インダス文明はなぜ滅びたのか

2018年9月7日

インダス文明は、紀元前1500年までに消滅した。その原因として、いろいろな説が出されているが、どれもまだ実証されていない。従来の説は、文明が滅びるのは環境が悪化したからだという先入見を共有しているのだが、私はこの前提を覆し、むしろ環境が好転したからこそ、文明は放棄されたのだと主張したい。

1. インダス文明はいかにして成立したか

1920年にインドの学者が仏教遺跡を発掘中にハラッパーの遺跡を発見し、1922年には、これに触発されたイギリス人の考古学者マーシャルがモエンジョ・ダロ(モヘンジョ・ダロとも言う)を発掘し、遺跡を発見した。インダス川流域に栄えたこれら古代都市の文明、インダス文明には、文字が解読されていないこともあって、謎が多い。

まずもって、この文明の担い手がよくわかっていない。ただ、旧ソ連とフィンランドの研究グループが、それぞれ独自にインダス文字をコンピュータで解析した結果、ドラヴィダ語系統ではないかという同じような結論を出しているので、現在はインド南部からスリランカ北部にかけて存在するドラヴィダ人がBC3500年頃イラン高原東部からにインド北西部に移住してインダス文明を造ったというのが最も有力な説となっている。

しかしドラヴィダ人が、自力でインダス文明を造ったとは限らない。インダス文明の都市は、排水路が完備した計画都市で、道幅やレンガの規格が統一されている。しかしそれ以前に先史農耕文化があったとはいえ、都市を建設するまでの試行錯誤の跡がなく、あたかも高度に洗練された人工都市が突如として出現したかのようで、自力で造ったにしては不自然である。

後藤健によると、インダス文明の都市設計に関与したのは、イランに存在したトランス・エラム文明である。この文明は、もともと図1に示されている通り、スーサを首都に置き、メソポタミア文明から穀物を輸入し、東方で採掘した鉱物を輸出していた。後藤は、これを原エラム文明と呼ぶ。

インダス文明以前
図1 紀元前3000年頃の原エラム文明による交易のネットワーク [後藤健:インダスとメソポタミアの間,NHKスペシャル 四大文明 インダス, p.181]

ところが、紀元前27世紀の末、シュメール人の都市国家の一つであるキシュに首都のスーサを奪われてしまい、エラム文明は、首都を奥地のシャハダードに移転する。新しいエラム文明は、メソポタミア文明との交易を続けながらも、新たな穀物の輸入先を求め、インダス川流域に、第二のメソポタミア文明を現地人に作らせたと考えられる。事実、この国の特産品であるクロライト製容器が、インダス川河口付近の湾岸やモエンジョ・ダロ遺跡の下層から見つかっている。このことは、インダス文明成立以前に、トランス・エラム文明の商人がインダス川流域を訪れ、交易を行ったことを示唆している [後藤健:インダス・湾岸における都市文明の誕生,都市と文明, p.63-85]。

インダス文明成立
図2 紀元前2600年頃のトランス・エラム文明による交易のネットワーク
[後藤健:インダスとメソポタミアの間,NHKスペシャル 四大文明 インダス, p.181]

物資を運ぶには、陸路を通るよりも、河川や海などの水路を使う方が便利である。そのため、やがてトランス・エラム文明は、ウンム・アン・ナール島、さらにはバーレーン島に進出し、水路ネットワークを活用するようになった。陸路が衰退することで、インダス文明は最盛期を迎える。

インダス文明以後
図3 紀元前2300年ごろのウンム・アン・ナール文明による交易ネットワーク [後藤健:インダスとメソポタミアの間,NHKスペシャル 四大文明 インダス, p.187]

しかしながら、インダス文明は、決して他律的に形成されたわけではない。現地人には、都市文明を作らざるをえない事情があった。所謂四大文明は、BC3500年頃のヒプシサーマル期終焉に伴う北緯35度以南の寒冷化と乾燥化が人々を大河に集中させることで発生した。インドの乾燥化と寒冷化は、BC2300年ごろからとやや遅く、その結果、インダス文明は、メソポタミア文明よりもスタートが1000年以上遅くなった。メソポタミアの都市を長い歴史を持つ東京の下町に喩えるならば、インダス文明の都市は多摩ニュータウンである。後発ゆえに、先輩の都市建設・都市問題の知識を学んで、理想的な計画都市を造ることができたのである。

インダス文明の都市遺跡には、メソポタミア文明をはじめとする他の文明の都市遺跡におけるように、強大な権力の存在を示す大宮殿や大神殿などの遺跡がないが、このことは、インダス文明に指導者がいなかったことを意味するわけではない。高官の邸宅、高僧の学問所、集会所とおぼしき公共性の高い建物跡ならある。モヘンジョ・ダロには、階段つきの大浴場の遺構がある。現在でも南インドの寺院には、沐浴のための施設が付属しているので、宗教的な用途のために使われた可能性が高い。

以上から推測できることは、インダス都市文明において指導者としての機能を担ったのは、軍事力はないものの、メソポタミアやアラブ湾岸の先進文明の知識を持ち、かつ宗教的カリスマ性のある人物ではないかということである。

2. インダス文明消滅に関する従来の説

では、この平和で洗練された、一見理想的に見える都市文明は、なぜ消滅したのか。かつて、アーリヤ民族がインダス文明を滅ぼした説が唱えられた。しかし、インダス文明が消滅したのは、BC1800年からBC 1700年にかけてで、アーリヤ人がパンジャーブ地方に侵入したBC1500年より前であるから、年代的に無理がある。また、インダス文明の都市遺跡からは、アーリヤ人の来襲を証拠立てる遺物が全く見つかっていない。インダス文明の都市遺跡の屋外部分から人間の遺体が見つかっていないので、外敵の攻撃や突然の自然災害で破壊されたのではなく、むしろ住民自身が都市を見捨てたと判断できる。

現在多くの人々の支持を集めている仮説は、都市住民が自然を破壊した結果、都市文明が維持できなくなったという環境破壊説である。インダス文明の都市遺跡では、城砦の築壇や城壁の芯以外はみな焼きレンガを使っていたが、膨大な焼きレンガを製造するためには膨大な木材が燃料として必要なので、過剰に森林が伐採されたとか、インダス文明は麦作農業を行っていたが、小麦は米と異なって、必須アミノ酸の多くが欠落しているため、肉などの動物性蛋白を補う必要があり、過剰な放牧を行った結果、土壌が流出して砂漠化が進んだとかといったことがもっともらしい根拠として挙げられている。

こうした環境破壊説は正しくない。インダス文明が消滅した後、インダス川流域が無人の荒野と化したわけではないからだ。インダス都市文明はBC2000年ごろから徐々に衰えていくが、それに代わって、後期ハラッパー文化と呼ばれる豊かな農耕文化がこの地に現れる。

インド・パキスタン考古学は、亜大陸を通じての紀元前2世紀後半以降の文化展開の様相を今もしだいに明らかにしつつある。この時代は、もはやわれわれにとっての“暗黒時代”ではない。考古学調査の結果、連綿と、亜大陸を通じて豊かな人々の暮らしが途切れなくあったことが明らかになりだしたからである。

[小西正系捷・近藤英夫:南アジア“暗黒時代”の解明,文明の危機, p.113]

3. 集権的文明は環境の好転で不要になる

逆説的だが、インダス都市文明は、環境が好転したがゆえに放棄されたと私は主張したい。四大文明は、すべて環境の悪化により発生し、環境の好転によって消滅した。古代人にとって、中央集権的な都市文明よりも地方分散的な農耕文化のほうが、魅力的だったのである。

BC3500年頃から、地球の気候は寒冷化したことが、四大文明誕生の原因であることは、これまでに述べたが、BC2300年頃からBC1500年頃にかけて、太陽活動が再び活発化し、その温暖化の流れの中でエジプトでもメソポタミアでも分権化が進んでいく。

同じ頃、中国の長江文明でも、代表的な都市文明であった良渚文化が消滅している。遺跡の上層が洪水堆積層になっていることから、洪水で滅びたといわれている。確かに、中国では、3885-3500年前、気候が温暖湿潤となり、降水量が増えているが、もし都市文明が必要なら、もっと安全な場所に再建設すればよい。洪水で滅びたというよりも、洪水が発生するほど温暖湿潤化したので、都市文明が不要になったというほうが真実に近い。

読書案内
書名 都市と文明
媒体 単行本
著者 金関 恕 他
出版社と出版時期 朝倉書店, 1996/08
書名 文明の危機
媒体 単行本
著者 安田 喜憲 他
出版社と出版時期 朝倉書店, 1996/06