前2600年頃に完成度の高い都市文明が突然誕生したのはなぜなのか。他の四大文明と同じ大河文明だったのか。なぜ紀元前1900年に消滅したのか。本稿では、これらの問題を解明したい[1]

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1. インダス文明はいかにして成立したか

1920年にインドの学者が仏教遺跡を発掘中にハラッパーの遺跡を発見し、1922年には、これに触発されたイギリス人の考古学者マーシャルがモヘンジョダロ[2]を発掘し、遺跡を発見した。インダス川流域近くで栄えたこれら古代都市の文明、インダス文明には、文字が解読されていないこともあって、謎が多い。

まずもって、この文明の担い手がよくわかっていない。マヤ文字の解読に貢献したユーリ・クノロゾフを中心とするとするソ連の研究チーム[3]とインダス文字をコンピューターで解析したアスコ・パルボラを中心とするフィンランドの研究チーム[4]が、それぞれ独自にドラヴィダ語仮説を導いたことから、現在インド南部からスリランカ北部にかけて存在するドラヴィダ人が紀元前3500年頃イラン高原東部からインド北西部に移住して、紀元前2600年ごろにインダス文明を造ったという説が有力となった。

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ドーラーヴィーラー遺跡にある城塞の北門入り口近くで発見されたインダス文字の碑文[5]

もっとも、インダス文字は短いものしか見つかっていない。そのため、インダス文字は、言語表現のための文字ではなくて、たんなるシンボルに過ぎないという見解[6]もある。もしもそうなら、インダス文字とされている記号は、日本人が考案した家紋や絵文字やロゴマークやピクトグラムのようなもので、それらをいくら分析しても日本語の理解につながらないように、インダス文字をいくら研究しても、インダス文明の担い手が話していたであろう言語の理解にはつながらないということになる。ともあれ、文化の遺伝子である言語がわからない以上、インダス文明の担い手の推測も憶測の域を出ないことになる。

インド亜大陸には、インダス文明が現れるよりも前から人々が住み着いて、農業に従事していたが、彼らが自らインダス文明を造ったとは限らない。インダス文明の都市は、排水路が完備した整然とした計画都市で、以下のモヘンジョダロの遺跡の写真からも窺えるように、道幅やレンガの規格が統一されている。しかしそれ以前に先史農耕文化があったとはいえ、都市を建設するまでの試行錯誤の跡がなく、あたかも高度に洗練された人工都市が突如として出現したかのようで、自力で造ったにしては不自然である。

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モヘンジョダロの遺跡[7]。整然とした街並みの様子を今に伝えている。

後藤健によると、インダス文明の都市設計に関与したのは、イランに存在したトランス・エラム文明である。この文明は、もともと以下の図に示されている通り、スーサを首都に置き、メソポタミア文明から穀物を輸入し、東方で採掘した鉱物を輸出していた。後藤は、これを原エラム文明と呼ぶ。

インダス文明以前
紀元前3000年頃の原エラム文明による交易のネットワーク。Source: 後藤健「インダスとメソポタミアの間」in『NHKスペシャル 四大文明 インダス』日本放送出版協会 (2000/08). p. 181.

ところが、紀元前27世紀の末、シュメール人の都市国家の一つであるキシュに首都のスーサを奪われてしまい、エラム文明は、首都を奥地のシャハダードに移転する。新しいエラム文明は、メソポタミア文明との交易を続けながらも、新たな穀物の輸入先を求め、インダス川流域に、第二のメソポタミア文明を現地人に作らせたと後藤は推測する。

トランス・エラムに文明の都市には、日照りによる飢饉が起こりやすいという泣き所があった。食料事情を自らの顧客でもあるメソポタミアに握られていることは、この文明最大の急所であった。そこで彼らはメソポタミア以外の土地で穀倉となるところはないかとあちこち調査したのだろう。インダス河流域の平原は最高の場所だった。そこにはまださしたる政治権力も芽生えてはおらず、豊かな先史農耕文化が広がっていた、その内側、バルーチースターンの山地に住むハラッパー文化の人々と、トランス・エラム文明のネットワークはリンクした。[8]

実際、彼らの特産品であるクロライト製容器が、インダス川河口付近の湾岸やモヘンジョダロ遺跡の下層から見つかっている。このことは、インダス文明成立以前に、トランス・エラム文明の商人がインダス川流域を訪れ、交易していたことを示唆していると後藤は言う[9]

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紀元前2600年頃のトランス・エラム文明による交易のネットワーク。Source: 後藤健「インダスとメソポタミアの間」in『NHKスペシャル 四大文明 インダス』日本放送出版協会 (2000/08). p. 181.

物資を運ぶには、陸路を通るよりも、河川や海などの水路を使う方が便利である。そのため、やがてトランス・エラム文明は、ウンム・アン・ナール島、さらにはバーレーン島に進出し、水路ネットワークを活用するようになった。陸路が衰退することで、インダス文明は最盛期を迎える。

インダス文明以後
紀元前2300年ごろのウンム・アン・ナール文明による交易ネットワーク。Source: 後藤健「インダスとメソポタミアの間」in『NHKスペシャル 四大文明 インダス』日本放送出版協会 (2000/08). p. 187.

インダス文明の都市は、交易に従事していた外国人が、農業に従事していた現地人に技術と知識を提供することで造った国際都市であったと言えそうだ。そう考えれば、ピクトグラムのようなインダス文字がなぜ使われたかが理解できる。ピクトグラムは、オリンピックのような様々な言語を話す人が集まる場所で多用される。現在の私たちが見ても意味は分からないが、たぶん当時の人は、どういう意味のピクトグラムなのか、あるいはどういう商品や事業者のトレードマークなのかといったことが分かったのだろう。

もとよりそうした成り立ちでできたとしても、インダス文明は、決して他律的に形成されたわけではない。現地人にも、都市文明を作らざるをえない事情があった。前回の「都市文明はなぜ生まれたのか」で既に述べたように、四大文明は、紀元前3500年頃の気候最適期終焉に伴う北緯35度以南の寒冷化と乾燥化が人々を大河に集中させることで発生した。インドの乾燥化と寒冷化は、それよりもやや遅く、その結果、インダス文明は、メソポタミア文明よりもスタートが遅くなった。メソポタミアの都市を歴史が長い東京の下町に喩えるならば、インダス文明の都市は多摩ニュータウンに喩えられる。後発ゆえに、先輩の都市建設・都市問題の知識を学んで、理想的な計画都市を造れたのである。

2. インダス文明は大河文明ではないのか

従来、四大文明は、大河文明であると言われてきた。エジプト文明はナイル川、メソポタミア文明はチグリス川とユーフラテス川、中国文明は長江と黄河の恩恵を受けて繁栄したように、インダス文明はインダス川の恩恵を受けて繁栄したというのがこれまでの通念である。ところが、総合地球環境学研究所の「環境変化とインダス文明」プロジェクトのリーダーである長田俊樹は、この通説を否定する。ヘロドトスは「エジプトの地域は、いわばナイル河の賜物ともいうべきもの」と『歴史』で言っているが、インダス文明は、大河の賜物ではないというのだ。

長田によると、ある文明が大河文明であるためには、(1)その文明が大河に依存していること、(2)文明を支える農業が大河に依拠していること、(3)中央集権的統治システムが存在していることという三つの要件を満たさなければならない[10]。そして、長田は、インダス文明は、古代エジプト文明やメソポタミア文明とは異なり、これらの要件を満たしていないから、大河文明とは言えないと結論を下す。以下、その主張をそれぞれ検討してみたい。

(1)まず、そもそも文明の近くに大河が存在したのかが問題となる。インダス文明の遺跡としては、モヘンジョダロ遺跡とハラッパー遺跡が有名である。モヘンジョダロ遺跡はインダス川のすぐ近くにあり、ハラッパー遺跡の近くにも、インダス川の支流であるラーヴィー川が流れている。大河という日本語は「幅の広い、長さの長大な川[11]」という意味で使われているので、インダス川は大河である。この二つの遺跡だけに注目すれば、インダス文明は大河文明と呼んでよさそうだ。ところが、インダス文明の遺跡としては、この二つと同等もしくはそれ以上の遺跡として、ガンウェリワーラー遺跡、ラーキーガリー遺跡、ドーラーヴィーラー遺跡があり、これらの新しく発見された三つの遺跡の近くに、現在では大河がない。

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紀元前2600年から紀元前1900年に存在したインダス文明の遺跡の分布図[12]。赤い四角は、遺跡の所在地。白の枠線で囲んだのは、インダス文明期の五大都市。ドーラーヴィーラー遺跡の周辺にある青の斜線は、雨季に浸水する地域を示している。

上掲の地図には、ガンウェリワーラー遺跡とラーキーガリー遺跡の近くの青色の線で示されたガッガル・ハークラー川(インドではガッガル川と呼ばれ、パキスタンではハークラー川と呼ばれる川)が描かれている。これは、ヴェーダ文献でサラスヴァティー川と謳われた川に相当すると考えられている。しかし、インダス文明の時代において、既にガッガル・ハークラー川にはあまり水が流れていなかったことが判明している。但し、それは年間を通して水がほとんど流れていなかったということではない。今日のガッガル・ハークラー川は、乾季に干上がる涸河床であるが、六月中旬から九月中旬の夏モンスーンの時期には、ヒマラヤ山麓一帯に雨が降るので、以下の写真に見られるとおり、その水が川となって流れる。インダス文明の時代には、今よりももっと流れたことだろう。干上がっているように見える時でも、ガッガル・ハークラー川の地下では水が流れており、それを井戸で汲み上げることで、農業を営むことは可能である。

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2010年7月にインドのハリヤーナ州パンチクラで撮影されたガッガル・ハークラー川[13]

カッチ湿原にあるドーラーヴィーラー遺跡は、繁栄した当時、海に浮かぶ島の上にあった。ドーラーヴィーラー遺跡の近くにあるカーンメール遺跡とロータル遺跡での地質学的調査結果によると、海水準(陸地に対する海面の相対的な高さ)は、7000年前には今よりも7メートルも高かった。その後、寒冷化により、インダス文明の時代には海水準が低下したが、それでも、今よりかは2メートル高かったとのことである[14]。長田は、イラン南東部のマクラーン海岸にもインダス文明期の遺跡があったことを指摘し、それらは、ドーラーヴィーラー遺跡をはじめとするグジャラート州の遺跡と同様に、大河よりも海に依存していたと言う[15]

(2)次に、これと関連して、文明を支える農業が大河に依拠していたかどうかという問題を考えよう。南アジアの農作物は、雨季の雨に支えられた夏作(カリーフ)と乾季に濯漑で育てる冬作(ラビ)の二つに大別できる。当時どちらを多く生産していたかは、遺跡で集められた植物遺存体の分析からわかる。モヘンジョダロ遺跡があるシンド州では、冬作が75%以上で、灌漑を利用した農業が行われたことがわかる。これに対して、ドーラーヴィーラー遺跡があるグジャラート州では、冬作が40%で、夏作は60%だったことから、夏モンスーンを利用した農業が主であったことがわかる。ヒマラヤ山麓に近いパンジャーブ州では、冬作が60%で、夏冬混合地帯だった[16]

五大都市のうち、夏作が主である農業を営んでいたのは、ドーラーヴィーラー遺跡だけであり、インダス文明の農業では、冬モンスーンの時期でも灌漑農業が相当行われていたことになる。それなのに、長田は「インダス文明のほとんどの地域では、大河に依存する生産システムではなく、夏のモンスーンによる降雨に依存する生産システムだった」と言い、「インダス文明は大河文明ではない。あえていえば、モンスーン文明といえる」と結論付けている[17]。そして、かつては「インダス文明は、いわば(インダスないしはサラスヴァティー)河の賜物」と考えていたが、現在ではこの考えを放棄したと言っている[18]

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南アジアにおける降雨量と風向きの変化[19]。左図は、6月から8月にかけての雨季における降雨量と風向き。右図は、12月から2月にかけての乾季における降雨量と風向き。乾季は雨季と比べて、降雨量が少なく、風も弱い。左右で尺度が異なることに注意されたい。白枠はガッガル・ハークラー川上流の河間地域。

モンスーンとは、季節風のことである。夏には海よりも陸の温度が高くなるので、インド亜大陸では、南の海から北の陸に向かって湿った季節風(夏モンスーン)が吹き、インダス川の流量も増える。冬には陸よりも海の温度が高くなるので、陸から海に向かって乾いた季節風(冬モンスーン)が吹き、インダス川の流量も減る。上掲図はこのことを示している。こうした流量の季節的な変動は、ナイル川にも見られる。以下の図を見てもわかるとおり、ナイル川の三つの支流のうち、ビクトリア湖を水源とする白ナイル川の流量は一年を通して安定しているが、サバナ気候であるエチオピアから流下する青ナイル川とアトバラ川の流量は、夏の雨季になると極端に増える。このように雨季と乾季で川の流量が大幅に減ることが、古代文明誕生にとっては重要な役割を果たしていた。

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ナイル川の上流の地図[20]。三つの支流の名が赤字で記されている。

エジプトがナイル川の賜物であると言う時、長田は賜物として水のことしか考えていないようだ。もちろん、農業を営む上で、水は不可欠だが、水以外にも窒素、リン酸、カリウム(肥料の三要素)など養分が必要である。サバナ気候であるナイル川上流では、雨季になると雨が降り、土中の養分を削ってそれを下流まで運ぶ。養分が川底に堆積する限り、それを活用することはできない。ところが、上流が乾季になると、降雨量が減少し、それにともなって下流の水量も減少する。すると、豊富な養分をもつ河床が露わとなり、そこで生産性の高い農業が可能となる[21]。もしもナイル川が、季節によって流量が減少しない恒常的な大河であったなら、その流域にあれほど多くの人口を養うことができる文明が誕生することはなかったであろう。

サラスヴァティー川(ガッガル・ハークラー川)は、雨季限定の大河であったが、乾季に干上がることで、上流もしくは川の周辺から削り取ってきた天然の肥料を利用可能な状態にした。これなくして、サラスヴァティー川周辺の農業は、そしてそれが支える都市文明は成立しなかっただろう。この点に注目するなら、古代エジプト文明がナイル川の賜物であるのと同じ意味で、インダス文明はインダス川あるいはサラスヴァティー川の賜物であると言って、問題はない。

長田は、グジャラート州の遺跡やマクラーン海岸の遺跡などが大河よりも海に依存していたことをもインダス文明が大河文明ではないことの根拠にしているが、もしそうした周辺に存在した交易都市の存在をもってしてインダス文明が大河文明であることを否定できるなら、メソポタミア文明も、周辺にトランス・エラム文明やウンム・アン・ナール文明といった都市文明を持っていたから大河文明ではないということになってしまう。こうした周辺の都市文明は、より多くの人口を持つ大河文明が交易を始めたことで副次的に繁栄したのであって、その存在が、中核となる都市文明が大河文明であることを否定するものではない。

(3)最後に、中央集権的統治システムの有無についてであるが、これは大河文明であるための要件とは言い難い。大河文明とは、読んで字のごとく、大河の文明ということであって、統治形態が中央集権的か否かはどうでもよいはずだ。たぶん、モヘンジョダロ遺跡がこれまでの二つの要件を満たすと考えた長田が、古代エジプト文明やメソポタミア文明といった典型的な大河文明との違いを強調することで、最後のとどめを刺そうとして付け加えたのだろう。

インダス文明の都市遺跡には、たしかに古代エジプト文明のピラミッドやメソポタミア文明のジッグラトのような強大な権力の存在を誇示するような巨大建造物はない。しかし、このことは、インダス文明に指導者や権力者がいなかったことを意味するわけではない。高官の邸宅、高僧の学問所、集会所とおぼしき公共性の高い建物跡ならある。モヘンジョダロには、仏塔のような建造物や階段つきの大浴場の遺構がある。現在でも南インドの寺院には、沐浴のための施設が付属しているので、宗教的な用途のために使われた可能性が高い。

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モヘンジョダロから出土した神官王と呼ばれる胸像[22]。長田は「十七センチメートルの小さな像に権力を想像するのは無理がある[23]」と言うが、巨大ピラミッドを築造したクフ王の像は、7.5センチメートルしかない。

ここから推測できることは、インダス都市文明において権力者としての機能を担ったのは、軍事力や経済力はないものの、メソポタミアやアラブ湾岸の先進文明の知識を持ち、かつ宗教的カリスマ性ないしは道徳性のある人物ではないかということである。後にインドに登場するブッダやマハトマ・ガンディーをイメージするとよい。権力とは人々を動かす力であり、軍事力や経済力といったハード・パワーだけでなく、徳や知が持つソフト・パワーもまた権力たりうるのである。

インダス文明の時代には、都市の様式がまちまちであったことから、インド亜大陸を統一する帝国はなかったと考えらえている。そいういう意味でなら、中央集権的統治システムはなかったと言える。しかし、メソポタミア文明でも、サルゴンがアッカド帝国を築くまでは、広域的な帝国は存在しなかったので、これはインダス文明だけのことではなかった。中国でも、インダス文明と同時期には、大きな帝国はなく、夏王朝ですら、支配する領域は、半径200キロほどの範囲の黄河流域であった[24]。それでも、黄河文明や長江文明が大河文明でなかったとは言えない。

以上、長田の主張の根拠を検討してみたが、どれも説得力に欠けている。もちろん、様々な違いがあるとはいえ、インダス文明は、他の四大文明と同様の大河文明であると見なしてよいだろう。そうした従来の認識に問題があるとするならば、それは「大河」よりもむしろ「文明」の方である。文明と呼ぶからには、文字がなければならないが、既に述べたとおり、インダス文字が言語表現を表す文字かどうかは怪しい。この点を考慮に入れるなら、インダス文明は、大河文明というよりも大河準文明と言う方が適当かもしれない。

3. インダス文明はなぜ消滅したのか

インダス文明がなぜ紀元前1900年頃に消滅したのかは、インダス文明の最大の謎である。かつて、アーリヤ民族がインダス文明を滅ぼした説が唱えられた。しかし、アーリヤ人がパンジャーブ地方に侵入した紀元前1500年より前であるから、年代的に無理がある。また、インダス文明の都市遺跡からは、アーリヤ人の来襲を証拠立てる遺物が全く見つかっていない。インダス文明の都市遺跡の屋外部分から人間の遺体が見つかっていないので、外敵の攻撃や突然の自然災害で破壊されたのではなく、むしろ住民が自ら都市を見捨てたと判断できる。

もう一つのエコロジスト好みの仮説は、都市住民が自然を破壊した結果、都市文明が維持できなくなったという環境破壊説である。インダス文明の都市遺跡では、城砦の築壇や城壁の芯以外はみな焼きレンガを使っていたが、膨大な焼きレンガを製造するためには膨大な木材が燃料として必要なので、過剰に森林が伐採されたとか、インダス文明が栽培していた小麦は米と異なって、必須アミノ酸の多くが欠落しているため、肉などの動物性蛋白を補う必要があり、過剰な放牧の結果、土壌が流出して砂漠化が進んだとか、シュメール文明と同様に、灌漑のやりすぎて塩害を惹き起こしたとかといったことが原因として挙げられている。

しかし、インダス文明が消滅した後、すぐにインダス川流域が耕作不能な沙漠と化したのではなかった。インダス都市文明が消滅した後も、後期ハラッパー文化と呼ばれる豊かな農耕文化がこの地で継続された。暗黒時代と呼ばれている時期であるが、「考古学調査の結果、連綿と、亜大陸を通じて豊かな人々の暮らしが途切れなくあった[25]」ことが明らかになっている以上、環境破壊説は支持できない。インダス文明は、エジプト文明と同様に、氾濫灌漑農業に依存していたから、シュメール文明のように塩害で苦しむことはなかった。それゆえ、それが原因で滅んだということは考えられない。

そこで、人為的な環境破壊ではなくて、自然現象として起きた環境変動の方に注目が集まる。総合地球環境学研究所の「環境変化とインダス文明」プロジェクトは、「衰退時期には夏モンスーンによる雨が多かった」ことから、インダス文明の衰退の原因を「インダス川下流域での洪水や海水準変動による海上交通への打撃など」に求めている[26]。「インダス川下流域での洪水」によりモヘンジョダロなどインダス川流域の都市文明が消滅し、「海水準変動による海上交通への打撃」によりドーラーヴィーラーなど海に面する都市文明が消滅したというのだ。この他、地殻変動によってインダス川の流路が移動したことが原因とする説もある。しかし、流路移動であれ、洪水による川幅の拡大であれ、海水準の上昇であれ、立地だけが問題なら、新しく適地に都市を造り直せばよいだけのことで、都市文明そのものが消滅する理由にはならない。

もともと都市文明は、各地で分散的に農業に従事していた農民が、気候の乾燥化により大河のほとりに集中した結果生まれた。もしも夏モンスーンが強化され、降水量が増えたというのが事実なら、都市文明ができた時とは逆の環境変化が起きているのであるから、都市文明消滅は簡単に説明できる。すなわち、河畔に集住する必要はなくなり、人口が各地に分散して農耕を営むようになり、都市文明が消滅したと説明できる。私は、かつて、日本の報告に基づいてそうしたインダス文明消滅のシナリオを考えていたのだが、その後、海外では、インダス文明消滅時に夏モンスーンが強化されて降水量が増えたのではなくて、冬モンスーンが強化されて降水量が減ったという全く逆の観測結果が報告されている[27]ことを知り、シナリオを考え直す必要に迫られた。

前回の「都市文明はなぜ生まれたのか」で既に確認したように、インダス文明は他の四大文明と同様に、4200BPイベントにより打撃を受けた。このことを以下の図で確認しよう。

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完新世中期以降のインド亜大陸におけるモンスーンの水文変化とガッガル・ハークラー川流域での集落分布の変化[28]

この図では、ハラッパー文化の初期(E)と中期(M)と後期(L)が点線で区分されている。インダス文明の最盛期は中期で、L/Mの境界線が、インダス文明消滅時期である。4200BPイベント以降の寒冷化と乾燥化の時期が、初期新氷河異常期(ENA=Early Neoglacial Anomalies)と名付けられ、オレンジ色で覆われている。このうち(b)のグラフは、ヒマラヤ山麓のサヒヤの洞窟から得られた酸素同位体記録を使って再構築された夏モンスーンの変動で、(a)のグラフは、標準偏差の200年移動平均である[29]。これを見ると、たしかに日本の研究者が言うように、夏モンスーンはインダス文明消滅期にむしろ強まったように見える。

しかし、インダス文明は、ヒマラヤ山麓に位置したのではない。(c)は、ラーキーガリー遺跡が存在したハリヤーナー州の湖沼に生息した腹足類から得られた酸素同位体記録を使って再構築された夏モンスーンの変動で、これを見ると、インダス文明消滅期にガッガル・ハークラー川流域で夏モンスーンが劇的に弱まったことがわかる[30]。一番下の(f)のグラフは、インダス川が注ぎ込む北東アラビア海の堆積物に含まれるDNAから再構成された冬モンスーンの変動で、これを見ると、オレンジ色で覆われた時期に冬モンスーンが強化されていることがわかる。やはり、インダス文明消滅期には、夏モンスーンが弱まり、冬モンスーンが強まったと見なすべきだろう。

こうした気候変動から、ガッガル・ハークラー川流域での集落分布の変化を説明できる。(d)のグラフが示す通り、インダス文明消滅後に白で示された20ヘクタール以下の小規模集落がガッガル・ハークラー川上流で急増している。これとは対照的に(e)のグラフが示す通り、インダス文明消滅後に赤で示された20ヘクタール以上の大規模集落(都市)がガッガル・ハークラー川流域で激減している。このことは、4200BPイベント以降、ガッガル・ハークラー川流域の大都市に集住していた住民たちの大部分が、上流の小さな集落へと分散して移住したことを意味している。

ここでもう一度インド亜大陸における雨季と乾季の違いを示した図を見られたい。雨季は乾季よりも全般的に降水量が大きいが、白枠で示したガッガル・ハークラー川上流では乾季でもそれなりに雨が降る。4200BPイベント以降、夏モンスーンが弱まり、冬モンスーンが強化されたことで、ガッガル・ハークラー川下流では、夏の流量が激減した一方、冬の流量は比較的減らなかったと考えられる。このため、ガッガル・ハークラー川下流では水だけでなく肥料も入手が困難となり、これまでのように多くの人口を養う農業ができなくなったので、下流に集住していた人々の多くは、水と養分を求めて上流に移住したのだろう。上流には複数の支流があるので、上流への移住は人口の分散をもたらす。インダス川流域でも同じことが起きたと考えるなら、インド亜大陸から都市文明は消滅したが、農耕文化は残存したことが説明できる。

4200BPイベント以降、インダス文明で起きたのと似た現象が長江文明で起きた。中国でも、4200BPイベントで降水量が増えたのか減ったのかに関して、研究者の意見は分かれているのだが、4200BPイベントをきっかけに、黄河や長江の流域に存在した都市文明のほとんどが消滅したという点では意見が一致している。黄河流域ではやがて夏王朝が建国したが、長江流域ではかつての都市文明が再建されなかった。長江文明の担い手の多くは、長江下流域から現在の雲南省や貴州省に相当する上流域へと移住したと考えられている[31]。エジプト文明、メソポタミア文明、黄河文明は、4200BPイベントで打撃を受けたものの、都市文明が消滅することはなかった。これに対して、文明というよりかはむしろ準文明であったインダス文明と長江文明は、担い手が上流へと拡散したことで、都市文明が消滅した。これは、両者が同じアジア・モンスーン地域に属するので、同じような環境変動によって、同じような異変が起きたからと考えられる。

4. 参照情報

関連著作
注釈一覧
  1. 本稿は、2001年6月30日に「インダス文明はなぜ消滅したのか」というタイトルで公開したメールマガジンの記事を、2019年現在の知見をもとに大幅に改定したものである。元の内容に関しては、リンク先のキャッシュを参照されたい。
  2. 現地の言葉で「死人の丘」という意味を持つ。日本語表記として、モエンジョダロなど複数の方法があるが、ここでは最もよく使われている表記法を用いる。
  3. Knorozov, Y. “The Characteristics of the Language of the Proto-Indian Texts (1965)”, “The Formal Analysis of the Proto-Indian Texts (1968)”. In: The Soviet Decipherment of the Indus Valley Script. Janua Linguarum: Series Practica. A. Zide and K. Zvelebil, eds. and trans., p. 55-9, 97-107. The Hague: Mouton, 1976.
  4. Parpola, A, S. Koskenniemi, S. Parpola, and P. Aalto. “Decipherment of the Proto-Dravidian Inscriptions of the Indus Civilization. A First Announcement”. The Scandinavian Institute of Asian Studies Special Publications. Nos. 1, 2. p. 72, 47. Copenhagen, 1969.
  5. Siyajkak. “Harappan inscription found near the north gate of the citadel in Dholavira.” 16 April 2007. Licensed under CC-BY-SA.
  6. Farmer, Steve, Richard Sproat, and Michael Witzel. “The Collapse of the Indus-Script Thesis: The Myth of a Literate Harappan Civilization.Electronic Journal of Vedic Studies 11, no. 2 (2004): 19–57.
  7. Comrogues. “A city-settlement of the the Indus Valley Civilization, ca. 2600-1500 BCE.” 1 June 2010. Licensed under CC-BY.
  8. 後藤健.『メソポタミアとインダスのあいだ: 知られざる海洋の古代文明』筑摩選書. 筑摩書房 (2015/12/14). p.86-87.
  9. 後藤健「インダス・湾岸における都市文明の誕生」in『都市と文明』朝倉書店 (1996/08). p. 63-85.
  10. 長田俊樹.『インダス文明の謎: 古代文明神話を見直す』学術選書. 京都大学学術出版会 (2013/10/10). p.254.
  11. たい‐が【大河】.『精選版 日本国語大辞典』コトバンク.
  12. US Federal Central Intelligence Agency. “The major sites of the Indus Valley Civilization fl 2600–1900 BCE in Pakistan, India and Afghanistan.” 5 October 2013. Licensed under CC-0. Modified by me.
  13. Maheshkumaryadav. “Ghaggar river flowing through panchkula, Haryana, India.” 6 August 2010. Licensed under CC-BY.
  14. 長田俊樹.『インダス文明の謎: 古代文明神話を見直す』学術選書. 京都大学学術出版会 (2013/10/10). p.250-251.
  15. 長田俊樹.『インダス文明の謎: 古代文明神話を見直す』学術選書. 京都大学学術出版会 (2013/10/10). p.256-258.
  16. 長田俊樹.『インダス文明の謎: 古代文明神話を見直す』学術選書. 京都大学学術出版会 (2013/10/10). p.262-265. Cf. Weber, Steve, and Arunima Kashyap. “The Vanishing Millets of the Indus Civilization.” Archaeological and Anthropological Sciences 8, no. 1 (March 2016): 9–15; Fuller, Dorian Q. “Agricultural Origins and Frontiers in South Asia: A Working Synthesis.” Journal of World Prehistory 20, no. 1 (December 11, 2006): 1–86.
  17. 長田俊樹.『インダス文明の謎: 古代文明神話を見直す』学術選書. 京都大学学術出版会 (2013/10/10). p.266.
  18. 長田俊樹.『インダス文明の謎: 古代文明神話を見直す』学術選書. 京都大学学術出版会 (2013/10/10). p.253.
  19. Giosan, Liviu, William D. Orsi, Marco Coolen, Cornelia Wuchter, Ann G. Dunlea, Kaustubh Thirumalai, Samuel E. Munoz, et al. “Neoglacial Climate Anomalies and the Harappan Metamorphosis.” Climate of the Past 14, no. 11 (November 13, 2018): 1669–86. Figure 3. Licensed under CC-BY.
  20. Bobarino. “Map showing the White Nile and the Blue Nile.” 2011年2月19日. Licensed under CC-BY-SA. Modified by me.
  21. 現在では、アスワン・ハイ・ダムを建設したおかげで、化学肥料を使わないと下流で農業ができなくなったが、ダムを建設する前は、施肥なしで農業ができた。
  22. Mamoon Mengal. “Indus Priest/King Statue.” Licensed under CC-BY-SA.
  23. 長田俊樹.『インダス文明の謎: 古代文明神話を見直す』学術選書. 京都大学学術出版会 (2013/10/10). p.268.
  24. NHK「中国文明の謎」取材班.『中夏文明の誕生 持続する中国の源を探る』講談社 (2012/12/6). p. 90.
  25. 小西正系捷, 近藤英夫「南アジア“暗黒時代”の解明」in『文明の危機』朝倉書店 (1996/06). p. 113
  26. 長田俊樹「環境変化とインダス文明」総合地球環境学研究所2013年研究プロジェクト. Cf. 長田俊樹.『インダス 南アジア基層世界を探る』第7章. 京都大学学術出版会 (2013/10/24).
  27. Staubwasser, M., F. Sirocko, P. M. Grootes, and M. Segl. “Climate Change at the 4.2 Ka BP Termination of the Indus Valley Civilization and Holocene South Asian Monsoon Variability.” Geophysical Research Letters 30, no. 8 (April 2003).
  28. Giosan, Liviu, William D. Orsi, Marco Coolen, Cornelia Wuchter, Ann G. Dunlea, Kaustubh Thirumalai, Samuel E. Munoz, et al. “Neoglacial Climate Anomalies and the Harappan Metamorphosis.” Climate of the Past 14, no. 11 (November 13, 2018): 1669–86. Figure 6. Licensed under CC-BY.
  29. Kathayat, Gayatri, Hai Cheng, Ashish Sinha, Liang Yi, Xianglei Li, Haiwei Zhang, Hangying Li, Youfeng Ning, and R. Lawrence Edwards. “The Indian Monsoon Variability and Civilization Changes in the Indian Subcontinent.” Science Advances 3, no. 12 (December 2017)
  30. Dixit, Y., D. A. Hodell, and C. A. Petrie. “Abrupt Weakening of the Summer Monsoon in Northwest India 4100 Yr Ago.” Geology 42, no. 4 (April 1, 2014): 339–42.
  31. 安田喜憲.『ミルクを飲まない文明』歴史新書y. 洋泉社 (2015/5/8). p. 77.